コリントの信徒への手紙一説教29 主の2014年10月19日
「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。
コリントの信徒への手紙一第10章23節-第11章1節
説教題:「すべてを神の栄光のために」
今朝は、コリントの信徒への手紙一第10章23節から第11章1節の御言葉を学びましょう。
10章で、パウロはコリント教会のキリスト者たちが質問しました「偶像に供えられた肉」について答えています。
パウロは、彼らに旧約の神の民イスラエルが偶像礼拝をし、主なる神に裁かれた実例を挙げて、偶像礼拝を避けるように警告しました。そして、これからパウロは、一つの原則を示して、「偶像に供えられた肉」についての問題に決着をつけようとしています。
その原則とは、次の24節のパウロの御言葉です。「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。」
さらに、パウロは、「自由」と「良心」という言葉を用いて、この原則に従って問題の解決と、そしてキリスト者が向かうべき方向性を指し示しています。
第一に「自由」という言葉ですが、それは、わたしたちキリスト者の「自由」のことであります。
パウロが23節で「すべてのことが許されている」と繰り返し述べていますが、それはコリント教会のあるキリスト者たちが日頃から口にしていたスローガンであります。彼らは、「すべてのことが許されている」と、キリスト者の「自由」を謳歌していました。
パウロは、彼らのスローガンを次のように反論します。「わたしたちには、確かに『すべてのことが許されている』が、この自由がすべて、わたしたちの益となるわけではありません。」また、「『わたしたちは自由である』と言って、各人が勝手に振る舞えば、教会は無秩序となり、わたしたちは、一つのキリストの体を建て上げることはできません」と。
ですから、キリストの体なる教会を建て上げるためには、原則が必要であります。そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちに、24節で「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」という原則を勧めています。
「わたしたちを造り上げる」とは、「わたしたちを育てる、生かす」という意味であります。教会はいろんな人々の集まりであります。強い者と弱い者、男と女、大人と子供、老人と若者、富める者と貧しい者等々です。わたしたちは他者を配慮し、人を育て、生かしてはじめて、キリストの体なる教会を建て上げることができるのです。
パウロは、「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」という原則を示して、偶像に供えられた肉についてどのようにすべきかを指し示しています。
3つのことです。第1は、25節と26節です。市場で売られている偶像に供えられた肉についてです。市場で売られている偶像に供えられた肉については、パウロは「良心の問題としていちいち詮索せずに自由に食べなさい」と勧めています。
パウロはその根拠を26節で次のように示しています。「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。この世にあるものはすべて、主なる神が創造されたものです。主なる神は造られたすべてのものを見て「良し」と言われました。ですから偶像に供えられた肉も、主なる神の造られたものであり、主なる神の所有です。だから、主なる神の聖なるものとして、汚れてはいません。自由に食べてよいのです。
第2は、27節です。キリスト者ではない者に食事に招待され、そこで出された肉についてです。パウロは、ここでも「良心の問題としていちいち詮索することなく、何でも食べなさい」と勧めています。
第3は、28節です。ある人がわたしたちキリスト者に「これは偶像に供えられた肉です」と忠告してくれた場合です。その人は、弱いキリスト者であるかもしれません。あるいは、キリスト者は偶像に供えられた肉を食べないと思っている人であるかもしれません。どちらにしましても、その肉を食べると相手のつまずきとなります。ですから、パウロは、23節の原則に従って「その人のため、また、良心のために食べてはいけません」と勧めています。
第1と第2で、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに「キリスト者は良心から自由である」と主張しています。キリスト者の「自由」は、十字架のキリストの贖いを通して与えられました。それによってキリスト者は罪から、死から、そして律法と良心から自由にされました。
それゆえにパウロは、コリント教会のキリスト者たちにいちいち自分の良心に食べてよいか、悪いかと伺いを立てる必要はないと主張しました。
しかし、第3でパウロは、弱いキリスト者たちの良心、あるいは偶像に供えた肉をキリスト者は食べないと信じている者たちの良心に配慮しなさいと勧めています。
29節でパウロが「良心」とは「他人の良心である」と説明しているのは、コリント教会のキリスト者たちが誤解しないためです。第1と第2でパウロは、キリスト者が良心から自由であると言いながら、ここでは他人の良心に左右され、支配され、自由からほど遠いではないかと、コリント教会のあるキリスト者たちが反論することを封じています。
このパウロの御言葉を聞きながら、わたしは宗教改革者ルターが『キリスト者の自由』という書物の中で、次のように宣言している言葉を思い起こしました。わたしたちキリスト者はキリストのように自由です。何者にも支配されません。しかし、キリスト者はキリストのようにすべての者のしもべです。すべての人に仕えるのです。
30節でパウロが述べていることは、パウロが26節で述べた御言葉に基づいています。そしてパウロが主張することは、コリント教会の強いキリスト者たちの主張でもあったと思います。彼らは、「すべてのことは許されている。だから、わたしたちが神に感謝して食べるなら、何を食べても許されている」と主張していたでしょう。パウロは、彼らの主張を引用して、食物を食べるとき、創造主なる神への感謝があれば、何を食べても非難されることはないと述べています。
そしてパウロは、31節から11章1節でコリント教会のキリスト者たちに3つのことを勧めて、わたしたちキリスト者が歩むべき方向性を指し示しています。
第1にキリスト者は、「神の栄光のために」という動機を、そしてそれを最高の基準として生きるべきです。パウロにとって、キリスト者が何かをすることの究極の動機は、「神の栄光のために」であります。
食べること飲むことは、人間の行動の中では高次元のことではありません。むしろ、低次元の人間の欲求であります。ですから、パウロは、人間の欲求という飲み食いだけでなく、すべての行動を「神の栄光のために」という動機でなすべきであると勧めています。
第2にキリスト者は、人をつまずかせないことに心を用いるべきです。この世でも教会の中でも、人につまずきを与える原因となってはなりません。消極的な勧めですが、わたしたちが家族の者たちをつまずかせ、隣人たちや知人をつまずかせ、そして教会の兄弟姉妹たちをつまずかせることは、神の御名を汚すことになります。そして、一つのキリストの体なる教会を建て上げる上で、大きなつまずきです。
第3にパウロは、自分がキリストを模範に生きているように、コリント教会のキリスト者たちに自分を模範に生きるように勧めました。
キリストは、十字架の死に至るまで、従順に父なる神に服従されました。キリストは御自分の益を求めないで、多くの人々の救いと益を求められました。キリストは、人々に福音を語られ、人類を神と和解させて、すべての人々を永遠の命の喜びに招かれました。
同様に使徒パウロも、キリストに仕える異邦人の使徒として、人々を救うために福音宣教に励みました。彼は天幕造りをし、自給で伝道し、コリント教会のキリスト者たちにキリストの福音を伝えました。パウロはキリストのように自分の幸せを求めず、むしろ、自らを犠牲にして多くの人々の救いのために働きました。
パウロが、今朝の御言葉を通して、わたしたちに伝えていることは、わたしたちの家族が救われるために、わたしたちと共に生きている地域の隣人、知人が救われるために、わたしたちは飲むにも食べるにも、何事をするにも神の栄光のためにすべきである、ということです。
十字架の道を歩まれていたイエスさまは、エルサレム神殿の献金箱の中にある女性が僅かなお金を献金する姿を見られました。そして、主イエスは12弟子たちにその女性を称賛されました。彼女は、彼女のその日の生活費すべてを主なる神にささげたからです。主イエスが彼女を誉められたのは、彼女が自分の生活費すべてを主なる神にささげて、自分を犠牲にしたからです。まさに主イエスが今十字架で御自分のすべてをささげられて、わたしたちを救われ、父なる神の御用を果たそうとされているように、その女性は神殿の献金箱に自分の生活費のすべてをささげて、神さまの御救いの御用にために、献金したのです。
「神の栄光のために」とは、わたしたち改革派教会のモットーであります。宗教改革者カルヴァンが「神の栄光のために」を、人生の目標に掲げて以来、彼の弟子たちはいつの時代もどこの国でも、このモットーを掲げてきました。
掲げるだけでありません。わたしたちの先輩たちは、キリストが「自分を無にして、僕の身分になられた」ように、自分たちを犠牲にして、貧しさに耐えて伝道し、家族が救われることを、地域の隣人たちが救われることを求めて、礼拝を守り、祈り、そして献金をささげ、この日本の国に改革派教会を建て上げて来ました。
その中でわたしたちの教会も2018年に70周年を迎えます。灘教会と西部中会の信徒たちが、そしてCRCの宣教師たちやアメリカ本国の信徒たちが、今東部中会の信徒たちが「神の栄光のために」、そして「人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて」、自らを犠牲にして献金し、わたしたちの教会を支えてくださっています。
今わたしたちは東部中会の援助を受ける身ですが、パウロは、エフェソ教会の長老たちに次のように自分に倣うように勧めています。「受けるより与える方が幸いである」と言われた主イエスの御言葉を思い起こすように、パウロはエフェソ教会のキリスト者たちに自分の生き方を通して、それを示してきたと。
自らを犠牲にし、神さまの御救いの御用に仕えることが、キリストとパウロを模範にして、わたしたちが生きることであります。そして、そこに神の栄光が現されるのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、パウロのコリントの信徒への手紙一を通して、わたしたち改革派教会のモットーを学ぶことができて、感謝します。
「あなたがたは食べるにしろ、飲むにしろ、何をするにも神の栄光を現すためにしなさい」。この御言葉のもとに、わたしたちの改革派教会は戦後69年間、日本の国で伝道し、教会形成に励んでまいりました。
また、わたしたちの教会は、66年間改革派教会の信徒たちとCRCの宣教師たちとアメリカ本国の信徒たちの祈りと献金によって支えられてきました。
わたしたちもキリストとパウロの自己犠牲を模範にして、自らを犠牲にし、家族とこの地域の隣人たちの救いのために、神の御救いの御用のために献金をささげさせてください。
どうか宗教改革者カルヴァン以来、神の栄光のために、そして人々の救いのために自らを犠牲にし、主イエスに仕えた信仰の先輩たちの信仰の旅路にわたしたちも参加させてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
コリントの信徒への手紙一説教30 主の2014年11月2日
あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。
コリントの信徒への手紙一第11章2-16節
説教題:「男と女」
今朝は、コリントの信徒への手紙一第11章2節から16節の御言葉を学びましょう。
11章で、パウロは「キリスト者の集会における秩序」に関する二つのことについて答えています。
パウロは、礼拝で女性が頭にかぶり物をすること(2-16節)について、そして、主の晩餐(17-34節)について指示しています。
女性が礼拝で頭にかぶり物をするという、この件については、コリント教会からのパウロに宛てた手紙の中で、尋ねられた質問にパウロが答えているのではありません。
手紙の中に今のコリント教会の実情を伝える文章があり、コリント教会の礼拝で女性が頭にかぶり物をしていないということを伝えたのでしょう。それについてパウロがここで指示しているのです。
さて、11章2節で、パウロはコリント教会のキリスト者たちが、パウロが伝えた教えを忠実に守っていることを誉めております。
「あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。」
このパウロの言葉は、コリント教会のパウロ宛ての手紙の中にあったのでしょう。コリント教会がパウロに、手紙の中で「わたしたちは何かにつけてあなたを思い出し、あなたがわたしたちに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っている」と書いていたのでしょう。パウロは、それについて「いいことだ。」、「わたしはあなたがたを立派だと思う」と称賛したのです。
ここで「伝えられた教え」と言われえいるのは、パウロがキリストの権威に基づいて異邦人の諸教会に伝え教えていた教理や実践に関する事柄です。コリント教会のキリスト者たちは、パウロが彼らに口頭で伝えていたことを、常にパウロを思い起こし、「パウロ先生は、わたしたちに次のように教えてくださった」と言って忠実に守っていました。
その中に女性が礼拝で頭にかぶり物をするというパウロによって「伝えられた教え」がありました。
パウロは、コリント教会のキリストス者たちに「礼拝で女性が頭にかぶり物をする」ことについて何を伝え教えていたのでしょうか。
5節の御言葉から推し測りますと、パウロは「教会の集まりで、すなわち、礼拝で祈り、預言をする際には、女性はだれでも、かぶり物で頭を覆わねばならない」と教えていたのでしょう。
ところがコリント教会は、礼拝で、ある女性がパウロの教えたことを守らないで祈ったり、預言したりしておりました。当然、コリント教会はその女性に「パウロ先生が教えられたように礼拝では頭にかぶり物をしなさい」と勧告したでしょう。その時にその女性は、こう質問したのではないでしょうか。「パウロ先生は、そのとおり教えられました。しかし、礼拝でわたしが頭にかぶり物をして祈ったり、預言したりするのと、しないでするのと、神の御前で何が違うのでしょうか。」
パウロは、礼拝で女性が頭にかぶり物をすることについていろいろな観点から答えております。いろいろの観点とは、第1に「創造の秩序」です。第2に「見た目に関する人間の良識」です。第3に「自然」の教えです。そして第4に諸教会での一般的な実践です。
創造の秩序とは、神-キリスト-男-女という秩序の序列です。3節で、パウロは創造の秩序を次のように説明します。「ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。」
「頭(かしら)」という言葉は、「目上」とか「支配者」という意味ではありません。「源」とか、「起源」という意味です。「男の頭はキリスト」とは、男の源、起源がキリストであるという意味です。「女の頭は男である」とは、女の源、起源が男であるという意味です。「キリストの頭が神である」とは、キリストの源、起源が神であるという意味です。
パウロは、続いて「頭(かしら)」を、4-6節では人間の身体の一部である「頭(あたま)」の意味で使っています。ここでは、人の目で見た人間の良識で、次のように述べております。
「男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。」
パウロは、礼拝で男が頭にかぶり物して祈ったり、預言したりすれば、「自分の頭を侮辱することになります」と述べています。「自分の頭」と「男の頭(かしら)」が合わさって、パウロはキリストを侮辱することになると述べています。
パウロは、その理由を、7節で次のように述べています。「男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。」と。男が頭にかぶり物をすると、「神の姿と栄光」を覆うことになり、創造主であるキリストが男に主権と威厳を授けられたのに、それを放棄し、キリストを侮辱することになると、パウロは述べているのです。
要するにパウロが4-6節で述べていることは、要約するとこうです。男が礼拝で頭にかぶり物をし、祈ったり、預言したりすれば、創造の秩序における男の地位を否定し、キリストを侮辱することになり、女も礼拝で頭にかぶり物をしないで祈ったり、預言したりするとき、男と同様に創造の秩序における女の地位を否定することになると。
女性が髪を切り、そり落とすことは、人の目から見て恥ずかしいというのが人の良識でありました。パウロは、その点を指摘しています。だから、パウロは、礼拝で女は頭にかぶり物をすべきであると勧めています。
一応ここで結論は出たのに、パウロは再び7-9節で創造の秩序を繰り返し、述べております。どうしてでしょうか。
パウロは、「男は神の姿と栄光を映す者です」と述べて、次に「女は男の栄光を映す者です。」と述べています。パウロの頭の中には、人類は男だけでは成立しない、男と女で人類が構成されるという理解があると思います。男と女で人間であり、神の栄光を映す者であるというのがパウロの人間理解です。
他方で、パウロは創世記1章と2章を読む限り、女は男、アダムから造られ、男のために「彼に合う助ける者」となるために造られたことを認めて、その創造の秩序を守ろうとしています。
わたしには、パウロの中に葛藤があるように見えます。男と女は、人類という一つの者であり、神が「男と女」に創造され、共に神の栄光をあらわす者です。他方、女は男、アダムのあばら骨から男のために創造されました。男に合う助ける者として創造され、女は男の栄光を映す者です。
今朝のパウロの御言葉を何度も読み返していますと、パウロは自分の中の葛藤を、「神の御前で」という視点から克服しょうとしています。「神の御前で」神の栄光が覆われてはならないように、「神の御前で」男の栄光が覆われてはならないと。この理解の下でパウロは、創造の秩序から礼拝する女性を自由にしています。
だから、パウロは10-11節で次のように大胆に述べているのです。「だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。」
パウロが女に礼拝で頭にかぶり物をすることを求めているのは、女が神の栄光を映す男に、すなわち、女が夫の権威に服従する印としてではないと述べているのです。これは大胆な発言です。
なぜなら、パウロの時代、ユダヤ教の会堂では、女は礼拝で重要な役割を果たせませんでした。ユダヤ教の会堂と認められるためには、10人のユダヤ教徒が必要でした。女はその数に加えられませんでした。女は、礼拝においても男の支配下にありました。
しかし、パウロは、ここで男と女を平等に扱っています。それがキリスト教会の礼拝でありました。実際にコリント教会では公の礼拝で女は、男と同じように祈り、預言することができました。パウロにとって礼拝で女が頭にかぶる物は、そのことを示す新しい権威と力の印でありました。
パウロは、「天使のために」と述べていますね。礼拝において天使は、父なる神とキリストと聖霊に仕え、賛美しています。女は礼拝で頭にかぶり物をし、自由に神を礼拝し賛美することで、天使たちの仲間になることができました。ですから、パウロは女たちが自由に男と同等に神礼拝をし、神賛美をし、天使たちの仲間となるために、礼拝で頭にかぶる物をしなさいと勧めるのです。
もうパウロには、「神の御前で」創造の秩序における男と女の差別と区別はありませんでした。男と女で、神の御前における人間です。天使たちと共に、神を賛美する人間なのです。十字架で人類の罪を贖われたキリストの御前に男も女も、一方が他方より尊い、上であるということはなくなりました。神の御前で男も女も、キリストの十字架の血によって贖われた一人の人間として尊く、自由に神を礼拝し賛美し、祈ったり、預言したりできるのです。
パウロは、以上のように述べて、コリント教会のキリスト者ひとりひとりに女が礼拝でかぶり物をすべきかどうかを、自己判断させています。
カトリック教会のミサでは、今でも年配の女性の信徒たちが頭にかぶり物をして礼拝をされています。創造の秩序に従って、そうされています。
しかし、最近のカトリック教会は変わっています。カトリックのフランシスコ会訳の聖書を読みますと、今朝の「かぶり物」について、次のような新しい理解が記されています。「『頭の上に権威を持つべきである』の『権威』とは、夫の妻に対する権威を象徴する『かぶり物』を指すと通常解されているが、最近の新解釈によれば、『かぶり物』は、むしろ、集会での礼拝における女性の『自由』と考えられる。すなわち、女性にとって頭を覆う『かぶり物』は、他者の支配下にあることの徴ではなく、神を礼拝するにあたり何ものにも束縛されない徴、集会で祈ったり預言したりする『能力』または資格のあることの徴である。」
この理解は、今のわたしたち改革派教会の理解と同じであると思います。わたしたちの教会には、女性が礼拝で頭にかぶり物をする習慣はありません。しかし、パウロは、女性の長い髪は「かぶり物」の代わりになると述べています。今日でも女性が髪を長くすることは自然であり、美しいと思います。パウロは、その自然の女性の美しい姿で、女が男と共に自由に神を礼拝し賛美し、礼拝の司会者として祈り、説教者として説教をすることを認めております。
最後にパウロは、かぶり物について異論があるとしても、パウロが開拓伝道した異邦人教会、他の使徒たちが開拓伝道している教会、そしてエルサレム教会も礼拝において女が頭にかぶり物し、祈ったり、預言したりするのは、普通の習慣で、問題なくなされていると述べております。
わたしたちの改革派教会も、10月の大会で教師と長老の資格から「男子のみ」という言葉が削除され、男と女が資格となる「者」に変更されました。2015年10月より改正された政治規準が施行され、わたしたちの教会の礼拝において男の長老と教師だけでなく、女の長老と教師が礼拝で司会し、祈ったり、説教するようになるでしょう。そして、教師と長老は男のみであると、異論を唱える者がいても、10年経てば改革派教会のどこの教会でも、女性長老が礼拝の司会をし、教会の祈りをし、女性教師が説教をするのが、改革派教会の普通の礼拝の姿になっていることでしょう。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、パウロのコリントの信徒への手紙一を通して、礼拝において女がかぶり物をすべきかどうかというコリント教会の問題に、パウロが答えながら、パウロ自身が心の葛藤を克服して、主なる神の御前で男と女が平等であることを、創造の秩序に縛られないことを教えてくれたことを感謝します。
わたしたちの改革派教会は、20年以上大会で審議を繰り返し、教師と長老の資格から「男子のみ」を削除し、男も女も資格となる「者」に改正しました。来年の10月より改正された政治規準が施行され、女性教師、女性長老が改革派教会の中に生まれます。
まだまだわたしたちは、古き習慣に、古い創造の秩序に支配され、パウロが主なる神の御前で求めている男と女に遠い者でありますが、コリントの信徒への手紙を学び、パウロと同じようにわたしたちも自分たちの心の葛藤を克服し、男と女が贖い主であるキリストの御心と一つとなり、神を礼拝し、神を賛美させてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
コリントの信徒への手紙一説教31 主の2014年11月9日
次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹な者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。
コリントの信徒への手紙一第11章17-22節
説教題:「主の晩餐にあずかる意味」
今朝は、コリントの信徒への手紙一第11章17節から22節の御言葉を学びましょう。
パウロは、11章17-34節までコリント教会のキリスト者たちに「主の晩餐」について指示を与えています。大きく分けると3つの内容です。17-22節は、主の晩餐が正しく守られていないことを、パウロがコリント教会のキリスト者たちに指摘しています。23-26節は「主の晩餐」の制定語であります。そして27-34節が主の晩餐に正しくあずかる方法です。
パウロは、コリント教会の主の晩餐が乱れていることを知りました。深刻な問題でありました。17節で、パウロはコリント教会のキリスト者たちにはっきりと「わたしはあなたがたをほめるわけにいきません」と述べています。
11章2節でのパウロの御言葉と全くの反対です。コリント教会のキリスト者たちは、パウロから伝えられた信仰と教理を守っていたのです。それを、パウロは立派であるとほめました。
しかし、今「あなたがたの集まり」、すなわち、コリント教会の礼拝が「良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いている」のであれば、パウロはコリント教会のキリスト者たちをほめるわけにいきません。
口語訳聖書は、「良い結果」を「利益」、「悪い結果」を「損失」と訳していました。パウロは、コリント教会のキリスト者たちに「あなたがたの礼拝そのものが、あなたがたに「益」を招かないで、かえって「害」を招く結果になっている」と指摘しています。
パウロは30節でその具体的なコリント教会のキリスト者の状況を次のように述べています。コリント教会のキリスト者たちは主の晩餐を軽んじて、「そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです」と。
主の晩餐を、コリント教会のキリスト者たちが軽んじる原因になったのは、18節でパウロが指摘しています「仲間割れ」です。
仲間割れは、コリント教会の礼拝に集まるキリスト者たちに益を与えないで、害を与える結果になりました。
だから、パウロは18節で「まず第一に」と述べて、コリント教会の集まりにおける仲間割れを強調しました。
この仲間割れは、パウロが1―3章で述べた「分派争い」とは、また別の物です。コリント教会の集まりで愛餐があり、その中で主の晩餐が行われており、その場で顕著に仲間割れが見られました。
だから、パウロは、21節で次のように具体的に仲間割れを指摘することができました。「なぜなら食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるか思えば、酔っている者もいるという始末だからです。」
コリント教会のキリスト者たちは、今日問題されている格差社会の中で生きていました。少数の金持ちがおり、大勢の貧しい奴隷がおり、ローマの市民権も持つ者がおりました。
コリント教会は、家の教会でありました。キリスト者各自が食べ物を持ち寄って、ある家で愛餐をしました。そして愛餐の食事の席で主の晩餐が行われました。わたしたちの教会は、主の晩餐、すなわち、聖餐式を礼拝の中で行っていますが、コリント教会はある家にキリスト者たちが集まり、そこで愛餐の食事をし、その時に聖餐式を行っていたのです。
ですから金持ちは、早くからある家に集まり、たくさん食料やワインを持ち込み、飲み食いをしました。奴隷たちは夜にその家の集まりに来ました。彼らは、持ち込める自分たちの食料もワインもなかったので、愛餐の食事のときは空腹で過ごしました。
パウロは、コリント教会の金持ちのキリスト者たちを叱っています。彼らがコリント教会の仲間割れの原因になっていたからです。
そこでパウロは、彼らに次のように述べています。「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」。
パウロは、金持ちのキリスト者たちに集まりではなく、彼らの家で必要な飲食をすませよと命じています。パウロは、ローマの信徒への手紙14章17節で「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」と述べています。コリント教会の金持ちのキリスト者たちは、集まりを飲み食いの場にして、この集まりが神の教会であることを軽んじていたのです。また、彼らには兄弟愛がありませんでした。自分たちだけで豊かな食事をし、あとから集まる貧しい奴隷のキリスト者たちに配慮しないで、貧しい兄弟たちを空腹のままにさせて、恥をかかせていました。彼らに兄弟愛がありませんでした。
だから、パウロは、20節で次のように指摘しているのです。「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはならないのです。」
兄弟愛による一致と一体がなければ、一緒に集まり、主の晩餐をしても意味がありません。
パウロは、コリント教会のキリスト者たちに既にこの手紙の10章16-17節で主の晩餐について次のように述べています。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」
兄弟愛のない仲間割れをしている集まりで、主の晩餐をしても意味がありません。なぜなら主の晩餐とは、「キリストの体」と「キリストの血」にあずかり、すなわち、キリストの命にあずかり、集まった大勢のキリスト者たちがキリストの体なる教会という一体性の中に入れられることです。主の晩餐は、集まりました兄弟姉妹がパンとぶどう酒を飲み食いし、キリストの体として一つにされる礼典ですから、仲間割れしていては意味がありません。また、コリント教会の金持ちのキリスト者たちのように、集まりでの愛餐と主の晩餐を自分たちの飲み食いの場とし、貧しいキリスト者たちをつまずかせる場にしていることは、そこに臨在されるキリストへの大きな罪ではないでしょうか。
パウロは、コリントの信徒への手紙二の8章9節で次のように述べています。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためなのです。」
このキリストの面前でコリント教会の金持ちのキリスト者たちは、主の晩餐で自分たちの飲み食いを楽しみ、貧しい兄弟たちに対して愛の配慮を欠いていたのです。どうしてこの集まりが、コリント教会のキリスト者たちに神の祝福を招くことができるでしょうか。むしろ、キリストの十字架の愛を忘れた愚かな行いとして、災いを招くのではありませんか。
ですから、パウロは、22節で、「この点については、コリント教会のキリスト者たちをほめることができない」と述べているのです。
補足になりますが、パウロは、仲間割れがすべて悪いと言ってはいません。兄弟愛のない仲間割れが悪い、そのような状態で主の晩餐にあずかっても意味がないと述べているのです。
必要な仲間割れもあります。それは、信仰による分裂です。パウロが19節で次のように述べています。「あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。」
信仰の堕落した中世のローマカトリック教会と宗教改革者ルターは、仲間割れしました。教会に権威があるのか、聖書に権威があるか、また信仰によって救われるのか、人の行いで救われるのか、このどちらが正しいと聖書が証言しているか、ローマカトリック教会とルターは争いました。
わたしたちの上諏訪湖畔教会も戦後、教団の諏訪教会と仲間割れし、女性教師と25名の信徒が日本キリスト改革派教会に加入しました。日本キリスト教団の道を歩むのと、日本キリスト改革派教会の道を歩むのとどちらが神の御心であるかを争ったからです。
キリスト教の2000年の歴史は、まことに19節の「だれが適格者かはっきりするため」、分裂と仲間割れを繰り返してきました。それは、「あなたがたの間でだれが本物のキリスト者か」を争ったからです。こうしてキリスト教の真理と信仰を守ろうとしたからです。そこでは聖餐式は意味があります。その集まりは、キリストの御前で集まる者たちが心一つにし、信仰を一つにし、互いに兄弟愛を持ち、一つのパンを分け、一つの杯を飲み、キリストの命にあずかり、一つのキリストの体と一体となるからです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、パウロのコリントの信徒への手紙一11章の御言葉から主の晩餐にあずかることの意味を学ぶことができて感謝します。
主イエスよ、あなたは、12弟子たちに「互いに愛せよ。これがわたしの新しい戒めである」と教えられました。
パウロの今朝の御言葉を通して、わたしたちに互いの兄弟愛がなければ、わたしたちの礼拝も聖餐式も祝福されないし、意味がないことを学びました。
どうか、地なる神と御子なるキリストよ、わたしたちに聖霊なる神をお遣わしくださり、わたしたちの心に神の愛を、キリストの十字架の愛を注いでください。そして、わたしたちが神の愛によって互いに結び合わされた者として、互いを愛することができるようにしてください。
わたしたちがこの教会で兄弟愛に基づいて共に礼拝を守り、聖餐の恵みにあずからせてください。そしてキリストの体なる教会を建て上げさせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
コリントの信徒への手紙一説教32 主の2014年11月30日
わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。
コリントの信徒への手紙一第11章23-34節
説教題:「主の死を告げ知らせる」
本日より12月24日までアドベントの期間に入ります。アドベントとは、「到来」を意味するラテン語です。神の御子主イエス・キリストが受肉し、この世に来られたクリスマスを準備するだけではなく、これから来られるキリストの再臨にもわたしたちの心を向ける期待と喜びの期間であります。11月の月報にも記しましたように、楽しんでクリスマスに備えましょう。先週玄関前と屋根の十字架、そして案内にイルミネーションを飾り、準備しました。本日より12月21日の礼拝報告時まで、12月21日のクリスマスの集いを覚えてお祈りをします。喜びと期待を持ち、わたしたちの心をキリストへと向けて、主を崇めようではありませんか。そして再臨のキリストを共に待ち望みましょう。
それと共に今朝の御言葉で、わたしたちが何よりも心を留めるべきは、この礼拝でわたしたちは愛する主イエスにお会いしているという喜びです。
わたしたちは、遠くに主イエスを探す必要はありません。今ここに、わたしたちの礼拝に主イエスは聖霊と御言葉を通して一緒にいてくださり、次週の礼拝でわたしたちを聖餐式に招いてくださいます。
今朝は、使徒パウロからその聖餐式について御一緒に学びましょう。
コリント教会のキリスト者たちは、聖餐式を愛餐の食事の集まりで行っていました。そしてその集まりが良い結果につながらないで、むしろコリント教会にとって災いとなっていました。
コリント教会のキリスト者たちがコリント社会の貧富の格差を教会に持ち込み、この集まりに持ち込んでいたからです。富めるキリスト者たちは、自分たちで食べ物とぶどう酒を持ち込み、勝手に飲み食いしました。その集まりに後から来た貧しいキリスト者たちは空腹のまま、それを見ていました。パウロは、コリント教会のキリスト者たちに、貧富の格差を教会の中に持ち込み、一緒に集まって主の晩餐を食べても意味がないと諭しました。なぜなら、兄弟愛のないところに、主イエスはおられないからです。
そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちに「主の晩餐」、すなわち、聖餐式の重要さを教えました。
パウロは、コリントの町で開拓伝道し、キリストの福音を伝えました。そして、礼拝を守りました。愛餐の集まりをし、その食事の席で主の晩餐、すなわち、聖餐式をしました。
パウロが23節で「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」と述べていますように、主の晩餐、すなわち、わたしたちの礼拝で行われています聖餐式は、主イエス御自身にさかのぼるものです。主イエス御自身に由来するものです。
主イエスが十字架に死なれる前の夜に12弟子たちと最後の食事をされました。それが、主の晩餐、すなわち、聖餐式の始まりです。
「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。」(23節b-25節)
パウロは、主イエスのお言葉を一言一句正しく伝えています。「引き渡される夜」とは、弟子の一人イスカリオテのユダに裏切られたことを指示しています。十字架に死なれる前の夜に、主イエスは12弟子たちと最後の食事をし、そこで聖餐式をなさいました。「パンを取り」とは、主イエスが「一塊のパン」を取られたのです。「感謝の祈りをささげて」とは、主イエスは「わたしは感謝する」とパンを感謝されました。ユダヤ人たちは、食事の時にパンを感謝し、「ああ、わたしたちの神、主よ、あなたはほむべきかな。大地からパンをもたらす全世界の王よ」と祈りました。この感謝から聖餐式の「ユーカリスト」という名が生まれました。
その後、「それを裂き」とありますように、主イエスは一塊のパンを裂かれました。この主イエスの行いから聖餐式は、「パン裂き」として広まりました。
主イエスはパンを裂かれて、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」とお命じになられました。
「これは」とは、主イエスが裂かれたパンであり、聖餐式で裂かれるパンであります。それを、主イエスは「あなたがたのためのわたしの体である」と言われました。主イエスが裂かれたパンは、十字架の主イエスのお体を象徴しています。主イエスは、すでに12弟子たちに3度御自身の十字架の死を予告されていました。また12弟子たちが自分たちの中でだれが一番偉いかを言い争っていました時に、主イエスは12弟子たちに「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)と言われていました。
主イエスが、「引き渡される夜」に裂かれて弟子たちに与えられたパンは、十字架のキリストの体でした。キリストは、弟子たちの命を贖うために、そして今日聖餐式にあずかるわたしたちのための、身代金として御自身の命を十字架に献げられたのです。だから、聖餐式で司式する牧師はパンを裂きました時、「わたしが今主イエスの名によってこのパンをあなたがたに与えられるように、その弟子たちに与えて」と言うのです。
その行いを、主イエスは「わたしの記念として行いなさい」とお命じになりました。聖餐式は「わたし(主イエス)の記念」の行いです。この記念は、知的な理解以上のことです。頭で理解することを越えています。聖書で「記念」とは思い起こすことです。主なる神は、旧約のイスラエルの民に、出エジプトの出来事を記念するようにお命じになりました。イスラエルの神の民は、記念するために安息日ごとに礼拝を守り、年に3回祭を祝いました。そして、神の民たちは、主イエスが来られるまでおよそ1500年間、出エジプトの出来事を思い起こしました。礼拝で、祭りで彼らは、思い起こすごとに思い起こすものの現実体験を繰り返ししたのです。出エジプトで神の民イスラエルに現れた主なる神が、安息日の礼拝に、過越の祭に現れてくださいました。同じようにわたしたちキリスト者も、聖餐式で自分たちの救い主キリストの臨在を信仰体験しているのです。ですから、式辞で牧師は、「それは、今、この目をもってパンとぶどう酒を見るように、わたしたちの罪のために十字架の上で死なれた贖い主を、信仰の目をもって見るためです」と式文を読むのです。今ここにキリストが臨在されていることを知るのは、わたしたちの信仰によってであります。
さらにパウロは、25節で「また、食事の後で」と述べています。コリント教会の聖餐式は、愛餐の食事の席でなされました。愛餐の食事をし、まずパン裂きが行われ、そして愛餐の食事を続けて後に、ぶどう酒の配餐がなされたようであります。
「杯も同じようにして」とは、パンを取って感謝の祈りを献げたようにということです。主イエスは、12弟子たちと最後の晩餐をし、肉を食べた後、ぶどう酒を取って祝福されました。過越の食事では、ぶどう酒を飲むことが義務付けられていました。おそらく主イエスと弟子たちは、赤ワインを飲みました。
主イエスは、12弟子たちに「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしを記念してこのように行いなさい」と言われました。
主イエスは、赤ワインを「わたしの血によって立てられる新しい契約である」と言われました。赤ワインは、キリストが十字架で流される血の象徴でした。マルコによる福音書では、主の晩餐において主イエスが感謝の祈りをし、12弟子たちに赤ワインをお渡しになり、彼らが飲んだ後に、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マルコ14:24)と言われています。
わたしたちの式文では、「この杯は、罪のゆるしを得させるように、多くの人のために流すわたしの血で立てられた、新しい契約である。みなこの杯から飲め。」となっています。マルコによる福音書に近く、「罪のゆるしを得させるように」という言葉が加わっています。
杯とは、旧約の民たちが主なる神と契約を結びました時に、いけにえの血を注ぎました、その血を指しています。古い契約の締結は、動物犠牲の血でしたが、新しい契約の締結は、十字架でキリストが多くの人々のために流された血であります。古い契約においては、主なる神は動物犠牲の血によって民の罪を赦され、新しい契約においては、キリストの流された血によってわたしたちの罪をお赦しくださいます。
パウロは、杯の制定の後に「飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と述べています。もう説明は、要らないでしょう。わたしたちは、聖餐式を繰り返し、パンを食べ、ぶどう酒を飲み、わたしたちのために十字架に死なれたキリストを思い起こし、同時に信仰によって今十字架のキリストがわたしたちの救い主としてこの教会にいてくださっていることを確かめ合うのです。
そこでパウロは、27節以下で正しい聖餐式のあずかり方を教えています。第1は、警告です。ふさわしくないままで聖餐式にあずかる者は、主に罪を犯します。第2は、奨励です。聖餐式にあずかる者は自己吟味すべきです。第3は、神の裁きはキリスト者にとっては、この世の罪を遠ざける神の懲らしめです。第4は、集まりが神の裁きの場とならないようにすることです。
「ふさわしくないままで」聖餐式にあずかる者とは、だれでしょうか。パウロは、聖餐式に異教徒や未信者たちがあずかることを想定してはいません。聖餐式にあずかることができるのは、キリスト者のみです。コリントの信徒への手紙を読む限り、パウロがふさわしくないと判定しているのは、分派争いしている者、偶像礼拝している者、社会の貧富の格差を教会に持ち込み自分勝手に飲食している者であろうと思われます。兄弟愛のない者と貪欲な偶像礼拝者は、主の体と血に対して、すなわち、十字架の愛に対して罪を犯す者ではないでしょうか。
次にパウロは、聖餐式にあずかる者たちに自己吟味を勧めています。主イエスは、12弟子たちに「わたしの新しい戒めは、あなたがたが互いに愛し合うことである」と命じられました。その戒めの中心に主は、12弟子と共にいてくださいました。すなわち、今日も主イエスは、わたしたちに「あなたがたは互いに愛し合いなさい」と命じられています。そして、わたしたちを招かれる聖餐式にキリストは、臨在されているのですから、わたしたちは聖餐式にあずかるときに、「自分をよく確かめなければなりません」。兄弟姉妹、家族、地域の隣人たちに対して主イエスのように「愛と思いやり」を持ち、日々の生活をしているであろうかと。神を愛し、隣人を愛する自分を確かめて、あずかるのです。当然自己吟味ですから、自分の至らなさを覚えるでしょう。その時胸を打ちたたいて、「あわれな罪人をお赦しください」と悔いた徴税人のように、主イエスの十字架の愛を全く信じて、あずかるのです。罪を悔いたる者の魂を、どうして主は軽んじられるでしょう。
パウロは、コリント教会のキリスト者たちの中には聖餐式を軽んじている者がおり、教会の中に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだと警告しています。旧約聖書もパウロも次のように考えていました。信仰の共同体の中で、多くの者が病気になり、死ぬことは、主なる神の裁きであると。
ただ、パウロは、わたしたちに面白い勧めをしています。わたしたちは、聖餐式をわきまえてあずかり、主の裁きがわたしたちにくだらないように注意すべきですが、キリスト者にとって主の裁きは、親が子を懲らしめるようなものだと述べています。親は、子が世の悪に染まらないように、子が悪い方に行こうとすれば、子を鞭打ち、懲らしめ、正しい方に導きます。主なる神も、わたしたちキリスト者に同じことをされます。なぜなら、キリストの十字架によって贖われたわたしたちは、神の子であります。ですから、主なる神はわたしたちがこの世と共に永遠に滅びることがないように、病気やいろいろな試練を通して、懲らしめられるのです。
ですから、パウロは、コリント教会の富めるキリスト者たちに、愛餐の食事は一緒にし、自分たちが持参した食べ物と飲み物を、貧しいキリスト者たちに分かち合い、貧しいキリスト者たちが集会に集まるのが待ち切れなければ、自宅で食事をして、集まりに出なさいと勧めました。
教会では、自己中心は許されません。キリストの「互いに愛し合いなさい」という戒めの下に、兄弟姉妹が互いの賜物を分かち合い、配慮し合い、教会の集まりが主の裁きの場ではなく、恵みの手段の場となるように、パウロはコリント教会のキリスト者たちに心を用いたのです。
最後に今日からアドベントです。わたしたちは、再臨のキリストが来られるのを待ち望みながら、クリスマスに備えています。わたしたちは、来週聖餐式にあずかります。今朝の御言葉を心に留めて、次週の聖餐式に備えましょう。また、アドベントの季節だけが再臨の主キリストを待望する時ではありません。聖餐式そのものが、再臨のキリストを待望させています。聖餐式は、わたしたちに次のことを理解させてくれます。わたしたちの教会は主の死と主の再臨の中間の時代を生きているということです。主イエスは、主の晩餐において12弟子たちに次のように約束されました。「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(マルコ14:25)と。主イエスは、神の国の完成を約束され、そのためにぶどう酒を断ち、わたしたちの救いの完成にこれからも労苦するとはっきり宣言されました。わたしたちは、本日より祈り、クリスマスの集いの準備をします。そのときに心を留めていただきたいのは、教会の伝道において、わたしたちの救いのために、わたしたちの家族やこの町の人々の救いのために、一番労苦されているのは、主イエス・キリストです。わたしたちは、来月7日と21日のクリスマス礼拝で、自ら断酒し、わたしたちの救いの完成のために努力されている生ける神、主イエスのもてなしにあずかるのです。それがわたしたちのあずかる聖餐式であります。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝よりアドベントに入りました。クリスマスに向けて、わたしたちの心を整えることができるようにしてください。
パウロのコリントの信徒への手紙一11章の御言葉から聖餐式のことを学ぶことができて感謝します。
主イエスは、12弟子たちに「互いに愛せよ。これがわたしの新しい戒めである」と教えられました。
まことにわたしたちが互いに兄弟愛がなければ、この教会も、礼拝も、聖餐式も神の祝福をえませんし、むしろ主の裁きを招くものとなります。
どうか、わたしたちが自らを吟味し、わたしたちに罪を悔いる心をお与えください。聖霊よ、わたしたちの心に十字架の主の愛を注いでくださり、兄弟姉妹を、わたしたちの家族を、わたしたちの町の隣人を愛せる者としてください。
次週は、わたしたちが聖餐式にあずかり、キリストがわたしたちと共にいてくださっていることを、信仰によって確信させてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
コリントの信徒への手紙一説教33 主の2014年12月7日
兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも、「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には同じ“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。
コリントの信徒への手紙一第12章1-11節
説教題:「聖霊の賜物」
パウロは、この手紙の12-14章で、コリント教会からのパウロ宛ての手紙で取り上げられた新たな問題を述べています。それは、「霊の賜物」の問題であります。
10章1節と同様の言い方で、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに「兄弟たちよ」と呼びかけて、「霊的な賜物については、次のことをぜひとも知っておいてほしい」と述べています。
1節の「霊的な賜物」は、「霊的な人たち」とも訳せる言葉を、パウロは使っています。ですから、パウロがコリント教会のキリスト者たちに「霊的な人たちについては、次のことをぜひとも知っておいてほしい」と言っているとも考えられます。
コリント教会のキリスト者たちは、異言を語ることを聖霊の特別な恵みの賜物として重要視していました。異言とは、話す者が普通に使われない言葉で語ることです。ですから、10節でパウロは「ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています」と述べています。異言は、人が聞いて理解できるものではありませんので、それを解釈する人が必要です。
コリント教会のキリスト者たちは、異言を語ることそのものを、聖霊の臨在と力の確かなしるしとして重んじました。わたしたちが聖書を神の霊感の書であると信じますように、彼らは異言を神の霊感であると信じておりました。
パウロは、異言を語る者が本当に聖霊によって語っているのか、あるいは悪霊によって語っているのか、異言の起源と語る内容そのものが重要であると考えました。
そこでパウロは、コリント教会の異邦人キリスト者たちが昔異教徒であったころについて言及しました。わたしたちも、2節のパウロの言葉にうなずくことができるでしょう。「誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。」
偶像とは、語ることができる生ける神に対して、物の言えない存在です。その背後に悪霊が働くのです。それが、たとえば霊媒師を用いて語らせるのです。霊媒師を恍惚状態とし、語らせ、「キリストは呪われよ」と語らせるのでしょう。ですから、パウロは神の霊感によって語る人は、「キリストは神に見捨てられよ」、すなわち、「神に呪われよ」と語らないし、むしろ、その人は聖霊に導かれて「イエスは主である」と信仰告白すると、答えています。
信仰告白こそが、恍惚状態であろうとなかろうと、間違いなく聖霊がお働きになっているしるしです。真の意味で「霊的な人たち」は、恍惚状態で異言を語る者ではなく、「イエスは主である」と信仰告白する者であります。
要するにわたしたちキリスト者は皆、霊的な人たちであり、聖霊の賜物をいただいているのです。
4-6節は、4節の「同じ霊」、5節の「同じ主」、6節の「同じ神」と、聖霊、主キリスト、父なる神と、キリスト教の三位一体の神の教理の萌芽があると、多くの聖書学者は見ています。
さて、4-10節は、1節の「霊的賜物」の多様性を、パウロは述べています。1節の「霊的な賜物」と4節の「賜物」は、言葉は異なりますが意味は同じです。
キリストを信仰告白しているキリスト者に聖霊がお与えくださった恵みの賜物の多様性を、パウロは4節でキリスト者には聖霊による「恵みの賜物にはいろいろあります」と述べています。また、5節でキリスト者には、同じ主から神の民の間での務めをいろいろ委託されていますと述べています。そして6節で同じ神が、ご自身の働きを、キリスト者たちのそれぞれの生活に分割されています。
このように恵みの賜物もいろいろ、務めもいろいろ、神の働きもキリスト者たちの生活にそれぞれ分割されていますが、賜物をお与えになる聖霊はお一人であり、務めを委託される主はお一人であり、キリスト者の生活に個々に働かれている神は唯一であります。
パウロのこの手紙は、コリント教会の礼拝で読まれたことでしょう。そして今パウロの御言葉を聞いているわたしたちと同じ思いを、コリント教会のキリスト者たちは与えられたと、わたしは思います。
わたしたちは、三位一体の神の恵みと務めの委託と、そして神ご自身がわたしたちの生活の中でお働きくださって、わたしたちのキリスト者の生活が営まれているということです。
それから同じ聖霊は、わたしたちに同じ賜物ではなく、いろいろな賜物をお与えくださいます。同じ主は、わたしたちに同じ務めではなく、いろいろな務めをお与えくださいます。ですから、わたしたちは心から神を礼拝し、賛美し、また、互いに兄弟を愛するために、家族を愛し、隣人を愛するために多様な賜物と務めを委託されています。そして、父なる神は、神の子であるわたしたちの生活の中で、ご自身の御力の働きを分割されています。すなわち、わたしたちは、それぞれが神の摂理の中で自分たちがキリスト者としてそれぞれの生活を営んでいます。
そして、7節で、パウロは、コリント教会のキリスト者たちにキリスト者個々人に聖霊の臨在と力の確かなしるしである働きが現れているのは、「全体の益となるためです」と述べています。わたしたちキリスト者が、聖霊によりそれぞれに恵みの賜物をいただいているのは、「全体の益」、すなわち、キリストの体なる教会を建て上げるためであると述べているのです。どんなに才能があり、有能な人であろうと、自分の賜物を、キリストの体なる教会のために用いなければ、それは霊的な賜物ではありません。たとえ目立たない人であっても、教会のために祈り、僅かなものであっても教会のために献げる人は、聖霊が豊かな恵みの賜物を与えておられますし、まことにその者は、霊的な人であります。
パウロは、8-10節で9種類の“霊”の働きの現れを述べています。おそらくパウロは、「全体の益」から見て、高い評価の順に述べています。コリント教会のキリスト者たちは、異言が高く評価されていないことに驚いたことでしょう。
全体の益から見て、パウロは知恵と知識の力を一番に挙げています。次に信仰といやしと奇跡を行うこと、更に預言と霊を見分ける力を挙げております。最後に異言とそれを解釈する力を挙げております。
知恵と知識の関係と区別はよく分かっていません。この賜物を担ったのは、「使徒、預言者、教師」(28節)であり、教会の土台を担う人々です。
パウロがここで言う「信仰」は、カリスマとしての信仰です。続いて「いやしの力」と「奇跡を行う力」が続いているので、病人の病気を癒し、奇跡を行う力を信じる信仰のことでしょう。特別の信仰で、パウロをはじめ使徒たちがこの信仰によって奇跡を行い、病人を癒しました。またこの信仰によって殉教の死を遂げた者もいました。それによって建てられたキリスト教会がそれぞれの地域で信頼を得、確かなものとされました。
次に預言と霊を見分ける力で、これは建てられた教会を維持するために必要な力であり、賜物です。預言とは説教であり、語られる神の御言葉であります。これによって今も教会は、維持され、継続され、改革され続けています。
預言は、決して無条件で受け入れられていません。御言葉によって教会は立ちもすれば、倒しもします。だから、説教者が聖霊の導きで説教しているか、あるいは人の思想をおしゃべりしているだけであるのか、また悪霊に導かれているのかを、識別する力が必要であります。
教会の長老は、キリストより説教の実を見守る務めを与えられ、聖霊より霊を見分ける賜物を与えられております。ですから、オランダ改革派教会では、長老が前列に座り、礼拝における説教を見守り、説教者が正しく説教をすれば、講壇から降りて来る説教者と握手し、会衆に今日の説教が聖霊によるか、人の思いかを、また、悪霊に導かれたものかを明らかにしています。それは、全体の益のためになされています。
最後に異言とそれを解釈する力です。異言とは、「もろもろの舌」という言葉です。それを一人の人が発するのです。神賛美、祈りなど、異言は神に語りかける言葉です。人にではありません。そのために異言を解く力を持つ人が必要なのです。語る者は恍惚状態の中にあり、初めて見る人はその異様な姿につまずいたことでしょう。だから、異言を解く人が必要でありました。
偽使徒がおり、偽預言者、偽牧師がいるように、偽異言者がいました。ですから、パウロは、コリント教会のキリスト者たちにコリント教会の中で霊の人が異言をしているのが本物か、偽物かを慎重に教えています。
とにかく、パウロがここで最後に11節で言っていますことは、教会を建て上げるために、キリスト者のいろいろな賜物は聖霊のお働きであり、聖霊はキリストの体なる教会を建て上げるために一人一人のキリスト者たちに望むままに自由に霊の賜物をお与えくださるということです。
コリント教会は、異言の賜物を特に重要視しましたが、それは間違いでした。個人にどんな賜物が与えられているかより、キリストの体なる教会を建て上げるために、聖霊が望むままにわたしたち一人一人に自由にお与えくださっている賜物を用いて教会のために奉仕することこそ、パウロが願っていることであります。
ぜひとも聖霊が望むままに、わたしたちの教会を建て上げるために、わたしたち一人一人にどんな霊的な賜物をお与えくださっているか、ぜひとも心留め、自分のできることで、この教会のために、兄弟姉妹のために、家族のために、そして隣人のために、それぞれのできる善き生活をしようではありませんか。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝よりアドベントの第2週に入りました。クリスマスに向けて、わたしたちの心を整えることができるようにしてください。
今から聖餐式にあずかります。先週のパウロの御言葉を思い起こし、聖餐の恵みにあずからせてください。
わたしたちは自らを吟味すれば、神の御前に罪を悔いる以外にありません。しかし、神は、わたしたちの悔いる心を喜ばれると信じます。ですから、わたしたちが悔いて今聖餐にあずかることを受けいれてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。