ガラテヤの信徒への手紙説教11       主の2019331

 

兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりできません。ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。

 

わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし、神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。

 

では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違反を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。

 

それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。

 

信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。

 

        ガラテヤの信徒への手紙第31524

 

 

 

説教題:「律法の目的」

 

 

 

本日は、ガラテヤの信徒への手紙第31924節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

前回は、この手紙の31518節の御言葉を学びました。パウロはガラテヤの諸教会のキリスト者たちに「兄弟たちよ」と親しく呼びかけて、「分かりやすく説明しましょう」と、「人の作った遺言」を例に挙げて、神の約束の不変性を説明しました。

 

 

 

人の作った遺言」を例に挙げて説明するのは、遺言者の意志に基づくという本質が神の恵みの約束を説明するに適していたからです。

 

 

 

だから、パウロは、次のように説明したのです。神はアブラハムと恵みの契約を結ばれ、彼と彼の子孫に永遠の命を相続させると約束されました。その子孫とはキリストでした。2000年の時を経て、キリストを通してキリストに属するすべての異邦人キリスト者たちはアブラハムの約束を相続できるのであると。

 

 

 

パウロはガラテヤの諸教会のキリスト者たちに律法に対する約束の優位性を主張しました。パウロは、「わたしが言いたいのは、こうです。」と述べて、約束(契約)が律法に先行することを述べています。

 

 

 

パウロが神の恵みの約束の優位性を主張するのは、ユダヤ人キリスト者たちが後に神が神の民に与えられた律法によってアブラハムの約束が無効になったと主張していたからではありません。

 

 

 

むしろ、ユダヤ人キリスト者たちは、律法を守ることで、アブラハムの約束にあずかろうとしていたのです。神の約束と律法の両立を考えていたのです。

 

 

 

その両立こそパウロの目には、神の恵みの約束を無効にし、破棄していると見えたのです。

 

 

 

だから、パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに15節の見出しの「律法と約束」の二者択一を、18節で迫ったのです。

 

 

 

神の恵みの約束である永遠の命を相続できるのは、律法なのか、約束なのかと。

 

 

 

パウロが18節で説明するように、それが律法に由来するなら、約束に由来するものではありません。

 

 

 

唐突な言い方になりますが、ちょっとパウロの説明を聞いていて、何か違和感を覚えませんか。

 

 

 

これまでパウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに「律法の実行によってではなく、信仰によって」と主張してきました。パウロのその福音理解によれば、パウロは18節で「信仰に由来するものではありません」と説明すべきではありませんか。

 

 

 

ところが、パウロは、18節で続けて「しかし、神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。」と説明しています。ここでも「アブラハムの信仰によって」と記していないのです。

 

 

 

パウロが約束の優位性を述べていることに関係します。彼は神の恵みの優位性を、キリスト教の用語を使えば、神の主権性を強調しているのです。

 

 

 

つまり、パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに、そして、わたしたち読者に、次のことを伝えたいのです。神の恵みは、人間の働きで得られるものではないと。

 

 

 

だから、パウロは、「約束」という言葉に拘りました。御国の相続は、どこまでの神の恵みの約束であり、父なる神が永遠からキリストにあって選ばれた神の民に与えると、神の意志による決定の賜物なのです。

 

 

 

そこに人間の働きが入る余地はないのです。

 

 

 

だから、18節でパウロは、信仰ではなく、約束という言葉に拘ったのです。

 

 

 

さて、反対する者たちは、パウロに「ではなぜ神は神の民に律法を与えられたのか」と質問するのではありませんか。

 

 

 

そこでパウロは、その質問を想定して19節で律法の目的、律法の有効期限、そして、律法の制定の方法について述べています。

 

 

 

では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違反を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。

 

 

 

パウロは、律法が神の民に授けられた目的を次のように述べています。「違反を明らかにするために付け加えられたもの」。

 

 

 

律法は二義的に付加されたものです。

 

 

 

主イエスは山上の説教でこう言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ6:33)

 

 

 

パウロは律法を、神の恵みの契約(永遠の契約)に対する補足条項と見ているのです。

 

 

 

違反を明らかにする」はパウロの律法理解をよく知った上での意訳です。

 

 

 

ある注解者は、「逸脱のために」と訳して、次のように解説しています。「ここでは契約に期待される誠実さからの逸脱である」(浅野淳博『NTJ新約聖書注解』P291)と。

 

パウロは、イスラエルの人々が金の子牛を偶像礼拝した罪を念頭に置いているのです。モーセはシナイ山に登りました。そこで彼は、神より十戒の石の板二枚を授かりました。ところが、シナイ山のふもとではイスラエルの人々は金の子牛を偶像礼拝していたのです(出エジプト記32章)。

 

 

 

だから、永遠の契約における神の民の生き方を示すために、神はモーセを通して彼らに律法を授けられたのです。

 

 

 

恵みの契約は神の救いの歴史でもあります。神がモーセを通して神の民に律法を与えられたことは、神の救いの計画の一部でした。

 

 

 

神の恵みの契約、すなわち、神の救いの歴史は、キリストによって実現します。だから、パウロは「律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで」という律法の有効期限を述べているのです。律法は、キリストが来られるまでは有効なのです。要するに契約(約束)は永遠ですが、律法は一時的で、有効期限があります。

 

 

 

パウロは、律法の制定の方法を、次のように述べています。「天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。」。これは、ユダヤ教の伝承です。神は天使たちを通してイスラエルの人々に律法を与えられました。また、律法はモーセという仲介者を通して手を経て制定されました。

 

 

 

だから、パウロは、20節で次のように述べているのです。「仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。

 

」。パウロは、律法は天使や仲介者を経ているので、神の恵みの約束のように神からの直接啓示ではないと述べているのです。約束は、天使や人を経ない唯一の神の直接の御意志なのです。

 

 

 

また、律法は、イスラエルと異邦人に諸国民を分け隔てました。しかし、約束の子孫であるキリストが来られ、十字架を通してイスラエルと諸国民の隔たりを取り除かれました。これによって律法の制約は取り除かれ、約束が福音として今や世界中の人々に伝えられているのです。

 

 

 

このようにパウロが述べることを聞いたユダヤ人キリスト者たちが彼に、21節で「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。」と質問すると、彼は想定して、「決してそうではない。」と否定しています。

 

 

 

約束か、律法かと、二者択一に議論すれば、どちらかは不要となるでしょう。確かにパウロは、約束の優位性を述べてきました。

 

 

 

しかし、パウロは約束こそ神の救いの本質と理解しつつ、律法を神の民がその本筋に生きるための補足であると理解しているのです。だから、想定したユダヤ人キリスト者の「律法は神の約束に反するものなのでしょうか。」という質問に断固として否定するのです。

 

 

 

律法は、約束に取って代わることはできません。しかし、パウロにとって律法は神がイスラエルの人々に授けられたものであり、聖なるものであり、そして神の救いの計画の一部なのです。

 

 

 

パウロはその理解に立ち、律法の限界と有意義性を述べるのです。21節後半から24節前半です。

 

 

 

万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。

 

しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。

 

信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。

 

 

 

 パウロは述べています。そんなことは万に一つあり得ませんが、神が人に永遠の命を与える律法を授けられたとすれば、確実に人は律法を守ることで、キリストの救いの御業なしに救い(永遠の命)を得たことだろうと。

 

 

 

 現実は、律法は人を生かすことができませんでした。「」とは、永遠の契約における神との正しい関係のことです。それを、わたしたちは「救い」と言っているのです。律法は、この点では無力です。

 

 

 

 ところ、パウロは面白いことを述べていますね。22節です。「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。」。パウロは、すべての者を罪に閉じ込めるのは律法ではなく、「聖書」であると述べています。実際にユダヤ教の伝承によれば、神がモーセを通してシナイ山で与えられた神の律法が中心となり、旧約聖書というユダヤ教聖典が生まれました。

 

 

 

 パウロの述べている「聖書」が何を意味するか、はっきりしていません。わたしは、初代教会の人々が用いていた旧約聖書であると思います。

 

 

 

 パウロは、この手紙の後に書いたローマの信徒への手紙の3章で「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」と述べて、旧約聖書の詩編1413節の御言葉を引用しています。

 

 

 

 パウロは、それを「聖書」と呼び、聖書が全人類を皆、罪の下に閉じ込めている、すなわち、すべての人に義人は一人もいないと宣言しています。

 

 

 

だから、パウロは、22節後半で「それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。」と述べているのです。律法は人に義を与えることはできないし、すべての人は聖書によって罪に下にあると宣言されています。

 

 

 

だから、パウロは、人が頼れるのは神の約束しかないと言うのです。その約束はイエス・キリストを信頼することで、その人々に与えられると、パウロは述べています。

 

 

 

322節後半のパウロの御言葉は、314節の「それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。」という御言葉を言い換えているのです。

 

 

 

十字架の死により示されたキリストの真実(誠実)が、聖書が罪に閉じ込めたすべての人々を罪と律法から解放し、そして御自身はアブラハムの祝福、すなわち、すべての諸国民への祝福の源となられました。それゆえパウロは、言っているのです。今やこの主イエス・キリストに信頼する者はすべて、異邦人とユダヤ人たちすべてに、アブラハムの祝福の約束を与えることが実現したと。

 

 

 

23節と24節前半は、パウロが律法の目的を述べています。キリストの目的と混同しないためです。

 

 

 

23節と24節の「信仰」は、22節と同様に「信頼性」です。23節の「信仰が現れる前には」は、「信頼性が到来する前」ということです。すなわち、キリストの真実(誠実)が、あの十字架で示されたキリストの父なる神に対する真実(誠実)です。それが現れる前です。ユダヤ人も異邦人も皆、律法に監視されていました。

 

 

 

パウロは、「この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。」と述べています。「この信仰」は、22節後半のパウロの御言葉を考慮すれば、「この信頼関係」と意訳できると思います。「啓示される」とは、覆いを取り除くという意味です。キリストの十字架が現れるまでキリストとわたしたちの信頼関係は覆い隠されていました。その覆いが取り払われて、十字架によってキリストの信頼性(父なる神に従順に従われたキリストの信頼性)が永遠の神の契約の成就をなしたことが明るみに出されました。

 

 

 

それによって異邦人とユダヤ人は十字架のキリストに対する信頼のゆえに罪と律法から解放されました。

 

 

 

24節前半でパウロは、教育という例を用いて律法の目的を説明します。「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。」。

 

 

 

養育係」は、奴隷、あるいは解放奴隷の仕事でした。主人の子どもたちの通学と帰宅に付き添い、保護と監督の役割を果たしていました。それをパウロは、律法の目的の説明に用いたのです。

 

 

 

律法は、わたしたちをキリストへと導く養育係の務めをします。その目的は、24節後半です。「わたしたちが信仰によって義とされるためです。」。

 

 

 

十字架のキリストの真実(誠実)に対する信頼性によって、キリストが父なる神に従順に従われたように、わたしたちがキリストに従順に従い、永遠の契約における神との正しい関係を続けることなのです。

 

 

 

そして、この真実の実質的な姿が、わたしたちの主の日の礼拝であります。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、ガラテヤの信徒への手紙の第31924節の御言葉を学べる機会が与えられ、感謝します。

 

 

 

神の恵みの契約を学ぶことで、神の永遠の救いの計画に心向けることが許され感謝します。

 

 

 

わたしたちは、パウロの御言葉を聞くことで、聖書が神の永遠の救いのご計画を啓示するものであることを学びました。

 

 

 

その学びを通して、わたしたちが今ここで毎週の日曜日に礼拝を繰り返すごとに、わたしたちもまた、神の永遠の救いの一部であり、アブラハムの祝福の約束の相続者であることを知らされ、心より感謝します。

 

 

 

わたしたちは、アブラハム同様に神の恵みの約束、永遠の命を相続することを望み、十字架と復活のイエス・キリストに信頼して、礼拝で説教を聞き続け、聖餐の恵みにあずかり続けています。

 

 

 

どうか聖霊よ、今わたしたちはレントの季節をすごしています。十字架のキリストの受難に思いを寄せ、説教を聞くごとに、わたしたちの罪のために死なれたキリストへの信頼を確かなものとしてください。

 

 

 

イースターの伝道集会に、ひとりでも多くの方々を、わたしたちの家族を、導くことができますようにしてください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

ガラテヤの信徒への手紙説教12       主の2019年4月7

 

しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束の相続人です。

 

            ガラテヤの信徒への手紙第32529

 

 

 

説教題:「約束の相続者-キリスト者の立場」

 

 

 

本日は、ガラテヤの信徒への手紙第32529節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

25節でパウロは、次のように述べています。「しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。

 

 

 

この「信仰が現れた」は、「真実が到来した」です。その「信仰」と「真実」は十字架のキリストの出来事のことです。主イエス・キリストは御自身の十字架を通して、ユダヤ人をモーセ律法の呪いから解放されました。更に主イエス・キリストは、父なる神の御救いの御計画に沿って、異邦人たちをアブラハムの約束の祝福へと招かれ、彼らを神の子とされました。

 

 

 

だから、パウロはガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに25節でこう伝えているのです。「あなたがたはわたしの語る福音によって十字架のキリストにより罪の赦しを得、神の子とされたのだから、もう養育係としての律法の下にいる必要はないのだよ」と。

 

 

 

そこでパウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに26節で「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」と宣言しています。

 

 

 

パウロのこの宣言は、異邦人キリスト者が神の民ユダヤ人と同様に「神の子」たる立場を得、アブラハムの約束の祝福を相続できる根拠を提示しているのです。

 

 

 

パウロにとって十字架のキリストの出来事は、父なる神と御子キリストとの永遠の契約がこの世界において実現し、その救いがユダヤ人だけでなく異邦人にも及ぶという決定的な事件でした。

 

 

 

26節でパウロが言おうとしていることは、次のことです。「十字架のキリストという真実がユダヤ人たちをモーセ律法の呪いから解放し、異邦人たちをアブラハムの約束の祝福にあずからせ、神の子とした」と。

 

 

 

イエス・キリストに結ばれて」は、「イエス・キリストの中へ」「イエス・キリストにあって」というキリスト者の体験を表わす表現です。

 

 

 

だから、パウロはガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに彼らの立場が神の子であることをどのように体験したかを述べているのです。

 

 

 

パウロは「信仰により」と言っています。もっと分かりやすく言えば、「あなたがたは十字架のキリストに寄り頼むことにより、アブラハムの約束を意識すべきである。あなたがたの立場は神の子であるから」と。

 

 

 

そして、パウロは、27節で彼らがどのようにして神の子の立場を獲得したかを説明しているのです。

 

 

 

洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。

 

 

 

キリスト者の洗礼という体験を根拠に、パウロは、キリスト者がどのように神の子の立場を得たかを語ります。

 

 

 

洗礼は、わたしたちの目に見える神の恵みの手段です。「洗礼を受けてキリストに結ばれた」は意訳でして、パウロは「キリストにまで洗礼される」と述べています。

 

 

 

田中剛二先生は、パウロの「洗礼を受けて」を、「新約聖書では、特にキリストの命によってたてられた洗礼の礼典について用いられる。」と説明されています。そして、次のような意味があると述べられています。「それは、我々がキリストに結合されたこと、契約の恩恵にあずかること、キリストのものとされたことを印章する礼典である」(『ガラテヤ書講義』田中剛二著作集 第三巻 P243)

 

 

 

わたしたちは、洗礼を受けてキリストとの新しい命の関係に入れられたのです。それを、パウロは「キリストを着た」と表現しています。

 

 

 

本来神の子でない異邦人キリスト者たちが洗礼を受けてキリストという衣服を着て、神より罪も汚れもない神の子と宣言されるのです。

 

 

 

後にパウロは、この手紙の46節で、キリスト者の洗礼と神の子の立場を結び付けるのが聖霊であることを言及しています。

 

 

 

改革派教会の洗礼のやり方は頭に水を垂らすという滴礼です。教派によって洗礼のやり方が異なります。洗礼者ヨハネのように川に洗礼者の身を沈めるやり方もあります。

 

 

 

パウロは、キリスト者が神の子であるという立場が、神が「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かりますと言っています。

 

 

 

ある学者が興味深いことを述べています。パウロがガラテヤの諸教会で異邦人たちに洗礼を授けたのではないか。その時洗礼は浸礼でなされ、水から出た時に洗礼を受けた者が歓喜の叫びを上げた。それが「アッバ、父よ」という言葉だったと。そこからパウロは洗礼と神の子の立場を結び付けたのではないかというものです(浅野淳博『NTJ 新約聖書注解 ガラテヤ書簡』日本キリスト教団出版局 P310311)

 

 

 

興味深い見解ですが、想像の域をでません。

 

 

 

大切なことは、28節のパウロの御言葉です。洗礼がガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちを、キリストにあって一つとしました。

 

 

 

それを根拠にパウロは、この世におけるあらゆる差別を退けています。十字架のキリストに寄り頼み、洗礼を受けたてキリストと結ばれたキリスト者の立場は神の子というものだけです。この世に存在する貧富の差、男女の差、身分の差、人種の差はありません。皆、キリストにあって神の子なのです。そして、皆、アブラハムの約束の相続者なのです。

 

 

 

そして、教会には民族的立場、社会的立場、性的立場は存在せず、キリスト者は皆神の子であるという立場があるだけです。この事実を洗礼が象徴しているのです。ユダヤ人が強制した割礼は、男子だけでした。女子はありませんでした。

 

 

 

洗礼によって表された「男も女もない」とは、本来の旧約聖書の創世記127節の御言葉の回復であります。

 

 

 

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

 

 

 

パウロは、神が「男と女に創造された」という創造の秩序を否定しているのではありません。人間の罪と堕落によって歪められた男が女を支配するという関係を否定しているのです。男も女も等しく創造者と対話し、応答できる者として創造されました。神は女を男が人間として生きるためのパートナーとして創造されました。だから、男女が父母と離れ、一人の人間となり、互いが補い合って、創造者なる神の栄光を表わし、「産めよ、増えよ」と祝された神の祝福の豊かさに生きることを願われたのです。

 

 

 

2021世紀になり、今や、家庭も学校も会社も、そして地域社会、そして世界中で男女の間にある性差の垣根を撤廃しようとしています。その動きに、教会も敏感に応じるべきでしょう。

 

 

 

パウロは、洗礼をそのしるしと見たのです。教会の洗礼が男女の性差を、社会層の差別を、そして人種差別を取り除くしるしだと見たのです。それは、パウロの語る福音そのものでした。キリストの十字架がすべての敵意の垣根を退けたのです。

 

 

 

キリストの十字架によって、異邦人は贖われて、キリストのものとなりました。パウロはアブラハムの約束がキリストに与えられたと述べていました(316)ので、29節で彼はキリストのものとされた異邦人キリスト者たちはアブラハムの子孫であり、彼の約束の相続者であると述べているのです。

 

 

 

今朝はここまでにしたいと思います。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、ガラテヤの信徒への手紙の第32529節の御言葉を学べる機会が与えられ、感謝します。

 

 

 

ガラテヤの信徒への手紙を、1節ずつを学んでいますが、どうか忍耐して学ばせてください。

 

 

 

神の恵みの契約を学ばせてください。父なる神と御子キリストの永遠の契約に基づいて、神は永遠の救いの計画を立てられ、キリストによって実行し、実現され、今わたしたちの教会の宣教を通して完成へと導かれています。

 

 

 

どうか、わたしたちがパウロの御言葉を聞くことで、わたしたちの礼拝、活動、奉仕等が神の永遠の救いのご計画の一部であることを信じさせてください。

 

 

 

今朝のその学びを通して、わたしたちもキリストの十字架によって贖われ、キリストのものとされたアブラハムの子孫であり、神の子であり、天の御国の相続人であることを信じさせてください。

 

 

 

わたしたちは、今朝、御言葉と共に聖餐の恵みにあずかります。キリストはアブラハムの時代に、ダビデや預言者たちの時代におられ、使徒たちの時代におられ、今朝もわたしたちと共にいてくださっていることを信じて、キリストとにある喜びにあずからせてください。

 

 

 

次週より受難週に入ります。キリストの受難の1週間を共に歩ませてください。421日のイースターには心から喜び、主はよみがえられたと告白し、兄弟姉妹と共に喜び祝わせてください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

ガラテヤの信徒への手紙説教13       主の2019年4月14

 

つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わることがなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。

 

ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神ではない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたはいろいろな日、月、時節、年などを魔負っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなた方のことが心配です。

 

            ガラテヤの信徒への手紙第4111

 

 

 

説教題:「律法の下に生まれたキリスト」

 

 

 

本日より受難週が始まります。受難週とは、主イエスが受けられた最後の一週間の御苦しみをたどり瞑想することです。

 

 

 

主イエスの最後の一週間の御苦しみは、新約聖書の4つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書が詳細に記しています。

 

 

 

今年は、その中でマルコによる福音書から主イエスの最後の一週間の御受難をたどりましょう。先週と今日の週報の報告欄に記載しています。

 

 

 

今日の日曜日から土曜日まで、曜日ごとに聖書箇所を記していますので、それに沿ってマルコによる福音書をお読みください。本日の日曜日に主イエスが王としてエルサレムに入城され、金曜日に十字架で死なれて、葬られます。そして土曜日は使徒言行録の2章のペトロの説教を読み、次の日のイースターに備えたいと思います。

 

 

 

今朝はガラテヤの信徒への手紙第4111節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

321節に「奴隷ではなく神の子である」という見出しがありますね。パウロは、このテーマで411節まで語っているのです。

 

 

 

「奴隷」は律法に関係します。「神の子」は約束に関係します。

 

 

 

律法の役割を、パウロは324節、25節で「養育係」であると記しています。律法は神の救いの計画の一部として、人間を罪に閉じ込めてキリストに導くに有益なものです。だから、パウロは、323節で「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され」と述べ、324節で「こうして律法は、わたしたちをキリストの下に導く養育係となったのです」と述べています。

 

 

 

この「信仰が現れる前」の「信仰」は、キリストです。キリストの十字架の出来事です。パウロは、それによって32627節と29節で神の契約、すなわち、神の救いの計画が成就し、洗礼によってキリストに結ばれた異邦人たちはアブラハムの子孫となり、御国を相続する神の子とされたと述べました。

 

 

 

パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに、そして、わたしたち読者にこう宣言したのです。キリストがこの世に現れ、あの十字架のキリストという客観的な信頼を拠り所にして、人間は律法という養育係の支配から解放され、御国を相続する神の子とされたと。

 

 

 

そして、パウロは41節で「つまり、こういうことです。」と述べて、彼は遺産相続人の境遇を例に挙げて、次のように述べています。「相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わることがなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。(12)

 

 

 

相続人は全財産の所有者、すべてのものの主人です。しかし、彼が未成年であれば、すなわち、父から子へと家長権が移行していなければ、奴隷と変わりありません。また彼の父は家長権が移行する期日まで彼を後見人や管理人の監督下に置くでしょう。

 

 

 

そこでパウロは、それを御国の相続人であるキリスト者に応用して、「同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。(3)と述べています。

 

 

 

パウロは、何を言いたいのでしょうか。キリストの到来の前のガラテヤの諸教会のキリスト者たちの状態を述べているのです。彼らにとって、「信仰の現れ」であるキリストは、パウロが告げ知らせた福音のキリストです。彼が彼らに説教した十字架にかけられたキリストです。だから、パウロは彼らに「わたしがあなたがたにキリストの福音を告げ知らせる前は、わたしたちはこの世を支配する諸霊、すなわち、この世の神々に奴隷として仕えている状態にあった」と述べているのです。

 

 

 

わたしたちも同じです。この諏訪地方を支配する諸霊に支配されていたのです。この世の神々に奴隷として仕えていたのです。

 

 

 

しかし、パウロは、次のように「信仰の現れ」を告げています。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。(45)

 

 

 

パウロは、キリストの到来という歴史的出来事を、「時が満ちると」と表現しています。

 

 

 

満ちる」とは、コップに水が満たされて、一杯になり、溢れる状態です。それをユダヤ人たちは、捕囚からの解放の日にたとえました。外典のトビト記145節でこう記しています。「しかし、神は再び彼らを憐れみ、イスラエルの地に連れ帰り、ご自分の家を再建される、しかし、再建されても、定められた時が満ちるまでは、元どおりにはならない」(聖書協会共同訳 旧約聖書続編付き 続編P24)

 

 

 

以上からここでパウロが言おうとしていることは、こうです。「神が定められ、御計画された救いの日が来ました。神は御自分の意志に従って永遠から存在されていた御子なる神を、人間として生まれさせ、しかも、ユダヤ人として生まれさせ、ユダヤ人を通して異邦人にアブラハムの約束の祝福にあずからせるために、この世にお遣わしになりました。その目的は、キリストが十字架で神の呪いとなられて、律法の支配下で奴隷状態にある彼らを買い取り、彼らに神の子の身分を与えるためでした」。

 

 

 

その結果、キリストの十字架の贖いのゆえにガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちは、神と養子縁組を結び神の子とされました。パウロは67節で、こう述べています。「あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。

 

 

 

彼らは、327節の御言葉と深く関係しています。洗礼が彼らを神の子であるというしるしとなりました。そこで彼らは、神を「アッパ」と呼ぶ御子霊、すなわち、聖霊を授かりました。

 

 

 

パウロは聖霊を、「御子の霊」と述べていますね。キリスト者たちが、神の契約の祝福の中で、神との養子縁組を結び、長子であるキリストにつながる神の子であるからです。聖霊は、キリスト者の立場を保証しています。

 

 

 

パウロは、ここでキリスト者の聖霊体験を規定しています。聖霊が御子の霊であるならば、その霊を授けられたキリスト者は、他者に仕えるキリストの姿を映し出す者となるということです。だから、聖霊を受けたキリスト者は、パウロがこの手紙でこう述べていることを動機づけにして生きているのです。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(320)

 

 

 

パウロは、教会における聖霊体験を、ここで述べています。それは、パウロの福音宣教を通して与えられたものです。パウロはキリストの十字架の説教が語りました。それを聞いたガラテヤの諸教会のキリスト者たちは、彼が福音として提供した十字架のキリストを信じました。そして、彼らは洗礼を受けました。その時に彼らの心の中に「アッパ、父よ」と叫ぶ御子の霊が送られました。

 

 

 

それが彼らの生きる動機づけとなりました。彼らは教えられなくても、キリストが「互いに愛し合いなさい」と命じられた御言葉に常に動機づけられて、教会生活をしたでしょう。キリストのように他者に仕える者となろうという動機づけによって、自分のためではなく、キリストのために生きようとしたでしょう。

 

 

 

この世の欲望の奴隷になるのではなく、御国を相続する者として、御国に宝を積む、キリストのために生きる者となろうではありませんか。そのために永遠の神の御子は、人間となり、ユダヤ人となり、そして、わたしたちをこの世の奴隷状態から救い、神の子とするためにこの世に来てくださり、十字架の受難の道を歩まれたのですから。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、ガラテヤの信徒への手紙の第4章17節の御言葉を学べる機会が与えられ、感謝します。

 

 

 

本日より受難週を過ごします。主イエスが王としてエルサレムに入城され、十字架で死なれて、葬られるまでの1週間の御受難を瞑想しつつ、日々を歩ませてください。

 

 

 

どうかわたしたちの心に送られた御子の霊によって、わたしたちがキリストの十字架によってこの世を支配する諸霊の奴隷状態から贖われて、神の子とされた恵みを確信させてください。

 

 

 

聖霊の導きにより神の子として日々歩ませてください。「互いに愛し合いなさい」という主イエスのお言葉が常に教会生活の動機づけとなるようにしてください。キリストが常に他者に仕えられたことが常にわたしたちの日常生活の動機づけとなり、生きることはキリストという歩みをなさせてください。

 

 

 

次週はイースター伝道集会です。案内チラシ、新聞広告、ホームページのイースターの案内をお用い下さり、多くの方々をお集めください。

 

 

 

イースターを心から喜び、主はよみがえられたと高らかに賛美させてください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

ガラテヤの信徒への手紙説教14       主の201955

 

ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神ではない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたはいろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。

 

            ガラテヤの信徒への手紙第4811

 

 

 

説教題:「パウロの心配」

 

ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちは、転落の危機にありました。それを、パウロは「かつて」と「今」という時間で示そうとしています。

 

 

 

パウロは8節でこう言います。「あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神ではない神々に奴隷として仕えていました。」。

 

 

 

ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちは、かつて聖書の神を知りませんでした。彼らが無宗教、無神論者であったということではありません。この世の神々に支配されていたのです。真の神でないものを神として拝み、依り頼んでいました。彼らは自分たちの運命を星占いする者に、魔術師に、神殿の祭司たちに委ねて、神々である諸霊の奴隷となっていました。

 

 

 

 しかし、「今」、「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。(ガラテヤ4:56)

 

 

 

イエス・キリストがこの世界に到来されました。その出来事の良き知らせを、今パウロは福音宣教を通して、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに伝えました。パウロの伝えた福音のキリストが彼らの人生を根底から方向転換させたのです。神々の奴隷から神の子の身分へと。そして、彼らに自由を与えました。

 

 

 

 パウロはガラテヤ諸教会の異邦人キリスト者たちに9節でこう述べています。「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」。

 

 

 

 ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちは、パウロの福音宣教を通して真の神を知るようになりました。御子キリストによって、御子をこの世に遣わされた神を知るようになりました。異邦人たちの祝福の基となったアブラハムの神を、恵みの契約の神を知るようになりました。

 

 

 

 「神から知られている」とは、神から選ばれているという意味です。神は、恩寵によってガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちを永遠の命に選ばれたのです。彼らがパウロの福音宣教を通して真の神を知る前に、神が彼らを知り、キリストにあって永遠の命に選ばれていたのです。

 

 

 

神は彼らを救うためにアブラハムを選ばれました。神はアブラハムと恵みの契約を結ばれて、彼の神となられ、彼を神の民とされました。そして、神は彼に子孫を約束されました。パウロは、「この『子孫』とはキリストのことです(ガラテヤ3:16)と述べています。

 

 

 

神は約束のキリストを、異邦人たちのメシアとし、この世にお遣わしになりました。キリストは御自身において神が選ばれた民たちを救うために十字架に死なれて、彼らを罪と死から贖われました。それによってガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちは、キリストの血によって神の子とされ、キリストがその長子として継がれた御国の共同の相続人とされました。

 

 

 

 パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに今の祝福を述べた後に、こう述べています。「なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。(9節後半)

 

 

 

 パウロは彼らに「なぜ」と尋ねています。田中剛二牧師は、こう言われています。「パウロがここに疑問文を用いたのは、彼がなお彼らの福音への帰来を切望する強い熱意をあらわし、彼らにその機会を備える深い心遣いからである」(『ガラテヤ書講義』P263)と。

 

 

 

あの無力で頼りにならない支配する諸霊」は、文字通りに読めば、「弱くて貧しい諸元素」です。ガラテヤ書の43節で「世を支配する諸霊」とあるのと同じ言葉で、「世の諸元素」のことです。

 

 

 

 ギリシア人たちは、世界を構成し、司る諸元素を探求しました。それは、哲学において基本原理を意味しました。例えば火と空気と水と地の4つの諸元素で世界が構成され、支配されていると考えました。

 

 

 

パウロは、「基本原理」を意味する「諸元素」という言葉を用いてガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちがかつて神々の奴隷になっていたことを表現しようとしました。

 

 

 

すなわち、ユダヤ人たちは律法の奴隷になっており、異邦人たちは基本原理である神々の奴隷になっていました。だから、キリストはユダヤ人たちを律法の支配下から贖われ、異邦人たちをこの世を構成し司ると信じられる諸元素、すなわち神々の支配下から贖われたのです。

 

 

 

外典、すなわち、新共同訳聖書は「旧約聖書続編」と呼んでいます。このユダヤ教の書物の中に「知恵の書」があります。その書の1312節で知恵者がこう述べています。「神を知るに至らなかった人々は皆 生来空しい者である。彼らは目に見えるよいものを通しても 存在そのものである方を知ることができず その御業に目を向けながらも 作者を知るに至らなかった。彼らは火や風や素早く動く空気 星々を動かす天球や激しく流れる水 天において光り輝くものなどを 宇宙の支配者、神々とみなした。」

 

 

 

パウロはこの「知恵の書」を読んでいたでしょう。だから、彼は異邦人たちの世界観をよく知っていたでしょう。

 

 

 

つまり、パウロは、次のことを知っていたのです。異邦人が信じる諸元素、すなわち、宇宙の支配者、神々は命のない弱いものであり、豊かさと力のない貧しいものであり、死に勝利された命の君、キリストとその御力にとても比較できないと。

 

 

 

「知恵の書」の知恵者に言わせると、偶像崇拝は命と健康と豊かさを求めて、その命と健康と豊かさから程遠いものに寄り頼む人間の愚かさだそうです。

 

 

 

パウロは、この知恵者の見解に立っています。彼はガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちが割礼を受けて律法やユダヤ人たちの習慣を守ろうとすることの愚かさを述べているのです。それは、彼らが昔神々の奴隷になっていたことと変わらないと。

 

 

 

パウロは10節でこう述べています。「あなたがたはいろいろな日、月、時節、年などを守っています」。これは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちがユダヤ教の律法を遵守しているというパウロの表現です。彼らは、ユダヤ教の暦に則り祭儀への参加をはじめとする律法を遵守していたでしょう。

 

 

 

」は安息日、断食日、祭です。「」は毎月の第一日に燔祭を主にささげることです。「時節」は過越、ペンテコステ、仮庵の祭です。「」は聖年のことです。7年、50年ごとの祭です。

 

 

 

このようにガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちは、昔は神々の奴隷となり、今はユダヤ律法の奴隷となり、全く世の無力な教えの奴隷に逆戻りしていたのです。

 

 

 

それゆえにパウロは、彼がガラテヤ諸教会のキリスト者たちに福音宣教した実りが無駄になることを、彼らのために心配すると言うのです。

 

 

 

パウロは11節で、こう言います。「あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。

 

 

 

パウロの福音宣教は「苦労」でした。パウロは、よく彼の福音宣教を労苦したと述べています。

 

 

 

その労苦が、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちが割礼を受けて律法を守り、ユダヤ人になろうとすることで、無駄になろうとしているのです。

 

 

 

これは、ガラテヤの諸教会だけの問題ではありません。パウロの異邦人伝道そのものが無駄になろうとしているのです。すべての異邦人教会にこの災いが広がるからです。伝染病のように広がります。神の恩寵によって救われた異邦人たちが、逆戻りして律法の奴隷になり、滅びるという結果を生み出すのです。

 

 

 

パウロは、自分の異邦人伝道が無駄になることよりも、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者が滅びることを恐れると言うのです。

 

 

 

あなたがたのことが心配です」は、文字通りに読めば、「あなたがたを恐れている」です。パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちがパウロの福音宣教からそれて行って、魂の滅びへと向かっていることを心配しているのです。

 

 

 

パウロにはガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちへの失望感があったでしょう。ガラテヤ諸教会の問題が他の異邦人キリスト者たちの教会に飛び火すれば大変だ、気をもむ思いだったでしょう。

 

 

 

しかし、それ以上にそれがまるでキリストの苦しみとして、パウロの身体の痛みとなりました。パウロはフィリピの信徒への手紙129節でこう述べています。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられています。

 

 

 

パウロはその「キリストのために苦しむこと」を根拠として「あなたがたのことが心配です」と述べているのです。そして、パウロは彼らがパウロの宣教したあの状態に戻ってくれるようにと説得しているのです。

 

 

 

わたしたちは異教の国日本で、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちと同じ立場にあります。神の恩寵とこの世の神々の支配から解放されて、キリスト者の自由の恵みを得たことを忘れて、再びこの世の神々の奴隷に逆戻りする危険があるのではないでしょうか。

 

 

 

お金という魔物に人々は支配されています。お金があれば、命も健康も名誉も地位も得られると多くの人々は思っています。しかし、主イエスは、わたしたちに警告されます。キリストの十字架の血で買い取られた教会は神と富という二人の主人に兼ね仕えることはできません。キリスト者はキリストの所有であり、キリストの僕だからです。

 

 

 

さらにわたしたちは、自分たちの中に信仰のつまずきを持っています。それは、自己実現という誘惑です。自分勝手にキリスト者はこうあるべきであると考えて、こうしなければならないと思い、精一杯努力することです。自分でキリスト者の理想像を作り、それに自分の行動を合わせ、その理想を実現しようとすることです。見た目は熱心なキリスト者です。しかし、神の恩寵の下にすべてをキリストに委ねて生きることからほど遠くなります。常にガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者のように何でも守ることが大切になります。決まり事を破れば、自分も隣人も裁きの対象になります。

 

 

 

教会の中で大切なことは何かを守ることではなく、互いに愛し、赦し合うことです。その交わりの中にこそキリストがいらっしゃるのです。

 

 

 

讃美歌の511番の1番に、こうありますね。「みゆるしあらずば ほろぶべきこの身 わが主よ、あわれみ すくいたまえ。 イエスきみよ、このままに、我をこのままに 救い給え」

 

 

 

神は、今あるわたしたちのまま、罪に滅びようとしているわたしたちを恩寵によって救ってくださいました。それは、福音宣教という神の愚かさによる救いでした。神の御子キリストが十字架で死なれて、神の呪いとなられたのです。教会はキリストの血で建てられたのです。キリストの御苦しみで建てられたのです。キリストがわたしたちの罪のために死なれた故に、そしてわたしたちの永遠の命の保証として復活された故に、今ここに上諏訪湖畔教会が存在し、わたしたちが今ここで礼拝をし、神の御言葉を聞き、そしてこれから聖餐の恵みにあずかることができるのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、ガラテヤの信徒への手紙の第4章811節の御言葉を学べる機会が与えられ、感謝します。

 

 

 

福音宣教を通してキリストの救いを伝えようとするパウロの溢れる心情に、わたしたちの心が揺さぶられ、わたしたちもこの諏訪の地の人々に、伊那や松本、安曇野の人々に、キリストの福音を伝えさせてください。

 

 

 

わたしたちが福音宣教を通して与えられた神の恵みからそれることのないようにしてください。

 

 

 

キリストの十字架の血によって贖われたわたしたちの教会がこの世の誘惑に、また異端に惑わされることなく、キリストへの信仰のみによって歩めるようにしてください。

 

 

 

兄弟姉妹として互いに愛し合い、喜ぶ者と共に喜び、泣く人と共に泣き、躓く者があれば、心から心配し、キリストの体なる教会を形成できるようにしてください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

ガラテヤの信徒への手紙説教15       主の2019512

 

わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました。あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。

 

わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。

 

            ガラテヤの信徒への手紙第41220

 

 

 

説教題:「キリストが形づくられるまで」

 

ガラテヤの信徒への手紙第4820節の御言葉は、パウロがガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちを心配し、彼らのことで途方に暮れている様子を述べています。

 

 

 

先週は4811節の御言葉を学びました。パウロは、ガラテヤ諸教会の異邦人キリスト者への福音宣教の労苦が無駄になったのではないかと、彼らのために心配しました。なぜなら彼らは、キリストへの信仰によって神々の奴隷から解放されて自由の身を得たのに、再び割礼を受けてユダヤ人なり、律法の奴隷になろうとしているからです。

 

 

 

パウロは、今自分の働きが実り無いものになろうとしているという憤りよりも、これからガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちがどうなるのかという心配したのです。

 

 

 

さて、41220節でパウロは身体的な痛みがガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちへの福音宣教につながったことを述べています。そして、パウロは、過去においてガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちがどんなにパウロを愛し、パウロの福音宣教を通して祝福されていたかを彼らに思い起こさせて、彼らの心に訴えています。

 

 

 

パウロの御言葉に耳を傾けてみましょう。

 

 

 

パウロの御言葉は、12節と19節の御言葉が一枚の絵の額になっています。その額は12節の使徒パウロに倣うことと19節のキリストの倣うことです。その額の中には、二つのテーマが一つになった絵が収められています。二つのテーマとは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちが病の使徒パウロを受け入れてくれたこと、パウロの反対者に惑わされ彼らが彼の敵となったことです。

 

 

 

それからパウロはガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちを、12節で「兄弟たち」と呼びかけ、19節で「わたしの子どもたち」と呼びかけています。

 

 

 

兄弟たち」は、キリストの共同体のことです。パウロは「キリスト教会の兄弟姉妹の皆さん」と呼びかけているのです。「わたしの子供たち」は、パウロの福音宣教を通してキリスト者になった者たちを、パウロが親子関係にたとえているのです。

 

 

 

パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに一つのことをお願いしています。「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。(12)

 

 

 

ユダヤ人であるパウロは、異邦人のように生活し、彼らと食事を共にして交わり、異邦人の使徒として彼らに福音宣教を通してキリストを伝えました。それゆえにパウロは同胞のユダヤ人から迫害を受けました。それによってパウロはキリストの御苦しみに倣いました。

 

 

 

パウロはガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに、こう願ったのです。「兄弟たち、どうか割礼を受けてユダヤ人となり、律法を守り、その奴隷とならないでください。わたしが同胞に迫害され、耐えるように、あなたがたも同胞に迫害されても耐えて、わたしと共にキリストの御苦しみに倣ってください。」と。

 

 

 

続けて、12節の後半でパウロは、「あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。」と述べて、1315節でパウロはガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちとの過去における純粋な絆を思い起こさせています。

 

 

 

知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました。あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。(1315)

 

 

 

彼らは、パウロが最初に彼らに福音宣教をしたとき、彼を迫害しませんでした。むしろ、パウロを受け入れ、彼が福音宣教を通して語るキリストを、彼らの救い主として受け入れてくれたのです。

 

 

 

そこでパウロは、彼らに彼を受け入れてくれたことを再確認しようと、1315節の御言葉を述べているのです。

 

 

 

13節の「知ってのとおり」は、文字通りには「あなたがたは知っている」です。パウロが彼らに事実確認をしているのです。

 

 

 

その後でパウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに福音宣教した内容を述べています。「この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。(13)

 

 

 

パウロは病気になり、それによってガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに福音宣教する機会を得たのです。パウロは病名を述べていません。

 

 

 

体が弱くなった」は「肉の弱さを通して」です。身体的な弱さを示す言葉です。新共同訳聖書は「体が弱くなった」と意訳したのです。一つの推測として、パウロたちが小アジアのパンフィリア地方の湿地で福音宣教したときに、パウロがマラリアを患い、その静養のためにピシディア地方の涼しい高地にやって来て、彼らに福音宣教したと考えられています。

 

 

 

だから、普通は歓迎されない客であり、厄介者です。ところが、パウロは思いもかけない神の恵みを経験するのです。

 

 

 

そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました。(14)

 

 

 

パウロの病気はガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに試練となるものでした。

 

 

 

試練」は二つの意味があります。第一に良い結果が期待される試みです。第二に悪い結果へと導く誘惑です。ここでは第一の意味です。

 

 

 

ガラテヤの諸教会のキリスト者たちは病気のパウロの訪問を、第一の意味で受け入れました。だから、彼らはパウロを「さげすんだり、忌み嫌ったりせず」、「かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました。

 

 

 

さげすんだり、忌み嫌ったりせず」とは、パウロを厄介者と見なかったという意味です。パウロの病気が感染病であれば、厄病神がやって来たことになります。石をもって、その地から追い出されても当然だと、パウロは思っていたでしょう。

 

 

 

ところが、彼らのパウロへの応対は、パウロには驚きだったのです。彼らは、パウロを「神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました。

 

 

 

彼らは、パウロの語る福音を聞いて、パウロを神の使いと信じました。イエス・キリストのように、彼らはパウロを受け入れました。

 

 

 

それは、今なら、こう理解できるのではありませんか。パウロは、彼らに十字架のキリストを伝えたのです。それを聞いた彼らは、聖霊によって、こう理解したのです。キリストの十字架の苦しみが彼らに神の罪の赦しという祝福を与えたと。

 

 

 

それだけではありません。キリストの福音のために体を弱めているパウロの内に受難のキリストが生きておられると、彼らは信じたのです(ガラテヤ2:20)

 

 

 

だから、彼らは、パウロを通して彼らの幸福を味わったのです。受難のキリストと共に生きているという幸福です。

 

 

 

あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。(15)

 

 

 

あなたがたが味わっていた幸福」とは、恵みの契約の祝福のことです。彼らは、パウロの福音宣教を通して、約束の相続者である神の子の祝福を得たのです。

 

 

 

ところが、パウロは、こう述べています。「あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。

 

 

 

彼らは、パウロが語るキリストの福音を聞いて、無上の喜びを味わいました。ところが、パウロに反対するユダヤ人キリスト者たちがやって来て、彼らに割礼を勧め、律法を守るように強制しました。それによって彼らは、福音を聞くことで味わっていた彼らの幸福を見失ってしまったのです。

 

 

 

十字架のキリストによって、彼らは神から罪を赦され、アブラハムの約束の相続者である神の子となった祝福を見失ったのです。

 

 

 

これは、わたしたちも経験がありますね。わたしたちは、礼拝で説教を聞きました。そして、聖霊がわたしたちにキリストの十字架がわたしたちの罪の身代わりであり、キリストの御苦しみによって、神はわたしたちの罪を赦し、わたしたちと和解され、わたしたちを神の子としてくださったことを理解させてくださいます。その時わたしたちは、心から感激しました。

 

 

 

ところが、日が経つにつれ、年を経るにつけ、いつの間にか、わたしたちは礼拝を守らなければ、熱心に奉仕しなければと、あれこれと、心に強制し、いつの間にか、十字架のキリストの御言葉を聞いた喜びを忘れ去っているのではないでしょうか。

 

 

 

パウロは、15節後半でこう言っています。「あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。

 

 

 

パウロの「あなたがたのために証言します」という表現は、パウロがこの手紙で今記述している内容は真実ですということを表現する常套句です。

 

 

 

その真実性とは、「あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとした」ということです。目は人にとって最も重要な器官です。実際に彼らが自分の目を取り出して、パウロに与えることは不可能でしょう。田中剛二牧師は、「可能ならば眼をえぐって与えるという表現は、並ならぬ強い愛を示す。」と述べられています。

 

 

 

パウロは、彼らがどんなにパウロを強く愛していたかと証しているのです。そして田中牧師は、次のようにカルヴァンの言葉を引用されています。「牧師は会衆から尊敬されるというだけでは足りない。彼らはまた愛されねばならない。彼らが説教する教理が十分に喜び味わるためんは、会衆の彼らに対する尊敬と愛とが必要である。パウロはこの二つながらガラテヤ人の間にはかつて在ったと言明する。前に彼は彼らの彼に対する尊敬について語り、今ここで彼らの彼に対する愛について語っているのである。」

 

 

 

1618節でパウロは、彼の敵対者たちの惑わしについて述べています。

 

 

 

まずパウロは、16節でこう述べています。「すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。

 

 

 

パウロが疑問文で述べていますのは、ガラテヤの諸教会のキリスト者たちがパウロの敵となっている今の状態を受け入れがたく思っているからです。パウロの気持ちの中に、彼らがパウロの福音を聞いて信仰の喜びにあずかったあの頃に戻ってほしいという思いがあるのでしょう。

 

 

 

16節のパウロが「真理を語った」と言っている内容はなんでしょうか。わたしは、恵みの契約だと思います。パウロは、十字架と復活のキリストの福音を語ることで、神の契約を成就するキリストの信頼性が、ユダヤ人たちだけでなく、異邦人たちにもアブラハムの祝福をもたらすことを伝えました。

 

 

 

あなたがたの敵となったのですか。」は、この「」という言葉は、パウロの反対者たちが使っていた言葉を、彼が用いているのです。その言葉を用いてパウロは彼らに次のように諭しているのです。

 

 

 

「あなたがたは割礼と律法を守ることを勧める者たちの教えに耳を傾けて、真理を語るわたしと敵対関係になることを望んでいるのか、わたしは望みたくない」と。

 

 

 

そこでパウロに反対する者たちの動機の良からぬことを、パウロは明言するのです。「あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。(17)

 

 

 

 パウロの反対者たちの熱心、熱意というものは、良からぬ動機から出ていると、パウロは述べています。その反対者たちの良からぬ動機とは、「自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです」ということです。

 

 

 

引き離したい」とは、原文にはありませんが、「パウロから」、「キリストから」、「パウロの語る福音から」ということが考えられます。

 

 

 

引き離したい」とは、「あなたがたを締め出したい」という意味です。エルサレムの都は城壁に囲まれ、城門が閉じられると、中に入れない状態になります。そのイメージでパウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに割礼と律法を守るように教えるユダヤ人キリスト者たちを警戒するように促しているのです。

 

 

 

彼らが割礼を強制されて受け、律法を守るように強制されるならば、神の祝福を得るどころか、恵みの契約から締め出されてしまうと、パウロは述べているのです。

 

 

 

パウロの敵対者たちが求めているのはキリストではありません。ガラテヤの諸教会のキリスト者たちがパウロを締め出して、彼らを熱心に求めさせることでした。

 

 

 

パウロの反対者たちの良からぬ動機とは異なりパウロの動機は不変であることを、パウロは18節で強調しています。

 

 

 

わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。

 

 

 

パウロは、良い動機で、正しい理由で慕われるのはよいことですと述べています。今、パウロはガラテヤの諸教会におりません。パウロが彼らと共に居ても、居なくても、彼らが常にキリストに結ばれて生きているのであれば、心からキリストを慕って生きているのであれば、それは良いことであると、パウロは述べています。

 

 

 

1920節でパウロは、自分の悩みを述べています。

 

 

 

パウロは、母がわが子のために悩み苦しむように、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちのために悩み苦しんでいると述べています。

 

 

 

わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。

 

 

 

パウロにとってガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちは、「わたしの子供たち」です。彼の福音宣教を通して彼らはキリスト者となりました。だから、パウロは彼らの母でありました。

 

 

 

母であるパウロの願いは、「キリストがあなたがたの内に形づくられる」ことです。これは、キリスト者の聖化の道が言われています。わたしたちキリスト者が御子キリストに似た者になるように日々成長していくことです。わたしたちがキリストに全く支配され、キリストの御心に一致して生きることが実現することです。

 

 

 

そのためにパウロは、妊婦の産みの苦しみをすると述べています。

 

 

 

そしてパウロは、その苦しみをキリストの苦しみに重ね合わせているのです。キリストは受難という苦しみを通してキリストの教会を生み出されました。パウロは福音宣教を通して異邦人教会を生み出しました。そして、それに続くようにキリスト教会は福音宣教を通して世界中に次々と教会を生み出しているのです。

 

 

 

そして教会は福音宣教を通して迫害や異端から苦しみを受けながら、生み出した教会を、わが子として母のように子育てしているのです。

 

 

 

わが子が身近にいれば、母は途方に暮れることはありません。子が遠くに離れ、混乱した状態の中に置かれているのです。すぐにでも行って元気づけたいと思う母親のやるせない気持ちを、パウロは20節で、次のように述べています。

 

 

 

できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。

 

 

 

 今度ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちを訪れるときには、パウロは母親のようにやさしく彼らに語りたいと願っています。

 

 

 

パウロのように教会員、信徒のために途方にくれない牧師はおりません。どのように語ればよいのでしょう。どのように慰めればよいのでしょう。どのように教えればよいのでしょう。どのように忠告をすればよいのでしょう。教会員が異端に捕らえられ、教会から離れて信仰を失い、そこからもう一度取り戻すために。

 

 

 

これらは今でも続いている伝道と教会形成の中でわたしたちがキリストのために苦しんでいることです。そしてこの苦しみに立つ限り、わたしたちに神の御言葉と礼典は欠かせません。わたしたちには御国があるということこそこの世において苦しむ教会とキリスト者の希望であるからです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、ガラテヤの信徒への手紙の第4章1220節の御言葉を学べる機会が与えられ、感謝します。

 

 

 

今朝の御言葉を通して、わたしたちにキリストの受難、そして、パウロの苦しみ、教会の苦しみを瞑想させてください。

 

 

 

この罪の世にあって、神とキリストに敵対したこの世にあって、キリストはわたしたちに聖霊を遣わされて、わたしたちの福音宣教を通して教会を産み出してくださっています。ありがとうございます。

 

 

 

しかし、わたしたちはこの世の誘惑のゆえに中々信仰から信仰へと進めません。時には心を揺さぶられることがあります。

 

 

 

どうか、主イエスよ、御言葉によってわたしたちの信仰を励まし、強め、慰めてください。礼典を通して臨在のキリストを身近に感じさせてください。

 

 

 

わたしたちの教会がどのような試練に遭おうと、兄弟姉妹たちに信仰のつまずきがあろうと、福音宣教を通して与えられた神の恵みの契約から落ちこぼれないようにしてください。わたしたちの本国は天にありますということを強く確信させてください。

 

 

 

どうか福音から離れて、この世の無力な教えにの奴隷になることがないように、わたしたちの信仰をお守りください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。