ガラテヤの信徒への手紙説教06 主の2019年2月10日
その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。おもだった人たちからも強制されませんでした。―この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。—実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしに働きかけられたのです。また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしたちも心がけてきた点です。
さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしたからです。そして、ほかのユダヤ人たちも、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」
ガラテヤの信徒への手紙第2章1-14節
説教題:「福音の真理にまっすぐ生きる。」
パウロは、ガラテヤの信徒への手紙の第2章1-14節で、二つの出来事を記しています。使徒会議とアンティオキア事件です。
前回は、ガラテヤの信徒への手紙第2章1-10節の御言葉を学びました。パウロは、エルサレムで開かれる使徒会議のために、エルサレムを再訪し、エルサレム教会のおもだった人々、すなわち、使徒ペトロ、ヤコブ、ヨハネと会って、伝道について確認し合いました。
その時にパウロの弟子テトスを同伴させました。彼はギリシア人でしたが、おもだった人々は、彼に割礼を受けさせてユダヤ人にしようと強要しませんでした。パウロは、この事実をガラテア諸教会のキリスト者たちに伝えています。
それからパウロとペトロが共に復活の主イエス・キリストが遣わした使徒であることを確認し合いました。主イエスは、ペトロを割礼を受けたユダヤ人たちへの伝道の働きに召され、パウロを異邦人への伝道の働きに召されました。
ガラテヤの諸教会では偽教師たちがやって来て、パウロはペトロと同等の使徒ではないと主張し、ガラテヤ諸教会のキリスト者たちに割礼を受けさせてユダヤ人になることを強要していました。
だから、エルサレム教会のおもだった人々がギリシア人のテトスに割礼を強要しなかったという事実とパウロとバルナバがペトロとヤコブとヨハネと握手した事実は、偽教師たちの主張が誤りであるという証拠となりました。
そしてパウロは、使徒会議で補足として確認された「わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないように」ということを、パウロは常に心掛けてきたと記しました。
パウロは、ガラテヤ諸教会のキリスト者たちにこの手紙の2章11節で「さて」という接続詞を使って一つの重大な事件を伝えようとしています。
この「さて」は、通常「しかし」と訳されています接続詞です。歴史家が歴史を叙述し、彼が読者に描く場面が移ることを知らせるときに、この「さて」という接続詞を使って移った歴史の場面を叙述します。
パウロも同じことをしているのです。今まで彼は読者であるガラテヤ諸教会のキリスト者たちに使徒会議のことを叙述していたのです。そして、彼は「さて」という接続詞を使い、続いて「ケファがアンティオキアに来たとき」と叙述し、パウロはアンティオキア教会で起こった重大な事件を叙述するのです。
この事件の重要性は、パウロがエルサレムを再訪し、エルサレム教会の柱と目される使徒ペトロとヤコブとヨハネに会い、そこで合意したことにありました。その合意後にペトロが異邦人教会であるアンティオキア教会を訪れ、その合意に違反する事件を引き起こしたのです。
アンティオキア教会は、ローマ帝国の属州であるシリアの首都アンティオキアにありました。アンティオキアはローマ帝国の中で3番目に大きな都市でした。その都市に異邦人最初の教会が生まれました。
このアンティオキア教会がパウロとバルナバを異邦人伝道へと遣わしました。その結果、小アジア、現在のトルコの国にガラテヤの諸教会が生まれました。
アンティオキア教会の事件は、エルサレム教会のおもだった人たちの一人、ペトロがアンティオキア教会に混乱をもたらしたのです。
パウロは、11-12節でアンティオキア教会における使徒ペトロの態度に非難すべき点を見つけて面と向かって反対したと次のように記します。
「さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしたからです。」
使徒ペトロは、エルサレムから直線で500キロ離れたアンティオキア教会を訪問し、異邦人キリスト者たちと一緒に食事をしました。
この食事は、普通の会食のことではありません。教会の交わりの中でする食事、聖餐式です。使徒ペトロは、アンティオキア教会で異邦人キリスト者たちと共に主イエスを礼拝し、共に一つのパンと一つの杯(さかずき)を分かち合いました。
ところがエルサレム教会の使徒ヤコブがアンティオキア教会に使節団を派遣しました。
その使節団がアンティオキア教会に来るや否や、使徒ペトロの態度が一変してしまったのです。
使徒ペトロは、まず割礼を受けている使節団の人々に遠慮しました。使節団の人々の目を気にし、彼らが使徒ヤコブに何を伝えるだろうかと心を悩ませたでしょう。それから、エルサレムはユダヤ人の町です。ユダヤ人たちは異邦人と交わることを許しません。だから、彼はエルサレムに戻るとユダヤ人たちから迫害を受けることを恐れたでしょう。
ユダヤ人の監視下にあるエルサレム教会やユダヤの諸教会のキリスト者たちにとっては、使徒ペトロの態度は理解できるものでした。しかし、偏り見ない神、主イエス・キリストの御目から見て、赦されることでしょうか。
ペトロは、「恐れてしり込みし、身を引こうとした」と、パウロは記しています。退去と分離を表す言葉です。ペトロは、巧みに気づかれないように身を引こうとしたのです。最初は、アンティオキア教会の慣例に従い異邦人と一緒に教会の礼拝で聖餐式を共にしていました。しかし、礼拝を共にしても聖餐式でパンとぶどう酒を飲み食いしなくなりました。そして、アンティオキア教会で異邦人たちと一緒に礼拝しないようになったのでしょう。ペトロの席は空席となりました。
ペトロの態度は、アンティオキア教会の割礼を受けたユダヤ人キリスト者たちに大きな影響を与えました。
それが13節のパウロの記述です。「そして、ほかのユダヤ人たちも、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。」
他のユダヤ人キリスト者たちもペトロ同様に「このような心にもないことを行い」ました。それは、虚偽を行ったという意味です。「心にもないことを行い」の名詞は演技です。ここから偽善者、役者という言葉が生まれました。
ユダヤ人キリスト者たちは、ペトロを見倣い、アンティオキア教会で異邦人キリスト者たちと交わることを避け、一緒に聖餐の食事にあずからなくなりました。
パウロにとって想定外であったのは、共に異邦人伝道したバルナバまでも、この虚偽に引きずられたことでした。「バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。」
バルナバは、パウロの一番の理解者でした。彼がパウロとエルサレム教会のおもだった人々との間を取り持ってくれ、一緒に異邦人伝道で苦労を共にしてくれ、パウロにとって掛買いのない存在だったのです。それなのにバルナバまでもこの虚偽に引き回され、福音の真理から外れてしまいました。
使徒言行録は、15章で使徒会議の後、マルコのことで、パウロとバルナバは仲たがいし、別々に異邦人伝道したと記しています。それも真理の一面ですが、このガラテヤの信徒への手紙を読み、アンティオキア教会の事件を知れば、パウロが福音の真理から離れたバルナバと共に異邦人伝道できなかったことにうなずけると思います。
そして、この事件は、キリスト教会の歴史の中で記憶される大きな事件となりました。
第一は、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の分裂の危機です。第二は、パウロとバルナバが分かれて、異邦人伝道する結果となり、初代教会の伝道にとって大きな痛手となりました。第三にパウロの異邦人伝道の拠点がアンティオキア教会からエフェソ教会に移されたことです。
ここではパウロに焦点を合わせて、アンティオキア教会の事件の本質を探ろうと思います。
2章11節と14節の御言葉から、パウロはアンティオキア教会のこの事件を重大な事件と理解していたことが分かります。一言で言えば「福音の真理」を揺るがす事件でした。一人の虚偽の行為により、教会全体が「福音の真理」から離れようとしていました。
わたしは、「福音の真理」を主イエス・キリストと言い換えたいと思います。パウロの「福音の真理」はキリストの啓示です。キリストは、言われました。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31-32)。
パウロは、アンティオキア教会の事件でエルサレム教会のおもだった人たちの一人ペトロが「福音の真理」に向かって真っすぐに歩んでいない姿を見て、まるで彼に反抗するように激しく彼を非難しました。あのキリストの御前で使徒会議において合意したことと違うではないかと。
パウロの非難の言葉は謎かけのように聞こえます。「ユダヤ人のように」と「異邦人のように」という言葉が「生き方」と「生活」を修飾しています。
パウロの言う意味はこうです。ペトロはユダヤ人なのに、異邦人の特徴的で、異邦人に期待され、異邦人に適した生き方、生活をし、ユダヤ人に特徴的で、ユダヤ人に期待され、ユダヤ人に適した生き方、生活をしていない。
わたしは、御言葉を読んでいて、これは謎かけかと思いました。
パウロはペトロの行為をある意味で厳格なユダヤ教の原理主義者の目で見ているのです。
ペトロがアンティオキア教会で最初異邦人キリスト者たちと共に聖餐の食事をしたことは、ユダヤ教原理主義者の目で見れば、ユダヤ人ではなく、異邦人のように振舞うことでありました。つまり、ペトロは矛盾する行動をして、福音の真理から外れてしまったのです。それは、アンティオキア教会の異邦人キリスト者たちに「ユダヤ人らしく振舞え」と強要することになりました。
直接にペトロの矛盾した態度がアンティオキア教会の異邦人キリスト者たちに割礼を強要することにならなかったと思います。しかし、使徒ヤコブから遣わされた使節団の人々もユダヤ人キリスト者たちも異邦人たちと聖餐を共にしないわけですから、暗黙の裡に異邦人は割礼をうけてユダヤ人にならなければ、共に聖餐の食事にあずかれないということになるわけです。
キリストの十字架は和解の福音です。キリストは敵対する者たちを神に和解させ、平和を打ち立てるために、キリストの教会を建てられたのです。初代教会にとってその試金石が割礼の問題でした。
ユダヤ人と異邦人の対立です。その対立を、人を偏り見ない父なる神は、御子キリストの十字架を通して取り除かれたと、パウロは理解し、十字架のキリストに向かって真っすぐに歩もうとしたのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、ガラテヤの信徒への手紙の第2章11-14節の御言葉を学べることを感謝します。
アンティオキア教会の事件を通して、キリスト教会がどのように危機があり、パウロはエルサレムの使徒会議の合意に基づいて、ペトロを非難し、福音の真理に向けてまっすぐに歩もうとしました。
どうかわたしたちも今朝の御言葉を学ぶことで、わたしたちの神は偏り見ないお方で、すべての人を等しく教会に招き、聖餐の食卓に招かれるお方であることを覚えさせてください。
キリストの十字架によって、すべての者が和解させられました。わたしたちは敵対関係にあり、癒しがたい傷を残して今日に至っています。それでも共に主なる兄弟姉妹として、今この教会で聖餐の食事を共にできることを感謝します。
どうか、わたしたちの教会の聖餐の食卓にいろんな国々のキリスト者たちを集わせ、共に恵みにあずからせ、今主イエスと共にいる喜びで満たしてください。
この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ガラテヤの信徒への手紙説教07 主の2019年2月24日
わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違反者であると証明することになります。わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
ガラテヤの信徒への手紙第2章15-21節
説教題:「キリストの真実により」
本日で、ガラテヤの信徒への手紙の第2章の学びは終わります。
パウロは、ガラテヤ諸教会のキリスト者たちにこの手紙の1章10節から自己弁護を述べてきました。
使徒パウロは、1章11-12節で、次のように自己弁護を述べています。「兄弟たち、あなたがたにははっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」
パウロは、彼がガラテヤ諸教会のキリスト者たちに宣べ伝えた福音が人から聞いて伝えられたものではなく、直接に復活の主イエス・キリストからの啓示であると述べています。
また、パウロは、2章7-8節で次のように自己弁護をしています。「それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。」
パウロは、弟子のテトスを伴い、エルサレムで開かれる使徒会議に出席しました。彼がキリスト教に回心し、第一回目のエルサレム訪問から14年後のことでした。この第二回目のエルサレム訪問で、パウロはエルサレム教会のおもだった人々と会いました。その人々は異邦人のテトスに割礼を強要しませんでした。
それからパウロは、おもだった人々と次のことを確認しました。すなわち、パウロもペトロもキリストが召された使徒であるということです。ペトロは割礼を受けたユダヤ人たちに福音を伝える務めに召されました。パウロは異邦人たちに福音を伝える務めに召されました。
使徒会議の確認にもかかわらず、わたしたちは、この手紙の2章で異邦人教会のアンティオキア教会において一つの重大な事件が起こったことを学びました。
使徒パウロが2章11節に「ケファがアンティオキアに来たとき」と記していますように、アンティオキア教会で大事件が起こりました。「ケファ」は使徒ペトロの名前です。
この事件で、注目すべきは、パウロがアンティオキア教会のキリスト者たちの面前でペトロの行為を、福音の真理から外れていると強く非難したことです。それが、今朝の御言葉へとつながっています。
ペトロは、最初アンティオキア教会の異邦人キリスト者たちと共に礼拝で聖餐式にあずかっていました。ところが、エルサレム教会の使徒ヤコブが遣わした使節団が来ますと、「恐れてしり込みし、身を引こうとした」のです。それをパウロは見て、ペトロの心にもない行為を激しく非難しました。彼の行為がアンティオキア教会の異邦人キリスト者たちとユダヤ人キリスト者たちとの交わりに悪影響を与えたからです。
パウロは13節でその悪影響を次のようにこの手紙に記しています。「そして、ほかのユダヤ人たちも、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。」
ペトロが「このような心にもないことを行い」、その結果、アンティオキア教会の中に虚偽という悪が生まれ、それが伝染病のようにアンティオキア教会のユダヤ人キリスト者たちの間に広まりました。
こうしてアンティオキア教会のユダヤ人キリスト者たちは、ペトロを見倣い、異邦人キリスト者たちとの交わりを避けるようになりました。そして、彼らも異邦人キリスト者たちと一緒に聖餐の食事にあずからなくなりました。
共に異邦人伝道したバルナバまでもがこの虚偽に引きずられました。だからパウロは、13節で「バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。」と記しています。
そして、アンティオキア教会のこの事件は、キリスト教会の歴史の中で記憶される大きな事件となりました。
教会の中で一人の「心にもない行い」が広まり、ついにはユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者たちとの間に分裂の危機を生じさせました。
この事件でアンティオキア教会の異邦人キリスト者たちは暗黙裡に割礼を受けてユダヤ人にならねばならいと強要されたのです。キリスト教はユダヤ民族の宗教になろうとしていました。
さらにこの事件でパウロとバルナバとの間に分裂が起こりました。パウロとバルナバは別々に異邦人伝道を始めました。アンティオキア教会の異邦人伝道にとって大きな痛手となりました。
パウロにとってアンティオキア教会のこの事件は、一言で言えば「福音の真理」を揺るがす事件でした。アンティオキア教会の中で一人の虚偽で初代教会全体が「福音の真理」から離れようとする危険を、
パウロは見たのです。
だから、パウロはエルサレム教会のおもだった人たちの一人ペトロが「福音の真理」に向かって真っすぐに歩んでいない姿を見て、アンティオキア教会のキリスト者たちの面前で強く非難したのです。
今朝の御言葉は、アンティオキア教会の事件を背景にしています。特に問題になっていることは、異邦人キリスト者たちが割礼を受けてユダヤ人なるということです。
この手紙では、14節でアンティオキア教会の事件は、使徒パウロが使徒ペトロを非難した言葉で終わっています。
そして、今朝の2章15-21節の御言葉が続いているわけです。そこで割礼を受けてユダヤ人になることが問題となります。
どのように今朝の御言葉は、アンティオキア教会の事件とつながっているのか、ということです。そしてつながっているなら、パウロはそれとの関係で福音の本質を述べようとしているということになります。
それゆえ今朝の御言葉からパウロは自己弁護から福音の本質へと話を展開しようとしていることになります。
その道筋でパウロの15-21節の御言葉を読みますと、使徒パウロは、異邦人キリスト者たちに割礼を強要するユダヤ人キリスト者たちに向けてこの15-21節の御言葉を記し、彼らに福音の本質を述べているということになると、わたしは思います。
だから、15節のようなパウロの語り口になるのです。パウロはこう述べています。「わたしは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」
これは、回心前のユダヤ人としてのパウロの考えを述べているのです。当時のユダヤ人たちは皆、自分たちは異邦人のような罪人ではないと考えていたのです。
この「罪人」は、罪を犯した犯罪者という意味ではありません。ユダヤ人の目から見れば、異邦人は神の律法を持たず、守らず、宗教的に穢れた者である、罪人となるのです。
16節は、回心後のパウロやユダヤ人キリスト者たちが考えていたことです。「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」
パウロとユダヤ人キリスト者たちは、神の律法の下に生まれ、神の律法を遵守しようとしました。
しかし、パウロやユダヤ人キリスト者たちは、「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」。
宗教改革以来、ルターが「信仰義認」を聖書から発見して以来、そこから生まれたプロテスタント教会は、パウロのこの御言葉からわたしたちがイエス・キリストを信じる信仰によって、わたしたちは神に義と認めていただけるという「信仰義認」という教理を信じてきました。そして、今、わたしたちも信じています。
しかし、本当にパウロやユダヤ人キリスト者たちは、「わたしたちがキリストを信仰することで義としていただく」と思っていたのでしょうか。
「キリストへの信仰」は、わたしたちがキリストを信じるということでしょうか。ほとんどの日本語訳聖書は、新共同訳聖書と同じように「キリストへの信仰」と訳しています。わたしたちがキリストを信じると理解しています。
しかし、「キリストへの信仰」の「信仰」というギリシア語の言葉は、実は「信じる」という意味だけではありません。「真実」「誠実」「信頼性」という意味もあります。
何が言いたいかと言いますと、「キリストへの信仰」はわたしたちがキリストを信じるという意味だけではないということです。それは、キリストが持たれている「信仰」「真実」「誠実」という意味もあるのです。
「義」は救いと同じ意味です。わたしたちが父なる神と正しい関係に置かれることです。そのためにパウロは、キリストの真実が必要であると述べているのです。
パウロとユダヤ人キリスト者たちは、キリストの真実によって父なる神と正しい関係に入れられると知って、「わたしたちもキリスト・イエスを信じました。」
パウロとユダヤ人キリスト者が父なる神と正しい関係に入れられるのは、キリストの真実によってでありました。
パウロもユダヤ人キリスト者たちも律法の下に生まれたユダヤ人として、熱心に律法を遵守しました。それは、彼らの救いのために努力したという意味ではありません。
ユダヤ人たちは、神との恵みの契約に生きる神の民でした。だから、主なる神がモーセを通して彼らに与えられた律法は、彼らに恵みの契約の民として生きるように要求しました。
しかし、旧約聖書の神の民の歴史が証明するように、そして、ここでパウロが言うように、「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」のです。
パウロがユダヤ人キリスト者に語っていることは、ユダヤ人キリスト者たちがキリスト教に改宗したのは、律法を実行したからではなく、主イエス・キリストの真実に信頼を寄せたからではないかということです。
パウロは、17節でこう言います。「もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身は罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。」
パウロとユダヤ人キリスト者たちは、キリストの真実に信頼し、父なる神と正しい関係に入れるように努力していたでしょう。
ところがアンティオキア教会の事件で、ペトロとユダヤ人キリスト者たちは、使徒ヤコブの使節団が異邦人キリスト者たちとの聖餐式を問題にすると、聖餐の食卓から離れてしまいました。
この聖餐は、パウロにはユダヤ人キリスト者が異邦人のように生きることでした。ところがそれを避けたペトロは「異邦人のような罪人」という考えを取り除けませんでした。なぜなら、ペトロとユダヤ人キリスト者たちは、浄めの規定に従って、異邦人キリスト者たちとの食事を律法違反と判断したからです。
そこでパウロは次のように反論したのです。教会で聖餐式を命じられ、罪人たちと共に食事されたキリストは、罪に仕える者となるのだろうかと。
パウロは、断じて違うと答えています。そんなことが起こってはならないという意味です。キリストは罪に仕える者では決してありません。むしろ、わたしたちを罪から贖う者です。
18節で、パウロが「自分で打ち壊したもの」と言っているのは、パウロとユダヤ人キリスト者たちが律法を実行することで義を得ようとしたことです。だから、パウロは、それを、再興することは、自分たちがキリストへの信頼性を捨て、キリストの真実を信頼しない者であることを証明することになると言うのです。
しかし、パウロは、違反者の道を歩みません。
19節でパウロは、ユダヤ人キリスト者たちにこう宣言しています。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」
パウロは、今や律法に支配されて生きてはいません。むしろ、神に支配されて生きています。回心以前のパウロは、律法の基準に従って生きていました。その律法が裁きを下すなら、パウロはユダヤ人たちと共に律法の呪いの下に置かれることになります。なぜなら、神への不従順は死に値する罪です。だから、パウロもキリストが十字架で死なれたときに、彼も共に律法によって死にました。
そして、キリストの死は、神に向けて生きることでした。すなわち、キリストは復活され、昇天し、今父なる神の右に坐されて、父なる神と共にこの世界を支配されています。
パウロは、20節で、律法によって死んだわたしが、キリストと共に生きていると主張しています。パウロの中にキリストが内在されています。パウロとキリストは切り離せない存在となっているのです。パウロの命は、彼を愛して十字架で死なれた神の子主イエスの真実によって生かされているのです。
だから、パウロは、21節でこの恵みを無駄にしないと述べています。律法の実行で父なる神との間に正しい関係を得られるのであれば、キリストの十字架の死は無駄だったことになります。
要するに、ここでパウロがわたしたちに伝えたいことは、ユダヤ人キリスト者たちであれ、異邦人キリスト者たちであれ、キリストの真実によってわたしたちは父なる神との間に正しい関係を得られるということです。
キリストの真実によって、すなわち、キリストの十字架の死によって、わたしたちは罪から、律法から、死から解放されたのです。それゆえに、わたしたちもパウロと同様にキリストだけを信じて、生きるのです。そのわたしたちの中にキリストが共に生きておられると、パウロはわたしたちを慰めてくれています。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、ガラテヤの信徒への手紙の第2章15-21節の御言葉を学べることを感謝します。
アンティオキア教会の事件を通して、パウロは、ガラテヤ諸教会のキリスト者たちに福音の真理を伝えようとしました。パウロもユダヤ人キリスト者も異邦人キリスト者も、そして、このわたしたちも、キリストの真実によって父なる神との間に正しい関係を得ることができた恵みを知りました。
キリストが常に真実であられることこそ、わたしたちの救いであることを知り、わたしたちもキリストを信じさせてください。
罪人たちと共に食事された主イエスが、次週はわたしたちと共に食事してくださる聖餐式に、どうかわたしたちをお招きください。
どうかわたしたちも、パウロと同じように神に対して生きるために、自分たちもキリストと共に十字架に死に、今わたしたちの中にキリストが内住し、共に生きて下さっていることを信じさせてください。
この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ガラテヤの信徒への手紙説教08 主の2019年3月3日
ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに・・・・・。あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。
ガラテヤの信徒への手紙第3章1-5節
説教題:「霊を受ける体験」
本日よりガラテヤの信徒への手紙の第3章を学びましょう。
ガラテヤの信徒への手紙第3章と4章は、この手紙の主題です。使徒パウロがガラテヤの諸教会のキリスト者たちに宣べ伝えた福音の真理を叙述しています。
使徒パウロは、この手紙の1章11-12節で「わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」と述べています。
使徒パウロがガラテヤの諸教会のキリスト者たちに告げ知らせた福音は、人から聞いて、教えられたものではありませんでした。エルサレム教会の柱と目される使徒ヤコブやペトロのような人間的権威者から継承したものではありませんでした。
むしろ、使徒パウロは、「イエス・キリストの啓示によって知らされた」と証言し、そのキリストによる啓示体験を15-16節で次のように述べています。「しかし、わたしを母の胎にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」と。
使徒パウロが宣べ伝えた福音は、神の恩寵でありました。父なる神が御子キリストにあって彼を異邦人への使徒として選び、召され、そして恵みによって父なる神は使徒パウロに喜んで御子キリストを啓示しされました。それが、パウロが彼らに宣べ伝えた福音でした。
先週は、パウロが福音の真理を述べる導入の御言葉を学びました。そこで彼は、彼の福音の本質を語りました。2章16節でパウロは、福音の本質を次のように述べています。「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」
パウロは、「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」。
これがパウロが宣べ伝えた福音の本質です。
パウロは、キリストの真実によって父なる神と正しい関係に入れられると知って、「わたしたちもキリスト・イエスを信じました。」と告白しています。
そして、パウロは。旧約聖書の神の民の歴史が証明するように、「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」ことを理解しました。
パウロは、ユダヤ人キリスト者たちに彼らが彼と同じようにキリスト教に改宗したのは、律法を実行したからではなく、主イエス・キリストの真実に信頼を寄せたからではないかと言っています。
パウロが宣べ伝えた福音は、ユダヤ人キリスト者たちであれ、異邦人キリスト者たちであれ、キリストの真実によってわたしたちは父なる神と正しい関係に入れるという喜びと慰めでした。
さて、使徒パウロは、1章では使徒としての自分を弁護するために自らがキリストの啓示を体験したことを述べました。3章に入り、使徒パウロはガラテヤの諸教会のキリスト者たちに、今朝の御言葉を通して、彼が彼らの宣べ伝えた福音の真理を弁護するために彼らが聖霊を受けたという体験を述べているのです。
パウロは、彼らを「ああ、物分かりの悪いガラテヤ人たち」と呼びかけています。
この「ガラテヤ人たち」は、パウロが第1回伝道旅行で宣教活動をした小アジアのガラテヤ属州の南部に住んでいたガラテヤ人、ピシデヤ人、パンフィリア人たちを指します。
「物分かりの悪い」とは愚かであるという意味です。すなわち、霊的な洞察力に欠けているのです。
使徒言行録10章で使徒ペトロが異邦人のコルネリウスに招かれて、彼の家で説教しました。コルネリウスと彼の家族、そしてそこに招かれた異邦人のたちはペトロの説教を聞いて、キリストを救い主と信じました。すると、彼らの上に聖霊が下られるという奇跡が起こりました。
パウロの説教を聞いて主イエスを救い主と信じたガラテヤの諸教会のキリスト者たちの上にも聖霊が下られるという奇跡が起こったのです。
ところが、彼らはすっかりその恵みの体験を忘れてしまいました。
彼らを迷わした者がいたからです。パウロの後からガラテヤの諸教会に入り込んだユダヤ人キリスト者たち、偽教師と呼ばれる者たちです。彼らは、パウロが宣べ伝えた福音を聞いて主イエスを救い主と信じるだけでは不十分であると主張しました。ユダヤ人たちのように割礼を受け、ユダヤ人となり、神の律法を守り、ユダヤ人の習慣を守るべきだと教えました。
すっかりガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちは、彼らの教えにたぶらかされました。パウロが宣え伝えた福音の真理から迷い出てしまいました。
「だれがあなたがたを惑わしたのか」というパウロの言葉は、「あなたがたに邪視をむけたのはだれか」という意味です。悪意ある視線を他人に向けることです。それは、他人に向けて病気や災いを及ぼそうとするためです。
魔術師の行為でした。パウロの時代、魔術師が人々の心を支配していたのです。使徒言行録の8章にシモンという男が魔術を使ってサマリアの人々を脅かしていたと記していますし、13章でもユダヤ人の魔術師バルイエスがパウロたちの福音を妨害し、パウロは聖霊に満たされて彼の目を見えなくさせたと記しています。おそらくバルイエスの目が相手に悪影響を及ぼしたからだと思います。
だから、パウロは、ガラテヤの諸教会のキリスト者たちに悪意ある視線を向けて悪影響を及ぼしたのは、わたしか、それとも偽教師たちかと問うているわけです。
そして、続いてパウロは、常に説教を通して「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたでがないか」と述べています。
パウロは、ガラテヤの諸教会で繰り返し、繰り返しキリストの十字架を説教しました。十字架につけられたままのキリストがまるで彼らの生き様であるかのように語りました。
19節と20節でパウロは、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と述べていますね。これが、パウロの言う「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿」です。そして、パウロが16節で述べている「イエス・キリストへの信仰」です。
パウロは説教を通してガラテヤの諸教会の聴衆たちに十字架につけられたキリストの姿を公然と告知しました。この十字架につけられたキリストこそが神の義でありました。彼らを、父なる神と正しい関係に入れてくれる神の救いそのものでした。
同時にパウロの説教を聞いたガラテヤの諸教会の聴衆たちは、十字架につけられたキリストが彼らのための生きざまであり、死にざまであることを知らされました。すなわち、キリスト者として生きる生き方を決定するものだったのです。すなわち、パウロの言う「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きているのです。」というキリスト者の生き方です。
偽教師たちに惑わされたガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに、パウロはさらに次のように質問をしています。
2節です。「あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。」
何をパウロは彼らに確かめようというでしょうか。聖霊体験です。聖霊を受けるという奇跡の体験です。
パウロと彼らは、共に聖霊を受けるという共通の体験を持っていました。それこそが、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者の出発点であり、3節の彼らの今のキリスト者としての在り方だったのです。
パウロは、彼らにこう問うているのです。「あなたがたが聖霊を受けるという奇跡的体験をしたのは、神の律法を実行したからですか。それとも教会の礼拝においてわたしの説教を聞いて十字架につかれたキリストを信頼したからですか」と。
パウロは「“霊”を受けた」と語りますが、それを具体的にわたしたち読者に説明していません。
しかし、使徒言行録の8章のコリネリウスたちを例にとれば、パウロやバルナバが彼らに説教をし、彼らがそれを聞いて信じた時に、聖霊が下るという出来事が起こったのではないでしょうか。
だから、パウロは彼らに4節で「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか」と質問しているのです。
偽教師たちがガラテヤの諸教会に訪れる前にパウロとガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちは聖霊を受けるという奇跡的体験をしていたのです。
パウロは彼らにこの体験が律法を実行したからか、それとも彼らがパウロが説教する十字架につけられたキリストを信頼したからかと質問しているのです。
「福音を聞いて信じた」は、日本語訳聖書ではいろいろに訳されています。口語訳聖書は「聞いて信じた」、新改訳聖書は「信仰をもって聞いた」、新共同訳聖書は「福音を聞いて信じた」です。
パウロの福音は、神とキリストがいかにわたしたちの救うご計画に忠実であり、真実であられたかを知らせるものでした。だから、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちは、パウロが説教する十字架につけられたキリストを聞くごとに、神とキリストに信頼を置くようになりました。そして聖霊を受けるという奇跡的体験が彼らにそのことを明らかにしてくれたのです。
ところが、偽教師たちに影響され、今ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちは、割礼を受けて、神の律法を実行しようとしています。だから、パウロは、聖霊を受けるという奇跡的体験で始めた信仰生活を、肉で完成しようとするのですかと質問し、彼らの愚かさを非難しているのです。
「肉」とは、血縁、すなわち、パウロは「血と肉は神の国を継げない」と述べています。人の中で罪が働く場、神への犯行の場という意味です。偽教師たちは、異邦人キリスト者たちに割礼を受けさせて彼らの救いを確かなものしようと試みるけれども、パウロは彼らの試みは破綻すると思っているのです。むしろ、パウロは異邦人キリスト者たちが受けた霊に導かれ、キリストに信頼することで、彼らの救いを完成させることが出来ると確信しているのです。
だから、彼は、ガラテヤ諸教会の異邦人キリスト者たちに聖霊を受けた奇跡的体験を、彼らがそれを何度も経験したことを取り上げて、無駄だったか、そうではないでしょうと、質問するのです。
5節は、2節の繰り返しに見えますが、パウロは彼らが聖霊を受ける体験から、神が彼らに聖霊を授けられることへと主題を変えています。
父なる神が聖霊を彼らに授与されるのです。神は、彼らの間で奇跡を行われる方です。聖霊降臨は、父なる神の奇跡です。ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちは、何度も神が彼らに聖霊を授けてくださるという奇跡を経験したのでしょう。
どうして神は、彼らに何度も聖霊を授けられ、そして彼らの間に聖霊を受けるという奇跡をなさるのでしょうか。彼らが律法を実行したからでしょうか。それとも、彼らがパウロの説教を聞いて、キリストに信頼したからでしょうか。
今朝のパウロの御言葉を聞いていて、わたしたちは何を思うでしょうか。
なんだか、わたしたちには関係のない話だと思われますか。
「聖霊を受ける」と言われても、そんなこと経験したことがないよと思われますか。
パウロはガラテヤの諸教会のキリスト者たちが何度も聖霊を受けるという奇跡的体験をしたと述べています。
異邦人キリスト者の出発点はこの聖霊を受けるという体験だと述べています。そして、神が授けられた聖霊は、パウロの説教を聞いてキリストを信頼させ、そして彼の内にキリストが生きるように、彼を歩ませると述べています。
わたしは、今朝の御言葉を説教準備するまで、パウロが言う「聖霊を受ける」ということにあまり関心がありませんでした。
しかし、今、キリスト者の在り方の出発点が「聖霊を受ける」という奇跡的体験であるならば、それはわたしにとっていつなのかと考えを巡らしています。
思い当たることは、洗礼を受けたクリスマスのです。
わたしは、その時小さな失望を覚えました。洗礼を受ける前と受けた後のわたしに変化がなかったからです。
しかし、それは間違いだったのではないかと、今思っています。1976年12月19日にわたしは宝塚教会のクリスマス礼拝で洗礼を受けました。水を頭に注がれました。その時神はわたしに聖霊を授けてくださったのではないでしょうか。
その時からわたしの内に十字架につけられたキリストが生きてくださっています。説教を聞くたびに、わたしの両目に十字架につけられたキリストが鮮やかに描き出され、そして、聖霊はわたしの心にこのお方はあなたのために死なれたのだと説得し続けてくださいます。
聖霊を受けたことを、わたしたちが証しできるとすれば、毎週の礼拝説教を聞き、聞いた十字架につけられたキリストを信頼して生きているわたしたちが今ここにいるということだけでないでしょうか。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、ガラテヤの信徒への手紙の第3章1-5節の御言葉を学べることを感謝します。
聖霊を受けるという奇跡的体験をして、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちは、キリスト者の生活を始めました。
しかし、ユダヤ人キリスト者たちの偽教師に惑わされ、キリストへの信頼よりも、目に見える保証を得ようと割礼を受け、神の律法を実行し、救いの確信を得ようとしました。
だが、それは霊で始めたことを肉で完成するようなもので、信仰の確信を得るどころか、信仰を破綻させるものでした。
どうか、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者の誤りを見て、自らの信仰をただすことが出来るようにしてください。
わたしたちが洗礼を受けた時に、幼児であろうと、成人であろうと、わたしたちは聖霊を受けました。どうか聖霊よ、わたしたちがこの礼拝で十字架につけられたキリストを説教で聞くごとに、わたしたちの目の前に十字架のキリストの姿を鮮やかに描き出してくださり、このお方がわたしのために死なれ、復活されたことを信じさせてください。
そして、今わたしは自分のために生きているのではなく、わたしの内にキリストが生きておられることを確信させてください。
わたしたちは、共にここで主イエスと食事をします。どうかわたしたちを、主イエスと共に永遠におらせてください。
どうかわたしたちがパウロと同じように神に対して生きる者としてください。
この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ガラテヤの信徒への手紙説教09 主の2019年3月10日
それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。
だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。律法の実行に頼る人はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。律法は信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。
ガラテヤの信徒への手紙第3章6-14節
説教題:「信仰によって生きる人々」
本日は、ガラテヤの信徒への手紙第3章6-14節の御言葉を学びましょう。
先週は、パウロの御言葉に耳を傾けて、一つの真理を教えられました。それは、異邦人キリスト者たちの出発点が聖霊を受けるという奇跡的体験であるということです。
わたしたちは、パウロの御言葉を思い巡らせて、今もキリスト者の在り方の出発点が「聖霊を受ける」「聖霊を授かる」という奇跡的体験であるならば、それはわたしたちにとっていつなのかと考えました。
そこでわたしはクリスマスに洗礼を受けた体験を証ししました。
さて、今朝のパウロの御言葉は、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちを一人の人物の信仰へと導いています。旧約聖書のアブラハムの信仰です。
6節の「それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです。」というパウロの御言葉は、旧約聖書の創世記15章6節の御言葉の引用です。
パウロが言う「アブラハムは神を信じた」とは、どのようなことでしょうか。
アブラハムは彼の先祖たちが信じていた神が、彼をカナンに導き、彼と彼の子孫を繁栄させると約束されたので、自分と家族としもべたちをその神に委ねました。アブラハムにとって全能の神は信頼に足る神であり、彼は神を信頼しました。
神はアブラハムとの契約で、彼に誠実さを示され、アブラハムはその神の誠実さ、真実に対して信頼を寄せたのです。
それが、アブラハムの信仰の出来事でした。だから、わたしたちの言葉で表現すれば、「アブラハムは神の誠実さ、真実に信頼を寄せたので、神は彼を義と認められた」のです。
「認められた」という言葉は、本来会計用語です。「会計簿に計上する」という意味です。
パウロは、この言葉をよく使っています。有名な愛の賛歌の一節、コリントの信徒への手紙一の13章5節で愛は「恨みを抱かない」と記されています。これは、意訳です。愛は「悪事をいちいち帳簿に記さない」寛容を備えていると、パウロは述べています。
また、彼は、フィリピ教会の異邦人キリスト者たちに、次のように献金を奨励しました。「贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。」(フィリピ4:17)。パウロは、フィリピ教会の異邦人キリスト者たちが貧しいエルサレムのユダヤ人キリスト者たちを助けるために多くの募金をすることで、彼らの募金という霊的投資の運用果実が天国の帳簿に純益として積み上げられることを望みました。パウロは、主イエスが言われた「天国に宝を積む」ということを意識して、会計用語である「認められた」という言葉を用いたのでしょう。
だから、パウロは、アブラハムの信仰、信頼を、神は御自身の勘定表の「義」の費目に計上されたと言っているのです。
パウロは、この「義」を、ユダヤ人キリスト者の偽教師たちのように律法を守ることと関係させませんでした。彼らはそれを守ることで、神の御前に自らの義を示して、神との契約関係を維持しようとしました。
また、彼らは、神との契約のしるしである割礼を重んじました。彼らは、神との契約は永遠の契約であるので、アブラハムと彼の家族、しもべたちが割礼を受けたように、異邦人キリスト者たちも割礼を受けて、ユダヤ人になり、律法を守るべきだと主張しました。
ところが、パウロは、神の真実、誠実、信頼性に応答するアブラハムの信仰、すなわち、彼の真実、誠実さ、信頼に注目したのです。
アブラハムは、神の真実、誠実さに信頼して、彼と彼の家族としもべたち、そして、彼の子孫たちを神に委ねました。そこで神は、アブラハムを義と認められました。そして神は彼を祝福し、その祝福は異邦人たちの祝福の源となりました。
だから、パウロは、「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」と述べています。
神はアブラハムと契約を結ばれました時、「わたしはあなたの神となり、あなたとあなたの子孫はわたしの民となる。わたしはあなたを通して諸国民を祝福する」と約束されました。
だから、パウロは、旧約聖書は次のように証言すると述べています。
「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。」
アブラハムが神を信頼したという出来事がこの契約と祝福の保証となりました。だから、アブラハムと同じように神を信頼して生きる人々は皆、アブラハムと共に神に祝福されるのです。
ところが、パウロは律法に頼る人は、神に呪われると述べています。パウロは、申命記27章26節を引用して、次のように述べています。
「『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです。」
律法の実行に依拠する者は、神に呪われるのです。なぜなら、神は律法を守り行わない者を皆、呪いの下に置かれるからです。
パウロは、旧約聖書の申命記とヨシュア記から列王記に至る神の民の歴史を念頭に置いて述べていると思います。
ヨシュア記から列王記までこの申命記の神の祝福と呪いを基準にして神の民の歴史が記されています。そして、列王記の終わりを読まれ、イザヤやエレミヤ、エゼキエル等の預言書をお読みになると、神の民たちは、彼らの目の前に置かれた神の律法を守ることが出来ないで、神の怒りの下で北イスラエル王国の神の民たちはアッシリア帝国に滅ぼされ、捕囚され、南ユダ王国はバビロニアのネブカドネツァル王に滅ぼされ、バビロンへと捕囚されたことを記しています。
彼らは、歴史を記憶する民です。神は、この歴史の中で彼らと契約し、彼らと関係を維持してくださったからです。その神の民の歴史が証明したのは、神の契約に対する神の真実、誠実さに、神の民たちは不真実、不誠実さで答えたのです。だから、パウロは、「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。」と述べているのです。
そうではなく、パウロは、「正しい者は信仰によって生きる」と、ハバクク書2章4節の御言葉を引用します。
預言者ハバククは、「義人は信仰によって生きる」と言っています。ハバククはエレミヤと同じ時代に活躍した預言者だと考えられています。主なる神がネブカドネツァル王を用いて南ユダ王国とエルサレムの都を滅ぼされることを預言し、神の民がバビロン捕囚の中で苦しんでいた時に、彼は逆境の中で主なる神の誠実さを疑うことなく、誠実さをもって答えよと励まし、「義人は信仰によって生きる」と教えたのです。この「生きる」は神の契約の祝福に生きるという意味です。
パウロが神の民の歴史に光を当てて、言っていることは、神の民たちは神の律法を実行して、神の祝福を得たのではなく、どんなに逆境の中でも、神に信頼して、神の祝福を得てきたということです。
ところが、ユダヤ人キリスト者の偽教師たちが教える律法は、信仰に、すなわち、信頼を拠り所としていません。彼らは、異邦人キリスト者たちをアブラハムの祝福に導かないで、律法の呪いの下に導くのです。
パウロは、十字架につけられたキリストこそ、律法の呪いの下にある神の民を救うお方であると述べているのです。
「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。」
十字架につけられたキリストは、わたしたちに代わって律法の呪いを引き受けてくださいました。
罪無き神の御子であるキリストは木にかけられて、十字架の刑によって神の呪いを負われました。
パウロは、その目的をアブラハムに与えられた祝福が、十字架につけられたキリストを通して、わたしたち異邦人に及ぶためであると。
主イエス・キリストは、十字架の死によって神の民が律法の下に呪われているという状況から、神の民を解放してくださったのです。同時に異邦人たちにアブラハムの祝福が与えられるようにしてくださいました。
祝福だけではありません。異邦人たちは十字架につけられたキリストへの信頼性を通して聖霊を受けるという約束にあずかることが出来たのです。
この聖霊に導かれて、わたしたちは十字架において示された神の真実、誠実さ、そして信頼に対して、わたしたちの真実と誠実さ、そして信頼で答えることが、神との関係を回復することになると教えられているのです。
難しい説教になったと思います。わたしが今朝のパウロの御言葉から聞き取りましたのは、わたしたちは、神に対して、キリストに対して不誠実であっても、父なる神とキリストはアブラハムに誠実であられたように、バビロン捕囚の神の民にも誠実であられたように、何よりも十字架につけられたキリストを通して、常に神の民に誠実であられたということです。この神への信頼性、キリストへの信頼性を、パウロは信仰と呼び、宗教改革者ルターやカルヴァンたちは、パウロの今朝の御言葉から信仰義認の教えを見出したのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、ガラテヤの信徒への手紙の第3章6-14節の御言葉を学べる機会が与えられ、感謝します。
アブラハムからわたしたちまで4000年の歴史を隔てて、わたしたちがアブラハムと同じ信仰に生き、神がアブラハムに与えられた祝福を、わたしたちも共にあずかれる恵みを感謝します。
十字架につけられたキリストが神の民とわたしたちを律法の呪いから解放してくださったことを感謝します。
どうかわたしたちがどんな逆境に置かれようと、神の誠実さを、十字架につけられたキリストを通してわたしたちに示された神の誠実さを疑うことなく、わたしたちがいただいた聖霊の導きにより、神とキリストを信頼して日々歩ませてください。
どうか聖霊よ、わたしたちがこの礼拝で十字架につけられたキリストの説教を聞くごとに、わたしたちの心にわたしたちは不実でも神とキリストは真実で、誠実であられると信じさせ、十字架のキリストへの信頼性を深めさせてください。
この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ガラテヤの信徒への手紙説教10 主の2019年3月24日
兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりできません。ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。
わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし、神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。
では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違反を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。
それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。
信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
ガラテヤの信徒への手紙第3章15-24節
説教題:「約束による恵み」
本日は、ガラテヤの信徒への手紙第3章15-18節の御言葉を学びましょう。
今朝の御言葉を学ぶ前に、パウロがガラテヤの諸教会のキリスト者たちにこの手紙を書いた歴史的な状況についてお話ししましょう。
紀元44年にヘロデ(アグリッパ1世)が亡くなりました。その結果、ローマ帝国は直接ユダヤを支配しました。ユダヤ人たちは異邦人支配に反発しました。こうして紀元66年にユダヤ戦争が始まるまでのおよそ20年間、ユダヤの狂信的な愛国者である熱心党の人々を中心にローマ帝国の支配を覆そうとエルサレムを中心にユダヤにおいて日増しにテロ行為が激しくなりました。
それはエルサレム教会のユダヤ人キリスト者たちに大きな影響を与えました。なぜなら、彼らは異邦人キリスト者たちと交際していたからです。熱心党の人々は、彼らをユダヤ民族の結束を乱す者という烙印を押し、彼らの命を狙いました。
エルサレム教会は、同胞の人々の迫害を避けるために、次のように対策を立てました。第一にユダヤ律法の見直しです。すなわち、律法の遵守を強調し、異邦人キリスト者に割礼を勧めました。第二にそれによって、神がアブラハムとその子孫に与えられると約束された祝福を、彼らは手に入れると教えました。そしてエルサレムを母としてエルサレム教会は保ち続けられると考えました。
エルサレム教会のユダヤ人キリスト者たちのユダヤ律法の見直しがこの手紙の2章でパウロが記したアンティオキア教会の事件を引き起こす原因となったと考えられます。
パウロは、ユダヤ人キリスト者たちのユダヤ教律法の見直しをこの手紙の3章3節で厳しく非難しています。彼はガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに向かって言っているのですが、次のようにきつい口調で言っています。「あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。」(ガラテヤ3:3)。
ユダヤ人キリスト者たちはユダヤ律法を見直し、律法を遵守することで、自らがユダヤ人であることを証ししようとしました。そして、彼らは異邦人キリスト者たちにもそれを強要し、割礼を受けさせ、ユダヤの宗教暦を守らせようとしました。それによって彼らは同胞のユダヤ人たちに異邦人キリスト者たちもユダヤ人のように生活していることを示そうとしました。
だから、パウロはペトロを非難した時、「どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」(ガラテヤ2:14)と言ったのです。また、この手紙の4章10節でパウロはガラテヤ諸教会のキリスト者たちに、こう記しています。「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。」
異邦人キリスト者たちがユダヤ律法を守るというのは、割礼を受けて、ユダヤの宗教暦に従ってユダヤ人のように生活することでした。
それを、パウロは、「“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとする」と非難しました。
パウロは、ガラテヤ諸教会の異邦人キリスト者たちに彼らが体験した聖霊に訴えました。パウロは、彼らが「聖霊を受ける」「聖霊を授かる」という奇跡的体験をしたのは、キリストの福音、すなわち、パウロから説教を聞いたからか、律法を行ったからかと質問しました(ガラテヤ3:2,5)。
そして、パウロは、ガラテヤ諸教会の異邦人キリスト者たちにこの手紙の3-4章でわたしたちの救いとその保証は、どこにあるかを旧約聖書から例を引いて説明しています。
パウロは、ガラテヤ諸教会の異邦人キリスト者たちに「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」(ガラテヤ3:7)と述べています。旧約聖書のアブラハムの信仰を例に挙げています。
アブラハムは、己の業に頼ることなく、神に信頼しました。それを、神はアブラハムの義と認められたのです。
だから、アブラハムのようにキリストへの信頼を拠り所とする者は、アブラハムと共に祝福されます。しかし、律法の実行に寄り頼む者は皆、神に呪われています。律法を守れないからです。
しかし、パウロは、旧約聖書の申命記21章23節の「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである」という御言葉を示して、「キリストがわたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」と述べています(ガラテヤ3:13)。
キリストの十字架の死を通して、異邦人たちは罪と律法の呪いから解放されただけでなく、アブラハムの祝福にあずかるのです。アブラハムの祝福とは、永遠の命の約束です。だから、キリストの十字架によって永遠の命の約束が異邦人にまで及びました。
そして、パウロはそのアブラハムの祝福の手付金、すなわち、保証が割礼ではなく、「約束された“霊”である」と言っているのです。その聖霊を、ガラテヤ諸教会の異邦人キリスト者たちは、律法を守ることではなく、毎週の礼拝で語られるキリストの説教を聞くことで、受け、授けられたのです。
以上が長い前置きになりましたが、これまでわたしたちがこの手紙を学んできたことなのです。
さらにパウロは、ガラテヤ諸教会の異邦人キリスト者たちに引き続き、神の恵みによる約束を説明しています。そこでパウロは、人間的な説明によって、すなわち、分かりやすく説明するのです。
パウロは、ユダヤ人キリスト者たちの誤りを指摘します。それは、割礼を受けてアブラハムの祝福にあずかり、ユダヤの宗教暦に従ってユダヤ人として生活することで永遠の命を相続する保証を得ようとすることです。
そこでパウロは、遺言を例に挙げています。相続には遺言は欠かせません。遺言者が死に、彼の遺言が法律的に有効になれば、誰も遺言の内容を書き換えて、無効にすることはできません。パウロは、神の約束も同じであるというのです。
パウロが遺言を例に挙げているのは、神の恵みの約束の不可変性をわかりやすく説明するためです。
パウロは、「その際、多くの人を指して『子孫たちとに』とは言われず、一人の人を指して、「あなたの子孫とに」と言われています。この『子孫』とは、キリストのことです。」(ガラテヤ3:16)と説明します。
これは、不思議なことばです。そのまま読んで理解すれば、神の恵みの約束がアブラハムとその一人の子孫であるキリストに告げられたと、聞こえてきます。
田中剛二先生が神戸改革派神学校で学生たちに講義された有名な「ガラテヤ書講義」が先生の著作集の一巻として収められ、読むことができます。その講義の中で田中先生は「複数でなく単数が用いられているのは、約束が多くの子孫たちにでなく、ひとりの子孫にあてはめられているからであって、このひとりの人というのはキリストである、というのである」と述べて、次のように解釈されています。
まず、第一に16節のパウロの言葉は、17節と18節でパウロが述べている神の契約、神の恵みの約束の不可変性の根拠を据えている。第二に恵みの約束は、肉のイスラエル、すなわち、アブラハムの肉の子孫たちすべてに与えられていない。第三にこの契約の約束はアブラハムの子孫、キリストに与えられている。その場合のキリストは個人名ではなく、集合名詞である。この手紙の3章28節でパウロが言う「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」、キリストと一体とされたキリストに属するすべての者のことを指している。
なぜなら、キリストの十字架と復活の御業によって神の永遠の契約が完成したのである。それゆえ、キリストの下にユダヤ人と異邦人という隔たりは取り除かれ、キリストの一つの体なる教会が形成されているのです。アブラハムを通して神の祝福を約束された子孫とは、十字架と復活のキリストが聖霊と御言葉の宣教によってひとつに集められる神の民、キリストの共同体です。それが、今ここで礼拝し、キリストの福音の説教を聞いているわたしたちなのです。
そしてパウロは、17-18節で神とアブラハムとの恵みの契約に変更はなかったと述べています。
アブラハムの時代から430年後に、出エジプトという出来事が起こりました。奴隷の地エジプトから解放されたイスラエルの民は、仲保者モーセを通してシナイ山で主なる神と契約を結びました。その時に主なる神は、モーセを通して神の民たちに十戒の石の板二枚をお授けになりました。しかし、神の律法が神の約束を反故にすることはありませんでした。
ここでパウロがガラテヤ諸教会の異邦人キリスト者たちに伝えようとしていることは、ユダヤ律法は神の恵みの約束よりも後であるということです。
パウロが何を言おうとしているのか、お分かりですか。異邦人キリスト者であるわたしたちは、ユダヤの律法に先立って、神がアブラハムと約束された恵みによって、アブラハムの祝福、永遠の命に、キリストを通してあずかっているということです。
わたしたちがキリストを通して相続する永遠の命は、神がアブラハムに与えられた恵みの約束です。無償で神は、アブラハムと契約を結ばれました。神は彼の神となり、彼と彼の子孫を神の民とされました。そして、キリストを通してわたしたちを神の子とし、神は無償で永遠の命を相続させてくださったのです。
わたしが今朝の御言葉を読んでいて、そして説教の準備をしていて、本当にうれしく思ったことは、18節の「神は約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです」というパウロの御言葉です。
「神は約束によってアブラハムにその恵みをお与えになった」は、神が無償で一方的に約束を通してアブラハムに相続を賦与し授けられたという意味です。
パウロは、神の恵みの主権性を強調するのです。そして、パウロはアブラハムだけでなく、キリストを通してこの恵みの約束は今もわたしたちに有効であると述べているのです。
それを保証するのは、ヘブライ人への手紙の記者が「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ13:8)と言っている御言葉です。
神がアブラハム、そしてキリストを通してわたしたちになされた恵みの約束は、永遠にいますキリストが保証してくださっているのです。このキリストの真実に信頼を寄せることがわたしたちの信仰です。
十字架のキリストこそ、神が無条件に、そして自由に、恵みの約束によってわたしたちに永遠の命をお与えくださる保証です。
だから、教会は福音として十字架のキリストを説教し続けるのです。その時聖霊がわたしたちの耳をお開きくださいます。今朝聞いたキリストは、わたしたちの罪のために十字架に死なれ、わたしたちに永遠の命を相続させるために死人の中からよみがえられたと。
そして、きのうも今日も変わりなく生きてくださるキリストが、わたしたちが耳にする福音の変わらない保証となれているのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、ガラテヤの信徒への手紙の第3章15-18節の御言葉を学べる機会が与えられ、感謝します。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)。
わたしたちは、アブラハム同様に神の恵みの約束、永遠の命を相続することを望み、十字架と復活のイエス・キリストの臨在にその保証を確信する者です。
どうか聖霊よ、毎週の礼拝で語られる説教の御言葉に耳を傾けるごとに、ここに目に見えないキリストが居ますと信じ、キリストに寄り頼むことができるようにしてください。
レントの季節をすごし、十字架のキリストの受難に思いを寄せ、礼拝で説教を聞くごとに、わたしたちの罪のために死なれたキリストへの信頼を確かなものとしてください。
わたしたちが生きる世界に、確かなものはありません。すべては変化し、朝に花が咲き、夕にしぼんで枯れるように、わたしたちの人生も過ぎ去っていきます。今日は喜びに満たされても、明日は悲しみに暮れるかもしれません。どうか、生きるはキリスト、死ぬは益と悟らせてください。しかし、生きていて、キリストに隣人を導くことができるなら、その機会を与えてください。イースターの伝道集会に、キリストにあって選ばれた民をお導きください。
この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。