コリントの信徒への手紙一説教23             主の2014年8月31日

 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいるとおもわれているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。
            コリントの信徒への手紙一第8章1-6節

 説教題:「唯一の神のみが存在する」
 今朝は、コリントの信徒への手紙一の第8章1-6節の御言葉を御一緒に学びましょう。

 使徒パウロは、この手紙の8章1節から11章1節まで、コリント教会のキリスト者たちが「偶像に供えられた肉について」質問したことを回答しています。

 コリント教会のキリスト者たちが使徒パウロに次の質問をしました。コリントの町は、わたしたちの日本と同じで、たくさんの神々が祭られ、人々は神々をあがめて、その偶像の前で動物の肉を供えました。当然供えられた肉は、神殿の祭司や神官たちが食べ、残った肉を市場に売りました。上等な肉ですので、町の人々は買って食べました。当然キリスト者もその肉を食べたでしょう。それが教会の問題となりました。偶像に供えられた肉は汚れており、それをキリスト者は食べることができるのかと主張する者たちが現れたからです。

 パウロは、コリント教会のキリスト者たちの質問に、良いか、悪いかの二者択一で回答しませんでした。むしろ、全く関係がないと思える知識と愛を基準にしてコリント教会のキリスト者たちに「偶像に供えられた肉について」、教会としてどうすべきかを考えさせようとしています。

 そこでパウロは、1節で「偶像に供えられた肉について言えば、『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです。」と答えています。

 実は、パウロは、コリント教会のキリスト者たちが日ごろ口にしていた「我々は皆、知識を持っている」という言葉をオウム返しに言っているのです。

 その知識とは、パウロが1章5節で「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」と述べているものです。偶像に供えられた肉に関係する知識としては、パウロが8章4-6節で述べている知識であります。

 わたしは、パウロがコリント教会のキリスト者たちに「偶像に供えられた肉について」のこの教会の問題を、単に知識で良いか、悪いかと判断して、解決できたと思ってほしくなかったと思います。

 パウロにとって教会の問題は、知識で解決するのではなく、愛で解決すべきものでした。

 そこで日頃から自分たちには特別な知識があると誇っていたコリント教会のキリスト者たちに、パウロは次のように忠告しました。

  2―3節です。「ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」
 
  パウロは、わたしたち人間の弱さをよく知っています。実際にコリント教会のキリスト者たちは、「自分たちには特別な知識がある」とうぬぼれていました。そして彼らの知識がコリント教会の教会形成を妨げていました。後にパウロが語ります強いキリスト者と弱いキリスト者の対立を生みだして、教会を混乱させていたからです。
 
  そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちに次のように謙遜さを勧めました。「あなたがたは、日頃から自分たちの知識を誇っているが、自分たちは何でも知っていると思っている人は、実は何も知らない未熟な者なのです。真の知識はいかに自分が無知な者であるかを、人間に悟らせるものです」と。
 
  このように述べて、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに彼らが質問した「偶像に供える肉について」、彼らの知識だけで、正しいか、間違っているかという判断で解決することを戒めたのです。
 
  では、パウロは、どんな問題の解決を求めているのでしょうか。愛で、解決することです。パウロは、「愛は造り上げる」と述べています。愛は、教会の兄弟姉妹たちを互いに建てると、パウロは述べています。主イエスは12弟子たちに「互いに愛し合いなさい」とお命じなりました。
 
  人は、知識で相手を切り捨てることがあります。しかし、愛は決して人を切り捨てることはありません。忍耐強く相手を見守り、相手の弱さを共感して心に留めて、一人のキリスト者へと成長できるように、共に歩むでしょう。まさに主イエスが12弟子たちと共に歩まれたように、です。
 
  パウロは、愛について面白い表現をしています。「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」言葉通りに理解しますと、神を愛する人は、神に選ばれた人ですということです。神に永遠から永遠において選ばれているので、その人は神を愛するのです。
 
  わたしは、パウロが教会の問題を、わたしたちキリスト者が神を愛することで解決すべきであると考えているのではないかと思いました。教会は、キリストの体であります。だから、神であるキリストを愛する人が、一番教会の問題を解決するのにふさわしいと思います。十字架のキリストの愛を知るキリスト者は、自分がキリストを通してどんなに深く父なる神に愛されているかを知っています。パウロは、その愛にわたしたちが応答して、神を愛し、キリストを愛し、兄弟姉妹を愛してこの教会の問題の解決にあたってほしいと願っているのです。
 
  こうして改めて4節よりパウロはコリント教会のキリスト者の質問に答えて、「偶像に供えられた肉を食べること」について回答しています。
 
  ここでもパウロは、コリント教会のキリスト者たちが日頃口にしていた言葉をオウム返しに述べています。「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。」と。
 
  これは、コリント教会のキリスト者たちの知識です。それを、パウロも受けいれています。だから、パウロは、この知識で異邦人たちの信仰を切り捨てようとしていません。
 
  なぜなら、パウロにとって異邦人たちは、敵ではありません。キリストの福音を伝えるべき相手であります。彼の愛する異邦人が、パウロが見ている通りに事実としてギリシア神話の神々を信じて、神殿で拝んでいるのです。また彼らは、人にすぎないこの世の英雄たちを、自分たちを助けてくれる救い主としてあがめているのです。また、パウロは悪霊であると思っていますが、異邦人たちは天や地に神々がいると思って、それらを拝んでいるのです。
 
  わたしには、パウロが暗黒の中にいる異邦人たちに真実の神を知らせて、彼らを暗黒の中から救い出したいと願って、6節で次のように述べているように、聞こえてくるのです。
 
  「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」
 
  神はただお一人です。わたしたちの父なる神がおられるのです。この父なる、ただお一人の神は、「万物がこの神から出た」創造主であり、わたしたちキリスト者と教会が「この神に帰って行く」目標であります。
 
  また、ただ一人の主がおられるのみです。ただ一人の主、イエス・キリストは、父なる神と共に永遠からおられました。万物はこのお方の仲介で創造され、存在を許されました。わたしたちキリスト者も同様です。主イエス・キリストは、永遠の神の御子ですが、わたしたちと同じ人となり、この世に来られました。そして、わたしたちの罪の身代わりに十字架に死なれ、復活を通してわたしたちの命を贖われました。わたしたちは、キリストによって再創造され、この世にいるのです。
 
  パウロは、偶像に供えられた肉についての教会の問題を、異邦人たちにキリストの十字架の救いを伝えたいという愛によって解決を図ろうとしているのです。
 
  わたしたちは、今朝のパウロの御言葉から知識だけで、人を救い、教会を建てることはできないことを学びました。
 
  今、わたしたちの教会に偶像に供える肉を食べることが教会の問題になることはありません。しかし、異教の社会の中でキリスト教会を建て上げること、まだイエス様を信じていない方々に、わたしたちの家族にキリストの救いを伝えることは、大きな課題であります。
 
  パウロは、異教徒たちをキリストの救いにあずからせることで、教会の中の異教の問題は解決を得ると、わたしは考えていたと思います。
 
  そのために何をすべきか。パウロが実行したことは、神を愛し、キリストを愛することです。わたしたちキリスト者が、神を愛し、キリストを愛することです。
 
  日本国際飢餓対策機構のカレンダーが、受付の正面の壁に貼ってあります。そこに今年のスローガンがあります。「わたしから始める、世界が変わる」と。とても励まされるメッセージであります。小さなことしかできませんが、小さなことでも、わたしたちが祈り、ささげるなら、それを神が用いて世界を変えてくださるのです。そのようにして世界に国際飢餓対策機構が建て上げられ、日本に建て上げられたのでしょう。
 
  わたしたちも今朝のパウロの御言葉を信じて、まずはわたしたちが神を愛し、キリストを愛することから始めようではありませんか。内村鑑三先生は、二つのJを愛すると言われました。主イエス(ジーザス)と日本(ジャパン)です。
 
  長期礼拝欠席者、若者への伝道、2016年問題、女性教師・女性長老の問題と、いろいろとわたしたちの教会にも問題があり、課題があります。これらを「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」というわたしたちの持つ知識で解決はできません。わたしたちが神を愛することで、神はわたしたちの教会を、日本と世界の教会を、そして神が創造されたこの世界を変えてくださると信じようではありませんか。
 
  お祈りします。
 
  イエス・キリストの父なる神よ、コリントの信徒への手紙一を学ぶ機会を得ましたことを感謝します。
 
  願わくは、聖霊の導きにより、パウロの思いをわたしたちの心に刻みつけてください。
 
  どうか、わたしたちが知識のみに頼ることなく、愛に生かしてください。
 
  パウロは、わたしたちに今朝の御言葉を通して、教会の問題をわたしたちが知識によってではなく、わたしたちが神を愛することで解決する道を示してくれました。どうかわたしたち一人一人に、わたしがかみを愛することはどういうことであるかをこの一週間心に思い描かせてください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

   コリントの信徒への手紙一説教24                      主の2014年9月7日

  しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。
             コリントの信徒への手紙一第8章7-13節

 説教題:「弱い者への配慮」
 今朝は、コリントの信徒への手紙一の第8章7-13節の御言葉を御一緒に学びましょう。

 コリント教会の事情は、強いキリスト者たちと異邦人の習慣から中々抜け出せずにいる弱いキリスト者たちのグループに分かれておりました。

 問題は、強いキリスト者たちに、パウロが知識よりも愛を求めている点であります。パウロは、「知識は人を高ぶらせ、愛は人を造り上げる」(2節)と述べていますように、知識を誇る強いキリスト者たちに弱いキリスト者たちへの愛と配慮を求めているのです。

 コリント教会の弱いキリスト者たちは、ローマ教会の弱いキリスト者たちのように強いキリスト者を裁くほど(ローマ14章)、意志の強い人たちではありません。むしろ、意志薄弱な人たちです。

  だから、パウロは彼らを、7節で「良心が弱いために汚されるのです」と述べ、9節で「弱い人々」と呼び、10節で「その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないか。」と述べています。そして、その結果、当然11節で「弱い人が滅びてしまいます」と述べています。
 
  このようにコリント教会の弱いキリスト者たちは、強いキリスト者たちが偶像の神殿で食事をしているのを見るだけで、意志弱く、引っ張られて一緒に食事をしてしまうのです。そして、弱いキリスト者たちは、その食事で肉を「偶像への供え物」という意識で食べるので、彼らの良心が汚されます。すなわち、彼らは、良心に責められるのです。自分たちは偶像礼拝をしているのではないかと。そして、信仰につまずいてしまい、コリント教会から離れ、主イエスから離れて、魂の滅びへと向かうことになるのです。

 そこでパウロは、強いキリスト者たちが、彼らの知識に基づいて自由な振る舞いをし、弱い者たちのつまずきを無視していることに注意を促しました。

 8節です。パウロは、強いキリスト者たちが日頃口にしていた言葉を、ここでもオウム返しに述べています。8節の御言葉は、元々、強いキリスト者が弱いキリスト者に言っていた口癖です。「食物がわたしたちを救うのではない。わたしたちを救うのは唯一の神である。だから、偶像に供えられた肉を食べたら、何かを失うこともないし、食べなかったら、何かを得られるわけでもない」と。

 パウロの御言葉を、少し注意して読みますと、パウロは、「食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」と述べています。これは、パウロが強いキリスト者たちの自由な振る舞いを皮肉っているのです。

  強いキリスト者たちは、偶像に供えられた肉を食べることで、自分たちのキリスト者としての自由をアピールしようとしていたでしょう。それに対してパウロは、「食べないことも食べることも、神には何の影響も与えないし、神とわれわれの関係にも影響はない」と答えました。

 そして9節でパウロは、強いキリスト者たちに次のように警告しました。「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」と。

  パウロにとって食べる・食べないの基準は、弱いキリスト者たちのつまずきになるかならないかにありました。

 パウロは、10節で具体的な例を挙げています。強いキリスト者たちが偶像の神殿で食事の席に着き、偶像に供えられた肉を食べることを批判しています。なぜなら、強いキリスト者たちの思いとは反対に、見てまねをした弱いキリスト者たちがその自由な振る舞いを心から喜ぶどころか、自分たちは偶像礼拝の儀式に参加して、主なる神に罪を犯したと思い、信仰につまずき、教会を離れ、魂を滅ぼすことになるからです。

 そしてパウロは、強いキリスト者たちの罪を、11節前半で次のように指摘します。「そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。」
 「滅びてしまいます」は、現在進行形で述べられています。キリスト者の地位から落ちて行くという意味です。それは、強いキリスト者たちの知識が原因であります。パウロがここで指摘しているのは、愛のない知識、弱い者への配慮のない知識は、教会にとってどんなに恐ろしいものかということです。兄弟を滅ぼしてしまうのです。

 そう述べて、パウロは一転して、11節後半で次のように述べています。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。」と。

 強いキリスト者たちから見れば、弱いキリスト者は意志薄弱で、もっとしっかりしなさいと励ましたい者たちであったかもしれません。あるいは、強いキリスト者たちに弱いキリスト者たちは無視されていたかもしれません。しかし、パウロは、一つの大切な真実を述べます。その真実によって、この世の教会は存在しているからです。それは、キリストは強いキリスト者たちのためにだけ十字架に死なれたのではありません。弱いキリスト者たちのためにも十字架に死なれたのです。キリストは、強いキリスト者も弱いキリスト者も共に、御自身の十字架を通してお召しになり、その事実の上にこの世にキリスト教会は存在しているのです。

 12節でパウロは、自由に振る舞う強いキリスト者たちに次のように彼らの罪を指摘します。「このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。」

 「良心が汚される」「良心が傷つく」。これは信仰のつまずきであり、魂の滅びへとつながるものですから、パウロはコリント教会のキリスト者たちに「キリストに対して罪を犯す」ことだと断言しています。
 
  主イエスも、兄弟を罪へと誘惑する者を次のように裁かれています。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」(マタイ18:6)と。
 
  パウロは、このキリストの御言葉を胸に、コリント教会の強いキリスト者たちを戒めたのです。
 
  結論として、パウロは、13節で、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」と述べています。
 
  パウロは、偶像に供えた肉を食べることについて、コリント教会のキリスト者たちの質問に答えました。そこで本当に問題とされたのは、肉のことよりキリスト教会の兄弟たちへのつまずきの問題でありました。
 
  教会は神の御子キリストが御自身の血によって御自分のものとなさった群れであります(使徒言行録20:28)。ですから、わたしたちが兄弟をつまずかせることはキリストに対する罪であります。コリント教会のキリスト者たちは、自分たちの知識に基づき、自由な振る舞いを重んじていましたが、パウロは、教会にとって大切なことは、弱い者を配慮する愛であると教えているのです。
 
  今から聖餐式を共にします。どうかその恵みあずかり、今朝パウロが語りました「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。」という御言葉を心にお留ください。キリストは、わたしのためだけでなく、あなたのためにも死んでくださったのです、だから、わたしたちも兄弟姉妹の心を傷つけることは、キリストに対して罪を犯すことになります。キリストは、12弟子たちに「互いに愛し合いなさい。それがわたしの新しい掟である」と命じられています。どうかわたしたちが互いに相手を配慮しながら、主と共に歩める者とされるようにと祈りましょう。
 
  お祈りします。
 
  イエス・キリストの父なる神よ、今朝もコリントの信徒への手紙一を学ぶ機会を得ましたことを感謝します。
 
  主イエスは、十字架の贖いを通して、地上の教会に男と女、子どもと大人、あらゆる種類の人々をお集め下さっています。強いものと弱いものがいます。わたしたちすべてのキリスト者たちのために、キリストは死んでくださいました。
 
  どうか、今朝の御言葉と聖餐の恵みを通して、その恵みに心を留めさせてください。聖霊よ、わたしたちに聖書の御言葉を理解する知識と互いに兄弟姉妹を愛せる心をお与えください。
 
  どうか、わたしたちの教会に食べ物のことで教会の問題はありませんが、わたしたちは知識のみに頼る弱さと、兄弟を愛し、配慮する心に欠けることがあります。自分中心に生きるのではなく、パウロのように神中心に生き、兄弟のためであれば、自分を犠牲にできる思いをお与えください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。



コリントの信徒への手紙一説教25                                       主の2014年9月14日

 わたしは自由なものではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。他の人たちにとってわたしは使徒ではないとしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。
 わたしを批判する人たちには、こう弁明します。わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。そもそもいったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、生き過ぎでしょうか。他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。
 しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それぐらいなら、死んだ方がましです・・・・。だれもわたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。
             コリントの信徒への手紙一第9章1-18節

 説教題:「パウロの誇り」
 今朝の9章で、パウロは「偶像に供えられた肉」を食べる問題からパウロが使徒であることを擁護することに脱線しています。そして、10章で偶像への礼拝の問題に戻っています。

 さて、使徒パウロはコリント教会のキリスト者たちに次のように述べて、彼が使徒であることを擁護しています。1-2節です。「わたしは自由なものではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。他の人たちにとってわたしは使徒ではないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。」

 パウロは、強いキリスト者たちに「弱いキリスト者をつまずかせるくらいなら、肉を食べることをしない」(Ⅰコリント8:13)と言いました。それを聞いた強いキリスト者たちの中には、パウロが使徒であることを疑う者たちがいたでしょう。なぜなら、彼らは、次のように思っていたからです。「パウロが本当に使徒であれば、なぜ使徒の権利を、他人の利益のために差し控えることをするのだろう。むしろ、わたしたちがキリスト者の自由を喜んで使うように、パウロも真の使徒であれば、使徒の権利を制限するよりも自由に使うはずではないか」と。

 ですから、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに自分が使徒であることを擁護するために、彼らに1-2節で4つの問いをしているのです。そして、パウロは彼の問いに、コリント教会のキリスト者たちが当然「イエス」と答えると思っています。

 パウロは、ダマスコへの途上で復活の主イエス・キリストの現れを目撃しました。使徒とは、主イエス・キリストの復活の証人であります。直接に主イエス・キリストの復活を証言できることが使徒として認められる条件でありました。

  それから、パウロは、異邦人の使徒の働きをした結果、コリント教会が建て上げました。主に結ばれたコリント教会のキリスト者たち自身が、パウロが使徒であることの生きた証拠でありました。
 
  この二つの証拠によって、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに「あなたがたはパウロが使徒であることを疑うことはできない」と述べています。

 続いて、3-12節前半でパウロは、コリント教会のキリスト者たちに「自分は使徒の権利と自由がある」と擁護しています。

 パウロは、コリント教会のキリスト者たちに3つの問いをしています。第1の問いは、飲み食いの権利と自由であります。第2の問いは、妻を持つ権利と自由です。第3は、生活費を得る仕事をしなくてもよい権利と自由であります。

 ここでパウロが次のことを主張しています。パウロは、他の使徒たち、すなわち、主の兄弟である使徒ヤコブやユダ、そしてペトロをはじめとする12使徒たちと同じように使徒の権利と自由を持ち、結婚もでき、コリント教会の支援も受けられると。

 そして、パウロが主張する根拠を、7-12節前半に次のように挙げています。人間生活とモーセ律法からその根拠を示しています。人間生活の面からは、兵役と農畜生活を例に挙げています。自費で戦争に行く者はいませんし、農業に従事する者が自分で作った米や野菜を食べないことはありません。羊の群れを飼う者が羊の乳を飲まないことはありません。

  次にモーセ律法からの根拠です。それは、申命記25章4節の御言葉です。「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない。」モーセは、イスラエルの民に「牛も労苦の実を食べることは許されている」と教えました。モーセ律法は、神がイスラエルの民のために与えられました。パウロは、それを広く「人間のために」与えられたと理解し、耕す者と脱穀する者が労苦して得た穀物から利益を得るべきであると教えています。ですから、パウロがコリントの町で労苦して福音の種をまき、コリント教会とキリスト者たちはパウロが労苦し福音の種を蒔いた実でありますから、コリント教会とキリスト者たちからパウロが経済的支援を受けるのは当然の権利でありました。
 
  さて、12節後半-18節は、パウロがコリント教会のキリスト者たちに使徒パウロの誇りを証ししています。
 
  日本の諺に「毒をもって毒を制す」とあります。コリント教会のキリスト者にとって「誇り」は「高ぶり、傲慢」という毒でありました。コリント教会のキリスト者たちは、自分たちが得た自由を誇り、弱いキリスト者たちの前で彼らの自由な振る舞いを見せて、弱いキリスト者たちの信仰のつまずきとなっていました。
 
  そこでパウロは、彼のへりくだった「誇り」を証ししました。パウロは、使徒としてコリントの町で労苦して福音の種をまき、今のコリント教会を建て上げました。人間的な言い方をしますと、彼がコリント教会の産みの親であります。彼は、父親としての権威があり、コリント教会のキリスト者たちに自分の権利を自由に要求することができました。
 
  しかし、パウロは、使徒の権利を用いませんでした。その理由は、キリストの福音を少しでも妨げないためでした。もしパウロが自分の権利を主張し、パウロは自分の利益を得るために信仰に導いたキリスト者たちを利用しているという悪いうわさが町に広まり、伝道の妨げになることを恐れました。ですから、パウロは自ら天幕造りをして生活費を得、教会の支援を得ないであらゆる労苦に耐えて伝道しました。
 
  パウロは、コリント教会のキリスト者たちに使徒の権利を用いないことを証しするために、使徒が教会の支援を得て、生活費を得ることは当然であり、主イエスの命令でもあると述べています。
 
  13節と14節です。申命記18章8節で、主なる神は大祭司アロンに次のように永遠の定めを言われました。「見よ、あなたには、イスラエルの人々が聖なる献げ物としてささげる献納物の管理を任せ、その一部を定められた分として、あなたとあなたの子らに与える。これは不変の定めである。」
 
  パウロは、エルサレム神殿で働くレビ人の祭司を念頭に置き、同じ原理を使徒と伝道者に適用しているのです。
 
  そして、何よりも主イエス御自身がルカによる福音書10章7節で、次のように主が遣わされた伝道者にお命じになりました。「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。」
 
  パウロは、主イエスの御言葉を根拠にして、次のように述べています。「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。」
 
  しかし、パウロは、当然使徒の権利であるが、むしろ、それを利用しないで、それを行使しないことを誇っていたのです。
 
  パウロは使徒ですが、キリストに仕える奴隷でありました。ですから、彼は、使徒の権利を行使しないで、無報酬の伝道の働きをしても、実は誇りにはなりません。キリストに仕える奴隷として、当然のことをしたにすぎないからです。むしろ、ダマスコで現れた復活の主イエスは、パウロを強いて異邦人の使徒に召されました。だから、「全世界の異邦人たちにキリストの福音を宣べ伝える」ことは、キリストに奴隷として仕えるパウロの務めであります。そして、主人のキリストは、この世の終わりに彼の奴隷が務めを忠実に実行したかどうかを裁かれます。パウロは、務めに不忠実であれば、再臨のキリストの裁きの前でその罪を問われ、裁かれるのです。
 
  異邦人たちに伝道することには、パウロは選択の余地はありませんでした。これは、パウロが主イエスに委ねられた務めであったからです。ただ主に仕える奴隷として忠実さを求められました。
 
  しかし、パウロが伝道する時に、使徒の権利を用いるかどうかは、パウロは選択する自由がありました。その選択の自由にパウロの誇りと報酬がありました。つまり、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに経済的に支援を要求して伝道する権利を持っていました。同時にその権利を差し控える自由を持っていました。パウロは、使徒としてそのどちらかを選ばなければならないという制約の中にはいませんでした。
 
  一見、今朝の御言葉は、「偶像に供えた肉」を食べる問題と関係がないように見ますが、実は深くつながっています。それは、キリスト者の自由の問題であります。キリスト者には、自由があります。キリストの十字架の贖いにより、キリスト者は罪と律法と死から解放され、キリストにあってすべてが許されているという自由を得ました。
 
  パウロは、今朝の御言葉で、自分が使徒であることを擁護しながら、実はキリスト者は、自由をどのように用いるべきであるのかを、コリント教会の強いキリスト者たちに訴えているのです。
 
  キリスト者の誇りは、キリストの十字架の贖いによってキリスト者に与えられた自由を、コリント教会のキリスト者たちがどのように用いるかにあるのです。具体的に言えば、どのように兄弟姉妹を愛するかに関わるのです。
 
  パウロは、彼に与えられた使徒の権利と自由を、「弱い兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を食べない」という決断によって、使用しました。また、「キリストの福音を少しでも妨げてはならない」ということを、パウロは決断し、使徒の権利と当然得られる生活費を差し控えて、自分で天幕造りの仕事をし、自給伝道に励みました。
 
  今朝のパウロの御言葉から、わたしたちは何を学ぶのでしょうか。第1にパウロだけでなく、十字架のキリストの贖いにあずかるわたしたちも、キリストの奴隷、キリストの所有です。家族伝道、地域伝道は、主イエスからわたしたちに託された務めです。家族伝道している、諏訪市内で伝道している、これはわたしたちの誇りになりません。キリストに仕える奴隷としてのわたしたちに委ねられた務めであるからです。
 
  第2にわたしたちは、キリストの十字架の贖いにより、罪から、死から、律法から自由にされました。わたしたちは、日常生活の中でわたしたちに与えられた自由で、ほとんどの事柄を決断し、するか、しないかを選択し、着るか、着ないかを選択し、食べるか、食べないかを選択し、買うか、買わないかを選択しています。それは、わたしたちキリスト者の自由であります。その自由をより神に祝福された自由とするために、その自由を自分のために使うのではなく、弱い兄弟姉妹をつまずかせないために、教会の成長と伝道を妨げないために用いることを、今朝パウロから教えられました。

  お祈りします。
 
  イエス・キリストの父なる神よ、今朝コリントの信徒への手紙一から、わたしたちキリスト者の誇りが何であるかを教えられ、感謝します。
 
  わたしたちは、主イエス・キリストの十字架の贖いを通して、自由を得ました。どうかわたしたちキリスト者の自由を、使徒パウロが用いましたように、弱い兄弟をつまずかせないために、教会の成長と伝道の妨げにならないことを配慮して、用いさせてください。
 
  わたしたちは、キリストの贖いを通して、主イエス・キリストの所有とされました。わたしたちは、主イエスに仕える奴隷です。主イエスは、今からわたしたちをわたしたちの家族のもとに、諏訪地方の人々の中にわたしたちを使わされます。わたしたちは、福音を告げ知らせる務めを委ねられています。どうかこの務めを忠実に果たさせてください。
 
  パウロはコリント教会のキリスト者たちからの経済的支援を得る権利を捨て、自給伝道をし、多くの苦難を耐え忍びました。今わたしたちの教会は、2016年問題を全員懇談会で話し合う予定であります。わたしたちの教会は灘教会、西部中会、CRC、東部中会より援助を得て、伝道と教会形成に励んできました。今経済的独立の道を選択することを示されています。小さな群れでありますが、恐れることなく、パウロのようにすべてを主に委ね、自給教会の歩みへとお導きください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。