コリントの信徒への手紙二説教 18 主の20015年11月1日
わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。わたしたちは、あなたがたのところまでは行かなかったかのように、限度を超えようとしているのではありません。実際、わたしたちはキリストの福音を携えてだれよりも先にあなたがたのもとを訪れたのです。わたしたちは、他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません。ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、あなたがたを超えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。「誇る者は主を誇れ。」自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。
コリントの信徒への手紙二第10章12‐18節
説教題:「主から推薦された人」
今朝は、コリントの信徒への手紙二の第10章12-18節の御言葉を学びましょう。
コリント教会に偽使徒たちが入り込みました。パウロは、12節で彼らを「自己推薦する者たち」と非難しております。彼らは、コリント教会のキリスト者たちに「自分たちこそが真の使徒である」と自分を売り込んでいる者たちでありました。彼らは、パウロたちが労苦して開拓伝道したコリント教会に後から入り込んで、パウロたちが始めた働きを横取りし、自分たちの働きとして誇っていたのです。他人の働きの良い所取りして、それを自分の働きとして誇っておおりました。
パウロは、皮肉を込めて、「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません」と述べております。パウロにとって大切なことは、ただ自分の働きを誇り自慢することではありませんでした。パウロを異邦人たちの使徒に召されたキリストの僕として、だれもキリストの福音を聞いたことがない異邦人たちのところへ行き、キリストの福音を宣べ伝えることでした。パウロには、他人が労苦して開拓伝道した教会に後から入り込み、それをあたかも自分の働きで教会を大きくしたかのように自慢することに関心がありませんでした。
だから、パウロは偽使徒たちのように他の者たちと比較してコリント教会をどれだけ大きな教会したか、どれほど多くの者たちに洗礼を授けたかを、仲間同士で評価し合い、比較し合うことをしないし、愚かなことであると述べているのです。
どうして愚かなことなのでしょう。パウロにとって福音宣教は、神の御業であるからです。人の業ではありません。今日の言葉で言えば、営業活動ではありません。営業活動であれば、仲間同士で評価し合い、働きを比較し合うことは必要でしょう。ところが異邦人への福音宣教は、営業活動ではありません。主がパウロを召され、異邦人たちに遣わされ、主が与えられたコリント教会での働きを基にして、さらにパウロは遠隔地のローマ、イスパニアへと主に遣わされたいと願っているのです。
ですから、パウロがコリント教会のキリスト者たちにここで訴えたいことは、次のことです。パウロの異邦人伝道は主に定められた範囲内での宣教活動であるということです。
それが13節のパウロの御言葉です。「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る」ということです。パウロには偽使徒たちのように他の者たちの働きを横取りし、それを自分の働きであると際限なく誇ることに関心はありません。彼らのように自分たちの好みや能力を過信し、どこでもここでも教会のあるところに後から行って、他の者たちが始めた働きを横取りし、自分たちを誇るようなことに関心はありません。
だから、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに13節後半から14節で次のように述べています。「つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。わたしたちは、あなたがたのところまで行かなかったかのように、限度を超えようとしているのではありません。実際、わたしたちはキリストの福音を携えてだれよりも先にあなたがたのもとを訪れたのです。」
パウロのこの御言葉の背景は、使徒言行録の16-18章です。パウロの第2回伝道旅行です。その時パウロは小アジアで異邦人たちに福音宣教しようとしました。しかし、キリストの霊である聖霊はパウロの伝道を許されませんでした。トロアスでの幻を通して、聖霊はパウロをヨーロッパ伝道に導かれました。すなわち、マケドニアの町々、アカイアの町々の異邦人たちへの伝道に導かれ、第2回伝道旅行の最終地がコリントの町でありました。
そこからパウロの異邦人への伝道は、パウロたちが主から割り当てられた範囲内において異邦人たちに福音宣教の働きをしていたのです。主がパウロたちを遣わされた範囲内で、パウロたちは異邦人たちにキリストの救いをもたらす福音を告げ知らせていたのです。
だから、パウロはコリント教会のキリスト者たちに次のことを訴えています。パウロは、コリントの町で福音宣教した最初の使徒として、他の者たちの働きを横取りし、自分の働きとして誇ってはおりません。主から割り当てられたコリントの町で異邦人たちに福音宣教をしました。
パウロがコリント教会のキリスト者たちに願っていることは、15節でコリント教会のキリスト者たちの信仰の成長であります。そのためにパウロたちのコリント教会での働きが増えるように、願っています。パウロのこの願いの根拠は、コリントの町でのパウロたちの福音宣教が聖霊によってパウロたちに与えられた働きであるからです。パウロたちは、このように主が割り当ててくださった範囲内でのみ働くことを願っていました。
そして、パウロのローマの信徒への手紙を読みますと、パウロが16節で述べていることが真実であると分かります。ローマの異邦人たちに最初に福音宣教をしたのは、パウロたちではありません。他の者たちが伝道し、あちこちに家の教会がありました。パウロは、イスパニアへの伝道に協力してもらうために、ローマ教会のキリスト者たちに手紙を出しました。その手紙の中でパウロは、他の者たちが立てた土台の上に教会を立てることはしないと述べて、他の者たちの働きを横取りしようとしませんでした。彼には、自分を誇るという思いもありませんでした。
パウロは、コリントの信徒への手紙一の1章31節で「誇る者は主を誇れ」と述べていますが、ここでも繰り返して述べています。預言者エレミヤが預言した主の御言葉です。主に召され、主に遣わされた、主の僕パウロは、偽使徒たちのように自分を誇ることができませんでした。なぜなら彼は、自分で自分を使徒に推薦したのではなく、主が彼を使徒に推薦してくださったからです。
「主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです」というパウロの御言葉から、わたしたちは次のことを学ぶことができるでしょう。
第1に教会の職制は、主から推薦された人が適格者として就くということです。使徒、預言者、伝道者、牧師、長老、執事という教会の職制は、自己推薦する人ではなく、主から推薦された人たちが適格者として職に就くのです。
教会の職制は、まず主から召しがあります。そして主から召された者は、教会や中会における選挙を通して選ばれ、按手を授けられて、職に適格者として就きます。
第2に教会の職制は、神が割り当ててくださった範囲内の働きであります。たとえば牧師は、招聘された教会という範囲内の働きです。招聘された教会を超えて働くことはできません。長老も執事も選挙を通して選ばれた教会を超えて働くことはできません。たとえば中会と大会の働きは小会の議員としての働きであります。
第3にわたしたちは、主の召しに答え、上諏訪湖畔教会に招聘され、会員総会で承認された牧師を、主から推薦された人として受け入れ、その牧師が語る御言葉に従う義務があります。また召しに答え、長老候補者として立てられた者が会員総会で選挙され、当選し、按手を授けられれば、主から推薦された人として、長老の指導に従う義務があります。
パウロは、コリント教会のキリスト者に「主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです」と勧めることで、牧師、長老たちが主の働きをすることで、教会の信徒たちの信仰の成長をし、上諏訪湖畔教会を超えて、甲信地区の地域に、東部中会の地域に、そして大会の地域にと、キリストの福音が知らされることを願っているのです。ですから、小会、そして中会、そして大会という働きは、礼拝を通して、福音宣教を通してなされるのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、コリントの信徒への手紙二の第10章12-18節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
主イエス・キリストの召しにより、わたしたちの教会がこの諏訪の地にあることを心より感謝します。
キリスト教会が主の召しにより、主から推薦される人たちの僕としての働きにより形成されることを教えられ、感謝します。
どうか、わたしたちが主の定められた範囲内で、自らを誇るのではなく、主を誇り、主の働きに仕えさせてください。
わたしたちの信仰を成長させてください。わたしたちの教会だけでなく、甲信地区、東部中会、大会において福音宣教がなされるようにしてください。
願わくは、天に成るごとく、地にも成させてください。どうか主から推薦される人をわたしたちの教会から起こしてください。長老・執事候補者を起こしてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
コリントの信徒への手紙二説教 19 主の20015年11月8日
わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが、いや、あなたがたは我慢してくれています。あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けを取らないと思う。たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。そして、わたしたちはあらゆる点あらゆる面で、このことをあなたがたに示してきました。
コリントの信徒への手紙二第11章1‐6節
説教題:「キリストの献げられた教会」
今朝は、コリントの信徒への手紙二の第11章1-6節の御言葉を学びましょう。
先週パウロたちがコリント教会のキリスト者たちに、次のことを自慢したことを学びました。パウロたちは主から推薦された者として神に定められた範囲内での宣教活動をし、偽使徒たちよりも早くコリントの町に来て、最初に福音を彼らに伝えました。
それは、パウロたちが福音宣教し、開拓伝道したコリント教会を、キリストの花嫁としてキリストに献げるためでした。
ところが、パウロがコリント教会を去りますと、後から偽使徒たちが入り込みました。彼らはパウロがコリント教会のキリスト者たちに宣べ伝えた福音とは異なる福音を広め、聖霊とは別の霊を授けました。だから、パウロはコリント教会のキリスト者たちが偽使徒たちによって心を汚されているのではないか、という懸念を持ったのです。
それゆえパウロは、父親のようにコリント教会のキリスト者たちを心配しました。それがパウロの11章1‐3節の御言葉です。
パウロは11章1節で「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。」と述べています。パウロは、父親が結婚する娘を心配するように、コリント教会のキリスト者たちを心配しています。
どうか、パウロの皮肉な文章にあまり引きずられないでください。文章は確かに皮肉に満ちていますが、パウロの心は結婚する娘を思いやる父親の心に満ちているからです。結婚する娘に、「悪い虫はついていないか」と心配する父親は、娘から「馬鹿ね、お父さん」と言われるでしょう。それが、コリント教会のキリスト者たちに「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。」と述べているパウロの心情であります。
パウロたちの福音宣教を通してコリントの町にコリント教会が生まれました。まさにコリント教会はパウロの娘であります。彼は、コリント教会をキリストに献げました。
パウロは、コリント教会のキリスト者たちに2節で「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています」と述べています。
パウロは出エジプト記20章を心に留めて、語っています。主なる神はイスラエルの民を奴隷の地エジプトから救い出し、シナイ山へと導き、そこで会見し、彼らにモーセを通して十戒の板を授けられました。その十戒の第2戒において主なる神はイスラエルの民に「わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である」と宣言されました。それが、パウロがここで言う「神が抱いておられる熱い思い」であります。
パウロは2節後半で「わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた」と述べていますね。パウロの時代、父親は娘の結婚を取り決め、そして、娘が無事に一人の男と結婚式をし、夫婦生活をするまで娘が純潔であるように配慮しました。それが父親の役割でありました。
世の父親ように、パウロは霊の父として役割を果たして来ました。すなわち、パウロは、娘、コリント教会のキリスト者たちの純潔を守りました。パウロはコリントの町で福音宣教し、コリント教会のキリスト者たちを自分の娘のように育て、彼らが信仰の純潔を守って、キリストの花嫁となるように配慮しました。
ところが、パウロがコリント教会を去りますと、偽使徒たちがまるでエデンの園で蛇がエバを誘惑したように、コリント教会のキリスト者たちを巧みな言葉で誘惑し、異なる福音へと誘い、コリント教会のキリスト者たちの信仰の純潔を汚していたのです。
パウロは、3節で「ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」と述べていますね。
旧約聖書の創世記第3章に人間の罪と堕落を記しています。エデンの園で蛇が現れ、エバを罪に誘惑しました。エバは、蛇の巧みな言葉に欺かれて、主なる神が夫アダムに「食べるな。食べると必ず死ぬ」と命じられた善悪を知る木の実を取って食べてしまいました。こうして無垢の人間が罪に汚れました。
同様のことを、パウロは父親として心配しています。偽使徒たちが言葉巧みにコリント教会のキリスト者たちを欺いて、彼らの心を汚し、「キリストに対する真心と純潔からそれてしまうのではないか」ということを、です。すなわち、コリント教会が堕落するのではないかという心配です。キリストへの忠誠と従順とを捨て去るのではないかと、パウロは父親のように心配しているのです。
パウロの心配、あるいは懸念は、無理からぬことでした。コリント教会には悪い兆候がありました。それがパウロの4節の御言葉であります。
実際にパウロの後から偽使徒たちがコリント教会に来ました。彼らは、パウロたちが宣べ伝えた福音と異なる福音を語りました。パウロたちが伝えたキリストとは違うキリストを語りました。聖霊とは別の霊を語りました。しかし、コリント教会のキリスト者たちは我慢していました。そして偽使徒たちに黙って従っていたのです。こうしてコリント教会のキリスト者たちは、蛇に誘惑されて不品行の罪に陥ったエバと同じになってしまうのです。
偽使徒たちは、「大使徒」、すなわち、エルサレム教会の柱であるペトロ、ヨハネ、そして主イエスの弟であるヤコブから遣わされて、コリントに来たと大ボラを語っていたのでしょう。トラの威を借りる狐のように、大使徒たちの権威を借りて、彼らは、コリント教会のキリスト者たちにユダヤ人たちの習慣や祭を守るように教え、信仰に加えて善き行いが必要であると教えていたのでしょう。
パウロは、偽使徒たちの偽りの権威をはぎ取るために、5節で「あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けを取らないと思う」と述べています。
これは、パウロがコリント教会のキリスト者たちに皮肉を述べているのではありません。むしろ、偽使徒たちに、パウロが皮肉を言っているのです。パウロは、大使徒たちと同じようにキリストによって使徒に任命された者です。だから、彼は堂々と大使徒たちにエルサレムで会見しました。そして、パウロはガラテヤの信徒の手紙で大使徒ペトロの間違いを堂々と非難しています。ペトロが異邦人たちと交わっていたのに、ユダヤ人キリスト者たちがやって来ると、彼らの批判を避けるために、異邦人との交わりをしなくなりました。パウロは、率直にペトロの行動を間違いであると非難しました。
偽使徒たちは弁舌のさわやかな者たちであったと思われます。彼らにすれば、パウロの話しぶりは素人でありました。パウロは文章には優れていましたが、実際に講壇で説教をすると、話術を期待した者たちは失望したでしょう。世の哲学者のように、あるいは政治家たちのように雄弁、能弁で話せなかったからです。
だが、パウロは、おそらく偽使徒たちに向かって「話し振りは素人でも、知識はそうではない」と皮肉を言いました。
世の演説家のように、聞く者たちを魅了しようと、聖書の知識、神の知識がなければ、福音宣教は無意味です。聖書のこと、神のこと、キリストのこと、聖霊のこと、罪のこと、救いのこと、世の終わりのこと、御国のこと、聖書が教える真理を、福音宣教を通して知識として、聞く者に伝えるのでなければ、意味がありません。そのことを、パウロはどこでも、ここでも、あらゆるところで示してきたのです。
今朝のパウロの御言葉から、わたしたちは、次の3つのことを学びましょう。第一にパウロは神によって任命されたキリストの使徒であることです。彼は神に任命されたキリストの使徒として、コリント教会のキリスト者たちに真の福音を語り、真のキリストを伝え、パウロの福音宣教を通して真の聖霊がコリント教会のキリスト者たちに与えられました。
第2にパウロが使徒の全権を持っているということは、彼の福音宣教が神の真理であることを保証しているということです。
第3にパウロは、コリント教会のキリスト者たちにこのような形で自分の愚かさを誇り、彼らにパウロたちに付くのか、偽使徒たちに付くのかを決断させ、パウロが宣べ伝えた福音とは異なる福音を捨てるように要求しました。
コリント教会のキリスト者たちは、神が任命されたキリストの使徒であるパウロが語る福音宣教を通してでなければ、唯一の、真実の福音を持つことはできませんでした。
今日、パウロのような使徒は存在しません。代わりに神の御言葉である聖書をわたしたちの教会は与えられ、キリストはその聖書を説き明かす者を牧師、教師として立てられています。彼は、召しと教会の招聘を通してキリストに立てられた牧師、教師として聖書を説き証し、福音を宣べ伝えています。そして彼が伝えるキリストは、聞く者たちが議論する者ではありません。キリストの愛を伝えます。罪人のために御自身を十字架にささげられたキリストを伝えます。罪から離れ、神の永遠の命の交わりに帰れと呼びかけてくださるキリストを伝えてくれるのです。彼は、十字架のキリストの愛を伝えて、聞く者たちに「あなたがたにとって赦されない罪はない。だから、ここを兄弟姉妹たちが互いに愛し、愛される場にしなさい」と呼びかけてくださるキリストを伝えてくれるのです。これがここでパウロが言っています「話し方は素人でも、知識はそうではない」というところの「知識」なのであります。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、コリントの信徒への手紙二の第11章1-6節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
使徒パウロについて学ぶことができて感謝します。使徒パウロが知識を通して語る福音を知ることができて感謝します。
聖書の御言葉を説き明かす者をお与えくださる主に感謝します。わたしたちは、あなたが遣わされた牧師、教師が語る福音を通してキリストを知り、キリストの十字架の愛と罪の赦しを知りました。感謝します。
しかし、この世にはわたしたちの目を、キリストから、福音から逸らさせるものがたくさんあります。教会で語られる福音とは異なり、キリストとは異なるものがあり、異端がはびこっています。
どうか、わたしたちがエバの過ちに陥ることがないように、多くの誘惑と間違った教えからお守りください。
クリスマスが近づいています。愚直に聖書が語るキリストを、わたしたちが世の人々に、家族に伝えさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
コリントの信徒への手紙二説教 20 主の2015年11月15日
それとも、あなたがたを高めるために、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません。なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存知です。
わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最後を遂げるでしょう。
コリントの信徒への手紙二第11章7‐15節
説教題:「重荷を負うパウロ」
今朝は、コリントの信徒への手紙二の第11章7-15節の御言葉を学びましょう。
ここでもパウロは、コリント教会のキリスト者たちに皮肉を述べています。7節のパウロの皮肉は、逆説であります。パウロは、コリント教会のキリスト者たちに言いました。「あなたがたを高慢にするために、自分は弱腰になり、気落ちして神の福音を無料で、売り物にしないで、一生懸命に、自給自足で告げ知らせました。それゆえわたしは罪を犯した、すなわち、不正をしたことになるでしょうか。」
このパウロの皮肉は、コリント教会のキリスト者たちをただ非難する言葉ではありません。彼がコリントの町で福音宣教し、コリント教会を建て上げるためにどんなに労苦してきたかを物語る言葉です。そうすることで、パウロは彼の敵対者である偽使徒たちとの際立った相違を、コリント教会のキリスト者たちに理解させようとしています。
パウロは、偽使徒とは違い本当に謙遜の人でありました。だから、「あなたがたを高めようとして自分は弱腰になり、無料であなたがたに神の福音を売り物にしないで告げ知らせた」のです。「無報酬で」とは「無料で、自由で、売り物にしないで」という意味です。
パウロは、フィリピの信徒への手紙第2章3節で、次のように彼の理解するキリスト者の謙遜について述べています。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意しなさい。」
パウロは、この謙遜を神が人となられたキリストに学びました。だから、パウロはコリント教会のキリスト者たちを「自分より優れた者と考えて高め、自分はへりくだり、人の目には弱腰と思えるように接し」ました。
パウロは、常にキリストに倣って生きていたのです。だから、彼はキリストがへりくだりによってまるで罪を犯し、不正をした者のようにゴルゴタの道を歩まれたように、彼もへりくだりのゆえにコリント教会のキリスト者たちに、まるで自分が罪を犯し、不正をしたかのように裁かれなければならないのかと問うているのです。
このパウロの問いに、キリストがパウロを異邦人の使徒として召し、コリント教会に遣わされたのだという真実があり、パウロとキリストは謙遜において一致しているという事実が証明されているのです。
パウロの皮肉な言葉に囚われるのではなく、パウロが見ているキリストの謙遜を、コリント教会のキリスト者たちと今この手紙を受け取っているわたしたちは信仰をもって見なければなりません。それが教会に遣わされた者が本当に良き羊飼いか、それとも偽の羊飼いかを見分けることになります。そして、真の羊は良き羊飼いの声を聞き従うので、そこに一つのキリストの体なる教会が立ち上がるのです。
次に8-11節のパウロの御言葉です。一見人に誤解を与える言葉です。「他の教会からかすめ取るようにしてまで」も、パウロは自給自足でコリントの町で福音宣教し、コリント教会のキリスト者たちには生活費の負担をかけないように奉仕したと述べています。
パウロは、エルサレム教会の貧しいキリスト者たちを支援するためにコリント教会のキリスト者たちに熱心に募金をお願いしました。ところが、コリント教会のあるキリスト者たちがパウロはその募金をかすめ取っていると心ない非難をしたのです。パウロは、それを逆手(さかて)にとって自分は自給自足で福音宣教し、コリント教会のキリスト者たちに生活の負担をかけないで奉仕してきたと述べました。
パウロは、コリント教会のキリスト者たちに彼の生活費の負担をかけないように、コリントの町に最初来たときには天幕造りの仕事をし、自分の生活費を得ました。そして、マケドニア州の諸教会、すなわち、フィリピ教会、テサロニケ教会等がパウロの伝道を支援するために献金を献げました。生まれたばかりの貧しい教会の支援で、パウロはコリント伝道をし、コリント教会で奉仕していました。
ここでもパウロは、キリストのガリラヤ伝道を模範にしていました。キリストは、王や富める者たちの援助でガリラヤ伝道をされていませんでした。貧しい婦人たちが献げ物をし、キリストに奉仕し、また徴税人のマタイのような人々やキリストに重い病気を癒された者たちが食事に招きました。文字通りの自給自足ではありませんが、キリストは貧しい人々に支えられて、ガリラヤ伝道をされていました。
パウロの目は、キリストに向けられています。だから、彼はマケドニア諸教会の貧しいキリスト者たちの献金に支えられ、コリント教会で自給自足の伝道と奉仕ができることを、真実心から感謝していたのです。そして、彼の誇りがアカイア地方での伝道と諸教会での彼の奉仕で妨げられることはないとパウロが述べていますのは、彼の自給自足の伝道が妨げられることはないという意味であります。
パウロは、どんなに生活費に困窮しても、キリストの自給自足でという原則に常に従っていたのです。
わたしは、神戸改革派神学校で神学生として学んでいましたとき、ちょうどわたしが生まれた前後に神学校を卒業し、地方で開拓伝道されていた松田一男先生から組織神学を学びました。先生の教え方はとてもシンプルで、ベルコフの組織神学という英書を翻訳し、それにご自身が学ばれたことをコメントするというものでした。先生はベルコフに岡田稔先生とマレーとバンティルの見解を加えて、教えておられました。先生の授業で面白いのは、脱線したお話です。わたしたちに、ある日、先生は「塩をなめてでも伝道しなさい」と言われたことがあります。どんな文脈でそのように言われたのか、今では定かではありませんが、伝道者の伝道の基本は自給自足であると言おうとされたのではないかと、今では思っています。
神学校を卒業し、今年で34年を迎えています。幸いに「塩をなめて伝道する」という貧しさを体験することはありませんでした。それでもわたしの伝道者としての4分の3は伝道所での宣教教師としての働きでした。地方の小さな教会で経済的独立を目指して働いて来ました。その時にいつでも思い起こすのは、松田一男先生の「塩をなめてでも伝道せよ」という言葉です。どんなところで伝道していても、伝道者として自給自足で伝道することを忘れてはいけないと、その言葉を思い出すために、わたしは心に刻み込んでいます。
パウロは、伝道者として自給自足で、とこの原則を貫くのですが、コリント教会のキリスト者たちの中には、「パウロ先生は、わたしたちを愛していなので、そのようにかたくなになっておられるのではないか」と思ったのでしょう。彼らの言葉を、パウロは背景にして11節で、「わたしはあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存知です。」と述べています。パウロの自給自足を、パウロがコリント教会のキリスト者たちを愛していないからだと誤解する者がいたのでしょう。
パウロは、パトロンの援助を欲しませんでした。キリストのごとく貧しい者たちの献金によって支えられることを願ったのでしょう。
12節でパウロは、コリント教会のキリスト者たちに今後も自給自足の伝道と奉仕を続けることを述べています。パウロが続けるのは、コリント教会のキリスト者たちを愛していないからではありません。偽使徒たちがコリント教会で活躍する機会を断つためでした。
サタンの手先である偽使徒たちは、大使徒たちの推薦状を見せて、コリント教会に入りこみ、教会の豊かなキリスト者たちをパトロンにしていました。大使徒たちの威厳をチラつかせ、自分たちも立派な使徒たちであると振舞いながら、本当はお金や名誉がほしいのです。偽使徒たちは、キリストに倣っているのではありません。サタンに仕えているのです。彼らはずる賢い働き手ですから、コリント教会のあるキリスト者たちには、彼らはパウロ以上の使徒たちに見えたのです。
しかし、パウロは、自分の原理原則を変えようとは思いません。パウロの目は常にキリストに、偽使徒たちの目は常にサタンの誘惑に向けられています。この世に向けられています。
パウロは、偽使徒たちの賢さと巧妙さを知り、コリント教会のキリスト者たちに弁明はしません。しかし、彼の目はキリストに向けられ、キリストの再臨と最後の審判に向けられています。だから、パウロの信仰の目には、偽使徒たちの最後の滅びが見えているのです。
キリストは、世の終わりを告げられました。大地震が起こり、戦争が起こり、地球全体に愛が冷め、偽預言者が現れ、偽キリストが現れ、教会とキリスト者たちに大迫害が起こります。そして、福音が世界の果てまで宣べ伝えられます。そして、キリストの再臨が来ます。
パウロの信仰の目は、そこに向けられています。そして、パウロは、コリント教会のキリスト者たちを、そして、今この手紙の読者であるわたしたちを、再臨のキリストへと向けしめるのです。偽使徒たちと彼らに組する者たちへのパウロの容赦のない厳しさと、使徒として自分の立場と福音宣教のために自給自足で働くパウロの熱情は、再臨のキリストへと向けられているのです。パウロは、今のわたしたちにも語ります。「今の世も偽キリスト、偽使徒、偽キリスト者は、わたしたちの教会に現われる。われわれは常にわたしのようにキリストに目を向けなさい。偽キリスト、偽使徒、偽キリスト者に、すなわち、異端の者たちの甘く優しい声に注意しなければならない。だが、安心せよ。キリストは再臨される。その時に再臨のキリストは、偽キリスト、偽使徒、偽キリスト者を、この世の異端者らを彼らの業に応じて裁かれる」。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、コリントの信徒への手紙二の第11章7-15節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
使徒パウロが常にキリストに目を向けて、キリストの謙遜に倣い、キリストの自給自足の伝道の原則に従い、教会の中に異端者たちが現れても、再臨のキリストに目を向けて、その裁きに委ねることができたことを学ぶことができて感謝します。わたしたちも、使徒パウロのように常にキリストに、信仰の目を向かしめてください。
地方の小さな教会です。政治的独立をしてはいますが、経済的独立は難しい状況にあります。主イエスやパウロにわたしたちの心を向けて、神の摂理に委ねて、空の鳥と野の花を養い、装われる神が、わたしたちの教会を養ってくださると信じさせてください。
この世に現われ、教会に現われる異端者たちから、わたしたち信仰と教会をお守りください。サタンも天使を装い、異端者も立派なキリスト者を装いますので、彼らの甘い優しい声に欺かれないようにしてください。キリストが遣わされた良き羊飼いの声にわたしたちが従うことができるようにしてください。
クリスマスが近づいています。パウロの語るキリストを、十字架と復活のキリストをわたしたちが世の人々に、家族に伝えさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
コリントの信徒への手紙二説教 21 主の2015年11月29日
もう一度言います。だれもわたしを愚か者と思わないでほしい。しかし、もしあなたがたがそう思うなら、わたしを愚か者と見なすがよい。そうすれば、わたしも少しは誇ることができる。わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです。わたしも誇ることにしよう。賢いあなたがたのことだから、喜んで愚か者たちを我慢してくれるでしょう。実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています。言うのも恥ずかしいことですが、わたしたちの態度は弱すぎたのです。だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上を漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。
誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存知です。ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。
コリントの信徒への手紙二第11章16‐33節
説教題:「使徒としてのパウロの労苦」
今朝は、コリントの信徒への手紙二の第11章16-33節の御言葉を学びましょう。
パウロは、コリント教会のキリスト者たちに16節の冒頭で「もう一度言います。」と述べて、「だれもわたしを愚か者と思わないでほしい。」とお願いしています。
既に学びました11章1節でパウロは、コリント教会のキリスト者たちに次のように述べました。「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。」。
パウロは、偽使徒たちや彼らの影響下にありますコリント教会のキリスト者たちに彼の使徒としての立場を弁明するために、もう一度自ら愚か者のように自分を誇ることを許してほしいと訴えています。
パウロは、コリント教会のキリスト者たちに今、愚か者として語り、自分を誇ろうとしています。
そこでパウロは、17節で次のように述べています。「わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです」。パウロのこの言葉から分かりますように、教会の中で、人前で自分を誇ることは、主イエスの御心には適わないことです。パウロは、そのことをよく知っています。
それでもパウロは、あえてコリント教会のキリスト者たちに次のように述べています。「あなたたちが自分を愚か者と見て、批判しても、自分は偽使徒たちの影響下にあるあなたたちを正しい立場に戻すために自分のことを誇ることができる」と。
コリントの信徒への手紙一で学びましたように、コリント教会においては自分を誇り、自分を賢い者であると自惚れることは、日常茶飯事でした。彼らは、この世の人々と同じように自分を誇りました。
ですから、18節の「多くの者が肉に従って誇っている」とは、コリント教会のキリスト者の現状であります。彼らは、この世の基準に従って自分を誇りました。
しかし、パウロは愚か者となり、自分を誇ることで、偽使徒たちや彼らに影響されている者たちの誇りとパウロの誇りが根本的に異なるものであることを明らかにしようとしました。
19節の「賢いあなたがたのことだから、喜んで愚か者たちを我慢してくれるでしょう」と、パウロはコリント教会のキリスト者たちに呼びかけています。このパウロの言葉は、皮肉です。コリント教会のキリスト者が自分たちを誇り、自分たちを賢い者であると自惚れていることは、彼らの悪徳でした。彼らは、この悪い習慣をなかなか改められませんでした。だからパウロは、18節で「多くの者が肉に従って誇っている」と彼らの罪を指摘し、19節で「喜んで愚かな者たちを我慢してくれるでしょう」と彼らが自分たちの悪い習慣から離れられないことを指摘しています。
それによってコリント教会は、実際に悲惨な状態に陥っていたのです。すなわち、コリント教会は自分たちを誇る偽使徒たちによく我慢することで、次のように悲惨な状態に陥っていると、パウロは彼らの悲惨さを次のように列挙しています。
第1に「奴隷されている」ことです。偽使徒たちの誤った教えで、彼らの自由が奪われました。第2に「食い物にされた」ことです。彼らは間違ったことを教える偽使徒たちの生活費を支えました。第3に「横柄な態度に出られても」我慢していました。10章5節でパウロは、「神の知識に逆らうあらゆる高慢」ということを述べています。これは、「人間的知恵がもたらす高ぶり」のことです。偽使徒たちは、その高慢さでコリント教会のキリスト者たちに接しました。第4に偽使徒たちに「顔を殴りつけられても」我慢していました。コリント教会のキリスト者たちは、奴隷の身分の者たち多くいました。偽使徒たちは彼らに暴力を振いました。彼らは暴力に慣れていました。
パウロの目には、今のコリント教会は、キリストが命じられた「互いに愛し合いなさい」という状態からほど遠かったのです。コリント教会のキリスト者たちは、パウロの愛する子供たちです。だから、パウロには彼らの悲惨さを口にするのも恥ずかしいことでした。彼らは偽使徒たちから不当な扱いを受けてもそれに甘んじ、彼らの傲慢な態度に耐え、しかも偽使徒たちの生活費の面倒まで見ていました。どんなにパウロは、親として自分を情けなく思ったことでしょう。不肖の子を見て、親がもっと厳しく育てるべきであったと反省するように、パウロはコリント教会のキリスト者たちに「自分たちの態度は弱すぎたのです」と告白しています。
そして、親が不肖の子を助けるためであれば、わが身を顧みないように、パウロも愛する子たちを、偽使徒たちの影響下から助け出すためであれば、自分は親のようになりふりかまわず愚か者になって自分を誇り、偽使徒たちと対決することを決意しています。
22節から29節は、パウロが自分を誇る目録であります。パウロが自分を誇るのは、自己賛美が目的ではありません。偽使徒たちの誇りを、コリント教会から一掃しようとしています。
彼らが「ヘブライ語を話せるヘブライ人である」と誇れば、パウロも同じようにヘブライ語を話せるヘブライ人であることを誇りました。彼らがイスラエル人でアブラハムの子孫であり、神に選ばれた神の民イスラエル人であり、アブラハムの約束の子孫であることを誇れば、パウロも同じであると誇りました。誇ることで、パウロは偽使徒たちと同じ立場にあることを明らかにしました。
ところが、偽使徒たちが「自分たちはキリストに仕える者である」と誇りますと、パウロは、まるで気が狂ったように言いました。「わたしだって彼ら以上である」と。パウロはキリストに召されて、異邦人の使徒となり、コリントまでキリストに遣わされました。そして、福音宣教を通して小アジアとギリシアの各地に教会を建て上げて来ました。パウロが使徒として労苦したことは偽使徒たちよりもずっと多いことを次々と誇っています。
彼の誇りは、偽使徒たちの誇りとは違いました。なぜなら、彼の誇りには自分を義とする思いはありません。また、自分の業績を誇ることもありません。パウロは、使徒としての数々の労苦を誇りました。苦難を誇りました。キリストの御苦しみにあずかることを誇りました。それによって彼は、真にキリストの遣わされた使徒であることを証ししています。
パウロの使徒としての労苦は、十字架の道を歩まれるキリストの御苦しみを辿るものです。キリストは御自身の民を救うために、十字架の道を歩まれました。彼は無実であるのにユダヤ人たちの不正の裁判を受けられ、異邦人のピラトの不正の裁判に耐えられました。罪無きお方なのに、ローマの兵士たちに鞭打たれ、ユダヤの民衆たちに辱められました。そして世界の罪と苦しみのすべてをキリストは十字架に担われました。キリストは、だれかが弱っているなら、御自身がその者の弱さを担われました。ペトロのつまずき、他の弟子たちのつまずきに、熱い同情の思いを持ち、彼らのために十字架の道を歩まれました。
キリストに従うパウロは、すべての教会の兄弟たちの苦難を、心配事を彼の身に負いました。つまずく兄弟がいると、キリストの熱情を、パウロは常に思い、コリント教会のキリスト者たちに対して心配りをしました。
30節でパウロは、彼が誇ることは、偽使徒たちと根本的に異なることを告白しています。「わたしは弱さにかかわる事を誇りましょう」と、パウロは述べています。パウロの誇りは、人間の誇りとは別のものでした。人間の誇りは、自分が強いこと、正しいこと、優秀なことを誇ります。それが偽使徒たちの誇りでした。ところが、パウロは自分の弱さを誇ります。キリストから遣わされた者は、パウロのように自分の弱さの中で自分がキリストに召され、遣わされたものであることを証しします。
だから、パウロは、コリント教会のキリスト者たちがどんなに罪深くても、彼らとの交わりを断とうとは思わないのです。むしろ、自分を誇るという罪にとらわれ、悲惨と苦しみの中にあるコリント教会のキリスト者たちと共に歩もうとしています。確かに今のパウロは、不肖の子を目の前にして、途方に暮れる親であるかもしれません。子に頼りにされてない親であるかもしれません。しかし、パウロは、信じています。自分の弱さの中にこそキリストの力があふれることを。
パウロがコリント教会のキリスト者たちに弱さの中にこそキリストの力があふれることを語るのは、彼がキリストの父なる神の御前に真実を語っていると証言しています。32節と33節は、その歴史的証明でしょうか。使徒言行録9章の出来事です。パウロがダマスコでアレタ王の代官によって逮捕され、命の危険がありました。ダマスコの町の人々の監視下に置かれ、パウロが自力で逃亡できる機会はありませんでした。その時に主がパウロの弟子たちを通してダマスコの町の城壁から籠でパウロをつり降ろし、彼は逃れることができました。パウロは逃げるという弱さの中でキリストがパウロを小アジアとギリシアへと遣わし、多くの異邦人たちにキリストの福音を伝えることができました。
パウロが偽使徒たちの言動を述べていませんので、どうして32節と33節にパウロがダマスコで命の危険に出会って、逃げたことを証ししているのか、わたしたちにはわかりません。だが、次のように考えれば、理解できるでしょう。偽使徒たちは、パウロがダマスコで殉教しないで、逃げたことを臆病者と非難していたのではないでしょうか。命の危険があれば、逃げる。しかし、人は逃げることを決して評価しません。卑怯であると言います。弱いと思うからです。だが、パウロはその弱さを誇るのです。その弱さの中にキリストの力が働き、パウロは命救われただけでなく、異邦人の使徒として数々の労苦がありましたが、多くの異邦人たちにキリストの福音を宣教し、小アジアとギリシアの各地にキリストの教会を建て上げることができました。
今も同じです。今のわたしたちにも、パウロとコリント教会のキリスト者たちの状況と同じです。「日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やされないでいられるでしょうか。」本当に教会は、牧師も信徒も弱らないではおれないのです。しかし、そこに常にキリストが共にいてくださいます。キリストは、弱いわたしたちを強めるために御言葉を通して、礼典を通して、そして、兄弟姉妹を通して、わたしたちを励まし、慰めてくださいます。本当にわたしたちの教会の弱い所にキリストの御力が働き、弱いわたしたちの内にキリストの恵みが働いたので、今もここに教会があり、わたしたちがキリスト者としてここに集まっています。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、コリントの信徒への手紙二の第11章16-33節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
使徒パウロが愚か者となり、自分を誇ることで、コリント教会のキリスト者たちとわたしたちが十字架のキリストに目を向けることができ、パウロがキリストのへりくだりに倣い、自分の弱さを誇ることで、わたしたちも強くあることの束縛から解放され、自分たちの弱さの中にキリストの御力を期待できる希望を与えられ、感謝します。
本日よりアドベントに入りました。神の御子、キリストが人の子として、貧しいヨセフとマリアの子として、この世に生まれ、飼い葉桶に寝かされ、弱い存在として、父なる神よりこの世に賜ったことを感謝します。御子の弱さの中で神の救いの御力が現され、十字架のキリストの死においてわたしたちの罪が赦されました。
どうか地方の小さな教会のクリスマスに、神のご栄光を見せてください。力なき教会とわたしたち信徒の中に御子を通しての父なる神の愛を現してください。
クリスマスに羊飼いと異国の3人の博士に御子の誕生の喜びが告げられたように、パウロがわたしたちに語る弱さの中に示されるキリストのご栄光を、わたしたちに信仰によって見せてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
コリントの信徒への手紙二説教 22 主の2015年12月6日
わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存知です。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存知です。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を誇るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それでそのために思い上がることがないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからです。
コリントの信徒への手紙二第12章1‐10節
説教題:「弱い時にこそ強い」
今朝は、コリントの信徒への手紙二の第12章1-10節の御言葉を学びましょう。
偽使徒たちをコリント教会から一掃するために、使徒パウロは彼らがコリント教会のキリスト者たちに誇っていたことを逆手にとって自らを誇りました。第1にパウロは、偽使徒たちが「大使徒」と呼んでいた使徒ペトロや使徒ヨハネ、そして主イエスの弟である使徒ヤコブたちと同様に、主イエスに召され、異邦人に遣わされた使徒であることを誇りました。第2にパウロは、使徒として偽使徒たち以上に数々の労苦をし、福音宣教を通してキリスト教会を建て上げてきたことを誇りました。
しかし、パウロは、偽使徒たちを一掃するためとはいえ、自らの強さを誇ることに、真実関心がありませんでした。むしろ、己の弱さの中で働いてくださるキリストを誇りたいと思いました。使徒として数々の労苦をしたのは、彼が弱い者であったからです。また、パウロがコリント教会のキリスト者たちを心配して、手紙を書いたのも、パウロが弱らないでいられなかったからです。そのたびにキリストがパウロを力づけてくださったのです。パウロがコリントの町で福音宣教し、教会を建て上げて以来、教会の内外におけるパウロの数々の労苦と恐れの中でキリストは、幻を通してパウロに「恐れるな。わたしは、あなたと共にいる。この町にはわたしの民が大勢いる」と励ましてくださいました。だから、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに11章30節で「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と述べました。
聖書が証言する罪人である限り、「人は誇らずにいられません」。パウロの12章1節の「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが」という独白には、パウロが強いられて誇るという意識があると思います。パウロにとっては益とはなりませんが、それでもパウロがこれから第3に彼の霊的体験と啓示について誇ることで、偽使徒たちと彼らに影響されたキリスト者たちの誇りをコリント教会から一掃できればと思い、パウロは彼の復活の主が見せてくださった霊的体験と神の啓示について語るのです。
パウロは、復活の主がパウロに見せてくださった霊的体験を、2節で「キリストに結ばれていた一人の人の」体験として語ります。パウロは、コリント教会のキリスト者たちに11章30節で「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と述べましたので、直接に自分の体験として誇ることを差し控えたのでしょう。
14年前に「第三の天」まで引き上げられたという体験です。使徒言行録の22章17節と18節でパウロはエルサレム神殿で祈っていた時に、この霊的体験をしたとエルサレムの町の民衆に証言しました。我を忘れた状態で、復活の主イエスにお会いしました。それを、ここでは「第三の天まで引き上げられた」と述べております。我を忘れた状態であったので、パウロには「体のままか」、「体を離れてか」、すなわち、彼の霊だけが主にであったのか、自分には理解できないと述べています。しかし、パウロは、「神がご存知です」と言うことで、神をパウロの霊的体験の証人に立て、彼のこの霊的体験が真実であると証ししています。
これは、パウロが回心した体験ではありません。彼の回心後にエルサレム神殿で彼が主にお会いするという霊的体験をしました。この体験は、パウロが主に召され、遣わされて異邦人たちに福音宣教することに関係していたようです。
パウロは、十字架の主イエスが主と共に十字架刑を受けていた一人の罪人に「あなたは今日、わたしと共にパラダイス(楽園)にいる」と約束された、その「楽園まで引き上げられ」ました。そこでパウロは、人が口にすることの許されない言葉、言葉では言い表せない言葉を耳にしました。このパウロの証言を聞いて、あるキリスト者たちは天国には天国語があると言う者がいます。しかし、別の者は、天使の語る言葉であると言います。なぜなら、楽園とは多くの天使たちが主に仕えて守っている楽園だからです。
パウロは、5節で自分を他人のように語り、彼の霊的体験を誇りましたが、今彼がコリント教会のキリスト者たちに誇るべきは、彼自身の弱さであります。それによってパウロは、二つのことを避けようとしています。第1に、パウロは真実を語ることで、聖書が証言する「誇ることは愚か者のすることである」という過ちを避けようとしています。第2にパウロの誇りを聞いて、パウロを偽使徒たちのように過大評価する者がいないように配慮することです。パウロが受けた数々の啓示は本当にすばらしいものでした。だから、主はパウロが高慢にならないように一つの刺を与えられました。
パウロは7節でその刺を、「サタンから送られた使い」と呼んでいます。それが具体的に何かは分かりません。ただパウロはガラテヤの信徒への手紙第4章14節で次のように「サタンから送られた使い」を証言しています。「わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。」
当然、パウロは異邦人たちへの福音宣教が妨げられないように、彼の身にある刺を、復活の主イエスに離れ去り、いやしてくださいと3度祈りました。文字通りパウロは、3度主の御名を呼び、いやしを祈ったのでしょう。それ以上何度もこの祈りを繰り返す必要はありませんでした。復活の主イエスは、パウロの祈りにすぐに答えられたからです。主は、パウロに短く簡潔に答えられました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と。この言葉を、パウロがいつ聞いたのか分かりません。分かっていることは、今なおパウロの耳にはこの主イエスのお言葉が聞こえているということです。
パウロは、ガラテヤの信徒への手紙3章1節で「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示されたではないか」と述べていますが、今朝のパウロの主の御言葉は、その御言葉と対になっていると、わたしは思います。わたしたちキリストの者の目の前に、日々イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示され」、そして耳の中に、日々「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と聞こえてくるのです。
このようにパウロが証言するように、パウロの体には異邦人たちに福音宣教するのに妨げとなる刺がありました。パウロは、福音宣教の妨げになるので、「サタンから送られた使い」と言ったのだと、わたしは思うのです。F・F・ブルースという有名な新約学者は、旧約聖書のヨブ記のヨブを例に挙げて、パウロの「サタンから送られた使い」をサタンの手下がキリスト者の霊的善のためにキリスト者の体を痛めつけることであると説明しています。神は、サタンの使いを用いてパウロを裁くためではなく、ヨブの例のようにパウロが恵みに成長し、よりよく効果的に使徒の働きができるようにしたのだと。優れた洞察ですが、パウロが自分の身をヨブと同じであると証言したところはどこにもありません。パウロの霊的成長よりパウロの福音宣教の視点から見る方が、わたしはよいと思うのです。
福音宣教の視点で主の御言葉を見てみますと、「わたしの恵みはあなたに十分である」とは、キリストの十字架の贖いであります。キリストの十字架の死によって、人の罪は完全に贖われました。パウロは、キリストの十字架によって神に罪を赦され、主に召されて、使徒として異邦人に遣わされ、福音宣教を宣教しました。それだけで、主は、パウロにご自身の恵みが十分であると言われました。
今朝よりわたしたちは、アドベントの第2週を過ごします。父なる神の御子キリストがわたしたちと同じように受肉し、この世に来てくださり、十字架の道を歩まれることを思い巡らしながら、日々を過ごし、20日のクリスマス礼拝とクリスマスの集いに備えようとしています。
天地万物を創造された神の御子キリストの全能の御力が十分に発揮され、わたしたちが罪から救われたのは、キリストの十字架によってです。キリストが小羊のように弱さの中で死なれた時です。
同じようにキリストは、わたしたちキリスト者の中に聖霊として宿ってくださり、弱いわたしたちを御自身の御力によって助けてくださいます。たとえば、キリスト者の祈りによって、聖霊はキリストの御力をお示しくださいます。わたしたちは、自分たちの弱さを知るゆえに、祈りによって主に助けを求めるのです。力が足りないから、主に助けをお願いします。主は、天で行われることを、地でも行ってくださいます。ご自身の御計画を、地で祈るわたしたちの祈りを通して実現してくださるのです。ですから、わたしたちは、パウロと共に弱さを誇りましょう。
パウロは10節で「教会の苦しみのリスト」を挙げて、使徒として「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」と述べているのです。
わたしは、パウロの言葉からこの世でキリスト者は、「わたしは弱いときにこそ強い」という、十字架のキリストが今わたしたちの内に御霊として宿られる恵みを学ぶべきだと思うのです。
実際にわたしたちの目にわたしたちと教会は、どのように映っているのでしょう。この世では、至るところに弱さがあり、人々の侮辱と様々な危険があり、常に行き詰まりの状態にあります。
しかし、パウロは十字架のキリストを内に宿すキリスト者とキリストが臨在される教会は、キリストのために満足すると言っています。キリスト者の地上の最後は死であります。しかし、わたしたちはキリストが死から復活されたように、死から新しい生命に甦ります。この世界の終わりにキリストが再臨され、神の御国が実現します。わたしたちの内にいますキリストが、わたしたちの救いを完成されます。だから、わたしたちはキリストのために満足できるのです。その満足がわたしたちの礼拝であり、わたしたちが日々主に感謝して生きる生活だと、わたしは思うのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、コリントの信徒への手紙二の第12章1-10節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
アドベントの第2週に入りました。どうか主が使徒パウロに答えられた、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という御言葉を、わたしたちが十字架のキリストに目を向けて常に思い巡らすことができるようにしてください。
神の御子、キリストが人の子としてこの世に来られ、十字架の死に至るまで弱いお方であられたことを、自分の弱さの恵みと強さとして理解させてください。
どうか今年クリスマスに、神のご栄光を見させてください。御子を通しての父なる神の愛に、わたしたちを出会わせてください。
わたしたちは、今弱さの中にあります。高齢化のために礼拝生活が困難な者があり、転居や介護でここに集まることのできない者がいます。どうか信仰によってキリストが復活されたように、わたしたちも新しい命の復活し、キリストの再臨によって御国に入ることの喜びを、今から聖餐式を通して見せてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
コリントの信徒への手紙二説教 23 主の2015年12月13日
わたしは愚か者になってしまいました。あなたがたが無理にそうさせたのです。わたしが、あなたがたから推薦してもらうべきだったのです。わたしは、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったからです。わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。あなたがたが他の諸教会よりも劣っている点は何でしょう。わたしが負担をかけなかったことだけではないですか。この不当な点をどうか許してほしい。わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。わたしが負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています。そちらに派遣した人々の中のだれによって、あなたがたをだましたでしょうか。テトスにそちらに行くように願い、あの兄弟を同伴させましたが、そのテトスがあなたがたをだましたでしょうか。わたしたちは同じ霊に導かれ、同じ模範に倣って歩んだのではなかったのですか。
あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。
コリントの信徒への手紙二第12章11-21節
説教題:「パウロの心遣い」
今朝は、コリントの信徒への手紙二第12章11-21節の御言葉を学びましょう。
さて、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに12章1-10節で愚か者のように誇りました。それで今、パウロは、それらを振り返り、「わたしは愚か者になってしまいました」と告白しています。しかし、それは、パウロの本心ではありません。だから続けてパウロは、コリント教会のキリスト者たちに言いました。「あなたがたが無理にそうさせたのです」と。
パウロは、彼がコリント教会のキリスト者に愚か者のように誇らせた責任が彼にあるのではなく、コリント教会のキリスト者たちにあると主張しているのです。なぜなら、偽使徒たちがコリント教会のキリスト者たちに推薦状を差し出して、彼らの権威を主張しましたとき、パウロはコリント教会のキリスト者たちにこの手紙の3章2節で「わたしたちの推薦状はあなたがた自身です」と伝えています。パウロがコリントの町で福音宣教し、キリストの群れであるコリント教会を建て上げました。ですから、パウロが使徒であることの推薦状はコリント教会のキリスト者たち自身でした。彼らが「わたしたちはパウロが真の使徒であり、彼には使徒の権威があり、資格がある」と証しすれば、偽使徒の問題は解決しました。
ところが偽使徒がやって来て、推薦状を差し出し、自分たちが真の使徒であり、パウロには使徒の資格がないし、彼はエルサレム教会への義援金を流用しているのではないかと非難しました。すると、パウロを推薦すべきコリント教会のあるキリスト者たちが偽使徒たちに同調してしまったのです。パウロが使徒であると推薦すべき正当な理由があるのに、コリント教会のキリスト者たちは偽使徒たちのパウロ批判を弁護してくれませんでしたし、パウロが使徒であると推薦もしてくれませんでした。だから、パウロは、愚か者のように自分を誇り、自己推薦しなければならないはめに陥りました
さらにパウロは、ここでも自分の弱さを誇ります。「わたしは取るに足りない者だとしても。あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったのです」と。パウロの内に働かれるキリストにより、パウロは自らを「大使徒」と自称する偽使徒たち以上に、使徒として数々の苦難に遭い、労苦しました。そのことは先週学びました。11章23-29節の御言葉です。
パウロは、今もコリント教会のキリスト者たちに「わたしが使徒であることをしるしや、不思議な業や、奇跡」で忍耐強く実証していました。この3つは、パウロが使徒であることのしるしでありました。キリストは、12弟子たちを宣教に遣わされたとき、彼らに使徒のしるしとして病気をいやし、悪霊を追い出す権威を与えられました。弱いパウロの内にキリストが働かれているだけではなく、パウロは主イエスの12弟子と同じように、主イエスがなされた奇跡を行うことが出来ました。
パウロが使徒のしるしとしての奇跡を、ここで論じている背後に、偽使徒たちが使徒のしるしとしての奇跡を行えることを誇っていたのではないでしょうか。しかし、彼らはキリストの苦しみを担うことをしなかったのでしょう。だから、ここでパウロは福音宣教を通して奇跡を行い、苦しみを担いコリント教会を建て上げた自分こそが真の使徒であることを実証しているのだと思います。
偽使徒たちがコリント教会のキリスト者たちに「君たちの教会は、真の使徒によって建てられたものではない」と主張していたのでしょう。パウロは、コリント教会のキリスト者たちに13節で他の教会に比較して、コリント教会が劣っている点は何かと述べています。パウロの言葉は相手に答を求めず、自分で答えています。それは、パウロがコリント教会のキリスト者たちの世話にならなかったということです。彼は、彼らに生活費の援助を負わせませんでした。この点でコリント教会は、他の教会に比べて劣っていると、パウロは述べて、コリント教会のキリスト者たちに「この不当な点を許してほしい」と懇願しています。
パウロのこの言葉を皮肉と取る人と、パウロが彼らへの信頼の足りなさを詫びたと取る人とがいます。この手紙の11章11節のパウロの言葉を参考にして、考えてみてください。わたしは思います。偽使徒たちは、パウロがコリント教会のキリスト者たちから援助を受けていないことを、次のように非難したと。「人は普通、自分の友人たちの援助を喜ぶものだ。援助を受けるのは相手を信頼しているからだ。パウロがあなたがたの援助を受けないのは、パウロがあなたがたを信頼してないからだ。まして愛してもいないだろう」と。
その非難に対してパウロは、明確に答えませんでした。彼は「神がご存じである」と述べました。ここでもパウロは、コリント教会のキリスト者たちに詫びていますが、彼らの世話にならなかったことを詫びているのであって、彼らを信頼しなかったこと、愛していないことを詫びてはいません。
むしろ、14-15節のパウロの言葉は、パウロはコリント教会のキリスト者たちをわが子のように愛しているのに、彼の愛が報われないことを嘆いています。
パウロは、コリント教会を近く訪問することを伝えます。3度目の訪問です。この訪問は使徒言行録には記録されていません。使徒言行録の18章と20章にパウロが2度コリントを訪れたという記録があります。3度目の訪問は、エフェソから短期間コリントを訪問したと考えられています。
パウロは、その訪問でもコリント教会のキリスト者たちから生活費の援助を受けないと述べています。その理由は、パウロの訪問の目的が偽使徒たちのようにコリント教会のキリスト者たちの持ち物ではなく、彼ら自身だからです。すなわち、パウロが願っているのは、彼らの所有物ではなく、彼らの救いでありました。
そこでパウロは、親が子を思う譬を用いて、彼がどんなにコリント教会のキリスト者たちを愛しているのかを伝えています。財産を蓄えなければならないのは親であり、子ではありません。パウロは、コリント教会のキリスト者たちの産みの親であり、育ての親であります。だから、コリント教会のキリスト者たちの救いのためであれば、喜んで自分の持てる物を使い果たし、自分の身をすべて彼らのためにささげる覚悟でした。それほどのパウロは、彼らを愛しているのです。ところが、「親の心子知らず」です。彼らは偽使徒たちに言いくるめられ、パウロが自分たちの援助を受けないのは、自分たちを信頼し愛していないからであると思い、パウロを非難したのでしょう。
パウロは、彼らの非難を意に反しませんでした。それでも良いと思いました。実際にパウロは、彼らの親として、子に負担をかけることをしていなかったからです。
ところが、彼らは別の非難をパウロに浴びせました。すなわち、彼らは「パウロは悪賢い。わたしたちから献金をだまし取っている」と非難しました。すなわち、パウロは悪賢くて、エルサレムの信徒のための献金をまきあげているのではないかと非難していたのでしょう。
パウロは、彼らの非難に対して次のように弁明を試みています。パウロは、弟子のテトスをコリント教会に遣わし、コリント教会のキリスト者たちにエルサレムの信徒のための献金を訴えさせました。そして、テトスはコリント教会の一人の兄弟を伴い、エルサレムまで献金を届けました。そこでパウロは彼らに問うているのです。「あなたがたはテトスが献金をだまし取るのを見たのか」と。なぜなら、不正があれば、同行した一人の兄弟が見ているはずであるからです。
さて、19節から21節は、パウロがコリント教会を3度目に訪問するに際しての恐れ、または懸念を述べています。第1はパウロがこの手紙でいろいろと彼の弁明を述べたことです。コリント教会のキリスト者たちは、彼が自分たちに弁明していると誤解しているのではないかと思ったのです。
だから19節でパウロは、彼らにそのように問いかけました。そしてパウロは、次のように答えています。パウロの弁明は、コリント教会のキリスト者たちに対するものではなく、神に対してなされたと。なぜなら、パウロの弁明を裁くのは、コリント教会のキリスト者たちではありません。パウロを使徒に召し遣わされたキリストです。だから、彼は「神の御前で」、キリストに向かって弁明したのです。
第2にパウロのすべての弁明は、コリント教会のキリスト者たちを信仰者として造り上げるためでした。パウロの弁明は、偽使徒たちように己が真の使徒であると誇るものではありませんでした。コリント教会の信仰を正しく打ち立てるためのものでした。
第3にパウロは、コリント教会の信仰を正しく打ち立てるために、コリント教会のキリスト者たちの罪を糾弾し、罪の悔い改めを迫っています。
3度目の訪問を前にして、パウロには心配がありました。パウロとコリント教会のキリスト者たちがお互いを期待していることに相違があるのではないかということです。特にパウロは、コリント教会のキリスト者たちに対して失望するのではないかと恐れています。コリント教会がパウロの勧告に従ない結果、いろいろな罪が生じており、深刻な状態に出会うのではないか、とパウロが恐れているのです。またしてもコリント教会の中に不道徳な罪があり、その罪を悔い改めない者によって、パウロが悲しむことになるのではないかと、パウロは心配しています。
実は、パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに、テサロニケ教会のキリスト者たちに、すなわち、マケドニアにある諸教会のキリスト者たちにコリント教会のキリスト者たちを誇りにしていました。だから、パウロは、訪問してコリント教会が以前と変わらない不道徳な状態であれば、使徒としても彼らの父としても、神の御前で面目を失うことになると心配しているのです。
このようにコリント教会のキリスト者に対するパウロの心遣いを、わたしたちは学んだわけですが、ここから2,3の点を自分たちの信仰に生かすことが出来ればと、わたしは願っています。
第Ⅰに12節のパウロの忍耐強さです。パウロは自分が使徒であることを、忍耐強くコリント教会のキリスト者たちの前でしるし、すなわち、奇跡を行うことで実証し続けました。パウロに倣うことは、自分たちがキリスト者であることを、この世の人々に忍耐強く証しし続けることです。大変ですが、主の日の礼拝を守り続けることで、忍耐強くキリスト者であることを証ししていきましょう。
第2に18節の「わたしたちは同じ霊に導かれ、同じ模範に倣って歩」もうではありませんか。同じキリストの霊である聖霊に導かれ、同じキリストの模範に倣って歩もうではありませんか。聖霊は、聖書を通して導かれます。そして聖書にわたしたちが従うべきキリストが証しされています。キリストは、わたしたちが信じる神でありますが、わたしたちと同じ人となり、人としての生きる模範を示されました。キリストご自身が弟子たちに次のように約束されています。「わたしは柔和で謙遜な者であるから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば安らぎが得られる。」(マタイ11:29)。
第3にキリストの御言葉に聞き従うことで、教会を造り上げることです。19節です。パウロは、キリストに結びつき、彼の弁明によって、彼の弁明を聞くコリント教会のキリスト者たちの信仰を堅くしようとしました。コリント教会のキリスト者たちにパウロは、キリストに結ばれて語りました。彼は、コリント教会の罪を指摘し、不道徳な罪を犯した者に強く悔い改めを求めました。涙で悔い改めを求めたのです。わたしたちも、十字架のキリストの福音に耳を傾けるべきです。十字架のキリストがわたしたちの罪のために死なれたことを、繰り返し聞き、罪を悔い改めるべきです。キリストに罪を赦されたところに真実の、聖書的教会が建ち、そこにこそパウロが語りかける「愛する人たち」が聖霊によって造り上げられているのです。
神は、独り子イエスを通してこの世を愛され、聖霊と御言葉を通して「愛する人々」を教会において創造されます。神を愛し、人を愛する者を、です。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、アドベントの第3週を迎えました。神の御子キリストのご降誕を喜び祝わせてください。
今朝は、パウロの心遣いを通して、わたしたちキリスト者が心すべきことを教えられて感謝します。
パウロが使徒であることを忍耐強く証ししましたように、わたしたちもこの世において忍耐強く自分たちがキリスト者であることを証しさせてください。礼拝において、最後はわたしたち自身の葬儀において自分がキリスト者であることを証しさせてください。
聖霊と聖書に導かれて、キリストにどこまでも従うことができるようにお導き下さい。キリスト者の自己弁護は、人の前ではなく、キリストの御前でしています。再臨のキリストに向けて、わたしたちが日々を生きていることを常に心に留めさせてください。
どうか、わたしたちの心を柔和にし、へりくだらせてください。十字架のキリストのゆえにわたしたちは罪を赦され、神の御前に義とされ、神の子とされています。感謝しますと共に、なお、わたしたちはこの地上において罪の悔い改めの生涯を生きる者であります。常に心を主に向けて、主の光の中を歩ませてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
コリントの信徒への手紙二説教 24 主の2015年12月20日
わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語られておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方ではなく、あなたがたの間で強い方です。キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。
信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが・・・。わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行なうためなのです。わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。遠くにいてこのようなこと書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです。
終りに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。
コリントの信徒への手紙二第13章1-13節
説教題:「キリストがあなたがたの内におられる」
クリスマス、おめでとうございます。
今朝お読みしました御言葉は、コリントの信徒への手紙二第13章1-13節の御言葉です。今年は主の日の礼拝でコリントの信徒への手紙一と二を連続で説教しました。本日で終わります。
パウロは、この手紙の10章よりコリント教会のキリスト者たちに彼が使徒であることを弁明してきました。13章1-10節は彼の弁明の結びであり、11-13節は手紙の結びです。
パウロは弁明の終わりにコリント教会の3度目の訪問を伝えています。彼は、コリント教会のキリスト者たちに旧約聖書の申命記19章15節の御言葉を引用して、「すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです」と警告をしました。
その警告の意味は、パウロの3度目の訪問が相変らず不道徳な生活をしており、不服従の罪をなしているコリント教会のキリスト者たちの罪を確定し、使徒パウロの容赦ない裁きを受けることになるということです。
つまり、パウロは、使徒として、天国の鍵をキリストから委ねられています。コリント教会の驕り高ぶるキリスト者たちは彼に「あなたが使徒である証拠を見せなさい」と言っていたのです。そこでパウロは、次のように伝えました。彼の3度目の訪問で「わたしを通してキリストが語っておられる証拠を」、彼が使徒として罪を悔い改めない不道徳なキリスト者たちや不服従のキリスト者たちを厳罰に処し、教会から除名にすることで証しすると。
目に見えないからといってキリストは、無力ではありません。教会の中で天国の鍵を使徒たちに、そして後には長老たち、すなわち、小会のメンバーに委ねられ、彼らを通して罪を悔い改めない者たちや不服従の者たちを教会から除名し、そのことを通して、御自身の教会を力強く支配されています。
確かにわたしたちが見るキリストは、弱さのゆえにユダヤの官憲に捕らえられ、裁判にかけられ、異邦人の総督ポンティオ・ピラトの下で、死刑宣告を受け、十字架につけられて死なれました。しかし、3日目に神の御力により死人の中から復活されました。キリストは、復活した体で天に昇られましたが、聖霊を通して今キリスト者たちの内に生きておられます。だから、パウロは、次のように語るのです。洗礼によってキリストと結合されたキリスト者は、肉においては弱い者であるが、教会の中では罪に死に、神の御力により信仰を通して復活のキリストの命にあずかり生きているのだと。
パウロは、この命をコリント教会が常に自己吟味するように勧めています。教会の命は、信仰に生きていることです。教会員一人一人がこの教会で、自分たちがキリストの信仰に生きているか、また、キリストはわたしたちの内にいるだけでなく、この教会に臨在されていることを自覚しているのか、常に検討し、自己吟味しなくてはならないと、パウロはコリント教会のキリスト者たちに勧めています。
失格者とは、偽物という意味です。コリント教会のキリスト者たちの信仰が偽物であれば、自己吟味する必要はありません。パウロは、コリント教会のキリスト者たちに彼や彼の弟子のテモテ、そしてテトスの信仰が本物であることを知ってほしいと願っています。パウロのその願が、彼が本物の使徒、本物の信仰を持つことの証しです。おそらくパウロは、コリント教会のキリスト者たちのために「彼らが神の御心を為すよう」にと、執り成しの祈りをしていたでしょう。このようにパウロは自分のことよりコリント教会のキリスト者たちが神の御前に善を行なうことを祈り、願ったのです。
パウロ、テモテ、テトスは、本物の信仰者でした。だから、彼らは真理に逆らうことはできませんでした。むしろ、真理であれば殉教も覚悟していたでしょう。自分たちが弱くても、コリント教会のキリスト者が信仰から信仰へと成長する強さを喜びました。パウロたちはコリント教会のキリスト者たちに「完全な者となる」ことを祈りました。「完全」とは回復することです。教会に分派争いがなくなり、不道徳なキリスト者たちが罪を悔改め、コリント教会が健全に回復されるように、パウロたちは執り成しの祈りをしました。
パウロは自己弁明の最後にこの手紙の目的に触れています。どうして3度目の訪問でコリント教会のキリスト者たちを容赦しないと書いたのかを説明しています。それは、パウロの父の愛です。パウロにとってコリント教会はわが子でした。パウロたちが福音宣教を通して産み出した子供たちでした。パウロは、主イエスから使徒の職を委ねられたのは、コリント教会を壊すためではなく、育て、建て上げるためでした。だから、コリント教会の中から一人でも除名者を出したくはなかったでしょう。
わたしは、10節のパウロの「主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです」という御言葉から、「実に神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)というクリスマスメッセージが聞こえて来ます。
パウロは、この手紙を終えるにあたり、キリストにある喜び、愛、平和にコリント教会のキリスト者たちを招きます。詩編133編にダビデが「見よ、兄弟が睦まじく住むのは何と麗しく、快いことか。」と賛美し、「シオンにおいて、主は祝福を、永遠の命を与えてくださる」と主をほめたたえています。
この罪の世で、暗闇の世界で、争いがあり、弱肉強食で、強い者が弱い者を虐げ、力ない子供たちや老人たちは戦争の犠牲となり、経済的に豊かな国でも子供のころから競争があり、勝ち組と負け組に分けられ、普通の会社員ですらなれない若者があふれ、ネットにはまるで悪霊が闊歩しているように人を中傷する言葉があふれています。
どこに人が喜び、愛し、互いに励まし合い、平和に暮らせるところがあるでしょうか。その問いに、パウロが答えてくれます。教会だと。キリスト者の交わりである教会の中に、兄弟と呼び合うあなたがたの中に、喜びがあるではありませんか。この世の罪の世界から回復した者、完全な者がいるではありませんか。あなたがたは死も、この世の悲しみも、慰めと励ましを与えることができるではありませんか。神が人となりこの世に生まれたキリストは、弱さのゆえに十字架で死なれました。しかし、神の御力より三日目に復活されました。キリストを信じる者には復活と永遠の命が与えられています。だから、永遠の御国を思い、心を一つにできるのです。
これから一緒に聖餐式にあずかりましょう。どうか、パウロは言います。「信仰を持っているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」ウェストミンスター小教理問答問97も次のようにわたしたちに問いかけます。「主の晩餐をふさわしく受けるには、何が求められていますか。」答「主の晩餐にふさわしく参加したい人には、次の事が求められています。すなわち、主の御体をわきまえる自分の知識・キリストを糧とする自分の信仰・自分の悔い改めと愛と新しい服従について、自己吟味をすることです。それは、ふさわしくないままで来て、その飲み食いによって自分にさばきを招くといけないからです。」
あなたは、キリストがクリスマスに生まれられたのは、あなたを罪から救い、あなたが滅びることなく、永遠の命を得るためであったことを知っていますか。キリストはあなたにとって命であり、喜び、愛ですか。あなたは一生涯キリストに従いますか。そして永遠の御国へとこの途上の教会で兄弟たちと共に礼拝をし続けますか。「はい」と答えるお方は、聖餐にあずかるにふさわしい方です。どうか喜んであずかってください。あずかり、共にクリスマスを祝いましょう。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、クリスマス礼拝を兄弟姉妹たちと子供たちと守ることができて感謝します。神の御子キリストのご降誕を、御言葉と聖餐を通して喜び祝わせてくださり、感謝します。
今朝は、パウロのコリントの信徒への手紙二を学び終えることができて感謝します。
パウロが父として、コリント教会のキリスト者たちを愛する思いを通して、父なる神がこの世を愛され、御子をわたしたちに賜ったことを覚えることができました。
パウロの手紙の最後の挨拶に、この世における教会の祝福があることを知らされました。どうかわたしたちの教会も喜びと愛と平和、励まし合いと思いの一致をお与えください。
父、子、御霊なる神の祝福の中に2015年を過ごしました。どうか2016年も過ごすことができるようにお導きください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。