コリントの信徒への手紙一説教07 主の2014年3月9日
しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、
「目が見えもせず、耳が聞きもせず、
人の心に思い浮かびもしなかったことを、
神は自分を愛する者たちに準備された」
と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
「だれが主の思いを知り、
主を教えるというのか。」
しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
コリントの信徒への手紙一第2章6-16節
説教題「神秘としての神の知恵」
パウロは、この手紙でコリント教会の兄弟たちに知恵を語ると述べています。なぜなら、コリント教会の兄弟たちは、信仰に成熟した人たちであるからであります。
コリント教会の兄弟たちは、もう街頭の人でも、パウロが開拓伝道した時のキリスト教について何も知らない者たちではありません。パウロは、赤ん坊に語りかける必要はありません。コリント教会の兄弟たちは、大人になっていました。
「信仰に成熟した人たち」とは、パウロがコリント教会の兄弟たちを評価しているのではありません。コリント教会の兄弟たちが自己評価していたのでしょう。
そこでパウロは、コリント教会の兄弟たちに「まことにあなたがたが信仰に成熟した人であれば、わたしも伝道者アポロたちのようにあなたがたに知恵で語りましょう」と述べたのであります。
ところで、パウロが語ります知恵は、コリント教会の兄弟たちが期待した人間の知恵ではありませんでした。「隠されていた、神秘としての神の知恵」でありました。
パウロは、この神の知恵について、すでにこの手紙でコリント教会の兄弟たちに述べています。
1章24節の「神の力、神の知恵であるキリスト」、同じく30節に「このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり」。
「隠されていた、神秘としての神の知恵」は、十字架のキリストにおいてあらわされました。
ですからパウロがコリント教会の兄弟たちに語ります知恵は、この世の知恵ではないとことわりました。また、「この世の滅びゆく支配者たちの知恵」でもないと、パウロはことわっています。
この世の知恵とは、わたしたちの生きている世界にだけ通用します人間の知恵であります。人間の人生の知恵も政治的経済的知恵も、この世だけに通用するものです。
パウロが「この世の滅びゆく支配者たちの知恵」と言っています時に、彼がイメージしたのは、この世の王や政治家たち、官僚たちの知恵だけではありません。パウロは、サタンや神に敵対する悪霊たちの諸勢力を「支配するもの」と、ローマの信徒への手紙8章38節に記しており、ここでパウロは神の最後の審判においてこの支配するものとその知恵が滅ぼされることを確信しています。
ですから、パウロがここで「隠されていた、神秘としての神の知恵」と述べていますのは、神の終末的目的であります。すなわち、キリストの来臨によって神の終末は来ました。そして、キリストは、神の終末的目的を、御自身の十字架によって成就されました。
パウロは、コリント教会の兄弟たちに次のように述べていますね。
「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。」(7節)。
わたしたちは、エフェソの信徒への手紙1章4-10節のパウロの御言葉を思い起こしましょう。
「隠されていた、神秘としての神の知恵」は、十字架のキリストにおいてあらわされました。神の神秘、すなわち、神の終末的目的は、キリストの十字架によって神に愛されたわたしたちキリスト者に栄光を与えることでありました。
ですから、パウロは、コリント教会の兄弟たちに次のように述べているのであります。
サタンや悪霊たちは世の支配者を用いてキリストを十字架にかけたのですが、彼らが神の知恵であるキリストの十字架でもって、神の何を目的にされていたかを知っていたならば、どんなことがあっても栄光のキリストの十字架を阻止しようとしたはずであると。
パウロは、人の目には悲惨であり、恥辱であり、敗北であったキリストの十字架を、神の知恵の勝利、キリストの受難を、世を支配する者に対する勝利の戦いとみているのであります。
パウロが9節に引用している御言葉は、旧約聖書のイザヤ書64章3節であります。「あなたを待つ者に計らってくださるお方は 神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も 目にした者もありません。」
預言者イザヤは、神はわたしたちの心に思いも及ばないことを、御自身が愛される神の民のために備えてくださっていると預言しており、パウロはキリストの十字架にその実現を見ました。
パウロは、コリント教会の兄弟たちに「隠された、神秘としての神の知恵」について語りました。
そして、パウロは、6-9節で彼が語りました神の知恵を、彼は10節の前半で対のように述べています。
「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。」
パウロは、コリント教会の兄弟たちに次のように宣言しました。パウロが語りました知恵、すなわち、神秘としての神の知恵は、聖霊を通して、信仰者であればだれにでも、手に入れることができると。
なぜなら、聖霊は、神の深み、すなわち、神秘としての神の知恵を知ることがおできになります。
そして、パウロは、コリント教会の兄弟たちに次のことを教えようとしています。それは、パウロが語る神秘としての神の知恵を理解するのは、聖霊を通してであり、聖霊に導かれる者だけが、神の知恵を理解することができると。
パウロは、そこで人をたとえにして説明します。人の内には霊があり、その霊以外に、だれもその人が今何を思い、考えているのか、知ることはできません。
パウロは、神も同じであると申します。神の霊以外に神について知る者はありません。
ですから、パウロはコリント教会の兄弟たちを諭します。この世の人々から区別されたわたしたち、キリストを信じているわたしたちは、世の霊ではなく、聖霊を授かりました。授かった聖霊によって、十字架のキリストを救い主と信じて、十字架のキリストを通して、コリント教会の兄弟たちに、「神からの恵みとして与えられたもの」を知ったと。
その神からの恵みをパウロは、具体的に示していません。わたしは、わたしたちが信仰告白します使徒信条にある「罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命」であると思います。
さらパウロは、コリント教会の兄弟たちに神から恵みとして与えられたものを、すなわち、キリストの福音を語るとき、それは「人の知恵に教えられた言葉による」のではなく、「“霊”に教えられた言葉に」よると述べています。
神の霊は、神の真理を把握し、それを人の言葉を用いられますが、神の言葉として、わたしたちに伝えてくださいます。
パウロは、それを「霊的なものによって霊的なことを説明するのです」と述べています。
読み過ぎかもしれませんが、わたしは、神の霊は聖書によってキリストの救いを説明すると理解します。
パウロが2章4-5節に次のように述べていますね。「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力と証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」
十字架の言葉は、人が聖霊を授かることによって、偏ることなく、公平に判断できるのであります。
それゆえに自然の人、すなわち、生まれながらの人間は、十字架のキリストの福音を受け入れることができません。
この世の人には、極刑を受けた犯罪人が救い主であると信じること、神が人となり、十字架で死なれることは、全く愚かなことであり、理解することができないのであります。
キリスト教は、パウロが言う通り「霊によって初めて判断できるからです。」
このパウロの御言葉を思いめぐらしながら、わたしは、教会生活を通してのわたしの体験を証ししたいと思いました。
それは、大学生のときのことでした。一人の契約の子が、「信仰というものを公平に考えてみたいので、しばらく教会を離れる」と言って、教会を離れました。わたしの尊敬する長老が、言われました。「わたしたちは、教会の礼拝に常にあずかり、説教を聞き続けて、初めて公平に自分の信仰を判断できる。なぜなら、教会を離れて、わたしたちはどこで神の御言葉を聞くことができますか。教会を離れれば、人の言葉以外に聞くことはできません。それで信仰を公平に考えられますか。」と。
人は、聖霊を授かり、聖書とキリスト教を偏ることなく、公平に判断できるように導かれるのです。
だから、この世の人の言葉に迷う必要はありません。生まれながらの人は、だれも神の知恵をしりません。十字架のキリストを通して、神御自身が愛する者にどんな栄誉をお与えになろうとしているのか、理解することはできないのであります。
聖霊を授けられたわたしたちだけが、主なる神である主イエス・キリストの思いを、わたしたちの内に住まわれる聖霊ゆえに、主イエスと一つに結ばれて、心に抱くことを許されているのであります。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、隠された、神秘としての神の知恵を学ぶことができて感謝します。
何よりもわたしたちが、聖霊を賜り、神の知恵を理解でき、キリストの心を抱くことができる幸いを感謝します。
礼拝生活を継続し、聖霊を通して十字架のキリストの福音を聞き、理解し、神からの恵みである罪の赦しと永遠の命の喜びに生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
コリントの信徒への手紙一説教08 主の2014年3月16日
兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは、肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。
コリントの信徒への手紙一第3章1-9節
説教題「成長させてくださる神」
今朝よりコリントの信徒への手紙一の第3章に入ります。
使徒パウロは、コリント教会のキリスト者たちに「兄弟たち」と呼びかけています。
1章10節で「兄弟たち」と呼びかけて、パウロはコリント教会の分派争いを戒め、教会の一致を訴えました(Ⅰコリント1:10-17)。1章26節で「兄弟たち」と呼びかけ、パウロはコリント教会のキリスト者たちに神の召しを思い起こさせました(1:26-31)。2章1節で「兄弟たち」と呼びかけて、パウロはコリント教会のキリスト者たちに自分の説教について語りました(2:1-5)。
ここでもパウロは、コリント教会のキリスト者たちに「兄弟たち」と呼びかけて、新しい内容を語り始めています。パウロは、コリント教会のキリスト者たちにどうして知恵の言葉で説教をしなかったか、その理由を語ります(2:1-5)。
それは、使徒パウロの霊的判断によりました。パウロには、聖霊の賜物が与えられていました。その聖霊に導かれて彼は伝道者、牧会者として働き、コリント教会のキリスト者たちが今どのような信仰状態にあるかを判断しました。
それが、使徒パウロの1-3節の御言葉であります。「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは、肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。」
パウロは、コリント教会のキリスト者たちに「霊の人に対するように」説教できませんでした。
「霊の人」とは、聖霊に属する者のことです。洗礼を受けて、聖霊を授かり、その聖霊の支配の下に、常に聖霊に導かれて歩む者のことです。
使徒パウロは、2章6節で「わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。」と述べていますね。信仰に成熟した人たちが「霊の人」であります。すなわち、彼は常に聖霊の導きに従って生き、自己中心に生きるのではなく、キリスト中心に、キリストのしもべとして生きる者であります。
ところが、パウロの霊的判断によれば、別の言葉では「信仰的判断」と言ってよいと思いますが、コリント教会のキリスト者たちは「肉の人」でありました。パウロは、彼らを「キリストとの関係では乳飲み子である人々」と言い切っています。
パウロは、2章14節で「自然の人」について言及していますね。この「自然の人」とは、わたしたちが「未信者」と言っている人々です。生まれながらの人間であります。彼は、キリスト者のように神により聖霊を受けていません。ですから、聖霊の学校である聖書が教えていることを受け入れません。
「自然の人」とは別に、パウロはここで「肉の人」を言及しています。肉の人とは、信者と未信者を含む人間であります。特に人間の肉の働きに関係しています。使徒パウロは、ガラテヤの信徒への手紙5章19-20節に「肉の業は明らかです」と述べて、次のようにそのリストを挙げています。
「それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」
このリストに挙げられたことを、生活の中で行っているのが、「肉の人」であります。
実際にコリント教会のキリスト者たちは、ねたみ、争い、不和と仲間割れして、分派争いをしておりました。
ですから、使徒パウロは、彼らにはっきりと言いました。「相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは、肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。」
パウロの言葉を聞いて、コリント教会の兄弟たちがどのような顔をしたのでしょう。
確かなことは、コリント教会のキリスト者は、洗礼を受け、神より聖霊を賜ったのに、霊の人として聖霊の導きに従って生きることができませんでした。その結果、教会の中では彼らは互いに妬み合い、争い合い、キリストにあって一致しないで、むしろ、この世の人々と同じような争いを繰り広げていたのであります。
だから、パウロは、霊的に成長しないコリント教会のキリスト者たちを、乳飲み子にたとえています。そしてパウロは、彼らに固い食物が無理であるので、いつまでも初歩的なことを説教において教えなければなりませんでしたと述べているのであります。
「固い食物」について、ヘブライ人への手紙5章14節で「固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。」と記されています。
要するに乳飲み子は、善悪を見分ける感覚はありません。成長する経験の中でこの善悪を見分ける感覚を訓練していくのであります。そして、大人へと成長するのであります。
教会とキリスト者も同じであります。ただキリストの福音を聞いているだけでは、成長しません。
聖霊の学校である聖書を通して、何が主の御心であり、何が善であって、悪であるかを信仰的に識別できる訓練が必要であります。
このことがコリント教会の中で、そしてコリント教会のキリスト者たちが軽んじていたので、コリント教会の中で数々の大きな問題が生まれたのであります。
さて、パウロは、コリント教会に、コリント教会のキリスト者たちに絶望したのでしょうか。
わたしたちの教会は、ここ数年教会の霊的成長を教会の目標としています。この手紙を学び、大なり小なり、同じキリスト教会、キリスト者として似ているところがあると思います。
わたしたちも、キリスト者でありますが、肉の人であります。派閥争いはありませんし、近親相姦という大きな罪もありません。
しかし、パウロに「兄弟」と呼ばれて、恥ずかしい思いを持たないでしょうか。パウロは、主イエスのお言葉を心に留めていたでしょう。
ヨハネによる福音書15章12節で主イエスは、12弟子たちにお命じになりました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」
だが、コリント教会は「お互いの間にねたみや争いが絶えない」状態でありました。わたしたちも同じではないでしょうか。どうしてもわたしたちは、肉の思いを捨てられません。わたしたちの信仰生活は、聖霊の導きに従ったものであるというにはほど遠いでしょう。本当にパウロの言葉通りに「ただの人として歩んでいる」のではありませんか。
ですから、パウロが求め、わたしたちが教会の目標にしている霊的成長は、神の御業であります。
教会を成長させ、キリスト者の霊的成長をさせてくださるのは、ただ神のみであります。
この喜びを、パウロはコリント教会のキリスト者たちに知らせるために、コリント教会の中の分派争いに戻ります。
コリント教会の中に幾つかのグループに分かれて、分派争いが繰り広げられていました。
その中にあるキリスト者たちは、「わたしはパウロのもの」と主張し、他のキリスト者たちが「わたしはアポロのもの」と主張しました。
ギリシャ人たちは、党派争いが好きなようです。パウロの時代、哲学を愛する人々は、エピクロス派とストア派に分かれて争っていました。教会の中にも、この世の党派争いが入り込みました。
そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちに「アポロとは何か」「パウロとは何か」と問いかけました(3:5)。
そしてパウロは自分で答えて、次のように言っています。「この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。」(3:5)。
コリント教会のキリスト者たちが分派争いしているパウロとアポロとは、どちらも神のしもべであります。神はパウロに種まきの仕事、すなわち、開拓伝道の働きを委ねられました。アポロには教会形成の仕事を委ねられました。二人は、それぞれ委ねられた仕事を忠実に行いました。
しかし、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに次のように言いました。教会を「成長させてくださったのは神です。大切なのは、成長させてくださる神です。」と。
パウロがコリント教会のキリスト者たちに言いたいことは次の事でした。パウロとアポロは、教会の主人ではなく、主人は教会を成長させてくださる神であり、コリント教会のキリスト者たちが一番大切にすべきお方である」と。
教会を成長させ、キリスト者を霊的に成長させるのは、この教会の頭である主イエス・キリストなる神であります。
パウロもアポロも、二人ともその神に仕える者にすぎません。そして、二人は、種まきと水をそそぐという分業によって、神の御国建設にかかわっています。
2018年にわたしたちの教会は、創立70周年を迎えます。1948年に諏訪伝道所を設立してから、現在までにわたしで、9人の伝道者がこの教会の建設にかかわりました。9名の伝道者はパウロやアポロのように「神のために力を合わせて働く者」たちであります。しかし、上諏訪湖畔教会を成長させ、教会員たちの信仰を霊的に成長させてくださるのは、わたしたちがキリストにおいて、聖霊を通して礼拝する父なる神であります。
パウロは、「あなたがたは神の畑、神の建物です。」と言っていますね。神が今耕しておられる畑、神が建てられている家が、上諏訪湖畔教会と教会員たちであります。
主イエスは、言われました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だからわたしも働くのだ。」(ヨハネによる福音書5章17節)。
今も父子聖霊なる神は、働かれています。だから、今ここに上諏訪湖畔教会が存在し、わたしたちが存在しています。そして、父なる神は、御子のとりなしによって、聖霊を通して常に救いの働きをされていますので、わたしたちの教会とわたしたちも神のために救いの働きをするのであります。そのために神はわたしたちに聖霊を与え、信仰を与え、教会を成長させ、わたしたちを成長させてくださいます。
パウロは、この希望に生きていたので、コリント教会とキリスト者たちに、失望することはありませんでした。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、成長させてくださる神の恵みを学ぶことができて感謝します。
コリント教会の兄弟たちが肉の人でありましたように、わたしたちも肉の人であります。
教会を成長させ、わたしたちを信仰から信仰へと成長させてくださる神の恵みのみが、わたしたちの希望の光であります。
上諏訪湖畔教会の歴史を振り返り、今もこの教会とわたしたちの救いのために働かれている父なる神と御子イエス・キリストと聖霊なる神に心から感謝します。どうかわたしたちもパウロやアポロのように、神のためにお用い下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
コリントの信徒への手紙一説教09 主の2014年3月23日
わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
コリントの信徒への手紙一第3章10-17節
説教題「あなたがたは神の神殿」
パウロは、教会を成長させてくださるのは、神であり、神は奉仕者たちにそれぞれの役割を委ねて、神の畑であるコリント教会を成長させてくださると教えました。
その時にパウロは、コリント教会の兄弟たちに「あなたがたは神の建物なのです。」(Ⅰコリント3:9)と言いました。ですから、今朝のところで、パウロはコリント教会の兄弟たちに神の建物というたとえを用いて、彼らの教会形成についての注意をしました。
パウロは、コリント教会の兄弟たちにコリントでの開拓伝道を思い起こして次のように語ります。
「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。」(10節)。
パウロは、「神の恵みによって」異邦人への使徒に召されました。そして聖霊の恵みの賜物によって使徒としての働きをし、コリントの町において十字架の言葉のみによって福音を宣べ伝え、熟練した建築家のようにキリスト教会の土台を据えました。
このパウロの「神の建物」のたとえを読む者はだれでも、主イエスがガリラヤ伝道において山上の説教をなさり、最後に次のように語られた御言葉を思い起こすでしょう。
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタイ7:24)
実は「熟練した」とは、「知恵のある」という意味であります。パウロは、神の恵みにより知恵ある建築家として異教の町コリントにキリストの十字架の言葉という土台を据えました。
このパウロの据えた土台は、永遠に不変であります。賢い人が岩の上に家を建てた、その岩であります。どんなことが起きても決して動きません。変化もしません。
建物は違います。古くなります。時に応じて建て替えが必要であります。流行があり、人の思いがありますので、常に変化します。
ですから、パウロはコリント教会の兄弟たちに次のように警告しています。「他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです」(10節)。
「他の人」とは、コリント教会の兄弟たちです。彼らはパウロの据えた土台の上に教会形成を継続しています。
そこでパウロは、コリント教会の兄弟たちに「だれもほかの土台を据えることはできません」と警告し、土台を変えないように訴えています。なぜなら、十字架の言葉、主イエス・キリストを無視したら、どんな立派な建物でも、そこにどんなに多くの人々が集まっても、それはキリストの教会ではないからであります。
さて、土台は同じでも、人によって建物はいろいろであります。たとえば、教会建築を考えて見てください。
改革派教会の2012年度の統計によれば、142の教会と伝道所があります。改革派教会は御言葉によって改革する教会ですから、すべての改革派教会の教会と伝道所は、キリストの言葉の上に建てられています。どこの教会と伝道所に行きましても、十字架のキリストが語られ、罪の赦しの福音が語られています。しかし、教会と伝道所の建物はいろいろであり、伝道も様々であり、教会形成もそれぞれです。
パウロは、教会形成を家の材料選びにたとえています。
「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合」(12節)。
パウロは、二つのやり方で神の建物が建てられると述べています。「金、銀、宝石」を材料に用いた神の建物と「木、草、わら」を材料に用いた神の建物であります。
モーセの時代に神の民は荒野において神の幕屋建設をしました。その時に神が命じられた幕屋を建てるために、神の民たちは進んで心から随意の献げ物を主に携えて来ました(出エジプト記35:29)。金銀、宝石を献げました。
ソロモン王がエルサレム神殿を建てました時も、先代のダビデ王が金銀、銅、宝石を神殿建設のために準備し、神の民たちも進んで心から金銀を献げました(歴代誌上29:9)。金、銀、宝石は、神殿建築にふさわしい材料でありました。
「木、草、わら」で家を建てるのは、庶民の建物であります。昔は、ほとんど木造りの家であり、屋根に萱や麦わらが使われていました。
わたしは、パウロがこのたとえで言おうとしたのは、心から神を愛して、信仰によって建てたのか、それとも自分の欲望で、自分のために建てたのか、ということではないかと思います。
パウロは、次のように述べています。わたしたちが教会のために働いたことは、必ず神が明らかにされると。
「おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。」(13-14節)
パウロが言う「かの日」とは、この世の終わりであります。その日には神は、火によってわたしたちの行いを裁かれます。火によって真の金銀とその他の物が分けられるように、わたしたちのすべての行いが、まことに信仰によるものかどうかを、キリストの御前に明らかにされ、わたしたちの人生の総決算がなされます。
それゆえにパウロは言います。その時わたしたちが礼拝において聞き続けたキリストの言葉の上にわたしたちが何をなして、教会形成をしようとしたかを、神は問われると。
そして神の御心に適えば、わたしたちは報いを得るでしょう。そうでなければ、わたしたちがなしたことはすべて失われます。損害を受けるわけですから、当然痛みを覚え、悔いることでしょう。
しかし、わたしは、次のパウロの言葉に、喜びと慰めを覚えます。パウロは、言っています。「ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」(15節)。
キリストの救いにあずかることは、わたしたちの功徳や善行によるのではありません。ただ、無償の神の恵みです。それゆえにわたしたちは、この世の終わりを恐れる必要はありません。神の裁きの火を恐れる必要はありません。すべてを失っても、わたしたちは清められ、神の子として永遠の命を得るのです。
わたしは、パウロの言葉を聞く中で、ルカによる福音書の15章において主イエスが放蕩息子のたとえ話をされたのを思い起こしました。放蕩息子は、父親から彼が受け取れる全財産を引き出して、父親を離れて遠い国に行きました。そこで彼は、自分の欲望を満たすために全財産を使い果たしました。しかし、父は帰って来た息子を愛し、息子の悪い行いを裁きませんでした。
父なる神も同じであります。キリストを主と信じて、洗礼を受け、聖霊をいただいて神の子とされたわたしたちを、終わりの日に滅ぼすことはされません。むしろ、父親が放蕩息子を受け入れたように、わたしたちを受け入れてくださるのであります。
それゆえにパウロは、3章9節の御言葉に戻りまして、16-17節において次のように述べているのであります。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」
パウロのこの「知らないのですか」という問いかけは、これからたびたび出てきます。わたしたちは、キリストの言葉を聞いても、すぐに忘れてしまいます。パウロにすれば、キリスト者が知っているべき基本中の基本であっても、わたしたちは忘れてしまうのであります。だから、パウロはコリント教会の兄弟たちに、こんな大切なことは知っていいてほしいと願っているのです。
パウロが言う基本中の基本とは、「あなたがたは、神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいる」ということです。
「あなたがた」とありますので、コリント教会の兄弟たちのことであります。コリント教会の兄弟たちが一つのところに集まり、神の神殿となっているということです。そしてその集まりの内に聖霊が臨在されているのです。
注意してほしいことは、パウロは聖霊がわたしたち個々のキリスト者の内に内在されていることを述べているのではありません。パウロがここで述べているのは、コリント教会が神の聖所であるということであります。
モーセが建てた神の幕屋は、「臨在の幕屋」と呼ばれました(出エジプト記33:7)。神の民たちは、主に会い、伺いを立てるとき、臨在の幕屋に行きました。
コリントにある「神の教会」(1:2)も臨在の幕屋であり、神殿であると、パウロはコリント教会の兄弟たちに述べています。会堂に神は住んでおられません。しかし、日曜日に兄弟たちが教会に集まります時、そこに聖霊を通してキリストは臨在してくださり、兄弟たちとお会いしてくださいます。
それゆえにパウロは、コリント教会の中で分派争いしている者たちは、神の神殿を壊す者であり、神はその人を滅ぼされると警告したのであります。これは、有名な「目には目を」「歯には歯を」という神の裁きであります。
しかし、ここでもパウロは、コリント教会の兄弟たちに喜びと慰めと救いを述べています。「神の神殿は聖なる者だからです。あなたがたはその神殿なのです。」(17節)。
「聖」とは、神にささげられ、聖別されたものであります。聖は神の絶対的所有権を明らかにしています。コリント教会の兄弟たちは、「キリストによって聖なる者とされた人々」であり、「召されて聖なる者とされた人々」であります(1:2)。
コリントにある教会の教会員たちは、キリストの十字架の血によって、神の所有とされ、この世から分かたれました。ですからパウロの「あなたがたは神の神殿である」という宣言は、キリスト者は絶対的に神の所有であるという表明であります。そしてこれこそがキリスト者にとっての基本中の基本であります。
パウロにとって、コリントにある教会のキリスト者たちが、この基本中の基本を常に自覚し、知っていることが、今あるコリント教会の分派争いやほかの教会の諸問題、危機的な状況を克服し、打開できる道なのであります。
今ある教会を破壊しないために、教会が、わたしたちキリスト者の集いが聖であることを、パウロが勧めるように、わたしたちの基本の中の基本として自覚し、常に思い起こす必要があります。
わたしたちは、絶対的に神の所有であります。教会は、キリストの血で買い取られた、神の所有の群れであります。これを、常に自覚する者は、教会のどのような恥ずかしい姿を見ても、決して裁いたり、つまずいたりしません。むしろ、この教会を通して常に神と関係したいと願いでしょう。
ですから、今朝の御言葉から学びますことは、次のことであります。わたしたちは、諏訪湖畔教会を通して「あなたがたは神の神殿である」「神の神殿は聖なるものである」という神の恵みの事実の中に生きています。そして、その喜びを知り、わたしたちが日々神に感謝していることが、この教会とわたしたちのキリスト者としての生活の中で生じますあらゆる危機的状況を克服し、打開する道なのだということであります。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、パウロの「あなたがたは神の神殿である」という御言葉を通して、わたしたちが神の恵みの中に生きている喜びを知らされ、それを知ることが、わたしたちの教会とわたしたちの生活に生じて来るあらゆる危機的な状況を克服し、打開する道であることを学ぶことができて感謝します。
わたしたちもコリント教会の兄弟たちのように、神のため、教会のためといいながら、自分たちの肉の思いを捨てきれません。
この世の終わりにわたしたちの行いが、主の目に適わないとしても、それでもわたしたちは永遠からキリストにおいて選ばれ、神の恩寵の内に神の子としていただけていることを感謝します。
願わくは、この教会と兄弟姉妹たちを常に聖と見て、この教会において礼拝を通して神との関係の中に生かし続けてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。