ハイデルベルク信仰問答 01 2013年1月9日
問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
答え わたしがわたし自身のものではなく、
体も魂も、生きるにも死ぬにも、
わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。
この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、
悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。
また、天にいますわたしの父の御旨でなければ
髪の毛一本も落ちることができないほどに、
わたしを守っていてくださいます。
実に万事がわたしの救いのために働くのです。
そうしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、
今から後この方のために生きることを心から喜び
またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。
吉田 隆訳
2011年より礼拝の見直しをしています。そのひとつに礼拝順序の信仰告白があります。毎週「使徒信条」を信仰告白しています。小会の中で検討し、ウェストミンスター小教理問答とハイデルベルク信仰問答も信仰告白できるようにと、昨年は祈祷会においてウェストミンスター小教理問答を学びました。今年はハイデルベルク信仰問答を学びます。
祈祷会に出席できない方を配慮し、プリントを、今回もお渡ししたいと思います。お読みいただければ幸いです。また祈祷会で一緒に学び、共に祈る方が与えられるように願っています。
さて、ハイデルベルク信仰問答は、1563年にドイツのハイデルベルクの町で生まれました。その町はファルツという国の首都でありました。その国に宗教改革が起こり、選帝侯フリードリッヒ3世と大学の神学者ウルジヌスと町の牧師オレヴィアヌスがチームを組み、作られました。彼らは、神の言葉である聖書に基づく真実の教えで、子供たちや青年たちを育てたいと願いました。
信仰と救いのためには、聖書だけで十分です。しかし、聖書を学ぶことは大変です。素人が登山するようなものです。ガイド(道案内)が必要です。それがカテキズムです。その言葉の語源は、「教える」です。そして教理教育を意味するようになりました。そのために作られたのが教理問答です。ハイデルベルク信仰問答もそのひとつです。
ある本を読みますと、ハイデルベルク信仰問答の由来を次のように語っています。ファルツの国に宗教改革が起こり、人々はルター派と改革派のグループに分かれて、喧嘩していました。フリードリッヒ3世は、それを悲しみ、改革派の立場を守りつつ、他派の人々にも納得できる信仰の理解をはっきりさせようとしました。そこで彼は大学の神学者と町の牧師に協力を求めました。そして聖書の御言葉に基づいて、まず聖書をよく読み、聖書が福音をどのように語っているかをもう一度捕らえ直しました。そして作り出されたのがハイデルベルク信仰問答です。そして、それを教会規則の中に組み入れました。
この逸話を知ると、どうしてハイデルベルク信仰問答の問1が「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」であるのか、理解できます。
昨年学びましたウェストミンスター小教理問答は、契約という視点に立ち、聖書全体のメッセージを客観的、体系的に説明しようとしていました。
ハイデルベルク信仰問答は、「慰め」という言葉を中心にすえて、聖書の本質であるキリストの福音とは何であるかを、聖書の御言葉に基づいて説明しています。また、キリストの福音を聖書に基づいて理解することが、「どのような益と力をもたらすか」を、この信仰問答はしばしばわたしたちに問いかけて来ます。
ハイデルベルク信仰問答の時代、プロテスタントとカトリックが対立し、ヨーロッパの各国で宗教戦争が起こっていました。また、14-18世紀までヨーロッパではペストという恐ろしい疫病が10年から20年周期で流行していました。だから、「メメント・モリ(死を想え)」という標語が流布し、ペストは人々の心と生活に大きな打撃を与えていました。
苦しみと絶望の時代の中を生きる人々に、ハイデルベルク信仰問答を作った人たちは、「生きるにも、死ぬにも唯一の慰めは何であるか」と、問いかけて、聖書に基づいた真のキリストの福音の理解を伝えようとしたのです。
ハイデルベルク信仰問答 02 2013年1月16日
聖書箇所 ローマの信徒への手紙第8章31-39節
問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
答え わたしがわたし自身のものではなく、
体も魂も、生きるにも死ぬにも、
わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。
この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、
悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。
また、天にいますわたしの父の御旨でなければ
髪の毛一本も落ちることができないほどに、
わたしを守っていてくださいます。
実に万事がわたしの救いのために働くのです。
そうしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、
今から後この方のために生きることを心から喜び
またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。
問2 この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、あなたはどれだけのことを
知る必要がありますか。
答え 三つのことです。
第一に、どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか。
第二に、どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか、
第三に、どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか、
ということです。
吉田 隆訳
新教出版社のハイデルベルク信仰問答は、長年親しみました竹森満佐一訳が廃版となりました。1994年より吉田隆訳に変更されました。ハイデルベルク信仰問答を礼拝に用いるならば、吉田隆訳のものになります。そこで祈祷会では、吉田隆訳のハイデルベルク信仰問答を用いて、学びます。
さて、先週はハイデルベルク信仰問答の歴史を学び、ウェストミンスター小教理問答と比較してその特色を学びました。
さらにハイデルベルク信仰問答の特色を挙げれば、次の2点があります。(1)「教会と家庭のために制定された教理」です(登家勝也『ハイデルベルク信仰問答講解』)。(2)教理を学ぶことは、世々の教会と共に聖書の御言葉を学ぶことです(同上)。
それゆえにわたしは、ハイデルベルク信仰問答を学ぶことは、教会目標である「聖書的教会の形成を目指して」いるわたしたちにとって有益であると思います。
先週、わたしたちは、次のことを学びました。ハイデルベルク信仰問答が「慰め」という言葉を中心にすえて、聖書の本質であるキリストの福音とは何であるかを、聖書の御言葉に基づいて説明していることを。
今夜は、その「慰め」とは何かを学びたいと思います。ハイデルベルク信仰問答は、4部構成になっています。次の通りです。「序 ただ一つの慰め」(問1-2)、「第1部人間の悲惨さについて」(問3-11)、「第2部 人間の救いについて」(問12-85)、「第3部感謝について」(問86-129)。
第2部は使徒信条の解説と礼典と教会の権能です。キリストの福音が明確に教えられています。第3部はキリスト者の感謝の生活が十戒と主の祈りの解説を通して勧められています。
さて、本題に戻り、「ただ一つの慰め」が何かを知るために、わたしたちは「第1部人間の悲惨さについて」知らなければなりません。
慰めは、わたしたち人間の悲惨さの対極にあるものです。ハイデルベルク信仰問答の「人間の悲惨さについて」の「悲惨」という言葉は、「故郷を離れている」という意味から由来します。東日本大震災によって福島第一原発の事故があり、多くの人々が故郷を離れるという悲惨さを経験されました。
ハイデルベルク信仰問答が使っている「悲惨」という言葉は、愛する故郷を離れた人々の生活の悲惨さをイメージしています。その人々の足元、生活にはしっかりした地盤が失われています。さ迷い、頼れるものがありません。一人で生きている、孤独であります。避難所の独り暮らしの高齢者のように、自分と一緒にいるのは自分だけです。これが、ハイデルベルク信仰問答が語ります「人間の悲惨」です。
その反対が「慰め」です。この言葉は、「しっかりした土台の上に立って、揺るがない」という意味から由来します。自分と一緒にいるのが自分だけという、今日の「無縁社会」という悲惨さと対極にあるのが、実はキリスト教会であり、キリスト者とその家庭です。そこには、主イエス・キリストが臨在し、共に居てくださるという確かさがあります。自分と一緒に主イエス・キリストが居てくださいます。わたしはそのキリストのものです。だから、わたしは決して孤独ではありません。わたしは無縁社会に生きていません。神と一緒に生きています。これが「慰め」であります。主イエスが、神さまが一緒にわたしと居てくださる、これほど確かな生活は、どこにもありません。だから「唯一の慰め」であり、「ただ一つの慰め」なのです。
その喜びを、ハイデルベルク信仰問答は、問1の答えに次のように告白しました。「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」
吉田隆牧師は、「慰め」という言葉を、「拠り所」と訳した方がよいと言われています。「生きるにも死ぬにもあなたのただ一つの拠り所は何か」。この問いは、わたしたちに「わたしの体と魂、すなわち、わたしの全存在をお任せできる、全幅の信頼を寄せることができる拠り所は何か」と問うているのだと、言われています(「ふくいんのなみ」)。
そして、わたしたちがわたしたちの真実の救い主イエス・キリストを通して、永遠不変の神のものとなるというのが、その答えです。
宗教改革者ルターは、死の床にある母親に次のように慰めました。「お母さん。天国のイエス様はもう私たちを裁く方ではありません。私たちを救ってくださったお方なのですから、何一つ恐れることはありません。心配することはありません。」
救い主イエス・キリストだけが、わたしたちのただ一つの慰めなのです。
ハイデルベルク信仰問答 03 2013年1月23日
聖書箇所 ローマの信徒への手紙第8章1-17節
問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
答え わたしがわたし自身のものではなく、
体も魂も、生きるにも死ぬにも、
わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。
この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、
悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。
また、天にいますわたしの父の御旨でなければ
髪の毛一本も落ちることができないほどに、
わたしを守っていてくださいます。
実に万事がわたしの救いのために働くのです。
そうしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、
今から後この方のために生きることを心から喜び
またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。
吉田 隆訳
先週、わたしたちは、次のことを学びました。ヘイデルベルク信仰問答が中心に据えている「慰め」とは何かを。
「慰め」が、第1に「しっかりした土台の上に立って、揺るがない」という意味から由来することばであることを学びました。第2に「自分と一緒にいるのが自分だけという、孤独のという悲惨さと対極にある」、「主イエス・キリストが臨在し、共に居てくださるという確かさ」であることを学びました。第3に「慰め」は「拠り所」とも訳せ、わたしたちの体と魂を、わたしたちの全存在を全幅の信頼をもって委ねることができるただ一つの拠り所であること学びました。
今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問1の答を学びましょう。問1の答えは、「ただ一つの慰め」が、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」と信仰告白しています。
「わたし」とは、キリスト者のことです。キリスト者は、「わたしがわたし自身のものではなく」なっています。キリスト者の体は、キリストの十字架の死という「代価を払って買い取られて」「聖霊が宿ってくださる神殿」であります(Ⅰコリント6:19-20)。だから、キリスト者はだれ一人自分のために生き、死ぬ者はいません。「身も魂も、生きるにも死ぬにも」自分のためでなく、主のためです(ローマ14:7-8)。キリスト者である「わたし」は、キリストの十字架によって罪を清められ、「わたしの真実な救い主イエスキリストのもの」とされました(Ⅰコリント3:23、テトス2:14)。
「わたしの真実な救い主イエス・キリスト」という信仰告白は、「主イエスの救いは信頼に足るもの、すべて任せていい、自分自身も任せてもいいほどに確かなものだ」という意味です。だから、キリストのみに生死を越えてただ一つの慰めがあります。
続いて信仰問答は、三位一体の神の救いと保護と導きを説明し、キリスト者のただ一つの慰めの確かさを聖書の御言葉によって証しします。
第1は、御子キリストの救いです。十字架による罪の贖いです。悪魔と罪からわたしを解放されました(Ⅰペトロ1:18-19、Ⅰヨハネ1:7-9、同2:2)。キリストが罪の贖いの犠牲となり、尊い血を流されたので、わたしたちの罪は取り除かれました。キリストはわたしたちを悪魔と罪の奴隷状態から解放してくださいました(ヨハネ8:34-36、ヘブライ2:14-15、Ⅰヨハネ3:1-11)。
「尊い血」とは、「混じりけのない真の従順の血」という意味です。キリストは、十字架の死に至るまで父なる神に完全に服従されました。そして、父なる神がお求めの完全な償いを、わたしたちに代わって行われたのです。
第2は、父なる神の保護です。御子に救われたわたしたちキリスト者を、父なる神は摂理の御業によって保護してくださっています。主イエスは、弟子たちに父なる神のお許しがなければ、弟子たちの頭から髪の毛一本も落ちることはないと言われました(マタイ10:29-30、ルカ21:18)。父なる神は、キリスト者である「わたし」を御力により悪い者からお守り、復活させ、誰からも奪われず、永遠の命を与えてくださいます(ヨハネ6:39、同10:27-30、Ⅱテサロニケ3:3、Ⅰペトロ1:5)。そして、万事が益となるようにお導きくださいます(ローマ8:28)。
第3に聖霊の導きによる聖化と永遠の命の保証です。父なる神と御子キリストは、キリスト者に聖霊をお遣わしになり、聖霊がキリスト者の内に住まわれ、永遠の命を保証してくださいます。キリスト者である「わたし」は、「神の子とする霊」を受け、導かれ、神の子とされました(ローマ8:14-15)。父なる神は、わたしをキリストと固く結び付けるために聖霊をお与えくださいました。聖霊は復活の命である永遠の命、御国の命を継ぐ保証です(Ⅰコリント1:21-22、5:5、エフェソ1:13-14)。
そしてキリスト者は、聖霊に導かれて子たる身分を授けられ、聖化の道を歩みます(ローマ8:1-17)。キリスト者は、聖霊に導かれ常に十字架につけられたキリストを仰ぎ、神に罪を赦されたことを感謝し、そして復活されたキリストを仰ぎ、永遠の命に復活させられる確かな希望に向けて喜び生きる者とされています。
主イエス・キリストを救い主と信じて、教会において洗礼を受ける時、牧師が洗礼志願者に「父と子と聖霊の御名によって洗礼を授ける」と言って、洗礼を施します。この日から受洗者は自分のものではなく、キリストのものとなり、キリストを通して三位一体の神の御手の中で生きる者とされるのです。
ハイデルベルク信仰問答 04 2013年1月30日
聖書箇所 ローマの信徒への手紙第3章9-20節
問2 この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、あなたはどれだけのことを
知る必要がありますか。
答え 三つのことです。
第一に、どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか。
第二に、どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか、
第三に、どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか、
ということです。
吉田 隆訳
今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問2と答えを学びましょう。
ハイデルベルク信仰問答は、ひと言で言えば「救いの教理」です。問1と答えは、わたしたちに次のことを教えてくれました。「唯一の神、唯一の救い主、唯一の犠牲、唯一の救い、唯一の祝福、唯一の慰め」。ハイデルベルク信仰問答の救いの教理の全体が圧縮されて信仰告白されています。
今夜のハイデルベルク信仰問答の問2と答えは、この唯一の慰めの中に「祝福されて、生き、また死ぬために、わたしたちが何を知らなければならない道程の見取り図」を教えています。
ヘイデルベルク信仰問答を、「救いの教理」という家にたとえますと、その家を建てるためには、設計図が必要です。そして、設計図を描くためには、コンセプト(考え、視点)が示されなければなりません。それが問2と答えです。コンセプトとは、「既成概念にとらわれず、新しい視点から商品をとらえ、意味づけをする考え方」のことです。マーケッティングの用語です。
ハイデルベルク信仰問答は、既成概念にとらわれず、直接に聖書のキリストの福音の視点から「救いの教理」をとらえ、唯一の慰めを意味づけし、「この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために」、わたしが知る必要のある3つのことを提示しています。
聖書のキリストの福音は、救いの教理です。わたしがそのキリストの福音、救いの教理の中に唯一の慰めを見出し、その喜びに満ちて生き、死ぬためには、知らなければならない道程の見取り図が必要です。それが、わたしが知る必要のある以下の「三つのことです」。
ハイデルベルク信仰問答は、神の御言葉(聖書)に基づく正しい神と人との認識と救いの認識が、正しい信仰にとって欠くことのできない大切なものであることを教えています(問6、問19、問21、問103、問122)。
「第一に、どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか。」
ローマの信徒への手紙3章9-10節に、聖書は「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」と証言しています。聖書のキリストの福音(救いの教理)にわたしが慰めを見出す第一歩は、「わたしの罪と悲惨がどれほど大きいか」を知ることです。
ローマの信徒への手紙は、1章に異邦人の罪、2章にユダヤ人の罪を指摘し、3章に全人類が罪の下にあり、神の怒りと裁きの下にあると宣告しています。そして、5章と7章においてすべての人が罪の奴隷となり、その結果死に支配され、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体からだれがわたしを救ってくれるでしょうか」という大きな悲惨さの中にあると証言しています。
ハイデルベルク信仰問答は、わたしの罪と悲惨さを、聖書から知ることが救いの第一歩と教えています。
「第二に、どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか」
これが聖書の「キリストの福音」(救いの教理)の中心です。主イエスは、ヨハネによる福音書の17章3節に「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と証言されています。イエス・キリストがその御業によってわたしを罪と悲惨さから救い出してくださった、これがキリストの福音(救いの教理)です。使徒ペトロも次のように証言します。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほかに、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4:12)。「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています」(使徒言行録10:43)。救いとは、キリストの十字架と復活による罪の赦しと永遠の命です。
「第三に、どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか」
キリスト者の人生は、キリストによって罪と死から救われ、再生された神への感謝の生活です。闇から光へと招かれた歩みです。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:16)。キリスト者は、救われた自分の体を主なる神に献げて生きるのです(ローマ6:13)。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。―光から、あらゆる善意と正義真実とが生じるのです。―何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」(エフェソ4:8-10)。
神は、キリストの救いにあずかるキリスト者に神の戒めに生きる感謝の生活を求められています。出エジプトの後、主なる神はイスラエルの民をシナイ山に導かれ、十戒を与えられました。主イエスは、わたしたちキリスト者に山上の説教をお語りになり、知って行わない愚かな者ではなく、聞いて知り、知って行う賢い者になるようにお勧めになりました(マタイ7:24-27)。
以上の見取り図によって、ハイデルベルク信仰問答は、問3-11で人間の罪と悲惨を教え、問12-85でキリストの救いの御業を教え、問86-129でキリストと者の感謝の生活としての十戒と主の祈りを教えています。キリスト者の生活は、聖書により自分の罪と悲惨を知り、そこからのキリストの救いを知り、そしてその救いのゆえに神に感謝をささげて生きるのです。
ハイデルベルク信仰問答 05 2013年2月6日
聖書箇所 ローマの信徒への手紙第7章7-25節
問3 何によってあなたは自分の悲惨さに気づきますか。
答え 神の律法によってです。
問4 神の律法はわたしたちに何を求めていますか。
答え それについてキリストは、マタイによる福音書二二章で
次のように要約して教えておられます。
「『心を尽くし、精神を尽くし、
思いを尽くし、力を尽くして、
あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
問5 あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか。
答え できません。
なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと
生まれつき心が傾いているからです。
吉田 隆訳
今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問3と答えを学びましょう。
ハイデルベルク信仰問答の問2と答えにおいて救いの教理の見取り図を学びました。わたしが唯一の慰めの中に祝福されて、生きまた死ぬために、3つのことを知らなくてはならないことを学びました。第1は、「どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか」です。第2は、「どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか」です。第3は、「どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか」です。以上の見取り図によって、ハイデルベルク信仰問答は、問3-11に人間の罪と悲惨を教え、問12-85にキリストの救いの御業を教え、問86-129にキリストと者の感謝の生活としての十戒と主の祈りを教えています。
さて、序の「」ただ一つの慰め」に続き、ハイデルベルク信仰問答の第1部は、「人間の悲惨さについて」という表題です。そして問3は、「何によってあなたは自分の悲惨さに気づきますか」とあります。
問2の見取り図に「どれほどわたしの罪と悲惨さが大きいか」を知らなければならないとありますのに、問3はわたしが自分の悲惨さに何によって気づくかを問い、わたしの罪については言及していません。第1部の表題も「罪」には言及していません。
普通に教会では、わたしたちが「罪人」である、わたしたちには「罪がある」と教えられます。洗礼を志願し、誓約をします。その誓約の2項に「あなたは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに価し、神の憐れみによらなければ、望みのないことを、認めますか」とあります。
洗礼を受けるときに、わたしは、わたしが罪人であるということ、また聖書の言う罪に悩みました。わたしだけでなく、誰でも「罪人」という言葉につまずきます。罪人は、犯罪者というイメージがあるからです。ハイデルベルク信仰問答の翻訳者の吉田隆先生も、次のように証しされています。「初めて聖書を学んだ時、『人間は皆、罪人である』という聖書の教えが分かるようで、分かりませんでした。わたしは何も警察の御用になったことはないと思ったからです」(「ふくいんのなみ」2008.4)。
むしろ、ハイデルベルク信仰問答が「わたしの悲惨さ」「人間の悲惨さ」に気づく方が易しいですね。誰でも人は、自分の惨めさと人間の悲惨さを知っています。教えられる必要はありません。日々の生活の中で、わたしたちが心に留めるのは、わたしの罪より、わたしの悲惨さです。
ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに直接に「あなたは罪人ですか」、あるいは「あなたは今悲惨ですか」と問うてはいません。むしろ、何によってあなたは、自分の悲惨さに気づくのですかと質問します。実際に惨めな生活をしているのに、世界の中で一番惨めな人間だと思っている人も、本当に絶望のどん底にある自分の惨めさに気づいていないかもしれません。わたしは、高校生のころに自分が惨めで、自殺したいと思ったことがあります。しかし、大学生の時に聖書を知り、教会に行き、真の神を教えられ、キリストの十字架がわたしの罪の身代わりであることを知ったとき、わたしは使徒パウロの次の言葉を真実自分の惨めさであると気づきました。「わたしは、自分の内には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。・・・・・わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」
「悲惨」(ドイツ語エレンド)は、「土地から離れた、離された」という意味です。人間の悲惨さの始まりは、アダムとエバが罪によって主なる神の元から離された結果、現れました。放蕩息子も父親から離れて、自由を得ました時、彼の悲惨が始まりました。放蕩のあげく、彼の住む所に飢饉が起こり、彼はすべての財産を失い、豚と同じものを食べるという惨めな者となりました。
この世の人間の悲惨さ、自分の惨めさは、自分が本来居る場所を離れてしまったからです。放蕩息子が神と父に赦しを求めて、帰ったように、わたしたちも本来居るべき場所に帰る必要があります。
ハイデルベルク信仰問答の問3の答えは、わたしたちに真の悲惨さを気づかせ、本来の居るべき場所を指示してくれるのが、「神の律法」であると教えています。神の律法という鏡を通してわたしたちは自分たちが本来居るべき場所を教えられ、それから遠く離れている自分の惨めさに気づかされるのです。
わたしは、宝塚教会に導かれ、毎週の礼拝と祈祷会、青年会における聖書の学びを通して、特に説教を通して自分の惨めさに気付かされました。神がお造りくださった人間の本来の姿からほど遠い悲惨な状態を教えられました。