コヘレトの言葉説教11              主の20241013

 

 聖書テキスト:コヘレトの言葉第816節-第912

 説教題:「同じ運命」

 

 今日は、『コヘレトの言葉』の第816節-第912節の御言葉を学びましょう。

 

 コヘレトは、81617節で次のように述べています。「わたしは知恵を深めてこの地上に起こることを見極めようと心を尽くし、昼も夜も眠らずに努め、神のすべての業を観察した。まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず、賢者がそれを知ったと言おうとも、彼は悟ってはいない。」

 

コヘレトは、知恵を得るために心を配り、昼夜寝ないで目を開き、地上で行われている人間の務めを見ようとしたのです。その時コヘレトは、この世界のすべては神の御業であると悟りました。彼は、理解したのです。この世で行われているすべてのことの意味を、人は知り得ないと。人がどんなに骨折り探し求めようとしても見出すことはできないと。賢者が「わたしは知っている」と言っても、彼も見極められないと。

 

コヘレトは、何度も人は知恵によってこの世における神の御業を知り得ないと述べてきました。それは、コヘレトにとって無駄な努力でした。コヘレトは、創造主なる神が人に永遠を思う心を与えられたのに、人の知恵には限界があり、人の生涯において起こるすべてを知ることができないし、ましてや神の御業のすべてを知ることは不可能であることを悟りました。

 

人は、明日自分に何が起こるかも知り得ないのです。賢者といえども、コヘレトは彼の後に何が起こるか知り得ないと言うのです。またコヘレトは、724節で「存在したことは、はるかに遠く その深い深いところを誰が見いだせようか」と述べています。人は、今存在しているものの物事の道理ですら理解できないし、人生の神秘を知り得ないのです。

 

コヘレトがわたしたちに人生の神秘について悟ることはできないと説くのは、ひとつの真理に導くためです。コヘレトは、913節でこう述べています。「わたしは心を尽くして次のようなことを明らかにした。すなわち、善人、賢人、そして彼らの働きは神の手の中にある。愛も、憎しみも、人間は知らない。人間の前にあるすべてのことは、何事も同じで同じひとつのことが善人にも悪人にも善い人にも清い人にも不浄な人にも いけにえをささげる人にもささげない人にも臨む。良い人に起こることが罪を犯す人にも起こり誓いを立てる人に起こることが誓いを恐れる人にも起こる。太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ。」

 

コヘレトは、わたしたちに人は人生の神秘を知ることはできないが、それでも人は誰でもひとつの真理を知っていると説くのです。それは、説教題にしました「同じ運命」です。神に創造された人間とすべての被造物は、アダムの罪により確実に死ぬのです。

 

だから、コヘレトは心を尽くして、一生懸命に次のことを明らかにしました。コヘレトは言います。わたしは、一生懸命に善人、賢人、彼らの働きが神の御手の中にあることを明らかにしようとした。彼らが神に愛されたか、憎まれたかは、人には分からない。なぜなら、それは神の摂理であるから。

 

「わたしの分かることは、人間にはどんなことも起こり得る。いかなることも彼らの前にあるということだ。すべての人に同じ回り合わせがある。善人にも悪人にも清い人にも不浄な人にも、いけにえをささげる人にもささげない人にも。良い人に起こることが罪人にも起こる。誓いを立てる人に起こることが誓いを恐れる人にも起こる」

 

2節の「同じひとつのこと」と3節の「同じひとつのこと」は同じです。同じ回り合わせという意味です。言葉を言い換えますと、説教題の「同じ運命」であるということです。それは、具体的にはコヘレトが3節で結論付けていますように、死ぬ運命にあるということです。

 

どうか、愛する兄弟姉妹たち、コヘレトの言葉を鏡にして、ご自分の身の回りを、この世界を見てください。コヘレトが言うように、わたしたちの国にも賢人がおり、悪人がおり、信仰の熱心な人がおり、不信仰な人がおります。だれも明日のことを知りません。明日のわが身さえどうなるか知らないのです。今キリスト者は神に愛され、不信仰者は神に憎まれていると、わたしたちに分るでしょうか。すべてのことは神の御手の中にあり、今わたしたちの目には隠されています。

 

では、わたしたちは今何も分からないのでしょうか。いやわたしたちは知っています。この世に生きる人は誰も同じ運命にあると。国の大臣も貧しい人も同じように死ぬことを。親切な人も不親切な人も同じように死ぬことを。成功した人も失敗した人も同じように死ぬのです。さらにわたしたちもコヘレトのように知っています。この世にとって今も昔も最悪のことは、人の悪が世に満ち、この世に生まれてきた者は、その後は死ぬだけだということです。

 

コヘレトは、わたしたちを絶望へと導くのではありません。確かにわたしたちにとって人の人生は神秘であり、人の究極の目的を理解することはできません。人は死という同じ運命を生きるのです。しかし、コヘレトは、わたしたちに生きている、生かされていることに価値を見いだすように勧めるのです。

 

コヘレトは4-6節でこう言っています。「命あるもののうちに数えられてさえいれば、まだ安心だ。犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。生きているものは、少なくとも知っている。自分がやがては死ぬ、ということを。しかし、死者はもう何ひとつ知らない。彼らはもう報いを受けることもなく彼らの名は忘れられる。その愛も憎しみも、情熱も、既に消えうせ太陽の下に起こることのどれひとつにももう何のかかわりもない。」

 

コヘレトは、4節で命ある者に数えられていれば、希望があると言っています。人は皆死ぬ運命にあるけれども、命あるうちは希望があると。そこで諺を引用します。「犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。」犬はイスラエル社会では不浄で汚れた動物です。獅子は強さの象徴で、百獣の王です。動物の中で最も優れたものです。しかし、死はこの獅子を犬より劣るものとするのです。

 

コヘレトは、さらに5節でこう言います。生きているわたしたちは、自分が死ぬことを知っています。しかし、死者は何も知りません。人は死ぬと意識も失せ、まるで物となります。コヘレトが言う報いは、神が与えてくださるこの世の労苦の報いです。飲み食いの楽しみです。死者にはこの神の報いは受けられません。そして、死者は彼の名も彼がこの世に生きていたことも忘れられるのです。コヘレトが111節で、216節で人の記憶が失せることの悲劇を述べていますが、ここでも死者の記憶が失せることの悲劇を述べています。

 

わたしと妻はわたしが牧師を引退してから教団の富士見高原教会で水曜日の祈祷会を守っています。富士見高原教会に行きますと、教会の玄関のところに召天者の名前を記した一覧表が掲げてあります。良い試みだと思います。

 

コヘレトは、6節で死者の愛も憎しみも妬みさえもすでに消えうせ、死者はこの世において起こるすべてのことに永遠にかかわることはないと言っています。

 

聖書協会共同訳は、6節を「太陽の下で行われるすべてのうちで彼らにはとこしえに受ける分はない」と訳しています。

 

この訳だと、コヘレトが710節で述べていることが理解できます。彼は、言います。「さあ、喜んであなたのパンを食べ気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れてくださる。どのようなときも純白の衣を着て頭には香油を絶やすな。太陽の下、与えられた空しい人生の日々愛する妻と楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの人生と労苦の報いなのだ。何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府には仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。」

 

コヘレトは、同じ運命にある、自分は死ぬということを知っているわたしたちに彼が信じる幸福を教え、その幸福を得る方法を教えているのです。コヘレトの幸福は、人が生きている間に得られるものです。第一に飲み食いの楽しみです。これは、神が人の労苦の報いとして与えてくださった神の恵みです。神は、人の業を受け入れ、その報いとして人に飲み食いの楽しみをお与えくださるのです。

 

コヘレトは、第二に8節で人の悪に満ちた世の中で日々に清さを保ち、喜びを表せと勧めるのです。純白の衣は、古代社会では祝日の晴れ着でした。ヨハネの黙示録に救われた者たちが神の御前に白い衣を着て礼拝するとあります。また、詩編235節に「私を苦しめる者の前であなたは私に食卓を整えられる。私の頭に油を注ぎ私の杯を満たされる」とあります。コヘレトは、この世で人の悪に満ちた中で神の御前に日々生き、日々神に守られて喜び生きよと勧めているのではないでしょうか。

 

次にコヘレトは、第三に9節でこの空しい人生においてあなたは愛する妻と共に楽しめと勧めています。聖書協会共同訳は、9節を「愛する妻と共に人生を見つめよ 空である人生の日々を。」と訳しています。訳は少し違いますが、どの訳も「女」を妻と訳しています。それによってコヘレトが一夫一婦を確認していることをくみ取っています。コヘレトは、この移ろいやすい人生において愛する妻と生活を楽しむことが神の与えられた報いであると教えているのです。

 

コヘレトは、第四にこの世で生きている間にあなたの手の力でできるすべての仕事を行えと勧めています。コヘレトは、人は死んで死者の国に行けば、仕事も企ても知恵も知識もないと言います。彼は、わたしたちが死と共にすべての希望が失せ、この世におけるものは何も残されないと考えているのです。

 

コヘレトは、わたしたちにこの世においては思いがけない災難が起こると述べています。1112節です。「太陽の下、再びわたしは見た。足の速い者が競争に、強い者が戦いに必ず勝つとは言えない。知恵があるといってパンにありつくのでも聡明だからといって富を得るのでも知識があるといって好意をもたれるのでもない。時と機会はだれにも臨むが人間がその時を知らないだけだ。魚が運悪く網にかかったり鳥が罠にかかったりするように人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる。」

 

コヘレトが見たこの世の空しさは、この世には思いもかけないことや災難があるということです。コヘレトが見ていると、足の速い者が競争に勝ち、強い者が戦いに勝つとは限らいないことを見ました。また、知者がパンを、賢者が富を、学者が好意を得るとは限らないことを見ました。コヘレトは、人は誰も自分の災難が来ることを知らないことを見ました。魚が網にかかり、鳥が罠にかかるように、人にも不幸な時が突然と襲うことを見たのです。

 

コヘレトがこの世において見たことは、わたしたちもこの世において見るのです。今年はオリンピック競技がパリで開かれました。足の速い者が必ずしも優勝するわけではありません。優勝候補である強い者が競技に勝つわけでもありません。また、知恵ある者が貧しい生活をすることがあり、賢者が金持ちとは限りません。日本の首相になったから国民に支持され、人気を得るわけでもありません。

 

また、人は誰も自分の災難を予想できません。魚が網にかかり鳥が罠いかかるように、人も突然の不運に見舞われるのです。

 

コヘレトは、いろいろな人の災難を述べていますが、ひとつ明確なことは、人は誰も同じ運命を生きているのです。自分は死ぬべきものであることを知っているのです。だから、同じ人間を信頼することはできません。ましてや自分を信頼することはできません。創造主なる神のみに信頼すべきです。

 

創造主なる神は人とこの世界を創造され、人にこの世界を治める務めを与えられました。人間が罪によってこの世界に死と労苦を招きました。しかし、創造主なる神は、人にこの世における仕事を与えられ、人がその仕事をする労苦に対して、飲み食うという楽しみを与えてくださっています。また、創造主なる神は、アダムが独りであるのは良くないと、彼に助け手である妻を与えてくださいました。人は飲み食いだけではなく、この世の空の中で愛する妻と生活を楽しむ恵みを与えてくださいました。

 

お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちは死ぬという同じ運命の中にあります。創造主なる神に罪を犯した人の運命を、わたしたちは今も生きなければなりません。

 

 どうか、自分の死を常に自覚し、神がわたしたちに賜った恵み、飲み食いを楽しみ、与えられた妻との生活を楽しませてください。

 

また、死後すべては終わります。どうか神がわたしたちに与えられたこの世の仕事に全力を注がせてください。

 

この世や人に頼ることなく、創造主なる神にのみ頼らせてください。

 

この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 コヘレトの言葉説教12              主の20241027

 

 聖書テキスト:コヘレトの言葉第913節-第103

 説教題:「無視される知恵 」

 

 今朝は、宗教改革記念日礼拝です。宗教改革を覚えて礼拝をしましょう。

 

15171031日にマルティン・ルターがヴィテンベルグ城教会の扉に95箇条の提題を貼り出しました。これが宗教改革運動の始まりです。瞬く間に全ヨーロッパに広まり、カトリック教会に対抗するプロテスタント教会が生まれました。ルターを始め宗教改革者たちは、中世ローマカトリック教会が教会の権威を主張するのに対して「聖書のみ」を訴えて、聖書の権威を主張しました。カトリック教会が善き行いによる救いを主張するのに対して、信仰義認を、信仰によって救われることを主張しました。

 

プロテスタント教会はいろんな教派に分かれて、ヨーロッパからアメリカに、そして、150年前に日本に伝道したのです。アメリカのプロテスタント教会は国教ではなく、自由教会でした。信徒たちの献金によって教会が建てられ、運営され、伝道しました。彼らは、祈り、献金し、日本に優秀な宣教師たちを派遣しました。横浜に日本最初のプロテスタント教会が創立しました。聖書のみ、信仰のみ、そして祈りと献金のみによって、わたしたちの祖父たちは、今日の日本のプロテスタント教会を建てあげたのです。

 

本日は、宗教改革を覚えつつ、『コヘレトの言葉』の第913節-第103節の御言葉を学びましょう。

 

 コヘレトは91316節で次のように述べています。「わたしはまた太陽の下に、知恵について次のような実例を見て、強い印象を受けた。ある小さな町に僅かの住民がいた。そこへ強大な王が攻めて来て包囲し、大きな攻城堡塁を築いた。その町に一人の貧しい賢人がいて、知恵によって町を救った。しかし、貧しいこの人のことは、だれの口にものぼらなかった。それで、わたしは言った。知恵は力にまさるというが この貧しい人の知恵は侮られ その言葉は聞かれない。」

 

コヘレトは、わたしたちに貧しい人の知恵がこの世で無視されることの悲しみを述べています。

 

「太陽の下」とは、この地上のことであり、この世のことです。コヘレトは、貧しい人の知恵が無視されるという悲しみを見ました。知恵を愛し、重んじているコヘレトにはショックな出来事で、彼の心に残りました。

 

コヘレトは、知恵を創造主なる神が人に与えてくださる賜物であると説いています。例えば、コヘレトは、226節で「神は善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる」と説いています。コヘレトは知恵と知識を求めることに熱心な人でした。彼は725節で「わたしは熱心に知識を求め 知恵と結論を追求し」と述べ、116節で「わたしの心は知恵と知識を深く見極め」と述べ、117節で「熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ」と結論づけています。

 

しかし、彼は知恵を軽んじてはいません。彼は、知恵が神の賜物で、人の幸いと深く関係することを知っていたからです。彼は81節で「人の知恵は顔に光を添え、固い顔も和らげる」と述べています。聖書協会共同訳は、「知恵はその人の顔を輝かせ その顔の険しさを和らげる」と訳しています。

 

人間は罪のゆえに太陽の下で混乱し非条理な世界に置かれています。その中で秩序を与え、人を幸いに導き、命と希望を与えるものが神の賜る知恵なのです。コヘレトは、7章12節で「知恵はその持ち主に命を与える」と述べ、916節で「知恵は力にまさる」と述べています。知恵は、人に命を与え、王の武力にまさるものです。

 

ところが、その知恵が貧しい人であるという理由だけで、小さな町の人々に無視されたのです。古代の中近東世界は、アッシリア帝国、バビロニア帝国、ペルシア帝国が次々と起こり、バレスチナの小国を侵略し、支配しました。町は城壁で囲まれており、町を占領するために帝国の王たちは、攻城堡塁を築きました。町の城壁と同じ高さに盛り土を積み、そこから兵士たちを町に入れ、町を占領したのです。ところが、その小さな町に一人の貧しい賢人がいて、彼が知恵によって大王の侵略から小さな町を救いました。しかし、町の人々は誰も、貧しい賢人を覚えてもいませんし、感謝もしませんでした。この小さな町が貧しい一人の賢人の知恵によって救われたのに、町の人々は彼の知恵を無視したのです。

 

コヘレトは、それを見て、ショックを受け、言いました。「わたしは言った。知恵は力にまさるというが この貧しい人の知恵は侮られ その言葉は聞かれなかった。」

 

箴言第8章において知恵に人格があり、知恵は人に呼びかけ、人に理解力と知識を与えます。知恵は人に神を畏れることを教え、悪を憎み、善に生きるように導きます。人を愛と正義へと導きます。知恵は、神の創造前に存在し、神に創造された人と共に生き、音楽を楽しみ、人の子らと喜びを共にします。小さな町の人々は、その知恵を無視したのです。彼らが見たのは、小さな町に一人の貧しい人がいるということでした。彼らは、賢人を貧しい人と軽蔑していたので、貧しい賢人の知恵が小さな町を侵略しようとした大王の武力にも勝るものであることを知りませんでした。彼らはそのように無知で愚かであるゆえに、貧しい賢人の知恵に耳を傾けることもしなかったのです。

 

コヘレトは、説教者です。彼は、今わたしたちに説教します。知恵について説教します。コヘレトは、わたしたちに「あなたも小さな町の人々同じではないか」と言っているのです。貧しい人の知恵は、小さな町の人々にとって、町を救ってくれたメシアでした。しかし、小さな町の人々はメシアである知恵を忘れてしまいました。コヘレトは、わたしたちに「それは正しい判断であるか」と問うているのです。小さな町の人々は、彼らの愚かさによって貧しい人の知恵を軽んじ無視しました。

 

『コヘレトの言葉』は、紀元前100年頃には、旧約聖書正典に加えられていました。そして、コレヘトが愛した知恵が、メシアであるキリストが言葉として、この世に受肉されました。貧しいヨセフとマリア夫婦に生まれ、生涯貧しい人として過ごされました。人々は、神の知恵であるキリストがメシアであることを知りませんでした。多くの病人を癒され、悪霊につかれた者から悪霊を追い出されました。不自由な人々を直されました。ご自身罪がありませんでしたのに、罪あるわたしたちが負うべき神の刑罰を、あのゴルゴタの十字架の上で引き受けてくださったのです。しかし、小さな町の人々が貧しい人の知恵を無視したように、わたしたちもキリストを無視しているのではないでしょうか。

 

しかし、説教者コヘレトは言うのです。「知恵は力にまさる」と。知恵であるキリストは、十字架で死なれました。しかし、彼は復活であり命でした。死の力に打ち勝たられました。キリストは、ご自身の死と復活によってわたしたち人類とこの世界を救われたのです。

 

しかし、コヘレトが今驚くことは、ショックなことは、小さな町の人々が貧しい人の知恵を侮り、彼の言葉を聞かないように、今この世も教会もメシアであるキリストの知恵を侮り、キリストの言葉を聞かないことです。

 

この世においても、教会においても知恵が無視されているのです。キリストだけが人とこの世界を救われるのです。キリストは、ご自身の死と復活によって罪と死の支配から人この世界を解放したことを告げられたのです。このようにコヘレトが言う知恵は、国や町を救い、人を救うものです。わたしたちを、この宇宙を救ってくださるお方です。

 

だからこそ今、教会は、わたしたちはキリストを伝えなければなりません。どのように伝えられるでしょうか。

 

コヘレトは、17節で「支配者が愚かな者の中で叫ぶよりは 賢者の静かに説く言葉が聞かれるものだ。」と説いています。

 

「愚かな者」とは、民衆たちです。支配者は民衆に声高に「わたしの命令に従わない者は処罰をする」と脅すのです。支配者は、武力で民衆を押さえつけようとします。しかし、民衆たちは心から支配者に従おうとはしないでしょう。しかし、コヘレトは言います。賢者は、知恵によって静かに民衆たちに人の道理を説いて、聞かせるので、民衆たちは知恵によって人として正しい道を生きるように説得できるのです。

 

コヘレトは、今のわたしたちにも静かにキリストの言葉を語り掛けるようにと勧めるのです。わたしたちキリスト者は、洗礼を受けたときに、キリストの霊である聖霊をいただきました。そしてキリストから知恵をいただきました。その証拠に、わたしたちは聖書を読めば、キリストがわたしの罪のために死なれたこと、永遠の命の保証として復活されたことを理解しているのです。人にキリストを伝える時、キリストはわたしたちに心配する必要はないと言われました。わたしたちが家族に、地域の人々に、キリストについて語るべき言葉を与えてくださるからです。

 

だから、コヘレトは、続けて18節で「知恵は武器にまさる。一度の過ちは多くの善をそこなう。」と説くのです。コヘレトは、わたしたちに三つの誤りを説いています。

 

「知恵は武器にまさる」は、16節の「知恵は力にまさる」と同じ意味です。知恵は力です。どんな武器よりも、力があります。神の知恵である聖霊がどんなに心頑なな人の心をも変えることができます。

 

わたしたちの誤りの第一は、わたしたちが神の知恵を、聖霊の働きを邪魔していることです。コヘレトは言うのです。一度の過ちが多くの善をそこなうと。どんなに聖霊がわたしたちを用いられ、あるいは他の人々を用いられ、この教会に家族や知人や人々を導いてくださっても、わたしたちがつまずきになれば、わたしたちが間違ったことをすれば、すべては台無しであると。

 

 わたしたちの誤りの第二は、101節です。コヘレトは言います。「死んだ蠅は香料作りの香油を腐らせ、臭くする。僅かな愚行は知恵や名誉より高くつく。」

 

 「死んだ蠅」とは、死の蠅のことです。冬になり、死にかけている蠅がツボの中に落ちて死にますと、ツボの中の香油を駄目にするのです。

 

 死んだ蠅は霊的に死んだキリスト者のことです。信仰が死んでしまっている者です。プロテスタントキリスト者の規準は、聖書のみ、信仰のみ、恵みのみです。信仰の実質は、信仰義認です。聖書が福音として提供するキリストを、わたしたちが救い主と信じ、キリストの救いの御業を信じることによって、わたしたちは救われる、義とされるのです。

 

 そこにわたしたちの功績を加えたら、教会はどうなるでしょう。神は知恵によって貧しい者を救われ、世に価値なき者を救おうとされているのに、わたしたちが神の恵みと名誉を奪うことにならないでしょうか。教会に強いキリスト者だけが集まれば、その交わりにキリストはいてくださるのでしょうか。キリスト者にとってわずかな愚行とは、自分の力により頼もうとすることです。そこには、神の恵み、神の知恵が働く余地がありません。

 

 わたしたちの第三の誤りは、わたしたちが自分や教会の中だけに閉じこもることです。コヘレトは言います。1023節です。「賢者の心は右へ 愚者の心は左へ。愚者は道行くときすら愚かで だれにでも自分は愚者だと言いふらす。」

 

コヘレトにとって心は、知恵の座でありました。右と左は道徳的表現で善と悪です。右が善で、左が悪です。賢者の心には知恵があり、知恵は賢者を善へ、神の道へと導いてくれます。愚者の心は悪へと導かれ、悪い行いをします。

 

コヘレトは、愚者の特色を、愚者自らが自分が愚者であると言い広めることだと述べています。

 

コヘレトは言います。「愚者が道行くとき」は、と。これは他人と交際するときです。コヘレトは、愚者は知恵がありませんから、周りの人々に配慮することもなく、人々の迷惑も顧みないでふるまうと述べているのです。コヘレトは、それを愚者がまるで自分は愚かな者だと自己宣伝しているようだと言っています。

 

教会とキリスト者が伝えるのは、キリストです。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一第1章3031節でこう述べています。「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」。

 

コヘレトが言う知恵ある賢者は、神の知恵であるキリストに結ばれた者であり、キリストとの交わりに生きる者です。キリストはご自身の十字架によって、キリスト者を義とし、彼に聖霊を与えられて、聖なる生を与えられ、終わりの日にすべてから解放し、彼の救いを完成してくださるのです。

 

それゆえにパウロは、わたしたちキリスト者に自分ではなく、キリストを誇れと勧めたのです。キリストを誇らず、自分を誇るキリスト者は愚かな者です。もしキリストを伝えず、自分を誇るキリスト者がいれば、彼はコヘレトが言うように、自分の愚かさを人々に宣伝しているのです。

 

最後にコヘレトは、常に最悪のことを予測して、絶望するよりも、いかにこの世を生き抜くべきかを教えています。

 

現代人は、キリストの再臨も神の審判も神の国も信じてはいません。しかし、核兵器による世界の破滅を信じています。将来地球の環境が悪化して、人類に、地上の生物に破滅が来ることを予測しています。

 

宗教改革者ルターは、言いました。「たとい明日、世の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植えよう」と。明日終わりの日が来るかもしれない。だからこそルターは今日わたしたちはどのように生きるべきか、その責任を神に問われているのだと言うのです。

 

コヘレトのように、明日わたしは死を迎えるとしても、決して悲観し、自暴自棄になってはなりません。ルターのように「明日、世の終わりが来ようと、わたしは今日、わたしが神に召された務めをする。キリストを家族に伝え、諏訪市の人々、知人に伝える」と言おうではありませんか。

 

言葉で伝えられないなら、主の日の礼拝を続けることで伝えようではありませんか。

 

お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、宗教改革記念日礼拝で、『コヘレトの言葉』を学ぶ機会が与えられ感謝します。

 

宗教改革運動から500年以上が経過しましたが、宗教改革者が主張した「聖書のみ」「信仰のみ」のスローガンはわたしたちの今も真実です。

 

どうか、自分を誇る愚かな者となることがなく、キリストを誇らせてください。

 

また、ルターが言ったように明日この世の終わりだとしても、神に召されたキリスト者としての務めを今日、果たさせてください。

 

キリストを信じ、キリストの約束を待ち望み、明日に向けて生かしてください。

 

この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

コヘレトの言葉説教13               主の2024113

 

 聖書テキスト:コヘレトの言葉第10415

 説教題:「知者と愚者の相違」

 

 今日は、コヘレトの言葉第10415節の御言葉を学びましょう。

 

 コヘレトは104節で言います。「主人の気持ちがあなたに対してたかぶっても その場を離れるな。落ち着けば、大きな過ちも見逃してもらえる。」

 

コヘレトは、わたしたちに知恵のある冷静な行動を説いているのです。「主人」は、支配者、王のことです。「主人の気持ちがたかぶる」とは、支配者、王の怒りを買うことです。コヘレトは、その時「あなたはその場を離れるな」と忠告します。それは、「あなたの席から離れるな」という意味です。支配者、王は、それを職務の放棄とみなすのです。しかし、コヘレトは、冷静にその場を離れなければ、その冷静な知恵ある行動があなたから大罪を引き離すと言っているのです。聖書協会共同訳聖書は、「冷静になれば、大きな罪には問われない」と訳しています。コヘレトは、わたしたちに窮地に陥るとき、知恵ある冷静な行動をするようにと説いているのです。

 

続いてコヘレトは、57節でこう述べています。「太陽の下に、災難なことがあるのを見た。君主の誤りで 愚者が甚だしく高められるかと思えば 金持ちが身を低くして座す。奴隷が馬に乗って行くかと思えば 君侯が奴隷のように徒歩で行く。」。

 

コヘレトは、「太陽の下に」、すなわち、この地上で不条理なことを見たのです。彼は、君主に由来する過ちとして、「災難なことがある」のを見ました。聖書協会共同訳と岩波書店の聖書は「不幸」と訳し、カトリック教会のフランシスコ会訳聖書と新改訳聖書2017は「一つの悪」と訳しています。

 

コヘレトは、6節でその災難、不幸、一つの悪を具体的に述べています。君主が愚者を高い地位につけ、金持ちを低い地位につけたことです。「金持ち」とは「富める者」のことです。彼は知恵があり、人を支配する人です。

 

善き君主は、知恵によって適材適所に家臣を配置します。例えば、旧約聖書の創世記のヨセフ物語において、エジプトの王が正しい判断をし、王の夢を解き明かしたヨセフを、国の宰相に取り立てて、彼に国の政策を委ねたことを記しています。ヨセフは、王の夢を解き明かし、神がエジプトを7年間豊作にし、続く7年間凶作にされることを知り、知恵によって王国のほとんどの土地を王の所有地とし、国を安定させたのです。

 

このように君主が適材適所に人を配置すれば国は平穏です。ところがコヘレトが見た君主は愚者を宰相にし、人を支配する力ある者を低い地位につけました。わたしたちは、予測できるでしょう。その君主の誤りによって王国の政治は混乱と腐敗を招き、低き地位につけられた金持ちが力を蓄え、王に反逆するのではないでしょうか。コヘレトは、王自らが招いた誤りによって、王と王国が滅ぼされるという悲劇を見たことでしょう。

 

7節でコヘレトは、過ちを犯した王たちの末路を、この世の非条理として述べているのです。コヘレトは、奴隷たちが馬に乗り、王たちが奴隷のように素足で歩くのを見ました。わたしは、コヘレトの言葉を読みながら、バビロン捕囚を思い起こしました。異邦人たちが馬に乗って、エルサレムの都を占領し、南ユダ王国の王はバビロンに捕囚され、王も高官たちも奴隷のように素足で歩かされたのです。

 

コヘレトは、この世における歴史の非情さを好みません。彼は秩序が乱され、国が混乱を招くことを、不幸な出来事、一つの悪と見ているのです。

 

コヘレトは、わたしたちに811節でこう説いています。「落とし穴を掘る者は自らそこに落ち 石垣を破る者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石に傷つき 木を割る者は木の難に遭う。なまった斧を研いでおけば力が要らない。知恵を備えておけば利益がある。呪文も唱えぬ先に蛇がかみつけば 呪術師には何の益もない。」

 

コヘレトは、格言を用いて人がなす仕事には危険があり、事をなすためには知恵が必要であることを説いています。8節の「落とし穴を掘る者は自らそこに落ち」は、一つの格言を用いています。同様の文章が他にもあります。箴言2627節に「穴を掘る者は自分がそこに落ち」とあり、詩編716節に「落とし穴を掘り、深くしています。仕掛けたその穴に自分が落ちますように」とあります。コヘレトは知恵の必要性を説くために、この格言を用いたのでしょう。

 

この格言の元々の意味は、自業自得ということです。人のすることには、それ相応の結果を伴うものであり、たいていは自業自得であるという趣旨の格言だと思います。

 

しかし、コヘレトは、違った意味で用いています。コヘレトは、わたしたちに人がなすすべての仕事には、注意と知恵が必要であるということを示すために、811節の御言葉を述べているのです。

 

8節の「落とし穴を掘る者」とは、獲物を捕るための穴を掘る猟師のことです。猟師の仕事をする者が獲物を捕るために穴を掘り、不注意によって自分が掘った穴に落ちたのでしょう。

 

8節後半の「石垣を破る者は蛇にかまれる」とは、農夫のことです。石垣は、パレスチナのぶどう園や畑が背景にあります。箴言の243031節に賢人が怠け者の畑と意志の弱い者のブドウ畑の傍らを通り、見たという御言葉があります。畑一面にいらくさが茂り、あざみが覆い、石垣は崩れていたと記しています。ブドウ畑や畑を守るために、石を積み上げて垣を造りました。この石垣が蛇の格好の隠れ家となりました。

 

だから、コヘレトは、農夫が石垣の石を積みなおす作業をするときには、農夫は知恵を働かせ注意し蛇にかまれないようにしなければならないと説いているのです。

 

9節の「石を切り出す者」とは神殿や王宮の建築のために土台の石を山から切り出す者のことです。コヘレトは、切り出した石で彼らが体を傷つけないように知恵を働かせ注意するように説いているのです。

 

9節後半は、木こりの仕事です。伐採は今でも危険な仕事です。「木の難」というのは、コヘレトの時代、木の伐採は斧を使用しました。その斧の鉄の部分が柄から抜けて、近くで伐採している人に当たり、その人が亡くなる場合がりました。この場合故意の殺人ではありませんが、殺された身内から復讐される危険がありました。だからコヘレトは、木こりが知恵を働かせ、注意して危険を避けるように説いているのです。

 

コヘレトは、わたしたちにこのように4つの仕事の危険を述べて、賢者と愚者の相違を述べているのです。賢者は仕事に危険があることを知り、知恵を働かせ注意し、危険を避けようとします。しかし、愚者は仕事に危険があることに無頓着なのです。

 

10節でコヘレトは、愚者は斧を研ぐことをしないので、仕事に余分の力がいると思っています。しかし、コヘレトは、賢者は斧を使う前に手入れし、斧を研いでいるので、仕事に余分の力が要らないと説いています。コヘレトがわたしたちに言いたいことは、こうです。「知恵を備えておけば利益がある」。仕事に成功するためには、知恵が必要だということです。

 

11節は蛇使いのことです。パレスチナには蛇使いがいました。蛇に呪文をかけて、見世物にしていたのです。「呪術師」は「言葉の先生」という意味です。彼は呪文を口で唱えるので、そう呼ばれました。しかし、コヘレトは言います。蛇使いが呪文を唱える前に蛇が彼にかみつけば、彼の見世物は失敗し、彼には何の益もないと。だから、コヘレトは蛇使いが知恵を働かせ蛇にかまれないように注意すべきだと説いているのです。

 

コヘレトは、1215節で愚者について、彼が語る愚かさについて述べています。コヘレトは、賢者に比較して愚者のことを、彼が語ることの愚かさを述べています。

 

コヘレトは言います。「賢者の口の言葉は恵み。愚者の唇は彼自身を呑み込む。愚者はたわ言をもって口を開き うわ言をもって口を閉ざす。愚者は口数が多い。未来のことはだれにも分からない。死後どうなるのか、誰が教えてくれよう。愚者は労苦してみたところで疲れるだけだ。都に行く道さえ知らないのだから。」

 

コヘレトは、賢者と愚者の相違を述べていますが、賢者については、「賢者の口の言葉は恵み」とだけ述べています。「恵み」は優しい、好意とも訳せます。コヘレトは、賢者の口にする言葉は優しく、それゆえに人々に恵み、好意として受け入れられると述べているのです。

 

反対に愚者が口にする言葉が「彼自身の呑み込む」とは、彼を破滅させるという意味です。コヘレトは賢者の言葉は人々に喜ばれ、愚者の言葉は彼自身を破滅させると説くのです。

 

聖書協会共同訳は、13節を「その口から出る言葉は愚かさで始まり 悪しき無知で終わる」と訳しています。コヘレトはわたしたちに言います。愚者は愚かなことを語り始め、災いをもたらす無知で終わるのだと。

 

愚者は際限なくおしゃべりします。何でも、よく語ります。彼は自分の無知を自覚しません。だから、コヘレトは言います。「愚者は口数が多い。未来のことはだれにも分からない。死後どうなるか、誰が教えてくれよう」と。これは、愚者への反問です。愚者が多くのことを語り、人間には知り得ない未来のことも死後のことも知っていると弁じたてるのです。しかし、コヘレトは知っています。未来のこと、死後のことは、人間の認識の外にあるということを。

 

だから、コヘレトは言うのです。人はこの後に起こることすら知らないのに、どうして未来のことを、死後のことを告げ知らせることができるだろうかと。コヘレトは知っているのです。人がどこまでもこの世に生きる者であることを。時間の中に生きる者であることを。だから、人はこの世を超えたもの、時間を超えたもの、永遠を知ることはできないことを。

 

最後にコヘレトは、愚者の労苦の空しさを述べています。それは、愚者の行いには結果が伴わないからです。彼は愚者の労苦は疲れるだけだと、診断を下すのです。「都に行く道さえ知らない」とは、最も容易なことすら知らないという意味です。神の民であれば、誰でもエルサレムの都に行き、神殿で神礼拝します。その都への道を知らないのです。だから、コヘレトは言うのです。愚者は、目の前にある目標にすら到達できないと。

 

コヘレトの言葉を順追って説明しましたが、コヘレトから今わたしたちが聞くべき言葉は、説教題にあるように「賢者と愚者の相違」です。

 

賢者は知恵によって冷静に行動し、知恵を用いてなすべきことに危険があることを注意し、人に語り掛ける言葉が優しく、人々の好意を得、喜ばれるのです。

 

他方愚者は、自らの誤りからわが身を滅ぼす者です。知恵を働かさず、なすべきことに危険があることも無関心で、知恵を働かせて注意することもありません。愚者は自分の言葉によってわが身を滅ぼし、おしゃべりで知り得ないこともよくしゃべります。しかし、彼の労苦は疲れてしまいます。なぜなら、彼はもっとも容易なことでさえできないのです。だから、彼の目の前にある目標に到達できないのです。

 

わたしは、コヘレトの言葉に耳を傾けながら、主イエスの例え話に耳を傾けました。マタイによる福音書25章の「十人のおとめ」のたとえです。主イエスは、天の国についてたとえられました。十人のおとめがともしびをもって花婿を迎えに行きました。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かったのです。愚かなおとめたちはともしびを持っていましたが、油を用意していませんでした。賢いおとめたちはともしびと共に壺に油を入れて、持っていました。花婿の到着が遅れたので。10人のおとめたちは眠りこけてしまいました。突然「花婿だ。迎いに出なさい」と言う声がしました。十人のおとめたちはともしびを整えて出迎えようとしました。ところがともしびの油が切れようとしています。油の用意をしていない愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに油を分けてくださいと頼みました。賢いおとめたちは自分たちの分しかないので、店で買ってくるようにアドバイスしました。愚かなおとめたちが油を店に買いに行っている間に花婿が到着し、婚礼は始まり、五人の愚かなおとめたちは婚礼から締め出されてしまいました。

 

この主イエスのたとえ話は、初代教会でキリストの再臨にどのように備えるのかという問題です。終末のキリストの再臨に対して備えなかった五人のおとめが愚かと呼ばれ、天の国から締め出されました。

 

五人の賢いおとめたちは壺に油を用意し、彼女たちの花婿を迎えるという仕事の危険に、知恵を働かせ注意し、備えたのです。また、賢いおとめたちが愚かなおとめたちに油を分け与えなかったのは、終末に備えることはキリスト者各人がすることです。信仰は各人のことです。だから、いざ主イエスが再臨されたとき、わたしたちは人に頼ることができません。

 

キリストへの再臨に備えることは、キリストが再臨され、御国へ招かれる資格となるのです。

 

この勧めが今日の御言葉に適切であるか、分かりません。しかし、わたしはコヘレトの言葉を読み、聖書の言う賢い者と愚かな者との区別は、現代でも通用すると思うのです。

 

賢いと愚かは、この世では頭が良いか、悪いかです。あるいは要領のよい者か悪い者かの区別です。しかし、聖書では神の与えてくださる知恵を得ることが賢い者です。賢い者は、神に祝され、この世で人がすべきことに、危険があると知り、知恵を働かせて注意するのです。愚かな人は神の賜物である知恵がありませんから、この世における自分たちのすることに危険がないかと注意を向けないのです。

 

コヘレトの賢者と愚者の区別も主イエスの十人のおとめの例え話も神の民、キリスト者の話です。神の民の中にも、キリスト者たちの中にも賢い者と愚者がいるということです。その違いは、神の賜物、聖霊の実である知恵があるかないかです。

 

聖霊によって知恵を得るものは、この世のキリスト者としての生活に危険があることを知り、知恵を働かせて注意するでしょう。五人の賢いおとめのように花婿であるキリストを迎える準備をしているでしょう。わたしたちの毎週の主の日の礼拝がその備えであると思うのです。

 

お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、今日も、『コヘレトの言葉』を学ぶ機会が与えられ感謝します。

 

今日はコヘレトの言葉から賢者と愚者の相違について学びました。わたしたちキリスト者は、洗礼によって聖霊をいただき、聖霊の賜物である知恵を得ています。

 

どうか、聖霊よ、わたしたちがこの世でなすすべてのことに危険があることを知り、知恵を働かせ、注意し、備えさせてください。また、五人の賢いおとめのようにキリストの再臨に備えさせてください。

 

キリストを信じ、聖書の御言葉の約束を待ち望み、キリストの再臨と新しい天と地を望みて生かしてください。

 

 

この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

コヘレトの言葉説教14               主の20241110

 

 聖書テキスト:コヘレトの言葉第101620

 説教題:「王の権力」

 

 今日は、コヘレトの言葉第101620節の御言葉を学びましょう。

 

 コヘレトは101617節で言います。「いかに不幸なことか 王が召し使いのようで 役人らが朝から食い散らしている国よ。いかに幸いなことか 王が高貴な生まれで 役人らがしかるべきときに食事をし 決して酔わず、力に満ちている国よ。」

 

コヘレトは、この世における不幸な国と幸いの国を見ました。16節は不幸な国です。

 

「王が召し使いのようで」は誤訳だと思います。聖書協会共同訳聖書は、それを訂正して「王が若者で」と訳しています。新改訳聖書2017と岩波書店の聖書は「王が若輩で」と訳しています。また、「役人」は聖書協会共同訳と岩波書店の聖書と新改訳聖書2017は、「高官」と訳しています。

 

コヘレトは見たのです、不幸な国を。王が年若く王位に就きました。おそらく高官たちの後ろ盾で、王位に就いたのです。だから若い王には権力がありませんでした。高官たちは若い王を操り、好き勝手なことをしました。彼らは朝から宴会を開いて贅沢な食事をしたのです。当然、国の政治は乱れ、国力は落ち、民は苦しみ、外国の侵略で滅ぼされることでしょう。

 

コヘレトは、17節で、幸いな国を見ています。「王が高貴な生まれで」というのは、16節の年若い王とは対照的に有能な王であるということです。王が有能で権力を持ち、家臣を統率しています。だから国には秩序があり、高官たちは一定の時に食事をし、朝から宴会を開いて酒に酔うことはありません。当然国は富み栄え、国力は強くなり、民は平穏な生活を得ることでしょう。

 

コヘレトがわたしたちに言いたいことは、こうです。説教題にあるように王の権力は、愚かな者が継げば、王と家臣との秩序が乱れ、国を不幸にします。他方、有能で賢い者が王に就けば、彼は家臣を統率し、国は秩序があり、強くなり、幸いとなるということです。

 

コヘレトの時代は、国を治めるのは王です。王の権力が強くないと幸いな国は建てられませんでした。創造主なる神は、国に王を立てられました。王は神に代わって国を支配しました。しかし、この世において人は罪により堕落し、世は腐敗します。神が与えられた王の権力も腐敗しました。それを、コヘレトは国の不幸と診断するのです。逆にコヘレトは王が神から与えられた権力を行使し、家臣たちを統率し、民を治めることができれば、国は秩序があり、富み栄え、強くなり、幸いになると診断したのです。

 

このコヘレトの診断がわたしたちに当てはめられるでしょうか。わたしたちの国の政治形態はコヘレトの時代とは異なります。けれども、わたしはコヘレトが言っていることが、わたしたちにも当てはまると思うのです。神はわたしたちにも「王の権力」を与えてくださいました。それは、日本国憲法が保障しています国民主権です。わたしたちは国民主権の権利を正しく行使し、国会議員を選挙します。国民から選ばれた国会議員がわたしたちに代わって、わたしたちの国の首相を指名します。首相は適材適所に大臣を任命し、大臣たちが官僚たちを統率するならば、わたしたちの国は秩序があり、わたしたちの生活は潤いを得て、国は幸いとなるのではないでしょうか。

 

今のわたしたちの国は、コヘレトの診断では不幸です。わたしたちに知恵がないからです。わたしたちは日本国憲法が保障する国民主権を正しく用いてはいません。10月に衆議院選挙がありました。多くの国民は関心がありませんでした。それでも与党の国会議員たちは過半数を得ることができませんでした。ところが、裏金の不正をした国会議員たちの中には当選した者がおり、彼らは当選したことで、みそぎがすんだと主張しています。神から与えられた国民主権をわたしたちが誠実に行使していないからです。年若い王と同じです。神から与えられた王の権力を、わたしたちが無力なものにし、当選した国会議員はみそぎが終わったと、これから好き勝手をするでしょう。ますます日本の政治が腐敗し、国の秩序が乱れ、わたしたちの将来が不幸になると、コヘレトは診断するでしょう。

 

コヘレトは、18節でこう言っています。「両手が垂れていれば家は漏りなら 梁が落ちる。」。

 

コヘレトは、家を建てる者が怠惰であれば、家の屋台骨が揺らぐという話をしています。聖書協会共同訳は、「怠惰になると天井は落ち 手を抜くと家は雨漏りがする」と訳しています。他の岩波書店の聖書も新改訳聖書2017も同じです。「両手が垂れていれば」は、手を抜くことです。家を建てる大工が手抜き工事をしたら、家の屋根は雨漏りがするでしょう。「両腕が怠惰なら」は、「怠惰」の双数形です。「二つの怠惰」です。家を建てようとするとき、大工が怠惰であるなら、天井の梁を落とし、家の屋台骨が揺らいでしまうのです。

 

コヘレトは、わたしたちに怠惰な大工が家を建てる話をしようとしているのではありません。今日の説教題にあるように「王の権力」の話をしているのです。コヘレトがわたしたちにこの話で言いたいことはこうです。王が与えられた権力を忠実に用いないで、怠惰であるならば、怠惰な大工が雨漏りする家を建て、天井の梁が落ちる家を建てるように、怠惰

な王が建てる国は屋台骨も揺らいで、滅びてしまうということです。

 

コヘレトは19節で言います。「食事をするのは笑うため。酒は人生を楽しむため。銀はすべてにこたえてくれる。」

 

コヘレトは、2章24節で飲み食いを神の賜物と言っています。しかし、ここでは「王の権力」と関係する話です。わたしは1016節と関係する話だと思います。コヘレトは、力のない王の下で高官たちが享楽のために食事をし、酒を飲む彼らの堕落した姿を述べているのです。

 

わたしは今『地中海世界の歴史』を読んでいます。シリーズ物で、全8巻本です。10月に4巻目が出版されました。アレクサンドロス大王がペルシア帝国を滅ぼした歴史を中心に描いています。本村凌二先生がオリエント、エジプト、ギリシア、ローマの地中海世界の5000年の歴史を一人で記されています。先生の専門はローマ帝国の歴史です。地中海の歴史の中で古代のイスラエルの歴史から古代キリスト教会の歴史を扱われています。ユダヤ・キリスト教の歴史の記述は少ないですが、聖書の世界しかしらないわたしには、大変興味深いものです。

 

アレクサンドロス大王は有能な王でした。彼は家臣を統率するだけではなく、信頼し、家臣も王を敬い、家臣たちは節制した生活をしました。兵士たちはよく訓練されていました。アレクサンドロス大王が滅ぼしたペルシア帝国は今日の中近東世界を支配する大帝国でした。しかし、王も家臣も、コヘレトが19節で述べている享楽した生活をしていました。ペルシア帝国の宮廷では朝から宴会が開かれ、王も高官たちも贅沢な生活をしていました。その贅沢な生活を支えたのが銀です。お金です。ペルシア帝国は長い間平穏で安泰した日々が続きました。ところがアレクサンドロス大王の侵略という有事が起こると、ペルシア帝国は簡単に滅んでしまったのです。

 

『地中海世界の歴史』を読み、教えられることは、コヘレトの診断の正しさです。今のわたしたちの国は、政治家の腐敗という問題がありますが、わたしたちにも問題があります。来年で戦後80年になります。平和で贅沢な生活に慣れ、わたしたちは享楽的な人間となり、コヘレトの言う「食事をするのは笑うため。酒は人生を楽しむため。銀はすべえにこたえてくれる」という有様です。ペルシア帝国の末期のように、何か有事が起これば、それに対応できないのではないでしょうか。近い将来の戦争、南海トラフト大震災、巨大な台風の来襲という未曽有の有事が起これば、わたしたちの今の平穏な生活は何の対処もなく、破壊されるのではないでしょうか。その時お金はわたしたちに役立つでしょうか。コヘレトは言うのです。「あなたは死ぬことを忘れるな」と。その時にお金はわたしたちの命を保証してくれません。

 

コヘレトは最後に20節で言います。「親友に向かってすら王を呪うな。寝室ですらお金持ちを呪うな。空の鳥がその声を伝え、翼あるものがその言葉を告げる。」。

 

コヘレトは、わたしたちに言います。王は権力を持つ者だ。親しい友の間でも王を罵ってはならない。王が怠惰で、快楽を求め、国を善き政治によって治めようとしなくても、王を批判指定はならないと。また寝室で妻に有能な者を罵ってはならない。なぜなら、必ず王と有能な支配者の耳に伝わるからだと。王や有能な支配者の悪を暴露すれば、王や有能な支配者はそれを耳にし、口にした者を彼らの権力で裁くだろう。だから、知恵ある者はその危険から逃れなければならないと。

 

主イエスは、言われています。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」(ルカによる福音書1223)

 

主イエスは、わたしたちにファリサイ派の人々の偽善を注意するように言われたのです。偽善は、わたしたちの心や行いを人に正しく見せかけることです。ファリサイ派の人々は、神の律法を自分たちの都合の良いように解釈し、その自分たちが解釈した規定に従って自分たちは神の律法に忠実な者であると、人々に言い広めたのです。彼らの偽善がユダヤ人たちを腐敗させ、形ばかりの信仰に向かわせました。あるいは、ユダヤ教宗教に対する人々の不信を広めたのです。主イエスは、ファリサイ派の人々の偽善が今は人々に隠されているが、必ずや人々の目に現れ、主イエスの弟子たちによって人々の前に公にされると言われたのです。

 

主イエスの偽善への批判を通して、もう一度コヘレトの言葉を読めば、王の権力の前で偽善は通じないということになります。二心を持って主人に仕えることはできません。王の前に家臣は忠実に仕えなければなりません。

 

王の権力は人を裁きます。神は、王を通して神の民を裁かれました。今父なる神は、御子主イエス・キリストを通してわたしたちキリスト者を裁かれます。

 

12月から今年もアドベントが始まります。クリスマスにわたしたちの心を整えると共に、」再臨のキリストへと心を備えるのです。

 

誠の王であるキリストが再臨されるのです。コヘレトは、わたしたちを王の権力に目を向けさせ、王への忠誠を促すのです。キリストはファリサイ派の人々の偽善を裁かれると共に、わたしたちの二心、偽善も裁かれるのです。

 

だから、わたしたちは、キリストが言われたように、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」返そうではありませんか。そして十字架の主イエスのみに、わたしたちの信仰の目を注王ではありませんか。

 

お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、今日も、『コヘレトの言葉』を学ぶ機会が与えられ感謝します。

 

今日はコヘレトの言葉から王の権力について学びました。コヘレトの時代は、神が王を立てて、国を治められ、王が強くないと国は不幸であり、王が強いと国は幸いでした。王によって国の屋台骨が支えられました。

 

今は、民主主義の時代です。わたしたちの国は国民主権を日本国憲法が保障しています。わたしたち国民が王の権力を持ち、国会議員を選挙で選び、選ばれた国会議員によって日本の政治が国会の議事を通して行われています。どうか、聖霊よ、わたしたちに知恵を与え、わたしたちの権利を正しく用いて、この国が少しでも良くなるようにさせてください。

 

また、コヘレトは、わたしたちに王の権力を通して、わたしたちが再臨されるキリストに忠実であるように勧めてくれています。

 

どうか、聖霊よ、わたしたちが二心を持つことなく、この世のものはこの世に返し、神のものは神にお返しできるようにさせてください。キリストの十字架のみに、わたしたちの信仰の目を注がせてください。

 

この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

コヘレトの言葉説教15               主の20241117日

 

 聖書テキスト:コヘレトの言葉第11章16

 説教題:「賢明な生き方」

 

 今日は、コヘレトの言葉第1116節の御言葉を学びましょう。

 

 現代は、グローバルな世界です。その代表的なものがインターネットです。わたしたちは、世界とつながって生きています。コヘレトも同様です。彼の時代はヘレニズムです。ギリシアのアレクサンドロス大王がギリシアからインドまで東征し、ギリシアとオリエント、エジプトインドの文化が融合し、ヘレニズム文化の世界が生まれました。ギリシア人たちは、小アジアだけではなく、中近東、エジプト、インド、アフガニスタンまで移住し、多くの都市を建設しました。コイネーのギリシア語が、今日の英語のように世界共通語として話されました。アレクサンドロス大王は33歳の若さで死に、彼が征服したヘレニズム世界は三つの帝国に分立しました。

 

コヘレトは、その一つの帝国、シリアのセレウコス王朝の時代に生きていたでしょう。セレウコス王朝は、小アジアからインドに至る大帝国です。パレスチナのユダヤ人たちもセレウコス王朝の支配下にありました。

 

コヘレトは、ヘレニズム時代のこの世におけるあらゆる人物の行動を、またすべての世の有様を見て、空しいと、あるいは良いか悪いか、また、幸いか不幸かという診断を下しているのです。さらにコヘレトの時代は、ヘレニズム文化によって人々の知識と知恵が高められていたでしょう。しかし、コヘレトは人の知識と知恵の限界を知っていました。人は神のすべての御業に対して無知であり、人は明日のことさえ、自分がどうなるかも知りえないことを知っていました。

 

 彼の診断は、現代のわたしたちの行動とこの世の有様を、わたしたちが判断する助けとなると、わたしは思います。

 

 コヘレトは、わたしたちに何度も空しいと語りますが、決して人生に絶望せよとか、諦めよと奨励することはありません。むしろ、コヘレトは、わたしたちが明日を不安に思うとき、一人で悩まず、三人で励まし合うように勧めます。また、神はわたしたちの一日の労苦をいやすために飲み食いの恵みを与えてくださると励ましています。

 

今日の1116節でもコヘレトは、わたしたちに神の摂理の支配の中で起こる偶然と必然を述べています。わたしたちの世界は、神が創造され、摂理されている世界です。その世界の中で必然に起こる出来事もあれば、偶然と思える出来事もあります。神は自由に必然と偶然の出来事をこの世界に起こされるのです。しかし、コヘレトが115節で言っていますように、神が摂理によってこの世界を支配され、必然的に災いを起こされるか、偶然的に起こされるか、人間には分かりません。だからコヘレトは、わたしたちにリスクを負うことを恐れないで、知恵を働かせ、この世を賢明に生きるように奨励しています。

 

12節でコヘレトは言います。「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。七人と、八人とすら、分かち合っておけ 国にどのような災いが起こるか 分かったものではない。」

 

聖書協会共同訳聖書は、111節を「あなたのパンを水面に投げよ。月日が過ぎれば、それを見いだすからである。」と訳しています。

 

パンを水の上に投げる。わたしは無駄な行為だと思うのです。しかし、コヘレトはわたしたちにこの無駄な行為が時を経て、わたしたちが思いもよらない喜びを見いだすことになると言うのです。このパンがわたしや人々を養うということでしょう。

 

わたしが大学生のころ、社会学部のチャペルで経済学部の教授がお話をされました。その時の御言葉が『コヘレトの言葉』の111節でした。もうどんな話をされたか覚えてはいません。ただ教授が「この水の上に投げられたパンはキリストだ」と言われたことを、今もわたしは覚えています。キリストは、命のパンです。キリストはご自身を十字架の上に投げられたのです。無駄に命を捨てられたのです。およそ二千年の時を経て、そのパンがわたしのためだと、わたしは教会の説教を通して見いだしたのです。

 

他にも、二つの解釈を紹介します。第一は、コヘレトが古代エジプトの知恵文学を用いているのです。エジプトの知恵文学の一節に、次のような文章があります。「善を行ない、それを水に投げよ。乾けば、それを見いだそう。」これは、無駄に見えても、隣人に善行を施しておけば、いずれ時を経てその報いを得るだろうということです。この解釈は2節につながるでしょう。

 

第二は「パンを水の上に投げる」ということの意味です。これは海上貿易のことです。海上貿易は、危険が伴う投資でした。しかし、成功すれば巨額の富をえることができました。

 

本村凌二先生の『地中海世界の歴史』を読みますと、パレスチナの沿岸に住む民は、レバノン杉で大きな船を造り、地中海の海上貿易で巨万の富を築いたと記しておられます。地中海の海上貿易は長い期間を要したでしょう。無事に船が戻れば、投資した何百倍もの利益を得たことでしょう。たとえば、『列王記上』10章で栄華を極めたダビデ王国のソロモン王は、タルシシュの船団を所有し、3年に一度、金、銀、象牙、猿、ひひ」を手に入れたとあります。

 

古代の海上貿易は、船が嵐と出遭うと、沈没するというリスクがありました。しかし、コヘレトは商人が知恵を働かせ、船の漕ぎ手が賢明に航海をし、数年という年月を経て、海上貿易に成功すれば、商人は莫大な利益を得るというのです。

 

わたしは、第二の解釈を取ります。わたしは、コヘレトがわたしたちにこう言っていると思うのです。海上貿易で必然であっても、偶然であっても、船が嵐に遭うリスクがあるのだから、人間は恐れることなく知恵を用いて賢明に航海することだ。その者たちには、年月を経て莫大な利益を見いだすという喜びがあると。

 

コヘレトは2節で「七人と、八人とすら、分かち合っておけ 国にどのような災いが起こるか 分かったものではない。」と言います。1節の第一の解釈に従うと、コヘレトは、わたしたちにこう言うのです。善行を一人だけではなく、七人、あるいは八人以上の隣人たちに施しなさい。そうすれば、国に何か大災害が起きたとき、彼らが困っているあなたを助けてくれるだろうと。

 

ところで、聖書協会共同訳聖書は、2節をこう訳しています。「あなたの受ける分を七つか八つに分けよ。地にどのような災いが起こるか あなたは知らないからである。」

 

この訳に従いますと、わたしはコヘレトが1節の第二の解釈を取っていると思います。古代の海洋貿易は、悪天候による船の遭難という不慮の事故が起こるリスクが高かったでしょう。そこでコヘレトは、「七、八」という数字で、船に積む生産物を多くの船に分散して、リスクに備えるように警告しているのです。多くの船に生産物を分けて積めば、一つの船が沈没しても、他の船が生産物を地に運ぶことができるからです。

 

わたしたちは、コヘレトと同様に将来、わたしの身に何が起こるか分からない中で生きています。わたしは神の摂理を信じています。しかし、神がわたしにどんな災いを起こされるか、起こされないかは分かりません。ただ言えることは、わたしの人生には常にリスクがあったということです。

 

しかし、コヘレトはわたしたちにリスクがあるから、慎重に、用心して、石橋を叩くように生きよとは勧めません。むしろ、「パンを水の上に投げよ」「あなたの持っている物を七つ、八つに分けよ」と勧めます。コヘレトはわたしたちに無駄な行為に見えても、リスクを負う覚悟をし、そのために知恵を働かせて賢明に生きるように勧めるのです。

 

続いてコヘレトは、35節でこう言っています。「雨が雲に満ちれば、それは地に滴る。南風に倒されても北風に倒されても 木はその倒れたところに横たわる。風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない。妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。」

 

コヘレトは、わたしたちに自然の天候と胎児と神の神秘の御業について語っているようです。コヘレトは、3節で「雨が雲に満ちれば、それは地に滴る」と自然現象をそのまま記しています。コヘレトは、わたしたちに自然現象を伝えたいのではありません。天候も神の摂理の下にあります。必然と偶然が織りなされています。誰でも、空いっぱいに雲が覆うと、雨が地に降ると予測するでしょう。しかし、コレヘトは言うのです。雲が空いっぱいに覆えば、雨が降るかもしれない。わたしたちはそのように予測できても、その雨が降る時刻を計算することはできないと。予測し計算しても、雨が降らないこともあるからです。                                  

 

3節後半でコヘレトは、「南風に倒されても北風に倒されても 木はその倒れたところに横たわる。」と言っています。

 

岩波書店の聖書は、木を棒と読み替えて、こう訳しています。「棒が南にあるいは北に倒れたら、棒が倒れた方角に事が起こる」と。これは占いです。コヘレトが占いについて語っていると解釈しているのです。わたしは正しい解釈だと思います。

 

古代の人は棒占いをしたのでしょう。それをコヘレトは見たのです。そこでコヘレトは、人の不確実性を見たのです。つまりコヘレトがわたしたちに伝えたいことはこうです。木は南風で倒れるか、北風で倒れるか、人には分かりません。倒れる方に倒れるのです。棒占いは当てにならないということです。

 

コヘレトは、4節で言います。「風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない。」コヘレトは、風や雲を見て占いをする人を見たのです。彼らは、風の向きや雲行きを見て、将来、起こるであろうことばかりを気にして、目の前の仕事に賢明に従事しませんでした。農夫が種まきをしなければなりません。ところが今日は風が強く吹くという占いが出たので、農夫はそれを恐れて種まきをしませんでした。また、雲行きを見て、今日は雨が降ると占いに出たので、農夫は刈り入れを取りやめてしまいました。不確実なことを予測し、それを恐れるだけでは仕事になりません。コヘレトがわたしたちに言いたいことは、こうです。占いで不幸な予測を立てるだけでは、農夫は彼の仕事をすることができない。農夫は占いを信じるよりも、知恵を働かせて賢明に種をまき、刈り入れをするべきだと。

 

風や雲の動向によって占う気象占いは、古くから西アジアに知られていました。マタイによる福音書1614節でファリサイ派の人々とサドカイ派の人々が来て、主イエスに天からのしるしを求めたことを記しています。主イエスは、彼らに答えて言われました。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしを見ることはできないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」

 

ファリサイ派の人々とサドカイ派の人々は、主イエスに天からのしるし、すなわち、主イエスがメシアであるしるしを求めました。主イエスは、彼らに答えられ、言われました。「あなたたちは気象を占うことができるだろう。『夕焼けであれば、明日は晴れだと言い、朝焼けで、雲が低いと今日は嵐だ』と言うではないか。しかし、時代のしるしを見ることはできないのか」と。そして、主イエスは預言者ヨナのしるしを話されました。ヨナが三日三晩魚の腹の中にいたことです。これが主イエスの死と復活の予兆でした。主イエスが十字架に死に、三日目に墓からよみがえられて、ご自身が神の子キリストであることを証しされたのです。

 

さらにコヘレトは、5節で「妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけがない。」と言っています。聖書協会共同訳聖書は、次のように訳しています。「あなたはどこに風の道があるかを知らず 妊婦の胎内で骨がどのようにできるかも 知らないのだから すべてをなす神の業は知りえない。」

 

「風の道」は自然の風が通る道です。人は、風がどこから吹いてきて、どこに行くのか、誰も知りません。また、妊婦の胎児がどのように形造られるのかも知りません。同様にコヘレトは、すべてのものを創造される神の御業を、わたしたちは知らないと述べています。

 

コヘレトは、見たのです。風の道、すなわち、気象占いをする人を、また人の骨相を占う人や動物の生まれてくる子を見て占う人を。しかし、コヘレトには、空しい行為だったでしょう。人は、妊婦の胎児がどのように成長するのか知りえませんし、ましてや神の創造の御業のすべてを知ることはできないからです。

 

だから、コヘレトは、わたしたちに6節でこう言っているのです。「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか それとも両方なのか、分からないのだから。」

 

コヘレトは言うのです。神の御手の中で人は生きている、神がわたしたちに幸いを用意されているか、災いを用意されているか、わたしたちには予測できない。だから、わたしたちは知恵を働かせて、賢明に生き、リスクを避けるべきだと。農夫は、占いで今日の天候を気にすることなく、朝のうちに種を蒔き、夜にも手を休めずに、明日の種蒔きの準備をすべきだ。蒔かれた種のどれが実を結ぶかは、神に委ねるだけであるからと。

 

コヘレトの時代も今もリスクを恐れて、何もしないということは、知恵の無いことです。神がわたしたちに与えられた知恵を生かしてはいません。いつの世も明日は、どうなるかは不確実です。しかし、わたしたちがそのリスクを避ける用意をし、賢明に生きることで、災いを避けられるのではないでしょうか。

 

今日のコヘレトからわたしたちは何を学ぶことができるでしょうか。第一に常に蓄財とリスクに備えることです。パンを水の上に投げることは、今日の投資です。投資は、お金を無駄にすることです。しかし、それが数年を経て、自分たちのために、あるいは隣人のために役立つのです。海上貿易で地中海の国々の商人たちは、自分の財産を海に投げて、海外貿易で多額の富を得ました。彼らは自分たちが金持ちになると共に、多額の金を教会に寄付をし、芸術家のパトロンとなり、今日ヨーロッパにはたくさんの美術館があります。彼らが教会や文化や芸術を保護したのです。彼らはまた世で得た富を、世の貧しい人々のために用いたのです。

 

第二に賢明に、忠実に生きることです。この世に与えられたわたしたちの職業を、神からの召しとして、神に与えられた知恵を働かせて、賢明に行うことです。成功するか、失敗するか、分かりません。しかし、キリストは小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実であると言われました。

 

コヘレトは、神の救済も裁きも語りません。しかし、彼が語る創造主なる神は、わたしたちに知恵を与え、世における善と悪を、幸いと不幸を、喜びと空しさを判断することができるようにしてくださっています。飲み食いの楽しみをお与えくださり、この世の労苦と悲しみと空しさに対して慰めを与えてくださいます。何よりもわたしたちは今神の恵みにより、この世を賢明に生きることのできる命を、神よりいただいているのです。

 

お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、今日も、『コヘレトの言葉』を学ぶ機会が与えられ感謝します。

 

今日はコヘレトの言葉から賢明に生きることを学びました。コヘレトの時代は、今のわたしたちの時代同様にグローバルな時代でした。人々は知識と知恵を求め、海に、陸に冒険しました。

 

コヘレトは知恵を愛し、この世における人間のなすすべてのことを、神が造られた世界のすべてを知ろうとしましたが、空しいことでした。しかし、彼は、神の賜る知恵と飲み食いを楽しみました。そして、わたしたちが賢明に生きることこそ人としてふさわしいことであることを教えてくれました。

 

どうか、聖霊よ、わたしたちがこの世において多くのリスクに出遭うでしょうが、知恵を働かせ、賢明に生き、神に与えられた命を生き続けることができるようにしてください。

 

 

この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。