ハイデルベルク信仰問答73             主の2014年7月9日
 聖書箇所:詩編第145編17-21節(旧約聖書P986)、ヨハネによる福音書第14章13-14節(新約聖書P197)

 問117 神に喜ばれ、この方に聞いていただけるような祈りには、
            何が求められますか。
 答    第一に、御自身を御言葉においてわたしたちに啓示された
         唯一のまことの神に対してのみ、
         この方がわたしたちに求めるようにとお命じになった
         すべての事柄を、
         わたしたちが心から請い求める、ということ。
       第二に、わたしたちが自分の貧しさと悲惨さとを深く悟り、
         この方の威厳の前にへりくだる、ということ。
       第三に、わたしたちがそれに値しないにもかかわらず、
         ただ主キリストのゆえに、
         この方がわたしたちの祈りを
         確かに聞き入れてくださるという、
         揺るがない確信を持つことです。
         それは、神が御言葉において
         わたしたちに約束なさったとおりです。
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問117と答を学びましょう。
  わたしたちは、ハイデルベルク信仰問答の問116と答において「祈りは、神がわたしたちにお求めになる感謝の最も重要な部分だからです」ということを教えられました。
  感謝の生活とは、わたしたちのこの世における霊的、肉的な生活であります。主イエス・キリストは、弟子たちにその生活に必要なすべてのものを神に願い求めるようにお命じになりました。その具体的な祈りが、これから学びます主の祈りであります。そこにわたしたちのこの世における霊的、肉的生活に必要なすべての祈りが含まれています。
  わたしたちキリスト者の感謝の生活は、祈りによって支えられた生活であります。感謝の生活は、第一に神の律法(十戒)に従う生活ですが、人の行いが感謝の生活の拠り所ではなく、祈りが拠り所であります。感謝の生活のために「神は(わたしたちに)御自分の恵みと聖霊を与えようとなさい」(問116の答)ます。わたしたちは、それを心から感謝して、「心の呻きをもってそれらをこの方に請い求める」祈りによって、真実にこの世において感謝の生活をすることが可能となります。
  それゆえにハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに問117において「神に喜ばれ、この方に聞いていただけるような祈りには、何が求められますか。」と問うています。
 祈りは、神の御心に適い、神に聞き届けられなければ意味がありません。なぜなら、わたしたちの感謝の生活が成り立たないからです。霊、肉共に神の御心に従う生活が成り立ちません。だからハイデルベルク信仰問答は、「神に喜ばれ」、すなわち、神の御心に適う、そして「この方に聞いていただける祈り」に心からの関心を向けているのです。
 春名純人訳の「ハイデルベルク信仰問答」は、「何が求められますか」を、「何が、本質的なことなのでしょうか」と訳しています。竹森満佐一訳では「どのような特長がありますか」と訳されています。
 読者は、吉田訳では祈りの条件を、春名訳では祈りの本質を、竹森訳では祈りの特長を、ここから読み取ろうとするのではないでしょうか。
 どれが正しいかを、議論するよりも、どの立場を主張しても、ハイデルベルク信仰問答は、神が喜ばれ、聞き届けてくださる祈りには、次の3つの点があると教えています。
 第一の点を、次のように教えています。「第一に、御自身を御言葉においてわたしたちに啓示された唯一のまことの神に対してのみ、この方がわたしたちに求めるようにとお命じになった       すべての事柄を、わたしたちが心から請い求める、ということ。」
 要するに祈りの対象を教えています。祈りの対象は「聖書の御言葉により、イエス・キリストによって、自らを啓示されている唯一まことの神」です。キリスト者は、聖書の御言葉に啓示された、主イエス・キリストを通してあらわされた唯一の父なる神に向かってのみ祈ります(ヨハネ4:23-24)。偶像に向かって祈ることも、カトリック教会のようにマリアに向かって祈ることも堅く禁じられています。
   「第二に、わたしたちが自分の貧しさと悲惨さとを深く悟り、この方の威厳の前にへりくだる、ということ。」要するに祈る態度であります。どのような態度で、神に祈るのかを教えています。「わたしたち自身の弱さ・罪深さ・みじめさ・貧しさを、わたしたちが心に留めて、聖なる神の御前で自らをへりくだり、あらゆるよきものを神に求める態度で祈る」ということです。
  ソロモン王に主なる神は、次のように約束されました。「もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。」(歴代誌下7:14)。
   「第三に、わたしたちがそれに値しないにもかかわらず、ただ主キリストのゆえに、      この方がわたしたちの祈りを確かに聞き入れてくださるという、揺るがない確信を持つことです。       それは、神が御言葉においてわたしたちに約束なさったとおりです。」
  要するに祈りの確信を教えています。わたしたちは、神にふさわしい者でないことを知っています。それなのにどうしてわたしたちは、神に祈り、聞き届けてくださるという確信を得ることができるのでしょうか。それは、聖書の御言葉に約束されていますように、神が主イエス・キリストのゆえにわたしたちの祈りを聞き届けてくださるからです。
  主イエスは弟子たちに次のように約束されました。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(ヨハネ14:13-14)。
  感謝の生活は、祈りによって支えられています。そしてわたしたちの祈りは聖書の御言葉に、聖書が証言する主イエス・キリストに結びつき、主イエスが御言葉で約束された確信に基礎づけられています。それゆえにハイデルベルク信仰問答は、主イエスが弟子たちに教えてくださった「主の祈り」の学びへと、わたしたちをいざなうのです。

 

 

 ハイデルベルク信仰問答74             主の2014年7月16日
 聖書箇所:マタイによる福音書第6章9-13節(新約聖書P9)

 問118 神はわたしたちに、
            何を求めるようにとお命じになりましたか。
 答    霊的または肉体的に必要なすべてのことです。
       主キリストは、わたしたちに自ら教えられた祈りの中に
         それをまとめておられます。
  問119 主の祈りとはどのようなものですか。
  答    天にましますわれらの父よ。
       ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。
       み国を来らせたまえ。
       みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
       われらの日用の糧を今日も与えたまえ。
       われらに罪をおかす者をわれらがゆるすごとく、
         われらの罪をゆるしたまえ。
       われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。
       (国とちからと栄えとは、
       限りなくなんじのものなればなり。アーメン。)
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問118と119と答を学びましょう。
  ハイデルベルク信仰問答は、主イエスが12弟子たちに教えられた「主の祈り」を取り上げています。感謝の生活は、キリストの十字架の贖いに基礎づけられ、律法(十戒)と祈り(主の祈り)によって成り立ちます。律法(十戒)は、キリスト者の善き行いの基準であり、そしてキリスト者の善き行いは神より聖霊と神の賜物を与えられてなされるので、わたしたちキリスト者が善き行いをなすために、神に聖霊と神の賜物(霊的、肉的にわたしたちに必要なもの)を祈り求めることが必要であります。それゆえに主イエスは、12弟子に教えられた「主の祈り」で、わたしたちキリスト者が霊的、肉的に必要なものを祈ることをまとめられています。
  さて、ハイデルベルク信仰問答は、主の祈りを学ぶにあたって、問118で「神はわたしたちに、何を求めるようにとお命じになりましたか。」と質問しています。祈りは、わたしたちの神への信頼に深く関係しています。人間関係においても信頼関係のない所で、わたしたちが誰かにお願いすることはありません。主イエスは、弟子たちに神に求めなさいと教えられた時、「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7:9-11)。神は、わたしたちの天の父としてわたしたちの祈りを聞いてくださるという信頼がなければ、わたしたちは神に命じられても、心から祈ることはできないでしょう。わたしたちが祈る根拠は、主イエスが神がわたしたちの天の父であり、わたしたちの祈りを聞いてくださるお方であると約束してくださっているからです。
  次にハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに神がわたしたちの天の父として、神の子であるわたしたちに何を求めるようにお命じになられたかと質問しています。
  天の父なる神と神の子供たちという信頼関係の中で、ハイデルベルク信仰問答はわたしたちに答において、次のように教えています。「霊的また肉体的に必要なすべてのことです。」と。「すべてのこと」に、重点があります。ハイデルベルク信仰問答が考える「すべてのこと」とは、神が主イエスにおいてわたしたちに約束してくださったすべてのことです。
  使徒パウロは、フィリピ教会のキリスト者たちに次のように神に祈ることを勧めています。「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」使徒パウロは、わたしたちの神への祈りは、仲保者イエス・キリストを通してかなえられると教えています。ですから、わたしたちが願うことを、主イエスの御名によって祈るのであれば、もうわたしたちは思い煩う必要はありません。神は、わたしたちを霊においても肉においても主イエス・キリストを通して配慮してくださいます。霊的に必要なものは、わたしたちにとっては、「永遠の命」であります。肉体的に必要なものは、わたしたちのこの地上における生活であります。それは、わたしたち人間の生におけるすべての領域を、わたしたちは祈ることが許されています。それを、「主キリストは、わたしたちに自ら教えられた祈りの中に、それをまとめておられます。」それが「主の祈り」です。
  わたしたちは、祈りを通して、仲保者主イエス・キリストの「祭司」と「王」の職務に参与させていただくのです。すべてのことを祈ることを通して、すべてのことを支配し、執り成されているキリストに仕えているのです。ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちが祈りによって、問31と32と答に、わたしたちが深く関わっていることを。「すべてのこと」で言い表したのです。
  ハイデルベルク信仰問答の問119と答は、「主の祈り」です。これは、「使徒信条」と「十戒」と同様に、キリスト教信仰の基本であり、要であります。ですから、礼拝を構成する礼拝順序の要素でもあります。プロテスタント教会は、最後の頌詠の「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。」を唱えますが、聖書にはありません。2世紀に教会規則の中にあり、後の聖書本文に入れられました。今は元々聖書本文にありませんでしたので、削除されています。プロテスタント教会は、神とキリストの御心に反しないので、そのまま主の祈りとして祈ります。
  主の祈りは、全体の構造として2部構成です。教会が神の栄光を祈る部分と神が教会の必要を顧みてくださることを祈る部分から成り立っています。主の祈りは、神がわたしたちにお命じになることをわたしたちが祈り、わたしたちが神に願うことを、神が聞き届けてくださり、御自分のこととして実現してくださるということを、わたしたちは主イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」から学ぶのです。
 

 ハイデルベルク信仰問答75             主の2014年7月23日
 聖書箇所:マタイによる福音書第6章8-9節(新約聖書P9)、同7章7-12節(新約聖書P11)

 問120 なぜキリストはわたしたちに、
            神に対して、「われらの父よ」と呼びかけるように
            お命じになったのですか。
 答    この方は、わたしたちの祈りのまさに冒頭において、
                わたしたちの祈りの土台となるべき、
         神に対する子どものような畏れと信頼とを、
         わたしたちに思い起こさせようとなさったからです。
       言い換えれば、神がキリストを通して
                わたしたちの父となられ、
                わたしたちの父親たちが
                わたしたちに地上のものを拒まないように、
                ましてや神は、
                わたしたちが信仰によってこの方に求めるものを
                拒もうとなさらない、ということです。
  問121 なぜ「天にまします」と付け加えられているのですか。
  答    わたしたちが、神の天上の威厳については
         何か地上のことを思うことなく、
         その全能の御性質に対しては
         体と魂に必要なことすべてを期待するためです。
 
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問120と121と答を学びましょう。
  主の祈りは、「われらの父よ」で始まっています。キリストは、12弟子に「主の祈り」を教えられました時、キリストは12弟子に「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものを御存知なのだ。だから、こう祈りなさい」とお命じになりました。「主の祈り」は、キリストの約束とキリストへの信頼という土台の上に成り立つものです。
  ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに問120で「キリストは、わたしたちにどうして神を、『われらの父よ』と呼びかけるようにお命じになられたのか」と質問しています。
  「呼びかける」とは、声をかけるという動作を表すだけではなく、神を自分たちの方に引き寄せることです。父親に願い事をしている子どもをよく見ていると、子どもは父に呼びかけ、手で父親の手や服をつかみ、自分の方に引き寄せながら、願い事をしています。ハイデルベルク信仰問答は、子どもが父親に願い事するときに、言葉だけでなく、効果のある動作をしていることに注目しています。
  キリストは、12弟子に「主の祈り」を教えられた、その冒頭で、わたしたちの祈りの土台をお示しになりました。それがハイデルベルク信仰問答が答えている「神に対する子供のような畏れと信頼」です。
  わたしたちが「われらの父よ」と祈ります時、わたしたちは神に対して子どものような畏れと信頼を持って祈ることの大切さを、それが祈りの土台であることを思い起こさせられるのです。
  問120と答は、問26と答に対応しています。使徒信条の「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」に、主の祈りの「われらの父よ」は結びついています。天地万物の創造者、摂理の神がキリストの父なる神であり、わたしたちの父であられます。わたしたちの父は、創造主、摂理の神としてすべてのものを創造し、それらの命を摂理の御業をとおして保ち支配されています。ですから、わたしたちはこの方に信頼しています。わたしたちの体と魂に必要なすべてのものを、わたしたちに備え、わたしたちをすべての災いから守ってくださり、万事を益としてくださることを信じています。神は全能者であり、真実のわたしたちの父として、わたしたちの益のためにすべてのことを望まれています(問26と答)。
  それゆえにわたしたちは、神をわたしたちの父として信頼し、この世の父親が子どもの願いを拒まないように、子どもには一番良い物を与えたいと願っているように、神は信仰によって願うわたしたちの願いを拒まれませんし、わたしたちを御自身の子として、わたしたちに一番良い物を与えてくださいます。
  ハイデルベルク信仰問答を作成したウルジヌスは、「我らが呼びかけまつる神は、我らを愛して、我らのために御自分の御子を死に引き渡したもうた以上、この御方とともに我らの祝福に必要なものをすべてくださらないことがあろうか」と言っています。十字架のキリストが、それを保証してくださるのです。
  問121は、どうして「天にまします」と付け加えているのかという質問です。神は天におられます。創造者であり、摂理の神である父なる神は、天においてわたしたちを御支配されています。神は、この地上の支配者とは比べものになりません。天上の威厳を持ち、この世のわたしたちを支配されます。この神と、この世の中には比べられるものは存在しません。何よりも神は全能のお方であり、神に不可能なことはありません。その神の御性質に対応して、わたしたちはわたしたちの体と魂に必要なすべてのことを祈ることが許されているのです。なぜなら、「何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです」(使徒言行録17:24-25)。
  神の全能は、神に不可能なものが何もないということだけではなく、神はわたしたちの救いと幸いと祝福に必要であるすべてのものを、霊的なものであれ、この世のものであれ、与えてくださるのです。それが神の全能でありますから、わたしたちは全能の父なる神に「体と魂に必要なすべてのことを期待することが」できます。

 

 

 

 

ハイデルベルク信仰問答76             主の2014年7月30日
 聖書箇所:マタイによる福音書第5章13-16節(新約聖書P6-7)

 問122 第一の願いは何ですか。
 答    「み名をあがめさせたまえ」です。
            すなわち、
            第一に、わたしたちが、あなたを正しく知り、
         あなたの全能、知恵、善、正義、
         慈愛、真理を照らし出す、そのすべての御業において、
         あなたを聖なるお方とし、あがめ、
                讃美できるようにさせてください、ということ。
      第二に、わたしたちが自分の生活のすべて、
                すなわち、その思いと言葉と行いを正して、
                あなたの御名がわたしたちのゆえに汚されることなく、
                かえってあがめられ讃美されるようにしてください、
                ということです。
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問122と答を学びましょう。
  今夜より主の祈りの次の6つの願いを、順番に学びましょう。主の祈りの第1の願いは「み名をあがめさせたまえ」です。第2の願いは「み国を来らせたまえ」です。第3の願いは「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。以上の主の祈りの前半の3つの願いは、十戒の第1から第4戒と同じように、主なる神の栄光を求める祈りです。
  主の祈りの後半の第4の願いは「われらの日用の糧を与えたまえ」です。第5の願いは「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」です。第6の願いは「われらをこころにみにあわせず、悪より救い出したまえ」です。以上の主の祈りの後半の3つの願いは、十戒の第5-10戒が人間関係に関する神の律法であるように、わたしたち人間自身の祝福と益を求める祈りです。
  主の祈りの特色は、主の祈りの前半の3つの願いが神の栄光が現れることを求める願いのみであることです。神の栄光が現れることを祈り求め、神の栄光の輝きの中においてのみ、わたしたち自身の祝福と益を願い求めることが許されています。
  一般に祈りは人間中心、自分中心の願いでありますが、キリスト教は神中心の宗教であり、祈りも神が中心であります。
  ですから、主の祈りの第1の願いは、「み名をあがめさせたまえ」です。神の「み名」は、聖書では単に神のお名前という意味ではありません。神の「み名」は、神がどのような御性質をお持ちであるか、また、どのようなお働きをなされるのかを、聖書はわたしたちに教えています。
  「み名をあがめさせたまえ」とは、「み名」によって、すなわち、神御自身の性質やお働きによって示された神を崇めるということです。わたしたちが聖書を通して御自身の御性質とお働きによって示された神を、神として崇め、礼拝させてくださいと、祈ることです。
  ハイデルベルク信仰問答は、第1の祈願から二つのことが願われるようにと、教えています。すなわち、第1にハイデルベルク信仰問答は、わたしたちが正しく神を知り、そして、「神の全能、知恵、善、正義、慈愛、真理が、その中に輝いている、すべての御業において」わたしたちに神を「聖とし、讃美し、ほめたたえさせてください」と祈るように教えています。預言者エレミヤを通して主なる神は、「目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事 その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる」(エレミヤ9:23)。また、主イエスは、12弟子たちに「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と教えられました。
  わたしたちが正しく神を知ることができるのは、聖書に証しされたキリストを通して知るからであります。たとえば、主イエス・キリストの十字架を通して、神の「全能、知恵、善、正義、慈愛、真理」という御性質と救いの御業が示され、神の栄光の輝きが示されました。その神を聖とし、崇め、讃美することを祈るように、ハイデルベルク信仰問答はわたしたちに教えています。
  第1のことを、要約すれば、わたしたちに神礼拝を勧めています。神を知り、その神を礼拝させ給えと。
  第2の願いは、わたしたちが生の全領域で神のみ名を汚さないで、むしろ、神のみ名を崇め、讃美できるようにしてくださいという祈りです。
  わたしたちの自分の生活のすべて、それは、思いと言葉と行いのすべてです。わたしたちが心の中でも、口によっても、そしてわたしたちのすべての行動において神のみ名を汚すことがないように、かえって、神のみ名を崇め、讃美させてくださいという願いです。
  主イエスは、山上の説教で次のように言われています。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:16)。「あなたがたの光」とは、キリストです(マタイ4:15-16)。「あなたがたの光を人々の前で輝かせる」とは、キリストの福音宣教です。そして、わたしたちキリスト者は、聖霊によってそのキリストに似た者とされています。
  ハイデルベルク信仰問答が第2の祈りを重視しているのは、教会とわたしたちキリスト者の弱さを知っているからです。使徒パウロは、ユダヤ人たちに「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と旧約聖書の御言葉(イザヤ書52:5)を引用して述べています。いつの時代も教会とキリスト者は、聖書とパウロの指摘するこの罪から逃れることはできません。わたしたちの礼拝態度や信仰態度が悪く、愛と謙遜さに欠けるゆえに、この世の人々がわたしたちのゆえに神とキリストを悪く言うということが起こるのです。直接に非難されなくても、教会とキリスト者がこの世の人々に非難されれば、神のみ名を汚すことになります。何よりも、教会とキリスト者は、この世の人々に福音を宣べ伝えなくてはなりません。この世の人々と交わることを避けることができません。それゆえに神のみ名を汚すという危険が常にあるのです。
  しかし、同時に、教会とキリスト者は、この世の人々との交わりで、神の栄光を現す機会も与えられています。証しによって、教会とキリスト者はこの世の人々に、自分の家族にキリストの救いを証しする機会が与えられています。ですから、キリストの十字架によって救われた神の恵みを、わたしたちの心の中で讃美するだけでなく、わたしたちの口で神を崇め、讃美し、わたしたちの礼拝行動と信仰生活の証しをとおして、神をあがめ、神を讃美させてくださいと祈ることは、さらに大切ことであります。