コリントの信徒への手紙一説教41     主の2015年3月8日

 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
 「死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
           コリントの信徒への手紙一第15章50-58節

説教題:「キリストにより勝利を賜る」
 本日は、コリントの信徒への手紙一第15章50-59節の御言葉を学びましょう。

 パウロは、この15章で死者の復活を否定するコリント教会のキリスト者たちに「死んだキリスト者たちの終わりの日における復活」を、次のように明らかにしようとしました。

  パウロは、まず教会の福音宣教に注目しました。キリストが罪のために死に、三日目に死者の中から復活し、12使徒たちや500人以上のキリスト者たちに現れ、パウロにも現れたという真理を確認しました。
 
  次に死者の復活がなければ、キリストの復活もなく、教会の福音宣教の空しさを指摘しました。さらにパウロは、復活には順序があることを教えました。最初にキリストの復活、そしてキリストの再臨時に死んだキリスト者が復活すると。
 
  さらにパウロは、死者の復活がなければ、キリスト者の生活に大きな影響のあることを教えました。たとえばコリント教会のキリスト者たちは死者のために代わって洗礼を受けているが、無意味であると説得しました。また、キリスト者が迫害に耐え、危険を冒して福音宣教することも無意味であり、今を楽しく生きればよいのではないかということになり、キリスト者の教会生活と礼拝生活というよき習慣を失うことになると論じました。
 
  そして、パウロは、復活のからだがどのようなものであるか、植物の種を蒔くことと蒔いた種が新しい芽を出して成長することをたとえて、説明をしました。パウロは、天上の栄光の体と地上の体との違いを、太陽や月、星の輝きとの違いで説明し、最初のアダムに属する地上の自然の生命の体とキリストに属する天上の栄光の霊の体との違いを説明しました。
 
  そしてパウロは、今朝の御言葉で終末の奥義を語り、コリント教会のキリスト者たちを励ましています。
 
  パウロは、コリント教会のキリスト者たちに死者の復活について教えて来ました。そこで彼がコリント教会のキリスト者たちに「わたしはこう言いたいのです」と言って、終末の奥義について語り始めます。35節からパウロは、死者の復活の体について教えましたが、「わたしが意味するところは、これです」と言ったのが、「わたしはこう言いたいのです」というパウロの発言です。
 
  パウロは、復活の体を、キリストの栄光の体に似ると言いました。わたしたちの今の体では、神の御国に入ることはできません。わたしたちの体は、肉と血からできています。確かに今は生きた体ですが、死ぬべき体でもあります。この体では永遠の御国を受け継ぐことはできません。わたしたちの今の体は朽ちるものです。御国は永遠のものです。主イエスは、「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れなければならない」と言われたように、神の国に入るわたしたちの体は、今の朽ちて死ぬべき体ではふさわしくありません。朽ちず、永遠の命の体でなくてはなりません。
 
  そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちに神秘を告げるのです。神秘とはミステリーです。これは、パウロが神より新しい啓示を受けたという意味です。つまり、わたしたちがパウロに「どのようにしてわたしたちの体は神の御国に入れられるのか」と尋ねると、パウロは「神秘」という形で神から新しい啓示を受けたと答えているのです。
 
  キリストの復活の以前には、神がわたしたちの目から隠されていました。死んだキリスト者が神の国に入るには、霊の体に、すなわち、霊的で、不死の体に復活する必要がありました。そしてキリストの再臨時に生きているキリスト者も、その時に霊的で、不死の体に変えられる必要があります。
 
  わたしたちキリスト者は死んでいても、生きていても、今のこの体から霊の体に、復活されたキリストの栄光の体に変えられなければ、神の国に入ることはでいません。そして、この変えられることが、パウロの告げている「神秘」であり、神の新しい啓示です。
 
  51節の「眠りにつく」とは死ぬことです。パウロは、「わたしたちキリスト者はすべて死ぬわけではない」と述べています。キリストの再臨時にこの地上に生きているキリスト者がいるのです。しかし、死んでいても、生きていても、わたしたちが神の国に入るためには、今のわたしたちの体とは異なる状態に変えられていないと神の国に入ることはできません。
 
  52節の「最後のラッパが鳴るとともに」とは、キリストの再臨を告げ知らせることです。わたしが神戸改革派神学校の学生の頃に改革派教会の創立者岡田稔先生と春名寿章先生がこの「最後のラッパの音はどれぐらい大きいものか」と、ラッパ論争をしたと、お聞きしたことがあります。
 
  最後のラッパが鳴り、キリストが再臨されると、一瞬のうちにわたしたちの体は変えられます。死んだキリスト者の体は復活して朽ちないものとなり、その時生きているわたしたちも霊的な朽ちないものに変えられます。
 
  この変容を、パウロは54節で「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」と表現しています。この変容は死んだキリスト者の体とその時生きているキリスト者の体に同時に起こるのでしょう。その時に生きているキリストの体は、一瞬にして朽ちる死ぬべき体から朽ちない死なない体に変えられます。主イエスが、山上で栄光の体に変わられたように、わたしたちキリスト者の体も主の再臨の時にキリストと同じ栄光の体に変えられるのです。
 
  このわたしたちキリスト者の復活の神秘は、すでに旧約聖書の二人の預言者がその実現を預言していたと、パウロは指摘します。54節の「死は勝利にのみ込まれた」という御言葉は、旧約聖書のイザヤ書25章8節の預言者イザヤの預言であります。「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい 御自分の民の恥を 地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。」
 
  55節の「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」という御言葉は、旧約聖書のホセア書13章14節の預言者ホセアの預言であります。「陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか。死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。憐れみはわたしの目から消え去る。」
 
  パウロは、復活を信じる者の勝利を賛美します。わたしたちに復活の体が与えられる時、栄光のキリストの体を、わたしたちが得るとき、わたしたちの前から最後の敵である死が滅びるのです。キリストが復活によって死に勝利されたので、死はキリスト者にとって無力にされました。確かに現実のわたしたちは朽ちるべき、死ぬべき体を持ち、一見死に支配されているように見えますが、もはやキリスト者は死に囚われてはいません。むしろ、夜に睡眠します時に朝の目覚めが保証されていますように、キリスト者は復活のキリストのゆえに死ぬときに復活が保証され、そしてわたしたちが復活する時、完全に死に勝利するのです。
 
   パウロは、わたしたちキリスト者がキリストにより罪と死からの勝利を賜ったことを感謝するように勧めています。
 
  56節にパウロは、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」と述べています。確かに全人類の代表者アダムの罪により、全人類に死の支配が入り込みました。そして律法が罪の支配を確立しました。なぜなら、罪は神の律法に違反することだからです。
 
  ところがキリストがわたしたちの罪のために十字架に死に、そして死者の中からの復活によって死に勝利されました。父なる神は、御子キリストの十字架と復活を通してわたしたちに罪と死に対する勝利をお与えくださいました。
 
  わたしたちは、月1度礼拝において聖餐式をします。パウロが「死は勝利にのみ込まれた」というその勝利は、主イエス・キリストの勝利であります。預言者イザヤとホセアが預言した御言葉は、キリストの十字架と復活において実現しました。そして、聖餐式の式文で「主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである」と述べられるように、主イエスが再臨される時の勝利は、「主の死」による死への勝利であります。復活されたキリストが、真の人として神の律法を完全に守られ、十字架の死によって律法の要求を満たされ、罪の力は無力となりました。死の刺が復活のわたしたちの体から抜け落ちました。ですから、聖餐式の神秘は、キリストの再臨の時に実現するのです。
 
  使徒パウロは、愛するコリント教会のキリスト者たちに、そしてわたしたちに次のように勧めます。「わたしの愛する兄弟たち、わたしたちはキリストにより罪と死に対する勝利を神から賜っているのだから、次の二つのことに励みましょう。」
 
  第1にキリスト信仰に堅くたつこと、第2にキリストの十字架と復活の福音を宣べ伝え、キリストの体なる教会を建て上げる主の御業に励むことです。
 
  洗礼によってキリストと結ばれていることを確信するキリスト者は、キリストが十字架に死なれた時に自分も共に罪に死に、キリストが死者の中から復活された時に自分も共に永遠の命に復活することを確信しています。ですから、信仰と伝道のためにどんな労苦にも耐えることができ、すべてが益となることを知っていると、パウロはわたしたちキリスト者を励ましています。
 
  お祈りします。
 
  イエス・キリストの父なる神よ、今朝は使徒パウロがわたしたちにキリストの勝利を賛美し、わたしたちがキリストと共に罪と死に勝利した喜びを教え、励ましてくれていることを学ぶことができて感謝します。
 
  レントの季節、キリストの御受難を覚えて日々を過ごしております。コリントの信徒への手紙一の15章の復活の教理にしっかりと立ち、再臨のキリストを常に目標とし、歩ませてください。
 
  願わくは、死者の中から復活されたキリストのイースターの喜びへとわたしたちをお導き下さり、聖餐式ごとに復活の神秘にあずかり、来るべき御国を待ち望ませてください。この願いと祈りを、主イエス・キリストの御名によっておささげします。アーメン。

 

 

コリントの信徒への手紙一説教42     主の2015年3月15日

 聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることがないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。そちらに着いたら、あなたがたから承認された人たちに手紙を持たせて、その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう。わたしも行く方がよければ、その人たちはわたしと一緒に行くことになるでしょう。
           コリントの信徒への手紙一第16章1-4節

説教題:「聖なる者を助ける募金」
 いよいよ、コリントの信徒への手紙一第16章に入りました。この手紙の最後の章を学びましょう。パウロは3つのことを述べています。第1に「聖なる者たちのための募金について」です。第2にパウロがコリント教会を訪問する計画についてです。そして、第3にこの手紙の結びのパウロの挨拶の言葉です。

 さて、コリントの信徒への手紙一の7章から16章4節まで、使徒パウロは、コリント教会のキリスト者たちが彼に手紙で質問したことについて答えて来ました。その最後が「聖なる者たちのための募金について」の質問であります。

 それは、聖書の見出しにありますように「エルサレム教会の信徒たちのための献金」についての質問に、パウロが答えています。

 「聖なる者」とは、使徒信条で告白します「聖徒の交わり」の「聖徒」のことです。信徒のことを「聖徒」と呼びますので、新共同訳は見出しに「エルサレム教会の信徒のための献金」という題を付けています。

  「聖なる者」とは聖なる神と関係がある者であり、キリスト者は罪に汚れた罪人ですが、父なる神の愛により、キリストの十字架の贖いによって罪より救われ、聖霊なる神のお働きで清められ、神に聖なる者として受け入れられました。だから、「聖なる者」「聖徒」であり、キリストの体なる教会の構成員です。

 ですから、こ募金は、エルサレム教会の貧しいキリスト者のための献金のことです。

  どうして新共同訳聖書は献金を「募金」と訳しているのでしょう。それは、パウロが「集金」という言葉を使っているからです。エルサレム教会の貧しいキリスト者たちを覚えて、異邦人教会で「集金をする」ことは、パウロの異邦人伝道にとって重要な働きでした。
 
  パウロとバルナバが異邦人伝道を始めました。二人は、エルサレム教会を訪れ、主だった使徒たち、ペトロとヨハネ、そして主イエスの弟であるヤコブと会い、自分たちが異邦人の使徒であることを承認させると共に、「わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないように」と約束しました。ガラテヤの信徒への手紙2章でパウロが書いています。エルサレム教会の貧しいキリスト者たちを助けることは、異邦人の使徒としてのパウロにとって大切な働きでした。
 
  ですから、パウロは異邦人伝道をし、建て上げた教会で異邦人キリスト者たちにエルサレム教会の貧しいキリスト者たちのための募金を訴えました。おそらくコリント教会のキリスト者たちもエルサレム教会の貧しいキリスト者たちのための募金について耳にしたのでしょう。彼らは、パウロに手紙を書いてエルサレム教会の貧しいキリスト者たちのための募金にどのように参加できるかを熱心に質問したのでしょう。
 
  そこでパウロは、「ガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい」と命じました。パウロのこの「ガラテヤの諸教会に指示した」ことは現在残っていません。ガラテヤの信徒への手紙から推測するほかありません。それによれば、次のような指示であったと思います。まずエルサレム教会の貧しいキリスト者たちのことを覚えて、彼らを助けるための募金です。その募金の精神は、ガラテヤの信徒への手紙6章によれば、信仰に基づいた助け合いです。そこでパウロは、ガラテヤの諸教会のキリスト者たちに「互いに重荷を担い合いなさい」と命じています。エルサレム教会の貧しいキリスト者たちは、異邦人キリスト者たちのために福音宣教を担いました。異邦人教会のキリスト者たちはエルサレム教会の貧しいキリスト者たちを経済的に支えました。そしてこの募金は、「信仰によって家族になった人々に対して、善を行ないましょう」(ガラテヤ6:10)と、パウロがガラテヤの諸教会に指示したことを、コリント教会のキリスト者も実行するように命じているのでしょう。

 続いてパウロは、コリント教会のキリスト者たちに2節でどのように実行するかを具体的に指示しています。

 今パウロは、小アジアのエフェソ教会におり、近々コリント教会を訪問する計画を立てています。そこでパウロは、彼がコリント教会を訪問してから募金を始めることがないように指示します。

  コリント教会のキリスト者たちが「週の初めの日」ごとに、すなわち、毎週の日曜日ごとに各々が自分たちの収入の一部を貯えておいて、パウロが訪問した際にはエルサレム教会の貧ししいキリスト者たちの募金を用意しているように指示しています。
 
  募金は、毎週日曜日に教会で行われ、教会の会計に渡されるよりは、毎週日曜日にコリント教会のキリスト者たちが彼らの収入の一部を家に貯えておき、パウロが訪問する時に渡せるようにしたのでしょう。
 
  さらに募金をエルサレムまでどのように運ぶかも、パウロは3-4節で指示します。
 
  3節でパウロは、エルサレム教会に献金を運ぶ人たちを、「あなたがたから承認された人たち」と言っています。コリント教会のキリスト者たちが承認した代表者たちに手紙を持たせて、募金を「贈り物」としてエルサレム教会まで運ばせました。使徒言行録20章4節におそらくこの募金を運んだ代表者たちの名前が列挙されています。
 
  さらに4節でパウロ自身も、募金がエルサレム教会に運ばれる時に同行しましょうと述べています。そして実際にパウロは、同行しました。
 
  今朝のパウロの御言葉からわたしたちの献金について、次のことを学ぶことができます。
 
  第1にこのエルサレム教会への募金は、エルサレム教会の貧しいキリスト者たちを覚えての献金です。エルサレム教会への愛の援助献金です。この献金の精神は、信仰に基づいた助け合いです。わたしは、東部中会の甲信地区の教会・伝道所への援助金は、この募金と同じであると思います。小さな教会と伝道所の群れを覚えてなされる信仰に基づく助け合いであり、東部中会全体がこの援助金によって互いに重荷を負い合っています。
 
  第2にわたしたちは、献金の原理を学ぶことができます。わたしたちの献金は「各自収入に応じて」なされます。すなわち、わたしたちの仕事が順調で、首尾よく儲けがあれば、自由にその儲けを献金すべきであると、パウロはわたしたちに勧めています。なければ、献金ができないのは当然です。献金というものは人に強いられてするものではないということです。
 
  さらに献金は、キリスト者の善であります。パウロは、わたしたちに「信仰によって家族になった人々に対して、善を行なう」ことを勧めています。具体的なころは、「分かち合い」であり、貧しいキリスト者たちへの献金、また教会やキリスト者たちが必要とすることのために献金することです。
 
  献金は、わたしたちが神の家族の一員であることのアイデンティティーであります。わたしたちは、キリストの十字架と復活を通して救われ、共に神の家族とされた喜びを、礼拝で献金をささげるという感謝の応答を通して証ししているのです。
 
  第3にわたしたちは献金を、常にあらかじめ備えておくべきです。わたしたちが毎週の日曜日に献げる献金は、その場で用意するのではありません。わたしたち各自が収入を得ました時に、維持献金と礼拝献金、その他教会とキリスト者たち、またこの世のためにキリスト者たちが必要とする献金のために、手もとに取って置くのです。そして残った収入でわたしたちは生活すべきです。パウロは、わたしたちの収入を神にささげる献金とこの世でわたしたちが使うものとを分けるべきであることを、そうすることで献金は聖別されたものとなることを教えています。

  お祈りします。
 
  イエス・キリストの父なる神よ、今朝は使徒パウロから献金について学ぶ機会が与えられて感謝します。
 
  今レントの季節を過ごしています。キリストの御受難を覚えて日々生活しています。日々の仕事で得た収入から、また年金から献金を手もとに取り、あとの残りで日々の生活を営ませてください。
 
  東部中会の援助金を受けていることを、感謝します。信仰によって、共に神の家族として助け合えることを感謝します。願わくは、わたしたちの教会が経済的独立できるようにしてください。この願いと祈りを、主イエス・キリストの御名によっておささげします。アーメン。

 

 

コリントの信徒への手紙一説教43     主の2015年3月29日

 わたしは、マケドニア経由でそちらへ行きます。マケドニア州を通りますから、たぶんあなたがたのところに滞在し、場合によっては、冬を越すことになるかもしれません。そうなれば、次にどこに出かけるにしろ、あなたがたから送り出してもらえるでしょう。わたしは、今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくない。主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したいと思っています。しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです。
 テモテがそちらに着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようお世話ください。わたしと同様、彼は主の仕事をしているのです。だれも彼をないがしろにしてはならない。わたしのところに来るときには、安心して来られるように送り出してください。わたしは、彼が兄弟たちと一緒に来るのを、待っているのです。
 兄弟アポロについては、兄弟たちと一緒にあなたがたのところに行くようにと、しきりに勧めたのですが、彼は今行く意志は全くありません。良い機会が来れば、行くことでしょう。
           コリントの信徒への手紙一第16章5-12節

説教題:「伝道者の祝福」
 本日より受難週に入ります。週報の報告にマルコによる福音書とイザヤ書に従って主イエス・キリストの御受難の一週間を瞑想し、日々をお過ごしいただき、次週のイースターを迎えていただければ幸いであります。

  さて、今朝は、パウロのコリントの信徒への手紙一の最後の章のパウロがコリント教会のキリスト者たちにコリント教会を訪問する計画を書き送っている御言葉を学びましょう。
 
  パウロは、コリント教会のキリスト者たちの最後の質問に答えて、コリント教会のキリスト者たちにパウロがコリント教会を訪れるまでにエルサレム教会の貧しいキリスト者たちを支援する募金を集めておくように命じました。そして、コリント教会の代表者たちがその募金をエルサレム教会まで届けるように指示しました。できれば、パウロ自身が募金をエルサレム教会に届ける者たちに同行することを知らせました。
 
  パウロがコリント教会を訪れるという旅行を計画した目的は、次の二つです。第1にエルサレム教会の貧しいキリスト者たちへの募金を、コリント教会の代表者たちに同行してエルサレム教会に届けるためです。第2にパウロが手紙に書いていますように、しばらくコリントに滞在し、コリント教会のキリスト者たちと生活を共にするためです。

 さらにパウロは、今の自分がエフェソで主に大いに用いられている消息を知らせ、彼がコリント教会へ遣わした伝道者テモテを世話してほしいと頼み、そして伝道者アポロの消息を伝えています。

 今パウロは、小アジアのエフェソの町に滞在し、この手紙を書いています。パウロは、8節で「五旬祭まではエフェソに滞在します」と記しています。「五旬祭」とは、50日目の祭という意味です。旧約聖書の時代、大麦の初穂を主なる神に供えてから50日目に祝われた祭りです。「五旬節」「ペンテコステの祭」とも呼ばれています。「五旬節」とは7週間を経過するという意味で、「7週の祭」とも呼ばれています。旧約時代の神の民たちは、エジプトから解放されたことを記念するためにこの祭を祝いました。そして、モーセがシナイ山で主なる神から十戒の板を授かりましたことを記念する祭になりました。

 新約の時代は、キリストの復活と昇天後、ペンテコステの祭の日に弟子たちがエルサレムの家に集まりました時に聖霊が下られ、新しい命、力、恵みがもたらされ、キリスト教会が生まれました。聖霊降臨日であります。

 パウロは、ペンテコステの祭の日まで、おそらく5-6月ごろまでエフェソに滞在するつもりでした。その後にパウロが5節で「わたしは、マケドニア経由でそちらに行きます」と記しています。おそらく5-6月ごろパウロは、エフェソから船に乗り、マケドニア州に渡り、そこから陸路を歩いて、コリント教会を訪れようと計画していました。

  「マケドニア州を通りますから」とは、「マケドニア州は通り過ぎるつもりですから」という意味です。使徒言行録20章にはパウロがエフェソを去り、マケドニア州に行き、おそらくフィリピ教会、テサロニケ教会等を訪れ、兄弟姉妹たちを励ましながら旅したことを記しています。しかし、パウロはマケドニア州に長く滞在しませんでした。なぜなら、パウロが、6節でコリントに長く滞在することを記していますように、コリント教会を訪問し、そのまま冬を越すつもりでいたからです。
 
  そして、パウロは、この手紙ではコリント教会を訪問した後のことを明らかにしてはいません。パウロは、「次にどこに出かけるにしろ、あなたがたから送り出してもらえるでしょう」と記しています。使徒言行録の20章では、パウロはコリント教会を訪問して3カ月滞在しています。
 
  その後エルサレム教会へ募金を運ぶコリント教会の代表者たちに同行し、エルサレム教会に向かっています。
 
  パウロがコリント教会を訪問し、冬を越して滞在したのは、この手紙をコリント教会に書き送った直後の冬ではありません。どのぐらいの期間があったか、分かりません。分かっていることは、この手紙に記されていますように、パウロがエルサレムに出発する前の冬を、コリントで過ごしたということです。
 
  パウロの旅の計画は、「主が許してくだされば」、可能な計画でありました。木曜日の聖書の集いで学んでいます旧約聖書の箴言に「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」(箴言16:9)とあり、また、「人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか」(同20:24)とあります。だから、パウロは、この手紙で自分がコリント教会を訪問する旅を今計画しているが、主なる神の導きと御支配の下でのみ可能であることを記しています。

 続いてパウロは、彼のエフェソでの消息を伝えています。使徒言行録の19章にエフェソの町の大騒動が記されています。この手紙はその大騒動の前に書かれたのでしょう。ですから、パウロは、8-9節で「五旬祭まではエフェソに滞在します。わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです」と記しています。「門」とは異邦人たちがキリストの福音を受け入れるという機会をたとえています。今エフェソの町では多くの異邦人たちがパウロたちの伝えるキリストの福音を受け入れる大きな機会が与えられておりました。同時に異教徒たちが危機を覚えて、パウロたちの働きを妨害していたのでしょう。その妨害の代表的な出来事が、アルテミスの神殿の模型を造っていた銀細工師たちが仕事を失いそうになり、エフェソの町で大騒動を起こしたことです。

 パウロは、弟子のテモテをコリント教会に遣わしたことを記しています。使徒言行録の19章22節にパウロが「テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し」と記しています。

  この手紙は、その後で出されたのでしょう。テモテとエラストはコリントについていません。マケドニア州のキリスト教会を訪問しながら、コリントに向かっていたのでしょう。10-11節でパウロは、テモテがコリント教会に着いたら、衣食住の心配をしないですむように、彼の世話をお願いしています。
 
  パウロがコリント教会のキリスト者たちにテモテの世話を依頼した理由は、テモテもパウロ同様に「主の仕事」をしているからです。「主の仕事」とは、福音宣教です。キリストは、12弟子たちを福音宣教に遣わされました時に、「働く者が食べ物を受けるのは当然である」(マタイ10:10)と言われました。テモテは、キリストのために働く者であり、キリストの福音をコリントの町の人々に伝え、コリント教会においては説教をし、牧会の働きをしていたでしょう。ですから、コリント教会のキリスト者たちがパウロ同様にテモテを世話することは、彼らの義務でありました。ですから、パウロはコリント教会のキリスト者たちにテモテが心配なく過ごせるように世話をし、エフェソの自分のところへ送り返してほしいと、この手紙で依頼しています。パウロは、エフェソの町でテモテがエラストと一緒にコリントから戻ってくるのを待っていました。
 
  ここでパウロは、コリント教会のキリスト者たちに主の仕事をしているテモテをないがしろにしないように勧めています。「主の仕事」は福音宣教です。それは、主イエスが聖霊をとおしてなされている主の御業であります。伝道者は、主の器として用いられています。器には価値はありません。しかし、主は伝道者という器を用いて御自身の救いの御業をなされているのです。そこに伝道者の祝福があります。
 
  最後にコリント教会に関わりましたアポロについて、パウロは彼の消息を伝えています。アポロがパウロの近くに、エフェソにいたかは分かりません。パウロは、アポロとおそらく手紙で連絡を取り合っていたのでしょう。アポロにコリント教会に行くように、パウロは熱心に勧めたようです。しかし、アポロにはコリント教会へ行き、主の仕事をする意志はありませんでした。ですから、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに「良い機会が来れば」、すなわち、「主が許してくださるならば」、アポロがコリント教会に行き、主の仕事をするでしょうと伝えています。
 
  パウロがコリント教会にアポロの消息を伝えたのは、コリント教会内にはパウロ派とアポロ派との対立がありますが、パウロとアポロとの仲は良好であることを伝えるためであったでしょう。
 
  今朝学びました御言葉から、わたしは次のことを心に留めたいと思うのです。第1に福音宣教と執事活動は、教会の働きの両輪であります。この二つのことを一つにした言葉が、「主の仕事」であります。厳密には、「主の業」であります。教会は、主の御業を行なっているのです。それが福音宣教と執事活動であります。「福音宣教」とは、礼拝と伝道です。それを通して主イエスは、聖霊と御言葉によって御自身の救いをなさっています。御自身の民を教会に集め、御自身の命の恵みをお与えくださっています。同時に牧会と施しを通して、主イエスは御自身の癒しの御業をなされているのです。その器として用いられる伝道者の祝福を、パウロはコリント教会のキリスト者たちに、そして、今この手紙を学びますわたしたちに心留めるように勧めてくれています。
 
  第2に、教会がしていること、キリスト者がこの世でしていることは、「主が許してくだされば」、可能であるということです。わたしたちは、この世で自分の思いどおりのことをしているのではありません。「主が許してくだされば」ということだけをしているのです。それが失敗の出来事であっても、人に恥ずかしいことでも、自分に受け入れられなくても、「主が許してくだされば」、教会の中で、そしてわたしたちの中で起こるのです。主の導きと御支配の中で、わたしたちの教会は福音宣教をし、執事活動をし、わたしたちは奉仕をしています。大切なことは、わたしたちは主の器であり、主の御心だけが実現するのです。だから、失敗することがあり、恥ずかしいことがありますが、それは主の導きと御支配の中で起こったことです。もちろん喜ばしい出来事も起こります。どんなことでも、「主が許してくだされば」、可能となるのですから、わたしたちはすべてのことに主に感謝をささげることができるのです。何よりも教会でこそ、キリスト者だからこそ、主が許されたことを、許すことができるのではないでしょうか。
 
  どうか、今週から受難週が始まります。十字架の主イエスの御苦しみを覚えて、「主が許してくだされば」という今朝の御言葉を、この一週間心に留めて日々感謝をもって歩もうではありませんか。
 
  お祈りします。
 
  イエス・キリストの父なる神よ、今朝は使徒パウロから伝道者の祝福について学ぶ機会が与えられて感謝します。
 
  今レントの季節を過ごしています。来週より受難週を迎えます。キリストの御受難を覚えて、「主が許してくだされば」という御言葉に心を留めて、1週間の日々を歩ませてください。
 
  教会とわたしたちは、主の器として主の仕事をなせることを感謝します。礼拝がなされ、伝道がなされ、執事活動がなされ、主イエスが今も聖霊と御言葉を通して御自身の救いの御業をされていることを、わたしたちが見させていただけることを感謝します。
 
  わたしたちは、弱い土の器です。失敗をしますし、間違いをします。恥ずかしいこともします。どうか「主が許してくだされば」という今朝の御言葉をわたしたちの心に留めさせてくださり、どんな時にも、どんな事にもわたしたちと教会は十字架のキリストのゆえに赦されていること、また主の導きと御支配の中に置かれていることを、感謝して受け入れさせてください。
 
  4月5日のイースター伝道集会のために今週もチラシを配ります。主よ、お用いください。わたしたちの家族や近隣の人々をお招きください。
 
  この願いと祈りを、主イエス・キリストの御名によっておささげします。アーメン。



コリントの信徒への手紙一説教44     主の2015年4月12日

 目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行ないなさい。
 兄弟たち、お願いします。あなたがたも知っているように、ステファナの一家は、アカイア州の初穂で、聖なる者たちに対して労を惜しまず世話をしてくれました。どうか、あなたがたもこの人たちや、彼らと一緒に働き、労苦してきたすべての人々に従ってください。ステファナ、フォルトナト、アカイコが来てくれたので、大変うれしく思っています。この人たちは、あなたがたのいないときに、代わりを務めてくれました。わたしとあなたがたとを元気づけてくれたのです。このような人たちを重んじてください。
 アジア州の諸教会があなたがたによろしくと言っています。アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなたがたにくれぐれもよろしくとのことです。すべての兄弟があなたがたによろしくと言っています。あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。
 わたしパウロが自分の手で挨拶を記します。主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい、マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みがあなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。
           コリントの信徒への手紙一第16章13-24節

説教題:「主よ、来てください」
 今朝でコリントの信徒への手紙一の説教は終わります。
 
  パウロは、この手紙を終えようとしています。そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちに信仰の姿勢を正すように励ましました。そして、彼は励ました彼らにコリント教会の指導者たちに従い、彼らを重んじるようにお願いをしました。そしてアジア州の諸教会のキリスト者たちの挨拶を伝えました。最後にパウロは、彼の手でこの手紙の挨拶を書いて、コリント教会のキリスト者たちを祝福しました。
 
  まずパウロがコリント教会のキリスト者たちに信仰の姿勢を正すように励ました御言葉を学びましょう。
 
「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行ないなさい。」(13-14節)
 
  実は、「目を覚ます」「立つ」「生きる」「行なう」という動詞は、すべて現在進行形の命令です。パウロは、短くて聞く者の心に届く励ましの言葉を語り、コリント教会のキリスト者たちにこの世で彼らが毎日心に留めるべきキリスト者の生活を勧めました。
 
  第1にキリスト者は、「常に目を覚まして」終末に備えていなければなりません。復活の主キリストは天に昇られましたが、再び来ることを約束されました。キリスト者はその約束を信じて、常にキリストの再臨に備えるべきです。
 
  第2にパウロは、コリント教会のキリスト者たちに常にキリストに対する信仰に堅く立つように勧めました。「信仰に基づいてしっかり立つ」とは、十字架と復活のキリストに対する確固とした信仰に立ち続けるキリスト者の態度です。
 
  第3にパウロは、コリント教会のキリスト者たちに偶像礼拝を拒否する勇気を持ち、この世で力強く生きるように励ましました。
 
  異教の中で生きるのです。偶像に備えた肉が市場で売られているのです。異教の祭、習慣が当たり前の中で、「わたしはキリスト者です」と証しして生きるのです。強くなくては、信仰を貫くことはできません。
 
  第4にパウロは、コリント教会のキリスト者たちにどんなことでも愛をもって行なうように勧めました。
 
  コリント教会の混乱は、一言でコリント教会のキリスト者たちに愛がないから起こりました。彼らが教会を神の家族と信じて、コリント教会の兄弟姉妹たちを互いに愛し合うことができれば、教会の問題はすべて解決したのです。だから、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに教会を愛の共同体にしてくださいと願いました。
 
  このパウロの4つの勧めは、現在進行形の命令であります。わたしたち上諏訪湖畔教会にもそのまま当てはまります。わたしたちも、再臨のキリストに備えて日々を歩み、常に十字架と復活の主イエス・キリストへの信仰に堅く立ちつつ、この偶像と異教的習慣、そして世俗化の世界の中で力強く「わたしたちはキリスト者です」と証しし、生きるのです。わたしたちは、神の家族です。だから、何事も愛し合う共同体を造ることがわたしたちが目指す「聖書的教会」であります。わたしたちの教会にもいろいろ問題はありますが、わたしたちに愛があれば、すべてのことは解決するでしょう。
 
  次にパウロは、コリント教会のキリスト者たちに教会の中の指導者たちを重んじるようにお願いしています。
 
「兄弟たち、お願いします。あなたがたも知っているように、ステファナの一家は、アカイア州の初穂で、聖なる者たちに対して労を惜しまず世話をしてくれました。どうか、あなたがたもこの人たちや、彼らと一緒に働き、労苦してきたすべての人々に従ってください。ステファナ、フォルトナト、アカイコが来てくれたので、大変うれしく思っています。この人たちは、あなたがたのいないときに、代わりを務めてくれました。わたしとあなたがたとを元気づけてくれたのです。このような人たちを重んじてください。」(15-18節)
 
  ここでパウロが言及しているステファナの一家やフォルトナト、アカイコという教会の指導者たちは、コリント教のキリスト者たちの質問状をパウロの届け、そしてこの手紙をコリント教会に持ち帰った人々でしょう。
 
  パウロがコリント教会の指導者たちを重んじるように勧めているのは、コリント教会の秩序を回復するためであります。
 
  パウロは、この手紙の読者たちにステファナの一家を注目するように勧めています。この一家は、パウロがアカイア州で最初に洗礼を授けた人々でした(1:16)。彼らは、コリント教会で信仰の模範者でありました。なぜなら、一家の人々は聖なる者、すなわち、キリスト者たちの世話を熱心にし、教会の指導者として相応しい人々であったからです。
 
  わたしたちは、パウロの勧めを通して、教会ではどういう人々が指導者として重んじ、尊敬すべきかを教えられます。
 
  教会の指導者は、仕える人です。ステファナの一家は、「聖なる者たちに対して労を惜しまないで世話をする」者であり、パウロは指導者にふさわしいと述べています。だから、パウロは、コリント教会のキリスト者たちが彼らの働きに敬意を示してこそ、教会の秩序を保ち、回復できると勧めているのです。
 
  ステファナは指導者ですが、フォルトナトとアカイコは指導者ステファナの働きに協力していた者たちでしょう。この3人が、エフェソ教会のパウロを訪ねて、コリント教会の質問状を手渡し、コリント教会の状況を伝えました。そして、彼らは、コリント教会のキリスト者たちに代わって、パウロを励まし、元気づけてくれたのです。ですからコリント教会代表者たちを重んじるように、パウロはコリント教会のキリスト者たちに勧めているのです。
 
  パウロは、手紙の最後の挨拶で、アジア州の諸教会の挨拶を記しています。パウロが小アジアのアジア州のエフェソ市と他の諸都市に福音宣教し、生まれた諸教会のキリスト者たちがパウロを通してコリント教会のキリスト者たちに挨拶しました。
 
  アキラとプリスカは、紀元49年にローマ皇帝クラウディウスがローマ市からユダヤ人たちを追放しましたとき、コリント市に移り住み、そこでパウロと共に伝道しました。彼らは、使徒アポロをキリスト信仰に導き、コリント教会の発展に大きく貢献した夫婦でありました。パウロがこの手紙を書いていました時、彼らはエフェソ市に移り住み、彼らの家で集会がなされていました。
 
  アジア州の諸教会の挨拶、アキラとプリスカの挨拶をパウロが伝えているのは、コリント教会が党派争いをして、混乱していたからです。キリストの教会は一つです。信仰告白も洗礼も一つです。教会において大切なことは、キリストにある一致です。人種はいろいろでも、人間は一つです。同じようにこの世にいろんな教派がありますが、主は一人であり、キリストの教会は一つです。
 
  最後にパウロは自分の手でコリント教会のキリスト者たちに祝福を書き送りました。とても変わった祝福です。なぜなら、呪いの宣言があるからです。
 
  「わたしパウロが自分の手で挨拶を記します。主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい、マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みがあなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。」
 
  パウロは、呪いの宣言と恵みの宣言の間に「マラナ・タ(主よ、きてください)」と祈っています。
 
  パウロは何を意図したのでしょうか。
 
  パウロを理解する鍵は、キリスト教会、キリスト者は何者であるかを知ることです。
 
  昔神の民の指導者モーセは、約束の地カナンに入る前に、神の民を律法の前に立たせて、契約を結ばせ、祝福とのろい、命と死を選ばせました。律法を守る者は祝福と命が与えられ、律法を守らない者は呪いと死が与えられました。
 
  パウロは、神の選びの民であるコリント教会のキリスト者たちに同じことをしています。主を愛する者には恵みと命を、主を愛さない者には呪いと死を。コリント教会のキリスト者たちは、再臨のキリストの御前で、どちらかを選ばなくてはなりません。
 
  キリスト教会は、礼拝で「使徒信条」を唱えるように、キリストの再臨と審判を信じています。だから、教会は毎週の礼拝においてわたしたちに、聖書と説教と聖礼典、そして祈りを通して、また教会の戒規を通して、常に神に立ち帰るように勧めるのです。再臨の主は主を愛さない者を呪われます。永遠の死に捨て置かれます。主を愛する者に、罪の赦しと神との和解の恵みをお与えくださり、主と共に生きる命に導かれます。
 
  だから、コリント教会のキリスト者たちから今日のわたしたちまで、教会は礼拝ごとに「主よ。来てください」と祈り、そして再臨の主の裁きを恐れ、主を愛さない者は、愛する者となるように、礼拝を疎んじる者は礼拝に帰るようにと勧めているのです。
 
  お祈りします。
 
  イエス・キリストの父なる神よ、今朝コリントの信徒への手紙一を学び終えることができて感謝します。
 
  今朝のパウロの勧めに心を留めて、わたしたちがキリスト者としての生活の姿勢を整え、教会の指導者たちの主に仕える奉仕を重んじ、教会の一致に励み、再臨の主の祝福と呪いの中に自分たちが今を生きていることを自覚させてください。
 
  この願いと祈りを、主イエス・キリストの御名によっておささげします。アーメン。