エフェソの信徒への手紙説教16 2023年11月5日
そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。そこで、
「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、
人々に賜物を分け与えられた」
と言われています。
「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自らの愛によって造り上げられてゆくのです。
エフェソの信徒への手紙第4章1-16節
説教題:「主の召しにふさわしく歩め」
今朝よりエフェソの信徒への手紙第4章の御言葉を学びましょう。エフェソの信徒への手紙は、教理と勧告の部分に分けることができます。1章3節から3章21節までが教理の部分です。今朝の4章1節から6章20節がパウロの勧告の部分です。
4章1節の「そこで」は、「それゆえ」「従って」という意味で、パウロが1-3章で述べて来た教理の部分を受けています。そして、4-6章でパウロは勧告しているのです。
この手紙のテーマは一致と調和です。それが、パウロがこの手紙で神を賛美する根本的な理由であり、これからエフェソの信徒への手紙の読者たちに勧告する際の目標ともなっているのです。
パウロは、天地創造以前からのキリストにおける父なる神の救いの計画を語りました。ユダヤ人と異邦人は、敵対関係にありました。しかし、父なる神はキリストの十字架によってこの二つの壁を打ち壊され、キリストにおける平和を打ち立てられました。そしてユダヤ人と異邦人を一つの共同体として、新しく創造されました。それが、この世におけるキリストの教会です。神はキリストにおいてユダヤ人と異邦人を一つにされただけではなく、キリストにおいて万物を、宇宙を一つとされました。
だから、パウロは、4章6節で、こう述べているのです。「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」万物を創造された父なる神は、キリストにおいてすべてのものを結び付けられ、キリストとの一致を通して、すべてのものが万物を造られた父なる神へと至ることができるようにされたのです。
パウロは、この手紙の中でキリストの再臨に触れてはいません。教会は再臨のキリストを待つのではなく、わたしたちの歴史の中で、創造主なる神の摂理の下で成長し、発展していくのです。
復活後昇天されたキリストは、聖霊を通してわたしたちに賜物を与えられ、この世の教会に使徒、預言者、福音宣教者、長老、執事という人を立てられ、キリストの体なる教会を建て、成長させようとしておられます。そして、キリストの体なる教会は成長し、すべてを満たされるキリストによって満ち満ちた場とされています。教会は、キリストにあって宇宙(万物)と一つにされているのです。
本当にスケールの大きな教会論です。わたしたちは、教会と言えば、わたしたちの目に見えるこの上諏訪湖畔教会です。毎週の日曜日に5名前後の者が集まって礼拝する小さな教会です。ところがパウロがこの手紙で描いている教会は、キリストの体なる教会で、万物の創造者なる父なる神がキリストにあって、天地の創造の前から選ばれた者たちの共同体です。この共同体は歴史の中で大きく成長し、すべてを満たされるキリストによって万物を、宇宙を一つにするほどに大きくなるのです。
パウロは、こう勧告するのです。「主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。」と。
使徒パウロは、主イエス・キリストに捕らえられた囚人です。だから、パウロはこれから語ります勧告を、彼が主に在ってしているのです。
彼は勧告します。「神から招かれたのでから、その招きにふさわしく歩」めと。「神から招かれた」とは、神の召しのことです。父なる神が天地創造の前からキリストにあってわたしたちを選ばれました。そして、神はエフェソの信徒への手紙の読者たちを呼び出されて、エフェソ教会に召されました。そして、わたしたちを上諏訪湖畔教会に神は呼び出され、召されました。
パウロは、4節の後半で召された理由を、こう述べています。「それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。」と。神がエフェソの信徒への手紙の読者たちと今朝わたしたちを教会に呼び出され、召されたのは、わたしたちが一つの希望にあずかるためです。
使徒パウロは、この手紙の1章18節で、その一つの希望について、こう祈っています。「心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐべきものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」
心の目は、霊的なことを認識する目です。開くとは、暗闇に光が射しこみ、その光が鏡に反射するように、真理を鮮やかに明らかにすることです。聖霊によって、わたしたちは神にこの教会に召された一つの希望を鮮やかに明らかにされます。聖なる人々、すなわち、わたしたちキリスト者は神の御国を相続するという神の栄光の豊かさに与る希望があるのです。
だから、パウロは、わたしたちにこう勧めています。わたしたちを神の御国の栄光に召された神にふさわしく生きなさい、生活しなさいと。
その勧めの具体的なことが2-3節の御言葉です。「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」
「高ぶることなく」とは謙遜のことです。わたしたちの心が低いことです。わたしたちが相手を自分よりも優れた人と思う心です。それから柔和さを持つことです。それは優しい心のことです。パウロはわたしたちにヘリくだりと優しさを持つことを勧めるのです。
「寛容の心」とは、忍耐深さです。我慢強いは、キリスト者の性格です。キリスト者は激しい感情や怒りを遠ざけます。パウロは、神に召された者は、神の召しにふさわしく心をヘリくだり、心優しく、忍耐深くあれと、勧めるのです。
「愛をもって」の愛は、1章4節の「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して」とパウロが言っている神の愛です。2章4節でもパウロは、こう言っています。「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上もなく愛してくださり、その愛によって」と。だから、パウロは、ここでは神の愛によって兄弟姉妹が互いに忍耐しなさいと勧めているのです。神の愛は、聖書では罪の赦しと深く関係しています。だから、パウロは、キリスト者同士が互いにキリストにあって赦し合うように勧めているのです。
「平和」は神の平和のことです。パウロは、2章14節で「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」と述べています。キリストは、御自身の十字架の死によってわたしたちの平和、すなわち、ユダヤ人と異邦人との敵対関係を取り去り、神の平和を打ち立ててくださいました。キリストは一人の新しい人、すなわち、キリスト者を造り上げて神の平和を実現してくださいました。だから、わたしたちは、神の平和を作る使命を与えられています。それはキリストの平和の福音を、十字架の福音を伝えることです。そこで平和の絆が生まれます。それは、聖霊がわたしたちに与えてくださる連帯です。わたしたちがキリストと一つに結び付くことです。それが聖霊による一致です。それを、パウロはわたしたちに熱心に保ちなさいと勧めています。
3節の「保つ」という言葉は、わたしたちキリスト者の基本的な指針を維持するという意味です。霊による一致とは、聖霊がわたしたちに与えてくださる一致です。例えば聖書の御言葉を守ることです。わたしたちがウェストミンスター信条によってわたしたちの教会の信仰を保つことです。礼拝でわたしたちは、使徒信条を告白し、ウェストミンスター大教理問答を信仰告白します。一緒に口を揃えて主の祈りをします。これが、霊による一致を保つことです。
3節の「努めなさい」は熱心でありなさいという意味です。この熱心さは、わたしたちキリスト者の欠かせない資質です。わたしたちが聖書を学ことに、キリストを信じることに、祈ることに、献金することに熱心であること、これはわたしがキリスト者として生きる上で欠かせません。
どうか聖霊がわたしたちをキリストとの一致に結びつけてくださり、わたしたちが聖書の御言葉に、信仰に、祈りに、献金に熱心になることで、聖霊がわたしたちにお与えくださったキリストとの一致を、わたしたちが維持し、保つことができるように、祈ろうではありませんか。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ。今朝よりエフェソの信徒への手紙第4章の御言葉を学び始めました。どうかわたしたちがパウロの勧めに励まされて、信仰から信仰へと歩めるようにしてください。聖霊の導きにより、神の召しにふさわしく歩めるようにしてください。
わたしたちにヘリくだりと優しさと忍耐深さをお与えください。兄弟姉妹に対して寛容であり、主がわたしたちの罪を赦されたように、わたしたちも兄弟姉妹の罪を赦すことのできる寛容な心をお与えください。
キリストの十字架の愛のゆえに、わたしたちの交わりが愛と赦しの交わりとなるようにしてください。
どうか、わたしたちをキリストの平和の福音に生かしてください。80周年記念宣言の「平和の福音に生きる教会」についての宣言がわたしたちの教会で血となり肉となるようにしてください。
どうかわたしたちが聖霊による一致を求め、聖書を学ことに、主の祈りを祈ることに、主に献身することに熱心な者としてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
エフェソの信徒への手紙説教17 2023年11月12日
そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。そこで、
「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、
人々に賜物を分け与えられた」
と言われています。
「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自らの愛によって造り上げられてゆくのです。
エフェソの信徒への手紙第4章1-16節
説教題:「キリストの体を造り上げる」
今朝は、使徒パウロの教会論を学びましょう。パウロは、教会を人間の体にたとえています。
彼は、エフェソの信徒への手紙4章4節で「体は一つ、霊は一つです。」と述べていますね。これは人間のことです。人間は、一つの体と一つの霊から成り立っています。人間において一つの体と一つの霊は一致しているのです。
更にパウロは、4節後半で「それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。」と述べています。「一つの希望」が付け加えられています。彼は、人間が体と霊から成り、一つの希望に向けて、神に召されているように、教会も同じであると言っているのです。
さらに5節で彼は、体と霊の一致から教会は、「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」と述べています。教会の頭は主イエス・キリストです。主イエス・キリストは、教会のただ一人の主人です。教会は、キリストを心で主と信じ、口で告白します。この一つの信仰によって救われた共同体です。そして、この共同体に主を信じたわたしたちはキリストの御名による洗礼を通して入るのです。一つの信仰と洗礼を通してわたしたちは、死んで復活されたキリストと一つに結合するのです。
パウロは6節で「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」と述べています。これは、キリストの教会の霊的一致の根拠を述べているのです。
パウロは、教会を一つの体と一つの霊と言いますが、人間の体は一つでも、多くの肢体があります。頭があり、首があり、胴体があり、手があり、足があり、指があります。教会も多種多様の信者たちの集まりです。強い者がいれば、弱い者もいます。そして、人の心は複雑です。
だから、パウロは教会の一致の根拠を、人とその心に求めるのではなく、万物の創造者、すなわち、「すべてのものの父である神」に求めるのです。この神は唯一の御方であり、万物を超越し、同時に万物に内在する神であり、万物を創造し、摂理し、すべてのものを支配されている神です。パウロは、この神に教会の霊的一致の根拠を求めているのです。
わたしたちが一つになる、霊的に一致するということは、わたしたちの心の問題ではありません。天地万物を造られたわたしたちの父なる神が唯一であられるという信仰の問題なのです。
パウロは、7節で「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」と述べています。
パウロは、エフェソの信徒への手紙の読者やわたしたちに4章1節で神の招き、すなわち、神の召しにふさわしく歩みなさいと勧告しました。そして、2節で謙遜と柔和と忍耐を持ち、3節で平和のきずなで結ばれて、霊的に一致しなさいと勧めてきました。そして、4-5節で教会は一つであり、6節でその根拠が唯一の神にあると述べてきました。
7節の「しかし」という接続詞からパウロの話が教会の霊的一致からわたしたちキリスト者に与えられているキリストの賜物の多様性に移っているのです。
わたしたちキリスト者は、キリストから多くの賜物をいただいているのです。このキリストの賜物を、パウロは7節で「恵み」と言っています。キリストの恵みの賜物を、わたしたちキリスト者一人一人に、与えられているのです。恵みの賜物ですから、キリストからわたしたち一人一人に無償で与えられているのです。
わたしが面白いと思いますのは、パウロの「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」という表現です。
「キリストの賜物のはかりに従って」とは何でしょうか。「キリストの賜物」は、キリストというかの賜物という意味です。神がわたしたち一人一人にキリストというかの賜物を与えてくださったのです。
パウロは、それを市場で物を売り買いするときに使う秤ではかると、それは無限にということになると述べているのです。
父なる神はわたしたち一人一人を愛されて、キリストを賜りました。それは、神の無限の愛でありました。あのキリストの十字架は父なる神の無限の愛です。その基準に従って、神はキリストのかの賜物をわたしたち一人一人に与えてくださっているのです。
さらにパウロは、その根拠を旧約聖書の詩編の御言葉に求めています。8節です。「そこで、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」
と言われています。」
これは、旧約聖書の詩編68編19節の御言葉です。パウロは、70人訳聖書の詩編67編19節から引用しています。
わたしたちの新共同訳聖書、詩篇68編19節では、こう訳されています。「主よ、神よ、あなたは高い天に上り、人々をとりことし 人々を貢ぎ物として取り」。
パウロは、9-10節で、このように解釈しています。「「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」
これは、パウロが神の子キリストが人の子としてこの世に来られたことを述べているのです。キリストは、父なる神に従順に従われて、十字架で死なれ、陰府にまで降られました。そして、キリストは死者の中から復活され、天にまで引き上げられました。それは、復活のキリストによって万物が満ちあふれるためでした。
パウロは、11-12節でキリストの昇天がキリストの体なる教会を建て上げるための備えであったと述べています。
天に昇られた復活のキリストは、この地上にキリストの体なる教会を建て上げるために、わたしたちキリスト者に御自身の賜物を与えられ、「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」
復活のキリストの賜物によって教会の役職が与えられました。使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師です。彼らは、奉仕の業をし、キリストの体なる教会を建て上げるために設けられました。パウロは、11節で教会の役職名を記し、12節でその役職の者たちの目的を記しています。
天に昇られた復活のキリストは、教会にいろんな役職を与え、定められました。使徒は、直接キリストが派遣された者たちです。12使徒や異邦人への使徒とされたパウロたちです。これは、教会においては特別な職で、恒常的な職ではありません。キリストの体なる教会の土台を据える働きをしました。
預言者は、神から御言葉を託された者です。旧約時代の預言者ではなく、新約時代の初代教会の時だけに活躍した預言者です。預言者も使徒同様に、特別な職で、恒常的なものではありません。使徒と預言者がキリストの体なる教会の土台を据えました。
福音宣教者は、言葉通りのキリストの福音を宣教する人です。福音宣教者は、ある土地からある土地へと渡り歩いて、キリストの福音を人々に宣教していました。
牧者は、福音宣教によってキリスト者の群れが生まれると、羊飼いの役割を果たしました。各個教会の羊の群れを牧し、養いました。そして、この牧者が、後の時代に監督、司教と呼ばれるようになりました。
教師は、使徒、預言者に続いて、重要な役職でした。この三つの職は、地域の巡回者でした。また、この三つは、一人の者が担うことがあり、別々の者が担うことがありました。しかし、教師だけは特別な職ではなくなり、恒常な職となりました。今日では神学教師と呼ばれ、伝道者の養成のために奉仕をしているのです。
キリストの教会の基礎が据えられ、聖書が完成しますと、使徒と預言者の職は教会からなくなりました。しかし、福音宣教者と牧者と教師は、現在もあります。一人の者が福音宣教者と牧者と教師を兼ねることがありますし、それぞれ別々にその職を担っている場合もあります。復活のキリストは聖霊を通し、わたしたちにキリスト者一人一人に奉仕に適した者としてくださり、ある者は福音宣教者としてテレビやラジオ、インターネットを通してキリストの福音を伝えています。ある者は、牧者としてキリストの福音を聴いて、教会に訪れた者たちに説教し、キリスト教の教理を教え、洗礼へと導いて、その者の信仰を養っています。ある者は、神学教師として、福音宣教者や牧者の養成をしています。今日、この三つの職なしに、キリストの体なる教会を建て上げることは出来ません。
教会の長老も、牧者です。羊の群れを牧する者として、キリストは長老に羊を教える賜物を与えておられます。改革派教会は、長老が説教することを、奨励すると言っていますが、聖書の御言葉を説き明かして、信仰の証しのお話しするのですから、それは説教だと思います。
わたしが引退した後、引退教師に説教を願いするようになりますが、長老もキリストより奨励できる賜物を与えられているのです。牧師のように説教を作る必要はありません。他の牧師の説教集の説教を読んでも良いでしょう。聖書の御言葉を読み、自分の信仰を証ししても良いでしょう。大切なことは、キリストが証しされることです。キリストに救われた喜びを伝えることです。
パウロは、13節でキリストの教会を建て上げる目的を、こう述べています。「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」
上諏訪湖畔教会で礼拝するわたしたちが、神の子キリストに対する信仰と知識において一つになることです。信仰と知識は表裏一体です。わたしたちは、キリストを知りつつ、信ずるのです。だから、キリスト教の教理を深く学ぶほどに、わたしたちのキリストに対する信仰が深まるのです。パウロは「わたしたち皆」と言っていますね。礼拝する者皆が神の子キリストに対する信仰と知識において一つとなるのです。そのために礼拝において共に聖書と説教の御言葉を聴従し、共に使徒信条と主の祈りとウェストミンスター大教理問答を唱えるのです。その継続の中でわたしたちは皆、キリストに対する知識と信仰を深めていき、一つの信仰を持つ共同体に成長するのです。
「成熟した人間になり」とは、幼子に対して成人となることです。すなわち、わたしたちは、この教会での礼拝を通して、信仰の浅い人から、信仰の成熟した人へと背徴して行くのです。牧師に聖書と教理を教えられるだけではなく、わたしたちも万人祭司として家族に、友人に聖書を、キリスト教理を教える人となるのです。
そして、わたしたちは、この教会で「キリストの満ちあふれる豊かさまで成長するのです」。御国への希望に生きることです。そこがわたしたちの信仰の完成であるからです。キリストの計り知れないほどの愛の豊かさに、わたしたちが触れられるのは御国で、であります。
だからこそわたしは、この教会の礼拝でこの世界のすべての教会が「御国が来たらん」ことを祈らせてくださいと祈るのです。この祈りこそがこの教会の成人した姿であると思うのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ。今朝はエフェソの信徒への手紙4章4-13節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
どうかわたしたちがパウロの御言葉に励まされて、キリストの教会を建て上げ、信仰から信仰へとわたしたちが成熟できるようにしてください。
復活のキリストの賜物をいただき、牧師として奉仕の業に適した者としていただき、心より感謝します。どうか長老たちも、聖霊によって按手を受け、キリストの賜物をいただいています。どうか、彼らの奉仕の業に適した者として、この教会の群れを教えることができるようにしてください。そして、来年、わたしの定年後に備えさせてください。また、教会員全員がキリストに対する信仰と知識において一つとなり、成熟した者となり、御国に至るキリストとの豊かな交わりを喜ぶことのできる者としてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
エフェソの信徒への手紙説教18 2023年12月3日
そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。そこで、
「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、
人々に賜物を分け与えられた」
と言われています。
「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自らの愛によって造り上げられてゆくのです。
エフェソの信徒への手紙第4章1-16節
説教題:「自ら愛によって造り上げる」
使徒パウロは、教会の成長について述べています。わたしが神学校を卒業し、伝道の一線に立ちましたとき、教会の中で教会成長論が盛んに主張されていました。教会の成長は数であると主張されました。アメリカで教会成長論が流行り、メガチャーチが造られ、日本にも大きな影響を与えました。
それは、歪な教えであったと思います。何年かすると、教会の成長は数ではなく、教会の質の向上であるという主張がなされ始めました。
パウロが14節で言っている通りのことをわたしは経験しました。「こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく」。
わたしは、パウロが言うように、教会成長を考える時、わたしたちが「もはや未熟な者ではなく」ということが大切だと思います。「未熟な者」とは、13節の「成熟した人間」とは反対のものです。一人前の人間ではなく、子供であるという意味です。成人に対する幼子です。信仰の浅い人です。
聖書に対する学びが浅く、キリストを基準にして物事の判断ができず、この世の流行に、この世で有名である人々の主張に流されるのです。中には、パウロが言うように、わたしたちを誤りに導こうとする悪賢い人間がいるのです。まるで風が吹くようにあちらの教えからこちらの教えに変わりやすいものに、わたしたちは右に左にと、翻弄されるのです。そして、わたしたちが忘れた頃に、新たに手を変えて教会成長論が主張されるのです。
異端の教えで、わたしたちは経験していますように、一旦迷わされると、わたしたちは行くべき方向を見失い、わたしたちの身を滅ぼすまで、突き進むのです。
その危険を避ける道は、パウロが15節で次のように述べていることを、実践する以外にありません。「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」
「愛に根ざして」とは、愛を動機にしてという意味です。「真理を語り」とは、「真理を行い」という言葉です。それが、真理を語る、真理であるという意味になりました。人の行為が問われていますので、わたしたちの聖書は「真理を語り」と訳しました。パウロは、この手紙の1章13節で「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」と述べていますね。真理の言葉は、救いをもたらす福音であり、真理を語るとは、パウロにとっては福音を語ることでした。
パウロにとって教会の成長は、人の数を増やすことではありません。彼は、教会の成長について、こう述べています。「頭であるキリストに向かって成長していきます」。
キリストは教会の頭です。教会が人体にたとえられています。わたしたちは、人の体の中心を心臓と考えていないでしょうか。パウロは頭だと考えているのです。教会という体は、頭であるキリストを中心にして動き、成長するのです。だから、パウロにとって教会の向かうべき目標、到達点は、キリストです。キリストにこそ教会の一致があり、わたしたちが成人となる「キリストの満ちあふれた豊かさ」があるのです。そして、16節で、パウロはそのキリストをさらに明らかにするのです。
パウロは、教会がキリストに向かって成長して行くと述べていますが、11節と12節の御言葉から明らかなように、キリストは教会に奉仕者を与えられ、彼らの奉仕を通してキリストの体なる教会を建て上げ、成長させられます。コリントの信徒への手紙一の3章でパウロは、植物をイメージして、神が教会を成長させてくださることを述べています。パウロが植えて、アポロが水を注ぎ、神が成長させてくださったと。
また、成長は信仰であり、キリスト者の善き業です。そして、教会全体が成長させられ、教会は一時的に栄えるだけではなく、幾世紀にわたって成長していくのです。
教会で毎日曜日に礼拝がなされ、礼拝で真理が語られ、福音が語られ、聞かれることで、あらゆる面で教会はキリストに向けて成長して行くのです。パウロの理解によれば、この「あらゆる面で」は万物、宇宙の成長を含むのです。だから、キリストは教会の成長の要であり、宇宙、万物の成長の要です。
パウロは、16節において頭であるキリストのお働きについて述べています。どのようにキリストは、教会全体を成長させてくださるかを述べています。
それは、教会の体と体をつなぎ合わせ、組み合わせて、全体を一つに調和させる働きです。キリストの肢体であるわたしたち一人一人がそれぞれ主から賜る賜物を分かち合い、それぞれの力に応じて奉仕の業をし、キリストの体なる教会を成長させていくのです。
わたしたちは、普段人格も思想も習慣も違う者です。しかし、わたしたちの思いを越えて、教会では福音宣教を通して、わたしたちが神の御言葉を聴くことを通して、多方面で成長して行くのです。教会の成長は、人の数だけではありません。多方面に及ぶのです。わたしたちの思い越えた所で主は、教会の成長を促されているのです。
今日からアドベントに入りました。クリスマス礼拝に向けて準備が進められています。今年は12月16日にクリスマスーフォークダンスの集いをします。下諏訪フォークダンスクラブに主演をお願いして、開催の運びとなりました。これも、主が働きかけてくださった教会の成長です。世界の平和のために、主イエスはこの教会のクリスマス-フォークダンスの集いを用いてくださるのです。
このように考えると、主イエスはわたしたち一人一人のこの世での働きを通して教会を成長させてくださっているのです。
そして、この16節でもパウロは、「自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」と述べています。「自ら」は、体全体のことです。教会の体全体が愛を動機として造り上げられているのです。
キリストの愛、十字架の愛を動機として、教会全体が造り上げられ、キリストの愛に答えるわたしたちの愛を動機にして、教会の成長があらゆる面で広げられているのです。
使徒パウロは、教会成長の要は愛という動機であることを述べているのです。今年のクリスマスは、キリストの十字架の愛を共に心の思い描き、わたしたちの愛によって少しでも教会の成長が広がるようにしようではありませんか。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ。今朝からアドベントに入ります。神の御子キリストの御降誕を瞑想し、神の愛を深く心に留めさせてください。
今朝はエフェソの信徒への手紙4章14-16節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
わたしたちの教会は小さな群れでありますが、パウロの御言葉に励まされて、キリストの教会の成長を学び、励まされたことを感謝します。
この教会を成長させてくださるのは主イエスです。どうか、クリスマスのイベントを通して、わたしたちの教会を成長させてください。
どうか、キリストの賜物をいただき、牧師として、長老として、信徒として、奉仕の業に励み、教会の成長に関わらせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
エフェソの信徒への手紙説教19 2023年12月10日
そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。
だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。
エフェソの信徒への手紙第4章17-24節
説教題:「この世の価値観を捨てる」
使徒パウロは、この手紙の読者にキリストの体なる教会について教えた後に、具体的な倫理的勧告を述べています。
4章17節で彼は、「そこで、わたしは主によって強く勧めます。」と述べています。使徒パウロは、「そこでわたしは主に在って言い、また証言します」と述べているのです。4章1節の「わたしはあなたがたに勧めます」よりも強い勧告です。
そこでパウロは、この手紙の読者、そして、わたしたちに、キリスト者として二つの具体的なことを勧めているのです。第一は、17-19節です。「異邦人と同じように歩んではなりません。」第二は、20-24節です。「心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」
使徒パウロは、キリストの体なる教会の多様性とその中での一致を述べた後に、読者たちに、わたしたちにキリスト者としての具体的な原理原則を、述べているのです。わたしたちがキリスト者であるならば、こういうことはしてはいけませんと言っているのです。
17-19節です。「もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」
使徒パウロは、読者たちに、そしてわたしたちに4章1節で「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み」と勧告しました。その勧告の反対のことが17節の使徒パウロの「異邦人と同じように歩んではなりません」という勧告です。
この手紙の読者たちもわたしたちも異邦人キリスト者たちです。神もキリストも知らないところから十字架の福音の宣教によって救われました。主イエス・キリストが唯一の救い主であり、キリストの十字架の死によってわたしたちは罪を赦され、キリストの復活によってわたしたちは永遠の命が約束されました。そして聖霊をいただき、わたしたちの古き人は死に、新しき人に変えられたのです。
だから、キリスト者たちは入信前の生活に戻ることはできません。キリストを知らなかった時の生活を続けることは出来ません。そして、キリスト者にとって生きることはキリストです。キリストがこの世と同調されなかったように、キリストがこの世の価値観で生きられなかったように、わたしたちもこの世に同調することもこの世の価値観で生きることもできません。
使徒パウロは、17節で異邦人の生き方を、「彼らは愚かな考えに従って歩み」と述べています。「愚かな」は、空虚な、心が空っぽであるという意味です。使徒パウロは、異邦人が「彼らの精神の空しさの中に歩む」と述べているのです。
使徒パウロからすれば、異邦人は真の神を知り、崇めるということができません。それが彼らの精神の空しさです。天地万物を創造された真の神に、心が定まりませんから、自分たちが何のために生きているのか、どこに向けて生きているのか、分からずに、とにかく今は金を儲けよう、面白、おかしく生きよう、あるいは人生を無意味であると否定するのです。
「愚かな考え」とは、空虚な精神、むなしい心です。使徒パウロは、異邦人のように空虚な精神、むなしい心で生きるな、生活するなと勧告しています。
では空虚な精神、むなしい心とは何でしょうか。それは、18節で第一に彼らの中にある「無知」であり、第二に「心のかたくなさ」であると、パウロは述べています。それらによって彼らの「知性が暗くなり」、彼らは真の神を認識することも、罪人である自分を理解することも、そのため自分たちが今悲惨な罪の状況にいることを洞察することもできないのです。彼らは神の御心を知ろうとしないし、交わろうともしないので、「神の命から遠く離れています。」真の神との命のつながりがないということです。
さらに使徒パウロは、19節で彼らの中にある空虚な精神、むなしい心が第三に「貪欲」であり、第四に「ふしだらな行い」であると述べています。わたしたちの聖書には、「貪欲なまでに」という言葉がありません。実は貪欲と不品行は結び付いているのです。貪欲は偶像礼拝であり、偶像礼拝のあるところに神殿娼婦がおり、そこで人々は性的に乱れた行い、汚れた行いをしていたのです。
現代も同じです。偶像礼拝はしなくても、お金を崇めています。お金のためであれば、人は何でもするのです。貪欲にお金を得ようと、ふしだらな行いが商売として為されています。
使徒パウロの言う「無感覚になって」というのは、痛みを感じないということです。お金のために体を売る商売をしても、現代人は痛みを、良心の痛みを感じなくなっています。老人からお金をだまし取っても、痛みを感じていません。良心が麻痺し、身体的にも精神的にも痛みを感じない状態になっているのです。そして、更に悪いことには、今やテレビやインターネットによって、あらゆるふしだらな行いがわたしたちの日常の生活として流行していることです。それによって人々の貪欲とふしだらな行いが拡散されているのです。
使徒パウロは、空虚な精神、むなしい心が第五に「放縦な生活」であると述べています。放縦は悪魔的な不思議な力に打たれるという意味から身を持ち崩す、放縦という意味になったそうです。ルカによる福音書15章で主イエスが放蕩息子のたとえ話をされています。弟息子が父に生前の財産分けをお願いし、大金をもって他国に住み、放縦に身を任せて、財産を使い果たし、父の所に帰ったというお話です。天地万物の創造者なる神を知らない異邦人は、神から与えられたもので放縦な生活をしている者です。弟息子のように、いつの日か破産宣告を告げられるでしょう。
このように使徒パウロは、具体的に異邦人、すなわち、真の神を知らない者の生活を示して、彼らのような生活を、生き方をするなと勧告しました。
使徒パウロは、読者やわたしたちに20-24節でキリスト者の具体的な生活、生き方を勧告しています。
キリスト者の生活は、キリストから聞いたこと、学んだことを自分たちの日常生活に適応することです。使徒パウロは、読者やわたしたちに異邦人たちが空しい心で生きていることに対して、20節で「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。」と述べています。それは、読者の異邦人キリスト者たちもわたしたちも、精神が空虚となるように、心が空しくなるように、キリストを、キリスト教を学んだのではないという意味です。わたしたちキリスト者の心に豊かな神賛美が起こるように、読者たちとわたしたちはキリストを学びました。
異邦人たちの心の空しさ、空虚さに対してキリスト者の心にはキリストを学ぶ喜びがあります。心がキリストで満たされる喜びこそ、わたしたちが礼拝においてキリストの言葉を聞き、キリストを学ぶ喜びです。
だから、使徒パウロは、21節で「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。」と述べています。「キリストについて聞き」は、「彼を聞き」、「彼の教えを聞き」です。わたしたちのキリスト者の生活から言うのであれば、今わたしたちがここでしていることです。使徒パウロがこの手紙の1章13節で「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き」と述べていることです。これがキリストを学ぶ第一段階です。わたしたちが毎週の礼拝説教を通してキリストの福音を聞くのです。続けて聞くわたしたちにキリストが真理を教えてくださるのです。使徒パウロは、この手紙の1章3節で「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」と述べています。わたしたちは、説教を聴きながら、キリストについて尋ね、知り、理解し、信じ、学ぶのです。そして、キリストこそ真の神、救い主と信じて従うのです。
だから、わたしたちは、毎週の礼拝で説教を通して語られる主キリストについて行くのです。わたしたちにとって真理はキリストです。だから、使徒パウロは、22-24節で異邦人のように古き人に従って生活しないで、神の姿に似せて創造された新しい人を着るように勧めています。
「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」
異邦人キリスト者は、以前は異邦人と同じ生活をしていたのです。「以前のような生き方」とは、この世に価値観を置く生き方です。物質的な豊かさを求めて、心空しく生きることです。主イエスがお話になった愚かな金持ちです。自分のために多くの物を蓄えますが、神は彼の命を今夜奪われます。彼が蓄えたものは誰のものになるのでしょうか。
キリスト者は自分も神の所有であることを知っています。愚かな金持ちのように貪欲によって滅びへと向かう古き人を脱ぎ捨てるべきです。
そのためには、聖霊に信頼する聖なる生活を追い求めるべきです。使徒パウロは、23節で「心の底から新たにされて」と述べています。それは、聖霊の働きです。主イエスは、この手紙の1章13節後半に「福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」と述べています。キリスト者であるわたしたちは、聖霊の証印を押されているのです。その証印は、人や物に刻印することです。そこから転じて、人間は神に捺印されたコピーであるという意味でこの証印が使われました。
だから、使徒パウロは、聖霊の働きによってキリスト者が証印を押され、「心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着けるべきである」と述べているのです。「心の底から新たにされて」は、聖霊によるわたしたちの心の刷新です。聖霊が日々わたしたちの心を新しくしてくださるのです。「神にかたどって造られた新しい人」とはキリストです。わたしたちは古き人を脱ぎ捨てて、キリストを新しく着るのです。
着るとは、服を着替えることです。服が古い物から新しい物に変わるのであって、わたしたちは変わりません。わたしたちの生き方は、わたしたちが本質的に変わるのではなく、聖霊がわたしたちの内にキリストが生きてくださるようにしてくださるのです。キリストは、わたしたちが真理であるキリストに従って生きることができるようにしてくださいます。それが真理であるキリストに基づいたキリスト者の正しく清い生活です。だから、わたしたちにとって大切なことは、わたしたちを古き人に、この世の価値観に身を委ねることではなく、聖霊のお働きに身を委ねて、キリスト者としての聖化の道を歩むことであります。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ。アドベントの第二週に入りました。神の御子キリストの御降誕を瞑想し、神の愛を深く心に留めさせてください。
今朝はエフェソの信徒への手紙4章17-24節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
どうかわたしたちが、今朝のパウロの御言葉に励まされて、キリスト者として聖化の道を歩めるようにしてください。
どうか、この世の誘惑に陥ることなく、聖霊のお働きに身を委ね、わたしたちの内にいますキリストに従わさせてください。
この世の価値観を捨て、キリストが人としてこの世を歩まれたように、わたしたちもキリストに倣って、この世を歩ませてください。そして、わたしたちの国籍が天にあることを覚えて、キリストの再臨を待ち望ませてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
エフェソの信徒への手紙説教20 2024年1月7日
だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださるように、赦し合いなさい。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝差は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。
エフェソの信徒への手紙第4章25節-第5章5節
説教題:「新しい生き方」
使徒パウロは、この手紙の読者に4章17-19節で異邦人のように空虚な心で歩まないように勧めました。20-24節で霊的に刷新されて、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るように勧めました。
そして、今朝の4章25節から32節で新しい生き方を、具体的に勧めているのです。
新しい生き方の第一は、使徒パウロが25節で勧めている、偽りを捨てて、兄弟姉妹たちと真理を語り合うことです。
使徒パウロは、「悪徳表」と「徳目表」を用いて具体的な倫理的勧告をしています。「徳」とは人の優れた性質です。それを列挙したものが「徳目表」です。反対に人の劣った性質を列挙したものが「悪徳表」です。
真理は、「徳目表」の中の一つであり、徳目を総括する言葉です。偽りは真理の反対のものであり、悪徳をまとめる言葉です。使徒パウロは、この手紙の読者に偽りという言葉でまとめられる悪徳を捨てて、真理を、善を語り合いなさいと具体的に勧めているのです。
「真実を語れ」とは、旧約聖書の預言書ゼカリヤ書8章16節の御言葉です。バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちは、第二神殿を再建し始めました。土台を据えてから何年もの間、工事が中断されました。外からの妨害もありましたが、内輪もめをしたからです。主なる神は、預言者ゼカリヤを遣わして、エルサレムに帰還した神の民たちにエルサレム神殿の完成を約束されました。同時に主なる神は帰還したユダヤ人たちに悔い改めを要求されました。それが「あなたがたは真実を語れ」という命令だったのです。
偽りを捨て、真実を語れ。これが主なる神が神の民たちに求められる悔い改めです。単にうそをつくな、本当のことを話しなさいということではありません。主なる神は、エルサレムに帰還し、仲間割れしている神の民に、悪を捨て、互いに罪を悔い改めよと命じられたのです。
使徒パウロは、その主なる神の御言葉を引用し、この手紙の読者たちに「あなたがたは互いにキリストの体の一つ一つの肢体であるのだから、自らの悪を捨て、互いに罪を悔い改めなさい」と述べているのです。わたしたちが教会の頭であるキリストに向かって、互いに真実を語る、すなわち、悪を捨て、自らの罪を悔い改めることなくして、わたしたちの信仰の成長はないのです。
だから、わたしたちキリスト者の新しい生き方は、第一にわたしたちが悪を捨て、真実を語ることです。罪を悔い改めることです。罪を悔い改め、互いに赦し合い、支え合ってこそ、キリストの教会は建て上げられ、成長するのです。
第二に新しい生き方は怒ってはなりません。怒りは、「悪徳表」に載せられる人の劣った性質の一つです。生まれながらの人が持つ性質であり、古き人の一つの特質です。キリスト者は、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着たのです。だから、キリスト者は、怒りによって主なる神に対して罪を犯してはならないのです。
わたしたちは、肉の者です。弱さがあり、怒ることがあります。しかし、それによって主なる神に罪を犯すなと、使徒パウロは勧告するのです。日が沈むまで怒るなということは、一日の始まりから終りまで怒り続けるなという意味です。
この怒りは、悪徳です。隣人に、教会の兄弟姉妹に恨みを抱くという怒りでしょう。そのような怒りは、すぐに抑えないと、教会の中に憎しみが生まれ、教会の成長を阻むでしょう。
新しい生き方の第三は、27節の悪魔に隙を与えないことです。悪魔は、常に教会の中に分裂を生み出そうとしています。兄弟同士がいがみ合う機会を狙っています。教会の中に争いの場を広げようと、常に機会を狙っています。わたしたちが怒るならば、悪魔はそれを利用して人殺しへと誘惑するでしょう。その誘惑からわたしたちが逃れられる道は一つです。十字架のキリストを仰ぎ見ることです。怒りによって神に罪を犯すわたしたちのためにキリストが十字架の神の怒りを引き受けて下さいました。それによってわたしたちは罪を赦され、悪魔からも怒りという罪の牢獄からも救い出されたのです。
新しい生き方の第四は、人のものを盗まないことです。労働の労苦で得たものを教会の兄弟姉妹と分かち合うことです。
盗むなは、十戒の第八戒です。「悪徳表」の一つです。盗みは、他人の財産を、所有物を奪い、自分のものとすることです。
盗みをしている者は、今から人のものを盗んではなりません。むしろ汗を流し、労苦して働いて、日々の糧を得て、必要な人に施しをしなさい。新しい人の生き方は、労働を通して人々と分かち合う生活です。働いて得たお金を必要な人と分かち合うのです。それが、教会の献金です。献金という形で必要な人に分かち合うのです。
使徒パウロは、異邦人教会の兄弟姉妹たちが働いて得たお金を、エルサレム教会の貧しいキリスト者たちに施すために、献金として集めたのです。キリストの共同体を建て上げるためにキリスト者が仕事に従事し、賃金を得て、その賃金を共同体のために、貧しい者たちのために分かち合うことが、パウロの言う新しい人の生き方でありました。
新しい生き方の第五は、言葉、コミュニケーションです。言葉も悪い言葉と良い言葉があります。29節で使徒パウロは、この手紙の読者たちに「悪い言葉を一切口にしてはなりません。」と勧告しています。キリストの共同体は、言葉で成り立つのです。悪い言葉とは、腐った、価値のない言葉です。具体的には人の悪口を言う言葉であり、人を誹謗中傷する言葉です。キリストの共同体を壊す言葉です。
良い言葉は、「聞く人に恵みを与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉」です。パウロの時代、話された言葉を聞くことがコミュニケーションの第一でありました。パウロが語りましたキリストの福音の言葉こそ聞く人に神の恵みを与える良き言葉であり、キリストの教会を建て上げるのに役立つ言葉でした。
新しい生き方の第六は、聖霊を悲しませないことです。聖霊は、わたしたちの内に、そしてこの上諏訪湖畔教会の内に宿ってくださり、わたしたちのすべての悪を悲しまれ、上諏訪湖畔教会のすべての悪を悲しまれるのです。わたしたちが「悪徳表」のすべての悪を行なうならば、聖霊を悲しませることになるのです。使徒パウロは、わたしたちが聖霊を悲しませることをしないように勧告しているのです。
贖いの日は、わたしたちの救いの日です。地上の幕屋を脱ぎ捨てて、天からの住まいを着る日です。わたしたちは、聖霊に封印され、贖いの日にわたしたちの救いが完成する日に、封印が解かれ、神の子として救いに、神の御国を相続するのです。
だから、使徒パウロは、31節で「悪徳表」にあるすべての悪徳を、一切のわたしたちの悪意と共に捨て去るように勧告します。悪徳表は、無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりが列挙されています。わめきは、争いや戦いの中から出てくる叫びのことです。そしりは冒瀆です。悪いことを言うことです。使徒パウロは、この手紙の読者にこれら列挙されたすべての悪を捨て去れと命令しているのです。
最後に32節で使徒パウロは、新しい人の生き方を、赦し合う共同体として描いています。使徒パウロは、この手紙の読者にキリストが十字架によってわたしたちの罪を赦して下さったように、わたしたちは互いにキリストに導かれて、わたしたち自身を赦し合いましょうと勧告しています。
互いに親切にし、憐れみの心で接しとは、それぞれの兄弟姉妹たちの困難さに共鳴できる心で、交わりをなすということです。神がキリストを通してわたしたちを赦されたように、わたしたちが兄弟姉妹を赦し合う、そのような共同体にわたしたちが生きることが、新しい人の生き方なのです。
これは、人の目に見える努力で達成できることではありません。今わたしたちがこの教会に置かれている恵みこそが、神への感謝を通してわたしたちが経験する新しい人の生き方なのです。神とキリストがわたしたちを赦して下さった、そのキリストの十字架の下に今わたしたちは置かれているのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ。今朝はエフェソの信徒への手紙4章25-32節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
どうかわたしたちが、今朝のパウロの御言葉に励まされて、キリスト者として新しい生き方ができるようにしてください。
どうか、すべての悪を捨て、兄弟姉妹と真理の言葉を語らせてください。怒りから解放してください。悪魔からお守りください。労働によって糧を得て、必要とする人と分かち合うことができるようにしてください。人の益となる言葉を語らせてください。
どうか聖霊を悲しませることがなく、すべての悪から遠ざかり、赦し合える交わりを与えてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。