コリントの信徒への手紙一説教26      主の2014年9月21日

 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法にしたがっているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音と共にあずかる者となるためです。
 あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども,賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。
             コリントの信徒への手紙一第9章19-27節

 説教題:「福音のためなら何でもする」
 パウロは、今朝の御言葉で、まず9章1節の「わたしは自由な者ではないか」と述べたことを再確認しています。パウロは、7章22節で次のように述べています。「主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由の身分の者は、キリストの奴隷なのです」。

  彼は、復活の主イエス・キリストに召されて使徒となり、異邦人にもユダヤ人にも福音宣教をしています。

 使徒は、復活のキリストを目撃した者であり、その証人であります。また、生前の主イエスは、ガリラヤ湖で魚をとる網を手入れしていたペトロたちを弟子にお召しになり、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました(マルコ1:17)。

 19、20、21、22節で「人を得る」という言葉がありますね。その言葉は主イエスが言われた「人間をとる」と同じことであります。「救う」という意味であります。何から人間を救うのでしょうか。罪と死と滅びからであります。人間を、主イエスは福音宣教によって救い、義とし、永遠の命をお与えになるために、使徒たちを召し、そしてお遣わしになりました。

 パウロは、今、この9章で、コリント教会のキリスト者たちに「自分が使徒である」ことを弁明しているのです。

  自由なものであり、キリストの使徒であるパウロが、今福音宣教のために、自身の自由の身を捨て、多くの人々を救うために、すべての人の奴隷となると宣言しているのです。

 わたしは、今朝のパウロの御言葉に何度も耳を傾けました。その時にわたしの中に一つのことが思い描かれました。それは、キリストの人間宣言です。

  ヨハネによる福音書1章です。まずキリストが神であることを宣言し、父なる神の独り子であるキリストが、この世で滅びゆくわたしたち人間を救うために、人となり、罪と死に支配されたこの世に住んでくださいました。そして、肉体を取られた神の御子キリストは、わたしたち人間に代わって、神の刑罰を受けるために十字架に死なれました。

 パウロは、フィリピの信徒への手紙の2章6-8節で次のように神の御子キリストが人間になられたことを賛美しています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることを固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

 人となられた神の子キリストこそ使徒パウロの生き方の模範でありました。

 ですからパウロは、キリストに従う者として、同じことをすると宣言したのです。それが、20-22節の御言葉であります。

  パウロは、キリストの律法に従い、モーセ律法に生きるユダヤ人とモーセ律法を持たない異邦人と、それから弱い人を含めたすべての人々と同じ境遇に自分を置くことを宣言しました。
 
  キリストの律法とは、主イエスが弟子たちに教えられた新しい掟であります。それは「互いに愛し合いなさい」という御命令です(ヨハネ15:17、ローマ13:8)。
 
  パウロは、キリストに従い、キリストの愛の律法に生き、福音宣教を通してすべての人に奴隷として奉仕し、共に生きることを宣言しているのです。

  わたしたちは、今朝の御言葉からパウロがどのように使徒として生きようとしたか、その目的は何であったかを学ぶことが許されています。
 
  パウロは、彼を使徒に召されたキリストに従い、キリストの律法に生き、福音宣教のためであれば、何でもしました。それがパウロの自由な生き方でもありました。そして目的がありました。福音宣教した多くの人々を救い、パウロ自身も救われた人々と共に、福音にあずかる者となりたいという願いであります。

 今朝のパウロの御言葉から、わたしたちは、パウロの自由がキリストの愛の律法と一つに結ばれていたことを学ぶことができます。そして、パウロは、キリストとの愛の交わりに生きることを願いました。その交わりの中に多くの人々を招きたいと願ったでしょう。だから、伝道のためにはどんなことでもしました。

 この9章で、パウロはコリント教会のキリスト者たちに「わたしは使徒ではないか」ということを弁明しているのです。そのためにその根拠となる「救うこと」について、ここで述べているのです。すなわち、パウロは、自分がキリストから全権を受けて、使徒してコリント教会をはじめ、異邦人教会に遣わされたから、福音の恵みを受けて、ユダヤ人や異邦人や弱い人たちの幾人かが救われているのであると、へりくだって証ししているのです。「何とかして何人かでも救うためです」というパウロの言葉は、彼のへりくだりであります。

 パウロが「わたしが福音に共にあずかる者となるためです」と述べていることは、伝道する者が受ける祝福です。ある日本語翻訳聖書は、「この福音の分け前に共にあずかる者」と訳しています。

  家族や知人に、また日常生活で出会う人々にわたしたちがキリストとその救いを伝え、教会に誘いますと、日曜日に教会に来てくれます。そして一緒に礼拝し、一緒に説教を聞き、誘った家族や知人が主イエスを信じて、洗礼を受け、一緒に聖餐にあずかります。その時に、わたしたちは共に我らの国籍が天にあることを喜ぶことができます。パウロは、それを、「福音の恵みにあずかる者」と言い、伝道する者はだれでもこの祝福にあずかることができると、わたしたちに約束してくれています。
 
 そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちに次のことを求めています。節制です。パウロは、福音宣教を、すなわち、伝道を、競技場の競技にたとえています。

  パウロは、競技者と伝道者とを比較して、共通する点と異なる目的を明らかにしています。

 このパウロのたとえは、コリント教会のキリスト者たちだけでなく、今日の私たちにもよく理解できます。

  今日オリンピック競技は4年に1度開催されています。オリンピック競技の起源であるギリシアのコリントでは、2年に1度開かれていました。いろんな競技が行われましたが、賞を得られるのは一人だけでありました。この点は、今のオリンピック競技の方が、賞が多いですね。
 
  パウロの時代の競技選手たちは、月桂冠とこの世の名誉を得るために競技しました。そして相手に勝つためには、肉体を強化しなくてはなりませんから、競技選手は体を鍛え、あらゆる節制をしました。

 パウロは、伝道も賞を得ることは競技と同じであると述べています。ところが、わたしたちキリスト者は、地上のものではなく、永遠の命という冠と主イエスに「よくやった忠実なしもべよ」とお誉めの言葉をいただくために、伝道に励むのです。

  パウロは、そのためには、明確な目標と節制が必要であると述べています。そこでパウロは、ボクシングをする者をたとえています。彼は、無駄なパンチで、体力を消耗することを避けます。相手に効果的なパンチを繰り出し、相手をノックアウトします。そのために減量の苦しみに耐え、肉体を強化し、節制をします。

 パウロは、伝道するのも同じであると述べています。どうしても家族に伝道したい、知人に伝道したい、町の人々に伝道したいと願うのであれば、自分をキリストに服従させるように節制しなさいと、パウロはコリント教会のキリスト者に勧めています。

  パウロは、「自分の体を打ちたたいて」と、苦行の必要性を訴えています。この苦行を、文字どおりにする必要はありません。わたしたちの自由な振る舞いを抑えることが必要です。たとえば、口を慎むこと、これはわたしたちにとって苦行の一つです。禁欲すること、これもわたしたちにとって苦行の一つです。何よりもキリストの律法にわたしたちを服従させること、これがわたしたちにとっては1番の苦行です。具体的には、礼拝を生涯、継続することです。
 
  どうしてわたしたちにとって、この苦行が必要なのでしょうか。パウロは、不思議な回答を、コリント教会のキリスト者たちに与えています。「それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」と。
 
  どんなに熱心に人々に伝道しても、自分中心に生きるようになり、教会と礼拝から離れてしまえば、「福音に共にあずかる者」から「あずからない者」に転落してしまうわけですから、わたしたちも熱心に家族に、知人に、そしてこの町の人々に主イエス・キリストとその救いを伝えながら、自らは教会と礼拝を離れて、キリストとの永遠の命の交わりを失うことになるのです。

 ですから、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに警告したのです。「君たちの自由を節制できなければ、結局君たち自身が教会と礼拝から離れて、失格者となり、永遠の命を失うことになるだろう」と。

 わたしたちは、今朝のパウロの御言葉を、どのように聞くべきでしょうか。

 わたしは、パウロが十字架のキリストに従ったと思います。キリストは神であられたのに、人となり、すべての人に仕えられました。パウロは自由な者であったのに、すべての人の奴隷となり、福音宣教を通してすべての人々に仕えました。パウロは、福音宣教を通してキリストに従い、救われた人々と共に福音に、すなわち、永遠の命にあずかる者の喜びを味わいました。

 わたしたちも、パウロが今朝語りました御言葉をそのまま受け取りまして、家族や知人に、またわたしたちがこの町で出会う人々に、キリストを伝え、教会にお誘いしましょう。そして、教会に来てくださった方々と共に礼拝し、共に説教を聞き、主を賛美し、共に永遠の命にあずかれることを喜べるようになりたいと思います。

  お祈りします。
 
  イエス・キリストの父なる神よ、今朝もパウロのコリントの信徒への手紙一から、パウロの御言葉を学ぶことが許されて、感謝します。
 
  わたしたちも、パウロのように主イエス・キリストに従う道を歩ませてください。パウロのようにわたしたちの自由をキリストの福音のために使わせてください。
 
  どうか、わたしたちの家族に、わたしたちの知人に、そしてわたしたちが町で出会う人々に、キリストとその救いを伝え、教会に誘う勇気を、わたしたちにお与えください。
 
  どうか、パウロが願ったように、わたしたちも教会で、主日礼拝で救われた者たちや求道者の方々と共に、福音に共にあずかる者としてください。
 
  どうかわたしたちを、主の恵みから引き離さないでください。自分たちに与えられた自由を、自分中心に用いて、わたしたちが教会と礼拝から離れ、永遠の命の交わりを失うことがないようにしてください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

  コリントの信徒への手紙一説教27      主の2014年10月5日

 兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。
 彼らの中のある者がしたように、みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れの道をも備えていてくださいます。
             コリントの信徒への手紙一第10章1-13節

 説教題:「試練と逃れの道」

 9章の終りにパウロは、人々にキリストを伝えながら、自分は失格者になる危険を述べていますが、彼だけでなく、コリント教会のキリスト者たちにも、同じ危険がありました。

 それを、今朝パウロは、コリント教会のキリスト者たちに旧約聖書の実例を挙げて具体的に示しました。

 パウロはコリント教会のキリスト者たちに「次のことをぜひ知っておいてほしい」と警告しました。

 パウロは、コリント教会のキリスト者たちに失格者になることの危険を教えるために、旧約聖書の神の民イスラエルの出エジプトの出来事と荒れ野の40年の生活を、その前例として挙げています。

 1節の「わたしたちの先祖」とは、モーセの時代のイスラエルの民たちです。彼らとコリント教会のキリスト者たちは、肉ではなく、信仰によって関係しています。共に族長アブラハムを、信仰の父として仰ぎ、アブラハムの恵みの契約を通して、仲保者キリストのゆえに共に神の民として関係しています。

 神の民のしるしは、洗礼であります。わたしたちは、皆洗礼を受けて神の民に加えられます。

 使徒パウロは、旧約聖書の出エジプト、すなわち、神の民イスラエルが紅海を渡ったという事件を、洗礼の予表とみなしました。

 それでパウロは、次のように述べました。「わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ」(1-2節)。

 「雲」は主なる神の臨在を表しています。モーセの時代の神の民は、主なる神に導かれ、紅海を渡り、出エジプトしました。パウロは、紅海を渡った事件を「モーセに属するものとなる洗礼を授けられ」と述べて、洗礼の予表としました。

 実は、紅海を渡る奇跡の後で、出エジプト記14章31節に「イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた」と記しています。

 洗礼とは、わたしたちがキリストを信じて、キリストに属する者となることです。ですから、パウロは神の民が紅海を渡り、主なる神とモーセを信じたことを、洗礼の予表と理解したのです。

 さらにパウロが、3-4節で「皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました」と述べていますね。わたしたちが今朝の礼拝であずかります聖餐式の予表として、パウロは述べています。旧約の神の民は、天からのパンであるマナを、共に食べ(出エジプト記16章)、マサとメリバの水を、共に飲みました。

 恵みの契約の中で、神の民が洗礼と聖餐にあずかることは、パウロにとって旧約の神の民と新約の神の民であるキリスト教会に普遍のことでありました。だから、パウロは、1-4節で「皆」という言葉を4度用いて、恵みの契約の中にいる神の民にとって洗礼と聖餐は普遍のことであることを強調しているのです。
 
  パウロは、旧約の神の民たちもキリストによって霊的に養われていることを、4節で次のように証言しました。「彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」
 
  モーセが杖で、岩を叩くと、そこから命の水が出ました。パウロは、その岩をキリストと解釈しています。受肉されたキリストは、教会を養われているだけではありません。受肉前には荒れ野で神の民イスラエルを養う岩であられたと、パウロは証言しています。
 
  ところが、パウロは、5-11節で、コリント教会のキリスト者たちに衝撃的な事実を明らかにしています。出エジプトし、洗礼を授けられ、主なる神とモーセに属する者とされた神の民イスラエルは、荒れ野の40年間、主なる神の御心に服従しませんでしたので、大多数の者が荒れ野で滅ぼされてしまったと。
 
  そして、6節と11節で、パウロは神の民イスラエルの荒れ野の出来事は、コリント教会のキリスト者たちと今の世の終わりの時代を生きているすべてのキリスト者たちを戒める前例として起こったのだと述べています。
 
  旧約のモーセの時代の神の民たちも、わたしたちキリスト者たちと同様に、教会における洗礼式と聖餐式の礼典に似た十分な神の守りと養いを受けていたにもかかわらず、主なる神に服従せず、主なる神が禁じられた偶像礼拝という罪を犯して、荒れ野で滅ぼされてしましました。
 
  旧約の神の民が滅ぼされたという事実が、「人々に福音を伝えておきながら、自分は失格者になるかもしれない」と、パウロが恐れることの前例になっているということです。
 
  パウロがコリント教会のキリスト者たちに、旧約聖書の出来事を、コリント教会のキリスト者たちを戒める前例として起こったと述べていることから、わたしたちは何を学ぶべきでしょうか。
 
  パウロは、コリント教会のキリスト者たちとわたしたちに次のように述べているのです。旧約聖書は、わたしたちキリスト者たちのために書かれました。そして、そして主なる神は、旧約聖書の出エジプトと荒れ野の40年の出来事を、わたしたちキリスト者たちが戒めるべき普遍的な出来事として起こされました。
 
  そして、旧約聖書の警告と訓戒を要約しますと、パウロが12-13節で述べているみ言葉になるのです。
 
  「立っていると思う者」とは、うぬぼれているキリスト者です。パウロの時代には、コリント教会のキリスト者たちの中には、ユダヤ人たちは神に捨てられ、自分たちがキリストにあって救われていると思っている者がいたのでしょう。パウロは、そういうキリスト者たちを「立っている者」と言っています。
 
  現在であれば、すでに自分は救われているとうぬぼれているキリスト者です。キリストの最後の審判の時まで、わたしたちが救われているか、どうか、分かりません。だから、パウロはオリンピック選手のように節制し、最後のゴールを目指して、全力で伝道に励んでいます。失格者にならないように、心しています。
 
  12節の「気をつけるがよい」とは、「見なさい」「見ていなさい」という注意する動作をあらわします。
 
  わたしたちの人生は、旅の途上です。目的地は、神のみ国です。パウロにとってこの旅は、オリンピック選手のようにキリストの御前で賞を得るレースです。そのレースは、十戒というルールがあり、それを破れば、キリストの御心に適わない失格者になります。
 
  生涯にわたる長期のレースですから、途中で息切れをし、脱落し、失格者になるかもしれません。洗礼でスタートする者、信仰告白でスタートする者がいます。天を仰いでいますが、心はこの世に未練を持つという肉の弱さを持っています。
 
  また、教会は、社会の縮図と言われます。社会問題は、教会の問題でもあります。高齢化社会の問題は、そのままわたしたちの教会の問題です。少子化の問題は、子供たちのために日曜学校も教会学校もできないわたしたちの教会の問題です。学生たちが就職できない、青年たちが結婚できないという問題は、教会の契約の子たちも直面しています。
 
  教会がこの世に存在し、わたしたちがこの世にある限り、教会もわたしたちキリスト者も次々と問題が起こり、試練が襲って来ます。
 
  パウロは、その解決が、旧約聖書の中にあると指摘するのです。
 
  聖書を学ぶ集いで、ヨブ記を学びました。ヨブに次々と試練が襲いかかり、ヨブがそれを耐え忍びました。彼は苦しみ、悩み、呻き、疑いつつも、ただただ主の御前に立つことを願って、すべての試練を耐え、3人の友人たちと主なる神に自分が潔白であることを訴え続けました。
 
  実は天上において主なる神がサタンとの対話から、サタンがヨブを誘惑することを許されました。しかし、主なる神はサタンにヨブの命を奪うことは許されませんでした。
 
  他に族長のヨセフの苦難の物語があります。ダビデ王がサウル王に迫害された物語もあります。旧約聖書は、信仰者たちの苦難を物語りますが、一人として耐えられない苦難を経験した者を証ししていません。
 
  旧約聖書の中には、神の民が試練に耐えられるだけではなく、主なる神が契約の神として、神の民に真実を尽くして、敵と試練から彼らを守り、必ず逃れの道を用意されたことを証ししています。
 
  どうか、今朝のパウロのみ言葉をきっかけにして、旧約聖書に親しんでください。そして、日常生活の中でいろんな試練に出合われた時、旧約聖書を自分のために書かれた神のみ言葉と思って、そこに記されたいろんな出来事を通して、主なる神がわたしたちに警告されていることを、また、試練と共に逃れの道を用意されていることを見出してほしいと思います。
 
  お祈りします。
 
  イエス・キリストの父なる神よ、今朝もパウロのコリントの信徒への手紙一を学ぶことが許されて、感謝します。
 
  わたしたちには、なじみが薄い旧約聖書ですが、パウロは旧約聖書とその中に記された出来事がわたしたちのために、またわたしたちに警告を与え、試練から逃れる道を教えるために与えられていることを学ぶことができて感謝します。
 
  どうか、わたしたちが旧約聖書に親しめるように、聖書を学ぶ集いを祝福してください。大会のリジョイスを用いて、旧約聖書のみ言葉に親しませてください。
 
  どうかわたしたちを、主の聖餐の恵みにあずからせ、キリストとの永遠の命の交わりに結び付けてください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。



コリントの信徒への手紙一説教28      主の2014年10月12日

 わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。わたしはあなたがたを分別のある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくはありません。主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。
             コリントの信徒への手紙一第10章14-22節

 説教題:「主と偶像に仕えることはできません」

 今朝は、コリントの信徒への手紙一第10章14-22節の御言葉を学びましょう。

 パウロが14節で「こういうわけですから」と言っているのは、次の二つのことです。

  パウロは、10章1-11節で旧約の神の民イスラエルが出エジプトし、紅海を渡ることで、洗礼を受けて神の民となりましたが、その後荒れ野で主なる神に服従せず、また偶像礼拝の罪を犯し、主なる神の妬みを買って滅ぼされたということを、わたしたちキリスト者の前例として挙げています。
 
  パウロは、さらに10章12-13節でコリント教会のキリスト者たちに「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」と警告し、「神は真実な方です」ので、コリント教会のキリスト者たちが試練に遭って倒れないように、逃れの道を用意して、心配りをされていることを伝えています。
 
  パウロは、その二つのことを踏まえて、コリント教会の愛するキリスト者たちに「偶像礼拝を避けなさい」と警告しました。

 パウロは、既に8章のところでコリント教会のキリスト者たちから「偶像に供えられた肉を食べる」ことについての質問状を受け取っていました。

 パウロは、その質問状に答えて、ここでコリント教会の愛するキリスト者たちに「偶像への供え物の肉を食べることは『偶像礼拝』そのものであるから、避けるように」と警告しているのです。

 パウロには、よく分かっていました。異教の地コリントの町で、少数者であるコリント教会のキリスト者たちが偶像礼拝を拒むことがどんなに大変で、大きな犠牲を伴うことであるかを。

  偶像に供えられた肉を食べることは、そこで生きることを意味しました。つまり、わたしたちは皆、社会という共同体のつながりの中で生きています。

  ところが、パウロの勧めは、コリント教会のキリスト者たちにそのつながりを断ちなさいと命じているのです。パウロは、この勧めがコリント教会のキリスト者たちにどんな辛い戦いを強いるかをよく知っていました。
 
  それでもパウロは、キリストが十字架の死によって贖われたコリント教会のキリスト者たちを愛する思いから、はっきりと「偶像礼拝を避けなさい」と警告したのです。

 続いて15節でパウロは、こう述べていますね。「わたしはあなたがたを分別のある者と考えて話します」と。4章10節でパウロは、コリント教会のキリスト者たちを「あなたがたはキリストを信じて賢い者なっています」と述べました。そこで「賢い者」と言っているのと、ここでの「分別のある者」と言っているのは同じことです。

  「話せば、分かる人たちである」と、パウロは言っています。だから、パウロは、続けて「わたしの言うことを自分で判断しなさい」と勧めています。パウロが話すことを、コリント教会のキリスト者たちはよく理解できるわけですから、彼ら自身がどうすべきかを判断しなければなりません。

 「偶像礼拝を避けなさい」。これは、「偶像礼拝から逃げよ」という命令であります。寺社に近寄らないという以上に、できる限り寺社との関わり、偶像礼拝するところから遠くへと逃げよと、パウロは命じています。逃げなければ、共同体のつながりの中で生きることになるからです。
 
  わたしたちは、それを日常生活において経験しています。どれだけ親族に合わせることができるか、折り合いをつけられるかと、わたしたちは冠婚葬祭や地域での宗教的行事に苦心しています。

  しかし、パウロは、愛するコリント教会のキリスト者たちに「できるだけ遠くに逃げなさい。そのことだけに心を用いなさい。あなたがたはわたしの言うことが分かるはずです。だから、自分で判断して逃げなさい」と警告しているのです。

 このパウロの警告には、確かな根拠があります。8章7節でパウロはそれを次のように述べています。「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」。

  ある意味で共同体のつながりを断たない限り、わたしたちはその習慣から離れられず、偶像に供えられた肉を食べるだけで、偶像礼拝の罪を犯すことになるのです。パウロは、すべての異邦人キリスト者たちにこの危険性に気づいてほしいのです。

 さて、パウロは、愛するコリント教会のキリスト者たちに、彼らがキリストの共同体のつながりの中で生きる者であることを指摘しています。

 パウロは、使徒言行録20章28節で、エフェソ教会の長老たちに次のように彼らの存在を述べています。「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」と。

 キリスト者は、この世に生きていますが、同時にこの世から召されてキリストの共同体に結び合わされました。キリストの十字架の血によって贖われ、神の所有とされ、神の子とされました。

  だから、キリスト教会は、礼拝の中で聖餐式を行うのです。パウロが16節と17節で述べていますのは、その聖餐式の食事のことであり、パウロの御言葉は聖餐式の式文であります。

 「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることはではないか」とは、キリストの血による罪の贖いの恵みにあずかることです。

 「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」とは、わたしたちがキリストの体と一つとなることです。

「パンを裂くこと」で、わたしたちが本来一つであることをあらわします。だから、聖餐式の時に、わたしたちは裂かれるパンを見るように勧めを受けます。それは、キリストの命にあずかるわたしたちが、キリストの体なる教会という一体性の中に入れられていることを、確かなものとするためであります。

 このように聖餐式の礼典は、わたしたちがキリストの体に一体として組み入れられるものですから、わたしたちがキリストから離れ、兄弟姉妹をつまずかせることの罪深さを知らせる礼典でもあります。

 それゆえにパウロは、17節で次のように述べています。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」

 毎月、そしてクリスマス、イースター、ペンテコステで、わたしたちが礼拝の中で聖餐式にあずかるのは、聖餐にあずかるわたしたちの一体性であります。キリストの命につながれた共同体に、わたしたちは組み込まれています。

 キリスト者たちは、教会の礼拝における聖餐の食事を通して、自分たちがキリストの命につながる共同体に生きる者であることを証ししています。

 それゆえにパウロは、コリント教会のキリスト者たちに、そして今この手紙のパウロの言葉に耳を傾けているわたしたちに「偶像礼拝を避ける」ように警告しているのです。

 パウロが語りました聖餐式を聞きましたコリント教会のキリスト者たちもわたしたちも、パウロの語ることを理解できたはずであります。どうして偶像礼拝を避けなければならないか、分かったはずです。そして、分かったのであれば、どうするか、自分で判断しなければなりません。

 そこでパウロは、18節で旧約の神の民イスラエルを実例に挙げています。「肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。」

 「供え物を食べる人」とは、祭司やレビ人、そしてイスラエルの会衆であります。祭司とレビ人は、いけにえを祭壇にささげる報酬として、いけにえの一部を与えられました。またお祭りのときには、いけにえをささげたイスラエルの会衆たちも家族と共にいけにえの肉を食べました。そして貧しい者、孤児や寡婦たちを食事に招待しました。こうして神の民イスラエルは、いけにえを祭壇にささげることで、祭壇と関わりました。いけにをささげて、主なる神を礼拝し、主なる神と交わり、「祭壇とかかわる者」となり、主なる神の祝福を分かち合いました。

 パウロは、暗黙の内に偶像の肉を食べる者も、偶像とかかわり、偶像礼拝と関わっているのであると主張しているのです。

 パウロが19節で述べている事は、聖餐式に用いる品であるパンとぶどう酒のことを考えて見てください。聖餐式のパンとぶどう酒に何か意味があり、力があるのではありません。同様に偶像に供えられた肉や人の手で作られた偶像に何か意味があり、力があるのではありません。

 パウロは、20節ではっきりと偶像礼拝は悪霊礼拝であると述べています。「わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくはありません。」

 パウロが述べている「悪霊」は、使徒言行録17章18節ではパウロの福音を聞いているストア派の哲学者たちが「外国の神々」についてパウロが語っていると述べています。この「悪霊」という言葉は、本来「神々」「神の力」を意味します。

  パウロがコリント教会のキリスト者たちに「悪霊の仲間になってほしくない」と言っていますのは、こういうことだと思います。キリストの命にあずかるキリスト者たちが、何か得体の知れない力に流され、正体不明のものの虜になってほしくないと。
 
  わたしたちも同じであります。どんなに科学が進み、文明が発展しても、人の心は変わりません。地域の人々が皆、元旦には諏訪大社に詣でるから、わたしもと、思わせる何か得体の知れない力に世間が流されています。また何かたたりがあるのではないかと、正体不明のものの虜になった経験を、未信者からキリスト者になった方々は経験されたことおありでしょう。易や占いの影響力は、人の心を容易に虜にします。パウロは、そういう悪霊の力の虜になり、仲間にならないように、コリント教会のキリスト者たちに、そしてわたしたちに勧めています。
 
  そこでパウロは、21節で次のように勧めています。「主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません」。
 
  「主の杯」と「主の食卓」は、明らかに教会の礼拝においてなされる聖餐式のことであります。「悪霊の杯」と「悪霊の食卓」とは、他宗教の宗教的儀式や食事であります。どちらも家での食事のことではありません。パウロが他宗教の儀式や食事を、「悪霊の杯」「悪霊の食卓」と呼びますのは、パウロが唯一神教のものであるからです。神は主なる神以外におられません。他の神々は悪霊であります。得体の知れない、正体不明のものの力であります。
  当然キリスト者は、キリストの所有でありますから、悪霊の所有になることはできません。そして、キリスト者は、教会で聖餐式にあずかり、主に仕えると同時に、偶像礼拝をし、悪霊に仕えることはできません。
 
  だから、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに22節で「主にねたみを起こさせるつもりですか」と尋ねています。唯一の主なる神のねたみとは、他の神々を偶像礼拝することです。他の宗教の儀式にあずかることです。つまり、宗教的姦淫をすることです。
 
  コリント教会のキリスト者たちは、自分たちを賢い者とうぬぼれていたので、「わたしたちは主より強い者でしょうか」と問い掛けているのです。もし他の宗教の儀式に参加する者がおれば、その者は自らが主と同じ力があり、主を説得できる者です。全能の主に、有限の人間がかなうわけはありません。言いくるめることはできません。荒れ野で滅びた者と同じ運命をたどる以外にありません。
 
  わたしたちの信州では、異教的な儀式に出席し、食事をすることは、地域の習わしであり、つながりとして欠くことができません。しかし、教会の礼拝において聖餐式にあずかる者が、他宗教の儀式にあずかり、食事にあるかることは、重大なキリストへの背反であり、宗教的姦淫であります。
 
  我らの主なる神は、唯一の神、生きる神でありますので、必ず偶像礼拝の罪を犯し、宗教的姦淫の罪を犯す者に「ねたみ」を起こし、裁かれます。パウロは、主にねたみを起こさせる者に「あなたは、本当に主の裁きに耐えられるほど強い者であるのか」と問い掛け、今なら主は赦してくださるので、偶像礼拝の罪から逃げて、主のところに帰り、赦しを乞いなさいと招いているのです。
 
  お祈りします。
 
  イエス・キリストの父なる神よ、今朝もパウロのコリントの信徒への手紙一を学べることを感謝します。
 
  日本の国は異教の国であり、八百万の神々の国でもあります。わたしたちキリスト者はこの国では少数者であります。この国で偶像礼拝の問題を抜きにして、信仰生活を、教会生活を過ごすことはできません。
 
  どうか、わたしたちもこの国で信仰に倒れることがないように、主の恵みと契約の中で生かしてください。
 
  どうかわたしたちを、主の聖餐の恵みにあずからせ、キリストとの永遠の命の交わりに生きる者として、この世の偶像礼拝の誘惑から、逃れる道を常に供えてください。
 
  占いの誘惑、たたりへの恐れから解き放ってください。この世のすべては全能の神の摂理の中にあることを信じさせてください。
 
  この世のつながりを断ち、キリストとのつながりに生きる者とされました。後ろを振り向いて塩の柱とされたロトの妻のように、わたしたちの心が御国からこの世へと動かされないようにしてください。荒れ野で偶像礼拝の罪により滅びた神の民イスラエルのように、主に宗教的姦淫の罪を犯すことがないようにお守りください。
 
  教会は、罪のこの世で罪の赦されるシェルターであります。礼拝で語られる御言葉、なさる礼典を通して、キリストの十字架のゆえにわたしたちの罪を赦し、また罪赦されていることを確信させてください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。