ウェストミンスター大教理問答 27   主の2015年3月25日

 聖書テキスト:マタイによる福音書第1章18-25節(新約P1-2)

 問40 仲保者は、なぜ一人格において、神でも人でもなければならなかったのか。
 答 神と人を和解させる仲保者は、それぞれの性質の固有のわざが全人格のわざとして、わたしたちのために受け入れられ、また、わたしたちからより頼まれるために、自ら神でも人でもあり、しかも一人格においてそうでなければならなかったのである。
  問41 わたしたちの仲保者は、なぜイエスと名づけられたのか。
  答 わたしたちの仲保者がイエスと名づけられたのは、ご自分の民をそのもろもろの罪から救うからであった。
 
  ウ大教理は、問37-40と答で恵みの契約の仲保者である主イエス・キリストの二性一人格の教理を告白しています。問40と答は、神と人を和解させる仲保者が一人格において神でも人でもあらねばならなかったことを教えています。

  宮崎彌男訳の答の方が読んで理解できると思います。「神と人とを和解させるべき仲保者は、それぞれの本性に固有の御業が一人格全体の御業として、私たちのために神に受け入れられ、また私たちがその御業に依り頼む者となるために、御自身、神でありつつ人であり、しかも一人格においてそうでなければならなかったのです。」
 
  キリストの二性一人格と和解(救い)の御業は、密接に結びついています。ですから、主イエスは聖霊によってマリアの胎に宿られ、人間性を取り、男の子として生まれられました(マタイ1:20-21)。しかし、仲保者主イエスは、それによって神と人の二つの人格を取られませんでした。そうではなく、イエス・キリストはバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時、天から父なる神が「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17)と宣告されました。神の御子としての一つの人格に神と人の二つの性質を結合されました。
 
  ヨハネス・ヴォスは、次のように説明します。「神性のみの仲保者は人性をとることなくしては、人間の悩みを経験することはできないし、人性のみの仲保者は神性によって支えられることなくしては、要求される苦難にたえぬくことはできないのである。」(ウェストミンスター大教理問答講解上P154)。
 
  仲保者キリストは、第2のアダム(神の選民の代表者)として人として父なる神に従順に歩まれ、神の律法を完全に守り、父なる神に受け入れられて、義を得なければなりませんでした。また、仲保者は、わたしたちの罪の身代わりとして神の刑罰の死を引き受けなければなりませんでした。父なる神が愛される御子でなければ、キリストの積極的服従(従順)と消極的服従(神の呪いである十字架の死)は不可能なことでした。
 
  仲保者キリストが人性を取られたので、キリストはわたしたち選民の大祭司としてわたしたち人間の弱さを思いやり、同情することがおできになり、あらゆる試練に遭われ、さらにご自身の十字架の血によってわたしたちはきよめられました(ヘブライ4:15,9:14)。
 
  このように仲保者キリストは父なる神に受け入れられ、わたしたちが救い主と信じて彼の御業に信頼するために、御自身は子なる神としての一つの人格を持ちつつ、その人格の中に神性と人性という二つの性質を取られたのです。
 
  問41と答は、仲保者の名を問うています。どうして「イエス」と名づけられたのかと。
 
  「イエス」は、旧約聖書では「ヨシュア」です。「主は救い」という意味です。天使ガブリエルがヨセフに夢で現れ、次のように神の命令と名の理由を告げました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ20-21)。
 
  神が天使を通して告げられたことは、次のことです。第1に罪よりの救いは、神が備えてくださる贖い主(その名はイエス)によって完成される。第2に贖い主は、聖霊によって処女マリアから生まれる男の子である。第3に贖い主は、全人類を救うのではなく、「自分の民」、全人類の中から特定の人々を、父なる神が主イエスにおいて選ばれた神の選民を救われるのである。第4に「イエス」という名は、わたしたちの救い主の個人名である。新約聖書では「イエス」という名は、日本の「太郎」「一郎」のように普通の名であり、ゆえに「ナザレのイエス」と呼ばれている。

 

 

ウェストミンスター大教理問答 28   主の2015年4月1日

 聖書テキスト:マルコによる福音書第14章1-11節(新約P90-91)


 問42 わたしたちの仲保者は、なぜキリストと名づけられたのか。
 答 わたしたちの仲保者がキリストと名づけられたのは、聖霊を限りなく注がれて、低い状態においても高い状態においても、その教会の預言者・祭司・王の職務を果たすために聖別され、すべての権威と力を完全に与えられたからである。
 
  今夜は、キリストの受難週の4日目です。ウ大教理の問42と答を学び、キリストのご受難がキリストの仲保者としての働きであったことを覚えましょう。
 
  ウ大教理問答は、恵みの契約の仲保者がなぜ「キリスト」と名づけられたのかを問うています。「キリスト」とは、「油注がれた者」という意味です。旧約に時代には預言者・祭司・王が油注ぎの式で任職しました(列王記上19:16,出エジプト29:7,サムエル記上9:16)。油注ぎは公的職務への任命式であり、「キリスト」という名称は公職名です。
 
  ウ大教理は、ナザレの「イエス」(個人名)が「キリスト」(公職名)と名づけられた理由を、次のように告白しています。
 
  第1に「聖霊を限りなく注がれて」、イエスはキリストと名づけられました。主イエスは、洗礼者ヨハネより洗礼を授けられました。その時に「神が“霊”を限りなくお与えに」なりました(ヨハネ3:34)。この出来事はマタイ、マルコ、ルカによる福音書にも記載されており、イザヤ書42章1-4節の預言を通して旧約のメシアが新約の主イエス・キリストのであることを証しする重要なポイントです。
 
  第2に「低い状態においても高い状態においても」、キリストは公の職務を果たされました。ウ大教理は問46-56と答でキリストの低い状態と高い状態について詳細に告白しています。それらを要約すれば、キリストは、神の子においても人の子においてもご自身の公の職務を果たされました。今日では、「人の子」は、キリストの神性と審判者である神的メシア(キリスト)を表すと理解されています(岡田稔著作集2『教理学教本』P188)。
 
  第3にキリストは、「その教会の預言者・祭司・王」としての公的職務を果たされるために聖別されました。「預言者・祭司・王」の職務については、次回より学びましょう。使徒ペトロは、ペンテコステの日に集まりました群衆に次のことを説教しました。主イエスはモーセが同胞に遣わされると預言した預言者であると(使徒言行録3:21-22)。主イエスご自身も、ナザレの会堂でイザヤ書を読まれ、預言者イザヤの預言が自らによって実現したと宣言されました(ルカ4:18,21)。キリストが祭司であることは、ヘブライ人への手紙5-7章に証しされており、キリストが王であることは詩篇2編6節に、そして受難週の1日目に主イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入城されたとき、イザヤ書とゼカリヤ書の預言が実現することで明らかにされました。
 
  ウ大教理は、恵みの契約の仲保者について告白しているのです。だから、キリストは全人類の救い主ではありません。「その教会」の救い主です。神に選ばれた選民の救い主です。だから、父なる神は、御子キリストを通して呼び集められた教会の救いのために、キリストを恵みの契約の仲保者として聖別し、仲保者キリストに預言者・祭司・王の職務を遂行させられました。
 
  第4に主イエスは、父なる神に「すべての権威と力を完全に与えられた」からキリストと名づけられました。復活された主イエスは、11弟子たちに大宣教命令をされた時、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と宣言されました(マタイ28:18)。復活の主イエスは、「天と地の一切の権威」、すなわち、私たちの頭では想像できない一切の権威を父なる神より授けられました。何よりもわたしたちの罪を赦す権威を与えられ、その権威を、公的に行使され、わたしたち選民の救いを完全に成し遂げてくださいました。だから、主イエスはわたしたちのキリストです。そして、キリストは王としての権威を行使し、今もわたしたちの世界を支配されています。終わりの時、すべてのものがキリストの権威に服従するのです。
 
 「イエスはわたしたちのキリスト」、この告白にこそ教会は、希望を見出しているのです。恵みの契約の仲保者がイエス・キリストであるから、そのキリストに召された教会の救いは確かなもので、希望があるのです。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答 29   主の2015年4月8日

 聖書テキスト:ルカによる福音書第4章16-30節(新約P105-106)

 問43 キリストは、どのようにして預言者の職務を果たされるか。
 答 キリストは、すべての時代に、彼のみたまとみ言葉によって、いろいろの施行方法で、教会員の建徳と救いについてのすべての事柄において、神のあますところのないみ旨を教会に示すことによって、預言者の職務を果たされる。
 
  今夜から恵みの仲保者キリストの三職のお働きを学びましょう。ウ大教理の問43と答は、キリストの預言者の職務を信仰告白しています。
 
  岡田稔先生は、『教理学教本』で次のように記しておられます。「キリストの仲保者としての働きを、預言者、祭司、王という三つの職務概念でとらえるという構想はカルヴァンが『綱要』で、初めて使った手法であって、彼は二巻一五章をこれに当て、『キリストが何のために御父からつかわされたか、何をわれわれにもたらしたかを知るために、特に三つのことが彼のうちに見られなければならない。すなわち、預言者職、王職、祭司職である』という見出しで、一、二節は預言者職、三節から五節までは王職、そして六節で祭司職を述べる」(『岡田稔著作集2』P251)。
 
  仲保者キリストの働きを「預言者・祭司・王」の三職でとらえるのがカルヴァン以来の改革派教会の伝統です。ウェストミンスター大教理問答もその伝統を受け継いでいます。
 
  ウ大教理は、問43でキリストがどのように預言者の職務を遂行されるかを問うています。
 
  「預言者」とは、神の使者・代弁者です(出エ7:1、申命18:18)。神からの言葉を受けて、それを神の民に取り次ぐ者です。神と人との仲保者です。ですから単に未来を予言する予言者ではありません。神の言葉が未来を含むならば、預言者は神が未来になさることを預言します。
 
  「預言者職には二面あり、第一は神から聞くという役目、第二がそれを人に伝えるという役目である(民数12:6-8、イザヤ6章、エレミヤ1:4-10、エゼキエル3:1-4)」(岡田稔著作集2 P254)。主なる神は預言者モーセと「口から口へ、わたしは彼と語り合う」(民数12:8)と言われています。モーセはその主の御言葉を神の民に伝えました。預言者は、神よりのメッセージを人に伝える者です。
 
  ウ大教理は、どのようにキリストが預言者職を果たされるかを、次のように告白しています。第1にキリストは「すべての時代に」預言者の職務を遂行されています。その「すべての時代」とは「旧約と新約の時代」です。すべての歴史を通して、世の終わりまで。
 
  第2にキリストは「みたまとみ言葉によって」預言者の職務を遂行されています。旧約時代においては「キリストの霊」が預言者たちに真理(キリストの受難と復活)を啓示しました。新約時代においてキリストの弟子たちはキリストの聖霊に導かれて、真理(福音)を告げ知らせました(Ⅰペトロ1:10-12)。キリストは、み言葉で旧約の民を造り、新約の教会を建て、神の民を養い、預言者職を果たされています。
 
  第3にキリストは「いろいろの施行方法で」預言者職を遂行されています。旧約時代は多くの預言者の預言によって、この終わり(新約)の時代はキリストご自身が人間に対する神の最終の啓示となられて(ヘブライ1:1-2)。特にキリストの在世中、キリストは次の3つの方法で預言者職を果たされました。(1)伝道されることで(2)弟子たちを教え、訓練されることで(3)昇天後、聖霊を遣わすこと(ペンテコステ)で、福音宣教によって。
 
  第4にキリストは「教会員の建徳と救いについてのすべての事柄において」預言者職を遂行されています。これは、現在のキリストの働きで、具体的には次のことです。(1)聖書(記された神のみ言葉)を通じて(2)聖霊の照明を通して。キリストは聖霊を通してわたしたちの心を照らし、聖書のみ言葉の真理を受け入れるようにされることによって。
 
  第5にキリストは「神のあますところのないみ旨を教会に示すことによって」預言者職を果たされています。キリストは、「救いと教会員の建徳についてのすべての事柄」における神のご意志のすべてを啓示されることで、預言者の職務を遂行されています。具体的には、記された神のみ言葉である聖書です(Ⅱテモテ3:15-17)。キリストは、聖書を通して「神のあますところのないみ旨」を教会(神の群れ)に示すことで、預言者の職務を果たされています。

 

 

 

 ウェストミンスター大教理問答 30   主の2015年4月15日

 聖書テキスト:ヘブライ人への手紙第7章24-28節(新約P409)

 問44 キリストは、どのようにして祭司の職務を果たされるか。
 答 キリストは、ご自身を傷のないいけにえとして一度だけ神にささげて、彼の民の罪のための和解となることにより、また彼らのために絶えず執成しをすることによって、祭司の職務を果たされる。
 
  ウ大教理問答は、問44と答でキリストの祭司の職務を信仰告白しています。

  「祭司」とは、旧約聖書の時代、レビ部族の者で、アロンと彼の子らが祭司となりました。祭司の主な働きは、いけにえをささげ、契約の律法を教えることでした。
  聖所(神が臨在される所)は、罪と汚れのないところでなければなりません。そのために聖所で祭司がどのような任務をしたかと言えば、(1)イスラエルの民を祝福しました。(2)祭司は民に「汚れている」「きよい」と宣言し、罪に汚れた民のためにきよめの儀式に携わりました。また、(3)聖所で動物のいけにえ、穀物のささげ物をささげました。いけにえは神が民の罪の贖いをされ、民を罪からきよめる手段でありました。だから、祭司は、神の罪の贖いに直接携わりました。そして、聖所での祭壇と動物犠牲と祭司の働きは、来たるべきキリストの予型でありました。
 
  ですから、ウ大教理は、「キリストは、ご自身を傷のないいけにえとして一度だけ神にささげて」と告白します。ヘブライ人への手紙9章14節に「永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神にささげられたキリストの血」とありますように、御自身を傷のない小羊のように神に一度だけささげることで、キリストは祭司の職務を果たされたと、ウ大教理は告白しています。同9章28節にも「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」とあり、キリストの十字架の犠牲が小羊のように「多くの人の罪のための」犠牲であったことを明らかに証ししています。
 
  キリストは、神の選民、神の契約の民を祝福するために、祭司の職務を果たされました。旧約聖書は、主なる神が契約の民の罪と汚れをきよめるために、動物犠牲という手段をお与えになり、祭司が動物のいけにえを神にささげることで、契約の民の罪が贖われ、祭司は契約の民を神との和解に導きました。
 
  ウ大教理はキリストご自身が「彼の民の罪のための和解とな」って祭司の職務を果たされたと告白しています。ヘブライ人への手紙の2章17節に「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」とありますように、キリストはわたしたち神の選民、契約の民を父なる神と和解させるために、ご自身を犠牲としてささげ、わたしたちの罪を贖ってくださいました。こうしてキリストご自身が大祭司として、祭司の任務を果たされました。聖所で祭司は、契約の民のためにいけにえと供え物をささげなければなりませんでした。
 
  祭司は、契約の民を神に近づけ、執成す働きをしました。民を祝福し、民のためにいけにえをささげ、民を神と和解させるために、祭司は祈り、執成しをしました。キリストご自身同様であります。ウ大教理は「また、彼らのために絶えず執成しをすることに」よって、キリストは祭司の職務を果たされたと告白しています。
 
  ヘブライ人への手紙7章25節に永遠に生きて祭司職を持つ「この方(キリスト)は常に生きていて、人々(神の選民、契約の民)のために執成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たち(神の選民、契約の民)を、完全に救うことがおできになる」とありますように、天にいますキリストは今も神の選民、契約の民であるわたしたちのために絶えず父なる神に執成してくださっています。ですからわたしたちは、毎週の礼拝に集うことが許されており、永遠の御国への希望を確かなものとされているのです。
 
  祭司アロンと彼の子らが、神によって召されて祭司になったように、キリストも父なる神に召されて「第2のアダム」、すなわち、恵みの契約の仲保者となり、アロンが神の民の代表者であるように、キリストはすべての神の選びの民の代表者となられました。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答 31   主の2015年4月22日

 聖書テキスト:詩篇第2編1-12節(旧約P835-836)

 問45 キリストは、どのようにして王の職務を果たされるか。
 答 キリストは、世から一つの民をご自身のもとに召し出すこと、彼が彼らを可見的に支配する手段である役員と律法と戒規とを彼らに与えることにより、その選民に救いの恵みを授けること・彼らの服従に報いること・彼らを罪のために正すこと・彼らのすべての誘惑と苦難の下で彼らを守り支えること・彼らのすべての敵を抑制し征服すること・ご自身の栄光と彼らの益のためにすべての事柄を力強く統御することにより、また神を認めず福音に従わないその他の人々に報復することによって、王の職務を果たされる。
 
  ウ大教理問答は、問45と答でキリストの王の職務を信仰告白しています。

  契約の仲保者であるキリストは、この「世から一つの民をご自身のもとに召し出すこと、彼が彼らを可見的に支配する手段である役員と律法と戒規とを与えることにより」王の職務を果たされています。
 
  ウ大教理は、恵みの契約の仲保者キリストは、旧約と新約においてこの世から一つの選びの民を召し出すことで、王の職務を果たされると告白しています。そこで使徒ヤコブと預言者イザヤ、モーセ、ダビデの証言を取り上げています(使徒言行録15:14-16、イザヤ書55:4、創世記49:9-10、詩篇110:3)。恵みの契約の仲保者キリストは、旧約においては、アブラハムとその子孫、すなわち、イスラエルの民を召し出し、新約においてはこの世から選び民、すなわち、教会を召し出すことにより、王の職務を果たされています。ウ大教理は、キリストが目に見える教会の教会員をこの世より召し出すことで、王の職務を果たされていると告白しています。
 
  次にウ大教理は、キリストの可見的支配の手段を次のように告白します。キリストの目に見える支配は、「役員と律法と戒規を彼らに与えること」で行われています。(1)マタイによる福音書18章17-18節とⅠコリント5章4-5節ではキリストと使徒パウロが、戒規を教会に与えることによって、(2)エフェソ4章11-12節とⅠコリント28節では役員を教会に与えることによって、(3)イザヤ書33章22節では「律法(法)を教会に与えることによって」、わたしたちの教会では「ウ信条と教会規程」が法です。キリストは、教会政治と戒規の機構を用いて教会を統治されます。
 
  キリストが王職を果たされる領域は、目に見える教会(可見的教会)、目に見えない教会(不可見的教会)です。
 
  次にキリストは、次のように王の職務を遂行すると、ウ大教理は告白します。①「選民に救いの恵みを授けること」(使徒言行録5:31「選民を悔い改めさせ、罪を赦す」)、②「選民の服従に報いること」(黙示録22:12,2:10「行いに報い、命の冠を授ける」)、③「選民の罪を矯正すること」(黙示録3:19「(選民)を叱ったり、鍛えたりする」)、④「すべての誘惑と苦難から選民を守り支えること」(イザヤ書63:9「昔から彼らを負い、担ってくださった」)、⑤「選民のすべての敵を抑制し征服すること」(Ⅰコリント15:25「すべての敵を足下に置く」)
 
  次にウ大教理は、キリストが王権を果たされる目的を次のように告白します。「ご自身の栄光と彼ら(選民)の益のためにすべての事柄を力強く統御する」。使徒パウロは、すべての者が神の裁きの前に立ち(ローマ14:10-11)、神は万事を選民のために益としてくださること(ローマ8:28)を証言します。キリストは万物を力強く統治され、すべての者を神の裁きの下に導かれ、選民の益のために、悪人の悪行をも益のために用いられます。
 
  最後にキリストは、この世を裁かれます。「神を認めず福音に従わないその他の人々に報復することによって」。キリストは、摂理的統治により一部は現世において裁かれるが、世の終わりの裁きの日において神を認めず、福音に従わなかったものをすべて裁かれます(Ⅱテサロニケ1:8-9)。
 
  今キリストは、目に見える教会とこの世に対して王の職務を果たされるのは、目に見えない教会、すなわち、神の選民の益となるためです。
 
  そして、キリストは旧約の時代も新約の時代も、そして今も永遠に王の職務を果たされます。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答32      主の2015年4月29日

 聖書箇所:フィリピの信徒への手紙第2章6-11節(新約P363)

問46 キリストの低い状態とは、何であったか。
答 キリストの低い状態とは、彼がわたしたちのために自らその栄光をむなしくし、胎に宿られたこと・出生・生涯・死において、また死後も復活まで、自分の上にしもべのかたちをとった、あのいやしい状態であった。
問47 キリストは、胎に宿られたことと出生において、どのようにしてご自身を低くされたか。
答 キリストは、胎に宿られたことと出生において、彼は全くの永遠から父のふところにいる神のみ子でありながら、時満ちて、低い身分の女によって成り、彼女から生まれ、そして普通以上の屈辱的ないろいろな境遇をすごす人の子となることをよしとされたことによって、ご自身を低くされた。

 今夜から恵みの契約の仲保者イエス・キリストの低い状態と高い状態について学びましょう。ウ大教理の問46-57と答を学びましょう。

 「この状態論はもともと十七世紀ルター派から始まった考えではあるが、改革派ではそれを使徒信条の条項に合致するから採用したのである。〈略〉。改革派はこの謙卑の状態を、(一)受肉、(二)受苦、(三)死、(四)葬り、(五)陰府下りの五点とするが、これは全く使徒信条通りである」(岡田稔著作集2『教理学教本』P225)。

 ウ大教理の「キリストの低い状態」は、今日「キリストの謙卑」と呼ばれる。「謙卑」とは、聖書の「謙遜」である。旧約聖書では「困窮や貧しさや苦難の中に『苦しんでいる』『屈服させられた』状態を示す。そこから『へりくだった』『心砕かれた』『柔和な』態度を意味する『謙遜』という語が派生した」。新約聖書でも意味は同じで、謙遜の模範としてのキリストの生涯と十字架の死について述べる。使徒パウロは、キリスト者の生き方として、苦しみに耐え、へりくだりと奉仕のわざをし、柔和と謙遜の人格を養うようにと勧める(エフェソ4:2,コロサイ3:12)。

 ウ大教理のキリストの低い状態には次の二つの特色がある。第1は、キリストが「むなしく」なられたことである。第2は、キリストがしもべの形をとられたことである。

 使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙2章7節で「自分を無にし、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」と、キリストの低い状態について述べる。

 ウ大教理問46と答は、キリストの低い状態(キリストの謙卑)の全体(総論)を告白している。「キリストが私たちのために御自分の栄光を空しくして」(宮崎訳)くださった。つまり、キリストは永遠から神の御子でありながら、そこに留まらないで、わたしたち選民を救うために、肉体をとり、この世に来られ、十字架に死に、墓に葬られ、死人の世界に置かれた。それがウ大教理の告白する「胎に宿られたこと・出生・死において、またその死後も復活まで」という文章である。今日的な表現を使えば、「受肉」、「受難」、「十字架の死」、「葬り」、「陰府下り」である。

 キリストは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)と言われた。だから、ウ大教理は、キリストが十字架の死に至るまで「ご自分の上にしもべの形を」とり、その生涯を歩まれたと告白する。

 問47と答は、各論の(一)受肉についてである。受肉とは、三位一体の第2位格である永遠の神の御子が肉体をとり、この世に来られたという出来事である。ウ大教理は、受肉の「胎に宿られたことと出生」について告白する。

 キリストは「全くの永遠からみ父のふところにいる神のみ子である」(ヨハネ1:1)。ところが、神の御旨を成し遂げるために、「時満ちて」すなわち、神が定められた時に、受肉された。「低い身分の女」とは、キリストが生まれられたユダヤ社会は、女性を家畜同然に扱っていた。その女性に胎に聖霊を通して宿られた。そして、未婚の女から生まれられた(マタイ1:18)。

 ウ大教理は「普通以上の屈辱的ないろいろの境遇をすごす人の子となることをよしとされた」と告白する。処女マリアの胎に宿られることで、マリアは姦淫の女として、ユダヤの社会では石打ちの刑に処せられる恐れがあった(マタイ1:19)。それからヘロデ大王の迫害とエジプトへの逃亡という受難を歩まれた。罪を除いてすべての人間の経験を味わうために、受肉された(ヘブライ2:17-18)。わたしたち選民を救うために。ウ大教理は、十字架への道の出発点としてキリストの受胎と出生を告白する。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答33      主の2015年5月6日

 聖書箇所:イザヤ書第52章13節-第53章12節(旧約P1149-1150)

問48 キリストは、その生涯において、どのようにしてご自身を低くされたか。
答 キリストは、その生涯において、律法に服従して、それを完全に成就したことによりまた人間性に共通なものであれ、特に彼のあの低い状態に伴うものであれ、この世のはずかしめ、サタンの誘惑、肉の弱さと戦うことによって、ご自身を低くされた。

 今夜は恵みの契約の仲保者イエス・キリストのその生涯においてどのようにご自身を低くされたかを学びましょう。ウ大教理の問48と答です。

 使徒パウロは、ガラテヤの信徒への手紙4章4節で「時が満ちると、神はその御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」と、父なる神の御子キリストが律法の下で生まれられ、身を低くされたことを証言しています。キリストご自身がそのように身を低くされたのは、「律法を完成するためである」(マタイ5:17)と証言され、使徒パウロはキリストが父なる神への従順によって律法を完全に成就されたことを証言しています(ローマ5:19)。

 ウ大教理が告白する「その生涯において」とは、キリストの受肉のことです。ウ大教理は、キリストの受肉を「律法に服従して、それを完全に成就した」と告白することで、「父が贈って下さった彼によって罪の奴隷となっている人間性の解放、回復がなされるという告知である(ベルカワー)」(岡田稔著作2『教理学教本』P226)ことを示しています。だから、岡田稔先生は、「受肉はこのように贖罪への手段であり、受肉で主要なのは、堕ちた人間の引き上げ作用にある」(同P226)と言われています。

 キリストは、罪に堕ちた人間を引き上げるために(贖罪のために)、その生涯において身を低くされました。

 そのためにキリストは、受肉によってご自身が取られた人間性の弱さと戦われました。その代表的例をウ大教理は、二つ挙げています。「この世のはずかしめ」と「サタンの誘惑」です。

 ウ大教理は、「また人間性に共通なものであれ、特に彼のあの低い状態に伴うものであれ」と、「人間性(肉体)の弱さ」を指摘しています。受肉のキリストは、人間性(肉体)を取り、その弱さとその生涯において戦われました(イザヤ52:13-14,ヘブライ2:17-18)。預言者イザヤは、受肉のキリストのその生涯におけるへりくだりを預言し、ヘブライ人の記者はその受肉というへりくだりが罪に堕ちた人間の贖いのためであったことを証ししています。

  預言者ダビデは、メシア(キリスト)を次のように預言しました。「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥」(詩編22:7)。神の御子キリストは、神であり、聖なるお方であります。「この世のはずかしめ」は、キリストの聖なる本性に反しました。キリストの尊厳にほど遠い姿でした。荒れ野でサタンがキリストを3度誘惑しました(マタイ4:1-11)。神の権威に反逆するサタンの誘惑は、神の御子キリストへの侮辱でありました。
 
  使徒信条は、「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と告白しています。キリストは、「処女マリアから生まれ」、「死んで葬られる」までその全生涯において受難(受苦)の生活でありました。キリストは、あらゆる人間の受ける苦しみを、その生涯において負われました。そしてキリストは、十字架の死に至るまでサタンと戦われました。

 ヨハネス・ヴォスは、『ウェストミンスター大教理問答講解(上)』で「私たちの救い主が地上の生涯の間、自ら低くされた状態にかんがみて、私たちはどのような態度をとるべきであるか」と問うて、次のように答えています。「(a)私たちのためにそのような試みや苦しみ、悩みに耐えて下さったキリストに対する最深の感謝で満たされるべきだ。」「(b)私たちは地上の生涯にあって、困難や難局に遭遇するとき、栄光の主である私たちの救い主が私たちに対する大いなる愛をもって、はるかに苛酷な困難や難局に耐えられたかを思いおこして、失望と絶望に陥る誘惑に抵抗すべきである。」(P176)。

 岡田先生も次のように記しておられます。「それは万軍の主の罪と悲惨の世界での僕としての生活である。それは忍耐と服従の連続であった」(同上P266-267)。わたしたちキリスト者の感謝の生活は、まさに生涯においてご自身を低くされたキリストに倣う生活であります。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答34      主の2015年5月13日

 聖書箇所:マタイによる福音書第27章3-56節(新約P56-58)

問49 キリストは、その死において、どのようにしてご自身を低くされたか。
答 キリストは、その死において、ユダに裏切られ・弟子たちに捨てられ・世から軽べつ拒絶され・ピラトによって罪に定められ・迫害者たちに虐待された後、また死の恐れや暗黒の力と戦い・神のみ怒りの重さを耐えた後、罪のための供え物として、十字架の苦しい・恥ずかしい・のろわれた死を耐え忍んでその命を捨てたことによって、ご自身を低くされた。

 今夜は恵みの契約の仲保者イエス・キリストがその死においてどのようにご自身を低くされたかを学びましょう。ウ大教理の問49と答です。

 主イエス・キリストの死は、第1に受難の死です。12弟子のひとり「ユダに裏切られ」(マタイ27:4)、残りの11人の「弟子たちに捨てられ」(マタイ26:56)ました。そして、この世(ユダヤ社会)の人々から「軽べつ拒絶され」(イザヤ53:2,マタイ27:26-56)ました。そしてローマ総督ポンティオ・ピラトの裁判に引き出され、「ピラトによって罪に定められ」、「迫害者たち(ローマの兵士たち)に鞭打たれ、わき腹に槍を刺され虐待され」ました(ヨハネ19:1,34)。

 ユダは金のためにキリストを裏切りました。11弟子たちは恐怖心からキリストを見捨てました。この世は世界の創造者であり、主であるキリストを軽べつし、拒みました(ヨハネ1:11)。ピラトは、キリストを正義に反して、証拠に反して死刑宣告しました。そして、刑場までローマの兵士たちはキリストを鞭打ち虐待し、ユダヤの指導者たちと民衆たちはキリストを侮辱しました。このようにキリストの受難の死は、キリストが御自身の身を低くし、辱めを受けつつ死なれました。

 キリストの死は、第2に刑罰の死でありました。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)。「死は本質的に神の加罰であり刑の執行によるものであると聖書は言っている」(岡田稔 岡田稔著作集2『教理学教本』P228)。また岡田先生は次のように述べられています。「キリストの死はこのような意味での法的観点から考察しなければならぬ。ポンテオ・ピラトはこの際、神の下された死刑の執行を言い渡す神の役人として歴史に、福音史に登場したことを認めねばならぬ」(同上P228)。

 キリストの死は、第3に霊的な受難でした。キリストは肉体的に苦しみを耐え、御自身の身を低くされただけではありません。「死の恐れや暗黒の力と戦い、神の怒りの重さを感じ耐え」(マタイ27:46)られました。キリストの受肉と十字架の死を、ヘブライ人への手紙の記者は次のように証言します。「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」(ヘブライ2:14-15)。

 キリストの死は、第4に神の呪いです。使徒パウロは、次のように証言します。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』(申命記21:13)と書いてあるからです」(ガラテヤ3:13)。キリストは十字架上で神に呪われ、見捨てられました。神の御子であるキリストは、それほどまでに御自身を低くされました。

 キリストの死は、第5に代理贖罪でした。キリストは、神殿で神の民が罪の犠牲として献げる犠牲の小羊でした。民は、神殿に自身の罪のために傷のない小羊を犠牲として献げました。この小羊こそキリストの影でありました。キリストの命は、わたしたち選民の罪のための供え物として、十字架で献げられました(イザヤ53:10「彼は自らを償いの献げ物とした。」)。キリストの死は、自らへりくだり、十字架の死に至るまで神に従順であり(フィリピ2:8)、「御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死に耐え」(ヘブライ12:2)、神の呪われて死なれました(ガラテヤ3:13)。

 死におけるキリストの謙卑について、岡田先生は次のように述べられています。「一時的にしろ、彼の預言した復活への希望が全く断ち切られたかに見える、手も足も出ない状態への下降、悪人任せの死状、ことに弟子団の上に起きた悲劇的な敗北感などから考えてみると明らかにそれは謙卑の最低段階であった」(同上P229)。

 しかし、この主イエス・キリストの十字架の死こそ、聖書のメッセージの中心であり、滅びゆく世界の希望であり、永遠の命に対するわたしたち選民の希望の源であります。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答35      主の2015年5月20日

 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一第15章1-11節(新約P320)

問50 キリストの死後の低い状態は、どの点にあったか。
答 キリストの死後の低状態は、彼が葬られたことと三日目まで死者の状態にあって死の力の下にとどまっていたこと、すなわち「陰府に下った」という言葉で従来表明されていたことであった。

 今夜は恵みの契約の仲保者イエス・キリストがその死後においてどのようにご自身を低くされたかを学びましょう。ウ大教理の問50と答です。

  (1) 主イエス・キリストの葬り
  使徒パウロがコリント教会のキリスト者たちに告げ知らせた福音の中に、キリストの葬りがありました。彼は次のように述べています。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと」(Ⅰコリント15:3-4)。キリストが死後墓に葬られたことは、パウロにとって語るべき大切な福音でありました。
 
    キリストが墓に葬られたことは、旧約聖書に預言者イザヤが次のように預言しています。「その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた」(イザヤ53:9)、そいて「彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」(イザヤ53:12)。イザヤが預言したようにキリストの十字架は罪の身代わりの死でありました。キリストは、わたしたちが神に支払うべき罪の代価を、罪の無いキリスト御自身が担って、死んでくださいました。
   
    ヨハネス・ボスは、キリストの死後の謙卑を次のように述べています。「死がキリストの上に権能を持ったのは、私たちの罪がキリストの上におかれて、我々の身代わりとして死に、葬られたという事実の故である。キリストが葬られたもうたのは罪の支払う報酬であり罰であったからである。したがってキリストの身体が葬られ、死の権能の下にとどまったことはキリストの謙虚となるのである」(『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』、P181)。
   
  キリストが十字架に死に、墓に葬られたという事実のゆえに、わたしたちはキリストの十字架の死をわたしたちの喜び(最も大切な福音)として受け入れるのです。
   
  (2) 死の権能の下に身を低くされたキリスト
  それを、ウ大教理は「三日目まで死者の状態にあって死の力の下にとどまっていたこと」と信仰告白します。ダビデは、「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」(詩編16:10)と賛美しています。キリストの葬りにより死に支配されていたわたしたちが、キリストによって罪を贖われ、永遠に死の支配の下に留め置かれることはなくなりました。
 
  キリストが墓に葬られ、死の権能の下に彼の身体を置かれたのは、「三日」という短い期間でした。ヨハネス・ボスは、それを次のように説明しています。「罪の罰は完全に支払われ、キリストが民の咎を完全にとりさられたからである。もしキリストの身体が永久に死の権能の下にあったとすれば、罪の刑罰が完全に支払われていないという証拠になってしまう」(同上P182)。
 
  使徒ペトロは、ペンテコステの日にエルサレム神殿に集まりました群衆に十字架に死なれたキリストを、神は復活させられたと証言しました。そして彼は、ダビデの御言葉を引用し、「イエスが死に支配されたままでいるはずがない」と証言し、キリストの復活を力強く語りました。
 
  キリストは、葬りと復活により死に打ち勝たれました。それによって罪のゆえに死に支配されているわたしたちを死の支配から解放してくださいました。キリストを信じて洗礼を受けましたわたしたちは、そこでキリストと共に死に、キリストと共に復活する希望を約束され、わたしたちの体に証印されました(ローマ6:4-11)。
 
  キリストが葬られ、復活されたので、教会墓地は聖徒が御国に至る希望のしるしであります。
 
  最後に使徒信条の「陰府に下り」を、カルヴァンは、『キリスト教綱要』の中でキリストの十字架の御苦しみと理解しています。プロテスタントは十字架の苦難とします。



 ウェストミンスター大教理問答36      主の2015年5月27日

 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一第15章20-28節(新約P321)

問51 キリストの高い状態とは、何であったか。
答 キリストの高い状態は、彼の復活、昇天、み父の右に座していること、世をさばくための再臨を含んでいる。
問52 キリストは、その復活において、どのようにして高くされたか。
答 キリストは、その復活において、次のように高くされた。すなわち、キリストは死において朽ち果てず(彼が死に支配されているはずはなかったからである)、彼が受難したのと全く同じ本質的属性をもったままの(しかしこの生涯に属する死滅性や他の共通の弱さはもたない)体が真実に彼の霊魂に結合されて、ご自身の力により、三日目に、死人の中から甦えられた。そのことによって彼は、ご自分を神の子であり、神の義を満足させており、死と死の力をもつ者とに打ち勝っており、また正者と死者の主である。と宣言された。彼はこれらすべてのことを、その教会の首としての公人として、教会員を義とし、恵みに生かし、敵から守り、また彼らが終わりの日に死人の中から復活することを保証するために、なされたのである。

 今夜から恵みの契約の仲保者主イエス・キリストの高い状態(高挙)について学びましょう。ウ大教理は、使徒信条にしたがって問51-57と答でキリストの高い状態(高挙)について信仰告白しています。すなわち、(1)復活(問52と答)、(2)昇天(問53と答)、(3)神の右に座されること(問54-55と答)、(4)審判のための再臨(問56と答)です。以上のことを、ウ大教理は問51と答で述べています。

  (1) 復活
 使徒パウロは、キリストの復活が事実であることを主張する。キリストの復活は、教会とキリスト者の信仰のよりどころ(救い)として、主イエス・キリストが事実、死人の中から甦られたことを、教会の中で伝承されました(Ⅰコリント15:1-2、4、12-19,20等)。キリストの復活が真実でなければ、わたしたちは罪から解放されません。救いの望みはありません。

 だから、ウ大教理は、聖書と使徒信条にしたがって、キリストの復活の事実を真実と受け入れ、次のように信仰告白しました。「すなわち、キリストは死において朽ち果てず(彼が死に支配されているはずはなかったからである)、彼が受難したのと全く同じ本質的属性をもったままの(しかしこの生涯に属する死滅性や他の共通の弱さはもたない)体が真実に彼の霊魂に結合されて、ご自身の力により、三日目に、死人の中から甦えられた。」

 キリストの復活の事実は、次のことを証明しました。①キリストは死に支配されなかった(使徒2:24)。墓に納められたキリストの体が朽ち果てなかった(使徒2:27)。②キリストは、苦難を受けた同じ体で復活されました。ただし、復活の体には死とそれに伴う肉体の弱さはない。③キリストの復活は、真実彼の体と霊魂が結合されて、なされた。④キリストは「ご自身の御力により(神により)、三日目に、死人の中から甦られた」。

 ウ大教理は、キリストの復活によって、次のようにキリストが高い状態(キリストの高挙)になられたことを列挙します。①ご自分が神の子であることを宣言された(ローマ1:4)。②神の義を満足させていることを明らかにされた(ローマ8:34)。③死と死をつかさどる者を打ち滅ぼされた(ヘブライ2:14)。死んだ者と生きている者の主となられた(ローマ14:9)。

 ウ大教理は、キリストの復活が恵みの契約の仲保者である主イエス・キリストの執り成しであることを次のように列記しています。キリストの復活は、①公人としてなされました。すなわち、キリストは教会の首として復活し、②教会員であるわたしたちを義とされました(エフェソ1:20、22-23)。教会を立てられました。③恵みに生かし(エフェソ2:5-6)、キリストと共に生かし、④敵から守り、⑤終末での復活を保証されました(Ⅰコリント15:20)。キリストは復活の初穂となられました。

 ウ大教理がキリストの高い状態を、キリストの復活の事実に根ざして信仰告白しているのは、使徒パウロが論じるように復活が真実でなければ、わたしたちのキリスト者としての存在と教会の宣教活動が空しいものとなるからです(Ⅰコリント15:12-19)。