コヘレトの言葉の説教06              主の202491

 

 聖書テキスト:コヘレトの言葉第619

 説教題:「この世には幸福と不幸がある」

 

 本日は、『コヘレトの言葉』の第619節の御言葉を学びましょう。

 

コヘレトは、わたしたちに6章でも太陽の下で見た不幸を証言します。コヘレトは、1節で次のようにこの世の不幸を証言しています。「太陽の下に、次のような不幸があって、人間を大きく支配しているのをわたしは見た。」と。

 

コヘレトは、5章でも彼が見聞きした不幸な出来事を述べました。更にコヘレトは619節でもこの世での不幸を、三つ述べています。彼は、その不幸が「人間を大きく支配している」(1)のを見ました。それは、具体的に言えば、その人の上に不幸が重くのしかかっていたということです。

 

 コヘレトは、前回、5章でもこの世での人の不幸を見ました。富を蓄えても自分ではその富をながめるだけで、蓄えた富を楽しむことができず、他の者たちが彼の富を消費するという不幸です。また、ある者が自分の富を管理できず、蓄えた富を失うという不幸も見ました。また、ある者が事業に失敗し、子に財産を残せないという人の不名誉な不幸も見たのです。そこで彼は、わたしたちに人生の空しさを説きました。神は、すべての人に富と財産とを与えて、人がそれによって食べて、飲んで彼の労苦を楽しむという賜物を与えられたのに、人は神の賜物である富を楽しむことができません。それは、コヘレトには愚かで、人生において何の意味もないことでありました。

 

619節でもコヘレトは、わたしたちに人生の空しさを説いています。彼はわたしたちに幸福と不幸を対比して、人の人生の空しさを、三つの例を挙げて説いています。

 

第一の例は、2節です。「ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことである。」

 

ある人が神の御心によって巨万の富を積み、名誉も得ました。しかし、神は彼に神の恵みを楽しむことを許されませんでした。彼の富を楽しんだのは、他の人でありました。コヘレトは、「これまた空しく、大いに不幸なことである」と述べています。

 

わたしは、主イエスがたとえ話で話された愚かな金持ちの話を思い出しました。愚かな金持ちは、コヘレトが見た不幸な人のように、神の恵みを得て、彼の望むすべてのものを得ました。しかし、愚かな金持ちもコヘレトが見た不幸な人と同様です。神は彼に長年分の得た食糧で楽しみ暮らすことを許されませんでした。主イエスは、神が愚かな金持ちに言われた言葉を次のように話されました。「今夜、お前の命は取り上げられる。お前の用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ121620)

 

主イエスは、その愚かな金持ちの不幸を、彼が神に対して富まなかったからだと話されました。しかし、コヘレトは、人生の空しさの例のひとつとして、神の御心によって富と名誉を得ても、神がその人にそれらを楽しむ機会を許されなければ、それを楽しむのは他人であるという不幸についてだけ説いているのです。

 

2節の「富、財宝、名誉」という表現は、主なる神がソロモンを祝福された言葉の中にあります。主なる神はソロモンに約束されました。「わたしは富と財産、名誉をあなたに与える。」(歴代誌下112)と。コヘレトは、ソロモンを思い浮かべたかもしれません。

 

2節の「享受する」という言葉は、「食べる」という意味です。預言者イザヤは、次のように述べています。「正しい者は幸いだと言え。彼らはその業の結ぶ実を食べることができる」(聖書協会共同訳イザヤ310)と。預言者は、主に従う人だけが、自分たちが労苦して得た富と財産と名誉を、自分たちの行いの実として楽しむことができると証言しています。

 

コヘレトは、この世の不幸を見て、人生は空しいとただ嘆いているのではありません。コヘレトは、わたしたちに創造主なる神を見よと伝えているのです。この世の富も貧しさも、喜びも悲しみも、すべてはこの世を創造され、人間を造られた神の支配の中にあります。これがコヘレトの信仰です。そして、聖書の教えでもあります。預言者イザヤは、「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。」(イザヤ書45:7)と預言しています。

 

コヘレトは、36節で第二の例を挙げています。コヘレトは、言います。「人が百人の子を持ち、長寿を全うしたとする。しかし、長生きしながら、財産に満足もせず 死んで葬儀もしてもらえなかったなら 流産の子の方が好運だとわたしは言おう。その子は空しく生まれ、闇の中に去り その名は闇に隠される。太陽の光を見ることも知ることもない。しかし、その子の方が安らかだ。たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福でなかったなら、何になろう。すべてのものは同じひとつの所に行くのだから。」

 

コヘレトがこの世で見たのは神に祝福された人の不幸です。その人は神に祝福され、富だけではなく、百人の子を与えられ、アブラハムのように長寿を得ました。しかし、彼はそれに満足しませんでした。神に感謝することもなかったでしょう。彼は死にました。しかし、身内の者は誰も彼の葬儀をする者はなく、彼は墓に葬られないで死にました。彼は、身内の者たちに見捨てられたのです。コヘレトは、神の民イスラエルにとってこの上もない不名誉なことであり、神の罰であると考えたでしょう。

 

ソロモンは千人の妻と側室がいたと伝えられています(列王記上113)。だから、一夫多妻の社会で長生きした人が百人の子を持つことは可能だったと思います。しかし、その人は死んで葬儀をしてもらえませんでした。コヘレトは、彼の不名誉と神の罰を思えば、彼より日の目を見なかった流産の子の方が好運であると述べています。なぜなら、流産の子は、空しく生まれても、「闇の中に去り、その名は闇に隠される」からです。親の手で闇から闇へと葬ってもらえるからです。この世の光は見られませんでしたが、両親の手で葬られ、その子には神の平安がありました。

 

コヘレトが6節で「千年の長寿を二度繰り返したとしても」と言っているのは、「千年の倍」という言葉です。創世記の5章にあるノアの洪水の前の太祖たちの年齢を基準にしています。アダムや他の太祖たちは千年近く生きました。コヘレトは、彼らの倍の生涯を生きても、現世が幸福でなければ、多くの子があり長寿者であっても、彼の人生は空しいと説いているのです。

 

コヘレトは、79節で第三の例を挙げています。しかし、分かりにくいです。一つのことではなく、三つのことが言われているからです。コヘレトは言います。「人の労苦はすべて口のためだが それでも食欲は満たされない。賢者は愚者にまさる益を得ようか。人生の歩き方を知っていることが 貧しい人に何かの益となろうか。欲望が行きすぎるよりも 目の前に見えているものが良い。これまた空しく、風を追うようなことだ。」

 

コヘレトは、まず7節で、この世の人生問題が腹の問題であることを説いています。コヘレトは、「口」で、仕事によって得られる楽しみや食欲をたとえています。コヘレトは、この世で仕事に労苦し、糧を得ても人の魂を食欲で満たすことはできないという不幸を説いています。

 

人は空腹になり、飢えは人生において大きな問題です。しかし、コヘレトが言うように、人は腹を満たすことができるのでしょうか。コヘレトが見ますこの世の人々は、食べても、腹を満たすことなく、飢えたもののように食べ飽きるまで、腹を満たそうとしています。

 

わたしたちは、飽食の時代に生きています。人は、常に何か美味しいものを、珍しいものを食べたいといろいろな店に行きます。店に行列ができます。しかし、しばらくすると、その店は閉じられ、新しい店ができています。わたしたちの食欲が満たされることはありません。そこにコヘレトは、幸福を求めて美味しいものを、珍しいものを食べたいというわたしたちの腹の満たされることのない不幸を見ているのです。

 

コヘレトが8節で言っていることは、既に215節で言っていることです。「わたしはこうつぶやいた。『愚者に起こることは、わたしにも起こる。より賢くなろうとするのは無駄だ。』これまた空しい、とわたしは思った。」

 

コヘレトは、知者が愚者に優るということは知っています。しかし、知者と愚者の運命が共に死に向かっており、両者は等しく死者の国に行くのです。コヘレトは言います。「それならば、人生の良きガイドである知恵は何の役に立つのだろうか:と。コヘレトは言います。人は、知恵に導かれて、富み、財を蓄え、名誉を得る道を知っても、それが本当に貧しい人の幸福となるかと。結局は、知恵ある者も愚者も共に死の国に行き着くのではないかと。

 

コヘレトが言いたいことは、知恵が人をこの世で幸福にするために何の役に立っていないということです。

 

コヘレトは、9節で言います。「欲望が行きすぎるよりも 目の前に見えているものが良い。これまた空しく、風を追うようなことだ。」

 

コヘレトは多くの欲望を持つより、目の前の小さな可能性が大切だと説いています。コヘレトにとっては、将来に幸福の希望があることが重要ではありません。彼は、今神が自分に恵みの賜物として与えてくださっているものを楽しむことで十分なのです。

 

コレヘトは、人生の幸福を知らず、死後のことも知らない人間は、空しい生涯を生きていると証しします。だから、コヘレトはわたしたちに絶望せよとは勧めません。むしろ、彼はわたしたちに創造主がお与えくださる賜物を食べ、飲み、楽しめ、それが人の受ける分であると勧めるのです。

 

コヘレトは、わたしたちに幸福と不幸があると説きます。そして、彼は、わたしたちに諭すのです。人の不幸は、神が今目の前にお与えくださっている恵みと賜物を楽しみ、満足しないからだと。

 

どうか、主イエスがわたしたちに教えてくださった「主の祈り」の「日毎の糧を与えたまえ」という祈りを覚えましょう。今日一日の食事を、神の恵みと感謝し、家族と共に食事を楽しみましょう。一日働き、うまいビールを一杯のみ、腹を満たせることに、幸いを見つけて、日々神に感謝しましょう。

 

お祈りします。

イエス・キリストの父なる神よ、どうかコヘレトの今朝の御言葉に、わたしたちが心を動かされるようにしてください。

 

人は幸福を求めているのに、どうじて現実は不幸なのかと、思います。コヘレトは、わたしたちに今目の前にあるものを神の恵み、賜物として楽しむことが出来ないからだと教えてくれています。

 

 

どうか、主よ、今あるものに神に感謝し、足ることを知る心を与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

コヘレトの言葉の説教07          主の202498

 

 聖書テキスト:コヘレトの言葉第610節-第714

 説教題:「命ある者よ、心せよ」

 

 本日は、『コヘレトの言葉』の第610節から第714節の御言葉を学びましょう。コヘレトは、12節で「すべては空しい」と述べた後、人間の生活もこの世の自然も同じことの繰り返しで、この世には新しいことなど一切ないと説いてきました。しかし、彼は虚無主義者でも、悲観論者でもありません。むしろ、彼は、空しく無意味に見えるこの世界で創造主なる神の恵みと賜物を楽しむことを、わたしたちがこの世において自分たちの人生を大切にすることを、何よりも主なる神に対して誠実に生きることを説いているからです。

 

前回は、コヘレトが人の欲望に満足することがないというこの世の事実を見ました。コヘレトは、わたしたちに飽くなき欲望を追い求めるのみで、神の与えられた恵みに満足できない人の不幸を説きました。

 

コヘレトは、わたしたちに610節から714節で人の限界を知ることを説いています。人は全知でも万能でもありません。知りえないこと、できないことがあります。コヘレトは、この世で限界というものを知らない人の不幸を説いています。

 

コヘレトは、61012節でこう述べています。「これまでに存在したものは すべて、名前を与えられている。人間とは何ものなのかも知られている。自分より強いものを訴えることはできない。言葉が多ければ空しさも増すものだ。人間にとって、それが何になろう。短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはない。」

 

創造主は、アダムにご自身の造られた被造物に名前を付けることを命じられました(創世記210)。だから、この世に存在するものは、すべて命名されています。そして名前があるすべてのものには、上位と下位の秩序があります。例えば、王と民という名は、イスラエルの社会ではよく知られていたでしょう。イスラエルの社会では王は上位の者であり、民は下位の者と定められていました。だから、下位にある民が上位にある王を裁判に訴えても勝つことはできません。旧約聖書には王の不正が描かれています。北イスラエル王国のアハブ王は、王宮の隣のナボトのぶどう園を欲しました。ナボトは神から与えられたぶどう園を王に譲ることを拒みました。そこで王の妻イゼベルが不正な裁判を行わせ、ナボトに神を冒涜した罪を帰せ、殺させ、ナボトのぶどう園を奪い、アハブ王に与えたのです。

 

人は自分の限界を知らなくてはなりません。自分には限界があり、それを無視して自分で変えようとし、多弁を弄しても空しさが増すばかりだと、コヘレトは言うのです。コヘレトがわたしたちに伝えたいことは、次のことです。人は無駄な努力をしても何の益もないということです。しかし、わたしたちは、これまでのコヘレトの勧めから想像できるでしょう。創造主なる神は人に限界を定められていますが、造られたこの世界でわたしたちが楽しむことができるように、わたしたちに賜物を与えてくださっています。だから、コヘレトは神の定められたところにわたしたちが従うことこそが最善の道であると説いています。コヘレトは言います。人の一生は短く空しいと。そして影のようにこの世から過ぎ去る人は、何が自分の人生にとって幸福であるかを知ることができないと。そして人は死後に何が起こるかも知り得ないと。だから、コヘレトはわたしたちに説くのです。わたしたちは、この世における幸福もあの世でのことも知り得ないから、言葉数を多くしてこの世の謎と不条理を議論する愚かな者にならないで、この世におけることを神の定めとして受け入れようと。

 

続いてコヘレトは、わたしたちに7114節でより良い生活を勧めています。コヘレトは、よりよい生活を示すために箴言の知恵者の方法を用いています。すなわち、この世の諺を用いて、それに自分の考えを入れています。

 

114節でコヘレトは、7つの諺を用いています(12358a8b11)。一つ一つの諺は、「まさる」という言葉で始まります。たとえば、1節でコヘレトは、「名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる。」と説いています。コヘレトは、短い諺を組み合わせて、名声は香油にまさると、彼の人生哲学を述べているのです。香油はユダヤ人にとって高価な品物ですが、名声には及びません(1)。どうしてか、人生の荒波を超えて名声を得た人の死は、安らぎの日であり、永遠の平和の港に着いた日です。彼の名声は永遠に記憶されるのです。それゆえ、生まれたばかりで、これから道の人生を始める誕生日に勝るからです。

 

コヘレトは、2節で「弔いの家に行くのは 酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終わりがある。命ある者よ、心せよ。」と説いています。これも人の死と誕生を対比して、コヘレトが彼の人生哲学を示しています。コヘレトにとって死は生の喜びにまさります。祝宴の楽しみは一時のことです。弔いにはすべての人の終わりがあります。コヘレトは、人の死がすべての人が行き着くべき先であり、命ある者はすべて、心して死を思うべきであると説いています。中世の修道院では、修道士たちが互いに「死を忘れるな」と戒め合いました。コヘレトは、わたしたちに人は皆死ぬことを、そういう限界を持ったものであることを、命ある者は心せよと説いているのです。

 

 コヘレトは、3節で「悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ。」と説いています。この「悩み」は悲しみです。「心」は知識や知恵のことです。コヘレトは言います。悲しみは、人の心を豊かにし、その人の知識と知恵を深めると。主イエスも山上の説教で「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」と言われました。主イエスの「悲しむ人」とは嘆き悲しむ人です。死者に対する悲しみです。ユダヤ人の弔いは一週間でした。その間友達たちが弔問し、悲しんでいる遺族の者たちを慰めました。だから、わたしは、悩み悲しみは、人の慰めによって悩みと悲しみに対する知識と知恵を得て、その人に平安をもたらすと理解しました。

 

コヘレトは、46節で次のように賢者と愚者をたとえています。「賢者の心は弔いの家に 愚者の心は快楽の家に。賢者の叱責を聞くのは 愚者の賛美を聞くのにまさる。愚者の笑いは鍋の下にはぜる柴の音。これまた空しい。」

 

賢者の心は弔いの家に向かいます。彼は、悲しむ遺族を慰めに行くのです。愚者の心は快楽の家に向かいます。彼は遊女と楽しむのです。賢者は悲しむ者たちに慰めをもたらし、愚者は自らに死という悲しみを招くのです。また、コヘレトは言います。賢者が心から諫言してくれる言葉を聞くのは、愚者の「賛美」、すなわち、へつらいの言葉を聞くにまさると。昔から「良薬は口に苦し」と言います。コヘレトは言います。人は自分で自分を正しく判断できません。他人の耳に痛い言葉によって、自分のことを正しく考えるのだと。そして賢者の耳の痛い言葉を聞いて、自分の欠点を顧みるのだと。ところが、愚者は自分の益を考えて、心地よい言葉を語り、人を称賛し、人を駄目にしてしまうのだと。褒めて育てるという言葉がありますね。コヘレトは言います。それは愚者のやり方であると。なぜなら、人には限界があり、「あなたには罪がある」と諫言されない限り、自分が創造主なる神に、その神の定めにどんなに外れて生きているのかを判断できないと。キリストの十字架に出会って初めて、わたしたちは自分の罪と真剣に向き合うことができたのです。

 

コヘレトは、6節で「愚者の笑いは鍋の下にはぜる柴の音」と説いています。「柴」は茨のことです。茨は大きな炎と共に大きな音を立てます。しかし、鍋の中は暖かみが少ないのです。コヘレトは、わたしたちに言います。愚者の笑いは大げさで、真実味がないと。だから、鍋に煮立った湯は、愚者に浴びせられると。コヘレトは、これまた空しいと言うのです。

 

 コヘレトは、7節で賢者の限界を説きます。「賢者さえも、虐げられれば狂い 賄賂をもらえば理性を失う。」。賢者は迫害を受けたとき、賄賂を贈られたとき、彼の理性は狂い、失われるのです。主イエスの12弟子たちを御覧なさい。12弟子の一人、ユダは銀貨30枚で主イエスを祭司長たちに売り渡しました。他の11弟子たちはペトロを初め、主イエスを裏切り逃げて行きました。わたしだって迫害に遭えば、キリスト教信仰を失うかもしれません。これが、この世での信仰者の限界です。聖霊だけが11弟子たちを守られ、わたしたちをお守りくださるのです。

 

コヘレトは、810節で次のように説いています。「事の終わりは始めにまさる。気位が高いよりも気が長いのがよい。気短に怒るな。怒りは愚者の胸に宿るもの。昔の方がよかったのはなぜだろうかと言うな。それは賢い問いではない。」

 

8節前半の諺は、一事を完成する事は、事を始めるのにまさるという意味です。建築工事に例えると、工事が完成してみないと、その建築の良し悪しを判断できないということです。コヘレトは、わたしたちにこの世の物事を判断するに、物事の結果を見るまでは軽はずみに物事の判断をすべきではないと説いているのです。

 

8節後半から10節で、コヘレトはわたしたちに人間の知恵と修練に限界のあることを教えています。賢者も不正や不条理に対して腹を立てます。怒りは愚者の心に宿るものです。老人は過去を礼賛しますが、コヘレトは過去も未来も現在よりまさるものではないと説いています。なぜなら、歴史は同じことの繰り返しであるからです。彼は、「昔は良かった」と言う老人に、過去に執着するなと警告します。

 

 コヘレトは、1112節で知恵と遺産の効用を説いて、次のように述べています。「知恵は遺産に劣らず良いもの。日の光を見る者の役に立つ。知恵の陰に宿れば銀の陰に宿る、というが 知っておくがよい 知恵はその持ち主に命を与える、と。」。

 

ソロモンは知恵と遺産を併せ持つ者でした。「日の光を見る者」は、すべてこの世に生きている者のことです。65節に流産の子は「太陽の光を見ることも知ることもない」とあります。この世に生きる者はすべて日の光を見る者です。コヘレトは、この世に生きる者にとって役立つのは知恵と遺産であると説いています。12節も同じです。知恵の庇護の下にあるのは、金銭の保護の下にあることであると、コヘレトは言うのです。コヘレトはわたしたちに知恵と富が伴って、人は生かされていると説いているのです。

 

コヘレトは、1314節で、こう説いています。「神の御業を見よ。神が曲げたものを、誰が直しえようか。順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ 人が未来について無知であるようにと 神はこの両者を併せ造られた、と。」

 

コヘレトは、わたしたちに神の御業に目を向けるように指示しています。人は、誰も自分の将来がどのようになるかを知り得ません。また、神がこの世についてどのようなご計画を持たれているかも知り得ません。それゆえコヘレトはわたしたちに次のように説きます。人は順境の時には喜び、逆境の時には反省し、順境の時も逆境の時も神の御業であることを心に留めよ。それは、人には明日何が起こるかを知らせないためであると。

 

コヘレトがわたしたちに説きますよりよい生活とは、人が自分の限界を知り、創造主なる神がなさる御業をすべて、そのまま受け入れることです。順境の時には素直に喜び、その一日を神に感謝して生きるのです。逆境の時には、神に失望することなく、すべては神の御手の中にあることを覚えて、明日を神にゆだねるのです。

 

お祈りします。

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、どうか、わたしたちに自分たちの限界を理解させてください。自分の命のことで思い煩っても、わたしたちは明日どうなるのか、死後どうなるのかも知りません。どうか創造主なる神の御業を、日々の恵みを喜び、感謝し、今日の一日を歩ませてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

コヘレトの言葉説教08       主の2024915

 聖書箇所:コヘレトの言葉第71529

 説教題:「男の限界」

 

 本日は、コヘレトの言葉第71529節の御言葉を学びましょう。

 

コヘレトは、わたしたちに71529節でよりよい生き方を説いています。彼は、1518節でわたしたちに中庸を説いて、こう言います。「この空しい人生の日々に わたしはすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり 悪人がその悪のゆえに長らえることもある。善人すぎるな どうして滅びてよかろう。悪事をすごすな、愚かすぎるな どうして時も来ないのに死んでよかろう。一つのことをつかむのはよいが ほかのことからも手を放してはいけない。神を畏れ敬えば どちらをも成し遂げることができる。」

 

「この空しい人生の日々」とは、「わたしの空しい日々」です。すぐに消え去る人生のはかなさを意味しています。先週の13日の金曜日に愛する松野茂兄弟の葬儀をいたしました。910日午前914分に主が召され、13日に葬儀と火葬をしました。もう兄弟に会うことができないと思うと、コヘレトの「この空しい人生の日々に」と言うのが理解できます。

 

この空しい世で松野兄弟は91年間を生きられ、キリスト者としての生を生き抜かれました。コヘレトのようにこの世のいろいろな人の有様を見られたと思います。

 

この世の人の不条理な人生を見られたことでしょう。戦後の社会の混乱の中で裁判官が闇市から食料を買わないで、餓死するという事件がありました。わたしは田中角栄首相がロッキード社から多額の賄賂を受け取りながら、国会で「存じません」と答弁したことが忘れられません。コヘレトがわたしたちに説きますように、義人がその正しさのゆえに死ぬことがあり、悪人が悪事をしても法の目をくぐり、生き抜くことがあります。これは、わたしたちが生きるこの世の実例であります。

 

その実例を、コヘレトはわたしたちに示して、中庸の正しさを説くのです。正しすぎても、賢すぎてもいけません。コヘレトは、わたしたちに正しさにおいても悪においても過ぎることは良くないと説くのです。極端を避けて、中庸の道を歩むようにと。コヘレトは、義人は長生きをし、悪人は短命に終わるという正論を、この空しい世では異なるではないかと反論するのです。

 

また、コヘレトは、悪事に寛容になれ、あるいは、中庸になれと説いているのではありません。コヘレトが言う悪人は、神の律法を守らない人のことでしょう。律法のさまざまな慣習を守らないでも、神の罰を受けることなく長らえている悪人がいるのです。悪人は必ず神の裁きの時が来ます。その前に悪人が愚かな悪事をし、滅びてしまうのは良くないと、コヘレトは言うのです。

 

18節は、中庸を説くコヘレトの結論です。義と悪の両極端を避け、中庸の道を歩むようにという彼の勧めです。神を畏れる敬虔な人だけが、この中庸の道を歩めると、彼は説いているのです。神を畏れる敬虔な人は、神の律法に熱心です。義人ですが、己の弱さを知る謙虚な人です。だから、神に善と悪の判断をゆだね、神の御心に従い中庸に生きることができるのです。

 

コヘレトは、1922節で知恵の強さと効用を説いています。「知恵は賢者を力づけて 町にいる十人の権力者よりも強くする。善のみを行って罪を犯さないような人間は この地上にはいない。人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても 聞き流していられる。あなた自身も何度となく他人を呪ったことを あなたの心はよく知っているはずだ。」

 

19節は、コヘレトが知恵の強さを説いた諺を用いています。コヘレトは知恵が賢者を強くすると説きます。知恵は町を支配する十人の権力者以上に賢者を強くすると説いています。

 

賢者は知恵によって知力を得て、2022節のことを理解するのです。第一に善人はこの地上に一人もいないことを。第二に人の言葉をいちいち気にしないことを。第三に悪口を言わない人はいないことを。賢者であるから、善人であるとは限りません。人は他人が自分の悪口を言っていないか、いちいち言葉が気になります。しかし、自分も人の悪口を言っているのです。賢者といえども、人の悪口、欠点を言わない人はいません。

 

昔、有名な伝道者の息子さんの本を読んだことがあります。その本にどうして自分はキリスト者にならなかったかと書かれていました。彼の父は伝道者で、大学の総長し、戦前軍部と戦い、大学を追われた信仰の勇者です。しかし、彼の父親にも弱点があり、よく人を批判したそうです。A氏にはこういう弱点があるとか、B氏にはこういう欠点があるとかと。それを聞いて、息子さんはキリスト者である父に落胆したそうです。キリストの十字架によって神に愛され、罪を赦された者が、人の短所や欠点を批判していることに、彼は理解できなかったのでしょう。わたしたちも子供の前で人の悪口を言うのを慎まなくてはなりません。

 

コヘレトは、2223節で知恵の限界について述べています。「わたしはこういうことをすべて 知恵を尽くして試してみた。賢者でありたいと思ったが それはわたしから遠いことであった。存在したことは、はるかに遠く その深い深いところを誰が見いだせようか。」

 

彼は、7122節の御言葉を、彼の知恵によって実践してみたのです。2324節はその結論です。彼は知恵によって自らが賢者になろうとしたのです。しかし、目標に達せませんでした。目標は遥か彼方でした。コヘレトは、311節で「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」と述べています。神が人に与えた知恵は限られたものです。だから、自分の生涯に起こることを、ある程度は予想するのみで、完全に知ることはできません。

 

同様にコヘレトは、自分の知恵によって今この世にある出来事がどういう道筋を描いて、その遠くて深いところにつながっているのかを知ることは不可能であると説いています。

 

コヘレトは、2529節で男の限界を次のように悟るのです。「わたしは熱心に知識を求め 知恵と結論を追求し 悪は愚行、愚行は狂気であることを悟ろうとした。わたしの見いだしたところでは 死よりも、罠よりも、苦い女がある。その心は網、その手は枷。神に善人と認められた人は彼女を免れるが 一歩誤れば、そのとりことなる。見よ、これがわたしの見いだしたところーコヘレトの言葉―ひとつひとつ調べて見いだした結論。わたしの魂はなお尋ね求めて見いださなかった。千人に一人という男はいたが 千人に一人として、良い女は見いださなかった。ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが 人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。」

 

コヘレトは、熱心に知識を求め、知恵と結論を追求し、悪は愚行、愚行は狂気であると理解しようとしました。しかし、何も見いだすことはできませんでした。彼が見いだしたのは、男の限界でした。創造主なる神が男に与えられた女が男にとって問題でした。女は人を誘惑する力を持ち、その誘惑によって人は罪に陥るのです。人は罪によって楽園を追われ、一生労苦して働き、額に汗をし、パンを得るのです(創世記319)。人は神の御前で罪の責任を女に転嫁しました。それ以来、人は助け手である女を正しく認識できず、女を悪へと誘うものという認識から離れられません。コヘレトもその影響を受けて、千人に一人として良い女は見いだせないと説いています。

 

しかし、コヘレトは良い女性を見つけることの困難さを誇張していますが、彼は99節で「太陽の下、与えられた空しい人生の日々 愛する妻と共に楽しく生きるがよい。それが太陽の下で労苦するあなたへの人生と労苦の報いなのだ」と説いています。創造主なる神が男と女が一体となり、結婚を楽しむようにされた。それが、男がこの空しい人生で労苦することに対する神の報いなのです。

 

そして、コヘレトは729節で彼が見いだしたことを述べています。「神は人間をまっすぐに造られたが 人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。」 聖書協会共同訳聖書は、「神は人間をまっすぐに造ったのに 人間はさまざまな策略を練ろうとするのだ」と訳しています。創造主なる神は、人を素直な善いものにお造りになられたのに、人間は神によって与えられた自由意思によって罪を犯し、神に背くものとなりました。

 

 お祈りします。

 

御在天の父なる神よ、今日もコヘレトの言葉を学ぶ機会を得ましたことを感謝します。

 

今日は、よりよい生き方と知恵と男の限界を学びました。どうかわたしたちが賢すぎず、愚かすぎず、義と悪に偏ることなく、神を畏れ、謙遜に生かしてください。

 

創造主はわたしたちの幸福のために知恵をお与えくださいました。知恵はわたしたちが神の御前に正しく生きるために必要です。わたしたちに力と活力を与えてくれます。隣人と正しい関係に歩むために、助けを与えてくれます。

 

しかし、知恵には限界があります。わたしたちのすべてのこの世の問題を解決することはできません。死からわたしたちを逃れる助けにはなりません。

 

だから、十字架のキリストのみが、死人から復活されたキリストのみがわたしたちの救いです。

 

この祈りを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。