ハイデルベルク信仰問答45 主の2013年12月4日
聖書箇所:マタイによる福音書第26章17-30節(新約聖書P52-53)
問75 あなたは聖晩餐において、
十字架上でのキリストの唯一の犠牲と
そのすべての益にあずかっていることを、
どのように思い起こしまた確信させられるのですか。
答 次のようにです。
キリストは御自身を記念するため、
この裂かれたパンから食べ
この杯から飲むようにと、
わたしとすべての信徒にお命じになりましたが、
その時こう約束なさいました。
第一に、この方の体が確かにわたしのために
十字架上でささげられ、また引き裂かれ、
その血がわたしのために流された、ということ。
それは、主のパンがわたしのために裂かれ、
杯がわたしのために分けられるのを、
わたしが目の当たりにしているのと同様に確実である、
ということ。
第二に、この方御自身が、
その十字架につけられた体と流された血をもって、
確かに永遠の命へとわたしの魂を養い
また潤してくださる、ということ。
それは、キリストの体と血との
確かなしるしとしてわたしに与えられた、
主のパンと杯とを
わたしが奉仕者の手から受け
また実際に食べるのと同様に確実である、
ということです。
ハイデルベルク信仰問答は、問75から82と答において「イエス・キリストの聖晩餐について」問答をしています。ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに問65と答において聖霊がわたしたちに働きかけられて、御言葉を用いてわたしたちの心に信仰を生じさせ、聖礼典を用いてわたしたちの信仰を確かに(保証)してくださったと教えています。
礼拝堂には、講壇に説教台と聖餐卓が並べて置かれています。改革派教会は神礼拝の中心が説教台(御言葉)と聖餐卓(聖餐式)の両者であることを主張します。説教台は宣教の遂行を、聖餐卓は聖礼典の執行を意味します。神礼拝は、神がわたしたちを招き、神の御言葉が語られ(宣教)、洗礼と聖餐の礼典を執行するところです。そこに霊的にキリストが臨在されています。
ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに問75と答において聖餐式の祝福を問うています。その祝福は、わたしたちが実際に聖餐式にあずかり、十字架上でのキリストの唯一の犠牲と、そこから生じるすべての益にあずかっていることを、わたしたちが思い起こし確かめることで得られる祝福です。
「思い起こし確かめる」という動詞はわたしたちの認識を表しています。「思い起こし」は「記念する」ことです。十字架上でのキリストの唯一の犠牲という歴史的な出来事があり、それを覚えるだけでなく、聖餐式においてその意味する事柄が継続していくときに、「思い起こし」という言葉が使われます。
ハイデルベルク信仰問答の問75と答は、わたしたちに、まず聖餐式が、キリストが全信徒に命令されたものあることを教えます。「キリストは御自身を記念するために」、すなわち、実際にわたしたちが「裂かれたパンから食べ」て、十字架上での裂かれたキリストの体を思い起こし、「杯から飲む」ことによって十字架上で流されたキリストの血を思い起こすことを命じられました。キリストの福音が語られるところでは、聖餐式が継続して行われます。
続いてハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに聖餐式を通してキリストがわたしたちに罪の赦しを約束されたことを教えています。この約束は、わたしたちが聖餐式において実践していることです。第一に聖餐式においてわたしたちは、十字架上のキリストの体、すなわち、キリストの裂かれた体、流された血が「わたしたち(の罪)のため」であることを、わたしたちが目の前で裂かれたパンとわたしたちに分け与えられたぶどう酒を見ているのと同様に確かに(保証)されます。十字架のキリストの唯一の犠牲は、わたしたちがパンとぶどう酒を目の当たりにするように、わたしたちの罪のためであったことを確かなものとして保証されるのです。聖餐式にわたしたちがあずかることは、わたしたちの罪が赦されていることの確かな保証です。
次にキリストは聖餐式がわたしたちの魂を永遠の命へと養い潤すことを約束してくださいました。わたしたちは、キリストの体と血のしるしであるパンとぶどう酒を、配餐の奉仕者から手にいただき、食べて飲むことが現実であるように、聖霊によってわたしたちの魂はキリストの結びつけられ、神の御前に義とされ、神の子とされ、永遠の命を与えられ、御国の相続人にされることは確実であることを、ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに教えています。
ハイデルベルク信仰問答46 主の2013年12月11日
聖書箇所:(新約聖書P52-53)
問76 十字架につけられたキリストの体を食べ、
その流された血を飲むとはどういうことですか。
答 それは、キリストのすべての苦難と死とを、
信仰の心をもって受け入れ、
それによって罪の赦しと永遠の命とをいただく、
ということ。
それ以上にまた、
キリストのうちにも
わたしたちのうちにも住んでおられる
聖霊によって、
その祝福された御体といよいよ一つにされてゆく、
ということです。
それは、この方が天におられ
わたしたちは地にいるにもかかわらず、
わたしたちがこの方の肉の肉、骨の骨となり、
ちょうどわたしたちの体の諸部分が
一つの魂によってそうされているように、
わたしたちが一つの御霊によって永遠に生かされ
また支配されるためなのです。
今夜は、ハイデルベルク信仰問答問76と答を学びましょう。P・ヤコプスの『改革主義信条の神学』(新教出版社、1981年)にハイデルベルク信仰問答の聖礼典論の4つの特徴が要約して記してあります。「(1) 聖礼典執行における行使の主体はキリストである。(2)キリストの現臨は聖霊における現臨であり、したがって身体的なものではなく、『霊的』な現臨である。(3)キリストの聖霊における現臨は、聖礼典執行をゴルゴタと復活節の出来事に連結させるので、ゴルゴタと復活節の出来事が聖礼典の出来事を規定し、決定する。ただし両者(出来事と聖礼典)は同一ではない。(4)キリストの聖霊における現臨は包括的であって、聖餐と洗礼に関わるだけにとどまらず、御言葉の宣教、洗礼、聖餐、すなわち、結集された教会のキリストの生命に関わっている。」
ヤコプスは、この問76と答を、「キリストの現臨としての聖礼典の出来事を証言するもっとも核心的な告白」と述べています。
わたしたちは、毎月1回礼拝において聖餐式を行います。そして、キリストの御言葉を聞いて、パンとぶどう酒にあずかります。ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに「それは何をすることですか」と率直に問うています。なぜあなたは、聖餐式において「十字架につけられたキリストの体を食べ、その流された血を飲むのですか。」「その時にあなたは、何を信じてあずかるのですか」。
ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに「信仰の心をもって」聖餐式にあずかる重要性を教えています。聖餐式は、第1にわたしたちが「信仰の心をもって」、キリストが御言葉によってお命じになるパンとぶどう酒を食べ、飲むのです。第2に「信仰の心をもってキリストのすべての苦難と死を受け入れ、それによって罪の赦しと永遠の命とをいただく」(吉田隆牧師の最初の訳)のです。
ハイデルベルク信仰問答は、聖餐式を、わたしたちが聖霊に賜った信仰によって「キリストのすべての苦難と死を受け入れる」ことであると教えています。司式者がキリストの言葉を語り、差し出したパンとぶどう酒を、わたしたちは信仰をもって「アーメン」と受け取り食べ、飲みます。それは、ゴルゴタの丘の十字架のキリストの苦難と死が「わたしのためである」と受け入れることです。その時にわたしたちはその信仰によって「罪の赦し」と「永遠の命」の約束の祝福をいただくのです。罪人であるわたしたちが、キリストの十字架の死によって義とされ、永遠の命に生きる祝福をいただくのです。聖餐は、その喜びを保証するものです。
さらにハイデルベルク信仰問答は、聖霊がキリストとわたしたちとの内に住みたもうと教えます。聖餐式においてパンを食べ、ぶどう酒を飲むということは、キリストとわたしたちの内に住まわれる聖霊を通して罪あるわたしたちが「その祝福された御体といよいよ一つにされてゆく」ことであると、ハイデルベルク信仰問答は教えています。わたしたちは、聖餐式にあずかり、聖霊を通してキリストと一つにされ、キリストの聖さにあずかる生活に入ったことを、ハイデルベルク信仰問答は教えています。聖餐は、わたしたちに聖なる生活を保証します。
キリストは復活し、現在ハイデルベルク信仰問答が教えるように「この方は天におられ」ます。わたしたちは、この世、すなわち、「地にいます」。教会はキリストの体であり、わたしたちはそのキリストの体の一つ一つの肢です。聖霊を通してわたしたちは、キリストの体の諸部分としてキリストの命に生かされます。人の体が一つの魂によって生かされるように、キリストの霊である聖霊によって、キリストの体である教会、その体の一つ一つの肢であるわたしたちは、「一つの霊によって永遠に生かされ、また支配され」ています。聖餐は、キリストの体なる教会がキリストの永遠の生命にかかわっていることを豊かに教えてくれています。
上諏訪湖畔教会の礼拝ごとに聖餐式にあずかり、わたしたちは、聖霊を通して罪あるわたしたちが天におられる「キリストの栄光の(賛美される)体にますます一つに合わされて行き」、永遠の御国の祝福をいただくのです。
ハイデルベルク信仰問答47 主の2013年12月18日
聖書箇所:コリントの信徒への手紙第11章23-26節(新約聖書P314-315)
問77 信徒がこの裂かれたパンを食べ、
この杯から飲むのと同様に確実に
御自分の体と血とをもって彼らを養いまた潤してくださると、
キリストはどこで約束なさいましたか。
答 聖晩餐の制定の箇所に、次のように記されています。
わたしたちの「主イエスは、引き渡される夜、
パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、
『(取って食べなさい。)
これは、あなたがたのためのわたしの体である。
わたしの記念としてこのように行いなさい』
と言われました。
また、食事の後で、杯も同じようにして、
『この杯は、
わたしの血によって立てられる新しい契約である。
飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』
と言われました。
だから、あなたがたは、
このパンを食べこの杯を飲むごとに、
主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。
この約束はまた聖パウロによってくりかえされており、
そこで彼はこう述べております。
「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、
キリストの血にあずかることではないか。
わたしたちが裂くパンは、
キリストの体にあずかることではないか。
パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。
皆が一つのパンを分けて食べるからです」。
今夜は、ハイデルベルク信仰問答問77と答を学びましょう。
洗礼と同じように聖餐も、キリストが制定されて教会に与えられたものです。ハイデルベルク信仰問答の問77は、答にあるキリストの制定語(約束の御言葉)が聖書のどこにあるかという問いかけです。
教会で聖餐式にあずかる信徒たちは、聖餐にあずかるとき、必ずパンを食し、ぶどう酒を飲む前にキリストの制定語(約束の御言葉)を聞きます。そのキリストの御言葉が聖書のどこにあるかと問うています。現実に聖餐式において信徒たちは、パンを食し、ぶどう酒を飲み、聖餐にあずかります。その時キリストが彼ら「御自分の体と血をもって彼らを養い、潤してくださる」と信じてあずかります。彼らの信仰の根拠となるキリストの約束の御言葉は、聖書のどこにあるのかという問いです。ハイデルベルク信仰問答は、聖餐式にあずかるわたしたちの信仰の根拠を、聖書のキリストの約束の御言葉に問うています。
キリストの聖晩餐の制定語は、新約聖書の共観福音書にあります。マタイによる福音書の26章26-29節(新約聖書のP53節)、マルコによる福音書14章22-25節(新約聖書P91-92)、ルカによる福音書22章15-20節(新約聖書P153-154)です。しかし、ハイデルベルク信仰問答が引用するのは、使徒パウロが伝えているキリストの約束の御言葉(Ⅰコリント11:23-26)とパウロの御言葉(Ⅰコリント10:16-17)です。ハイデルベルク信仰問答は、使徒パウロが実際に教会において聖餐式を執行し、そこでパウロがキリストの制定語を読み、聖餐式でパウロが添えたキリストの御言葉を引用して、答としています。
実際にキリストが12弟子たちに聖晩餐において「パンを食べよ」「ぶどう酒を飲め」「行え」と命じられたように、答を見ますと使徒パウロも「取って食べなさい」「このように行いなさい」と命じています。その命令から分かることは、使徒パウロはキリストの御言葉の約束として聖晩餐を行っています。要するに今わたしたちがキリストの制定の御言葉のままにお受けする裂かれたパンは、キリストのお体であり、お受けする感謝の杯は、キリストの血の交わりです。
そして使徒パウロは、杯は信徒がキリストの血にあずかり、パンは信徒がキリストの体にあずかることではないかと述べ、パンが一つであり、それを食べる信徒たちも一つであり、聖餐にあずかる信徒が一つなのは、一つのキリストの体であるからであると言い添えています(Ⅰコリント10:16-17)。
ハイデルベルク信仰問答がわたしたちに使徒パウロの御言葉を通して「わたしたちが聖餐式で何をしているのか」「それはわたしたちが主キリストの制定の御言葉を行っているのだ」ということを伝えているのです。教会の聖餐式は、キリストの制定の御言葉から始まっているのです。キリストの制定の御言葉は命令ですから、キリストの弟子はその命令を行うのです。キリストの十字架の罪の贖いの恵みを思い起こし、感謝し、忠実に行うのです。そして、わたしたちは、聖餐式ごとに聖書において約束されたキリストの約束の確かさを確認しているのです。
実はカトリック教会のミサは、キリストの制定の御言葉を忠実に行っていないのです。キリストの制定の御言葉以外の言葉を入れています。たとえば「このパンとぶどう酒は我らの勤労の実」という言葉です。キリストの十字架の恵みからわたしたちの目を逸らせているのです。それを、ハイデルベルク信仰問答は、この問77と答で批判しているのです。
ハイデルベルク信仰問答48 主の2013年12月25日
聖書箇所:マタイによる福音書第26章26-29節(新約聖書P53)
問78 それでは、パンとブドウ酒が
キリストの体と血そのものになるのですか。
答 いいえ。
洗礼の水は、キリストの血に変わるものでも
罪の洗い清めそのものになるのでもなく、
ただその神聖なしるしまた保証にすぎません。
そのように、晩餐の聖なるパンもまた
キリストの体そのものになるわけではなく、
ただ礼典の性格と方法に従って
キリストの体と呼ばれているのです。
問79 それではなぜ、キリストは、パンを御自分の体、
杯を御自分の血またその血による新しい契約とお呼びになり、
聖パウロは、イエス・キリストの体と血にあずかる、
と言うのですか。
答 キリストは何の理由もなく
そう語っておられるのではありません。
すなわち、ちょうどパンとブドウ酒が
わたしたちのこの世の命を支えるように、
十字架につけられたその体と流された血が、
また飲み物になるということを、
この方はわたしたちに教えようとしておられるのです。
そればかりか、わたしたちが、
これらの聖なるしるしをこの方の記念として
肉の口をもって受けるのと同様に現実に、
聖霊のお働きによって、
そのまことの体と血とにあずかっているということ。
そして、あたかもわたしたちが自分自身で
すべてを苦しみまた十分成し遂げたかのように、
この方のあらゆる苦難と従順とが
確かにわたしたち自身のものとされているということを、
この方は目に見えるしるしと保証を通して、
わたしたちに確信出せようとしておられるのです。
今夜は、ハイデルベルク信仰問答問78-79と答を学びましょう。
宗教改革の時代、聖餐の理解について、プロテスタント教会とローマカトリック教会との間で、そしてプロテスタント教会との間でも大きな論争がなされました。
ローマカトリック教会は、化体説を主張しました。司祭が聖餐において制定語を読むと、常にミサではパンとぶどう酒がキリストの体と血そのものに変わり、パンとぶどう酒にあずかる者はキリスト御自身にあずかり、神より永遠の命の恵みを受けると主張しました。
ハイデルベルク信仰問答問78と答は、ローマカトリック教会の化体説に反対しています。洗礼の水がキリストの血に変化しないように、聖餐のパンもぶどう酒もキリストの血と体に変化しないと主張しています。
洗礼の水が罪を洗い清めるのではありません。ただ洗礼の水は、わたしたちがキリストの十字架の血によって罪を赦されたという現実のしるし、保証であります。
同様に聖餐においてパンとぶどう酒がキリストの体と血に変化するのではありません。パンはパンのまま、ぶどう酒はぶどう酒のままです。「ただ礼典の性格と方法に従って、キリストの体と呼ばれている」と、ハイデルベルク信仰問答は教えています。最後の晩餐においてキリストは、12弟子たちにパンとぶどう酒を与えて、「これはわたしの体である」と言われました。そこでキリストは12弟子たちに御自分の死と、御自分の体が十字架の上で裂かれ、血を流されることを預言されました。最後の晩餐は、キリストの象徴的行為でした。これが「礼典の性格と方法に従って」という意味です。聖餐においてわたしたちの目の前でパンが裂かれるように、キリストの体も十字架の上で裂かれました。わたしたちの目の前でぶどう酒を見るように、キリストはわたしたちの罪のために十字架の上で血を流されました。
ハイデルベルク信仰問答の問79と答は、パンとぶどう酒が聖餐においてキリストの体と血に変化しないのであれば、どうしてキリストはパンを「わたしの体」、ぶどう酒を「わたしの血による新しい契約」と呼ばれ、使徒パウロもわたしたちに聖餐を「キリストの体と血にあずかる」と言っているのかと問うています。
ローマカトリック教会のように、聖餐が文字通りの意味でないのであれば、どのような意味なのかを説明しなければなりません。それがハイデルベルク信仰問答の問79の答です。
キリストとパウロは、理由もなく言っているのではありません。実際にパンとぶどう酒は、この世におけるわたしたちの命を支えています。パンは日々の糧であり、ぶどう酒は飲み水と同じでした。それゆえに目に見えるパンとぶどう酒がわたしたちのこの世の命を保つのと同様に、キリストが十字架の上で裂かれた体と流された血がわたしたちの魂が永遠の命を得るためのまことの食べ物、飲み物なのです。
次にハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに次のことを教えています。わたしたちが聖餐において目に見ているパンとぶどう酒を食べ、飲むという現実が確実であると同様に、聖霊はわたしたちをキリストと一つに結び付けてくださることも確実です。だから、ハイデルベルク信仰問答はわたしたちに「聖霊のお働きによって」、キリストのまことの体と血にあずかり、わたしたちはキリストと一つの人格となり、キリストが神の御前に従順に歩まれ、すべての苦難を受けられ、十字架の死によってわたしたちの救いを完全に成し遂げられたことは、確かにわたしたち自身のものとされていると教えています。聖餐にあずかることで、わたしたちは聖霊によってキリストに一つに結び合わされ、わたしたちはキリストと共に苦しみ、キリストと共に十字架に死に、キリストと共によみがえり、キリストが成し遂げられた救いを自分のものとして確信できるのです。その確信のしるしと保証が聖餐なのです。