ウェストミンスター大教理問答118  主の2017年215

 

 

 

聖書箇所:詩編661320(旧約聖書P898)

 

 

 

問173 信仰を言い表わし、主の晩餐に臨みたいと願っているだれかが、それからはばまれてよいか。

 

答 信仰の表明と主の晩餐に臨みたいとの願いにもかかわらず、無知あるいは悪評があると認められるような者は、教えを受けて改善を示すまでは、キリストがその教会に委ねられた権能とによって、この礼典からはばまれてもよいし、はばまれなければならない。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問173と答を学びましょう。前回は、問171と答で、自分の信仰とその準備に疑問を持つ者が主の晩餐にあずかることができるかを学んだのである。実際に信仰の弱さのゆえに、主の晩餐にあずかることに不安を覚える者がいる。その者も、自分の不信仰を嘆き、主イエスの憐みに目を向けて、自分の疑いを解く努力をし、主の晩餐にあずかるべきであると、ウ大教理はわたしたちに勧めたのである。主はわたしたちを礼拝に招き、そして、その礼拝で憐みと恵みをもってわたしたちを御自身の食卓へと招かれるのである。

 

 

 

 今回、ウ大教理がわたしたちに教えていることは、前回の逆である。わたしたちの前で信仰を明らかにし、主の晩餐に臨みたいと願っている者が、「それにもかかわらず無知あるいは悪評があると認められる者」で、その者が主の晩餐を阻まれてもよいし、阻まれるべきであると、ウ大教理はわたしたちに教えている。

 

 

 

 本人がわたしたちの前で自分の信仰を表明し、わたしたちと一緒に主の晩餐にあずかりたいと願っても、小会が「無知である」と判断し、本人の行状にも悪評があると認めるならば、当然、小会は本人にもう一度聖書と教理を学び直させ、本人が真の悔い改めを示すまで、主の晩餐にあずからせないという権能を、主イエスから与えられているのである。

 

 

 

 教会の戒規は、「キリストがその教会に委ねられた権能」である。そして、これは、教会の訓練であり、わたしたちがふさわしく聖餐にあずかるためには必要である。

 

 

 

 「無知」とは、キリストを信じる救いの信仰を理解していないことである。すなわち、自分の罪を知り、その罪のためにキリストが十字架で死なれたという贖罪信仰を理解していないことである。

 

 

 

 小会は、人の心を知り、本人が真の信仰があり、回心した者であると判定することはできない。キリスト者か、否かを結審することはできない。

 

 

 

 しかし、小会は主イエスによって権能が与えられ、聖書の御言葉と信条と教会規程に基づいて、本人の信仰と生活を評価し、主の晩餐にあずからせるか、否かを判断するのである。

 

 

 

 本人が回心しているか、否かを判定することは、小会の権能ではない。主イエスがなされることである。小会は、本人が使徒信条に基づいて信仰を正しく理解し、告白しているならば、そして本人の行状に悪評を認めなければ、主の晩餐にあずからせるべきである。

 

 

 

 わたしたちの教派は、教会員と教会役員との誓約が違うのである。教会員になるためには、聖書と使徒信条に基づく信仰理解で十分である。教会役員になるためには、聖書とウ信条と教会規程に基づく信仰理解が求められる。

 

 

 

 キリストが罪人を救うために十字架で死なれ、永遠の命を保証するために復活されたことを信じ、受け入れ、洗礼を受けて教会員となった者であれば、だれでも主の晩餐にあずかることができるのである。

 

 

 

 ウ大教理は、主の晩餐がオープンであるか、クローズであるか、明確にしてはいない。この時代は問題にならなかったからである(ヴォス)

 

 

 

 聖徒の交わりの中心に主の晩餐があり、正しい信仰理解で主の晩餐を守ることが、健全な教会形成につながっていくのである。

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答119  主の2017年222

 

 

 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一第1127-34(新約聖書P315)

 

 

 

問174 主の晩餐の礼典が執行されている間、それを受ける者に、何が求められているか。

 

答 主の晩餐の礼典が執行されている間、それを受ける者に求められていることは、次の通りである。すなわち、全ききよい敬けんと注意をもって、この規定のうちに神を待ち望むこと、礼典の品と動作をつとめて見守ること、主のみ体を深くわきまえ、主の死とみ苦しみとを情愛深くめい想し、それによって、自分の美点の強力な実践へとわが身をかき立てることであって、それらは、自己批判と罪への悲しみ、キリストを熱心に渇望し、信仰によって彼に養われ、その満ち足れるものを受け、その功績により頼み、その愛を喜び楽しみ、その恵みに感謝すること、神との契約と、すべての聖徒への愛を新たにすることにおいて行われるのである。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問174と答を学びましょう。前回は、問173と答で、わたしたちの前で信仰を明らかにし、主の晩餐に臨みたいと願っている者が、「それにもかかわらず無知あるいは悪評があると認められる者」で、その者が主の晩餐を阻まれてもよいし、阻まれるべきであるということを学んだのである。

 

 

 

 ウ大教理は、主の晩餐について、とても丁寧に聖書の御言葉から告白している。既に問171と答で、主の晩餐を受ける前のわたしたちの前もっての準備を学んだのである。

 

 

 

 また、その準備で不安を覚えても、キリストへの信仰があれば、主の晩餐を受けるべきだし、逆に主の晩餐を願っても、その者に信仰の知識に無知があり、振る舞いに悪い評判があれば、主の晩餐を拒むべきであることを学んだのである。

 

 

 

 今回は、礼拝の中で主の晩餐の礼典が執行されている間に、主の晩餐を受ける者に対して何が求められているかという問いである。

 

 次の3つが求められている。(1)「全ききよい敬けんと注意をもって、この規定のうちに神を待ち望むこと」。主の晩餐を受ける者に、キリストは聖性を要求される(レビ10:3)。神に感謝すること(ヘブライ12:28)。主を畏れ、礼拝する者と共に(詩編5:8)。主の再臨を待ち望むこと(Ⅰコリント11:26)(2)「礼典の品と動作をつとめて見守ること」。主の晩餐は契約の血である(4:8、マタイ26:28)。キリストは御自身を過越の小羊になぞらえて、御自身の血を「わたしの契約の血」と呼ばれたのである。(3)「主のみ体を深くわきまえ、主のみ苦しみとを情愛深くめい想し、それによって、自分の美点の強力な実践へとかき立てる」。主のみ体をわきまえること(Ⅰコリント11:29)。キリストの十字架の愛を深く瞑想すること(ルカ22:19の「記念する」)。「主の死を告げ知らせる」(Ⅰコリント11:26)、「偶像礼拝者、姦淫者、悪を行う者、主を試みる者」とならない(Ⅰコリント10:3-10)。

 

 

 

 主の晩餐を受ける者は、その恵みをわが身を持って実践することを、ウ大教理はわたしたちに聖書の御言葉に基づいて求めるのである。(1)「自己批判と悲しみ」とは、「わが身を裁いて罪を悲しむ」(宮崎訳)ことである。わが身の罪を自覚し、その罪を悲しむ。(2)「キリストを熱心に渇望する」とは「切にキリストに飢え、キリストに渇望」(宮崎訳)することである。キリストは御自身に飢え渇く者を、主の晩餐に招かれている(22:17)(3)「信仰によって彼に養われ、その満ち足れるものを受け、その功績により頼み、その愛を喜び楽しみ、その恵みに感謝すること」。キリストは命のパンで、わたしたちの信仰を養われる(ヨハネ6:35)。キリストはわたしたちに豊かな恵みをお与えくださる(ヨハネ1:16)。わたしたちはキリストの功績を寄り頼む信仰によって神に救われた(フィリピ3:9)。「その愛に喜び、その恵みに感謝する」(詩編63:5-6、同22:27)(4)「神の契約とすべての聖徒への愛を新たにすること」。主の晩餐を受ける者は、主に忘れられることなく、永遠の契約によって御国へと導かれる(エレミヤ50:5)。「彼らは、ひたすら使徒たちの教えを守り、兄弟的交わり、パンを裂くこと、祈りに専念していた」(使徒2:42)。主の晩餐こそ、教会形成の原動力である。

 

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答120  主の2017年31

 

 

 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一第1127-34(新約聖書P315)

 

 

 

問175 主の晩餐の礼典を受けてからのキリスト者の義務とは、何であるか。

 

答 主の晩餐の礼典を受けてからのキリスト者の義務とは、次の通りである。すなわち、その間、自身がどうしていたか、またどこまでうまくできたかを真剣に考えること、もし力づけと慰めを感ずるなら、そのために神に感謝し、それが続くように乞い求め、消えないように注意し、自分の誓いを果たし、たびたびこの規定に出席する決心を固めること、しかし、もし益を感じなければ、この礼典への自分の準備とその時の態度を一層厳密に反省すること。もしどちらの点でも、神に対しても自分の良心に対しても、自分を正しいとすることあできるなら、時のくるまで、その実の熟するのを待たなければならない。しかし、どちらかの点で落度があったのに気付いたならば、謙虚にせられ、今後はもっと注意深く勤勉に出席しなければならない。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問175と答を学びましょう。前回は、問174と答で、主の晩餐に臨んでいる時に、何を求められているかを学んだのである。

 

 

 

 ウ大教理は、主の晩餐の前とその時だけではなく、その後についても配慮しているのが、問175と答である。3つのことを要求した。(1)敬虔と注意力をもって臨み、神を待ち望むこと。(2)礼典の動作と品を見回ること。(3)主イエスの十字架の苦しみを瞑想し、それによって感謝の生活へと実践すること。

 

 

 

 今回は、主の晩餐の礼典を受けたキリスト者に求められている義務を教えているのである。

 

 

 

 次のことが求められている。聖餐式で「自身がどうしていたか。またどこまでうまくできたかを真剣に考える」。ウ大教理は、わたしたちに「あなたは聖餐式でどのように振る舞っていましたか。その結果はどうでしたか。真剣に考えて見てください」と問うています。

 

 

 

この問いだけで、わたしたちは、何も考えないで、習慣的に受けていたということに気付かされる。さらに反省などしたこともないことに。

 

 

 

 その上でウ大教理は、わたしたちに実際にどうであったと問う。「聖餐式を受けて慰められ、励まされたか」と。わたしたちが「イエス」と答えると、神に感謝し、これからも聖餐式を喜んで受け続け、洗礼式で誓ったことを果たす様にと勧める。「神に感謝する」ことは、礼拝、聖餐、祈祷という主にある交わりのことである(使徒2;42)。ウ大教理は、これを継続せよと勧める。

 

 

 

わたしたちが「ノー」と答えると、ウ大教理はわたしたちに聖餐の礼典を受ける準備、振る舞いについて厳密に検討せよと勧める。神と自分の良心に対して正しいと判断すれば、「イエス」と答えられる時を待つようにと、ウ大教理は勧める。主に目を注ぎ、主の憐みの時を待つようにと(詩篇123:13)

 

 

 

しかし、神か自分の良心か、どちらかに対して落度があると気付くならば、ヒゼキヤのように神に罪の赦しを求めて(歴代誌下30:1819)、わたしたちが主イエスの御命令に従って聖餐式の礼典を受けていなかったことを悔い、今後敬虔な心で聖餐式の礼典を受けるように熱心務めるようにと勧めている。

 

 

 

ウ大教理は一見わたしたちに聖餐式のマニュアルを提供しているように見えるが、ただのマニュアルではない。聖書の御言葉の瞑想から導き出された教えである。

 

 

 

注の聖書の御言葉は引証聖句と呼ばれるが、単なる立証のためではない。その聖書の御言葉からウ大教理の問答が瞑想によって導かれ、実践へとつながるのである。ウ大教理が目指す教理の生活化は、聖書の御言葉に促される実践である。

 

 

 

毎週第1主の日に聖餐式の礼典を受けるわたしたちにとって、ウ大教理の問168177と答は、常に読み、聖餐式に備え、喜んで受け、その結果のわたしたちに日々にキリスト者の生活を検討する上に重要である。

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答121  主の2017年38

 

 

 

聖書箇所:マタイによる福音書第281620(新約聖書P60)

 

 

 

問176 洗礼と主の晩餐の二礼典は、どこが共通しているか。

 

答 洗礼と主の晩餐の二礼典は、次の点で共通している。すなわち、どちらも創始者神であり、どちらも霊的要素はキリストとその祝福であり、どちらも同じ契約の印証であって、福音の教役者が行なうもので、決して他の者に行なわせてはならないし、また再臨の時までキリストの教会で続けられなければならない。

 

問177 洗礼と主の晩餐の二礼典は、どこが違っているか。

 

答 洗礼と主の晩餐の二礼典は、次の点で違っている。すなわち洗礼の方は、ただ一度、水で、わたしたちの再生とキリストへのつぎ木の印また証印として、幼児にまで執行されなければならない。ところが主の晩餐の方は、幾度も、パンとぶどう酒という品を用いて、魂への霊的栄養としてのキリストを表わし示すために、またわたしたちのキリストにある永続と成長を堅うするために、また自分を吟味する年齢と能力のある者にだけ執行されなければならない。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問176と177と答を学びましょう。前回は、問175と答で、主の晩餐の礼典を受けたキリスト者が、その後どのような義務が生じるかについて学んだのである。

 

 

 

 ウ大教理の目的は、教理の生活化である。理性で信仰と教理を理解し、それを生活で実践しなければ、わたしたちの信仰は実を結ばない。だから、実を結ばせるために、ウ大教理は主の晩餐の礼典について、非常に丁寧に教え、実践へと導くのである。

 

 

 

今回は、洗礼と主の晩餐の二礼典について、その共通の面と違いの面を教えている。問176と答は、洗礼と主の晩餐の二礼典の共通な面である。二礼典は、次の点で共通である。(1)二礼典の創始者は神である。洗礼は「父と子と聖霊の御名によって」施され(マタイ28:19)、主の晩餐は「主から受けたもの」(Ⅰコリント11:23)である。(2)二礼典の霊的要素は「キリストとその祝福」である。「祝福」とは「キリストがもたらす益」(宮崎訳)のことである。使徒パウロは、洗礼と主の晩餐がキリストにあずかり、その益を受けることで一つであると証言する(ローマ6:34,Ⅰコリント10:1718)(3)二礼典は同じ契約の証印である。洗礼と主の晩餐は、信仰によって義(救われた)とされた証しである(ローマ4:11,コロサイ2:12)(4)二礼典は教役者が執行する。教役者とは「福音に伝える者たち」(宮崎訳)である。洗礼者ヨハネは、キリストを証しし、洗礼を施した(ヨハネ1:33)。主イエスは、弟子たちに福音宣教と二礼典の執行を命じられた(マタイ28:1819)。御言葉(聖書と説教)と二礼典を切り離してはならないのである。(5)二礼典はキリストの再臨までキリスト教会で続けられる。主イエスは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されたのである()マタイ(28:20)。使徒パウロは、「主が来られるまで、主の死を告げ知らせる」と主の晩餐の継続を述べている(Ⅰコリント11:26)

 

 

 

177と答で二礼典の違いを次のように記している。(1)洗礼の礼典はただ一度である。礼典に用いる品は水である。洗礼は「わたしたちの再生とキリストとの結合」の印、または証印である。洗礼は、幼児にも施さなければならない。幼児への洗礼は、恵みの契約の割礼に対応している。アブラハムだけでなく、子のイシマエルとイサクも割礼を受けた。同様に恵みの契約にあずかる信者の子らも、その恵みの印、また証印としての幼児洗礼を受けなければならない。

 

 

 

主の晩餐の礼典は、繰り返し幾度も行われる。用いられる品は、パンとぶどう酒である。その目的は、信者の信仰の強化である。すなわち、信者の「魂にとって霊的栄養であるキリストを表わし、与えるため、また、私たちがキリストのうちに引き続きとどまって成長することが確かにする」(宮崎訳)ためである。そのために主の晩餐は、しばしば行われなければならない。しかし、理性的に自分の信仰を吟味する能力とその年齢に達しない者は、主の晩餐にあずかることができないのである。

 

 

 

主は、すべての者を御自身に招かれる。父なる神がキリストにあって選ばれた者はキリストの御声(牧師の説教)を聞き、罪を悔い、キリストを救い主と信じ、洗礼を受け、キリストと一つとされ、教会で信仰生活を始める。その信仰を継続させ、強めるために、主は信仰者を御自身の食卓に招き、パンとぶどう酒を与えてくださるのである。知的障碍者、認知症の信者たちが主の晩餐にどのようにして受けることができるのかは、今日の教会の問題である。

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答122  主の2017年315

 

 

 

聖書箇所:マタイによる福音書第6515(新約聖書P9-10)

 

 

 

問178 祈りとは何であるか。

 

答 祈りとは、わたしたちの願いを神に、キリストのみ名において、そのみたまの助けにより、わたしたちの罪にざんげと、神のあわれみへの感謝に満ちた告白と共に、ささげることである。

 

問179 わたしたちは、神にのみ祈らなければならないか。

 

答 神のみが、すべての人の心を探り知り、求めを聞き、罪を許し、また願いをかなえることができるし、神のみが、信じ、宗教的礼拝をもって礼拝すべき方であるから、その特別な要素である祈りは、すべての人によって神にのみなされ、神以外の何者にもなされてはならない。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問178179と答を学びましょう。前回(161177と答)までは、洗礼と主の晩餐の礼典について学んだのである。

 

 

 

 ウ大教理は、問178196と答で、恵みの外的手段としての祈りと「主の祈り」の講解でもってウ大教理を閉じている。

 

 

 

 ウ大教理の目的は教理の生活化である。そのために理性で信仰と教理を理解し、それを礼拝、伝道、生活へと実践しなければ、教理の生活化はわたしたちキリスト者の生活で実を結ばない。だが、キリスト者の生活は自力でなされるのではなく、わたしたちの父なる神と子なるキリストと聖霊なる三位一体の神の助けと深く結び付いている。

 

 

 

 岡田稔先生の『改革派教理学教本』の中には「祈祷論」はない。しかしその本の「教会と恩恵の手段の教理」の中で礼典論がキリストの昇天に基づくことを述べて、カルヴァンの説を論じられている。その延長線上に祈祷論を推測することができる。礼典は、わたしたちが天にいますキリストを通して、父なる神との交わりを得ようと求めてなされる。同様にキリストの御名を通して、わたしたちは天にいます父に助け求め、願いをするのである。祈りなしに教理の生活化は実現しないし、キリスト者の生活(聖化)もあり得ないのである。

 

 

 

 問178と答は、祈りの定義である。それは聖書の御言葉から導かれる。聖書は、祈りについて、次のように定義する。(1)祈りは「キリストの御霊の助け」である。キリスト者の祈りは聖霊の執り成しである(ローマ8:26)。キリスト者の祈りは人間の欲望が発信源でなく、聖霊の執り成しが発信源である。(2)聖霊に導かれたキリスト者の祈りは、(2)自分の罪の告白と神の憐みへの感謝があわさる。聖霊に導かれてダビデは主の御前に自分の罪を告白し、主の罪の赦しに感謝し(詩編32:5)、預言者ダニエルは神の憐みと愛の偉大さを感謝している(ダニエル9:4)。罪の赦しなしに神に近づくことはできない。(3)「わたしたちの願いをキリストに御名によって神にささげる」。キリスト者の祈りはキリストを通して神にささげるものである。これは、キリストの約束である(ヨハネ16:23)。主イエスは、弟子たちとの最後の晩餐で、「わたしの名によって、父にお願いするものは何でも、父はあなた方に与えてくださる」と約束してくださいました。キリスト者にとって祈りは、「神に寄り頼み」「御前に心開いて願い」「神はわたしたちの逃れ場」になることである(詩編62:9)

 

 

 

 ヨハネス・ヴォスは、ウ大教理の祈りを次のように述べる。「教理問答がここで定義している祈りは、真の祈り、キリスト者の祈り、すなわち、キリストの贖いの業によって神に和解させられている人が、神の啓示された御意志に従って神にささげる祈りである」と(『ウェストミンスター大教理問答講解()』P145)

 

 

 

 だから、問179と答で、キリスト者の祈りの対象は、神に限定されている。もっと正確に言えば、キリスト者の「信ずべき方」「宗教的礼拝をもって拝すべき方」、すなわち「神」のみである。

 

 

 

 この神は、人格神である。神が造られた被造物ではない。知性があり、「すべての人の心を探り知る」ことがおできになり、御意志があり、「求めるところを聞き入れ、罪を赦し、願いをかなえる」ことがおできになる。

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答123  主の2017322

 

 

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書第14114(新約聖書P196197)

 

 

 

問180 キリストのみ名において祈るとは、何であるか。

 

答 キリストのみ名において祈るとは、その命令に服従し、またその約束に信頼してキリストのゆえにあわれみを願い求めることである。無意味にそのみ名をあげることによってではなく、祈りのための励ましと、祈りにおける大胆さ・力・聞き入れられる望みとを、キリストとのその仲保から引き出すことによってである。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問180と答を学びましょう。ウ大教理は、わたしたちに「キリストのみ名において祈るとは、何であるか」と問う。日々のわたしたちの祈りを、どうして問う必要があるのか。

 

 

 

宮崎訳は、ウ大教理の主旨をよく理解し、次のように訳している。「キリストの御名によって祈るとは、どのようなことですか」。

 

 

 

実際にわたしたちは、「キリストの御名によって祈っているのである」。それを、ウ大教理はこの問いをもって、わたしたちの理性によって聖書から理解し、自分たちの良心を育み、祈る訓練をすべきであると、考えているのではないか。

 

 

 

だから、ウ大教理はわたしたちが「キリストの御名によって祈る」ためには、何よりもわたしたちの良心が「キリストの命令に服従し(従わ)なければならないのであると、「キリストの御名によって祈ること」について述べ始めるのである。

 

 

 

なぜなら、わたしたちの良心がキリストの命令に従わない限り、主イエスが弟子たちに教えられた「キリストの御名によって祈る」ことは成り立たないのである。

 

 

 

 それは、ヨハネによる福音書14章を読めば理解できる。主イエスが12弟子たちにお別れの説教をし、14章から主イエスは御自身を通して父なる神に至る道を教えられている。そこで主イエスは12弟子たちに御自身を信じよと命令され(14:11)、主イエスは父なる神の御下に行かれるので、「わたしの名によって祈ることは、何でもかなえてあげよう」と約束されたのである(14:13,14)

 

 

 

 同様にヨハネによる福音書831節と32節で主イエスは、彼を信じていたユダヤ人たちに次のように命令し、約束されたのである。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。

 

 

 

この「自由」とは次の5つである。①神の怒り()から(ローマ2:5)、②律法の呪いから(ローマ6:13)、③サタンと罪の支配から(ローマ7:23)、④永遠の断罪から(ヨハネ5:24)、⑤神に近づく自由、神に仕える自由(ヘブライ4:16)

 

 

 

 宗教改革者ルターは、神聖ローマ帝国皇帝に召喚され、彼の見解の取り消しを迫られた。その時彼は、言った。「わたしの良心は、神の言葉にとらわれています。わたしは何も取り消すことはできないし、取り消そうとは思いません。なぜなら、良心に背くことは正しくないし、安全でもないからです。神よ、助けたまえ」(ローダンド・ベイントン『我ここに立つ』聖文舎 絶版)

 

 

 

 ルターのように、わたしたちの良心がキリストの命令に服従し、神の言葉にとらわれたとき、わたしたちは「キリストの御名によって祈る」ことができるということを、今夜は聖書の御言葉と宗教改革者ルターから学ぶのである。

 

 

 

 「み名」とは神の啓示であり、「キリストの御名による祈り」とは、父なる神が仲保者キリストを通して御自身を啓示され、父が御子主イエスを通してわたしたちと対話し、わたしたちと交わり、わたしたちの願いを聞き届けてくださるのである。それを可能とするために、主イエスは十字架の贖いの死後、復活し、昇天され、父なる神の右に着かれるのである。

 

 

 

岡田稔先生は、「御名は言葉であり、言葉による啓示である」と教えられている(『改革派教理学教本』P54)。袴田康裕先生は、わたしたちの「良心そのものは、弱められたり、無感覚にさえなる。大切なことはキリスト者の良心は聖書に教えられ、聖霊に育まれなければならないのです」と著書に書かれている。