コヘレトの言葉説教01         主の202469

エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。

 

コヘレトは言う。

なんという空しさ

なんという空しさ、すべてはむなしい。

 

太陽の下、人は労苦するが

すべての労苦も何になろう。

一代過ぎればまた一代が起こり

永遠に耐えるのは大地。

日は昇り、日は沈み

あえぎ戻り、また昇る。

風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き

風はただ巡りつつ、吹き続ける。

川はみな海に注ぐが海は満ちることなく

どの川も、繰り返しその道程を流れる。

 

何もかも、もの憂い。

語り尽くすこともできず

目は見飽きることなく

耳は聞いても満たされない。

かつてあったことは、これからもあり

かつて起こったことは、これからも起こる。

太陽の下、新しいものは何ひとつない。

見よ、これこそ新しい、と言ってみても

それもまた、永遠の昔からあり

この時代の前にもあった。

昔のことに心とめるものはない。

これから先にあることも

その後の世にはだれも心に留めはしまい。

 

わたしコレヘトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。

 ゆがみは直らず

 欠けていれば、数えられない。

わたしは心にこう言ってみた、「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵を知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。4

知恵が深まれば悩みも深まり

知識が増せば痛みも増す。

コヘレトの言葉第1章1-18節

 

説教題:「なんという空しさ」

 

 わたしたちは、豊かで便利な時代に生きています。スマートホン一つあれば、わたしたちは何でも知りえますし、生活に困りません。しかし、この豊かな生活はお金と時間の消費によって成り立っています。睡眠時間は削られ、人々はどこでも常にスマートホンを操作しています。一日人と顔を合わせているよりもスマートホンに向かっている方が長いのです。

 

昔人は人を通して、あるいは書物を通してこの世界と向き合っていました。今はスマートホンを通してこの世界と向き合っているのです。今のわたしたちにスマートホンやパソコンがないという世界は考えることができなくなっています。

 

何よりもわたしたちはスマートホンやパソコンのインターネットを通して膨大な情報量を手に入れることができます。知識だけではなく、すべての必要な知恵を得ることができるのです。

 

しかし、『コヘレトの言葉』が118節で「知恵が深まれば悩みも深まり

知識が増せば痛みも増す。」と述べています。スマートホンやパソコンのインターネットを通してわたしたちは、知識や知恵を得るだけではありません。それを利用して人は悪事をし、特殊詐欺という悪事によって多くの人々が悩まされ、痛い目に遭っているのです。

 

わたしは、『コヘレトの言葉』を通して、今のわたしたち人間の罪を診断し、現代の物の豊かさと便利さの背後にある神なしの世界に生きるわたしたちの背信性とその空しさを見てみたいと思います。そして、わたしは現代において本当にわたしたちの心を満たすものが何かを追い求めたいのです。

 

さて、『コレヘトの言葉』は、12222節から成る小さな書物です。だが、聖書の中で最も深遠な思想の書でもあります。

 

 『コレヘトの言葉』は、一見厭世的な書物です。『コヘレトの言葉』は、12節で「コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべてはむなしい。」と述べています。コヘレトは普遍的な空しさを教えているのです。

 

 「なんという」は意訳です。本来は「空の空。空の空。一切は空」です。これが『コヘレトの言葉』の主題です。「空しさ」とは「空」のことです。空とは人の口から吐く息のことです。そこから空しいとか無であるという意味が生まれました。『コヘレトの言葉』は、「空しさ」と言う言葉を38回用いています。この語ももって始まり、この語をもって終わっています(12節、128)

 

 『コレヘトの言葉』は、11節でこの書の表題を述べています。「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。」です。賢者ソロモン王の伝承に基づいて、著者はダビデの子と記しています。「エルサレムの」はエルサレムに座を置くという意味です。だから、「エルサレムの王」と言っているのです。

 

 「コヘレト」は本名でありません。筆名です。仕事を指します。集会の司会者、知恵の教師、説教師という意味です。「ダビデの子」は肩書です。それによってこの書物にソロモン王の書という権威付けをしたいのでしょう。著者は不明です。

 

 1211節が「まえがき」です。この「まえがき」は、第123節と411節に分けられます。「まえがき」の一は、本書の主題である「空の空」について記しています。「まえがき」の二は、日は昇り、日は沈み、この世界に新しいものはひとつもないことを記しています。

 

「まえがき」の一は、「空の空」というこの書の根本的主題を述べて、3節で「太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう」と述べています。コヘレトは、この世における人の働きと労苦に目を留めています。人は、仕事をし、苦労しながら人生を生きています。コヘレトはその人の仕事と労苦に益などないと言います。それがこの書のテーマである世界が「空の空」である一つの面であるからです。

 

コヘレトが述べている「空」は無のことではありません。わたしは、確かなものがないという意味だと思います。人は仕事し、労苦して、豊かな生活を望むのです。しかし、この世には確かなものはありません。どんなに人は仕事し、労苦しても、その結果幸せな家庭を作ることができ、自分の願望をすべて叶えることはできません。

 

コヘレトは、4節で「一代過ぎればまた一代が起こり 永遠に耐えるのは大地。」と記しています。

 

この世において人は自分と家族の幸福を求めて仕事し、労苦します。しかし、死が訪れます。そして世代が変わっても、人は相変わらずに自分と家族のために仕事し、労苦を繰り返します。この世において大地、自然は変わりませんが、人は次の世代と変化し、同じことを繰り返すのです。コヘレトはその空しさを述べているのです。

 

コヘレトは、4節後半の御言葉を発展させ、57節で太陽と風と川の流れは同じことの繰り返しであると述べています。5節で「日は昇り、日は沈み あえぎ戻り、また昇る。」と述べて、太陽が東から昇り、西に沈み、再び東から昇るという繰り返されることの空しさを述べています。

 

 6節で「風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き 風はただ巡りつつ、吹き続ける。」と述べて、風も太陽と同じような運動の繰り返しであることの空しさを述べています。

 

7節で「川はみな海に注ぐが海は満ちることなく どの川も、繰り返しその道程を流れる。」と述べて、川の水は海に流れるが、海は水がいっぱいになることなく、川の水は繰り返して海に流れていることの空しさを述べています。

 

 人の世代は次々に変わり、自然の営みは変化なく、繰り返されています。そのことに確かさがなく、コヘレトは空しいと述べているのです。

 

 811節では太陽の下にあるこの世界に存在するものはすべて、同じ運動の繰り返しであり、新しいものがなく、この世のものは記憶されることもなく、すべてが空しいと述べています。

 

 コヘレトは8節で「何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず 目は見飽きることなく 耳は聞いても満たされない。」と述べています。これは、現代のわたしたちによく理解できると思います。スマートホンやパソコンでインターネットを通してわたしたちは膨大な量の情報を知ることができます。地上の出来事や事柄の情報が際限なくわたしたちに伝えられます。しかし、その情報はわたしたちにとって価値あるものとはいえません。わたしたちの心は自分にとって価値のない多くの情報を与えられ、その繰り返しでわたしたちの心が鬱になるのです。それほど今日わたしたちが得る情報は、わたしたちの心を満たすことはありません。

 

 わたしたちがこの世で得る情報は、同じ内容が繰り返されているのです。今この世界で起こっている出来事は、昔起こったことがあり、これからも繰り返されるのです。人が人として生きるためには、記憶と認識が大切です。ところが人は時を経ることで忘れるのです。だから、コヘレトは、人はすべてのことは忘れ去り、また、忘れた出来事や事柄を反復するのです。だから、コヘレトは結局空しいと述べているのです。

 

 1318節でコヘレトは、主なる神から賜った知恵を用いて地上で人間が為すすべてのことについて、熱心に探求し、知恵を尽くして調べました。それは、神が人に苦労を強いる仕事でした。なぜなら、彼が知恵によって人生と人の憧れを探求しても、「すべては、空しく風を追うようなものであった」(14)からです。彼が自分の知恵によって人の人生を探求し得たものは、空しさでありました。

 

 コヘレトは、知恵を用いて人がこの世で為すすべての業をよく観察しました。人はこの世で曲がったことを行いますが、それらを正すことができないことを悟りました。人には制御する力がないからであります(15)

 

 コヘレトは、エルサレムで王として君臨したダビデ以上に知恵ある者となりました。それによって彼が悟りましたことは、知恵と知識も狂気であり、愚かであり、空しいものであるということでした(1617)。無駄な探求、努力に終わったのです。

 

 幸福を得るに、知恵と知識は役立たず、むしろ不幸が深まりました(18)。知恵と知識は、彼に人間の不完全さとはかなさを一層深く悟らせたのです。

 

 最後にコヘレトの言葉第1911節の御言葉をお読みします。「かつてあったことは、これからもあり かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても それもまた、永遠の昔からあり この時代の前にもあった。昔のことに心とめるものはない。これから先にあることも その後の世にはだれも心に留めはしまい。

 

 コヘレトは、わたしたちにこう述べています。この世における出来事の繰り返しの中で、わたしたちは確かなものを得ることができないし、人は時を経てすべてのものを忘却するから、わたしたちは過去のことも未来のことも見ることは出来ないと。

 

 だからこそわたしは、思うのです。わたしたちはこの教会に留まるべきだと。そして、主日礼拝を続けるべきだと。礼拝でキリストの言葉を聞き続けるべきです。そして、共に聖餐の恵みに与り、主イエス・キリストが来られるのを待ち続けるべきです。

 

お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、今朝はコヘレトの言葉1章の御言葉を学びましたことを感謝します。

 

どうか、聖霊なる神よ、コヘレトの言葉がわたしたちに伝えたいメッセージを、わたしたちが理解できるようにしてください。

 

この世におけるわたしたちの空しさを知り、確かなものをキリストに求めさせてください。

 

教会でキリストの言葉を聞き、聖餐の恵みに与り、キリストが来られることを待ち望むことの確かさと喜びを覚えさせてください。

 

この祈りを主イエスキリスの御名によって祈ります。 アーメン。

 

 

 コヘレトの言葉説教02       主の202477

 

 聖書テキスト:コヘレトの言葉第2章1-26節

 

 説教題:「人間の努力は全く空しい」

 

 今朝は、『コヘレトの言葉』の第2章を学びましょう。

 

コヘレトは、1節で言います。「わたしはこうつぶやいた。『快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。』見よ、それすら空しかった。」このようにコヘレトは、問題提起します。

 

コヘレトは、11218節で知恵の空しさを経験しました。今コヘレトは、快楽を経験して幸福を得ようとします。

 

そこでコヘレトは、210節で四つの快楽について述べています。第一の快楽は「笑い」です。コヘレトは2節で言います。「笑いに対しては、狂気だと言い 快楽に対しては、何になろうと言った。」コヘレトは、「笑いを、ばかげたことだ」と言い、「快楽は何の役に立つのか」と言いました。

 

「笑い」は大衆芸能ではありません。遊女の所に行く男の笑いです。また、遊女が若い男を誘惑する時の笑いです。風俗で男と女が情欲を楽しむ時の笑いです。箴言が21719節でこう述べています。「若き日の伴侶を捨て 自分の神との契約を忘れた女を。彼女の家は死へ落ち込んで行き、その道は死霊の国へ向かっている。彼女のもとに行く者はだれも戻って来ない。命の道に帰りつくことはできない。」

 

だから、コヘレトは、「笑いは狂気だ、ばかげたことだ」と言うのです。そして、彼は、人間の情欲という快楽が人を死の国へ、滅びへと導くのであれば、快楽は何の役に立とうと言うのです。

 

第二と三の快楽は、酒を飲むことと愚かな行いの中に幸福を見いだすことです。コヘレトは、3節で言います。「わたしの心は何事も知恵に聞こうとする。しかしなお、この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。」

 

コヘレトは、生涯知恵に導かれた人です。コヘレトは、心に思うことは何でも知恵に聞こうとしました。しかし、人生は短いのです。人の子らが何をすれば幸福になるかを、知恵で究めることは出来ません。そこで彼は、二つの快楽によって幸福を得ようとしました。

 

「酒で肉体を刺激し」とは、コヘレトがぶどう酒を飲むことで、彼の体を元気づけようとしたのです。酒は百薬の長と言われています。しかし、コヘレトは、酒で酔っ払い、「愚行に身を任せる」、すなわち、放蕩に身を持ち崩して、知恵の価値をより深く知ろうとしたのでしょう。

 

第四の快楽は、コヘレトがソロモン王のように大事業を起こし、大富豪となり、思いのままに生きようとしたことです。コヘレトは、410節でこう言っています。「大規模にことを起こし 多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。庭園や果樹園を数々造らせ さまざまの果樹を植えさせた。池を幾つも掘らせ、木の茂る林に水を引かせた。買い入れた男女の奴隷に加えて わたしの家で生まれる奴隷もあり かつてエルサレムに住んだ者のだれよりも多く 牛や羊と共に財産として所有した。金銀を蓄え 国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。男女の歌い手をそろえ 人の子らの喜びとする多くの側女を置いた。かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって わたしは大いなるものとなり、栄えたが なお、知恵はわたしのもとにとどまっていた。目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ どのような快楽をも余さず試みた。どのような労苦をもわたしの心は楽しんだ。それが、労苦からわたしが得た分であった。」

 

コヘレトは、ソロモン王のように大事業をお起こしました。多くの屋敷を建て、畑にぶどうの木を植え、幾つもの池を掘り、木の茂る林に水を引き、庭園と果樹園を造園しました。彼は多くの男女の奴隷と家畜と側女たちを所有しました。金銀を蓄え、貴重な宝を手に入れました。日々酒宴を開き、接客の男女たちが踊りました。コヘレトは、エルサレムに住む者の中でだれにもまさり偉大な者であり、栄華を極めました。知恵は、彼から離れないでとどまっていました。コヘレトは、自分の思うままに行動しました。目の前に見える快楽は拒まず試みました。特にコヘレトは、彼の事業に伴う労苦を、彼の心の楽しみとして味わいました。コヘレトは、この世のどのような仕事にも常に労苦が伴い、それが人の受くるべき報酬であると言っているのです。

 

コヘレトは、9節で「知恵はわたしのもとにとどまっていた。」と言っていますね。これによってコヘレトは、11節で快楽を求める自分を反省するのです。コヘレトは、11節で言います。「しかし、わたしは顧みた この手の業、労苦の結果のひとつひとつを 見よ、どれも空しく 風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。」

 

これが、知恵によってコヘレトが下した判断です。コヘレトは多くの屋敷を建て、庭園と果樹園を造り、大富豪となり、多くの奴隷、家畜、側女を所有しました。彼は栄華を極めたのです。彼は彼が手掛けた事業を、骨折った仕事を振り返りました。何という空でしょう。風を追うようなことでした。

 

 コヘレトにとって「人間」は、自分の力以上のものを望み、常に欲求不満に陥っています。コヘレトは、快楽に対して満足を得ることができませんでした。人間は、この地上の生活において過度に幸福を追い求めますが、満足を得ることはありません。

 

だから、コヘレトは「なんという空しさ、すべては空しい(一切は空である)」とつぶやくのです。コヘレトは、わたしたちに「なんという空しさ、すべては空しい」というこの地上における人間の悲しい経験を伝えて、太陽の下に、すなわち、この世には、真の幸福はないし、人の心を満たすものはないと説いています。

 

そこでコヘレトは、12節で「またわたしは顧みて 知恵を、狂気と愚かさを見極めようとした。王の後を継いだ人が 既になされたことを繰り返すのみならなんになろうか。」コヘレトは、117節でも「熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った」と言っています。12節もコヘレトは同じことを言っているのです。コヘレトの大事業は、既に人の行なった事の繰り返しでした。なされたことをなすということの空しさを、コヘレトは感じたのです。

 

続いてコヘレトは、1317節で知恵と愚かさ、知恵ある者と愚かな者を比較し、知恵ある賢者も愚者もこの世で同じ運命を辿るという空しさを述べています。「わたしの見たところでは 光が闇にまさるように、知恵は愚かさにまさる。賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。しかしわたしは知っている。両者に同じことが起こるのだということを。わたしはこうつぶやいた。『愚者に起こることは、わたしにも起こる。より賢くなろうとするのは無駄だ。』これまた空しい、とわたしは思った。賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れ去られてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。わたしは生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかもわたしを苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ。」

 

知恵ある賢者も愚者も人間の死と老いと病気とこの世の災難を逃れることはできません。死がブラックホールのように人間のすべてを飲み込みます。そうしますと賢者も愚者も死に、この世から彼らの記憶は忘れ去られ、その存在は消え、一切は空です。

 

 コヘレトは、1819節でこう言います。「太陽の下でしたことの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしは知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。」。

 

 この地上の生活において人は、裸で生まれ、裸で世を去ります。人は死ぬとき、自分のすべての富と財産を残さなければなりません。自分が汗水たらし、知力を尽くして得た財産と富を支配するのは、自分ではなく自分の後継者たちです。わたしたちは、財産を相続する後継者が賢者か、愚者かを知りえません。愚かな相続人であれば、わたしたちの財産と富を湯のみの如く消費し、失ってしまうでしょう。このことは、コヘレトが労苦して得たものを、労苦しない後継者が手にし、失ってしまうのですから、一層の絶望感を与えました。

 

 コヘレトは、2023節で彼の絶望感を次のように言っています。「太陽の下、労苦してきたことのすべてに、わたしの心は絶望していった。知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。」

 

 コヘレトは、彼が労苦した結果を全く労苦しなかった者に遺産として与えなければならないことを、空しいと言い、大いに不幸なことだと言っています。コヘレトは、わたしたちにわたしたちがこの世で生涯働き、労することに何の意味があるのかと問いかけています。わたしたちの生涯は、悲しみに満ち、わたしたちの仕事は悩ましく、わたしたちの心は毎夜明日の心配で休まることがありません。コヘレトは、これも空しいことであると言います。

 

 最後にコヘレトがわたしたちに伝えたいことは、人間の幸福と喜びは神の手中にあるということです。この地上において神からいただくもので、わたしたち人間は、十分に楽しみ、幸いを得ることができるのです。コヘレトは、2426節で言います。「人間にとって最も良いのは、飲み食いし 自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは神の手からいただくもの。自分でたべて、自分で味わえ。神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる。だが悪人には、ひたすら集め積むことを彼の務めとし、それを善人と認めた人に与えられる。これまた空しく、風を追うようなことだ。」。

 

 コヘレトは、313節でも「人だれもが飲み食いし その労苦によって満足するのは神の賜物だ、と」言っています。賜物とは、神の恵みのことです。人間は限りない欲望に生きています。誰も足ることを知りません。だから、常に欲求不満なのです。

 

 コヘレトの2426節の御言葉は、勧告ではありません。リアルに真実であることを確認する言葉です。

 

 飲み食いするという人の営みで、わたしたちは何をイメージしますか。例えば詩編23編でダビデは、「わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」(56)。あるいは詩編1331節です。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」

神が食卓を設けてくださるのです。そこで人は集まり、食べ、飲み、楽しむのです。食卓での飲食は、神が賜わる人の飲食の場です。家庭で一家が集まり夕食を共にすることは、わたしたちにとっては心と体の喜びであるのです。何よりも教会における聖餐の場は、神が恵みによってわたしたちにキリストを賜る場であります。その場にわたしたちが居合わすことで、わたしたちはわたしたちの真実の幸福は常に神の御手の中にあると確信するのです。

 

 26節の「善人と認めた人」とは、神の御心に適う人です。コヘレトは、その人に神は知恵と知識と楽しみ、快楽を与えてくださると言っています。悪人は罪人です。罪人には、ひたすらものを集めたり、蓄えたりする仕事を与えられます。罪人が集め、蓄えたものは、神の心に適う人に与えられるのです。これは、神の摂理のことを述べているのです。わたしたちの知りえない所で神は、全てのことを配剤されているのです。

 

 だから、わたしたちは、わたしたちの幸いは、摂理の神の手の中にあるということだけに心を留めようではありませんか。

 

 お祈りします。

 

 主イエス・キリストの父なる神よ、今朝はコヘレトの言葉第2126節の御言葉を学ぶ機会を得ましたことを感謝します。

 

わたしたちは、人が知りえない神の御摂理の下に生きています。

 

今朝の御言葉を聞き、わたしたちは人の幸福と喜びは、神の恵みの賜物と教えられました。

 

どうか、主エスがわたしたちに教えられた主の祈りの、「日々の糧を与えたまえ」と祈らせてください。そして、わたしたちが家族と教会で飲み食いします時に、人の幸福は神の御手の中にあると心とめさせてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

 

コヘレトの言葉の説教03

           主の2024714

 

 聖書テキスト:コヘレトの言葉第3章1-22節

 説教題:「何事にも時がある」

 今朝は、『コヘレトの言葉』の第3122節の御言葉を学びましょう。3章は、115節と1622節に内容を分けることができます。コヘレトは、115節で、自然現象の中での人間の幸福のはかなさを述べています。コヘレトは、1622節でこの世の不合理と神の裁きについて述べています。

 

 コヘレトは、31節で言います。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と。「何事にも」とは、自然現象のことです。自然現象には「時」があります。それは「時期」のことです。一定の期間です。具体的に言うと、季節です。日本には四季があり、パレスチナには、雨季と乾季があります。一年に雨季と乾季の時期があり、小麦と大麦の種をまく時期があり、収穫の刈り入れの時期があります。

 

「天の下の出来事」とは、この世の「すべての営み」のことです。「定められた時」とは、神が永遠の相の下に定められた瞬間のことです。コヘレトにとって、「時期」と「瞬間」は、抽象的な時の流れではありません。出来事が起こることです。神ないしは人が事を起こす個々の一定の時期と瞬間です。コヘレトは、31節と86節で「何事にも時があり」と述べ、317節で「すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」と述べています。

 

コヘレトは、28節で14対の相反する人間の行為を記しています。「生まれる時、死ぬ時 植える時、植えたものを抜く時 殺す時、癒す時 破壊する時、建てる時 泣く時、笑う時 嘆き時,踊る時 石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時 求める時、失う時 保つ時、放つ時 裂く時、縫う時 黙する時、語る時 愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時。」

 

これは、人間の一生の全活動を含む14対の相反する行為を列挙しています。2節の「生まれる時、死ぬ時」とは人間の一生です。人間が生まれてから死ぬ時までの行為です。「植える時、植えたものを抜く時」とは、農業の営みのことです。3節の「殺す時、癒す時」とは、殺人と救助の人の営みです。「破壊する時、建てる時」とは人の建築の営みのことです。4節の「泣く時、笑う時」とは断食と婚礼です(マタイ91415)、「嘆く時、踊る時」とは葬式と結婚式です(マタイ111617)。「石を放つ時、石を集める時」とは、田畑を荒らすこと(列王記下31925)と田畑を耕かすことです。「抱擁の時、抱擁を遠ざける時」とは、男女の性行為のことです。断食と戦争の時に性行為を遠ざけました。「求める時、失う時」とはものを捜す時と失う時のことです。「保つ時、放つ時」とは、物を保存する時と捨てる時です。「裂く時、縫う時 黙する時、語る時」とは、悲しみと喜びの時です。悲しみの時には衣服を裂き、沈黙します。喜びの時には裂いた衣服を縫い、おしゃべりをします。「愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時」とは個々人に愛と憎しみがあり、国と国とに戦いと平和があります。

 

コヘレトは、このように14対の相反する人間の行為を列挙しています。そしてコヘレトは、28節で日常的な行為や出来事にはすべて一定の時があると述べています。他方911節でそうした時は神によって定められた永遠の相の下にあり、人間には見極められないと述べています。

 

コヘレトは、9節で言います。「人が労苦してみたところで何になろう。」。これは、13節の「太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう。」の繰り返しです。コヘレトは、この疑問に対する答えを持っています。それは、否定的な答えです。コヘレトは言います。この世のすべての出来事は、神によって定められた時に起こるべきものであるから、人はだれも自分の生涯の流れを変えることはできないと。

 

さらに1011節でコヘレトは言います。「わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」

 

コヘレトは、神の創造は善であり、神は人に永遠を思う心を与えられたが、人の知恵には限界があり、人はその生涯においてすべてのことを完全に知ることはできないと述べているのです。

 

しかし、コヘレトは、1213節で言います。「わたしは知った 人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と 人だれもが飲み食いし その労苦によって満足するのは 神の賜物だ、と。」

 

コヘレトは、「わたしは知った」と一つの悟りを開くのです。この地上におけるわたしたちの生涯は、すべて神の恵みです。だから、わたしたちは生きている間、楽しく幸福に暮らすよりほかによいことはありません。わたしたちが日々の糧を食べたり飲んだりし、わたしたちが一日の仕事の労苦で得たものを楽しむことは神の賜物なのです。

 

さらにコヘレトは悟ります。1415節です。「わたしは知った すべて神の業は永遠に不変であり 付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。今あることは既にあったこと これからあることも既にあったこと。追いやられたものを、神は尋ね求められる。」

 

すべて神の御業は永遠不変であり、人は神の定められたことに付け加えることも取り除くこともできません。人の生涯は変えることはできなし、ヘリ下って神の支配の下に生きる他はありません。そして、コヘレトは言います。「神は人間が神を畏れ敬うように定められた」と。コヘレトは、神への畏敬が知恵の源であると言うのです。コヘレトは、15節で、その知恵に基づいて神が定められた歴史を考察します。過去の経験から現在を認識し、将来を予測するのです。

 

コヘレトは、神が時を決定されていることとわたしたち人間が神の決定された時を十分に認識できないことに、空しさを覚えているのではないでしょうか。

 

コヘレトは31622節で次のように述べています。「人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。」

 

コヘレトは、1617節で人の社会が不合理であり、裁きの場にも正義の場にも悪があると述べています。「裁きの場」と「正義の場」は共に法廷を意味します。コヘレトの時代、正義を守るべき法廷で、悪が盛んに行われていたのです。コヘレトは、この社会の不合理のゆえに人間はこの地上において幸福を得ることはできないと思っているのです。

 

しかし、彼は、主なる神の裁きを信じているのです。彼はつぶやきます。義人も悪人も、主は裁かれると。主なる神は、人のすべての行ないを裁かれるお方です。いつ神の裁きが訪れるのかは、人は誰も知ることはできません。あの旧約聖書のノアの洪水のように、神はご自身が定められた時に、すべての人間を裁かれるのです。人は誰もこの神の裁きから逃れることはできないのです。しかし、この世の不合理の中で神の慈しみを求めて、正義を行う者には、神の裁きがあることは慰めでないでしょうか。

 

コヘレトは、18節から人間を考察しています。彼は、人間を動物と比較して、人間は動物よりも優れたものではないと述べています。彼は、この世において人間が経験する試練は、神が人間を、動物に変わらないことを教えるためだと述べています。人間と動物に変わるところはありません。人間に死が臨むように、動物も死ぬのです。人間も動物も同じ霊を持ち、何ら異なるところはありません。そして、同じ死の世界に行くのです。人間も動物も等しく土の塵で造られ、共に陰府に下るのです。コヘレトは、人間も動物も共に、神より命の息吹を与えられ、それが生きている証しであり、生まれた時に与えられ、死ぬ時に取り上げられると考えていました。コヘレトの時代の人々は、人の命の息吹は神に取り上げられ、動物の命の息吹は地の下に降ると考えていました。しかし、コヘレトは疑問を呈しています。人間も動物も共に神に命の息吹を与えられたのだから、共に神に取り上げられて、神のところに帰るのだと。

 

コヘレトは、22節で彼が悟った確信を述べています。「人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。死後どうなるかを、誰が見せてくれよう。」

 

コヘレトが経験したことです。彼は、人間が自分の仕事を楽しむに越したことはないということを経験したのです。「それが人間にふさわしい分である」とは、それがわたしたちのこの世における労苦の配当であるからです。

 

最後にコヘレトが「死後どうなるかを、誰が見せてくれよう。」と言っています。これは、コヘレトの不可知論です。人間は、自分の死後に何が起こるか知ることはできません。人間は誰もが例外なく死ぬことは、知っています。しかし、誰も死だけではなく、これから後、何が自分に起こるのか知らないのです。だから、人間は誰も、将来に対して確かな所に連れて行くことはできないのです。

 

コヘレトは、この世における時は、神が定められた時であり、人間は神の摂理の中に生きる以外にないと言っているのです。

 

だから、わたしたちは神を畏れ、自らの知恵の限界を知り、すべてのものは神の善き創造と摂理であるのだから、すべてのことを神の恵みとして、仕事も生活も楽しむことが幸いであることを、コヘレトの言葉から学ぼうではありませんか。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝はコヘレトの言葉の第3章の御言葉を学ぶ機会を得られて感謝します。

 

神の造られた自然には、時期があり、わたしたちは春夏秋冬の四季を与えられています。自然は、四季を通して芽生え、成長し、実を実らせ、休みます。わたしたちは、自然の四季を通して農業を営みます。米や野菜を育て、収穫を得ます。わたしたちの一生は、神の定められた時に支配されています。

 

この世の不合理や悪や不義に、わたしたちは苦しめられます。しかし、自然とこの世のすべての営みは、神が創造され、摂理によって支配されています。そして神がわたしたちに試練を与えられるのは、わたしたちが神を畏れることを学び経験するためです。

 

コヘレトは、わたしたちにこの世における時を定め、支配されている神にすべてを委ね、日々の食事を楽しみ、仕事の労苦から得られる楽しみから自分たちの幸いを見いださせてください。

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

コヘレトの言葉説教04              主の2024811

 聖書テキスト:コヘレトの言葉第3章16節-第4章17節

 説教題:「社会の不秩序」

 今朝は、『コヘレトの言葉』の第316節から417節の御言葉を学びま しょう。

コヘレトは、316節から416節で「太陽の下で行われる」裁判における悪、虐げられる人の慰めの無さ、人の労苦と成功の空しさ、王の栄誉の空しさなど、「社会の不秩序」を取り上げています。

コヘレトは、413節で次のように言います。「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。」

コヘレトは、虐げ(迫害)という社会的不秩序を指摘します。「見よ」という言葉が二度出てきます。コヘレトは、わたしたち読者に喚起しています。この世における弱者に対する権力者の虐げ(迫害)という社会的不秩序を見よと。

これは、旧約聖書のテーマです。有名な事件は、出エジプトとバビロン捕囚です。神の民イスラエルにとって、この二つの事件は忘れることができません。神の民イスラエルの先祖たちは、エジプトで奴隷生活をし、エジプトの王パロから迫害を受けました。エジプトの王の迫害から彼らを慰め、助ける者はいませんでした。

しかし、主なる神は彼らの先祖アブラハムと契約を結ばれて、アブラハムと彼の子孫たちの神となられ、その契約を覚えて彼らの嘆きの声を聞かれました。主なる神はモーセとアロンを遣わされて、彼らをエジプトの奴隷状態から解放されました。そして主なる神はシナイ山で神の民イスラエルと契約を結ばれ、彼らの神となられました。

バビロン捕囚は、旧約聖書では第二の出エジプトと呼ばれている事件です。エジプトから脱出した神の民は、約束の地カナンに入り、ダビデ王がダビデ王国を建設しました。しかし、その子ソロモン王の死後にダビデ王国は南北に分裂しました。北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、南ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされました。バビロニア帝国の軍隊は南ユダ王国の都エルサレムを破壊し、王宮と神殿を焼き尽くし、エルサレムの住民を虐殺しました。そして、神の民イスラエルの王や高官や民たちをバビロンに捕囚したのです。この時も虐げられる彼らを慰める者はいませんでした。しかし、主なる神は彼らを見捨てられませんでした。主なる神は、預言者エレミヤを通して彼らの捕囚は70年であると告げられました。

コヘレトは、神の民イスラエルがエジプトで奴隷状態であり、日々エジプトの王に迫害され、絶望の中にあったことを想像したでしょう。あるいは、バビロニア帝国の軍隊によって多くの同胞が殺され、バビロン捕囚の生活で異国の人々に虐げられ、絶望の中にあった神の民たちを想像したことでしょう。

それだけではなく、旧約聖書は、創造者なる神の御前に虐げる者(迫害者)と虐げられる者(被迫害者)がいることを証言しています。預言者や知恵者たちは、王や貴族、富める者らが弱い者、寄る辺なき寡婦や孤児、小さい者を虐げるという社会的不正義を激しく非難しています。コヘレトも316節で「太陽の下、更にわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。」と述べています。コヘレトは、正義が為されるべき裁きの場で王や富める者が貧しき者を虐げる悪を見ました。

コヘレトは、イスラエル社会の中に不正な裁きで虐げられる者に涙があり、彼らを慰める者がいないのを見ました。虐げる王は、弱い者の幸福を踏みにじりました。虐げられた者たちには慰める者がいませんでした。そのよい例が列王記上21章のサマリアの王アハブがイズレエルのナボトのぶどう畑を欲して、アハブ王の妻イゼベルがナボトのブドウ畑を奪うために、不正な裁判でナボトに罪を着せ、殺した事件です。

23節の御言葉は、コヘレトが下した結論です。弱い者が王に虐げられ、幸いを得ることのできないのを、彼は見て、言います。「今、この悲惨さを見ないで死んでしまっている者たちは幸いである。虐げられ、慰めを得ない不幸な人々は生きることより死ぬ方が良い。なお良いことは生まれて来ないことである。なぜなら、彼らはこの世の悪を見ないからである」と。コヘレトにとって、このような不条理な社会はだれもが実感することであり、日常の一駒でした。

わたしは、コヘレトの言葉を読み、79年前の夏を想像しました。広島と長崎に原子爆弾が落とされた日です。あの時のアメリカの力は大きく、その象徴が原子爆弾です。その無慈悲な核兵器によって広島と長崎の力なき多くの市民の命が奪われました。核兵器は大国によって戦争の抑止力とされていますが、わたしはこの無慈悲な核兵器によって現代の社会の秩序が破壊されたと思うのです。コヘレトが結論として述べていることは、核兵器の傘下にある現代社会でこそわたしは正しいと思うのです。

コヘレトは更に4節で、「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これも空しく、風を追うようなことだ。」と言っています。コヘレトは、この世における人間の労苦とその成功の根底には人間同士の競争心と妬みがあるのを見て、空しいと主張しています。

この世でわたしたちは、自分たちの才能を尽くし、労苦し、仕事を成功させようとしています。その原動力が子供のころからの競争心です。現代の科学者たちの競争心によって、彼らの労苦と成功によって核兵器は作られたのです。このように人の競争心から、彼らの労苦と成功から社会の秩序が破壊されるのを見て、コヘレトは人の競争心とその労苦と成功も空しいというのです。

コヘレトは、56節でこう言っています。「愚か者は手をつかねてその身を食いつぶす。片手を満たして、憩いを得るのは 両手を満たして、なお労苦するよりも良い。それは風を追うようなことだ。」

5節の「手をつかねて」とは、何も仕事をしないという意味です。5節の愚かな者は怠け者のことです。「その身を食いつぶす」とは、「自分の肉を食う」ことです。コヘレトは、「人は働かなければ、自分の死を早めるだけである」と述べているのです。

6節は、5節と対になっています。「片手を満たして、憩いを得る」とは、生活を楽しむために働くことです。「両手を満たして、なお労苦する」とは、欲のためにあせくせし、心の安らぎを失うことです。コヘレトは、人が働き、生活を楽しむことは良いことであるが、ただ自分の欲望のために働き、日々の生活を多忙に過ごすことは、心を滅ぼすことであると教えています。

漢字の忙しいという字も。心を滅ぼすと書きます。コヘレトは言うのです。創造主は、人に生活を楽しむために、仕事を与えられた。ところが、人は神の作られた社会秩序を転覆させて、飲み食いを楽しむという神の賜物を忘れて、ただ日々忙しく働き、心を滅ぼしているのです。コヘレトは、そのようなわたしたちの人生に何の意味もないと述べているのです。

コヘレトは78節でこう言っています。「わたしは改めて 太陽の下に空しいことがあるのを見た。ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限もなく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。『自分の魂に快いものを欠いてまで 誰のために労苦するのか』と思いもしない。これまた空しく、不幸なことだ。」

コヘレトはこの世における人の孤独の空しさを見ています。8節の「友も息子も兄弟」もの「友」とは妻のことです。コヘレトは言います。一人の孤独な男がいます。妻も息子も兄弟もいません。彼は守銭奴です。金儲けだけを考えて、自分の人生を生きているのです。

コヘレトは、孤独な男は創造主の造られた社会の秩序を覆すと言っているのです。旧約聖書の創世記218節で、創造主なる神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われて、アダムのアバラ骨から女()を造られました。

「妻と息子と兄弟」は、ある意味で第2の自分です。男にとって妻は助け手、息子は自分の写し、兄弟は血を分けた者です。創造主なる神は、男から妻を取り出し、二人から息子を賜り、兄弟を与えられ、家族、人の共同体という社会的秩序を造られたのです。しかし、コレヘトが観察した孤独な男は、神の恵みの賜物に背を向けて生きているのです。

だから、コヘレトは、人が孤独で、金儲けだけに労苦し、働いても、創造主が与えられた生活を楽しむことがなければ空しく、不幸なことだと述べています。創造主なる神はわたしたち人間を孤独な者として造られたのではありません。家族と共に飲み食いを楽しみ、人は共同体として生きるように造られたのです。

だから、コヘレトはわたしたち読者に912節でこう言っているのです。「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更にふたりで寝れば暖かいが ひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。」

コヘレトは、一人より二人の方がよいと勧めています。人は、一人よりも二人で共に労苦し、喜びを分かち合うように造られているのです。コヘレトの言葉を読んでいて、わたしは、思い起こします。主イエスが72人の弟子たちを伝道に派遣される時に、町や村に二人ずつ遣わされました。弟子たちは派遣先から喜んで帰って来て、主に伝道の成果を報告しました。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と(ルカ101.17)。だから、兄弟姉妹たち、自分一人で頑張らないでください。兄弟姉妹に助けを求めつつ、伝道に、奉仕にあずかってください。主イエスは約束してくださいました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ1820)

そして、コレヘトは言います。夫婦は互いに助け合い、冬には寝床を共にし、暖まる事ができますと。また、親しい兄弟がいれば、一人が敵に攻められれば、二人で敵と戦うことができますと。12節後半は諺です。協力することの益を説いています。昔戦国武将の毛利元就が3人の子たちに3本の矢の強さを説いて、兄弟が協力し合うことを説きました。三人の子供たちは、父の教えを守り、毛利家は戦国時代、江戸時代を生き抜きました。コヘレトは、わたしたち上諏訪湖畔教会を励ますために、語っているのです。少ない人数でも、協力し合うなら、きっと今の教会の困難を乗り越えられると。二人三人集まるところに主イエスがいてくださるのですから。

コヘレトは、1316節でこう言っています。「貧しくても利口な少年の方が 老いて愚かになり 忠告を入れなくなった王よりも良い。捕らわれの身分に生まれても王となる者があり 王家に生まれながら 卑しくなる者がある。太陽の下、命あるもの皆が 代わって立ったこの少年に味方するのを わたしは見た。民は限りなく続く 先立つ代にも、また後に来る代にも この少年について喜び祝う者はない。これまた空しく、風を追うようなことだ。」

コヘレトは、貧しくても賢い少年と人の言葉に耳を傾けない愚かな年老いた王の姿を見比べています。そして、コヘレトは、貧しくても賢い少年をたたえています。この少年のモデルは、創世記の族長ヨセフです。彼は兄たちに妬まれて奴隷としてエジプトに売られました。彼は隊商たちにエジプトに連れて行かれました。そこである主人の奴隷となり、有能な働きをしました。しかし、主人の妻に言い寄られましたが、彼は拒みました。主人の妻は彼に罪を着せ、ヨセフは投獄されました。しかし、主なる神は彼にエジプトの宰相になる道を開かれました。

コヘレトは、15節で新王に対する当時の人々の歓迎を述べています。しかし、コヘレトは、16節で民の歴史は限りなく続き、後の時代になると、人々はその少年を知りませんので、王になったその少年に無関心になると述べています。だから、コヘレトは、どんな素晴らしい王もその栄誉は一時的であるので、空しいと述べています。確かにヨセフが死ぬと、後のエジプト人はヨセフの功績を忘れ、エジプトの新しい王はヨセフの子孫であるイスラエルの民を苦しめました。このように社会の秩序は、時代の変遷と共に移り行くのです。だから、コヘレトは、空しく、意味がないと言うのです。

最後にコヘレトは17節で勧告の形で宗教的心構えを教えています。「神殿に通う足は慎むがよい。悪いことをしても自覚しないような愚か者は 供え物をするよりも、聞き従う方がよい。」

コヘレトは、神殿における敬虔で従順な態度の方が愚かな者のいけにえに勝ると言っています。「神殿」とは「神の家」です。エルサレム神殿と会堂を指します。「通う足を慎むがよい」とは、礼拝行為の心構えです。

コヘレトは、「礼拝ではあなたの言動に注意せよ」と警告しています。確かに神殿では動物犠牲をささげました。しかし、コヘレトは、「神の御言葉を聞くために、神殿と会堂に近づきなさい」と勧告します。聖書は、動物犠牲よりも神の言葉に聞き従うことを神は喜ばれると教えています(サムエル記上1522)。サウル王は犠牲をささげても、サムエルが語る神の言葉に聞き従いませんでした。ダビデは、預言者ナタンが語る神の言葉に聞き従い、自らの罪を悔い改めました。

創造主なる神は、わたしたちが創造主を見上げて、礼拝するように、目を与えてくださいました。創造主なる神は、わたしたちが神の御言葉に聞き従うように、耳を与えてくださいました。創造主なる神は、わたしたちが神を賛美し、神に祈り求めるように、口を与えてくださいました。わたしたちが創造主なる神を畏れ、神にのみ仕えることこそ、創造主に造られたわたしたち人間の幸いであります。コヘレトは、わたしたちが創造主に造られた者として、神が定められた社会秩序に従って神を愛して、隣人を愛して生きることを、心から願っているのです。

お祈りします。

主イエス・キリストの父なる神よ、御名を崇めます。わたしたちが創造主なる神の恵みに生きることができるようにしてください。

わたしたちを、神の愛と平和の下に生かしてください。この世から戦争と迫害を除いてください。

神と隣人との愛と交わりから離れて、孤独と守銭奴に生きることがないようにしてください。隣人との競争のみに生きて、自分の労苦と成功を自分の人生において無意味なものとさせないでください。

どうか創造主なる神がわたしたちに賜った自然の恵みを楽しませてください。与えられた妻を喜び、子供たちに感謝し、兄弟と仲良くさせてください。社会の交わりを感謝し、隣人に対して親切にさせてください。

教会の二人、三人の集まりの中に主イエスがいてくださる恵みと喜びを感じさせてください。

 

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

コヘレトの言葉説教05              主の2024818

 

 聖書テキスト:コヘレトの言葉第5119

 説教題:「神の与える賜物を喜んで受ける」

 

 今朝は、『コヘレトの言葉』の第5119節の御言葉を学びましょう。

 

 コヘレトは417節から56節で、神への畏敬を教える諺を挿入しています。「神殿に通う足を慎むがよい。悪いことをしても自覚しないような愚か者は 供え物をするよりも、聞き従う方がよい。焦って口を開き、心せいて 神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。夢を見るのは悩みごとが多いから。愚者の声と知れるのは口数が多いから。神に願をかけたら 誓いを果たすのを遅らせてはならない。愚か者は神に喜ばれない。願をかけたら、誓いを果たせ。願をかけておきながら誓いを果たさないなら 願をかけないほうがよい。口が身を滅ぼすことにならないように。使者に『あれは間違いでした』などと言うな。神はその声を聞いて怒り あなたの手の業を滅ぼされるであろう。夢や空想が多いと饒舌になる。神を畏れ敬え。」

 

コヘレトは、417節で、わたしたち読者に勧告するように、宗教的心構えを教えているのです。コヘレトは、神殿において敬虔で従順な態度の方が愚かな者のいけにえに勝ると説いています。「神殿」は「神の家」です。エルサレム神殿と会堂を指します。「通う足を慎むがよい」は、神礼拝行為の心構えです。

 

コヘレトは、「礼拝ではあなたの言動に注意せよ」と警告しています。旧約聖書の神の民たちは、エルサレム神殿で動物犠牲をささげました。しかし、コヘレトは、「神の御言葉を聞くために、神殿と会堂に近づきなさい」と勧告します。旧約聖書は、動物犠牲よりも神の言葉に聞き従うことを神は喜ばれると、繰り返し教えています(サムエル記上1522、詩編511819、ホセア66)。イスラエルの最初の王サウルは犠牲をささげても、サムエルが語る神の言葉に聞き従いませんでした。ダビデは、預言者ナタンが語る神の言葉に聞き従い、自らの罪を悔い改めました。当然主なる神はサウル王を捨て、ダビデを愛されました。

 

コヘレトは、「神は天にいまし、あなたは地上にいる。」と言い、神は人間の理性を超える偉大なお方であると説きます。この認識が信仰の前提です。人は神を動かすことも、人の方から神に至る道もありません。むしろ、神が天からわたしたちのところに来てくださったのです。

 

コヘレトはわたしたちに言うのです。わたしたちが外面的な宗教的行為を行なえば、神が必ずわたしの願いを聞き入れられると考えることも、多くの言葉をもってわたしたちが熱心に祈れば、神が聞き届けられると思うことも誤りであると。

 

コヘレトは言います。神礼拝と祈りの価値は、言葉数の多さにあるのではないと。コヘレトの言葉を聞いていますと、主イエスが山上の説教で言われた御言葉が重なってきます。主イエスは、コヘレトのように言われました。「また、あなたがたが祈るときには、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ678)と。

 

コヘレトは、536節で、こう言います。「神に願をかけたら 誓いを果たすのを遅らせてはならない。愚か者は神に喜ばれない。願をかけたら、誓いを果たせ。願をかけておきながら誓いを果たさないなら 願をかけないほうがよい。口が身を滅ぼすことにならないように。使者に『あれは間違いでした』などと言うな。神はその声を聞いて怒り あなたの手の業を滅ぼされるであろう。夢や空想が多いと饒舌になる。神を畏れ敬え。」と。

 

神への誓願は、旧約聖書のモーセ律法に定められています(レビ記27127,民数記30213,申命記231923)。コヘレトは言います。愚か者は、神への誓願を遅らせると。それは神の御心に適わないことです。だから、コヘレトは勧告するのです。神への誓願を速やかに果たせ、果たせないなら誓願をするなと。神の怒りによって身を滅ぼすことになるからです。使者とは、神殿の祭司、預言者です。彼らは民が誓願を立てる時に、約束したものを受け取り、民の誓願を証明する義務がありました。

 

このようにコヘレトは、わたしたちに宗教的心構えを教えています。それは、わたしたちにとっては礼拝指針を教えていることです。わたしたちの日本改革派教会には、憲法があります。ウェストミンスター信条と教会規程です。教会規程の中に『礼拝指針』があります。わたしたちの礼拝への心構えを教えています。それは、まさにわたしたちに神への畏れを学ぶように勧告しているのです。

 

コヘレトは、578節でこう述べています。「貧しい人が虐げられていることや、不正な裁き、正義の欠如などがこの国にあるのを見ても、驚くな。なぜなら 身分の高い者が、身分の高い者をかばい 更に身分の高い者が両者をかばうのだから。何にもまして国にとって益となるのは 王が耕地を大切にすること。」と。

 

コヘレトは、社会的圧迫と役人の腐敗を言っています。コヘレトは、民に対する役人の不条理を示します。役人によって貧しい者が虐げられ、不正な裁きがなされ、社会的正義は欠如しています。役人が民を搾取し、彼の上役がその上前をはねて私服を肥やしています。さらに彼の上役が彼の私服を取り上げるのです。コヘレトは、不義・不正に満ちた官僚体制を批判しています。コヘレトは、国の資本は土地であり、王が耕地を大切にすれば、民は富めると説いているのです。

 

コヘレトは、5916節でこう言います。「銀を愛する者は銀に飽くことなく 富を愛する者は収益に満足しない。これまた空しいことだ。財産が増せば それを食らう者も増す。持ち主は眺めているばかりで、何の得もない。働く者の眠りは快い 満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。富に管理が悪くて持ち主が損をしている。下手に使ってその富を失い 息子が生まれても、彼の手には何もない。人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない。これまた、大いに不幸なことだ。来た時と同じように、行かざるをえない。風を追って労苦して、何になろうか。」

 

コヘレトは、わたしたち読者に富の空しさ、人生の不条理と不名誉を説いています。コヘレトは、911節で富のみを追い求める者の空しさを指摘します。「銀を愛する者」とは、金銭を愛する者です。金の亡者に満足はありません。コヘレトは、足ることを知らない者の不幸を説いています。

 

財が増せば、それに群がる者が増えます。金の亡者は集めた富を眺めるのみです。コヘレトは、次の真理を明らかにします。人は、どんなに富を集めても、自分が使えるのはごくわずかであり、彼らが集めた富は、親族や友が食いつぶすのを見るだけで、彼には何の利益もないと。そこでコヘレトは言うのです。人の一日の労働は、良き眠りを約束するが、富める者は食べ飽きても、富のために心を煩い、夜も眠れないと。コヘレトは、これも不幸なことだと説いています。

 

51216節で、コヘレトは、この世にある大きな不幸を見した。社会的不条理であり、人にとって不名誉なことです。12節でコヘレトは、富の管理が悪くて、持ち主が損をするという不幸を述べています。どんなに富を持っても、それを管理できなければ、持ち主は富を失うことになります。13節でコヘレトは、事業に失敗し、富を失い、生まれた子に何もしてやれないという不幸を述べています。14節でコヘレトは、わたしたちのこの世の真実を述べています。人は裸で生まれ、裸で世を去り、この世で労苦して得たものを何ひとつ携えられないという不幸です。1516節でコヘレトは、人の一生涯の空しさを説いています。人は金銭に執着しても、何も死後に携えることはできないし、一生涯人は「食べることさえ闇の中」、すなわち、貧しさと悲しみの中にあり、悩みと患いと怒りが彼の生涯に尽きることがないと。

 

51719節で、コヘレトは、この世における社会的圧迫、不正義、そして不条理と不名誉を、それらの人の不幸と空しさを見て、次のように彼は理想の生活を提示します。「見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。」

 

コヘレトは、わたしたち読者に、人のこの世における人生は短く、不条理であり、労苦しても何も得られないけれど、創造主なる神が与えてくださった人生だと述べています。だから、コヘレトは、創造主がわたしたちに与えられた一日一日を生きることに満足すべきだと言うのです。

 

主イエスは弟子たちに主の祈りを教えられました。その祈りの中で主イエスは、わたしたちに「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈るように教えてくださいました。幸いなことは、この世でわたしたちが神から賜った人生において日々必要な飲み食いをし、一日労苦した結果のすべてに満足し、神に感謝することです。コヘレトは、それが幸福で良いことであり、わたしたちが神から受ける分であると教えています。

 

金、金の世界、わたしたちの欲望が尽きないこの世で、コヘレトも主イエスも、わたしたちに「足ることを知ることが、人にとって幸福である」と説かれています。コヘレトは、人は労苦して富を手に入れ、人生をそれによって楽しむことが神の賜物であると説いています。コヘレトは、神が人の心に喜びを与えられるので、人は自分の生涯の日々をくよくよと思い出さないと述べています。本当に死に際に、満足して、神に感謝し、この世を去りたいものです。

 

主イエスは、ガリラヤでコヘレトの教えを生きられました。福音宣教をし、5千人の貧しい人々を数個のパンで養い、病人を癒され、悪霊を追い出され、徴税人マタイの食卓で飲み食いを楽しまれました。お金も着る物も持たず、野の草や空の鳥のように煩うことなく、日々神の賜る物で足れるという生活をされました。異邦人のように言葉数が多ければ、神に祈りが聞かれることが誤りであることを教えられました。主イエスは弟子たちに簡潔な主の祈りを教えられました。主イエスは、父なる神に十字架の死に至るまで従順に従われました。そして主イエスは、十字架の上で「成し遂げられた」と言われて、死なれました。主イエスが求められたのは、この世の富ではなく、神の義と神の国でした。主イエスは、日々に父なる神に信頼し、神を畏れ、敬う生涯でありました。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、コヘレトの言葉第5章の御言葉を学ぶ機会を得ましたこと、感謝します。

 

この世は、創造主なる神が造られた世界ではありません。人も世界も社会も、コヘレトの目には空しく、意味がありません。

 

創造主は、人をあなたに向けて造られました。しかし、人は創造主に背を向けて、この世の富を得ることに人生を賭けています。創造主は、秩序ある世界を造ろうと、この世に王を与え、役人を置かれましたが、王は民を迫害し、役人は民を搾取しています。

 

まことにこの世は戦争があり、貧しいものを搾取し、恐ろしい犯罪があります。本当に不幸な世界です。しかし、創造主は、わたしたちに必要な糧を与えてくださり、一日の労苦で得た富で、人生を楽しむように生きる日々を与えてくださっています。

 

どうか、創造主なる神を畏れ、神の御言葉に聞き従い、神の賜わる日々の恵みを感謝し、この世を歩ませてください。

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。