エフェソの信徒への手紙説教01 2023年6月4日
神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロからエフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信じる人たちへ。わたしたちの父である神とイエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
エフェソの信徒への手紙第1章1-2節
説教題:「恵みと平和」
本日よりエフェソの信徒への手紙を、主日礼拝で連続講解説教します。
エフェソの信徒への手紙とありますように、これは手紙です。手紙は差出人がおり、受取人がいます。そして、差出人から受取人に挨拶があります。それが、エフェソの信徒への手紙の第1章1‐2節の御言葉です。
エフェソの信徒への手紙の差出人は誰でしょうか。1章1節に「パウロから」とあります。そして「パウロ」に「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされた」という文章が付け加えられています。
パウロは、「使徒」なのです。そして、その「使徒」に「神の御心によって」と「キリスト・イエスの」という言葉が掛けられています。
使徒とは、遣わすという動詞の名詞形です。元々は遣わされた者という意味です。父なる神の永遠の聖定的御意志によって、パウロはキリスト・イエスに救われ、召されて、異邦人たちにキリストの福音を伝える者とされました。
だから、パウロは、自分のことを、手紙の受取人に「神の御心によるキリスト・イエスの使徒」と称しているのです。つまり、パウロは、キリスト・イエスに遣わされて、異邦人たちにキリストの福音を語ることが父なる神の御心、願いであると述べているのです。
この手紙の受取人は、「エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信じる人たち」です。「エフェソにいる」という言葉は、ある有力な新約聖書の写本にはありません。「聖なる者たち、キリスト・イエスを信じる人たち」とあるだけです。
「聖なる者たち」とは、神の民、キリスト者のことです。具体的には、「キリスト・イエスを信じる人たち」のことです。わたしたちキリスト者は、主イエスをわたしの救い主と信じる者です。
イングリッシュバイブルは、「エフェソにいる神の民、キリスト・イエスと一体化した信者たち」と英訳しています。
イングリシュバイブルは、この手紙の本質をよく捕らえて訳していると、わたしは思います。
キリスト者が聖徒と呼ばれるのは、キリスト・イエスと結び合わされて、キリスト・イエスがわたしたちの内に内住され、聖霊によってわたしたちが清められるからです。
使徒パウロは、この手紙をわたしたちキリスト者に宛てて書いたのです。新共同訳聖書は、古代からの言い伝えを尊重して「エフェソにいる」という言葉を本文に入れたままにしています。
しかし、この言葉がなくても、この手紙がパウロからわたしたちキリスト者に宛てて書かれたことに変わりがないと思うのです。
使徒パウロは、この手紙を書きました時、ローマで獄中生活をしていたでしょう。この手紙の結びの言葉で、使徒パウロは獄中での彼の様子を知らせるために、弟子ティキコを小アジアの異邦人キリスト者たちの所に遣わすと書いています。この手紙はティキコが小アジアの異邦人キリスト者たちに届けたのでしょう。
そしてティキコが彼らに届けたパウロの手紙には、短い挨拶がありました。「わたしたちの父である神とイエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」
使徒パウロは、「あなたがたに挨拶する」という言葉を、「あなたがたに恵み」があるようにと言い換えています。そして、ユダヤ人の「平和」という挨拶を加えているのです。
このパウロの挨拶の言葉から、わたしたちキリスト者の生活を支配するのは、恵みと平和であることに心を留めてください。
この罪の世でパウロというキリスト者が存在すること、わたしたちというキリスト者が存在するということ、それは神の恵みと平和があるからです。
使徒パウロは、ファリサイ派のユダヤ人でした。彼は、キリスト教会とキリスト者たちを迫害しました。彼が回心し、キリスト教会の迫害者から異邦人にキリストの福音を伝える使徒に転じたのは、神の恵み以外の何ものでもありません。
父なる神が永遠からキリスト・イエスにあって彼を選ばれ、異邦人の使徒としてくださったからです。そして、彼が異邦人たちに語り伝えるキリストの十字架と復活の福音そのものが神の恵みでありました。
だから、使徒パウロは、この手紙の1章7節でこう述べています。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」
平和は、シャロームです。本来の意味は健康で幸福や繁栄があるという意味です。その上で戦争や争いのないことです。
キリストの十字架によって、父なる神はわたしたちの罪を赦し、和解してくださいました。平和は神の恵みによって父なる神とわたしたち人間との和解であり、キリストに結ばれることによってユダヤ人と異邦人たちの間の敵が取り除かれえることです。エフェソの信徒への手紙で使徒パウロは、キリストの十字架の福音を通して父なる神とわたしたち人間との和解を語るだけではなく、ユダヤ人と異邦人たちがキリストと一体化することで、敵対関係を取り除く平和を告げているのです。
この手紙の挨拶の恵みと平和こそ、この手紙の主題でもあります。そして、父なる神の御心によってキリストの僕として、異邦人たちに使徒として遣わされたパウロがわたしたちにこの手紙を通して「あなたがたに父なる神と主イエス・キリストの恵みと平和があるように」と告げていることは、ただの挨拶ではありません。神の祝福の約束です。キリストの十字架を通して父なる神から罪を赦され、父なる神と和解し、神の子とされたわたしたちは、恵みと平和が保証されているのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、本日よりエフェソの信徒への手紙の連続講解説教をします。使徒パウロの御言葉を学ぶ機会をお与えくださり、感謝します。
今朝は、手紙の差出人の使徒パウロ、受取人の異邦人キリスト者たち、そして手紙の挨拶を学びました。
どうか、使徒パウロの御言葉を学ぶことに、心からの喜びをお与えください。
使徒パウロの口を通して、わたしたちが恵みと平和の神の祝福を保証されていることを心より感謝します。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
エフェソの信徒への手紙説教02 2023年6月11日
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解を与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
エフェソの信徒への手紙第1章3-14節
説教題:「恵みの源」
前回よりエフェソの信徒への手紙を学び始めました。手紙ですから、差出人がおり、受取人がいます。そして、手紙は、差出人から受取人への挨拶があります。差出人は、挨拶で自分が誰であるかを紹介し、受取人についても誰であるかを、明らかに記しています。
エフェソの信徒への手紙の差出人ははっきりしています。この手紙の冒頭に「パウロから」とあるからです。そして、差出人は続けて、「キリスト・イエスの使徒」と述べ、「神の御心によって」と続けています。
要するにこの手紙の差出人は、受取人に自分のことを、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから」と紹介しているのです。
使徒とは、遣わされた者です。キリストの代理人です。パウロは、父なる神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされ、異邦人たちにキリストの福音を伝える者とされたと述べているのです。
しかし、受取人は、はっきりしません。1節の「エフェソにいる」という御言葉が、有力な写本には無いからです。この手紙がエフェソ教会のキリスト者に宛てて書かれたということは、今日自明のことではありません。小アジアにいる異邦人キリスト者たちに宛てて書かれた手紙と考えられています。
さて、聖書学者バークレーがこの手紙のパウロの挨拶について、次のようなコメントを述べています。「高慢の響きではなくて、純粋な驚きの響きであった」と。
わたしもその通りだと思います。使徒パウロは、主イエスに敵対していたファリサイ派の人でした。彼は、エルサレムの都にいた多くのキリスト者たちを迫害しました。さらに外国のダマスコの町に住んでいたキリスト者たちをも迫害しようとしました。しかし、その途上で彼は復活の主イエス・キリストに出会いました。そして、迫害者から異邦人たちにキリストの福音を伝える使徒に180度、彼の人生を変えられたのです。
彼自身が自分で変わったのではありません。神の憐れみによって、キリストの恵みを受けたのです。神がキリストを通して彼を選び、救われ、彼に異邦人の使徒としてキリストの福音を伝える務めを委ねられたことに、彼は驚き続けたのです。
それが、この手紙の長い神讃美の文章となりました。今朝から学びますこの手紙の1章3-14節の御言葉は、神讃美の一文であります。
新共同訳聖書は、「神の恵みはキリストにおいて満ちあふれる」という表題を付しています。「神の恵み」とは、神がキリストを通してわたしたちを救われた行為のことです。
1章7節でパウロは、次のように神讃美しています。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」と。これはキリストの十字架の御業を賛美しているのです。神の御子キリストがわたしたちの罪の身代わりに、十字架において死なれたのです。その罪の贖いこそ神の豊かな恵みですと、パウロは神讃美しています。
そして、この神の豊かな恵みを体験したキリスト者たちが集まるところが教会です。その教会において、12節にありますように「わたしたちが神の栄光をたたえる」のです。あるいは、14節にありますように「わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえる」のです。また6節でも使徒パウロは、「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」と記しています。
このように見てきますと、パウロのこの長い神讃美の御言葉は、キリスト教会の礼拝讃美を映し出していると思われます。
パウロにとって、キリスト教会は、父なる神と御子キリストと聖霊なる神の祝福を受けるところです。その祝福の場がキリスト者の洗礼式です。
だから、使徒パウロが、1章3節で「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」と神讃美を記していますね。
これは、初代教会が洗礼式の式文で用いていた神讃美の一部なのではないでしょうか。洗礼を授けられたキリスト者たちは、キリストの十字架の死によってキリストが自分たちに代わって神の呪いを受けてくださり、それによって自分たちの罪が赦され、自分たちが異邦人であるにもかかわらず、アブラハムの祝福を与えられ、神の子とされ、御国の相続人とされたという神の大きな恵みを与えられたのです。
洗礼を授けられたキリスト者たちは、その洗礼によってキリストと一つに結ばれました。そして、彼らはキリストの体なる教会の一肢となり、主イエス・キリストと共に天の御国に今は生きているのです。その喜びの姿が、主日礼拝における神讃美なのです。
使徒パウロは、その素晴らしい神讃美を用いて、キリストの十字架という神の恵み、神の栄光の源をたどっています。
それが、1章4-6節の御言葉です。パウロは、このように神讃美しています。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」
キリストの十字架という神の恵みの行為を、その源までたどると、神の愛があると、使徒パウロは神讃美しています。
「天地創造の前に」という御言葉は、聖書の最初の書、旧約聖書の創世記を思い起こします。神が最初に天地万物を創造されたとあります。使徒パウロは、神が天地を創造される前に、神がわたしたちを愛されて、と記しています。
今現実に、罪に汚れたわたしたちを、神はわたしたちがこの世に存在しない前から愛して下さっていたのです。そして、神に背を向けているわたしたちを御自身のものにしようと、清きものにしようと、キリストにあって神の子に選んで下さったのです。
使徒パウロは、わたしたちに、繰り返します。イエス・キリストによってわたしたちを神の子にしようと、神は喜んであらかじめ定めてくださったと。
そして、使徒パウロは、その理由を6節で次のように述べているのです。「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」
この御言葉で、パウロはこう告げているのです。わたしたちが今朝、この教会の主日礼拝に来て、神讃美するのは、どうしてか。キリストの十字架を通して神がわたしたちに与えてくださった祝福の恵みを神讃美するためだと。
今朝、使徒パウロの語る御言葉から、わたしたちが心に留めたいことは、これです。キリストの十字架という神の恵みの源が神のわたしたちに対する愛であるということです。
神がわたしたちを愛され、その愛に基づいて、キリストを通してわたしたちを神の子にしようと、無条件で選ばれ、キリスト者という祝福を与えてくださったのです。
わたしたちがこの教会で洗礼を受けてキリスト者にされることは、神がわたしたちを愛して、神の子にしようと、キリストを通してわたしたちを選び、わたしたちをキリストに結びつけてくださっているからです。
だから、わたしたちは、この教会で共に神の栄光を、ほめたたえようではありませんか。そして、神に愛されている者として、互いに兄弟姉妹を愛する者となろうではありませんか。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、本日よりエフェソの信徒への手紙の第1章3-14節の神讃美を学びます。使徒パウロの神讃美の御言葉を学ぶ機会をお与えくださり、感謝します。
使徒パウロがキリストの恵み、すなわち、十字架の御業に目を向けましたように、わたしたちも毎週の礼拝説教を通してその恵みを見させてください。さらにその恵みの源をたどると、神がわたしたちを愛して、天地を創造される前からわたしたちを神の子にしようと、キリストにあってお選びくださっている祝福に至ることを学ぶことができて感謝します。
どうか、わたしたちが洗礼を授けられ、キリスト者にされた祝福が神の愛から来ていること、また、わたしたちが救われて、この教会の主日礼拝に集っていることは神を褒め称えるためであることを理解させてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
エフェソの信徒への手紙説教03 2023年7月2日
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解を与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
エフェソの信徒への手紙第1章3-14節
説教題:「子なる神による救い」
前回よりエフェソの信徒への手紙1章3-14節の長い神賛美の御言葉を学び始めました。
使徒パウロは、普通神への感謝を持って手紙の本文を書いています。ところがエフェソの信徒への手紙は、神賛美を持って手紙の本文を書き始めているのです。
その神賛美は、その当時のユダヤ人たちが会堂において、あるいは彼らの家庭において歌っていた神賛美でした。
この神賛美の目的は神の栄光をたたえることです。3節で使徒パウロが「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。」と賛美し、その理由を、「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」と賛美しています。
使徒パウロは、キリストを通して父なる神がわたしたちにお与えくださる天上における神の霊的な祝福をほめたたえています。
その霊的な祝福は、次の三つです。第一は、4-6節でのキリストにあって神の御子とする父なる神の選びです。第二は、7-12節での神の御子であるキリストの十字架の贖いです。そして、第三は、13-14節での聖霊の証印、わたしたちが御国を相続するという保証です。
1章6節でパウロは、次のように神をほめたたえています。「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」と。
これはキリストの十字架の御業を賛美しているのです。
父なる神は、愛する御子、キリストを人として、この世に遣わされました。神の御子キリストがわたしたちの身代わりとなられるためです。キリストは、わたしたちが負うべき神に対する罪を、あの十字架において担われました。キリストの十字架の死は、贖いの詩でした。使徒パウロは、キリストのその罪の贖いこそ神の豊かな恵みですとほめたたえているのです。
神から豊かな恵みを与えられたわたしたちが、神をたたえ、神の栄光をたたえる場所が、この教会です。
教会は神をほめたたえるところです。そして神をほめたたえることは、神の祝福がありますようにという祈りでもあります。
それを可能にしているのが、7節の御言葉です。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」
今朝は、この御言葉から学び始めましょう。使徒パウロが神をたたえる二つ目の理由を学びましょう。神が愛された御子キリストによって、神からの豊かな恵みによって、わたしたちは罪を赦されました。キリストが十字架で流された血によって、わたしたちは父なる神に罪を赦されたのです。
このように見てきますと、パウロが神をほめたたえているのは、神の祝福を祈り求めているからです。キリスト教会でわたしたちが神をたたえるのは、神の御子キリストの十字架を通して、神がわたしたちの罪を赦され、わたしたちを愛して神の子にしてくださったという神の愛の御業を見たからです。
キリストの十字架の死を見る者は、自分の罪深さに目を向けざるを得ません。罪とは的外れという言葉から来ています。キリストの十字架の死を見るまで、わたしたちは自分が真面目に生きて来たと思っていたのです。後ろ指を指されるような悪い事はしていないと思っていたのです。しかし、キリストの十字架によって、自分がどんなに神の御心から外れて生きて来たかを知らされたのです。確かに犯罪者ではないでしょう。しかし、天地万物の創造者、主なる神から心が離れ、この世の偶像を己が神としていたのです。だから、真の神の御前に出るなら、その神に裁かれて当然です。
ところが使徒パウロが伝える福音は驚くべきものでした。神がわたしたちを愛して、十字架の主イエスの犠牲という代価を払って、わたしたちの罪を赦されたのです。
それが、どうして、神をほめたたえるほどのわたしたちの喜びとなるのでしょうか。
神の御子キリストの十字架による救いが「神の豊かな恵みによる」ものだからです。それは、神の愛に基づく祝福であるからです。4節で、使徒パウロは、こう賛美していますね。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」
パウロにとって、キリストの十字架による救いは、天地を創造する前からの神の意志の決定でした。神の決定は、大きな恵みでした。神が御前に汚れた者であり、神に裁かれ、滅ぼされても当然であるわたしたちを、キリストにあって神の子にしようと、選ばれ、救われたからです。
神がわたしたちを祝福して下さったのです。それがキリストの十字架です。そして、神は、キリストの十字架の恵みを、神の祝福を、この教会の礼拝において豊かに溢れさせてくださっているのです。
8-9節で、使徒パウロは、こう賛美しています。「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解を与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。」
わたしは、この御言葉から初代教会の礼拝における洗礼をイメージします。多くの異邦人たちが教会の礼拝において洗礼を受けています。洗礼を受ける前に準備会がありました。イースター礼拝やクリスマス礼拝の前に長い洗礼準備会があり、洗礼志願者たちは、教理や主の祈り、十戒を学んだことでしょう。それを通してキリスト者たちはすべての知恵と理解を、神から与えられたのです。
そしえ、教会の礼拝に集ったキリスト者すべてに、福音を通して秘められた神の御計画が知らされたのです。
福音は、神の秘密の開示です。神は、天地を創造される前に御自身の知恵と思慮により、創造と終末を御計画されました。そして、神はこの世からそれをお隠しになりました。しかし、神の御意志によってこの世に遣わされた預言者たちに知恵と理解を与えられ、来るべきメシアの救いを開示されました。そして、キリストをこの世に遣わされて、神御自身の救いの全体を明らかにされました。
秘められた神の御計画とは、神の御子キリストの十字架です。その福音です。そして、その福音を伝えるために、預言者を、使徒たちを遣わされたことを意味します。
そして、使徒パウロは、9節後半でこう述べています。「これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。」
キリストの十字架による救いだけではありません。その福音が使徒パウロたちを通して異邦人に伝えられ、異邦人たちがキリストの救いにあずかることも、神が天地創造の以前からお決めになっていたことでした。
だから、使徒パウロは、10節で次のように述べているのです。「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」
キリストが来られて、キリストの十字架の死によって、神の民イスラエルと異邦人たちの救いが完成し、使徒たちや福音の宣教者たちの福音宣教によって頭であるキリストの教会にユダヤ人たちも異邦人たちは和解し、一つに集められます。また、神が創造された天と地もキリストのもとに一つに集められて、和解するのです。罪によって神の造られた世界は虚無に服する状態となりました。しかし、キリストのもとに天地は和解し、一つにされます。万物が神に創造された状態に回復されるのです。
御子キリストによる救いは、人の魂の救いという狭いものではありません。キリストの下で人類が一つになり、万物が一つになるという壮大なるものです。言葉を換えれば、平和と宇宙と万物の回復と言えると思います。
今わたしたちの世界は、二つの問題が大きくクローズアップされています。それは、平和と地球環境の保全です。ロシアのウクライナ侵略戦争によって、わたしたちは、平和について深く考えるように求められています。それは、和解という問題です。ロシアとウクライナが和解するだけではなく、わたしたち日本も中国、韓国等の国と真の和解をしなければなりません。第二次世界大戦が終わって、78年二なりますが、日本は隣国との真の和解ができていません。
エフェソの信徒への手紙は、神がキリストのもとにすべての国民を集めて一つにすると約束されています。この神の平和の約束を、わたしたちは信じたいと思います。
さらに問題は、地球環境、さらに宇宙環境の保全です。技術革新と産業の発達によって、今や地球の環境は破壊され、人工衛星の乱発によって宇宙ゴミが問題になっています。地球の温暖化によって地球全体の気候が狂ってきており、各国に水害、森林火災、干ばつと飢餓をもたらしています。これから夏になり、台風の季節になります。大型の台風が来るという予測もされています。
地球環境を保全することも、キリストにおいて神の造られた天地が一つになることで実現するのだと、エフェソの信徒への手紙はわたしたちに伝えているのではないでしょうか。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、前回に続いてエフェソの信徒への手紙の第1章3-14節の神賛美を学びました。使徒パウロの神賛美の御言葉を学ぶ機会をお与えくださり、感謝します。
使徒パウロは、御子キリストの救いについて語り、神の大きな恵み、祝福に目を向けています。
十字架のキリストの救いが、単にわたしたちの魂の救いだけではなく、キリストの下に神の民ユダヤ人と異邦人とが一つにされ、和解することであり、神が造られた万物がキリストの下に一つとなり、創造された状態に回復されることであることを学びました。
どうか、わたしたちの世界にキリストのもとにすべての国民が集まり、一つとなり、和解させてください。
地球環境が破壊され、地球の温暖化によって神が創造された万物が産みの苦しみをしています。どうか、キリストのもとに一つになり、神が創造された状態に回復してください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
エフェソの信徒への手紙説教04 2023年7月9日
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解を与えて、秘めらあなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。れた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
エフェソの信徒への手紙第1章3-14節
説教題:「聖霊の保証」
エフェソの信徒への手紙1章3-14節は、長い一文の神をほめたたえる賛美です。
使徒パウロは、3節後半で「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」と賛美していますね。この祝福がこの3-14節の御言葉の主題です。
「キリストにおいて」という御言葉が11回繰り返し出てきます。この祝福は、キリストにおいてなされた神の救いの働きです。その意味で、この祝福は、パウロが述べているように「天のあらゆる霊的な祝福」です。それは、天上の領域に属する出来事なのです。
パウロは、6節と12節と14節で神賛美の目的を繰り返し述べています。わたしたちが神の栄光をたたえることであると。
パウロは、天上における霊的な祝福が次の三つであると、述べています。第一は、4-6節におけるキリストにあってわたしたちキリスト者を神の御子とする父なる神の選びです。第二は、7-12節における神の御子であるキリストの十字架の贖いです。そして、第三は、13-14節における聖霊の保証です。聖霊はわたしたちキリスト者を御国の相続者としてくださいます。
わたしたちキリスト者の救いの確かさは、神の選びにあるのです。神が天地を創造される前に、神はキリストにあってわたしたちを神の子にしようと決意されていました。
その神の自由な決意によってわたしたちはキリストの十字架によって罪を清められ、神を愛し、隣人を愛する者として生きることができるようになりました。
だから、わたしたちキリスト者はこの礼拝において神のキリストにおける恵みに選びをほめたたえるのです。
神がキリストにおいてわたしたちを選ばれたのは、神の無償の愛でした。それによって今、わたしたちはキリスト者としてこの礼拝で神をほめたたえて生きているのです。
さらに天のあらゆる霊的祝福は、神のキリストにおける恵みの選びだけではありません。キリストの十字架の贖いと罪の赦しです。
使徒パウロは、7節で「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」と述べています。
この神の救いの働きは、この世の人々には秘められた神の御計画でした。しかし、時が満ちて、神の御子主イエス・キリストがこの世に受肉され、そして十字架で死なれることで、明らかにされました。
キリストが十字架に死に、復活し、天に昇天され、父なる神の右に座されて、救いを完成され、今やあらゆる人々が頭であるキリストの下に集められ、一つにされています。そして、この世の終わりには天にあるものも地にあるものも一つにされるのです。
キリストの十字架の贖いは、あらゆる国民をキリストの所有として一つにするだけではありません。神が造られたすべての被造世界を、分裂から和解させて、その秩序を一つにまとめ上げるのです。
天のあらゆる霊的な祝福の第三は、相続です。パウロは、11節でその相続は、キリストにおいて神が前もって決定され、約束されていたものであると、述べています。神は族長アブラハムと恵みの契約を結ばれました。神は彼と彼の子孫の神となられ、彼と彼の子孫は神の民となりました。そして、神は彼らにキリストと御国の相続を約束されました。神の民ユダヤ人たちは、メシア、すなわち、キリストの到来を希望したのです。
11節から14節においてパウロは、「わたしたち」と「あなたがた」と述べています。「わたしたち」は、神の民ユダヤ人であり、ユダヤ人キリスト者たちです。「あなたがた」は、異邦人キリスト者たちです。
「わたしたち」、ユダヤ人キリスト者たちは、神の御計画に従って、神が定められた通りにキリストにおいてアブラハムの恵みの契約で約束されたものの相続者となりました。神の民ユダヤ人たちは、キリストが来られる以前から、キリストの到来に希望を置いていたのです。
しかし、パウロにとって驚くべきは「あなたがた」です。異邦人キリスト者たちです。彼らは、アブラハムの恵みの契約を知りませんでした。神の民として神の律法に生きることもありませんでした。だから、彼らは神から遠くにいる者であり、神の民ユダヤ人から見れば、滅びの民でした。
ところが、異邦人キリスト者たちもキリストにおいて救われたのです。ユダヤ人に改宗し、アブラハム契約に入ったからではありません。神の民ユダヤ人同様に神の律法を守り実践するようになったからではありません。
パウロは、13節でこう述べています。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」
異邦人キリスト者たちは、直接キリストの言葉を聞いたのです。それは、真理の言葉であり、救いをもたらす福音でした。キリストの十字架の言葉です。キリストがあなたがたの罪のために十字架に死なれ、あなたがたの永遠の命の保証として復活されたという教えの言葉です。それは、聴く彼らに、キリストを何者と告白するのかと迫りました。異邦人キリスト者は、キリストを我が主と信じました。こうして彼らは、使徒パウロたちが説教を通して宣教したキリストを、わたしの主と告白し、洗礼を受けて、キリスト者となりました。だから、真理の言葉は救いをもたらす福音と呼ばれ、キリストの福音と呼ばれました。また、異邦人キリストはこの福音によって心からの平安を得たので平和の福音と呼ばれました。
パウロは、13節で「聖霊で証印を押された」と述べていますね。シールを押すことです。物の移動を防ぐためです。また、手紙や牢獄、墓などの開封を防ぐためでした。そこから人にしるしをつけて刻印することを意味しました。聖書は、わたしたち人間が神の像を持つと教えています。人間は神に捺印されたコピーであるという意味です。
聖霊で証印を押されたというのは、具体的には、わたしたちが洗礼を受けてキリスト者となったということです。
わたしたちは、洗礼によってキリストと一つとされ、キリストが御父から相続された御国に共に相続する者とされました。聖霊は、その手付金であると、パウロは述べています。わたしたちは、土地を買って、家を建て、土地と家を自分の所有とします時に、手付金を支払います。
同じように、キリストの救いは、わたしたちがキリストに贖われて、キリストの所有となることです。そのために約束通り、キリストがわたしたちの内に住んでくださいます。こうしてわたしたちは聖霊の宮、神の宮とされます。
わたしたちがキリストを信じて、洗礼を受けます時、聖霊が手付金としてわたしたちの内に住んでくださるのです。こうしてわたしたちは、聖霊をいただき、わたしたちの国籍が天にあることを保証されるのです。そして、わたしたちは、キリストの所有となり、神の養子とされ、神をほめたたえて、生きる者とされるのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、エフェソの信徒への手紙の第1章3-14節の神賛美を学びました。使徒パウロの神賛美の御言葉を学ぶ機会をお与えくださり、感謝します。
使徒パウロがキリストにおいて神がわたしたちとこの世界を救われた天における神の祝福をほめたたえている御言葉に、わたしたちの信仰と賛美を向けることができることを感謝します。
キリストにおいて永遠からわたしたちを神の子にしょうとしてくださった神の愛の御心を感謝します。どうか毎週の礼拝において神の恵みをほめたたえさせてください。
十字架のキリストの救いを感謝します。わたしたちの罪を赦し、わたしたちをキリストの者としてくださってありがとうございます。
聖霊をいただき、感謝します。わたしたちの国籍が天にあり、神の御国の相続者であることを感謝します。
神のキリストにおける大きな恵みに感謝し、この教会の毎週の礼拝において神をほめたたえさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
エフェソの信徒への手紙説教05 2023年7月16日
こういうわけで、わたしもあなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
エフェソの信徒への手紙第1章15-23節
説教題:「神の偉大さを知る」
エフェソの信徒への手紙1章15-23節は、聖書の小見出しにありますように、パウロの祈りの一文です。使徒パウロは、1章3-14節で神をほめたたえました。そして、続いてパウロは、感謝の祈りをしているのです。
使徒パウロは、15節でこのように感謝の言葉を述べています。「こういうわけで、わたしもあなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。」。
使徒パウロがこの手紙でこのように絶えず感謝していますのは、この手紙の読者たちの主イエス・キリストに対する信仰と彼らの兄弟愛を伝え聞いたからです。
だから、彼は、16節で彼らのために祈るたびに、そのことを思い起こして神に感謝したのです。
そして、彼は、17-19節で次のように祈りました。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」
パウロは、ここで主イエス・キリストの神、すなわち、父なる神がこの手紙の読者たちに聖霊をお与えくださり、彼らが神を深く知り、心の目を開かれて、希望と栄光と神の偉大な御力を理解できるようにと祈っているのです。
パウロのこの祈りは、どうすればわたしたちが神を知ることができるのかを教えてくれています。わたしたちが神を知る知識の源は、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父なる神にあるのです。
父なる神が御子主イエス・キリストを通して、御自身がわたしたちの父である神であることを教えてくださいました。そして、父なる神がわたしたちをどんなに深く愛されているかを、十字架のキリストを通して教えてくださいました。
使徒パウロは、17節で「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし」と述べていますね。
パウロは、わたしたちが神を知る方法を教えています。それは、父なる神がわたしたちに「知恵と啓示との霊」を与えてくださることによって、わたしたちは深く神を知ることができるのです。
「知恵」とはキリストです。「啓示」とは預言者たち、すなわち、神が選ばれた特定の者たちに神が隠された御計画を明らかにされることです。
キリストは神の子であられ、神の知恵です。彼は人となり、この世に受肉されました。そして、彼は12弟子たちに教えることを通して、また、御自身の十字架と復活を通して、神がわたしたちの父であり、わたしたちを愛して、わたしたちの罪を赦し、わたしたちを神の子とし、キリストと共に御国に相続者にして下さったことを教えてくださったのです。
そして、キリストは復活し、父なる神の右に座され、わたしたちに聖霊をお与えくださいました。聖霊はわたしたちの心を照らして、キリストのことを、キリストが教えられたことを、キリストの十字架と復活を、わたしたちに理解させてくださるのです。
使徒パウロが18節で「心の目を開いてくださるように」と祈っていますね。これが聖霊のお働きです。
使徒言行録を読んで見て下さい。これは、初代教会の福音宣教を物語っています。主イエスが約束された聖霊が弟子たちの上に降りました。エルサレム教会の使徒たちや主イエスの弟子たちは福音宣教し、各地にキリスト教会を建て上げて行きました。
使徒言行録の16章で使徒パウロたちが初めてヨーロッパに渡って福音宣教し、ギリシアのフィリピの町でキリスト教会を建てました。
神を崇めるリディアという婦人がパウロの説教を聴いた時、聖霊が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロが説教するキリストを救い主と信じて、彼女と彼女の家の者たちが救われました。
その時に知恵と啓示の霊が彼女や彼女の家の者たちに働いたでしょう。同じようにわたしたちがこの教会の礼拝で説教を聴きます時、聖霊がわたしたちの心を開いてくださり、説教で語られているキリストをわたしの救い主と信じさせてくださるのです。
そして聖霊によって心を開かれた時に、パウロは18節後半から19節で三つの素晴らしい神の恵みを知らされると述べています。「神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」
「心の目」とは、わたしたちの心で霊的なことを認識することです。まさしく神を認識することです。
ところで、わたしたちの心は罪によって曇っているので、神を認識することはできません。だから、聖霊によってわたしたちの心を照らしていただかなければなりません。聖霊がわたしたちの心を照らされると、わたしたちはキリストを通してわたしたちに与えられた神の恵みを、また、わたしたちが神の子とされたことを理解させていただけるのです。
例えば、パウロは三つの恵みを、わたしたちが理解できるように祈っています。
第一は神の招きです。神の召しのことです。これによってわたしたちにどんな希望が与えられるかと、パウロは述べています。この希望は、わたしたちが忍耐して待ち望むことです。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙8章30節で、この希望をこのように述べています。「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」
神はキリストにあって永遠に選ばれた者を、この礼拝へと招いてくださり、キリストの御言葉によって救って下さり、神の子としてくださいます。これが、今ここにいますわたしたちの希望です。
第二は聖なる者たちが受け継ぐものです。すなわち、わたしたちキリスト者たちは、神の子とされ、キリストと共に御国の相続者となるのです。その神の恵みの豊かさを、すなわち、神の栄光を、パウロはわたしたちは悟らされる、見させていただけると述べています。
第三は、神の絶大なる御力を、わたしたちが見せていただけることです。
パウロは、19節で「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」と祈っています。
「神の力」とは、神の大能の力のことです。それは、神の創造の御業であり、父なる神が御子を死者の中から復活させられる御力のことです。その神の御力がわたしたち信仰者に計り知れないほどの力として働いているのです。
例えば、わたしたちの信仰です。主イエスをキリストと信じる信仰は、無から有を生み出す神の全能の御力によるのです。そして、そのわたしたちの信仰がこの世で何十年と続き、聖徒の堅忍によって御国に至るまで続くことは、神の計り知れない恵みの御力によるのです。
使徒パウロは、この手紙の読者に、そしてわたしたちにわたしたちがこの教会でキリストにつながり、キリストと共に生きる信仰において、どんなに計り知れない神の恵みの御力によって守られているのかを見させてくれているのです。
どうかこのパウロの祈りの御言葉を通して、わたしたちキリスト者がこの世でキリスト者として生きる上で、どんなに偉大な神の御力に守られ、支えられているのかを知ってほしいと思うのです。
天地万物を無より創造された神の御力が、死人の中からキリストを復活させられた神の御力が、わたしたちがこの世の暗闇から、罪から救われ、神の子とされ、御国を相続するために働いているのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、エフェソの信徒への手紙の第1章15-23節を本日より学びます。今朝は、15-19節のパウロの祈りの言葉を学びました。学ぶ機会をお与えくださり、神の偉大な御力に触れることができて、感謝します。
どうか、わたしたちがこの手紙の読者と同じように、主イエス・キリストを信じる信仰において一つとなり、互いに兄弟姉妹として愛し合うことができるようにしてください。
また、わたしたちにも聖霊をお与えくださり、毎週の礼拝で語られる説教を理解させてください。わたしたちの心の目をお開きくださり、キリストとその御救いを理解させてください。
どうか、今この礼拝に招かれていることに、どんな希望があるかを見させてください。わたしたちが神の子とされ、御国を相続しているという神の豊かな恵みに感謝させてください。
どうかわたしたちがこの世でキリスト者として生きているために、どんなにはかり知ることのできない神の御力がわたしたちに働いているのかを見させてください。
どうか、主イエス・キリストの父なる神をこころからほめたたえさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。