エフェソの信徒への手紙説教21 2024年1月14日
だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださるように、赦し合いなさい。
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝差は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。
エフェソの信徒への手紙第4章25節-第5章5節
説教題:「神の子として生きよ」
今朝は、エフェソの信徒への手紙第5章1-5節の御言葉を学びましょう。使徒パウロは、この手紙の読者とわたしたちに新たなる勧告をしています。5章1節の冒頭で使徒パウロは、「ですから」と述べています。そして、使徒パウロは、わたしたちに4つのことを勧告しています。
第一の勧告は5章1節です。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」
「神に愛されている子供」とは、神に愛されている人々です。神が愛する子らを意味し、「神に愛されている子供」と意訳しています。これは、キリスト者の表現の一つです。
「神に倣う者となりなさい」は、「神の模倣者になりなさい」です。これは、4章32節から来ている勧告です。「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださるように、赦し合いなさい。」この御言葉を、使徒パウロは一言にまとめて勧告しているのです。使徒パウロは、「神があなたがたを赦されたように、あなたがたも神に倣う者となりなさい」と勧告しているのです。
キリスト者の生き方の新しさは、赦しです。わたしたちは、神がキリストの十字架によってわたしたちの罪をゆるされたように、隣人の罪を赦さなければなりません。だから、「神に倣う者となる」ということがキリスト者の新しい生き方の大原則となるのです。
そして、5章2節でパウロは、第二の勧告を次のように述べています。「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」
パウロの第二の勧告は、「あなたがたも愛によって歩みなさい。」です。使徒パウロはあ、この勧告を文章の初めにしています。
神は、愛を動機に行動されます。1章4節で神がキリストにあってわたしたちを神の子に選ばれたのも、神の愛が動機でした。神がキリストによってわたしたちを救われたのも、2章4節で使徒パウロが述べていますように、神がわたしたちを愛されたからです。神がキリストの体なる教会を建て上げられるのも、3章17節、4章15節、16節でパウロが述べていますように、神の愛に根ざして、です。神の愛が動機となってです。だから、使徒パウロは、わたしたちに「あなたがたも愛を動機として行動しようではありませんか。」と勧告しているのです。
わたしたちが神の愛を確認できるのは、キリストの十字架の愛です。だから、パウロは、「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように」と述べているのです。神の愛は、キリストを通してわたしたちに現わされました。
キリストの十字架の愛は、旧約聖書においてはエルサレム神殿の動物犠牲として示されました。神殿の祭壇で動物犠牲が屠られ、立ち上る煙が「主なる神への良い香り」となりました。神の民たちの罪を、動物犠牲によって償ったのです。そして、動物犠牲は本体であるキリストの影でした。キリスト御自身がわたしたちの罪の犠牲として、あのゴルゴタの丘の上で献げられたのです。
このように十字架のキリストは、神のわたしたちへの愛が動機でした。だから、わたしたちも神に倣う者となり、愛を動機にし、隣人を愛するのです。その友のために、自分の命を犠牲とするほどに、愛するのです。この愛は、わたしが為すのではありません。わたしの中にいます聖霊が、キリストの霊がなされるのです。
使徒パウロの第三の勧告は、次の御言葉です。「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。」
「聖なる者にふさわしく」とは、使徒パウロが4章1節で「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み」と述べていることと同じです。歩むとは生きることであり、生活することです。わたしたちは、神の御国を相続するために召されたのです。だから、パウロは、わたしたちに「あなたがたを御自分の国と栄光に召された神にふさわしく歩みなさい」と勧告しました。ここでは、神がわたしたちを聖なる者として召されました。だから、それにふさわしく生きなければなりません。そのために一切の汚れたものから離れるべきです。その代表的なものが、「みだらな行い」「汚らわしいこと」「貪欲」です。使徒パウロは、わたしたちにこの三つのものを口にするなと勧告しています。
わたしたちは、聖なる者、すなわち、神の所有、キリストの所有として、この教会に召されたのです。だから、この世の汚れたものからわたしたちの身を守らなければなりません。
キリストの体なる教会は、言葉から、コミュニケーションから成り立つことを学びました。言葉には、良い言葉と悪い言葉があります。「卑わいな言葉」「愚かな話」「下品な冗談」は悪い言葉です。人を中傷する言葉と同じように、この教会の交わりを壊すのです。わたしたちがどこからどこへと旅しているのかを忘れさせるのです。そして、この世で、わたしたちをサタンの虜にするのです。
使徒パウロの第四の勧告は、4節の「感謝を表しなさい」です。小さな勧告です。しかし、とても大切な良い言葉です。4章20節で使徒パウロが「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉」と言っているのは、教会の礼拝における説教、そして祈りと感謝の言葉ではないでしょうか。
わたしは、「感謝を表しなさい」というパウロの勧告を、一つは信仰の証しの言葉だと思うのです。もう一つは賛美の言葉です。
わたしは、最近家内に「改革派教会って、感謝を話さないよね」と言われました。この教会でも会話は楽しみです。礼拝後集会室で自由に語り合うのです。しかし、その会話において感謝を表すことが少ないと思うのです。わたし自身も信仰の証しをし、聞く者に神の恵みを分かち合うことがありません。
ティータイムの時を、教会員との信仰の証しの場にしたいと願っているのではありません。わたしたちの世間話の中に、何か一つ感謝の言葉があれば、パウロがここで勧告するように、ここはキリストの体なる教会であると、わたしたちは思えるのではないだろうかと、わたしは思うのです。
わたしたちが日々生きている世界は、不倫、詐欺、貪欲、いじめ、パワハラが当たり前です。しかし、教会は神が召し集められた聖なる者の集まりなのです。キリストの十字架が語られ、罪の赦しが宣言され、神が聖であられるように、わたしたちも聖となることが求められるところです。
使徒パウロは、みだらな者、汚れた者、貪欲な者を、偶像礼拝者と呼び、神の御国を、彼らは相続できないと述べています。この三つの悪を行なう者は、この世だけを信じているのです。この世のみを楽しむ者たちです。偶像礼拝者たちもこの世における幸い、すなわち、家族の安全、商売繁盛を願う者たちです。自分たちの欲望を満たすことを常に求めているのです。
彼らは、神とキリストが召される御国に関心がありません。なぜなら、彼らの心は、この世にあるからです。しかし、使徒パウロは、わたしたちに勧告するのです。わたしたちの心は神とキリストの御国にあると。なぜなら、わたしたちは、わたしたちの内にいます聖霊がわたしたちに御国の相続を約束し、保証してくださっているのです。
使徒パウロは、わたしたちにそのことを良く知って、理解するようにと勧めてくれているのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ。今朝はエフェソの信徒への手紙5章1-5節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
わたしたちが、今朝のパウロの御言葉に励まされて、キリスト者として神に倣う者となり、愛によって歩み、聖なる者となり、感謝の生活をできるようにしてください。
どうか、この世の誘惑からわたしたちをお守りください。淫らなこと、汚れたこと、貪欲からこの身をお守りください。
わたしたちは、わたしたちの舌で罪を犯します。どうか、わたしたちの舌を制して、良き言葉を語り、悪い言葉を口にさせないでください。
どうか、この世のことに関心を持っても、悪魔の虜にしないでください。世を愛することなく、神を愛して、わたしたちの歩み、進むべき所が神とキリストの御国であることを、常に心に留めさせてください。
どうか今年一年、キリストと共に歩ませてください。どうか、一日に一度神への感謝を口にさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
エフェソの信徒への手紙説教22 2024年2月4日
むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行ないのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。—光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。―何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。
「眠りについている者、起きよ。
死者の中から立ち上がれ。
そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩篇と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
エフェソの信徒への手紙第5章6-20節
説教題:「光の子として生きよ」
今朝は、エフェソの信徒への手紙第5章6-14節の御言葉を学びましょう。使徒パウロがこの手紙の読者とわたしたちに「光の子として生きよ」と勧めています。8節の「光の子として歩みなさい」です。
使徒パウロは、光と闇という対立する言葉を用いて、キリスト者の生き方を勧めています。
光が今朝の御言葉を理解する鍵です。光は神の臨在と愛顧を示します。その反対が神の裁きです。神に裁かれるのが闇であり、実を結ばない闇の業です。
神は光です。清きお方です。誰も光の神に近づけません。そして光はキリストです。キリストは天からの光です。キリストを通して示された父なる神の愛が光です。
使徒パウロは、ダマスコで光である復活の主キリストに出会いました。そして、キリストは暗闇の中にいる異邦人たちを救うために、パウロを使徒に召し、遣わされました。使徒パウロはキリストの召しに答えて、異邦人たちに福音宣教し、光であるキリストを伝えました。それによって彼らの心は開かれ、彼らは暗闇から光に、キリストに立ち帰りました。彼は生涯異邦人伝道に尽くしました。
だから、使徒パウロは、この手紙の読者たちとわたしたちに6-8節で、こう語っているのです。「むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行ないのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」
「むなしい言葉」が具体的に何かを、使徒パウロは説明しません。しかし、パウロは神の怒りによって裁かれる「不従順な者たち」と結び付けています。4節の「愚かな話」とは、異なる危険なものなのでしょう。わたしたちを神やキリストから引き離し、滅びへと誘うものです。
今年は、元旦から悲しいニュースを聞きました。能登半島大震災です。多くの方々が犠牲となられ、愛する者と生活を奪われました。そして、この悲劇に出会うたびに、わたしたちは聞くのです。「神はいない。神がいるのなら、こんな悲劇がこの世に起こるはずがない」と。わたしは、これがパウロの言う「むなしい言葉」だと思うのです。
聖書は、「はじめに神は天地を創造した」と記しています。神が存在するからわたしたちもこの世界も存在するのです。神は主権者です。自由なお方です。旧約聖書のヨブ記を読んでみてください。神は、人を幸福にも不幸にもおできになります。ヨブの不幸は、神の試練です。ヨブは神に最後まで従順でした。だから、彼は再び幸いな生活に戻されたのです。
しかし、わたしたちの中には「神はいない。神がおられたら、この世にこんな悲劇が起こるはずがない」という言葉に動揺する方がいるでしょう。そのむなしい言葉に惑わされて、教会から離れる者が出るかもしれません。
だから、使徒パウロはわたしたちに「彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい」と警告しているのです。
異邦人キリスト者は、キリストに出会う前、闇の中に、神の怒りの下に生きていたのです。神でない偶像を拝み、神に敵対して生きていたのです。しかし、使徒パウロが語るキリストの福音を聞いて、彼らは闇の業を捨てました。むしろ、彼らはキリストを信じて、洗礼を受け、キリストに属する者と、今はなっているのです。
使徒パウロは、この手紙の読者とわたしたちに「光の子として歩みなさい」と勧めています。この世の闇の中を、わたしたちは光の子として生きるのです。キリスト者は、光であるキリストに結ばれて、光になっています。だから、使徒パウロは、わたしたちに光の子として生きよと勧めるのです。
その生き方の中心は、光であるキリストです。だから、使徒パウロは、9節で「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」と述べています。わたしたちはキリストに結ばれて、生活の中で三つの実を結びます。それは、善意と正義と真実の実です。
善意は博愛慈善です。能登半島大震災のためにわたしたちは、直接ボランティアに行けなくても、献金によって支えたいという思いを持っています。キリストが飼う者のいない羊である民衆たちを憐れまれたように、わたしたちも困っている人がいれば、助けたいと思うのです。
正義とはキリストです。キリストはこの世を正しく生きられたのです。わたしたちもキリストのように不正に満ちたこの世において正しさを求めて生きるのです。キリストが何が神の御心かを理解し、十字架の道を歩まれたように、わたしたちも主イエスに従って歩むのです。それが、わたしたちの正義です。
真実とは真理です。キリストは「わたしは道であり、真理である」と言われました。わたしたちは、キリストに従って光の子として生き、キリストを証しするのです。
使徒パウロは、わたしたちが光の子として生きることを具体的に二つ示しています。10-11節です。「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。」
光の子として生きる規準は、第一に「何が主に喜ばれるかを吟味」することです。17節でも使徒パウロは、「主の御心が何であるかを悟りなさい」と言い換えています。キリストに結ばれたキリスト者の歩みは、わたしの主人であるキリストに従う生活です。何よりも神に喜ばれる生活をしようとします。もう生きる規準はわたしではありません。わたしの好きなことが生きる規準ではありません。神が喜ばれることがわたしの生きる規準です。神の御意志に従って生きることがわたしの喜びなのです。
光の子として生きることの第二は、「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、それを明るみに出」すことです。わたしたちは、どんなにこの世が醜く、汚れていてもこの世を捨てることは出来ません。むしろ、闇の世において一つの光として存在すべきなのです。わたしたちがいるだけで、周りの人々に闇の業を明らかにするのです。わたしたちが明らかにするのは、積極的には隣人の闇の業を口で指摘して、明るみに出すことです。これは、言うは易し、行なうは難しです。勇気が入ります。
しかし、わたしたちが使徒パウロのように福音宣教をしますとき、キリストが福音を聞く人々の闇の業を明るみに出されるのです。だから、使徒パウロは、12-13節で「彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。」と述べています。
人を傷つける噂話、卑わいな話を、人はひそひそ話をします。それを公にすれば恥ずかしくて人前に立てません。しかし、光の子であるわたしたちがそこにいることで、光が陰を作るように、人としての恥ずかしい行為が明るみに出てくるのです。
しかし、わたしたちは、この世の人々を裁くために、光の子として生きるのではありません。使徒パウロは、以前、異邦人キリスト者たちが闇であったとき、彼は彼らの口にするのも恥ずかしい闇の業を明るみに出しました。そして、彼は異邦人キリスト者たちを、キリストの十字架の下に導いたのです。
使徒パウロは、14節で「明らかにされるものはみな、光となるのです。」と述べています。使徒パウロは、これは不思議な言葉です。闇の業を明らかにされる者、心に闇を抱え、彼らの罪が明らかにされた者は皆、今主に在って光なのです。光の子です。闇を暴かれた者がキリストに裁かれるのではなく、むしろ、光であるキリストに結びつけられて、神の子となるのです。これが、パウロが語っています福音です。
わたしたちは、どこにいても少数者です。この世でも、家庭でも、仕事場でも、キリスト者として一人でいます。全く無力な存在であるわたしたちに、使徒パウロは光の子として生きなさいと勧めます。
どんなに弱くても、無力でも、自分がキリスト者であることをどこにいても鮮明にするのが、光の子として歩むことです。隣人に、家族に実らない闇の業を明るみに出すことは、無理です。できません。当然です。しかし、使徒パウロは、わたしたちにわたしたちが光の子として、この世にいるだけで、わたしたちを通してキリストが隣人を、家族を光にしてくださるのです。御自身の光を照らしてくださるかです。
使徒パウロは、14節後半で旧約聖書の御言葉によってキリストが霊的に死んでいた者を復活させてくださることを述べています。眠っている者とは、霊的に死んだ者たちです。霊的に死んだ者たちを、復活のキリストが呼びかけて、闇から光に導いてくださるのです。
この御言葉は、使徒パウロの時代に教会で歌われていた讃美歌の一部です。「「眠りについている者、起きよ。
死者の中から立ち上がれ。
そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」」
わたしたちを通して、主イエスが闇に生きるこの世の人々に、わたしたちの家族に、「眠りについている者、起きよ。」と呼びかけられているのです。「死者の中から立ち上がれ。」と呼びかけられているのです。霊的に目覚めよと。
そして、復活の主イエスが霊的に死んだ者たちを、目覚めさせてくださるのです。キリストはわたしたちを闇から光に導かれたように、今闇にいる者たちを光へと導いてくださるのです。光の子として生きる者は、何よりも自分こそが闇から光にキリストによって導き出されたことを知る者です。キリストの光に照らされて、光の子であることを知る者です。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ。今朝はエフェソの信徒への手紙5章6-14節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
わたしたちが、パウロの御言葉に励まされて、この世で光の子として歩ませてください。家庭で、仕事場で、地域で光の子として生かしてください。どうか、神の御心が何かを求めさせてください。わたしたちがいることで、わたしたちが勇気を出して、闇の業を指摘することで、家族や隣人がキリストに照らされる機会をお与えください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
エフェソの信徒への手紙説教23 2024年2月11日
むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行ないのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。—光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。―何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。
「眠りについている者、起きよ。
死者の中から立ち上がれ。
そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩篇と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
エフェソの信徒への手紙第5章6-20節
説教題:「今は悪い時代なのです」
今朝は、エフェソの信徒への手紙第5章15-20節の御言葉を学びましょう。使徒パウロは、この手紙の読者とわたしたちにキリスト者としての生き方を教えています。そして、今朝学びます御言葉がキリスト者の歩み、生き方を纏めてくれているのです。それが、5章15節の御言葉です。「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。」
「細かく気を配って歩みなさい。」とは、「よくよく注意して、歩みなさい」ということです。要するに、わたしたちが正確に、あるいは詳細に、徹底してわたしたちのキリスト者としての歩みを見極めることです。
キリスト者は聖書という信仰と生活の規準を持っています。だから、キリスト者は、それに基づいて自分が愚かな者として生きているのか、賢い者として生きているのかを、正確に見極めることができるのです。使徒パウロは、そのようにキリスト者は聖書に基づいて自分の生活を徹底して、正確に自己点検できるし、自己点検すべきであると勧めているのです。
愚かな者と賢い者が比較されています。人は二種類います。愚かな者と賢い者です。聖書を規準にすれば、神などいないと言う愚かな者がおり、神を信じる賢い者がいます。
聖書が言う賢い者は、単に頭が良い者ではありません。彼の行動が神を信じる信仰と首尾一貫していることです。使徒パウロは、この手紙の1章17節で「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与え、神を深く知ることができるようにし」と祈っています。この神によってわたしたちは、知恵と分別を与えられるのです。神は、わたしたちに啓示の書である聖書をお与えくださいました。わたしたちがそれを読みます時に、聖霊によって何が神の御旨であるかを悟らせてくださいます。だから、わたしたちは自分の考えではなく、聖書を通して神の御心を知り、何が正しくて、何が間違っているかを判断できるのです。このようにわたしたちキリスト者は自己を検討しながら、生きているのです。
聖書から教えられる今、この世界は終わりに向かっています。ある意味わたしたちがこの世に生きるとは自分の死に向かって生きることです。それが、この世における人の常識でないでしょうか。
ところが使徒パウロは、16節で「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。」と勧めています。「時をよく用いなさい」とは、「時を贖う」という意味です。時を買い取ることです。贖いは、奴隷の身分の人を買い取り、解放することです。だから、救いなのです。
この世の時は、終末へと、この世の終わりへと縮まっています。だから、ある牧師は、次のように説明します。「使徒パウロが「時をよく用いなさい。」と言うのは、「時を稼ぎなさい」とか、「時を引き延ばしなさい」と言っているのだ。つまり、今は、悪い時代だ。人は自分のためにだけ、今の時代を利用している。そして、政治家のように自分のために今の時を悪用し、多くの人々のように今の時を空費している。だが、キリスト者たちはこの今の悪い時を、買い取り、少しでも主のために生かし、時を稼ぎ、延ばすべきだ」と。使徒パウロは、今の悪い時代、人々が時を悪用し、空費しているのを、あなたがたは買い取り、主のために有効に活用すべきだと勧めているのです。
具体的に使徒パウロは、何をすべきかを提示してはいません。しかし、彼は時が良くても悪くても福音宣教したのです。キリストを宣べ伝えたのです。キリスト者は証しするために、隣人や家族の救いのために今、自分たちが生きているこの悪い時代をキリストを伝える好機として用いるべきです。
だから、使徒パウロは、17節で「無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」と勧めるのです。キリスト者は、何事も主の御心を尋ねて、日々を生きるべきです。日常生活の小さなことでも、信仰に関係がないと思われても、主の御心を尋ね求めるべきです。それは、今の時を、少しでも主に喜ばれるように、わたしたちがキリストを伝える機会を得るためです。
そのためにパウロは、消極的な勧めをしています。18節です。「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。」パウロがこう言っているのは、キリスト者たちの中で酒癖の悪い者たちがいたのでしょう。使徒パウロは、コリント教会で貧しい信者たちが教会の礼拝に来ると、金持ちたちは既に酔っぱらっていたことを非難しています。
使徒パウロは、酒に酔いしれる中に身を持ち崩す、すなわち、放蕩があると言っています。コリント教会も酒で身を持ち崩したキリスト者も、キリストを証しする機会を失うのです。
礼拝の聖餐式にはワインが使われていました。だから、使徒パウロは、禁酒を勧めているのではありません。過度に酒を飲みすぎ、健康を壊し、放蕩し、キリストを証しできない者となることを戒めているのです。
18節終りから19節で、パウロは積極的に勧告しています。酒に酔いしれるのではなく、聖霊に満たされよと。「むしろ、霊に満たされ、詩篇と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」
教会とキリスト者がこの世にキリストを証しする好機は、礼拝でないでしょうか。教会とキリスト者が聖霊に満たされたのは、ペンテコステです。その日エルサレムの教会は、礼拝と神賛美によってキリストを証しし、3000人が救われ、キリスト者となりました。
初代教会の礼拝では詩編、賛歌が歌われていました。詩編は神賛美で、賛歌と同じです。「霊的な歌」とは、聖霊の霊感によって作られた歌です。わたしは、公的礼拝で賛美される詩編や讃美歌と考えています。
礼拝の讃美歌は、わたしたちの心に蓄えられたキリストの言葉です。礼拝讃美することで、わたしたちは説教で語られたキリストの言葉を、もう一度賛美を通して聴くのです。使徒パウロが「語り合う」と言っているのは物語ることです。わたしたちは、説教でキリストの言葉を聞き、神賛美でキリストを証ししているのです。だから、礼拝に家族を、知人を、隣人を誘うことがわたしたちの伝道です。
最後に使徒パウロは、20節で「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」と勧めています。
キリスト者の生活は、感謝の生活です。使徒パウロは、わたしたちに常に神に感謝しなさいと勧めています。わたしたちキリスト者の日常が神感謝なのです。主イエス・キリストの十字架によってわたしたちは今も悪い時代から贖い出されて、キリストの所有とされました。キリストの十字架がなければ、今もわたしたちは存在しません。
キリスト者として今の悪い時代に生きることは、恵みであるだけではなく、苦しみもあるでしょう。使徒パウロは、迫害によって殉教したのです。他の使徒たちも、逮捕され、牢獄に入れられ、殉教した者もいます。しかし、彼らは、キリストのゆえに辱められたことを感謝したのです。そして、キリスト者の感謝こそ主に向かって礼拝し、神を賛美することです。
今日、今ここでわたしは、わたしたちは主イエスに向かって礼拝し、神を賛美しているのです。心から主イエスの恵みに二、神の愛に感謝しようではありませんか。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ。今朝はエフェソの信徒への手紙5章15-20節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
わたしたちが生きている今の世は、悪い時代です。どうかわたしたちが聖書を規準として神の御心を従って生き、賢く生きる知恵をお与えください。
時をわたしたちのために買いとり、延ばして、キリストを家庭に、隣人に伝えさせてください。
キリストの恵み、神の愛のゆえに今わたしたちは、この教会で礼拝しています。どうかすべてのことを神に感謝させてください。
今の悪い時代は、いつか過ぎ去り、わたしたちは御国へと導かれることを信じています。どうかわたしたちの家族も、隣人もお導きください。教会のイースター礼拝を祝してください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
エフェソの信徒への手紙説教24 2024年3月3日
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。
また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。
エフェソの信徒への手紙第5章21-33節
説教題:「家庭の倫理 妻と夫」
今朝は、エフェソの信徒への手紙第5章21-33節の御言葉を学びましょう。使徒パウロは、この手紙の読者とわたしたちに家庭の倫理について教えています。「家庭訓」と呼ばれているものです。初代教会は、家の教会でした。使徒パウロは、キリスト者たちのことを、この手紙の2章19節で「神の家族」と呼んでいます。さらに使徒パウロは、ガラテヤの信徒への手紙6章10節で「信仰によって家族になった人々」と述べています。家は、当時の社会の中で都市国家の基盤となる一番小さな共同体でした。その家の共同体は、三組の関係で成り立っていました。夫と妻、親と子、そして、主人と奴隷です。だから、「家庭訓」は、夫と妻、親と子、そして主人と奴隷に関する倫理でした。
使徒パウロは。この世における「家庭訓」をキリスト教倫理として教えているのです。それが、5章21節の御言葉です。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」です。この御言葉は、18-20節の御言葉の締めくくりであり、21節から6章9節の「家庭訓」への導入の御言葉でもあります。わたしは、新共同訳聖書の立場で、「家庭訓」への導入の御言葉と考える立場で、お話したいと思います。
使徒パウロは、この世の「家庭訓」をキリスト教の立場で勧めています。家庭は夫と妻、親と子、主人と奴隷の関係から成立していました。そして、夫と妻、親と子、主人と奴隷は、キリスト者であり、エフェソの教会の教会員でした。だから、使徒パウロのこの「家庭訓」は、教会員である夫と妻、親と子、主人と奴隷がキリストとの関係においてどのように生きるべきかを教えているのです。
「畏れ」は、キリストに対する畏敬の念です。聖なる神に対する畏れです。使徒パウロは、この手紙の読者とわたしたちに教会員としてキリストを畏れ敬い、お互いに仕え合いなさいと勧めているのです。
使徒パウロは、4章25節後半で「わたしたちは、互いに体の一部なのです」と言っていますね。教会員は、キリストの体のお互いが肢体なのです。だから、パウロは、この手紙の4章2節で「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し」と述べています。その結果、パウロは、4章32節で「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合」う人々となると述べているのです。これが、キリスト教「家庭訓」です。
使徒パウロは、22節で「妻たちよ」と呼びかけています。「主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。」これは、「主に対するように自分の夫たちに」という文章です。「仕えなさい」という動詞はありません。「主に対するように」が、主を畏れるようにという意味です。パウロは、教会員の妻に勧告しているのです。夫をキリストであるかのように仕えなさいと。
だから、パウロは、23節で「キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。」と述べているのです。使徒パウロは、キリストと教会の関係を用いて、夫と妻の関係を述べているのです。使徒パウロは、キリストが教会の救い主であるように、夫が妻の救い主であると言おうとしているのではありません。キリストは、教会の救い主として教会のために御自身の命を与えられたほどに、深く教会を愛してくださいました。だから、夫も妻のためにキリストのように愛さなければならないということを述べているのです。
使徒パウロは、24節で「また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。」と述べています。教会は、キリストの大きな愛に答えて、感謝の応答をします。それが教会のキリストに仕えるということです。「すべての面で」というのは、徹底してという意味です。使徒パウロは妻に教会がキリストに徹底して仕えるように、夫に仕えなさいと勧めているのです。
25節から33節は、使徒パウロが夫に勧告しています。使徒パウロは、夫に何度も妻を愛しなさいと勧めています。25節で「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」、28節で「そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。」、33節で「あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。」と繰り返し述べています。
使徒パウロは、夫にキリストが教会を愛されたように、キリストのその愛に根ざして、妻を愛するように勧めています。キリストは、教会を愛され、御自身の命を教会のために献げられました。使徒パウロは、夫にキリストのその愛で妻を愛するように勧告するのです。
使徒パウロは、26節と27節で次のように述べています。「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」。これは、使徒パウロが洗礼について述べているのです。キリストの教会に対する愛と教会のために御自身の命を献げられたことが、洗礼という出来事にあらわされているのです。主イエス・キリストは、教会を、生き生きとさせて、栄光の姿に変えて御自分の前に立たせられるのです。そのためにキリストは教会を惜しみなく愛されるのです。
使徒パウロは、キリストと教会との関係にならって、28節で夫は自分の体のように妻を愛するように勧めています。「自分の体のように」とは、自分のようにという意味です。だから、続けてパウロは、28節後半で、こう述べています。「妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。」これは、夫と妻が一体であると、パウロは言っているのです。
使徒パウロは、29節でこう述べています。「わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。」人は、誰でも自己愛によって生きているのです。そして、キリストが教会を愛して、養い育ててくださるように、人はわが身を愛して、養い、育てるのです。
その理由が30節です。「わたしたちはキリストの体の一部なのです。」キリストが教会を養い育てられるように、わが身を育てるのは、わたしたちがキリストの体の一部であるからです。夫たちは、教会のようにキリストの愛で養われているのです。キリストの体の一部として。ですから、キリストが教会を愛されるように、夫は妻を愛さなければなりません。
パウロは、31節で次のように夫と妻は、一心同体であると述べています。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」これは、創世記2章24節の御言葉の引用です。夫と妻が一体であるという事実を語るために引用したのです。結婚する者たちのありのままの姿を現わしているのです。結婚する二人の愛の力強く、父も母も中に割って入れないのです。二人は強く結ばれ、一つの肉となるのです。夫と妻は愛し合うために一つの肉となるのです。
パウロは、32節で、次のように述べています。「この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」31節の「二人は一体となる」という引用の御言葉についてのパウロのコメントです。パウロは、この引用に示された結婚の神秘がキリストと教会の関係の神秘を語る根拠であるとコメントしているのです。二人は一体となる夫と妻は、キリストと教会との結合を意味しているのです。
パウロは、33節で次のように勧めています。「いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」」パウロは、勧告を最初に戻して、夫に自分のように妻を愛しなさいと勧め、妻に夫を敬いなさいと勧めて、家庭訓の妻と夫に関する勧告を終えているのです。
ローマ帝国は、絶対的家父長社会でした。男性が優位の社会でした。現代の日本の社会も法律では男女平等が保証されていますが、夫の暴力に苦しむ妻が多くいます。妻が夫の暴力におびえて、夫に服従している姿と、パウロが勧める家庭訓は違います。夫を恐れるのではなく、妻が夫を敬うように変えられたのは、教会に対するキリストの愛によって夫婦関係が変えられたからです。
妻も夫も、キリストを信じて、洗礼を受け、教会員となりました。共にキリストに対する畏れをもって、互いに仕え合う者となりました。キリストは教会の救い主となり、妻と夫の救い主となってくださいました。
そして、キリストは、聖霊を通して妻と夫の中に住んでくださり、彼らの心に畏れの思いを与えてくださるのです。愛を伴う畏れです。愛する夫に、妻に背くことはないかという畏れ、互いに傷つけはしないかという畏れ、互いの自由を奪い合うことがないかという畏れです。この畏れは、愛する心の強さに比例するのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ。今朝はエフェソの信徒への手紙5章21-33節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
パウロの家庭訓を学びます。わたしたちは、家庭の倫理と呼びますが、夫と妻、親と子、主人と奴隷の関係がパウロの時代の家であり、家庭でした。時代の違いはあり、習慣も文化もファッションも違いますが、キリストが教会を愛され、御自身の命をささげてくださったことは変わりません。
わたしたちも教会員です。キリストの十字架の血によって贖われた教会の一員です。どうか十字架のキリストの愛を見上げて、キリストが教会を愛されたように、妻を愛する夫としてください。キリストに愛された教会が心から感謝の応答をしたように、夫をキリストのように敬う妻としてください。
わたしたちの教会にキリストを信じる夫と妻を与え、増やしてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
エフェソの信徒への手紙説教25 2024年3月10日
子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
エフェソの信徒への手紙第6章1-4節
説教題:「家庭の倫理 子供と親」
今朝は、エフェソの信徒への手紙第6章1-4節の御言葉を学びましょう。
使徒パウロは、キリスト者の家庭を考えるとき、キリストに救われた者として妻と夫、子と親、主人と奴隷の関係を考えるように勧めているのです。妻と夫の関係においてキリストが介在されたように、子と親の関係においてもキリストが介在されます。それが、キリスト教的家庭倫理です。
使徒パウロは、第一に妻と夫とに主に在って妻は主のように夫に仕え、敬い、夫は妻を自分のように愛しなさいと勧めました。パウロは、キリストが教会を愛されるように、夫は妻を愛しなさいと勧めました。そして、キリストに愛された教会がキリストを敬い、仕えるように、妻は夫を敬い、仕えなさいと勧めました。
パウロは、キリストと教会の関係を妻と夫の関係になぞらえて、妻と夫は父母を離れて、自然に一体となっているのではなく、キリスト者の家庭はキリストの十字架の贖いによって妻と夫は結婚という神の神秘の中に置かれている、それはパウロにとっては、キリストと教会について語っているようなものでした。
では、子と親の関係はどうでしょうか。パウロにとって教会は神の国です。愛の共同体です。だから、キリスト者の妻と夫との家庭も、教会のように愛の共同体です。主に在って互いに愛し合い、仕え合う共同体です。
同時にパウロにとって神の国は進展します。教会は持続し、世代から世代へと継承され、発展するのです。それは、家庭も同じです。親から子へと受け継がれて行くのです。
妻と夫との関係ほど、子と親の関係はキリストと教会の関係で、パウロは語ってはいません。しかし、パウロは、教会が世代から世代へと受け継がれるように、家庭も親から子へと受け継がれることを願っています。
そのカギとなる言葉が「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい」というパウロの勧めであります。「主に結ばれている者として」とは、「主に在って」という意味です。パウロは、信者の子供たちにキリストによって救いに入れられた者として勧めをしているのです。
わたしたち改革派教会のキリスト者たちの理解は、信者の子供たちは生まれながらにキリストに救われた者たちです。昔、神の民イスラエルが奴隷の地エジプトから救われて、シナイ山に導かれ、主なる神と契約を結びました。主なる神は、神の民イスラエルに十戒を与えられました。そして、神の民はその十戒を通して主なる神にのみ従って生きるように命じられました。主なる神に従うことが彼らが世代から世代へと共同体を持続する道でありました。
契約の子たちも同じです。彼らは生まれながらにキリストの恵みの中に生かされました。だから、彼らは幼児洗礼を授かり、この教会員の一員とされ、両親と共に聖書を与えられ、神に従うように命じられているのです。そして、キリスト者の家庭は、主に在って子供たちが両親に従うことで、主なる神に従うことによって親から子へとキリスト者の家庭が受け継がれて行くのです。
両親に従うことは、言葉だけではありません。日曜日には両親と共に教会の礼拝に出席します。そして、両親の横で一緒に聖書朗読と牧師の説教を聴くのです。だからパウロは、この手紙で「子供たち」と呼びかけています。この手紙は、両親と共に礼拝する子供たちに向けて語られているのです。子どもたちは、パウロの勧めに耳を傾けたことでしょう。
パウロは、子供たちが両親に従うことが「それは正しいことです」と述べています。それは、十戒の一つと結びついているからです。子どもたちは、両親に主の祈りと十戒を暗記させられていたでしょう。
「父と母を敬いなさい」。これは、出エジプト記20章12節、申命記5章16節の御言葉です。十戒の第五戒です。十戒は、二枚の石の板に刻まれました。第一の石の板には第一から第四戒が刻まれ、第二の石の板には第五から第十戒が刻まれました。第一の石の板には神に関する戒めが四つ刻まれ、第二の石の板には隣人に関する戒めが六つ刻まれました。「父と母を敬いなさい」は、第二の石の板に刻まれた最初の戒めであり、この戒めには、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束が付いていました。
「あなたは幸福になり」とは、この世で繁栄するということです。長寿は、神の祝福でした。昔の教父は、パウロが子供たちに十戒の第五戒を理解させるために、主が神の民に与えようとされる地、カナンにおける神の民たちの永住、すなわち、神の国の建設を、子供向けに分かりやすく話していると説明しています。それが幸福となり、長く生きることができるという言葉です。
キリスト者の家庭形成は、教会同様に神の国の建設でありました。神の民が約束の地カナンで、家庭を作り、子供たちが父と母を敬い、この地で繁栄と長寿という神の約束を得ることが、神の国の建設を継続することになるのです。
このように理解しますと、パウロはわたしたちに次のことを教えてくれます。キリスト者が家庭形成することが教会を形成することに深く結びついているということです。わたしたちが神の国の建設というとき、それは、教会形成だけではありません。キリスト者の家庭形成が伴うのです。
そこでパウロは、「父親たち」と呼びかけます。パウロの時代、子供の教育権は父親にありました。今日的に言えば、「親たち」、「父と母」という呼び掛けになるでしょう。「子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」。両親は愛情を持って子供を育てたいと思います。しかし、子育ては思うようにいきません。何時の時代でも親は育児に悩んだのです。親の思い通りにしてくれない子供を叱ったでしょう。子どもを刺激し、興奮させ、なたみ、怒り、いだらちの感情を起こさせ、子供に悪い影響を与えてはいけないと、パウロは親たちに勧告しているのです。
パウロの時代は、子供の人権はありません。父親が強い力を持ち、子供を抑圧していたのです。パウロは、父たちに母親が赤ん坊の口に優しく乳を含ませるように、主イエスのように優しく子育てすることを勧めています。しつけと諭がどう違うのか、分かりませんが、主イエスが子供たちに接しられたように、父たちに愛と忍耐を持って子を育てるように、パウロは勧めているのです。
子も親も、自分を主なる神の御意志に従わせることを、パウロは勧めているのではないでしょうか。教会が神の国、主なる神が支配されているところであるように、家庭も神の国として主なる神が支配されているところです。子も親も、共に主なる神の御言葉に聞き従うのです。
旧約聖書のサムエル記上下と列王記上にダビデ王の生涯が描かれています。ダビデ王は敬虔な王です。神の民の模範です。しかし、弱さがありました。姦淫の罪を犯し、殺人の罪を犯しました。その罪によって彼の家庭に悲劇が起こりました。彼は子育てに失敗し、子供たちが罪を犯し、ある子どもは父ダビデ王を裏切り、政権を奪い、殺そうとしました。主なる神がダビデ王と約束され、その約束を守られたので、ダビデが建て上げた王国は、バビロニア帝国に滅ぼされるまで、500年近く続いたのです。
今、わたしたちは、自分たちの家庭も、この教会も、全く先に希望のない状況にあります。しかし、主イエスは、わたしたちに約束して下さいました。「わたしはいつもあなたがたと共にいる」と。
主イエスは、わたしたちの子供たちにわたしたちを通して語りかけてくださいます。この教会へと集うように、呼びかけてくださるのです。わたしたちの後に従うように、導いてくださるのです。だから、失望することなく、子供たちのために、孫たちのために祈ってください。独身の方は、助け手が与えられ、家庭を築けるように祈ってください。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ。今朝はエフェソの信徒への手紙6章1-4節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
わたしたちは、パウロの家庭の倫理を学ぶことができて感謝します。今朝は、子と親の関係について学びました。家庭も教会同様に神の国であり、主なる神の御意志に子も親も従うべきことを学びました。教会が継続するように、家庭も継続しなければなりません。そのためにわたしたちが主なる神に従い、子は両親に従わなければなりません。
どうか、わたしたちの教会に神の家族を与えてください。上諏訪湖畔教会をこれからも継続してくださり、わたしたちの家族を継続してください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。