ハイデルベルク信仰問答77 主の2014年8月6日
聖書箇所:マタイによる福音書第6章10節(新約聖書P9)
問123 第二の願いは何ですか。
答 「み国を来らせたまえ」です。
すなわち、
あなたがすべてのすべてとなられるみ国の完成に至るまで、
わたしたちがいよいよあなたにお従いできますよう、
あなたの御言葉と聖霊とによって、
わたしたちを治めてください、
あなたの教会を保ち進展させてください。
あなたに逆らい立つ悪魔の業やあらゆる力、
あなたの聖なる御言葉に反して考え出される
すべての邪悪な企てを滅ぼしてください、
ということです。
今夜は、ハイデルベルク信仰問答問123と答を学びましょう。
主の祈りの第2の願いは「み国を来らせたまえ」です。ここで主イエスが祈られた「み国」とは何でしょう。
主イエスは、ガリラヤで福音宣教を始められた時、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と宣言されました。「み国」は「神の国」です。そして主イエスは、悪霊を追い出されました。その時、ファリサイ派の人々は「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と非難しました。主イエスは彼らに「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(ルカ11:20)と反論されました。
主イエスの説明では「み国」(神の国)は、「神の指(聖霊)が悪霊を追い出されたところに来ています」。すなわち、「み国」(神の国)は、神の御支配です。
ですから、主イエスは12弟子たちに「み国を来らせたまえ」と祈るようにお命じになられましたが、その祈りの内容は、悪霊が追い出され、神の御支配が行き渡りますように、という祈りであります。
ハイデルベルク信仰問答は、「み国」を「あなたがすべてのすべてとなられる御国の完成に至るまで」と表現しています。御国の完成の時に神の完全な支配が確立します。それが「あなたがすべてのすべてとなられる」ことであります。
吉田訳のハイデルベルク信仰問答の特色は、原文では最後にある文章を冒頭に持って来ていることです。これは他のハイデルベルク信仰問答の翻訳本にはない特色です。「み国」の完成までわたしたちキリスト者の救いが完成しないこと、またわたしたちの救いの完成は「み国」、すなわち、神の完全な支配の中に入れられることを強調したかったのではないかと、わたしは推測します。
「み国」は神の御支配ですから、ハイデルベルク信仰問答は、神の御支配を3つの面から見ております。
第1は、わたしたちキリスト者の服従です。わたしたちは、神の子、神の民、神のしもべです。わたしたちは神に服従する必要があります。ですから「み国を来らせたまえ」という祈りは、「み国がわたしたちを治めますように」という祈りでもあります。
み国の完成とは、わたしたちが完全に神の御支配下にいることです。そこが「み国」です。ところが、この世に生きるわたしたちは、罪の残滓があり、悪魔の誘惑に負けることがあります。わたしたちは、常に自分の罪深さと弱さに向き合って生きています。
だから、ハイデルベルク信仰問答は、「わたしたちがいよいよあなたにお従いできますよう、あなたの御言葉と聖霊とによって、わたしたちを治めてください」と祈る必要があると教えています。なぜなら、神の御支配とは、聖霊と聖書とその説き証しである説教と通して、わたしたちが完全に、そして全面的に神に服従するように願い、そのように実行させてくださるのです。
第2に神の御支配は教会を通してなされています。教会の頭キリストは、世の人々の中から神の民を教会に召され、守られ、「み国」へと導かれます。このように教会は神の霊的支配下にあります。しかし、わたしたちと同様に教会もまた、この世において悪魔の誘惑との戦いがあります。その戦いとは、教会の保存と成長を阻もうとする悪魔との戦いです(エフェソ6:12)。この戦いの勝利の道は、教会が神の御言葉を正しく語り、聖霊が御言葉を聞く者の心に働きかけて神への服従に導いてくださることです。だから、「み国を来らせてください」という祈りは、神が教会をこの世に保地、お守りくださり、成長させてくださるように祈ることでもあるのです。
第3に主イエスが悪霊を追い出されたように、ハイデルベルク信仰問答は、「あなたに逆らい立つ悪魔の業やあらゆる力、あなたの聖なる御言葉に反して考え出されるすべての邪悪な企てを滅ぼしてください」と祈り続けるように教えています。平和の神キリストが悪魔と悪魔の働きを完全にわたしたちの足の下で打ち砕かれ(ローマ16:20,Ⅰヨハネ3:8)、神の御言葉に反するすべての思いと企てを滅ぼし、神の御支配が完成することを祈るように、ハイデルベルク信仰問答は教えています。
「あなたがすべてのすべてとなられる御国」の祈りは、主の祈りの第1の「み名をあがめさせたまえ」という祈りと同じであると、宗教改革者カルヴァンは述べています。神の御名を崇める者は、神の御支配が完全な形で来ることを願うでしょう。そして、完璧な形でみ国が来ましたら、わたしたちは心から神の御名をほめたたえるでしょう。
ハイデルベルク信仰問答78 主の2014年8月6日
聖書箇所:マタイによる福音書第7章21-23節(新約聖書P12)
問124 第三の願いは何ですか。
答 「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。
すなわち、
わたしたちやすべての人々が、
自分自身の思いを捨て去り、
唯一正しいあなたの御心に、
何一つ言い逆らうことなく
聞き従えるようにしてください、
そして、一人一人が自分の務めと召命とを、
天の御使いのように
喜んで忠実に果たせるようにしてください、
ということです。
今夜は、ハイデルベルク信仰問答問124と答を学びましょう。
主の祈りの第3の願いは「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。主イエスは、弟子たちに全知全能の、愛なる神に全幅の信頼を寄せて、その御旨に服従するように、この祈りを教えられました。第3の願いは、第2の願いと深く関係します。神の国とは神の支配であり、神の支配は、神の御心が天で行われ、そしてわたしたちにおいてなされ、さらに終末の出来事として、新天心地の到来によって完全になされるのです。
この祈りは、わたしたちすべての人間が神への服従を願う祈りです。それゆえにハイデルベルク信仰問答は、わたしたちキリスト者だけでなく、「わたしたちやすべての人々が」、まず「自分自身の思いを捨て去」らなくてはならないと教えています。
主イエスも弟子たちに御自身の十字架の死と復活を予告されたときに、次のように勧告されました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を払い得ようか。」(マタイ16:24-26)。
キリストの十字架は、天の父なる神の御心です。主イエスは、父の御心に服従し、十字架の道を歩まれました。その主イエスに、わたしたちが従うことは、天の父なる神の御心です。わたしたちも、十字架を負って、すなわち、自分を捨てて、主イエスに従っていかなくてはなりません。「自分の十字架を背負って」とは、わたしたちが自分の自我を殺すことです。自分中心から神中心に生きることです。
そのためにハイデルベルク信仰問答は、神の御心への聴従を祈るように勧めています。すなわち、唯一の正しい神の御心に、わたしたちが言い逆らうことなく、むしろ、神の御言葉に聴従できるようにしてくださいと。
この祈りは、ゲツセマネの主イエスの祈りでありました。主イエスは、苦しみなくして十字架の道を歩まれたのではありません。主イエスは、十字架の死の意味をよく知っておられました。罪人が受けるべき神の刑罰であり、神の怒りと呪いでありました。ですから主イエスは、ゲツセマネの園で、このように祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ22:42)と。
神に服従するとは、主イエスのように父なる神の御心に服従することです。それは、自我を捨て、自分の身をすべて、神に明け渡す以外になすことはできないのです。主イエスは、父なる神に御自身を完全に明け渡され、自分を捨て、十字架の死を受けいれるみ力を与えてくださいと祈られました。
ですからハイデルベルク信仰問答は、「天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りが人の力でできる業ではないので、「聞き従えるようにしてください」とわたしたちに主イエスのように祈りなさいと勧めているのです。
そして、ハイデルベルク信仰問答は、ルターやカルヴァンたち宗教改革者たちが新しく解釈した「神の召し」を、キリスト者一人一人が天の御使いのように忠実に果たせるように祈りなさいと勧めています。
中世の時代、神の召しは、修道僧になることでした。修道僧たちは、世俗を離れ、修道院で生活し、神の召しに仕えました。
それに対して宗教改革者たちは、中世のカトリック教会が世俗と聖なる生活を2分化することに反対しました。キリスト者を僧侶(聖なる者)と信徒(俗なる者)に2分化しませんでした。万人祭司を主張しました。そして、信徒たちもまた神によりこの世の職業に召されていると理解しました。「一人一人の務めと召命」とは、キリスト者が日常にしている仕事であります。職業です。宗教改革者ルターは、ベルーフ(神の召し)を職業と訳しました。こうして宗教改革以後、プロテスタントの信徒たちは、自分たちの職業を神の召しと理解し、それを忠実になすことが、彼らが天における神の御心を、この世で行うことであると信じたのです。
今日であれば、わたしたちキリスト者が教会での持ち場とこの世における自分の職業に喜びと勤勉と熱心と忠実をもって果たさせてくださいと祈るように、ハイデルベルク信仰問答はわたしたちに勧めているのです。
詩編103編の詩人は、次のように賛美しています。「御もとに仕え、御旨を果たす者よ。主に造られたものはすべて、主をたたえよ 主の統治されるところの、どこにあっても」(詩編103:21-22)。神を礼拝し、讃美し、自分たちの務めと職業にわたしたちが忠実と熱心を持って果たすことを通して、わたしたちはこの世で神の栄光を現しているのです。
ハイデルベルク信仰問答80 主の2014年8月27日
聖書箇所:マタイによる福音書第18章21-35節(新約聖書P35-36)
問126 第五の願いは何ですか。
答 「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく
われらの罪をもゆるしたまえ」です。
すなわち、
わたしたちのあらゆる過失、
さらに今なおわたしたちに付いてまわる悪を、
キリストの血のゆえに、
みじめな罪人であるわたしたちに負わせないでください、
わたしたちもまた、
あなたの恵みの証をわたしたちの内に見出し、
わたしたちの隣人を心から赦そうと
かたく決心していますから、ということです。
今夜は、ハイデルベルク信仰問答問126と答を学びましょう。主の祈りの第5の願いは、「罪の赦し」の祈りであります。
(1)どうして罪を赦されたわたしたちキリスト者は、なおも神に罪の赦しを祈らなくてはならないのでしょうか。また、(2)この祈りは、条件的な祈りでしょうか。わたしたちがわたしたちに罪を犯した者の罪を赦すという条件で、わたしたちの罪を、神が赦してくださいますようにと、祈っているのでしょうか。
ハイデルベルク信仰問答問116で「なぜキリスト者に祈りが必要であるか」と問い、その理由を、「祈りは、神がわたしたちにお求めになる感謝の最も重要な部分だからです」と答えられていました。キリスト者の祈りは、神が与えられた救いに対する感謝からの応答であります。ですから、「第5の願い」は、主イエスが罪を赦され、永遠の命を与えられたわたしたちにお求めになった祈りであります。
キリスト者は、主イエスを信じて、洗礼を受け、キリストに接木されました。主イエスは、次のように言われています。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(ヨハネ10:28)とお約束してくださっています。
しかし、今わたしたちの救いは完成していません。わたしたちは「罪を赦された罪人」(ルターの言葉)です。それを、ハイデルベルク信仰問答は次のように表現しています。「わたしたちのあらゆる過失、さらに今なおわたしたちに付いてまわる悪を」と。
わたしたちキリスト者は、確かにただ一度十字架のキリストを信じる信仰によって罪を赦されました。しかし、この地上に生きる限り、完全聖化(完全な救い)はあり得ません。神の御国が完全に実現するまで、この地上でなお罪を犯す弱い罪人であります。
たとえば詩編51編3-9節でダビデが主なる神に彼の罪を告白し、罪の赦しを祈っています。神の民の祈りです。わたしたちキリスト者の罪の赦しの祈りの模範であります。わたしたちも、この地上の信仰生活の途上で犯すすべての罪と悪を、主の御前に告白し、「キリストの血のゆえに、みじめな罪人であるわたしたちに、(罪を)負わせないでください」と祈らなければなりません(Ⅰヨハネ2:1-2)。
さて、次に主は、わたしたちに条件的な祈りを教えられているのでしょうか。わたしたちが隣人の罪を赦すという条件で、わたしたちの罪も主に赦されると。
違います。わたしたちが隣人の罪を赦すことができるのは、わたしたちの善き行いではでありません。それは、わたしたちが「あなたの恵みの証をわたしたち内に見出し、わたしたちの隣人を心から赦そうとかたく決心している」ということです。
主の十字架によって、わたしたちのすべての罪の負債は赦されています。わたしたちはその神の恵みの証を知って、神への感謝の応答としてわたしたちが隣人の罪を赦せる者となれるようにしてくださいと、主に祈り求めるのです。
主イエスに弟子のペトロが、「何度まで人を赦すべきか、7度までですか」と尋ねましたとき、主イエスはペトロに「7を70倍するまで人を赦しなさい」とお命じになりました。無限に赦しなさいと。そして、一つのたとえ話をされました。仲間を赦さない家来のお話です。その家来は、王様に多額の借金を免除してもらいました。ところが、彼は町で仲間に出会い、わずかの借金を取り立て、仲間を赦さないで返済するまで牢に入れました。それを聞いた王さまは、家来に「わたしはお前を憐れんで借金を赦してやった。お前も仲間を憐れみ、赦してやるべきではなかった」と言い、借金を返済するまで牢に入れました。
このお話がわたしたちに教えていることは、罪の赦しはわたしたちが神に祈り求めたから与えられたのではなく、全くの神の恵みであり、憐れみであります。神が一方的にわたしたちを憐れみ与えてくださったのです。王さまの憐れみと恵みをいただいて赦された家来は、その恵みの証として、隣人を無条件に赦さなければなりませんでした。
ただ神の憐れみと恵みにより、キリストの十字架の血によってすべての罪を赦されたことを、心に確信する者は、「隣人を心から赦そうとかたく決心し」、「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」と主に祈ることでしょう。
要するにわたしたちが隣人の罪を赦したいと決心するのは、わたしたちがキリストの十字架の血によって罪を赦されているという恵みの事実を、福音を聞くからであります。