ウェストミンスター大教理問答05 主の2014年10月22日
聖書箇所:ヘブライ人への手紙第11章6節(新約P414),ヨハネの手紙一第5章7節(新約聖書P446),使徒言行録第15章14-15節、18節(新約聖書P243),使徒言行録第4章27-28節(新約聖書P220)
問6 聖書は、神ついて何を知らせるか。
答 聖書は、神とはどのような方であるか、神における人格、神の聖定、また聖定の遂行を知らせる。
ウ大教理は、今夜の問6より問90まで「二 信仰篇(使徒信条)」を学びます。問6-90は、ウ大教理問答の「信仰篇」であり、()の中に使徒信条とありますように、使徒信条に従った聖書教理の解説であります。
問6と答は「一 総説」という表題があります。「総説」とは「全体をまとめて説くこと」(『日本語大辞典』)です。問6と答は、聖書全体をまとめて解説しています。
すでに学びましたように聖書は、旧約と新約の66巻の書物から成っています。その聖書全体をまとめて、ウ大教理は問6と答で「聖書は、神について何を知らせるか。」と問い、「聖書は、神とはどのような方であるか、神における人格、神の聖定、また聖定の遂行を知らせる。」と答えています。
問と答で「聖書は・・・知らせる」という文章になっているのは、聖書が「神の啓示」の書であることを証ししています。神の啓示には、自然啓示(一般啓示)と特別啓示(聖書)があります。自然啓示(一般啓示)とは、神の創造において知らされた神の御旨であります。神は、創造によって創造者なる神の存在、永遠の力、神の知恵を被造物に知らされています(詩編19:2,ローマ1:19-20)。しかし、自然啓示(一般啓示)は、人間の罪と堕落(腐敗)によって、また救いの唯一の道であるイエス・キリストを知らせていないので、わたしたちの救いにとって不十分です。
そこで神は、わたしたち人間の救いのために、歴史の中に介入され、特別啓示を与えられました。それがキリストの啓示です。神の特別啓示は、二つの面から成っています。「行為による啓示(出来事としての啓示)」と「言葉による啓示(情報の伝達としての啓示)」です。そして、神の特別啓示を記録したのが聖書であります。
ウェストミンスター信仰告白第1章1節で次のように聖書の必要性を告白しています。「従って主は、いろいろな時に、いろいろな方法で、ご自身の教会に対してご自分を啓示し、み旨を宣言し、また後には、その真理を一層よく保存し広げるためと、教会を肉の腐敗と悪魔や世の敵意に対して一層確立し慰めるために、その同じ真理を全部文書に委ねることをよしとされた。これが、聖書を最も必要なものとしているのであって、神がその民にみ旨を啓示された昔の方法は、今では停止されている。」
ウ大教理は、「聖書は神の啓示の書であって、わたしたちに『神はどのようなお方であるか』、すなわち、神の存在と神の救いのお働きを知らせている(啓示している)書である」と教えています。問6と答は、「神がどのような方であるか」を神の存在(神の人格)と神の御業から教えています。
ヘブライ人への手紙11章6節に「神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じなければならないからです。」とあります。聖書に登場するすべての信仰者は神の存在とその神が人を救い、裁かれるお方であることを信じています。
ヨハネの手紙一の5章7節(テキストの5章17節は誤記)に「証しするのは三者で」とあります。神の人格(位格)は、父と子と聖霊の「三者」であると、聖書は証言します。
神の御業は、内なる御業と外なる御業に分かれます。「聖定」は、神の内なる御業で、神の永遠の御計画です。聖定の遂行とは、神が永遠の御計画を創造と摂理の外なる御業で行われることです。使徒言行録15章14-15節と18節、使徒言行録4章27-28節に、聖定(神の永遠の御計画)と聖定の遂行(神の摂理の御業)がなされたことを記しています。
ウェストミンスター大教理問答06 主の2014年10月29日
聖書箇所:ヨハネによる福音書4:21-24(新約聖書P169-170)
問7 神は、どのような方であるか。
答 神は霊であり、存在、栄光、祝福、完全において自存無限、充足、永遠、不変、知り尽せない、どこにもおられる、全能、全知、最も賢く、最もきよく、最も正しく、最もあわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみとまこととの豊かな方である。
ウ大教理の問7-問11は、「二 神と三位一体」という見出しがあります。聖書で御自身を啓示されている神とは、どのような方であるかを教えています。
問7では、「聖書で神はどのようなお方であるか」と問うています。
1.「神は霊である」とは
ウ大教理は、キリストが「神は霊である」(ヨハネ4:24)と証言されるので、「神は霊であり」と答えます。すなわち、「神は霊である」とは、神は物質的な体を持っておられない存在で、人格者であるということです。神は、わたしたちの目で見ることはできませんが、わたしたちと交わることができるお方です。
2.神は「存在、栄光、祝福、完全において自存無限」である。
ウ大教理は、神が「存在、栄光、祝福、完全」であるお方で、この4つの点で、「自立自存かつ無限」であると答えます。神はモーセに御自身の御名(本性)を「わたしはある」と自己啓示されました(出エジプト記3:14)。「わたしは存在した。わたしは存在している。わたしは存在し続ける」という意味です。神は存在するお方です。使徒言行録でステファノはアブラハムを召された神を、「栄光の神」(7:2)と呼びました。パウロは弟子テモテに「神は、祝福に満ちた唯一の主権者」(Ⅰテモテ6:15)と述べています。神は祝福のお方です。そして、主イエスが「あなたがたの天の父が完全である」(マタイ5:48)と言われていますように、神は完全なお方です。そして、ウ大教理は、「神は『存在、栄光、祝福、完全』なお方として、自立自存し、無限であられる」と教えています。
3.神は「充足、永遠、不変、知り尽せない、どこにもおられる、全能、全知」である。
神は御自身をアブラハムに「わたしは全能の神である」(創世記17:1)と自己啓示されました。神は「完全に充足」されています。詩編90編の詩人は、神を「世々とこしえに、あなたは神」(2節)と、神の永遠性を讃えています。神は不変で、「まことに、主であるわたしは変わることがない」(マラキ3:6)と言われています。神は変わることのない愛と真実のお方です。「知り尽せない」とは「広大無辺である」という意味です。ソロモン王は、エルサレム神殿を建てた時に「天の天もあなたをお納めすることができません」(列王記8:27)と祈りました。「どこにもおられる」とは、神の遍在性を意味します。詩編139編の詩人が神はどこにでもおられることを賛美しています(詩編139:7-12)。詩人は、神の存在と支配からどこにいても逃れられないと告白しています。ヨハネ黙示録に天上の礼拝が描かれ、「全能者である神、主」と賛美されています(黙示録4:8)。神に不可能なことはありません。ヘブライ人への手紙は、神の全知を次のように表現しています。「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです」(ヘブライ4:13)。神はすべてを知るお方です。
4.神は、最も「賢く、きよく、正しく、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみとまことの豊かなお方」である。パウロは、「この知恵のある唯一の神に」(ローマ16:27)と祈っています。神は知恵ある「賢い」お方です。人類の救済のために人知を越えた計画を持って働いておられるお方を賛美しました。預言者イザヤは、主に召されたとき、主を「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と呼びかけました(イザヤ6:3)。神は、神以外の一切のものから隔絶されています。汚れから切り離されたお方です。モーセは、主の「道はことごとく正しい」と歌っています(申命記32:4)。モーセは「神は正しく、真実の神で偽りなく」と歌っています。神は民に「わたしは救う」「わたしは祝福する」と約束し、それを遂行されました。それが神の正義です。十戒を、モーセを通して神の民イスラエルに授けられた時、主なる神が次のように宣言されました。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち」(出エジプト記34:6)。これは、第2戒を破りました民の罪を赦され、契約を更新されたときに、主なる神が宣言された御言葉です。神の憐れみの属性であります。ウ大教理は、聖書で啓示された通りに、神を理解し、信じています。
ウェストミンスター大教理問答07 主の2014年11月5日
聖書箇所:申命記6:4(旧約聖書P291)、エレミヤ書10:10(旧約聖書P1195)、ヨハネの手紙一5:7(新約聖書P446)、マタイによる福音書28:19(新約聖書P60)
問8 ひとりの神のはかにも、神々があるか。
答 ひとりの神のみがおられる。それは、生けるまことの神である。
問9 神には、いくつの人格があるか。
答 神には、三つの人格がある。それは、父と子と聖霊であって、これらの三つは、人格的固有性によって区別されるけれども、本質において同一であり、力と栄光において同等な、ひとりの、まことの、永遠の神である。
ウ大教理の問8と答は神の唯一性を教え、問9と答は三位一体の神の教理を教えています。問9と答えの「人格」は、最近では「位格」と訳されています。
1.神は唯一で、生けるまことの神である
ウ大教理は、問8で「一人より多くの神々がおられるか」(宮崎訳)と問うています。多神教、すなわち、多くの神々を信じる宗教が存在します。それに対して聖書は、唯一の神、主のみが存在することを証ししています。
旧約聖書の神の民イスラエルの信仰は、唯一の神、主のみを信じる信仰です。主は、ホレブ山でモーセを通して神の民イスラエルに次のように自己啓示をされました。「聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。」(申命記6:4)。
神の民イスラエルが入ろうとしている約束の地、カナンには多神教、すなわち、多くの神々を信じる先住民たちがいました。主は、神の民イスラエルに「主が唯一の神である」ことを自己啓示され、それが神の民イスラエルの信仰の基となりました。
ウ大教理は、続いて「生ける、まことの神がおられるだけです」(宮崎訳)と答えています。預言者エレミヤは、「主は真理の神、命の神、永遠の支配する王」(エレミヤ書10:10)と告白しています。ウ大教理は「生ける神」と死せる偶像とを対比し、「まことの神」を「むなしいもの」である偶像と対比させています。主なる神は、人の手によらなければ立つことも動くこともできない偶像ではなく、自ら生ける存在であり、御自身が自ら計画し語り行為し、わたしたちに永遠の命を与える力をお持ちのお方です。
2.神は「父、子、御霊」の三つの人格(位格)を持ち、それに区別があるが、本質において同一、力と栄光において同等の、まことの永遠の神である。
ウ大教理は、問9と答で三位一体の神の教理を教えています。これは、キリスト教独自の神理解です。ウ大教理は、ヨハネの手紙一5章7-8節の「証しするのは三者で、“霊”と水と血です。この三者は一致しています」という御言葉から「三者」と「一致」に注目しています。一人の神に三者(父、子、聖霊)の位格があります。マタイによる福音書の3章16-17節でキリストが洗礼者ヨハネから洗礼を授けられる記事があり、そこで聖霊が鳩の姿で天からキリストに降って来られ、父なる神が天からキリストを「わたしの愛する子」と言われたことを証言しています。28章19節では復活のキリストが11使徒たちに大宣教命令をされ、すべての国民を「父と子と聖霊の名によって」洗礼を施すように命じられました。使徒パウロは、父と子と聖霊の名によって祝福の宣言をしています(Ⅱコリント13:13)。
ウ大教理は、唯一の神である主には、父と子と聖霊という固有の3つの人格(位格)で区別されているが、神という本質は同一であり、力と栄光においては同等であると教えています。すなわち、「父」も神であり、「子」も神であり、「聖霊」も神であり、父も子も聖霊も、共にわたしたちが礼拝し、栄光を帰するお方であります。
父、子、聖霊の三位一体の神は、まことの、永遠の神であります。自ら永遠の中に存在し、わたしたちに永遠の命をお与えくださるお方であります。
三位一体の神の教理は、神の神秘に属する事柄です。人間理性で理解できません。聖書の中で神御自身が御自分を「唯一の神」と自己啓示し、同時に御自分を「父」なる神、「子」なる神、キリスト、「聖霊」なる神と自己啓示されているので、わたしたちは唯一の神が父と子と聖霊という人格(位格)を持ち、しかも父と子と聖霊は「本質において同一」である「一人の神」と信じるのです。