ハイデルベルク信仰問答61       主の2014年4月2日
 聖書箇所:レビ記第24章10-16節(旧約聖書P201)

 問99 第三戒は、何を求めていますか。
 答   わたしたちが、呪いや偽りの誓いによってのみならず、
        不必要な誓約によっても、
        神の御名を冒涜または乱用することなく、
        黙認や傍観によっても
        そのような恐るべき罪に関与しない、
        ということ。
      要するに、わたしたちが畏れと敬虔によらないでは
        神の聖なる御名を用いない、ということです。
      それは、この方がわたしたちによって正しく告白され、
        呼びかけられ、
        わたしたちのすべての言葉と行いとによって
        讃えられるためです。
  問100 それでは、呪いや誓約によって神の御名を冒涜することは、
       それをできうる限り阻止したり、
       禁じたりしようとしない人々にも
       神がお怒りになるほど、重い罪なのですか。
  答    確かにそのとおりです。
       なぜなら、神の御名の冒涜ほど
         この方が激しくお怒りになる罪はないからです。
       それゆえ、この方は、
        それを死をもって罰するようにお命じになりました。
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問99-100と答を学びましょう。十戒の第三戒であります。第三戒は、二つの部分から成立しています。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」(出エジプト記20:7)。禁止の命令と神の威嚇の言葉です。第二戒の構造と同じであり、第三戒は、神の御名を聖とすることを求め、それゆえに神の御名の乱用を大きな罪とし、神は犯した者を罰せられます。
  ハイデルベルク信仰問答は、問99-102と答において第三戒を解説し、わたしたちに神を正しく礼拝することを求めています。
  問99の答において「呪いと偽りの誓い」を禁じています。呪いは、神の御名を呪うことです。レビ記に神の御名を呪った者が石打ちの刑に処されたことを記しています(レビ記24:10-16)。神は、神の民に神の御名を用いて偽り誓うことを禁じておられます(レビ19:12)。偽り誓いは、主の御名の悪用です。誓いを実行しないので、不真実な行為であり、神の御名を汚す悪です。
  「不必要な誓約によっても、神の御名を冒涜または乱用することなく」とは、不必要な誓約が不真実な行為であり、主の真実を隠し、ねじ曲げる悪であるので、主イエス御自身も禁じられ、「然り、然り、否、否」と言えと命じられました(マタイ5:37)。
  このようにハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに神の御名の誤用、乱用、悪用を禁じているのです。
  さらにハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに「黙認や傍観によってもそのような恐るべき罪に関与しない」と勧告しています。「黙認と傍観」とは消極的な神の御名の悪用であり、見過ごされやすいですが、ハイデルベルク信仰問答は「恐るべき罪」と警告しています。わたしたちは、トラブルに巻き込まれることを嫌い、見て見ぬふりをします。それは、恐るべき罪であり、教会とわたしたちに神からの禍を招くことになると、ハイデルベルク信仰問答は警告しています。
  そこでハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに答の後半において神の御名の正しい用い方を教えています。それは、わたしたちが神を正しく礼拝する方法であります。
  「わたしたちが畏れと敬虔によらないでは神の聖なる御名を用いない」。16世紀の時代、神の御名や聖者の名によって誓うことは日常的でありました。人々は、神の御名を用いて神を自分たちの意のままに動かそうとしました。家内安全、商売繁盛、戦争の勝利等のために。
  ハイデルベルク信仰問答は、神の御名の使用を、「わたしたちが畏れと敬虔による」範囲に制限しました。日常生活の中で乱用されることを制限したのであります。
  さらにハイデルベルク信仰問答は、次のように告白することで、神の御名のもっともよい使用を神礼拝に限りました。「それは、この方がわたしたちによって正しく告白され、呼びかけられ、   わたしたちのすべての言葉と行いとによって讃えられるためです。」
  ハイデルベルク信仰問答は、第三戒がわたしたちに神を正しく礼拝することを求めていると教えています。神の御名は礼拝で用いられてこそ、神の御名を崇めることになります。わたしたちが礼拝において神の御名を告白すること、讃美することは、神の栄光をあらわす行為であります。「わたしたちのすべての言葉と行いとによって讃えられるためです」。これがわたしたちの神礼拝であります。
  神の御名が汚されることは、とても重大な罪であります。ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちにそのことをよく理解するように、問100と答において黙認する者と傍観する者とに、神がお怒りになり、死をもって罰せられると警告しています。
  なぜなら、主なる神御自身が神を呪う声を聞きながら、その事実を証言せず、告げずにいる者に「罰を負う」と宣告されているからです(レビ5:1)。神を呪ったエジプト人との間に生まれた神の民は、石打ちの刑に処せられました(レビ24:10-16)。
  神の御名を冒涜し、汚すことは、偶像礼拝に等しい罪であります。また第八戒の「盗んではならない」を犯した盗人と同様の者であります。「盗人にくみする者は自分の魂を憎む者 呪いが聞こえても黙っている」
  「神の御名の冒涜ほど この方が激しくお怒りになる罪はないからです。」とハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに警告しています。主なる神御自身も次のように宣言されています。「ただし、土地に生まれたものであれ寄留者であれ、故意に罪を犯した者は、主を冒涜する者であり、その人は民の中から断たれる。彼は主の言葉を侮り、その命令を破ったのであるから、必ず断たれ、その罪責を負う。」(民数記15:30-31)。
 
 

 ハイデルベルク信仰問答62       主の2014年4月9日
 聖書箇所:マタイによる福音書第5章33-37節(新約聖書P201)

 問101 しかし、神の御名によって敬虔に誓うことはよいのですか。
 答    そのとおりです。
       権威者が国民にそれを求める場合、
         あるいは神の栄光と隣人の救いのために、
         誠実と真実とを保ち促進する必要がある場合です。
       なぜなら、そのような誓いは、神の言葉に基づいており
        旧約と新約の聖徒たちによって
        正しく用いられてきたからです。
  問102 聖人や被造物によって誓うことはよいのですか。
  答    いいえ。
       なぜなら、正当な誓いとは、ただ独り心を探る方である神に、
         真実に対してはそれを証言し、
         わたしが偽って誓う時には
         わたしを罰してくださるようにと
         呼びかけることであり、
       このような栄光は、
        いかなる被造物も帰されるものではないからです。
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問101-102と答を学びましょう。十戒の第三戒の学びの続きです。誓いについて学びます。
  ハイデルベルク信仰問答問101と答は、キリスト者がこの世の公の権力の前で神の御名によって誓約することが敬虔な行為であるのか、そうであればその根拠は何かを問答しています。
  この問いの背景は、キリスト者は神にこの世から召されて、神の所有とされ、国籍は天にもつ者であるということです。そのキリスト者がこの世の公の権力の前で神の名によって誓うことができるのか、できるとすれば、その根拠は何かということです。
  公の権力の前での誓いとは、わたしたちの身近なことは、裁判所における誓いです。この世において誓いは、多方面に見られます。大統領の誓い、入学・入社、スポーツ団体の入団式、自衛隊の入隊式、警察、消防もあります。
  さらに再洗礼派の人々がキリスト者はすでに天国の住民だから、地上の国の権力に義務付けられることはないと考え、誓うことを拒否していました。彼らがその根拠したのは、マタイによる福音書の第5章37節の主イエスの御言葉です。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」現代は、エホバの証人たちが誓いを拒否しています。
  ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに神の御名の誤用、乱用、悪用を禁じましたが、公の権力の前でキリスト者が敬虔に神の御名によって誓うことを肯定しています。
  この肯定は、キリストの支配が前提になっています。すなわち、キリストは、天にあり、この世と教会を支配されています。ですから、使徒パウロは、「人は皆、飢えに立つ権威に従うべきである」(ローマ13:1)と命じています。公の権力はすべて神に由来するからです。ですから、「権力者が国民に誓約を求める場合」には、キリスト者は従うべきであります。
  ハイデルベルク信仰問答は、「あるいは神の栄光と隣人の救いのために、誠実と真実とを保ち促進する必要がある場合」と述べています。今キリスト者は、この世から御国の完成に向けて生きています。キリスト者の使命は「神の栄光と隣人の救い」です。この世は、罪と堕落により腐敗しています。この世は偽りと欺瞞に満ちています。だから、常に何が「誠実(信用)と真実(真理)」かを、キリスト者は神に「神の栄光と隣人の救いのために」明らかにし、それらを保つように求められています。わたしたちが伝道するためには、わたしたちが伝える福音がこの世で信用してよい、ゆるぎない真理であることを証ししなければなりません。それゆえにキリスト者は敬虔に神の名によって誓う行為をしました。
  マタイ福音書の主イエスのお言葉は、キリスト者は主の御名以外によって誓ってはならないとお命じになりました。ハイデルベルク信仰問答は、キリスト者の誓いは、神の御言葉に基づいており、旧約と新約の両書、すなわち、聖書の中に聖徒、すなわち、神の民が誓いを正しく用いている例が多くあることを証ししています。
  ハイデルベルク信仰問答の問102と答は、キリスト者が神の御名以外によって、聖人の名や被造物の名によって誓うことを許されているのか、と問答しています。
  問答の背景に中世カトリック教会の誓いと祈りがあります。中世カトリック教会は、神の御名以外によって誓いと祈りをしていました。ハイデルベルク信仰問答は、それを「いいえ」と拒否しています。拒否する理由は、キリスト者に誓いと祈りの本質が何かを見失わせるからです。
  そこでハイデルベルク信仰問答は、キリスト者の誓いの本質を次のように定義しています。「正当な誓いとは、ただ独り心を探る方である神に、真実に対してはそれを証言し、わたしが偽って誓う時にはわたしを罰してくださるようにと呼びかけること」。
  わたしたちが神を呼び、神がわたしたちの心を探られ、あるいは試みられて、わたしたちの真実を祝福し、わたしたちの偽りを罰せられることを求めるのが、わたしたちキリスト者の誓いであります。
  たとえば、わたしたちの結婚式の誓約を思い起こしてください。わたしたちは神を呼ばわり、互いに誓約しました。その時にわたしたちは、二人の心を探られる神がわたしたちの結婚生活をとおしてわたしたちの真実を祝福し、わたしたちに偽りを罰せられますように、と誓いました。この誓約は、わたしたちの側に自信があるからではありません。結婚は、神の祝福なしには失敗せざるを得ないことを、キリスト者は知っているからです。
  また誓いと安息日が結びついています。出エジプト記23章12-14節に主なる神がモーセを通して神の民に安息日と主の御名以外の他の神々の名を唱えてはならないと戒められています。キリスト者の家庭の平安は、結婚式の誓約に基づく神の祝福であります。しかし、わたしたちが神の御名以外によって、神々の名によって誓うのならば、この地における平安はありません。
  ハイデルベルク信仰問答は、主なる神以外にわたしたちの心を深く探り得るお方はいないので、神の御名の栄光を他の被造物に帰することに反対しています。
 

 

 

 

 ハイデルベルク信仰問答63       主の2014年4月23日
 聖書箇所:出エジプト記第20章8-11節(旧約聖書P126)

 問103 第四戒で、神は何を望んでおられますか。
 答    神が望んでおられることは、
       第一に、説教の務めと教育活動が維持されて、
         わたしがとりわけ安息の日には神の教会に熱心に集い、
         神の言葉を学び、聖礼典にあずかり、
         公に主に呼びかけ、キリスト教的な施しをする、
         ということ。
       第二に、生涯のすべての日において、
         わたしが自分の邪悪な行いを休み、
         わたしの内で御霊を通して主に働いていただき、
         こうして永遠の安息を
         この生涯において始めるようになる、ということです。
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問103と答を学びましょう。十戒の第四戒の学びです。安息日について戒めです。
  安息日の戒めは、出エジプト記20章8-11節に記されています。神は、創造の計画に従い、6日間でその御業を完成し(創世記1章、2章1節)、7日目に休まれました(創世記2:2,3)。安息日(休み)は、働きからの解放の安息(休み)であり(出エジプト記20:10)、御業の完成の休み(創世記2:1-3)でした。それゆえ、神は6日間の創造の御業と7日目(土曜日)の安息を原型にして、安息日の制度をお立てになりました。それゆえモーセは神の民イスラエルに、6日間この世で労働をし、7日目(土曜日)を安息日として休み、聖別し、創造の完成者である神を崇めるように命じました。
  ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに問103において「第四戒で、神は何を望んでおられますか」と質問しています。神は、「安息日にわたしたちキリスト者が何をすることを望まれていますか」という質問です。
  キリスト教安息日は、一週間の第1日目です。キリストが復活なさった日曜日です。キリストの到来と十字架の贖いにより、神殿と共に安息日律法も廃されました。それゆえキリスト者は、キリストが復活された日曜日を、キリスト教的安息日として守るようになりました。
  復活の主イエス・キリストが日曜日のペンテコステの日に弟子たちを招き、集めて、キリスト教安息日が生まれました(使徒言行録2:1-47、4:32-37)。使徒言行録2章を読めば、ペンテコステの日の出来事が詳しく記されています。キリスト教安息日に、エルサレム教会のキリスト者たちが何をしたか、明らかです。それは、ハイデルベルク信仰問答が「神は何を望んでおられるか」と質問したことを、聖霊がキリスト者たちに神の望まれることを行わされています。第一にペトロの説教です。次に教育活動です。週の最初に日にキリスト者は熱心に集会にあつまりました。神の御言葉が語られ、洗礼とパン裂きの聖餐が行われ、主を礼拝讃美し、キリスト者たちは喜んで施しをしました(使徒言行録2:43-47、4:32-37)。
 
  ハイデルベルク信仰問答にとって「安息日」は、教えの日であり、教えを維持する日であります。具体的には、牧師が神の御言葉を説教する務めを継続し、信徒や契約の子たちへの教育が維持される日であります。教会の小会は、安息日に責任を持って牧師に説教の務めを行わせ、信徒と契約の子たちへの教育を継続させなければなりません。説教の務めを行うのは、招聘された牧師、または小会が説教奉仕を依頼した教師、伝道者であります。小会が承認した教師、長老、信徒が教育を担当します。
  安息日は、主イエス・キリストに招かれた集まりであります。ですからキリスト者は日曜日の安息日に教会に集まります。初代教会のキリスト者のように熱心に教会に集まり、公然と神賛美が教会においてなされます。礼拝の中心は、神の御言葉であり、キリスト者たちは神の御言葉を学び、洗礼と聖餐の礼典がなされます。
  こうしてキリスト者は、日曜日の安息日にこの世の労働から解放され、神の恵みの働きにあずかるために安息するのです。
  安息日にただ一つの働きが許されています。それは、施しです。慈善のわざであります。
  次にハイデルベルク信仰問答は、神がわたしたちキリスト者に安息日に望まれている第2のことを記しています。
  安息日は、永遠の安息の型であります。キリスト者は、終末に向けて生きています。日曜日の安息日は、わたしたちが永遠の安息日に備える日でもあります。6日間の世における労働の中でわたしたちは罪人として生きて、悪を行います。聖なる日に主の御前に出て、罪の赦しを主に求め、わたしたちの悪しき行いを休みます。そして、御霊と御言葉を通して、主がわたしたちのために働かれ、わたしたちの罪を赦し、聖餐の恵みにあずからせ、わたしたちに永遠の安息を約束し保証してくださいます。
  安息日の礼拝に集まることで、わたしたちキリスト者は永遠の安息を始めているのです。日曜日の安息日ごとに礼拝を繰り返し、主イエス・キリストと会い、神賛美をするごとに、御国の完成の日にわたしたちの心を向けるように導かれています。創造の神が7日目で創造の業を休まれたように、わたしたちも自分たちの業を休み、永遠の安息にあずかるのです(ヘブライ4:9-11)。

 

 

 

 ハイデルベルク信仰問答64       主の2014年4月30日
 聖書箇所:出エジプト記第20章12節(旧約聖書P126)、申命記第5章16節(旧約聖書P289)、エフェソの信徒への手紙第6章1-3節(新約聖書P359)

 問104 第五戒で、神は何を望んでおられますか。
 答    わたしがわたしの父や母、
         またすべてわたしの上に立てられた人々に、
         あらゆる敬意と愛と誠実とを示し、
         すべてのよい教えや懲らしめには
         ふさわしい従順をもって服従し、
         彼らの欠けをさえ忍耐すべきである、ということです。
       なぜなら、神は彼らの手を通して、
         わたしたちを治めようとなさるからです。
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問104と答を学びましょう。十戒の第五戒の学びです。父と母を敬えという戒めです。
  この戒めは、出エジプト記20章12節に記されています。「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」申命記第5章16節にも記されています。「あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。」
  第五戒は、隣人愛の最初の戒めです。隣人愛の最初に「父母を敬え」が来るのは、偶然ではありません。なぜなら、この戒めには神の約束があります。出エジプト記も申命記も、主なる神はこの戒めを守る者に約束の地で長寿と神の祝福を約束されています。平和で秩序ある生活の第一条件は、神が委託された権威を尊び、服従することです。
ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに問104の答において、第五戒で神が望まれていることを、次のように解説しています。「わたしがわたしの父や母、またすべてわたしの上に立てられた人々に、あらゆる敬意と愛と誠実とを示し、すべてのよい教えや懲らしめにはふさわしい従順をもって服従し、彼らの欠けをさえ忍耐すべきである、ということです。」
 福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と申しました。確かにわたしたち人間は皆、神の御前に等しく被造者であり、罪人であります(ハイデルベルク信仰問答問6の答、問7の答)。
 しかし、創造主なる神は御心により、人間に平和で秩序ある生活を営ませるために、上に立つ権威を人に授けられました。それゆえにわたしたちは、「わたしの父と母、またすべてわたしの上に立てられた人々に」、神のために服従しなければなりません。
 ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちの目上の人に対する服従を次のように多様に表現しています。「あらゆる敬意と愛と誠実とを示し、すべてのよい教えや懲らしめにはふさわしい従順をもって服従し、彼らの欠けをさえ忍耐すべきである」と。
 主なる神は、モーセを通して神の民を「自分の父あるいは母を呪う者は必ず死刑に処せられる」と戒められました(出エジプト記21:17)。ソロモン王は、箴言において「わが子よ、父の諭しに聞き従え。母の教えをおろそかにするな。」と戒めています。分別を弁えて、平和で秩序のある生活をするためです(箴言1:8,4:1)。使徒パウロもわたしたちキリスト者に「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」と命じています。権威はすべて神に由来し、今神がお立てになられたものだからです(ローマ13:1)。ですから、パウロは、「キリストに対する畏れをもって」(エフェソ5:21)、「主に結ばれている者として」(エフェソ6:1)、「キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて」(エフェソ6:5)、「主に仕えるように、喜んで仕えなさい」(エフェソ6:7)と命じています。
 神の権威は、次のような領域での代表者によって行使されます。家庭、教会、学校、国家です。これらは、神に立てられた秩序です。家庭は、神がその権威を行使される最小の秩序です。家庭が集まって国家が成立します。
 父と母の権威は、子が平和で秩序ある生活をするゆえに必要です。子は両親の教育としつけによって神の言葉を学び、善悪を学びます。ですから、神によって権威を行使するために立てられた父母を尊び、服従することを、子は求められるのです。
 学校の先生たちは、両親に代わって神が立てられた権威者です。子供は、先生に従うことで、「父母を敬う」のです。先生は、両親に代わって子に正しい知識を教え、子がこの世で平和で秩序ある生活ができるように教え、訓練します。
 ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちキリスト者に第五戒が父母だけでなく、すべての市民的な権威を尊び、これに服従することを求めていると、教えています。
 この世で平和で秩序ある生活をするために、わたしたちキリスト者は日本の政府に従わねばなりません。為政者たちは神によって立てられた代理者であります。彼らは、立法で法を定め、行政を通して運用し、違反者を警察権力によって取り締まります。あるいは守る者を表彰します。神が彼らに権威を与えられているのです。それゆえに教会とキリスト者は、政府が、為政者たちが神の御心に従って権威を行使するように、執り成しの祈りをしなければなりません。
  執り成しの祈りこそ、「彼らの欠けをさえ忍耐すべきである」ということの具体的な行為であります。両親も老い、国家の為政者も過ちを犯します。キリスト者は、神に執り成しの祈りをし、神が権威を授けた者を守り、正しく導かれるように祈ることを、ハイデルベルク信仰問答は促していると思います。
   ハイデルベルク信仰問答はわたしたちに「なぜなら、神は彼らの手を通して、わたしたちを治めようとなさるからです。」と教えています。神は、直接わたしたちを支配されません。神が権威を授けた者を通して、間接的に支配されます。それゆえに、子が両親に従わなければ、彼は主なる神に従わないのです。生徒や学生が教師に従わなければ、彼らは主なる神に従わないのです。わたしたちが政府や為政者に従わないなら、主なる神に従わないのです。その結果、わたしたちは、この世において平和と秩序ある生活を失うのです。
  しかし、この戒めを服従の視点だけで見るならば、大きな過ちにわたしたちは陥るでしょう。この戒めは、服従よりも命の尊さにあります。服従を求めるのは、子の命を守るためです。主なる神は、この戒めにおいて老いたる両親の命の尊厳を守ろうとされています。だから、成人の子たちに両親に対する尊敬を求められました。また、神はわたしたちの隣人の命の尊さを守るために、政府や為政者への尊敬を求められています。
  今日、この命の尊さを言葉にすれば「居場所」です。すべての人は、居場所が与えられ、彼らの命の尊厳が保証されなければなりません。人は神の形に造られているという栄誉が、その人に与えられ、あなたはここに居てもよいと受け入れられることです。