コリントの信徒への手紙一説教12        主の2014年5月4日

 兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。あなたがたはすでに満足し、すでに大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。
                    コリントの信徒への手紙一第4章6-8節

 説教題「へりくだることを学ぶ」
 使徒パウロは、コリント教会のキリスト者たちに、この手紙で4度目の「兄弟たち」と親しく呼びかけています(1章10節、2章1節、3章1節)。そして、1章10節より取り扱って来ましたコリント教会内における分派争いについての問題に決着をつけようとしています。

 パウロの呼び掛けには、コリント教会のキリスト者たちに対するパウロの心配りがあります。それが、この6節の「あなたがたのためを思い」というパウロのこの手紙の文面であります。

  パウロは、コリント教会のキリスト者たちへの心配りから、6節で「わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました」と書いているのです。
 
  パウロが「このように述べてきた」ことの内容は、3章5節から4章5節までで、パウロが述べていることです。
 
  そこでパウロは、自身と使徒アポロを例にして使徒とは何者かを語りました。パウロは植物を育てることをたとえに使い、自身は種をまく者、アポロは水を注ぐ者であり、植物を成長させるのは神であると語りました。
 
  次にパウロは、使徒とは主に仕える者であり、神の秘められた計画を委ねられた管理者であると語りました。そして、神に仕える者と神の秘められた計画を委ねられた管理者に、主キリストは忠実を要求されると語りました。
 
  さらにパウロは、コリント教会のキリスト者たちが使徒たちの優劣を争っていたのを見て、使徒たちは共に神のために働くキリストのしもべであることを教えました。
 
  ところで、パウロが自身とアポロの名を例にして、コリント教会のキリスト者たちに語りましたのは、パウロとアポロがコリント教会に居なかったからです。コリント教会の中では、使徒たちだけでなく、その後に来た教師たちについても、コリント教会のキリスト者たちが彼らの優劣を争っていたのでしょう。
 
  そうでなければ、パウロは6節後半に「だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないように」と、手紙に書かなかったでしょう。
 
  パウロは、今コリント教会の中で彼らの争いの種になっている伝道者や教師たちの名を避けて、コリント教会にいない自身とアポロの名に置き換えて、述べてきたのです。

 手紙の字面を読めば、コリント教会の中にパウロ派とアポロ派がおり、分派争いをしていたように、わたしたちは思います。

  ところが、パウロの手紙を注意深く読むと、わたしたちは次のことを容易に想像できるでしょう。コリント教会の中でキリスト者たちがパウロやアポロとは違う伝道者や教師たちのことで、「一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶっている」という問題が起こっていたと。

 そこでパウロは、「あなたがたのためを思い」、すなわち、コリント教会のキリスト者たちに心配りして、彼らがその争いの騒ぎから離れるように、また渦中の中にいる兄弟たちには恥をかかせないように、自身とアポロを例に出して、高慢にならないように戒めているのです。

 それほどまでにして、パウロがコリント教会のキリスト者たちに心配りして、この手紙を書く目的は何でしょうか。

 パウロは、6節で次のように述べています。「それは、あなたがたがわたしたちの例から、『書かれているもの以上に出ない』ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。」

 ここでパウロがコリント教会のキリスト者たちに願っているのは、16節でもっとはっきりとパウロが述べていますが、「わたしに倣う者」となってほしいということです。具体的にはパウロのようにへりくだることを学んでほしいのです。

  そのためにパウロは、二つのことを述べています。第1に「書かれているもの以上に出ない」ことです。第2に高ぶることがないようにすることです。
 
  パウロが、「書かれているもの以上に出ない」と言っていますね。わたしたちは毎日聖書を読みますね。すると、よく「・・と書かれている」とか、「・・と書いてあるとおりである」という文章を見かけませんか。そのほとんどは、「旧約聖書に書かれている」とか、「聖書に書いてあるとおりである」という文面ですね。ですから、パウロが「聖書に書かれているもの以上に出ない」ようにと警告しているのです。
 
  それが、わたしたちキリスト者の健全性です。そして聖書全体がわたしたちに戒めているのは、わたしたちの高ぶりの罪です。
 
  この高ぶりの罪によって、最初の人間、そして全人類の代表者アダムが、神の戒めを破りました。神に創造された被造者であるのに、アダムは神になろうと高ぶり罪を犯しました。そして以後人類は堕落し、歴史の中で絶えずアダムと同じように高慢の罪を繰り返し、今に至りますまで人は己を神にまで高めようと高ぶっているのです。
 
  この高ぶりの罪が、コリント教会のキリスト者たちの中では、伝道者、牧師をえこひきする形で表れました。
 
  ある聖書注解者は、コリント教会の中にその伝道者と牧師の優劣のリスト(表)があったと推測しています。
 
  それは、伝道者と牧師を裁くことです。そして、それを許されているのは唯一のお方は、伝道者と牧師を召し遣わされた主キリスト御自身です。
 
  ところが、コリント教会のキリスト者たちは、高ぶりの罪によって主だけが判定されることを、彼らが先取りしました。大きな罪を犯していたのです。
 
  そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちに彼らの高ぶりの罪を指摘するために、7節で3つの質問をしています。
 
  第1の質問は、一体あなたを他の者よりも偉くしているのは、だれか。第2の質問は、一体あなたの所有している物で、いただかなかった物はあるのか。第3の質問は、もしいただいたのであれば、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのか。
 
  パウロの第1の質問に、コリント教会のキリスト者たちは「神である」と答えたでしょう。次にパウロの第2の質問に、コリント教会のキリスト者たちは、「わたしのすべてのものは、神さまからいただきました」と答えたでしょう。パウロの第3の質問に、コリント教会のキリスト者たちは、無言で答えたのではないでしょうか。なぜなら、自分たちの高ぶりの罪を認めないわけにいかなかったからです。
 
  聖書の創造主なる神を信じるならば、自分の存在も命も能力も、この宇宙のすべてのものも、すべては創造主なる神に負っていることを認めないわけにいきません。「わたしは、裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と、ヨブは賛美しています(ヨブ記1:21)。
 
  パウロは、3つの質問によってコリント教会のキリスト者たちに彼らの高慢の罪を指摘しました。同時に彼は、教会に伝道者と牧師が与えられ、彼らが語る御言葉によって自分たちが救われたことを感謝し、へりくだって生きることを勧めてもいるのです。
 
  しかし、パウロが見ているコリント教会のキリスト者たちは、まるで王様のようにふるまっていました。
 
  どうしてでしょう。コリント教会のキリスト者たちは、主イエスが世の終わりに約束してくださった祝福を、彼らは既にいただいていると思っていました。
 
  彼らは、使徒パウロが教える多くの苦難を経て、神の国に入るという教えを抜きにして、もう自分たちは救われ、満たされている、大金持ちで、富める者であり、キリストと共に王様であると思っていたのでしょう。
 
  パウロは、それが事実であれば、どんなによいであろうと嘆いています。なぜなら、御国は到来し、パウロも他の使徒たちも、もう苦難の中で福音宣教をする必要はありません。パウロも彼らと共に王様になれたことでしょう。
 
  しかし、現実は違います。コリント教会のキリスト者たちは彼らがうぬぼれているのに反して、王様には程遠い状態でした。そのために彼らと共に王様になれるはずのパウロが、今彼らのためにどんなにみじめな中にあるかを、9節以下に述べています。
 
  今朝のパウロの御言葉を通して、コリント教会とキリスト者たちの問題がわたしたちの教会とわたしたちの問題でもあると思います。
 
  それはコリント教会とコリント教会のキリスト者たちのような分派争いが、今わたしたちの教会にあるということではありません。
 
  キリスト者としての健全性の問題です。わたしたちが毎日読んでいる聖書の教えに、すなわち、聖書に記されていることから出るという驕りと高慢さに、わたしたちは気をつけなければなりません。
 
  それは、牧師がある教会員をえこひきして、引き上げ、他の教会員を見下げることは許されません。反対に教会員が一人の伝道者、牧師をえこひきし、他の者たちを見下げることも許されません。
 
  教会において主イエスが命じて、許されていることは、互いに愛し合うことです。
 
  コリント教会のキリスト者たちのように主イエスにのみ、許されていることを、神のみがなされることを、わたしたちが先取りして牧師や兄弟姉妹たちを裁く、判定するという傲慢を、今日パウロは、わたしたちに警告しているのです。
 
  聖書が教える「互いに愛し合いなさい」という教えから出てはなりません。「兄弟姉妹が共に座って、神の御言葉を聞き、共に聖餐の恵みにあずかる」。キリスト教会は、これだけで、十分に神の恵みと喜びをこの世に証ししています。
 
  へりくだりましょう。そして兄弟姉妹と共に神の御言葉を聞きましょう。兄弟姉妹と共に聖餐の恵みにあずかりましょう。わたしたちがこの口で共にパンを食べ、この口で共にぶどう酒を飲むとき、十字架のキリストはわたしたちの罪のために死んでくださった、わたしたちの罪は赦された、わたしたちには神の御国が用意され、神の祝福と永遠の命が約束されていると、聖霊がわたしたちに確信させてくださいます。
 
  お祈りします。

  主イエス・キリストの父なる神よ、イースターが終わり、信州も暖かい春を迎えました。冬に枯れていた木々に若葉が芽生え、神が創造された命の豊かさを覚える季節となりました。
 
  わたしたちは、今ペンテコステに向けて、信仰生活を歩んでいます。どうか父なる神と主イエスがわたしたちの教会に遣わされた聖霊が、今朝のパウロの御言葉と共に働いて、わたしたちがへりくだりを学び、神の御言葉御を聴き、これから聖餐にあずかりますように、わたしたちの霊を新たにしてください。
 
  今朝の招きの詩編のダビデの御言葉のように、ここに今わたしたちが共に礼拝をし、共に座して御言葉を聞き、聖餐の恵みにあずかれる喜びを、心から賛美させてください。
 
  どうか、主イエスよ、わたしたちに「祝福と永遠の命」を、御言葉と聖餐を通して布告してください。
 
  パンをいただき、ぶどう酒をいただきます。十字架のキリストにわたしたちの心を向けさせてください。キリストがわたしたちの罪のために死なれ、わたしたちの永遠の命の保証として復活されたことを確信させてください。
 
  牧師だけでなく、信徒も万人祭司として、主に仕える者、神の奥義の管理者であります。主イエスは、わたしたちにその務めを忠実に果たすように求められています。
 
  どうか、聖霊なる神よ、わたしたちが主の召しを忠実に果たし、わたしたちの家族にキリストを語り、近隣の人々にキリストを伝えることができるようにお導きくださり、わたしたちに勇気を与えてください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

  コリントの信徒への手紙一説教13        主の2014年5月11日

 考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。わたしたちはキリストのために愚かな者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る者がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。
                    コリントの信徒への手紙一第4章9-13節

 説教題「全世界の見せ物」
 パウロは、コリント教会のキリスト者たちと今の使徒たちや伝道者たちを比べながら、パウロたちの苦難の現実を、9-13節で述べています。

 9節でパウロは「考えてみると」と述べていますね。パウロは「なぜなら、わたしは、こう思います」と言っています。パウロは、コリント教会のキリスト者たちに自分をはじめ使徒たちや伝道者たちが今なお苦難の中に身を置いていることを知ってほしいと思いました。

 使徒たちと伝道者たちの苦難は、神の御心であり、神の決意でありました。

 それゆえパウロは、9節で、こう述べています。「神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。」

 「わたしたち使徒」とは、コリント教会で伝道していたパウロやアポロ、そして他の伝道者たちです。主に召されて福音宣教に遣わされている者たちです。

 神は、その者たちを「まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。」

 パウロの時代、ローマ帝国の皇帝は円形競技場で死刑囚をライオンなどの猛獣と戦わせ、死刑囚同士で戦わせて見せ物とし、ローマ市民に娯楽を提供していました。

 ですから、パウロは、続いてこう言いました。「わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。」

 伝道の苦難という神の競技場で、パウロたちが神によって最後に引き出されました。全世界の、天使たちと人たちの見せ物とされたのです。
 
  パウロの9節の御言葉は、ローマ帝国のキリスト教の迫害においてキリスト者たちに殉教という最高の名誉ある道を開きました。
 
  ラテン教父のテルトリアヌスは、この御言葉を次のように翻訳しました。「わたしは考える。神はわれわれ使徒を、最後の者、野獣と戦うように定められた人々のように選抜された。われわれは、天使にも人間にもこの世の見せ物とされたからである」
 
  それは、この世においては最低の運命でありました。しかし、キリスト者、主のしもべとして生きる者としては、まさにキリストと同じ十字架を負うて従う最高に名誉ある道でありました。
 
  パウロは、自らが伝道に苦難している姿を通して、王様きどりのコリント教会のキリスト者たちの目を神の御心に従順に従うキリストへと導いているのです。
 
  そこでパウロは、10節で、自分とコリント教会のキリスト者たちを比較して、次のように述べています。「わたしたちはキリストのために愚かな者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。」
 
  パウロは、パウロとコリント教会のキリスト者との根本的な生き方の違いを述べています。その生き方の違いを理解する鍵は、8節の「既に」と11節の「今の今まで」との違いであります。
 
  パウロが自分を「愚かな者」にしているのは、十字架の言葉に基づく宣教の愚かさから来る行動です。すなわち、パウロは、キリストにあって賢い者となるために、世間様の目から見れば愚かな者となりました。
 
  それゆえパウロは、3章18節で次のように勧めています。「もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。」パウロは、この御言葉を実践していました。
 
  他方、コリント教会のキリスト者たちは、自分たちを賢い者と自分で認めていました。
 
  だから、コリント教会のあるキリスト者たちはパウロを批判して、次のように言いました。「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(Ⅱコリント10:10)と。
 
  コリント教会のキリスト者たちは誇り高ぶり、パウロたち、使徒たちや伝道者たちの優劣をつけて、アポロを持ち上げて、パウロを見下すことのできる強い人たちでした。
 
  社会的関係から見ますと、パウロはコリントの町ではよそ者です。ユダヤ人です。容姿も悪い人でした。パウロの身に試練となるものがあり、人に忌み嫌われました(ガラテヤ4:14)。
 
  他方、コリント教会のキリスト者たちは、コリントの町の人々であり、町の人々に尊敬されるキリスト者たちがいたことでしょう。
 
  ここで大切なことは、パウロがコリント教会のキリスト者たちに受難のキリストを思い起こさせようとしていることであります。
 
  ユダヤ人たちの目にキリストは愚かな者として十字架の道を歩まれました。そして弱い人として、裁判にかけられ、十字架刑に処せられました。十字架の死に至るまでキリストは指導者と民衆に、そしてローマの兵士から侮辱を受けられました。
 
  わたしには、パウロがコリント教会のキリスト者たちに、次のように心から叫んでいる声が聞こえてくるようです。「このキリストを見よ、そして、考えてください。わたしの生き方とあなたがたの生き方のどちらが、主の御心に適うのか。」
 
  当然、愚か者となり、弱々しく、人々に侮辱される使徒パウロたちの「今の今まで」の道であります。
 
  「今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る者がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。」
 
 パウロは、コリント教会のキリスト者たちに2つのことを訴えています。第1は、パウロたち、使徒と伝道者たちの伝道の苦難が終わっていないことを訴えています。「今の今まで」「今に至るまで」パウロたちは、人々に十字架の言葉を宣教し、人々に侮辱されるという苦難を続けています。

 11-12節前半の苦難は、まずは衣食住であります。パウロは、伝道者たちはキリストのゆえに衣食住において様々な欠乏と困窮があることを述べています。

 実際にパウロは、コリント伝道において自らの手で働き、天幕造りをして、自分の生活費を稼ぎました。

 パウロは、コリント教会のキリスト者たちに知ってほしかったのです。使徒や伝道者たちの苦しみが、キリストの苦しみと結びついていることを。

  キリスト者は、キリストを救い主と信じて、救われて、終わりではありません。キリスト者は、信じて洗礼を受け、キリストと一つにされます。キリスト者のこの世の生活は、キリストに結びついた生活です。洗礼を受けた時、キリスト者はキリストの死にあずかりました。そして、キリストの復活の命にあずかりました。罪を赦され、神の子として生きる者とされました。そして、御国に至るまでキリストの苦難にあずかる者とされました。
 
  ですから、パウロの苦難は、キリストのしもべであることの証しでありました。
 
  第2は、パウロがコリント教会のキリスト者たちに、13節で「今に至るまでわたしたちは、世の屑、すべてのものの滓とされています」と訴えていることです。
 
  使徒と伝道者たちは、世の屑であり、すべてのものの滓であります。
 
  屑や滓は、捨てることにより、家の中も公共の施設もきれいになりますね。昔中学生のころに修学旅行で東京見物をしました。バスで銀座や新宿の歌舞伎町を通りました。銀座のネオンの美しさと新宿のゴミに溢れた不潔さが、今でもわたしの心に浮かびます。ところが、今新宿に行きましても、道にゴミが落ちていません。本当にあの修学旅行で見た新宿が嘘のように、きれいです。
 
  使徒たちも、世の中を清めるための犠牲という意味で、パウロは、「わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。」と述べているのです。
 
  その具体的なパウロの行動が、「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。」ということです。
 
  これらは、主イエスの平野の説教を思い起こさせます。主イエスは、弟子たちに「あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ6:28)とお命じになりました。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」(ルカ6:29)。「悪口を言う者に祝福を祈り」(ルカ6:28)。
 
  これは、この世では通用しないと思います。侮辱されたら、侮辱し返す。昨年テレビで「半沢直樹」の「倍返し」が流行語の一つになりました。それが、普通の人が求める人間の強さでしょう。
 
  しかし、パウロはコリント教会のキリスト者たちに、わが身を模範にして次のように勧めているのです。「わたしたちは伝道していて、人々にはずかしめ、迫害、ののしりを身に受けますが、主イエスがお命じになられたように祝福し、忍耐し、慰めの言葉を持って応えましょう」

 それが、世間の目に臆病で弱々しい生き方に見えても、これ以外の方法で主イエスに従うことはできません。わたしたちもこのパウロの生き方を学び、従おうではありませんか。

  お祈りします。

  主イエス・キリストの父なる神よ、
 
  わたしたちを、御霊と御言葉により導き、使徒パウロと同じように十字架の言葉に基づく信仰生活を歩ませてください。
 
  この世の知恵ではなく、神の知恵を与えてください。わたしたちをキリストに結び付けてください。
 
  今朝のパウロの御言葉のように、わたしたちを世の屑、すべてのものの滓としてください。侮辱する者に祝福の祈りをなさせてください。いじめに耐え忍ばせてください。不条理なことを言われては、優しい慰めの言葉を言わせてください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 コリントの信徒への手紙一説教14        主の2014年5月18日

 こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者となりなさい。
  テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。
  わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです。しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。神の国は言葉ではなく力にあるのですから。あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。
                    コリントの信徒への手紙一第4章14-21節

 説教題「神の国は言葉ではなく力にある」
 今朝お読みしましたパウロの御言葉で、コリント教会の分派争いの問題は終わります。

 14節の「こんなことを書くのは」を、広くとらえれば、1章10節からパウロが書いてきたことです。狭くとらえれば、4章6節からパウロが書いてきたことです。広くとらえても、狭くとらえても、パウロがコリント教会のキリスト者たちの高ぶりの罪を戒めていることに変わりはありません。

 パウロは、コリント教会のキリスト者たちのプライドを傷つけ、恥じ入らせるために、この手紙を書いたのではありません。

 むしろ、パウロにとってコリント教会のキリスト者たちは、パウロの愛する子供たちでした。パウロが彼らにコリントの町でキリストの福音を宣べ伝えることをとおして、イエス・キリストの御霊が働いてくださり、彼らを神の子として生み出してくださいました。

 パウロは、家庭教師を例に挙げています。パウロの時代、豊かなローマ市民の家庭には、奴隷の家庭教師がいました、それが養育係です。彼は、子供の勉強を見るだけでなく、子供をしつけました。しかし、彼は、子供の本当の父親ではありません。

 同じようにキリストに導いてくれる養育係が、コリント教会のキリスト者たちのために一万人いたとしても、彼らの信仰の父親は一人であると、パウロは言います。それは、パウロです。

  なぜなら、コリント教会のキリスト者たちは、パウロの説教を聞き、パウロの教える信仰の教理を学び、そのことを通して主イエス・キリストの霊である聖霊によって信仰を与えられ、神の子とされました。だから、パウロは、自らの福音宣教によって聖霊が生み出してくださったコリント教会のキリスト者たちを、「愛する自分の子供たち」と思っていたのです。
 
  親であれば、当然わが子の過ちを諭しますね。親は、子供が間違った道を歩けば、間違っていると忠告します。
 
  ですから、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに、1章10節で「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します」と言って、高ぶりの罪を捨て、へりくだって、互いにキリストに従うように諭しました。
 
  そして、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに、父親が子供に「わたしに従って来い」と呼びかけるように、「わたしに倣う者となりなさい」と呼びかけたのです。
 
  パウロの命令は、子が父の背中を見て育つように、コリント教会のキリスト者たちが信仰の父であるパウロの背中を見て、すなわち、パウロの信仰生活を見倣うように命じています。使徒の教えと生活がキリスト者の信仰生活の基準でありました。
 
  そこでパウロは、コリント教会に伝道者テモテを派遣しました。コリント教会のキリスト者たちがパウロの信仰と生き方に倣うように、パウロはテモテを実物教育として遣わしました。

 テモテは、ギリシア人の父とユダヤ人の母から生まれました。パウロが小アジアで伝道したときに、テモテに出会いました。そしてテモテはパウロの弟子になり、パウロはわが子のようにテモテを愛しました。

 テモテは、主イエスに忠実なしもべでした。そして彼は、どこの教会でも、パウロの教えと生活を忠実に守りました。

  「思い起こす」とは、「思いめぐらす」ことです。何度も心にめぐらすことです。毎日テモテの振る舞いを見て、今ここにいないパウロが教えていた信仰生活であると。
 
  しかし、遣わされたテモテを、コリント教会のキリスト者たちは自分たちの優劣表で評価し、相変わらず分派争いはおさまりませんでした。
 
  コリント教会のキリスト者たちの中には、特別に高ぶる者たちがおり、パウロは自分たちの教会に来ることはないと言いふらしていました。
 
  その根拠は、パウロがテモテを遣わし、手紙を書き送っているからです。パウロはコリント教会を訪問する気がないから、テモテを遣わし、手紙を書いて送ったのだと言いふらしていました。
 
  実は、この手紙の16章8-9節で、パウロは今コリント教会を訪問できない理由を記しています。小アジアのエフェソ伝道に忙しくしており、ペンテコステまでエフェソの町に滞在すると述べています。
 
  しかし、主の御心であれば、パウロは今すぐにでもコリント教会を訪問する覚悟でいました。パウロの思いよりも、主の御意志を、パウロは優先します。
 
  コリントの教会を訪問したら、パウロは誇り高ぶるコリント教会のキリスト者たちに、言葉ではなく力を見せてもらおうと述べています。その理由は、神の国は言葉ではなく力にあるからです。
 
  神の国とは、神の支配のことです。パウロが言いたかったことは、次のことです。教会の中で神の支配が現在の力として働いていることを、人の言葉ではなく、聖霊の力ある言葉で示しなさい。
 
  この力とは、聖霊の御力です。パウロは、2章13節に次のように記しています。「わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。」
 
  コリント教会のキリスト者たちが既に自分たちは神の国に入れられ、王様になっていると高ぶっていました。それを、パウロは彼らの人間の言葉ではなく、聖霊の力ある言葉で証ししなさいと述べているのです。
 
  教会は、人の言葉では生まれません。キリスト者も同じです。わたしたちは、毎年イースター集会やクリスマスの集いをします。その時の中心は、聖霊です。聖霊が聖書とその説き証しである説教を用いられて、訪れる人々の心に語りかけてくださいます。
 
  それを、パウロは15節で「福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです」と述べていますね。このやり方以外にキリスト者がこの世の生まれ、キリスト教会がこの世に建てられることはありません。
 
  わたしたちの経験からも、アーメンと言えます。わたしたちは教会の礼拝の説教を聞き、キリスト教の教理を学び、キリストの十字架の死が、「わたしの罪のためであり、キリストの復活がわたしの永遠の命の保証である」ことを、聖霊によってわたしたちの心に刻印されました。だから、この世の知恵や人の言葉で、キリスト者になったのではありません。聖霊が礼拝において説教を聞くわたしたちにキリストにおける救いの恵みを悟らせてくださり、洗礼へと促して下さったのです。
 
 
  このように神の国、教会は、人間の言葉がある所ではなく、聖霊の御力のあるところに現れるのです。
 
  ですから、わたしたちは、使徒信条において次のように信仰告白するのです。「われは聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、とこしえの命を信ず」と。
 
  最後にパウロは、コリント教会のキリスト者たちに次のように選択を迫ります。コリント教会を訪問した時に、パウロに「鞭を持って来てほしいか」、それとも「愛と柔和な心で来てほしいか」と。
 
  どちらの選択も、主イエスがなさったことであります。主イエスは、鞭でもって神殿の中で商売する者を追い出されました。そして、主イエスは愛と柔和な心で神の国を宣べ伝えられ、病める人々を癒されました。
 
  主イエスの行動から分かりますように、鞭は戒規処分です。愛と柔和は、主にある親しい交わりであります。
 
  使徒とは、主イエスに遣わされた者であります。使徒は、主イエスの権威を委ねられています。キリストの教えと生活がすべてのキリスト者の生活の基準であるように、使徒の教えと生活もすべてのキリスト者の生活の基準であります。パウロに従わないコリント教会の高ぶるキリスト者たちは、キリストに従わない者として、パウロに裁かれて当然であります。
 
  しかし、パウロの真意は、主イエスのお心のように、愛と柔和の心で、愛するパウロの子供たちたちに会いたかったでしょう。そして、パウロは、愛と柔和の心で、コリント教会を訪問させてくださるように、主に祈っていたと思います。
 
  教会とキリスト者は、聖霊の御力によらなければ、この世に生み出されませんけれども、聖霊は主イエスと教会の祈り、牧師、信徒の祈りを用いて、教会とキリスト者たちをこの世に存在し続けるようにしてくださっています。
 
  今朝のパウロの御言葉に耳を傾けながら、毎週の礼拝において説教を聴ける喜びと、主イエスに、教会に、洗礼を授けてくださった牧師や多くのキリスト者たちの祈りに支えられて、今わたしは上諏訪湖畔教会の礼拝の場に兄弟姉妹と共にいることを感謝し、主をほめたたえます。
 
  お祈りします。

  主イエス・キリストの父なる神よ、
 
  わたしたちを、主イエスが歩まれた道に、使徒パウロが歩みました信仰の道に、聖霊と御言葉の導きによりわたしたちも歩ませてください。
 
  この教会とわたしたちキリスト者は、この世で人の知恵や言葉で生まれたのではありません。聖霊と御言葉によって、わたしたちは頭であるキリストに結び付けられ、神の子として生まれ、教会の一員とされました。
 
  今朝のパウロの御言葉のように、わたしたちに聖霊の御力に信頼させてください。わたしたちもコリント教会のキリスト者たちのようにこの世において罪の誘惑に陥り、高ぶりの罪を犯す者であります。
 
  どうか、わたしたちにへりくだる心をお与えくださり、どんな時にも十字架のキリストにのみ頼らせてください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 コリントの信徒への手紙一説教15        主の2014年6月1日

 現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合せた者のように、そんなことをした者を既に裁いていしまっています。
 つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしたちの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。
              コリントの信徒への手紙一第5章1-8節

 説教題「教会の悲しい現実」
 今朝よりコリントの信徒への手紙一の第5章から第6章の御言葉を学びましょう。

 5章は、パウロが現に聞いているコリント教会のあるキリスト者のスキャンダルを扱っています。その内容は、コリント教会内で起こった「みだらな行い」であります。

 その事実はいたるところで噂され、だれもが知る事実となり、小アジアのエフェソの町に滞在していたパウロの耳にも届きました。

 コリント教会のあるキリスト者が、自分の父親の妻を自分の所有にしたのです。「わがものとしている」とは、「持つ」という意味です。彼は、継母と所帯を持つか、あるいは一緒に住んでいたのでしょう。

 聖書は、主なる神がモーセを通して神の民イスラエルに近親相姦を、「みだらな行い」として禁じられました。「父の妻を犯してはならない。父を辱めることだからである。」(レビ記18:8)。

 みだらな行いをした者は、石打ちの刑に処せられました。父の妻を犯した者は、二人三人の証言があれば、裁判にかけられ、死刑に処せられました(申命記17:5)。

 聖書だけでありません。ローマ帝国の法律も、近親相姦を禁じていました。だから、パウロは、「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」と非難しているのです。

 さらに使徒会議でも「みだらな行い」は禁じられました。使徒言行録の15章に初代教会が最初の会議、エルサレムの使徒会議を記しています。使徒パウロとバルナバの異邦人伝道が成功し、多くの異邦人たちが救われました。

 その時に異邦人キリスト者たちにユダヤ人たちの習慣を守らせるか、どうかが問題になりました。

 使徒会議において異邦人キリスト者たちに一切の重荷を負わせないことが決議されました。聖霊と使徒たちは、異邦人キリスト者たちが偶像礼拝にかかわらないように、偶像礼拝に献げられた動物の肉や血を食べることを禁じました。そして、近親相姦というみだらな行いを避けるように、と命じました。ユダヤ人と異邦人たちが忌み嫌う行いであったからです。

 ところが、コリント教会のキリスト者たちは、使徒会議で禁じられたみだらな行いをした者を放置していたのです。パウロには信じがたいことでした。

 さらにコリント教会のキリスト者たちは何ら悲しんでいないのです。

 パウロは、遠くエフェソの町に居ますが、この問題を速やかに処置しています。それは、近親相姦を行ったコリント教会のキリスト者をコリント教会から「除外」しました。

 教会戒規を執行しました。パウロは怒りに任せて、しているのではありません。むしろ、「悲しんで」しているのです。

 この「悲しみ」は、死人の喪に服するという意味です。除名されたキリスト者は、すでに霊的に死んでいるからです。

 パウロは、コリント教会のキリスト者たちに問いかけました。「この教会の悲しい現実に、あなたがたは胸を打って悲しむべきなのではないか」と。

 一人のキリスト者が教会戒規によって除名されるとは、パウロの言うように「自分たちの間から除外」されることです。それは、教会が天に召されたキリスト者を教会の名簿から除いて葬る行為と同じであります。

  神が禁じられただけではなく、この世の法律でも禁じられているみだらな行いを、コリント教会は放置してきました。その結果、今その者を教会から除名し、ひとりのキリスト者の霊的死のために、コリント教会は喪に服さなければなりません。
 
  パウロは、コリント教会のキリスト者たちにこの教会の悲しい現実を認めさせようとしています。
 
 パウロは、コリント教会のキリスト者たちに教会戒規を通して、一人のキリスト者の霊的死に対して深い痛みと悲しみを感じてほしかったのだと思います。

 3-5節は、実際に教会戒規が執行されたことを記しています。パウロは使徒ですから、キリストに委ねられた権能によって教会戒規を行うことができました。

  パウロは、今エフェソの町で伝道しています。彼の体は遠くコリント教会から離れています。しかし「霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように」教会戒規を行いました。
 
  教会戒規における真の裁き主は、主イエス・キリストです。教会の会議は、主イエス・キリストが招集されます。主イエスの御名によって集められ、主イエスが御力によって裁かれます。
 
 
  パウロは、教会戒規によって除名されたキリスト者がサタンに引き渡されるのは、この世の終わりの主の日に彼の霊が救われるためであると述べています
 
 パウロは、復活の主イエスの御力の救いに信頼していたのはないでしょうか。死人を蘇らされる主イエスは、霊的に死んだキリスト者の霊を生き返らせてくださるでしょう。

 パウロの教会戒規の執行を通して、わたしたちは次の事を学びます。教会戒規の目的は、罪を犯したキリスト者を裁くことではありません。ヨブのようにサタンに引き渡され、この世において数々の苦難を通して悔い改めに導かれ、彼の魂が終わりの日に主に救われるためであります。

 さて、6-8節で、パウロはコリント教会のキリスト者たちの高ぶりを戒めています。コリント教会のキリスト者たちがあるキリスト者のみだらな行いを放置していたのは、彼らの高ぶりの罪でした。

 そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちにパン種のたとえを話しました。パン種が練り粉に入れられると、練り粉全体を膨らませることができます。パン種は、罪のたとえです。一人のキリスト者がみだらな行いをして、コリント教会はそれを放置しました。そのため一人のキリスト者の罪と汚れが、コリント教会全体に伝染し、聖なる神の宮であるコリント教会全体が汚されました。

 パウロが教会戒規を執行したもう一つの目的は、除名された者とコリント教会キリスト者たちが罪によって神を汚さないためでありました。

 そのためにパウロは、コリント教会のキリスト者たちにパン種のたとえを話しました。そして、過越の小羊として、十字架に死なれたキリストを思い起こさせました。

 昔神の民イスラエルは、出エジプトのとき、過越の祭を祝い、パン種のないパンを食べました。罪を除き、身を清めました。そして、救い主キリストは、ご自身の体を過越の小羊として十字架につけられました。その結果、わたしたちの罪は除かれました。キリスト者は、主イエスを信じて、洗礼を受けます。洗礼の時に水が注がれますが、わたしたちの罪を洗い流すしるしであります。

 洗礼を受けたキリスト者は、新しい練り粉であります。罪は、キリストの十字架によって除かれました。だから、昔のように罪を犯してはなりません。

 パウロがこのたとえで言いたいことは、キリスト者は、十字架のキリストの贖いによって聖なる者とされたのだから、みだらな行いによって自分の身を汚し、聖なる神の宮である教会を汚してはならないということです。

 パウロは、コリント教会のキリスト者たちに「純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」と呼びかけています。

 「純粋」は、太陽の光で判別するという意味の言葉です。悪意の反対語であります。みだらな行いを放置している罪人の持つ腐敗と反対のものです。恥じることなく神の御前に立てるほどの明らかな良心を意味しています。

 他方、「真実」は、行動における正義であり、決して変わることのない強さを意味します。みだらな行いをする者を放置し、高ぶる邪悪とは反対のものです。

 パウロが「純粋で真実のパンで」と言います時、これがキリストの十字架によって贖われたキリスト者の行為の基礎になっているのです。このパンは、聖霊であると言えるかもしれません。キリスト者の持つどんな優れた徳も、例えば愛と信仰でも、この世において罪に汚されます。聖霊にキリスト者は守られてこそ祝祭である毎週の礼拝にあずかり、主に祝福された日々の生活を営むことができるのです。

 パウロがコリント教会のキリスト者たちに呼びかけたかったことは、次の事だと思います。過越の小羊を毎週礼拝するキリスト教会は、祝祭の中にあります。祝祭の生活は、喜びと厳粛との生活であります。出エジプトの神の民イスラエルが過越の祭にパン種を入れないパンを食べたように、キリスト教会も聖餐式においてパンを食べ、ぶどう酒を飲み、祝うのです。そして、わたしたちは、キリストにこの教会からこの世へと派遣されます。教会からこの世へと出ていくとき、真実で清い生活を、祭りのような喜びと厳粛さと強さを持ってなさなければならない。

  お祈りします。

  主イエス・キリストの父なる神よ、
 
  この世の教会にはわたしたちの罪という悲しい現実があります。
 
  コリント教会が一人のキリスト者のみだらな罪を放置し、パウロが教会戒規を執行したことを通して、教会の悲しい罪の現実を示されました。
 
  同時にキリスト者は、常に過越の小羊であるキリストの十字架の贖いにより罪より救われ、洗礼を施され、罪を洗い流されてきよめられている恵みを知りました。
 
  誇り高ぶることなく、今朝のパウロの御言葉に聞き従い、聖霊の御力により頼み、純粋と真実に根差したキリスト者の聖なる生活を歩ませてください。
 
  どうか、わたしたちも今から聖餐式にあずかり、パンとぶどう酒をいただき、この世へと派遣してください。聖霊の守りのうちにわたしたちの一週間の生活が祝祭の中での喜びと感謝の生活となりますようにしてください。
 
  次週はペンテコステの祭です。御言葉と聖餐にあずかれることを心より感謝します。純粋で真実のパンで、ペンテコステの祭を祝わせてください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。