ジュネーヴ教会信仰問答31           主の2022119                                                                                                                                       

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一第155058(新約聖書P322323)

第一部     信仰について

 第十七聖日                          

106 残りのところを唱えて御覧なさい。   

答 「我は体の甦りと永遠の生命を信ず」。

 

107 どういうわけでこの項目が信仰告白の中に置かれたのですか。

答 それはこの地上に己が幸いはないということを私たちに思い起こさせるためであります。このことを知って受ける益は二重であります。第一に、これによって私たちはこの世にあっては宿り人として住むべきであり、こうして私たちの心が地の思いに包み込まれないように、この世を去って移り住むことについて常に思い巡らすべきだということを学びます。第二に、キリストにおいて私たちに齎された恵みの実が、まだ隠されて、目に見えないとしても、だからといって私たちが気落ちするのでなく、むしろ隠されたものが現われる日まで忍耐をもって耐え忍ぶのであります。

 

108 ところで、この甦りはどういう順序で起こりますか。

 答 その時以前に死んだ人はそれぞれの肉体を受けます。すなわち、同じ肉体を持つのですが、新しい性質を帯びた物です。つまり、もはや死ぬことにも朽ちることにも屈しない肉体なのです。そして、その時まだ生き残っている人について申しますと、忽ちの変容により、神は奇しき方法をもって呼び起こしたまいます。                    Ⅰコリント十五・五一-五二

 

109 これは敬虔な人にも不敬虔な人にも共通でしょうか。

 答 甦りは全く共通なのです。けれども、別々の条件のもとにおいてであります。すなわち、ある者は救いと幸いに甦り、ある者は死と極みまでの悲惨へと甦るからです。

                      ヨハネ五・二八-二九、マタイ二五・四〇

 

110 それでは、ここに永遠の生命についてだけ言及され、陰府について語られないのはなぜですか。

 答 ここでは敬虔な精神の慰めになることしか語られていないからです。したがって、主がそのしもべたちのために備えたもうた特典についてしか数え上げていません。そういうわけで、神の国と無縁であると私たちの承知している不敬虔な者が、どういう運命になるかは付け加えられていないのであります。

 

前回は使徒信条第四項の教会の「聖」と天上の目に見えない教会と「罪の赦し」(99105と答)を学んだ。

 

今日は、ジュネーヴ教会信仰問答の第十七聖日(第十七課)、問106110と答を学ぼう。使徒信条の「体の甦り、永久の生命を信ず」である。

 

キリスト教会は、人間の魂の不滅を信じるのではない。体の甦りを信じるのである。そして、体の甦りと永遠の命は切り離すことが出来ない。だから、ジュネーヴ教会信仰問答は、一つの告白として学ぶのである。それが問106と答の意味である。

 

聖書は、キリストの復活、すなわち、死人の復活である。使徒パウロは、コリント人への手紙一Ⅰ5章でキリストの復活を述べて、それに基づいて私たちの死人の復活について語っているのである。キリストが死人の中から復活されたので、私たちも終わりの時に死人の中から復活することを信じるのである。

 

復活は、キリストが肉体を取られて甦られたように、私たちもそれぞれ肉体をもって甦るのである。古代のギリシア人たちは、肉体を魂の牢獄と考えた。だから、救いは魂が肉体から解放される事であった。魂の不死こそ彼らの救いであった。しかし、聖書は神が人を創造された時、肉体を造られ、それに息()を入れられた。死は、魂と肉体の分離であるが、復活によって清められた魂にふさわしい体が与えられ、人は神と共に永遠に生きるのである。

 

その意味でキリスト者は、この世と御国に生きるものである。ジュネーヴ教会信仰問答は、問107と答で来るべきキリスト者の復活と御国での永遠の生命と現生の命とを関連づけて述べている。

 

神の民イスラエルとキリスト者は、この世にあっては旅人である。この世の寄留者である。本籍は天にある。それを忘れないために、使徒信条は最後にこの二つの信仰箇条を置いているのである。最後まで忍耐をもって御国を待ち望むべきである。

 

108と答は、復活の順序である。体の復活には順序がある。キリストが墓の中から復活されたように、最初に死人の復活があり、続いてキリストの再臨時に生きている者たちがそのままで復活の体に変容される。復活の体は、罪に汚れた体とは違う。死ぬことも朽ちることもない。復活されたキリストの栄光の体と同じである。それは、神の奇跡の御業である。

 

109と答でジュネーヴ教会信仰問答は、復活が信者とそうでない者と共通の出来事であると述べている。全人類が復活する。しかし、神の選びの民の復活とそうでない者の復活は異なるのである。神の民は救いと永遠の生命のために復活し、そうでない者は滅びと極まりない悲惨さのために復活するのである。

 

110と答で使徒信条が信者の復活と永遠の生命のみを告白することの意味を述べている。私たちは、信じない者たちの最後に関心を持つ必要はないのである。知っても信仰の益とはならないだろう。むしろ、信仰のつまずきとなるだろう。

 

信じない者の終わりを考えるよりも、今が救いの時であるのだから、家族や隣人が救われるように祈り、時が良くても悪くてもキリストを伝えることが良い。

 

 ジュネーヴ教会信仰問答32           主の2022126                                                                                                                                       

聖書箇所:ヘブライ人への手紙第11116(新約聖書P414415)

第一部     信仰について

 第十八聖日                          

111 私たちは信仰のよって立つべき基礎を把握したのですから、そこから真の信仰の定義を引き出すことは容易であります。   

答 その通りです。次のように定義すべきです。信仰とは私たちに対する神の父としての慈愛についての、確実、また確定的な認識であると言えば良いのです。神は福音によって御自身がキリストの故に私たちの父であり、救い主である、と証しておられる通りであります。

 

112 その信仰は私たちが自分から抱くものでしょうか。それとも神から受けるのでしょうか。

答 聖書はこれが神のたぐいなき賜物であると教えますし、私たちの経験もそれを確認します。

 

113 どのようなことを経験と言うのですか。

 答 私たちの精神は神の霊的な知恵を尋ねるには余りにも粗野であり、この知恵は信仰によって私たちに啓示されるものです。また、私たちの心は自ら進んで神に安らうよりも、あるいは不信に、あるいは己れ自身と被造物に対するよこしまな確信に傾き過ぎています。しかし、聖霊は私たちを照らして、自己の能力の遥かに及ばぬことを理解させ、また私たちの心に救いの約束を封印して、揺るがぬ確信を抱かせたまいます。

 

114 一たび信仰を得たならば、それによってどのような良いことが私たちに起こるのでしょうか。

 答 信仰は私たちを神の前に義とし、この義によって私たちを永遠の生命の世継たらしめるのであります。

 

115 どうしてですか。人は聖くまた罪なく生きて、神によみせられるよう務める時その行いによって義とされるのではないでしょうか。

 答 もし、それほどまで完全な人がいるならば、その人は正当に義人であると認められることが出来ます。けれども、私たちはすべて罪人であり、神の前に多くの点で罪責を負っていますから、私たちを神と和解させる相応しさは他のところに求めなければなりません。 

 

前回まで使徒信条(2110と答)を学んだ。使徒信条は、私たちが「信仰のよって立つべき基礎」である。使徒信条と十戒と主の祈りはキリスト教の教理と実践の基礎である。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問2から問110と答で使徒信条を解説して来た。使徒信条は、私たちキリスト者が最初に学ぶ信仰の基礎である。キリスト者は誰でも使徒信条を学び、キリストを主と告白し、罪を悔い改め、洗礼を受けて、教会員となるのである。

 

だからジュネーヴ教会信仰問答は、問111で次のように質問している。「 私たちは信仰のよって立つべき基礎を把握したのですから、そこから真の信仰の定義を引き出すことは容易であります。

 

111と答は、真の信仰の定義である。ジュネーヴ教会信仰問答は、使徒信条を学び、その教理を把握すると、真の信仰を定義することは容易であると述べている。

 

当然答は、「 その通りです。次のように定義すべきです。」。そしてジュネーヴ教会信仰問答は、次のように真の信仰を定義する。「信仰とは私たちに対する神の父としての慈愛についての、確実、また確定的な認識であると言えば良いのです。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、「信仰とは・・・確実、また確定的な認識である」と述べている。真の信仰の定義は、第一に認識である。第二にそれは「・確実、また確定的な認識」である。第三にそれは「私たちに対する神の父としての慈愛についての」認識である。第四に神を、福音を通して、キリストによって私たちの父、救い主と認識することである。

 

カルヴァンは『キリスト教綱要』の第一編第11節でこう述べている。「我々の知恵で、とにかく真理に適い、また堅実な知恵と見做されるべきものの殆ど全ては、二つの部分から成り立つ、すなわち、神を認識することと、我々自身を認識することである。」と。宗教改革者カルヴァン以来、改革派教会は、信仰を確実な神認識と自己認識と理解して来たのである。

 

普通信仰とは神に対する信頼、神の御言葉に対する信頼と、定義される。しかし、知ることなくして、神を認識し、自己を認識することなくして、信頼は生まれないし、信仰は生まれない。

 

ヘブライ人への記者がヘブライ人への手紙111節で、信仰を次のように定義している。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」と。

 

この信仰は信頼でも科学ではない。目に見るものを対象とするのではなく、目に見えないものを、私たちが確実だと希望しているものを対象とする。ヘブライ人への手紙は、信仰を、私たちが確信し確認しているものと定義している。

 

信仰は事実、現にあるものである。信仰にとって希望しているのは、現にある事実なのである。第11章の信仰者たちは、現にあるものを、確実なこととして確認し、認識していたのである。

 

このようにヘブライ人への手紙の信仰は、現にあるものという客観的性質のものであり、歴史的に証明され、確認されているものである。それがヘブライ人への手紙の11章の御言葉である。ヘブライ人への手紙は、信仰にとって見ることのできない諸事実は証明されている。私たちは神が御言葉によって天地を創造され、この世界は目に見えないものによって創造されたことが証明されている。それを認識し、確認することが、真の信仰なのである。

 

信仰とはリーズナブルフェイス(理性的(認識的)信仰)である。認識としての信仰は、人間の感情、情緒とは関係がない。「神が好きです」「キリストが好きです」、これは真の信仰ではない。

 

主イエスは言われた。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ17:3)。ヨハネによる福音書の主イエスの御言葉によると、真の信仰は永遠の命と関係するのである。それは、父なる神が私たちの救いのために遣わされた御子主イエス・キリストを認識し、確認し、そして私たちの救い主として受け入れることである。

 

 ジュネーヴ教会信仰問答33      主の202222                                                                                                                                       

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙第3114(新約聖書P345346)

第一部     信仰について

 第十八聖日                          

111 私たちは信仰のよって立つべき基礎を把握したのですから、そこから真の信仰の定義を引き出すことは容易であります。   

答 その通りです。次のように定義すべきです。信仰とは私たちに対する神の父としての慈愛についての、確実、また確定的な認識であると言えば良いのです。神は福音によって御自身がキリストの故に私たちの父であり、救い主である、と証しておられる通りであります。

 

112 その信仰は私たちが自分から抱くものでしょうか。それとも神から受けるのでしょうか。

答 聖書はこれが神のたぐいなき賜物であると教えますし、私たちの経験もそれを確認します。

 

113 どのようなことを経験と言うのですか。

 答 私たちの精神は神の霊的な知恵を尋ねるには余りにも粗野であり、この知恵は信仰によって私たちに啓示されるものです。また、私たちの心は自ら進んで神に安らうよりも、あるいは不信に、あるいは己れ自身と被造物に対するよこしまな確信に傾き過ぎています。しかし、聖霊は私たちを照らして、自己の能力の遥かに及ばぬことを理解させ、また私たちの心に救いの約束を封印して、揺るがぬ確信を抱かせたまいます。

 

114 一たび信仰を得たならば、それによってどのような良いことが私たちに起こるのでしょうか。

 答 信仰は私たちを神の前に義とし、この義によって私たちを永遠の生命の世継たらしめるのであります。

 

115 どうしてですか。人は聖くまた罪なく生きて、神によみせられるよう務める時その行いによって義とされるのではないでしょうか。

 答 もし、それほどまで完全な人がいるならば、その人は正当に義人であると認められることが出来ます。けれども、私たちはすべて罪人であり、神の前に多くの点で罪責を負っていますから、私たちを神と和解させる相応しさは他のところに求めなければなりません。 

 

前回は、ジュネーヴ教会信仰問答問111と答を学んだ。「信仰のよって立つべき基礎」である使徒信条(2110と答)を学んできた。それによって私たちは、容易に真の信仰の定義を引き出すことが容易であることを学んだ。信仰は、「私たちに対する神の父としての慈愛についての、確実、また確定的な認識である」。神は、キリストの福音を通して、御自身を私たちの父、救い主と証しされていることを学んだ。

 

次にジュネーヴ教会信仰問答問112と答を学ぼう。信仰は人の意志から出ているのか、神の賜物かという問題である。

 

真の信仰は、キリストの福音宣教を通して私たちに齎される。それは、キリストの福音宣教を聴いて、私たちが自分の意志で信じるからか、聖霊なる神が私たちに信仰の賜物をお与えくださるので、私たちは信じるのか。

 

使徒言行録16章で使徒パウロがフィリピで伝道したことを記しています。フィリピにはユダヤ人たちの会堂がなかった。ユダヤ教の信者たちは川のほとりで祈っていた。使徒パウロは、そこでキリストの福音を語った。聖霊が紫布の商人のルデヤの心を開かれたので、ルデヤはパウロの福音を聞いて、キリストを救い主と信じた。

 

ルデヤは、パウロの福音宣教を通して主に召され、聖霊によって信仰を与えられ、主イエスを彼女の救い主と信じた。このように聖書は、信仰が人の意志から始まるのではなく、神の召しと信仰の賜物によって与えられることを教えている。これがキリスト者の信仰の体験であり、経験である。

 

ジュネーヴ教会信仰問答問113と答は、キリスト者の信仰の経験が聖霊の照明という働きによってなされることを教えている。

 

信仰は認識である。しかし、生れながらの人は、アダムの原罪の故に全的に堕落し、腐敗した彼の目は、正しく神を認識できない。それゆえに神が創造された被造物を神として拝んでいる。それゆえに聖霊が人の心を清められ、彼に信仰という賜物を与えられ、彼の罪を自覚させ、聖書が証しするキリストの十字架が自分の罪のためであり、キリストが救い主であることを説得されない限り、私たちは真の信仰を得ることはない。聖霊が私たちの信仰を強め、まだ見ぬ約束を確信させ、保証される。

 

ジュネーヴ教会信仰問答問114と答は、信仰の義と永遠の命について教えている。私たちは、キリストの福音を聞いて、キリストを私たちの救い主と信じて救われる。永遠の命を約束され、保証される。信仰の義とは、キリストの義を受け入れることである。キリストが私たちに代わって積極的に神の服従し、得られた義を、私たちはいただいた。そしてキリストは私たちの罪の身代わりに十字架に死なれて、神の刑罰を受けられた。

 

キリストの得られた義が永遠の命である。私たちはキリストの義と永遠の命を、キリストを信じる信仰によって得たのである。これを、信仰義認(信じて救われる)というのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答問115と答は、キリスト教会の長い歴史の中で常に繰り返される間違った信仰を教えている。それは、行いによる信仰である。カトリック教会は、善行による救いを奨励した。プロテスタント教会も、アルミニアンたちの信仰のように、神が予め私たちの信仰と善き業を予知され、それによって私たちを救われたと主張する者がいる。

 

しかし、ジュネーヴ教会信仰問答は、完全な義人を否定する。行いによって救われる者はいない。すべての人は神の憐れみと恵みによって救われる。自分の内に救いの可能性はなく、キリストの十字架と復活の御業に、そしてキリストが罪なきお方であり、父なる神に従順に服従されたことに、私たちの救いを見出すべきである。

 

 ジュネーヴ教会信仰問答34           主の202229                                                                                                                                       

聖書箇所:マタイによる福音書第71520(新約聖書P12)

第一部     信仰について

 第十九聖日                          

116 しかし人間の行なう一切の業が神の前に愛顧を得るに価しないほど汚らわしく、全く何の価値も持たないものでしょうか。   

答 先ず第一に、およそ私たちから生ずるすべての業は、私たち自身について言われるのと同じように、悪徳に満ちています。それゆえにまた、神の忌み・退けたもう以外の何事もなし得ないのであります。

 

117 それでは、新しく生まれ、神の霊によって更新される以前は、私たちは罪を犯す以外の何事をもなし得ず、ちょうど悪しき木が悪しき実しか結ばぬのと同じだとあなたは言うのですか。

答 全くその通りであります。すなわち、人の目はどんなに善く見えても、心が卑しい限り、それらの業は邪悪であり、その点を特に神が見たもうのであります。

 

118 そこから私たちが何らかの功績によって神に先行し、あるいは神の恵みを請求することは出来ないとあなたは判定するわけです。いやむしろ、私たちが企て、あるいは着手する全ての業は、神の怒りと断罪の下に置かれているのであります。

 答 そのように思います。したがって、神は純粋の憐れみにより、私たちの行なう業を顧みる事なしに、私たちをキリストにおいて、価なしに、喜び迎え入れ、好ましいものとして受け入れて下さり、キリストの義を私のものとして受け入れるのをよしとし、反対に、私たちの罪を負わせたまいません。

                                                 テトス三・三-五

 

119 ではどうして「私たちは信仰によって義とされる」とあなたは言うのですか。

 答 私たちが心からの固い信頼をもって福音の約束を受け入れる時、私の言ったような、この義の所有を、或る意味で獲得するからであります。

 

120 それゆえ、こういう意味になります。この義は福音によって神から私たちに差し出されているように、そのように私たちによって信仰をもって受け取られるのであります。

 答 まさにその通りであります。 

 

前回は、ジュネーヴ教会信仰問答問112115と答を学んだ。ジュネーヴ教会信仰問答問112と答で聖書と信仰者の経験から信仰は人の意志から出ているのではなく、神の賜物であることを学んだ。問113と答で、信仰者の経験が聖霊によるキリスト証言と照明であることを学んだ。問114と答で信仰を得ることの益を、信仰が私たちを神の御前に義とし、永遠の命を相続させることを学んだ。そして問115と答で神の御前で行いによって自らの救いを得ることのできる罪人は誰もいないことを学んだ。

 

116と答は、アダムの原罪によって、生まれながらの人は皆、罪によって本性が腐敗していることを前提に問答している。ですから、聖なる神の御目には、罪に腐敗した人のすべての御業が汚れている。全的に堕落した人から出て来るすべての御業は、悪徳である。それゆえにジュネーヴ教会信仰問答は、人のすべての御業は神の愛顧に価しないし、むしろ、神の怒りに価する悪徳であり、人の業は神に断罪されることしかなし得ないと述べているのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答の問117と答で、再生、すなわち、新しき人に生まれ変わらない限り、人は罪人のままであり、悪を為し続けると述べている。腐敗した本性が生まれ変わる、すなわち、聖霊によって心が再生されない限り、人は神の御前で善を行うことは出来ない。悪しき木から悪しき実がなるように、罪に汚れた腐敗した心(本性)から悪徳(現行罪)が生まれる。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問118と答で私たちの側から、神に先だって善を行い、神の恵みを要求することは出来ないと述べている。罪人である私たちは、生れながらに神の怒りの子である。神に罪を断罪され、永遠の滅びの下に置かれている。だから、どんな細やかな善行ですら、神の御前で行い得ないのである。神はただ憐れみ、一方的な恵みによって、私たちに御子キリストを賜ったのである。キリストが私たちに代わって神の御前に義をなさり、私たちの罪の刑罰を御自身の身に引き受けて下さったのである。しかも、私たちは自ら自分の罪を知り、罪の悲惨さに気づき、神に救いを祈り求めたのではない。神が私たちを憐れんでくださったのである。そして、神は、十字架と復活のキリストを、私たちが自らの救い主と信じる信仰をお与えくださり、受け入れて下さったのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問119と答で私たちの信仰の確信に迫っている。「私たちは、信仰によって義とされる」。これがプロテスタント教会の信仰の核心である。使徒パウロが述べているように、「私たちは信仰によって義とされる」は、聖書が語る福音の約束である。信仰、すなわち、神が私たちに提供してくださったキリストの義を固く信じる事のみが、私たちが神の義を得て、救われることである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問120と答でこのキリストの義が福音を通して私たちに提供され、私たちは信仰によってこの義を受け入れて、救われていることを述べている。使徒パウロは、こう述べている。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。(ローマ1:1617)

 

福音は「十字架の言葉」である。ユダヤ人には躓き、ギリシア人(異邦人)には愚かなことである。しかし、キリストの十字架は、信じる者にとっては神の力である。信じる者に救いをもたらす神の支配である。神の救いは律法を行うことによってではなく、功績によるのではなく、ただ信じる者に与えられる。

 

ジュネーヴ教会信仰問答35           主の2022216                                                                                                                                       

聖書箇所:詩編第143112(旧約聖書P983984)

第一部     信仰について

 第二〇聖日                          

121 しかし、神が一たび私たちを愛のうちに包み入れて下さったことに基づき、私たちの行なう業も神から受け入れられるのではないでしょうか。その行ないは私たちが聖霊によって忠実に行なうものなのですから。   

答 その行ないは神のみこころにかなうものとされます。しかし、それ自身の価値のゆえではなく、好意によって寛大に評価されたのです。

 

122 その行ないは聖霊から生じているのに、神の好意をかちとるに価しないのですか。

答 そこには肉の弱さに由来する汚点が常に幾らか混じっていて、それに損なわれてしまっているのです。

 

123 それでは、どこから、あるいはどのようにして、行ないは神のみこころにかなうのですか。

 答 ただ信仰のみがそれらの行ないに対する恵みをかち取ります。すなわち、神が厳格極まる法をもって清算を付けるために来たりたもうのではない、との信頼に私たちが固く依り頼む時であります。神がそれらの行ないを厳しい基準によって検討しようとは欲したまわず、その悪を覆い、その汚れをキリストの純潔によって埋め、それがあたかも完全無欠であるかのように見たもうと信じるのです。

 

124 では、キリスト者は神に召された後は、その行なう業によって義とされ、あるいは業の功績を獲得し、こうして神から愛されるようになり、その愛が私たちにとって永遠の生命なのだと、ここから結論できませんか。

 答 そう結論してはなりません。むしろ、死すべき人は誰一人として神の前に義とされることはあり得ないと記されていることを心に留めねばなりません。それゆえ、私たちは神が私たちに対する審判を始めたまわぬように祈るのです。                       詩編一四三・二

 

125 しかし、だからといって私たちは信仰者の善き行ないが無益であるとは断定しないのですね。

 答 そうです。決してそう考えません。なぜなら、神がこの世においても、来たらんとする生においても、善き業に対する報いを信仰者に約束したもうたのは、空しい約束ではないからです。まことに、神の価なしの愛により、いわば泉から湧き出るように、これらの報いは現われ出るのです。すなわち、神は先ず私たちを子として受け入れ、次に私たちの悪徳の記憶を葬り去り、好意的な評価を伴わせてくださるからであります。

 

126 善き行ないと義とが引き離され、そのため、義を得ていながら善き行ないを欠くというようなことがあり得ますか。

 答 断じてありません。すなわち、キリストを差し出されるままに受けいれる時、彼は私たちに、ただ単に死からの解放や神との和解を約束したもうだけでなく、同時に、私たちを新しい命に更新する聖霊の恵みを約束したもうからであります。キリストを私たちから引き離さぬために、これらが結び付いていることが必要であります。

 

127 そこから信仰はすべての善き行ないを生じる根であると結論されます。まことに、善き行ないへの努力から私たちを呼び戻すようなものは何もありません。

 答 全くその通りであります。それゆえ、福音の教理の全体は二つの部分から成っているのです。すなわち、信仰と悔い改めであります。 

 

前回は、ジュネーヴ教会信仰問答問116120と答を学んだ。人は全的堕落によって本性が腐敗し、人から生み出される全ての業は神に忌み嫌われ、呪われていることを学んだ。聖霊によって再生されない限り、人の業は神に忌み嫌われ、断罪されるものであり、マイナスの価値しかないことを学んだ。他方、信仰によって義とされた者の業を、神はキリストの義のゆえに受け入れられることを学んだ。

 

今回は、信仰によって義とされた者、すなわち、聖霊によって再生された者の善き業について述べている。ジュネーヴ教会信仰問答は問121と答で、次のように問答する。信仰によって義とされた者の行ないを、神は受け入れて下さるのではないか。なぜなら、彼は聖霊によって忠実に行なっているからと。そして、こう答える。キリストの義のゆえにキリスト者の行ないは、神に受け入れられる。キリスト者の行ないに価値があるからではない。ただ神は彼に好意を示されるのであると。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は問122と答で、さらに次のように問答する。信仰によって義とされた者は、聖霊によって再生された者であり、彼は聖霊によって行為するのであるから、神に受け入れられる価値のある行ないができるのではないか。キリスト者は罪を赦された罪人であり、信仰によって義とされたが、なお罪の残滓があり、それゆえに肉の弱さのゆえに彼は神に受け入れられる価値ある行ないを為し得ないと。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は問123と答でキリスト者の行ないが神の御心に適うのはなぜかと問答している。ジュネーヴ教会信仰問答はキリスト者の善き業を肯定する。しかし、善き業をカトリック教会のように人の功績とは考えていない。信仰の恵みである。キリスト者は信仰によってキリストの義を得たゆえに、自らの行ないを神が受け入れて下さると信頼するのである。神は、キリストの故にキリスト者の行ないを厳しく裁くことはない。むしろ、神はキリストの純潔によって彼の罪と悪を覆われ、罪なき者と見做されると信じるのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は問124と答でカトリック教会の功績思想を否定しているのである。キリスト者の善き業は功績ではない。キリスト者は自分の行ないによって神に受け入れられ、功績を獲得し、神に愛され、永遠の命を得ることが出来ると考えてはならない。むしろ、すべての人は罪によって永遠に滅ぶべき者であることを心に留めるべきである。神の裁きによってわが身が滅ぼされないようにと祈るべきであると。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は問125と答で、逆にキリスト者の善い業は無益であると主張する者たちに反対している。神は聖書においてキリスト者に対して行いに対する報いを約束されているからである。信仰による救いが神の無償の愛から出るように、キリスト者の行ないに対する神の報いも、神の無償の愛から出ているからである。神は、私たちをキリストの義によって受け入れ、罪を赦して下さるだけではない。神の子としてくださり、御国の相続者にしてくださるのである。問126127と答は次回学ぼう。

 

 ジュネーヴ教会信仰問答36           主の2022223                                                                                                                                       

聖書箇所:マルコによる福音書第11415(新約聖書P61)

第一部     信仰について

 第二〇聖日(前回の続き)                          

 

126 善き行ないと義とが引き離され、そのため、義を得ていながら善き行ないを欠くというようなことがあり得ますか。

 答 断じてありません。すなわち、キリストを差し出されるままに受けいれる時、彼は私たちに、ただ単に死からの解放や神との和解を約束したもうだけでなく、同時に、私たちを新しい命に更新する聖霊の恵みを約束したもうからであります。キリストを私たちから引き離さぬために、これらが結び付いていることが必要であります。

 

127 そこから信仰はすべての善き行ないを生じる根であると結論されます。まことに、善き行ないへの努力から私たちを呼び戻すようなものは何もありません。

 答 全くその通りであります。それゆえ、福音の教理の全体は二つの部分から成っているのです。すなわち信仰と悔い改めであります。

 

 第二一聖日

問128 悔い改めとは何ですか。

 答 罪を嫌いまた憎み、義を愛することです。それは神への恐れから生じ、これに導かれて私たちが自己を否定をし、肉を死なしめ、神の御霊の支配に自己を明け渡し生活の全行為を神の意志への服従に向けて整えさせるものであります。

 

問129 これは神を正しく崇める方法を述べた時、最初に設定して置いた区分の第二部です。

 答 そうなのです。その時同時に神を正しく崇める規範は神の御意志に服従することであるという点が付け加えられした。

 

問130 どうしてそうなるのですか。

 答 私たちの好きなように考えたことでなく、彼の御意志によって規定されたものこそが神のよしとしたもう礼拝だからです。

 

前回は、ジュネーヴ教会信仰問答問121125と答を学んだ。信仰によって義とされた者、すなわち、聖霊によって再生された者の善き業について学んだ。キリスト者の善き業は功績ではない。その業自体に価値はない。キリスト者の善き業は、キリストの義のゆえに神がキリスト者の行ないを受け入れて下さるのである。キリスト者の行ないは完全に聖化されていない。罪の残滓がある。しかし、神はキリスト者を一方的に恵み、彼の行ないに好意を示されるのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答はキリスト者の善き業を肯定している。むしろ、ジュネーヴ教会信仰問答は問126と答で義と行いの分離を否定している。

 

キリスト者は信仰によってキリストと一つにされ、聖霊によって心を新たにされ、キリストがキリスト者に善き業を為せるようにしてくださるのである。だから、キリスト者は自らの行ないを、神がキリストの故に受け入れて下さると信頼するのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は問127と答で善き行ないの根が信仰であると述べている。キリスト者は、キリストのゆえに神が彼の行ないを受け入れて下さると信じるので、善き業に励むことが出来るのである。

 

そしてジュネーヴ教会信仰問答は、福音の教理の全体が悔い改めと信仰の二つの部分から成り立つと、説明する。ジュネーヴ教会信仰問答は、使徒信条に従って「信仰」について述べて来た。問128と答で「悔い改め」について定義し、キリスト者は悔い改めから神の律法への服従に生きることをダイナミックに教えている。

 

二一聖日の前半の部分で、ジュネーヴ教会信仰問答は、キリスト者が悔い改めから神の律法を生活の規範とし、神への服従へと向かう過程を述べている。そして後半から神の律法について、十戒の第一の板と第二の板について述べている(130135と答)

 

悔い改めは、旧約聖書では「立ち帰る(返る)」という語が多く使われている。新約聖書はギリシャ語のメタノイアである。「悔い改め」である。主イエス・キリストの来臨の目的は、悔い改めさせて、福音を信じさせるためである(マルコ1:1415)

 

悔い改めは、単に自分の罪を自覚し、後悔すること、すなわち、懺悔することのみではない。自分よりも聖霊のお働きである。聖霊が私たちに罪を自覚させ、神に方向転換させてくださる。悔い改めは神の恵みである。

 

聖書の「悔い改め」は罪に対する深い認識と生活の改変を伴う根本的な方向転換である。だから、ジュネーヴ教会信仰問答は罪を悔いているだけではなく、新しい生まれ変わりであると述べている。自己中心の生き方から神の律法を規範とした神への服従であると述べている。それゆえ「罪を嫌いまた憎み、神の義を愛する」ことであると、ジュネーヴ教会信仰問答は述べている。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、キリスト者の心に神への恐れが生じて、神に向けて生きるようになるのであると述べている。それが、聖霊のお働きである信仰による悔い改めである。それによってキリスト者の生活の規範となるのが神の御意志である神の律法、すなわち、十戒である。

 

十戒は、神の民イスラエルがエジプトを脱出し、シナイ山に導かれ、主なる神に会見した時に、指導者モーセを通して与えられた。彼らは、2枚の十戒の板を生活の規準として約束の地カナンで生活するのである。

 

詳しくは次回で学ぼう。

 

ジュネーヴ教会信仰問答37           主の202232                                                                                                                                       

聖書箇所:出エジプト記第20117(旧約聖書P126127)

マタイによる福音書第223440(新約聖書P44)

 

 第二一聖日

 第二部 律法について

問131 ところで私たちの生きる規範として課せられたものは何ですか。

 答 神の律法です。

 

問132 それに含まれるのは何ですか。

 答 これは二つの部分から成ります。その第一部は四つの戒めからなり、第二部は六つの戒めを持ちます。したがって、全部で十の戒めによって全律法は成り立っています。

 

問133 この分け方は誰が始めたのですか。

 答 神御自身です。神は二枚の板に記してモーセに渡し、これが十の言葉に纏められるとしばしば証しされたのです。

 

問134 第一の板の主題はどういうことですか。

 答 これは神に対する敬虔の務めについてであります。

 

問135 では第二の板は。

 答 人々の間でどう振舞うべきか。彼らに対して何の義務を負っているかについてであります。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は問1128と答で信仰について、使徒信条に従って教えて来た。問129と答から、特に問131232と答で律法について、特に十戒を教えている。信徒信条と十戒と主の祈りがキリスト教の三要素である。初代教会は、レントとアドベントの季節に洗礼志願者の学びをし、彼らの洗礼を準備した。学びのテキストは、使徒信条、十戒、主の祈りであった。

 

日本キリスト改革派教会は、洗礼志願者の洗礼準備のために「洗礼式の誓約文」を用いる。また、求道者の学びのテキストにウェストミンスター小教理問答を用いる。ウェストミンスター小教理問答は、ジュネーヴ教会信仰問答と同様に、使徒信条、十戒、主の祈りを基本に構成されている。

 

出エジプト記2024章において主なる神がシナイ山でモーセを通して神の民に十戒を授けられ、神の民との契約書である神の律法について記されている。

 

十戒は、二つの石の板に記されている(出エジプト記31:18)。二通りの説がある。第一は同じ内容の石の板二枚である。第二は第一の石の板には四戒まで、第二の石の板には第五―十戒までが記されている。わたしは第二の説を支持する。十戒は、第一の板に神に対する四つの戒めが、第二の石の板に隣人に対する六つの戒めが記されたのである。そして、神の民にとって永遠の掟とされたのである。十戒は、あらゆる時代の、あらゆる人々が守るべき道徳上の規範とされたのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答が問131と答で私たちが生きる規範とされたのは、神の律法であると教える時、それは十戒のことである。

 

シナイ山で主なる神と恵みの契約を結んだ神の民たちが、約束の地カナンで主なる神を畏れて、正しく礼拝して生きるために、神は彼らの生きる規範として十戒を授けられた。十戒は、奴隷の地エジプトから贖われた神の民たちが、神の民として約束地で生きる規範である。

 

同様に罪の奴隷であった私たちがこの世でキリスト者として生きる規範でもある。キリストを通して父なる神は、私たちと恵みの契約を結ばれ、聖霊を通して私たちの心に十戒を刻まれ、守れるようにしてくださっている。

 

132と答は、十戒の内容の区分である。ジュネーヴ教会信仰問答は、神の律法を十戒と理解する。神の律法は、十戒を中心とする多くの戒めを福音でいるが、戒めは主なる神の命令であり、十戒である。そして十戒は二枚の石の板に記された。十戒は第一部が神に対する四つの部分から、第二部は隣人に対する六つの部分から成り立っている。十戒が主なる神の律法の全体を表すのである。

 

133と答でジュネーヴ教会信仰問答は、十戒の区分を誰が最初になさったかを問うている。主なる神御自身である。主なる神御自身が出エジプト記20章で神の民に十戒を授けて、神と隣人のための戒めとして渡されたのである。

 

134135と答は、主イエスが律法の専門家の質問に答えて、十戒の第一と第二の主題を教えられたのである。十戒の第一から第四の戒めは神に対するものである。第五から第十は隣人に対するものである。すなわち、主イエスは十戒を神の対する愛と隣人に対する愛を教えるものであり、これが律法の全体であると教えられた。

 

永遠に十戒である神の律法は、私たちの生きる規範であり、神に対する愛と隣人愛から成り立っており、この二つの神の命令が律法と預言者全体に、すなわち、聖書全体にかかっており、恵みの契約の中に入れられた私たちは、これを守る、即ち、主なる神の命令に服従する義務がある。

 

十戒は、二つの主題があり、それが分離するのではなく、相互に関連するのである。神に対する愛を守る者は、隣人に対する愛を守る。隣人に対する愛を守る者は、神に対する愛を証しするのである。

 

このように十戒に二つの主題が別々にあるのではなく、主なる神は、御自身と契約した神の民に御自身に対する愛を求められた。その愛に二つの主題があり、その二つは分離するものではなく、一つのものとして関連しているのである。そして主イエスの十字架においてその愛は完全なものとして表されたのである。

 

使徒パウロが言うキリストの積極的服従と消極的服従である。前者は、キリストが十字架の死に至るまで父なる神に従順であられたことである(フィリピ2:68)。後者は、キリストの十字架の死は罪ある私たちの身代わりに神の刑罰を受けられたのである(ローマ5:8)。前者はキリストの父なる神に対する愛であり、後者はキリストの私たち隣人に対する愛である。

 ジュネーヴ教会信仰問答38           主の202239                                                                                                                                       

聖書箇所:出エジプト記第2013(旧約聖書P126)

 第二部 律法について

 第二二聖日

問136 第一の戒め、あるいは第一の箇条を唱えて御覧なさい。

 答 「イスラエルよ聞け。我は汝の神エホバ、汝をエジプトの地、すなわち奴隷の家より導きいだせし者なり。汝、わが顔の前に我のほか神を持つべからず。

                                    出エジプト記二〇・二-三、申命記五・六-七

 

問137 では、この言葉の意味を説明しなさい。

 答 初めに、いわば律法全体の序文となるものが置かれます。すなわち、御自身をエホバと名乗って、命令する権能を御自らに帰したまいます。第二に、御自身の律法が私たちにとって喜ばしいものとなるために、御自らが私たちの神であると付け加えたまいます。すなわち、この言葉は御自身を私たちの救い主と呼びたもうたのに相当します。しかも、この特典が私たちのものとされるのです。これに答えて私たちも彼の従順な民であることを示すのであります。

 

問138 しかし、それに続けて解放の事が付け加えられ、エジプトの奴隷のくびきを砕いたと言われるのは、イスラエルの民族に向けたものであって、彼らにしか当てはまらないのではないでしょうか。

 答 外形は確かにそうだと私も認めます。しかし、その表わす真理は別の種類の解放でありまして、これは全人類に関わるものであります。すなわち、神は私たちすべてを罪の霊的奴隷状態と悪魔の専制から救い出して下さったからです。

 

問139 律法の序文を述べようとする時、どうしてその事実を思い起こさせたもうのですか。

 答 それは一切を従順に神に捧げるのでないならば、最高の忘恩の罪を負わねばならぬことに注意を喚起するためです。

 

問140 さて第一戒は何を要求したものですか。

 答 私たちが神お一人に誉れを完全に帰しまつり、一部分といえども他の者に移さないことです。

 

問141 神に固有であって、他のものに移してはならない誉れとは何ですか。

 答 彼を崇め、私たちの信頼を彼に置き、その名を呼び求め、要するに、その尊厳に相応しい一切を彼に帰することです。

 

142 「我が顔の前に」という言葉が付け加えられるのはなぜですか。

 答 神に知られぬように隠されたことは何一つなく、彼はまた隠された思いを知り、かつ審く方だからです。これは外的な告白によって着せられる栄誉を要求するのみならず、心の真の敬虔を要求したもうとのいみであります。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問136216と答において十戒の解説を述べている。問136142と答は、十戒の序文と第一戒の解説である。

 

136と答は、十戒の序文と第一戒の御言葉である。

 

出エジプト記2013節は、1節で主なる神が神の民にシナイ山で十戒を授けられたことを記し、23節で授けられた十戒の内容が217節に記されている。十戒は、2節の序文と十の戒めから成っている。

 

十戒の序文の御言葉、「イスラエルよ聞け。我は汝の神エホバ、汝をエジプトの地、すなわち奴隷の家より導きいだせし者なり。」は文語訳聖書によっている。新共同訳聖書は、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した主である。」である。

 

旧約聖書は、神の御名である「主」を、二つの言葉で表している。「ヤーウェ」と「アドナイ」である。「エホバ」は「ヤーウェ」のことである。宗教改革の時代、主は「エホバ」と呼ばれた。カルヴァンも主を「エホバ」と呼んでいた。だから、渡辺信夫先生は、十戒を文語訳で記されている。

 

しかし、現代、「ヤーウェ」あるいは「ヤハウェ」と呼ばれている。「エホバ」は間違った読み方である。実際ヘブライ語の聖なる四文字をどう発音するかは不明である。

 

「主」という神の御名は、出エジプト記314節で、主なる神がモーセに現われて、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われたことに由来する。主は、イスラエルの神の民が真に存在する者として認めなければならない神である。なぜなら、主がモーセを神の民の指導者に立て、奴隷の地エジプトから神の民を呼び出されたからである。主は神の民にモーセを遣わされ、エジプトの王に神の民を去らせるように命じられた。神の民イスラエルにとって主が唯一の神であり、主であったのである。主は、神の民イスラエルとシナイ山で契約関係に入られた。主は「わたしはある者」として、常に神の民の御前におられ、彼らを救われ、彼らを祝福し、守られたのである。

 

「アドナイ」という主の御名は、主の御名の代用である。神の民は聖なる四文字を口にすることを恐れ、沈黙するか、「アドナイ」という言葉で代用したのである。

 

旧約聖書の出エジプト記の十戒の本文には「イスラエルよ聞け」という御言葉はない。申命記の第51節にこの言葉がある。「イスラエルよ聞け」は、モーセが神の民に主なる神の勧告を告げる時、勧告の部分の重要な区切りに用いている。

 

ユダヤ教の十戒の区分は、序文が第一戒であり、第一戒と第二戒は第二戒である。しかし、改革派教会はジュネーヴ教会信仰問答の十戒の区分に従っている。

 

137139と答が十戒の序文の御言葉の解説である。十戒の序文は、主が御自身を神の民に名乗られる。主なる神は、神の民イスラエルにとって唯一の存在者、唯一の主なる神である。だから、主なる神は、神の民に命令する権威を持たれ、神の民が神の律法を喜んで守るように、神の民にとって主は「わたしの神」と呼ばれている。神は。出エジプトという出来事を通して彼らをエジプトから贖われて、神の民とされたのである。彼らは、エジプトの国で奴隷生活をしていたが、主によって自由にされたのである。それゆえに彼らは主の救いを感謝し、喜んで神の律法を守り、主に従うのである。十戒違反は、彼らの主への忘恩の行為である。問140142と答は次回学ぼう。  

 

ジュネーヴ教会信仰問答39           主の2022316                                                                                                                                       

聖書箇所:出エジプト記第202(旧約聖書P126) 申命記第517(旧約聖書P289)

 第二部 律法について

 第二二聖日

問140 さて第一戒は何を要求したものですか。

 答 私たちが神お一人に誉れを完全に帰しまつり、一部分といえども他の者に移さないことです。

 

問141 神に固有であって、他のものに移してはならない誉れとは何ですか。

 答 彼を崇め、私たちの信頼を彼に置き、その名を呼び求め、要するに、その尊厳に相応しい一切を彼に帰することです。

 

142 「我が顔の前に」という言葉が付け加えられるのはなぜですか。

 答 神に知られぬように隠されたことは何一つなく、彼はまた隠された思いを知り、かつ審く方だからです。これは外的な告白によって着せられる栄誉を要求するのみならず、心の真の敬虔を要求したもうとの意味であります。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問136216と答において十戒の解説を述べている。前回は、問136139と答は、十戒の序文の解説を学んだ。

 

本日は、問140142と答で、十戒の第一戒の解説を学ぼう。

 

十戒の第一戒は、旧約聖書の出エジプト記202節と申命記第57節にある。どちらも「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」である。

 

出エジプト記の十戒の全文(旧約聖書P127127)は。申命記第5122(旧約聖書P289290)に再録されている。シナイ山で主なる神が現われ、角笛が鳴らされ、モーセが主なる神に語りかけると、主なる神は雷鳴をもって答えられた。そして、その後に主なる神は、モーセに十戒の石の板を二枚授けられた。その石の板に十戒の序文(前文)と十の戒めが順に記されていた。

 

前回は、十戒の序文(前文)を学んだ。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。(出エジプト記20:2、申命記5:6)。前文は、主なる神が御自身と契約を結ぶ神の民イスラエルに、御自身を紹介されている。神は主である。主は神の民イスラエルの神である。主なる神は、指導者モーセを通して神の民イスラエルをエジプトの国、奴隷の家から贖い出された。「贖い」は買い取ることである。身代金を支払って身受けするという意味である。主なる神は、エジプトの国で奴隷状態にあった神の民イスラエルを、その捕らわれの状態から解放し、御自身の民とされた。だから、ジュネーヴ教会信仰問答は問137の答で「御自身を『エホバ』と名乗って、命令する権能を自らに帰したもう」と述べているのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問138の答で十戒が序文(前文)の通りに神の民イスラエルに向けて語られたことを認めている。と同時に出エジプトの出来事は、キリストの十字架の予型であることを認めている。ジュネーヴ教会信仰問答が「神は私たちすべてを罪の霊的奴隷状態と悪魔の専制から救い出して下さったからです。」と述べているのは、キリストの十字架の出来事を述べているのである。主なる神は、神の民イスラエルを奴隷の地から解放され、私たちを罪と死の奴隷状態からキリストの十字架によって解放されました。だから、神の民イスラエルと私たちは共に主なる神の所有であり、主なる神は十戒によって神の民イスラエルと私たちに命令する権能を持たれているのである。

 

神の民イスラエルと私たちにとって主なる神、キリストは、「私たちの神」であり、神の民イスラエルと私たちは、主なる神、キリストの従順な民である。それゆえにジュネーヴ教会信仰問答は、問139と答で神の民イスラエルと私たちが、主なる神、キリストに全く従順を、十戒を守ることを通して示さないことは忘恩の行為であると述べているのである。

 

神の民イスラエルも私たちも奴隷状態から解放されて自由を得たのである。それを確保し保証するために十の戒めがある。だから、ジュネーヴ教会信仰問答は、問137の答で「第二に、御自身の律法が私たちにとって喜ばしいものとなるために、御自らが私たちの神であると付け加えたまいます。」と述べている。十戒は、主なる神、キリストが神の民イスラエルと私たちを愛して授けられたものである。十戒を守ることは、主なる神、キリストの愛の証しに生きることである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答の問い140142と答は、十戒の第一戒の解説である。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない(出エジプト記20:2、申命記57)。これは、出エジプトとキリストの十字架の出来事による解放に基づく命令である。神の民イスラエルと私たちキリスト者が自由の身を得たのは、主なる神、キリストが救われたからである。

 

だから、ジュネーヴ教会信仰問答は、問140で第一戒の要求とは何かと、端的に問うている。主なる神に誉れを完全に帰すことと主なる神の栄光を他の神々に移さないことである。神の民イスラエルは、常に出エジプトの出来事を、キリスト者は常に十字架と復活の主イエスの出来事を記憶し、想起する。神が唯一であるだけではない。神の民イスラエルを救い、私たちキリスト者を救われたお方は、主なる神の他はない。主なる神の他に別の神を持つことは許されない。キリスト者は主イエス・キリスト以外の救い主を持つことは許されない。戦前の日本の教会のように、宮城遥拝は許されない。主なる神、キリストは心だけで信じてよい神ではない。心と体で、全身全霊で、礼拝すべきただ一人の神である。

 

だから、ジュネーヴ教会信仰問答は、問141と答で主なる神、キリスト以外を礼拝することを禁じている。主なる神、キリスト以外の神々を信頼することを禁じている。主なる神、キリストの御名以外の神々の名で祈ることを禁じている。主なる神、キリストの栄光を他の神々に移すことを禁じている。

 

神の民イスラエルと私たちは、主なる神の御前に生きる者である。主なる神は、神の民イスラエルと私たちキリスト者のすべての御業を御存じです。そして、主なる神、キリストは審判者なる神である。主なる神、キリストの御前に神の民イスラエルとわたしたちキリスト者が隠すことのできる罪はない。私たちのすべての罪はあらわされ、主なる神の裁きの下に置かれる。

 

 

主日礼拝の順序に罪の告白と赦しの宣言がある。礼拝は主なる神、キリストの現臨の場である。「神の御顔の御前」は主なる神、キリストの現臨である。その時に私たちの罪が現われている。

 

ジュネーヴ教会信仰問答40           主の2022323                                                                                                                                       

聖書箇所:出エジプト記第204-6節(旧約聖書P126) 申命記第5810(旧約聖書P289)

 第二部 律法について

 第二三聖日

問143 第二の箇条に移りましょう。

 答 「汝、己れのために何の像も刻むべからず。上は天にあるもの、下は地にあるもの、あるいは地の下の水の中にあるものの何の形も刻むべからず。これを崇むべからず。また拝むべからず」。

問144 神は全面的に禁止して、何の像を描いても・刻んでもならないと言われたのでしょうか。

 答 そうではありません。神を模写し、また拝むために像を作るという二つの場合だけを禁じておられるのです。

145 神を目に見える形に表現することがどうしていけないのですか。

 答 霊でいまし、永遠であり、把握すべからざる御方と、物体であり、朽ちるものであり、生命なき像との間には何の類似もないからであります。 

                 申命記四・一五、イザヤ四一・七、ローマ六章以下、使徒行伝一七・二四―二五

146 したがって、神をこのようなやり方で表現すると、その尊厳を犯すことになるとあなたは考えるのですね。

 答 はい、そうのように思います。

147 ここで罪とされているのはどのような種類の崇拝ですか。

 答 刻んだ像、あるいは描いた像に向かって祈り、その前にひれ伏し、膝を屈め、またそれに尊敬を示すしるしを行なって、あたかもそこで神が私たちの前に表現されているかのようにすることです。

148 したがって、如何なる絵画も彫刻も、この御言葉によって一律に断罪されるというふうに理解すべきではなく、ただ神を尋ね求め、あるいは拝むため、あるいは同じことになりますが、神の栄光を拝む目的で像を作ること、あるいはまた、如何なる方法であれ、迷信のためまた偶像礼拝のために悪用することが禁じられているのです。

 答 まことにその通りであります。

149 さて、この項は何を目指すのですか。

 答 先の所では御自身が拝まれ崇めらるべき唯一の御方であると示されたように、今度は何が神を崇める正しい形式であるかが示され、これによって私たちは一切の迷信及び他のよこしまで肉的な作り事から呼び返されるのです。

 

ジュネーヴ教会信仰問答の第二三聖日、問143149と答において十戒の第二戒の解説を述べている。前回は、問140142と答において、十戒の第一戒の解説を学んだ。

 

第一戒は、主なる神が唯一礼拝すべきお方であり、主なる神にのみ栄光を帰し、他の神々に移してはならないことを学んだ。礼拝し、栄光を帰すべきお方は主なる神のみである。

 

今回の第二戒は、主なる神を礼拝すべき方法を教えているのである。主イエスは言われた。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:2324)

 

キリスト教会は、ユダヤ人から異邦人へと福音宣教を展開した。また、文字が読めない者たちに絵画と像を用いてカトリック教会は、礼拝と信仰教育を試みた。霊である神を、人の目で見ることが出来る絵画や像を用いて礼拝したのである。会堂の礼拝堂に飾られた絵画は、貧民の聖書と呼ばれた。

 

会堂内に画像が置かれ、第一戒と第二戒が合わせて、第一戒とされ、主イエスが命じられた神を「霊と真理をもって礼拝する」ことが軽んじられた。第二戒の偶像礼拝の禁止が軽んじられた。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、カトリック教会の十戒区分を捨て、第一戒と第二戒を独立させた。第二戒の復権は、改革派教会の特色である。神は霊である。だから、目に見えない、永遠の神を、人の目が見る偶像を神と礼拝することは、第一戒で禁じられている。

 

霊である神を、永遠に栄光ある神を、どのような方法で拝むのかが、第二戒が教え、目指していることである(149)

 

出エジプト記2046節と申命記第5810節は、十戒の第二戒、偶像礼拝の禁止である。神の民イスラエルが奴隷生活していたエジプトの国は、神として君臨していたファラオの多くの像が拝まれ、天と地と水の中にいる被造物の像が作られ、神々として礼拝されていた。主なる神は、霊であり、永遠の神であり、万物の創造者である。主なる神を、被造物と同一視するのが偶像であり、偶像礼拝である。それゆえに主なる神は第二戒で偶像を禁じ、偶像礼拝を禁じておられる。

 

ジュネーヴ教会信仰問答の問143と答は、第二戒の全文である。申命記第41540節において主なる神はモーセを通して神の民イスラエルに偶像礼拝に対する警告を告げられている。神の民イスラエルが主なる神を正しく礼拝する方法を教えている。それは、神の像を作ることの禁止である。主なる神は、「熱情の神」である。第二戒に違反する者は、神の怒りを招くことになる。

 

ジュネーヴ教会信仰問答の問144と答は、偶像と偶像礼拝の禁止を、神礼拝にのみ適用している。文学・芸術活動においてキリストを描くこと、キリストの十字架像を作ることを禁じてはいない。礼拝において神を模写し、偶像を作り、礼拝することを禁じている。

 

ジュネーヴ教会信仰問答の問145と答において神の偶像を禁止する理由を述べている。神は霊であり、永遠であり、人が把握できるお方ではないからである。その神を人の目で見る偶像で表現することは、主なる神を被造物に引き下げることであり、神の誉れを貶めることである。

 

それゆえジュネーヴ教会信仰問答の問146と答は、神の偶像と偶像礼拝が主なる神の尊厳を犯すことになる。問147と答は、カトリック教会で行われている偶像礼拝を述べて、罪であると断罪する。問148と答は、問144と答と関連している。絵画と彫刻が礼拝と祈りの対象に用いられることのみを禁じているのである。絵画と彫刻が芸術活動としてなされることを禁じてはいない。

 

 

改革派教会は、主イエスの命じられた礼拝を行うことに努力している。聖霊と御言葉による礼拝である。会堂の礼拝堂には説教台、聖餐卓、洗礼盤が置かれ、会衆席がそれを囲む。説教台に聖書が置かれ、礼拝で読まれ、解き明かしの説教がなされる。そこに目に見えないキリストの臨在を、わたしたちは信じるのである。礼拝堂には、十字架もキリストの像も絵画もない。