ウェストミンスター大教理問答100 主の2016年9月21日
聖書箇所:出エジプト記第20章17節(旧約P126)
問146 第十戒は何であるか。
答 第十戒は、「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」である。
問147 第十戒で求められている義務は、何であるか。
答 第十戒で求められている義務は、次の通りである。すなわち、隣人に対するわたしたちのすべての内的な動きと感情が、彼のすべての良いものに心を配り、それを助成するような自分自身の状態についての完全な満足と、彼に対する心からの寛容な心構えである。
今夜は、ウ大教理問答の問146と147と答を学びましょう。ウ大教理は問146-148と答において第十戒の条文と、第十戒で求められている義務と禁じられている罪とを教えている。
ウ大教理は、問146と答で「第十戒は何であるか」と問い、その条文を記している。「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(新共同訳聖書)。
「第十戒は隣人の所有を貪欲のゆえに奪ってはならないという実際的な命令である」(『新共同訳旧約聖書略解』)。隣人に対するむさぼりの罪を戒めている。第十戒は、わたしたちのむさぼりの意志、内心の罪を戒めている。
ウ大教理は、問147において第十戒で求められている義務とは何かと問うている。ウ大教理は、わたしたちのむさぼりの意志、すなわち、内心の罪を念頭に置いて、次のように教えている。
第一に「自分自身の置かれている状態に十分満足し」と教える。キリスト者の生活の著しい特色は、この「満足」である。「自分の持っているもので満足する生活」である(ヘブライ13:5)。主はモーセの後継者ヨシュアに約束される。「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」キリスト者は、ヨシュア同様絶えずキリストが共にいて、キリストの助けを受けることができる。そして、それ以上のものは必要がない。
第二に「自分の隣人に対して思いやりに満ちた心の在り方を示し」と教える。キリスト者の心の在り様は、「神を愛し、隣人を愛する」ことである。神に愛されたキリスト者は、ヨブ同様に決して隣人を呪うことはない(ヨブ31:29)。むしろ、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)と使徒パウロが勧めるように、キリスト者は利己心を捨て、キリストの思いを持って生きる。
ウ大教理は、次のようにわたしたちキリスト者に共同体の生活、すなわち、教会生活や市民生活を勧める。「そのようにして、隣人についての内なる思いと感情を挙げて、隣人の所有しているあらゆる良いものに心を配り、それを増進させることです」と。
ダビデは詩編122編7-9節で次のように賛美している。「『あなたの城壁のうちに平和があるように。あなたの城壁のうちに平安があるように。』わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。『あなたのうちに平和があるように。』わたしは願おう わたしたちの神、主の家のために。『あなたに幸いがあるように。』」
主イエスは、伝道に遣わした弟子たちに「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」(マタイ10:12)と命じられた。キリスト者は隣人と平和に生きなければならない。教会では兄弟姉妹との平和と一致が欠かせない。内心にむさぼりの意志が入ると、キリスト者が善き業をなす可能性と希望が去ってしまう(バークレー)。
だから、隣人の所有に心を配り、それを増進させようとすることは、キリスト者の善き業である。そして、善き業の動機はキリスト者の愛である。「愛は忍耐強い、愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真理を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(Ⅰコリント13:4-7)。キリスト者の愛の心こそ、キリスト者の善き生活の土台である。
ウェストミンスター大教理問答101 主の2016年9月28日
聖書箇所:列王記第21章1-29節(旧約P570-572)
問148 第十戒で禁じられている罪は、何であるか。
答 第十戒で禁じられている罪は、次の通りである。すなわち、自分自身の状態についての不満、隣人の幸福に対する羨望と不平、それと共に、彼のものであるすべてのものに対するあらゆる法外な動きと感情である。
今夜は、ウ大教理問答の問148と答を学びましょう。ウ大教理は問148と答において第十戒で禁じられている罪を教えている。
ウ大教理は、わたしたちが教会生活と市民生活をするときに、隣人に対するすべてのむさぼりの意志と内心の罪を禁じているのである。聖書に「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい」と勧められている(ヘブライ人への手紙13:5)。
ウ大教理は、第十戒で禁じられている罪として、第一に「自分自身の状態についての不満」、すなわち、「自分自身の経済状態に満足せず」(宮崎訳)を挙げている。
北イスラエル王国のアハブ王は、宮殿に隣接するナボトのぶどう畑に執着した。しかし、ナボトは、主の嗣業の地を手放さなかった。アハブは心が欲望で満ち、食事を取ることもできなかった。そこで妻のイゼベルが悪計によってナボトに罪を着せ、彼を殺して、その土地をアハブの手に入れさせた。
金やものを愛し、執着することは、自分の持っているもので、すなわち、自分自身の経済状態で満足できない。彼の心は、第十戒が禁じているむさぼりの意志と内心の罪がある。
どうしてむさぼりの意志と内心の罪を、ウ大教理は第十戒が禁じている罪と指摘しているのか。
彼の教会生活と市民生活が神と共に、キリストと共に生きて、神から与えられたもので満足できないからである。自分の内なるむさぼりの意志で、隣人のものを、神が隣人に与えられたものを奪い取るからである。
第二に「隣人の幸福に対する羨望と不平」、すなわち、「隣人の持っている良いものをねたましく、また、心憎く思うこと」(宮崎訳)である。
カインは、神が弟アベルの犠牲を、自分の犠牲よりも喜ばれたので、弟アベルに嫉妬し、殺した(創世記4:5,8)。ヨセフの兄たちは、ヨセフが父ヤコブに愛されるのを嫉妬し、弟のヨセフを隊商に売り渡して、父ヤコブにヨセフは死んだと報告した(創世記37:18,26-27)。
ウ大教理は、第三に「それと共に、彼のものであるすべてのものに対するあらゆる法外な動きと感情」、すなわち、「さらに、何であれ隣人の所有しているものに、おおよそ法外な思いや愛着を寄せる」(宮崎訳)ことを挙げている。
使徒パウロは、わたしたちの「肉」の罪を指摘する。パウロは、「肉」から生まれる罪を、次のように告白する。「律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。」(ローマ7:7-8)。
バークレーは、パウロの言う「肉」を、「神から離れ、神の助けを受けない人間の性質である」と定義する。そして、彼は次のようにパウロの肉の罪を理解する。「パウロはわれわれの人間性が神の助けを拒否した時、律法は実際にわれわれの情欲をして、罪を犯すように揺り動かしたのである、と言っている」。
第十戒で禁じられている罪を、ウ大教理はパウロの肉の罪に関わらせ、神と共に生き、神に忠誠を示さない者の罪と見ている。なぜなら、この罪は、キリストと共にある者、パウロの言う足ることを知る者には生じないからである。わたしたちがキリストと心を一つにし、キリストに服する生活を守る時、律法が「むさぼるな」と禁じる時、罪への欲情を喚起することはないのである。むしろ、「精神を尽くし、心を尽くし、思いを尽くして、神に、キリストに忠誠を尽くす生活をしようとする。キリスト者の心の動機は愛に変えられている。
ウェストミンスター大教理問答102 主の2016年10月5日
聖書箇所:詩編第37編1-6節(旧約P868-869)
問149 だれか、神の戒めを完全に守ることができるか。
答 だれも、自分自身でも、あるいはこの世で受けたどのような恵みによってでも、神の戒めを完全に守ることはできない。かえって、思いと言葉と行為において、それを日ごとに破っている。
問150 神の律法の違反は、どれも、等しく重罪ではない。ある罪はそれ自身において、またいくつかの加重によって、他の罪よりも神のみ前に重罪である。
今夜は、ウ大教理問答の問149‐150と答を学びましょう。ウ大教理は問149と答において人は十戒の神の戒めを完全に守ることができるかと問い、守ることができないばかりではなく、人は日々に罪を犯していると教えている。そして、問150と答で人の犯す罪はすべて、神の御前で重罪であるかと問い、神の律法に違反する罪は、等しく重罪ではなく、いくつかの罪が加わることで他の罪よりも重くなると教えている。
ヤコブの手紙3章2節で使徒ヤコブは、「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。」と告白している。先月の東部中会第2回臨時会で教師の牧師辞職願を扱った。教師が牧師を辞職した理由は、失言であった。ヤコブは、「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」と述べている。わたしを含め、失言しない完全な人はいない。
キリスト者は洗礼によってキリストにつながっている。洗礼は、キリスト者にとってこの世で受けた神の恵みである。だが、使徒パウロが告白するように、キリスト者には肉の弱さがある。罪を犯さないことは困難である。だから、コヘレトの言葉は、「善のみを行って罪を犯さないような人間はこの地上にはいない」(7:20)と言っている。使徒ヨハネも「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にはありません」(Ⅰヨハネ1:8)と告白している。
生まれながらの人は、原罪により腐敗してこの世に生まれ、「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になっている」(創世記6:5)と聖書は証言している。生まれながらの人は、日々思いと言葉と行為において神の戒めを破っている。日々のニュースは、そのオンパレードを報道しているのである。
神の戒めを破る罪は、等しく重罪なのではない。例えば、旧約聖書には故意に神の戒めを破る者は石打ちの刑に処せられ、故意ではなく、過失で隣人を死なせたときは、身内の復讐から彼の身を守る逃れの町を設けられている。そこで彼に正しい裁きがなされるまで罪を犯した者は守られた(民数記35:9-34)。
神の戒めを破る罪はどれも等しく重罪ではない。これがウ大教理の見解である。しかし、主イエスをピラト裁判に引き渡したユダヤ人指導者の罪は神の御前で重い罪であった。彼らには神の子キリストを裁く権限はなかったのに、異邦人ピラトに引き渡し、神の御前に偽証という罪を加えて、キリストを殺すという重い罪を犯しました(ヨハネ19:11)。
ダビデはウリヤの妻バト・シェバと姦淫の罪を犯し、ウリヤの妻を寝取り、それが知られることを恐れて彼を殺すというむさぼりと殺人の罪を犯した。主なる神はダビデの重罪を見過ごされない。預言者ナタンを通して白日の下にさらし、ダビデの子らの罪を通して、ダビデの罪を裁かれた(サムエル記下11章)。
人は罪を犯す。その罪は他の罪を加えて、さらに主の御前で重罪となる。ある牧師が招かれて伝道集会に行った。ところが、彼の子が重い病を患い、彼を招いた教会の牧師は、彼を家に帰らせて、自ら伝道集会の講師を務めた。時を経て、ある牧師は彼を伝道集会に招いた牧師と同じ中会で働いた。ところが、招いた牧師が教会で困難な中にいたときに、彼はその牧師の親切を忘れ、その牧師を教会から追い出し、恩ある牧師夫妻にムチ打った。主はその罪を忘れておられなかった。ある時恩をあざで返した牧師が他人の説教を丸写しし説教した。小会は彼を中会で訴えた。中会は、盗みの罪でその牧師を裁いた。その後、彼が預かっていたお金を流用していた罪も明らかにされ、裁かれたのである。
ウェストミンスター大教理問答103 主の2016年10月19日
聖書箇所:マタイによる福音書第27章1-10節(新約P56)
問151 ある罪を他の罪よりも重罪とする加重とは、何であるか。
答 罪は、次のことから加重される。
一 犯罪者がら。彼らが年上の人、一層豊かな経験なり長所をもつ人、職業・賜物・地位職務のゆえに卓越した人、他の者の指導者であり、他の者が手本にすると思われる人である場合。
二 被害者の側から。直接、神とその属性と礼拝に対し、キリストとその恵みに対し、聖書とその証しと働きに対し、上の人、卓越した人、特別に関係や契約のある人に対し、聖徒のだれか、特に弱い兄弟、彼らや他のだれかの霊魂、また、すべての人あるいは多くの人の共通の福祉に対する場合。
三 犯罪の性質・特色から。律法の明らかな条文に対し、多くの戒めを破り、そのうちに多くの罪を含む場合、心にいだかれているだけでなく、言葉と行動にほとばしりで、他人の顔に泥を塗り、償いの余地を残さない場合。恵みの手段・憐み・裁き・自然の光・良心の確信・公私の訓戒・教会のけん責・国法による刑罰に対する場合。神と人に対する祈り・企て・約束・約定に対する場合。熟慮の上・故意に・強引に・無礼に・傲慢に・悪意をもって・ひんぱんに・頑迷に・喜んで・継続的に・あるいは悔い改めた後に逆戻りして犯される場合。
四 時と場所の状況から。主の日、あるいは他の礼拝の時、その直前直後、このような失策の予防策や善後策の後に犯される場合。公に、あるいは他人のいる前で犯され、それによって人々がそそのかされたり、汚されるかもしれない場合。
問152 すべての罪は、神のみ手にあって何に値するか。
答 すべての罪は、最も小さい罪でも、神の主権・慈愛・きよさに逆らい、神の正しい律法に反するものであるから、この世でも来世でも、神の怒りとのろいに値し、キリストの血による外に償われることはできない。
今夜は、ウ大教理問答の問151‐152と答を学びましょう。ウ大教理は問91より実践編に入り、わたしたちキリスト者の義務について学び始め、主に道徳律法の十戒を学んだのである。十戒は、キリスト者生活の土台である。
宮崎訳は、問151を「ある罪を他の罪より一層憎むべきものとする加重とは、どのようなものですか」と訳している。罪の加重は、主の憎しみを増す行為である。
「加重」とは罪を重大、深刻にすることである。すなわちその罪を悪質にする要素であり、環境である。
ウ大教理は、聖書より4つの罪の加重を指摘する。1.「罪を犯す者の立場から」2.「害を被る側の立場から」、3.「違反の性質と特色から」、4.「時と場面の状況から」。
同じ犯罪者も、負う罪責は個々人、環境によって異なる。子供より大人の方が加重である。地位の低いものより高い者が加重である。信仰・賜物の有無、職業の上司と部下、指導者と国民、有名人と無名の人では加重が異なる。
次に教会における罪の加重である。礼拝・信仰告白に対する罪の加重、兄弟姉妹に対する罪の加重である。偶像礼拝と安息日律法違反、言葉と態度で神を冒涜する罪である。また、神との誓約を破り、弱い兄弟姉妹の信仰を躓かせる罪である。
「犯罪の性質と特色」は、一切の人物と環境を考慮せず、殺人の罪は盗みの罪よりも加重である。一つの犯罪の性質から、殺人は盗みよりも重大で、悪質であり、加重となる。また、「貪欲は偶像礼拝である」と言われているので、悪質で、加重となる。「他人の顔に泥を塗る」償いの余地を残さない行為も加重となる。神の御前における罪であるから。法令順守違反も加重となる。いじめ、セクハラ、パワハラも加重となる。再犯の罪も加重となる。
時と場面の状況から。礼拝時の前後に過ちに対する予防策と善後策が講じられているのに罪を犯す場合、加重となる。
どんな小さな罪も神の怒りを免れず、キリスト以外に罪よりの救いはない。
ウェストミンスター大教理問答104 主の2016年10月26日
聖書箇所:使徒言行録第20章17-24節(新約P254)
問153 律法の違反のため、わたしたちに当然である神の怒りとのろいをまぬがれるために、神はわたしたちに何を求められるか。
答 律法の違反のため、わたしたちに当然である神の怒りとのろいをまぬがれるために、神はわたしたちに、神に対する悔改め、わたしたちの主イエス・キリストに対する信仰、キリストが中保の恵みをわたしたちに伝達される外的手段を忠実に用いること、を求められる。
問152 キリストが、その仲保の恵みをわたしたちに伝達される外的手段は、何であるか。
答 キリストが、その仲保の恵みを彼の教会に伝達される外的な、普通の手段は、キリストの全規定、特にみ言葉と礼典と祈りであって、これらすべて、選ばれた者にとって、その救いのために有効とされるのである。
今夜は、ウ大教理問答の問153‐154と答を学びましょう。ウ大教理は問91より実践(生活)編に入り、問152まで十戒を学びました。
その学びで、わたしたちは、道徳律法に違反する者で、それゆえに「神の怒りと呪い」の下にあることを当然であると認識したのである。
だからウ大教理は、十戒を破ったために、「わたしたちに当然である神の怒りとのろいをまぬがれるために、神はわたしたちに何を求められるか」と問うているのである。
仲保者であるキリストの恵みなしに、わたしたちは神の怒りとのろいを免れることはできない。
すなわち、聖霊がキリストの救いの御業を、わたしたちに適用してくださることが必要である。
そのために聖霊は、内的手段と外的手段を用いてわたしたちに「当然である神の怒りとのろい」を免れさせてくださる。
聖霊の内的手段とは、ウ大教理が問153の答で述べている「神に対する悔改め、わたしたちの主イエス・キリストに対する信仰」(使徒20:21)である。
ウ大教理は、問58から問64で「キリストの贖罪の適用」について教えている。聖霊は、その適用を内的手段(聖霊の御業である「悔改めと信仰)と外的手段(普通の手段である御言葉と礼典と祈り)を用いて神の選民に適用される。
問153と答は、わたしたちに当然である神の怒りとのろいを免れるためには、聖霊の内的手段である「神に対する悔改めとキリストに対する信仰」、そして外的手段(普通の手段)である「み言葉と礼典と祈り」を忠実に用いることが必要であると教える。
問154と答は、目に見えない聖霊の内的手段に対する目に見える教会で、信徒の交わりの中で普通になされている「外的手段」について教えている。
「仲保者の恵み」とは、キリストの十字架の贖いである。聖霊は、キリストの贖いの恵みにあずかる者を、見える教会に集められ、普通の手段で伝達される。すなわち、礼拝である。
「キリストの全規定」は、教会における礼拝儀式である。そこにわたしたちを集められ、「御言葉と礼典と祈り」という普通に礼拝でなされる手段を用いて、聖霊は神に選ばれた者の心に悔改めと信仰を起こされて、救われるのです。
だから、「み言葉」(説教)と洗礼と聖餐の礼典、そして祈祷は、神の選民が救われるのに有効であると、ウ大教理は教えている。
復活の主イエスは、11弟子たちに「聖霊の御名によって、洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを教えよ」と命じ
(マタイ28:19-20)、ペンテコステの日にエルサレム教会は「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱しであった」(使徒2:42)。礼拝を通して多くの人が救われた。
ウェストミンスター大教理問答105 主の2016年11月2日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第15章4-6節(新約P395)
問155 み言葉は、どのようにして救いに有効とされるか。
答 神のみたまが、み言葉の朗読・特にその説教を、罪人を啓明し・罪の自覚を与え・へりくだらせること、彼らを自分から離してキリストに導くこと、キリストの形に一致させて、そのみ心に服従させること、誘惑や腐敗に対して強めること、恵みの中に生育させ、信仰によって救いに至るまで、きよめと慰めの中に彼らの心を堅くすることのために、有効な手段とされるのである。
今夜は、ウ大教理問答の問155と答を学びましょう。ウ大教理は問153より恩恵の外的手段について教えている。問153から問160までは、その一つである御言葉について教えている。
復習すると、問154と答で、ウ大教理が次のように恩恵の手段について定義した。「キリストがその仲保の益を教会にお与えくださるための通常の外手段は、キリストの全規定、特に御言葉と礼典と祈りです」(宮崎訳)。
上記のウ大教理の定義から次のことを推測できる。恵みの外的手段は、教会においてのみ執行されると。ウ大教理は、「礼拝そのものこそが外的な普通の、教会員に恵みを伝えら手段である」と教えている。
例えば、礼拝の主要素は御言葉(聖書朗読・説教)と礼典(洗礼・聖餐)、祈りである。それゆえ礼拝そのものが、キリストの救いを有効にする外的な普通の恵みの手段である。
恵みの外的手段が御言葉、礼典、祈りの順であることに意味がある。ウ大教理が御言葉から教えることに意味がある。
なぜなら、使徒パウロが次のように言っているから。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。岡田稔先生は、「論理的には御言葉のみが恵みの公的手段であると言ってよい。礼典や祈祷は御言葉によって恵みの手段たりうる副次的なものと言える」(『教理学教本』P441)。
御言葉なしに救いはない。だから、礼拝は聖書朗読と説教とそれへの聴従なしに成立しない。キリストが霊的に臨在されないから。そして、キリストの臨在されない所に救いはないから。
だから、まずウ大教理は、わたしたちに問155と答で「御言葉は、どのようにして救いのために有効とされるのですか」と問いかけるのである。
恵みの外的手段としての御言葉を用いる主体は、聖霊です。聖霊は、聖書朗読と説教を用いて、聞く「罪人を啓明し」とは、聖霊が御言葉を聞いている罪人の心を照らされること。そして、十字架のキリストの言葉で、罪人に罪の自覚を与えられる。そして、神に背を向けて生きて来た罪人を主の御前にへりくだらせられる。
次に聖霊は、自己中心に生きていた罪人を、自己からキリストへと引き離され、聖霊は罪人をキリストの形に、「主と同じ姿に造り変えられる」(Ⅱコリント3:18)。
そして、聖霊は罪人の心をキリストの御心に服従させて、聖化の道を歩ませられる。主の御心への服従、誘惑するサタン、罪の腐敗との戦いを強めること、恵みの内に信仰から信仰へと歩ませ、聖徒の堅忍のうちに清さと慰めをもって罪人の心に揺るぐことのない救いの確かさを与えられる。
問155と答は、聖霊が御言葉によってわたしたち罪人の内に働かなければ、わたしたちに救いのないことを教える。信仰によって救われるのであるが、実際は聖霊がわたしたちの内に御言葉を照らし、わたしたちに罪を自覚させ、キリストを信じる信仰を与え、御国に至るまでわたしたちの信仰を守り、救いの至らせてくださるのである。
礼拝で聖書朗読と説教を聴従しても、聖霊が働かなければ、キリストの仲保の恵みはわたしたちに有効とならないのである。
ウェストミンスター大教理問答106 主の2016年11月9日
聖書箇所:申命記第31章9-13節(旧約P330)
問156 神のみ言葉は、すべての人に読まれなければならないか。
答 すべての人がみ言葉を、会衆に対して公的に朗読することが許されるわけではないが、すべての種類の人々は、自分ひとりで、また家族と共に、み言葉を読まなければならない。その目的のために、聖書は、原語から自国語にほん訳されなければならない。
問157 神のみ言葉は、どのように読まれなければならないか。
答 聖書は、高い敬けんな評価でもって、聖書こそまさしく神のみ言葉であり、神のみがわたしたちに理解させることができるとの確信をもって、聖書に啓示された神のみ心を知り・信じ・服従したいという願いをもって、勤勉に、聖書の内容や範囲に注意して、めい想と適用と自己否定と祈りをもって、読まねばならない。
今夜は、ウ大教理問答の問156-157と答を学びましょう。前回よりウ大教理の恩恵の外的手段としてのみ言葉について学び始めた。ウ大教理は、問156と答で、すべての人が聖書を読まなければならないので、聖書は原語から自国語に翻訳されなければならないことを教え、問157と答で、聖書の正しい読み方を教えている。
問156と答は、ウ大教理がわたしたちに礼拝における聖書朗読とすべての人が聖書を通読することを区別しながら、すべての人が個人でも、家庭の礼拝でも、聖書の神の御言葉を通読することは必要であるので、聖書は原語から自国語に翻訳しなければならないことを教えている。
「すべての人がみ言葉を、会衆に対して公的に朗読することが許されるわけではないが」とは、公的礼拝で聖書朗読することは、すべての人に許されてはいないという意味です。旧約の時代は祭司・レビ人・律法学者が公で聖書朗読する義務がありました(申命記31:9-13,ネヘミヤ記8:2等)。
新約時代は、キリスト、使徒・牧師・伝道者など召された者の義務でした(ルカ4:16,使徒13:14)。今日でも公的礼拝の聖書朗読は主に召された牧師がする。
次にウ大教理は、わたしたちに聖書を読む義務は、キリスト者だけではなく、字を読むことのできるすべての者の義務であることを教えている。一人で聖書を通読し、家庭では家長が礼拝をリードして家族と共に聖書を朗読し、誰もが聖書を読まねばなりません。なぜなら、聖書だけがキリストを証しし、キリストを信じる信仰によってわたしたちは救われるからである(ヨハネ5:39,Ⅱテモテ3:15)。
主イエスは11弟子たちに全世界への宣教命令を発された。それを遂行するために聖書の原語は自国語で翻訳され、世界の人々にキリストを証ししなければならない。
ウ大教理はわたしたちに問157と答で、聖書が神の御言葉であり、聖霊の照明の導きなくして理解できないので、祈りをもって聖書の神の御言葉を理解し、神に服従できるように願いつつ、敬虔な態度で読むべきであると教えている。
預言者イザヤは、次のように主の御言葉を告げている。「わたしが顧みるのは 苦しむ人、霊の砕かれた人 わたしの言葉におののく人」(イザヤ66:2)。
神の御言葉である聖書に対する敬虔、聖書は神の御言葉という聖書に対する高い評価、聖霊に依り頼み、祈りをもって聖書を理解し、聖書が証しするキリストを、わたしの救い主と信じて服従する。
ウ大教理は、わたしたちに教えるだけではなく、実際に実践した。礼拝し、聖書朗読し説教し、聴従し、祈り、この大教理問答を作成したのである。ウ大教理問答は、その作成に携わった者たちの信仰とその実践の結実である。
聖書は、通読を基本に、読む範囲を決め、若い者は速読し、繰り返し聖書を読んでほしい。高齢者は、ゆっくりと熟読されることを勧める。毎日勤勉に読んでほしい。読む前に「主よ、御言葉を理解させてください」と祈ると良い。
ウェストミンスター大教理問答107 主の2016年11月16日
聖書箇所:テモテへの手紙一第3章1-6節(新約P386)
問158 神のみ言葉は、だれによって説教されなければならないか。
答 神の御言葉は、十分に賜物を与えられ、正当にその職務に認定され召された者によってのみ、説教されなければならない。
今夜は、ウ大教理問答の問158と答を学びましょう。前回は、聖書朗読について学びました。ウ大教理は、問156と答で公的礼拝における聖書朗読が誰にでも許されていないことを教え、同時にすべての人が個人で、家庭で聖書を読まなければならないので、聖書は原語から自国語に翻訳されなければならないことを教えている。
ウ大教理は問157と答で聖書の正しい読み方を教えている。聖書は神の御言葉である。聖霊のみがわたしたちに聖書を理解させてくださるという敬虔な態度で聖書を読み、聖書に啓示された神の御心を知り、信じ、服従したいという願いをもって、毎日勤勉に聖書の内容と範囲に心を留めて、御言葉を思い巡らし、生活に適用し、常に自己否定と祈りと共に読まなければならないと教えている。
問156と答は、ウ大教理がわたしたちに礼拝における聖書朗読とすべての人が聖書を通読することを区別しながら、すべての人が個人でも、家庭の礼拝でも、聖書の神の御言葉を通読することは必要であるので、聖書は原語から自国語に翻訳しなければならないことを教えている。
聖書の理解は聖霊の内的照明に依存している。だから、自分を否定し、聖霊に依り頼み、祈りつつ聖書を研究すべきである。聖霊は、わたしたちが聖書を理解しようとするあらゆる方法を用いて、わたしたちを真理に導かれる。
ウ大教理は、問158と答で公的礼拝における説教について教えている。神の御言葉は通常公的礼拝において説教される。これは、容易に推論できる。
実際に主の日の礼拝で説教するのは、牧師である。彼は、聖霊を通して「キリストの言葉」(ローマ10:17)を語る賜物を与えられている(ローマ10:15)。聖霊が彼に聖書を「良く教える」ことのできる賜物を与えておられる(エフェソ4:8-11)。
公的礼拝においては、通常キリストに召され、説教者として賜物を与えられ、立てられた者によって説教されなければならない。
「正当にその職務に認定され召された者」とは、わたしたちの改革派教会に当てはめると次のようになる。主の召しによって献身し、神学校に入り、牧師としての専門の教育を受け、その過程で中会に教師候補者登録をし、説教免許試験に合格し、神学校を卒業して教師試験に合格し、同時に教会からの招聘を受け、中会で教師に任職され、按手を受けて、中会で招聘された教会の教師に認定(承認)された者である。
ウ大教理がこのように説教する者を厳しく規定するのは、その説教者が語る神の御言葉が教会を建て、あるいは倒すほどに重要であるからである。「教会を造り上げる」のは、説教である。だから、ウ大教理は説教する者に適正な資格を求めるのである。説教する牧師には、霊的、知的、教育的資格が必要である。目の見えない人が目の見えない人を導くということがないように。
神戸改革派神学校は、入学者の資格が大卒である。ヨハネス・ヴォスは、その理由を次のように述べている。「大学教育を欠く宣教者は福音宣教をすべき近代世界を理解することはなかなか困難である。哲学、歴史、その他の高度の課目の研究は、時間の浪費であるどころか近代思想の背景を教え、現代の情勢を真に把握した仕方で、宣教者が神の経綸を宣べ伝えることができるようにする」と。
以上は、通常の場合である。公的礼拝で牧師以外の長老が奨励を語る場合がある。神学校を出ていなくても、聖霊が用いられる者がいる。例外はある。しかし、ウ大教理は、公的礼拝で説教する者を召し、訓練するのは、通常教会であると教えているのである。教会は、神学校と中会に説教者の養成を委ねている。教会は神学校と中会の教職養成を祈り、常に関心を持つべきである。
ウェストミンスター大教理問答108 主の2016年11月30日
聖書箇所:テモテへの手紙一第3章1-6節(新約P386)
問159 神のみ言葉は、その職務に召された者によって、どのように説教されなければならないか。
答 み御言葉の宣教に働くよう召された者は、健全な教理を勤勉に、時が良くても悪くても、平明に・人の知恵の巧みな言葉によらず、み霊と力との証明によって、忠実に・神のみ旨をあますところなく伝えて、賢明に・聴衆の必要と能力に適合して、熱心に・神と神の民の魂への熱愛をもって、誠実に、神の栄光と民の回心と建徳と救いを目ざして説教しなければならない。
今夜は、ウ大教理問答の問159と答を学びましょう。前回は、説教する者について学んだのである。ウ大教理は、問158と答で公的礼拝において説教をする者について、次のように教えている。説教者は正当な資格が必要である。すなわち、霊的・知性的・教育的資格である。改革派教会は、説教者に大学の全過程と神学校の全過程を要求する。また説教者は職務に認定され召された者である。説教者は職業ではなく、職務である。神と教会に召されている。主観的には自己の召命であり、客観的には神と教会の召命である。中会で教師候補者登録し、説教免許試験、教師試験に合格し、教会からの招聘を受けて、教師に任職され、教会の公的礼拝で説教するのである(実際には、説教免許試験に合格すれば、公的礼拝で説教し、祝福の宣言をすることが許されている)。ウ大教理は、説教する者は神と教会に召された者であると教えている。
ウ大教理は、宣教の働きに召された者は、次のように健全な教理を説教しなければならないと教える。
使徒パウロは、弟子のテトスに「あなたは、健全な教えに適うことを語りなさい」(テトス2:1)と命じ、「非難の余地のない健全な言葉を語りなさい」と命じている。ウ大教理は、説教者は、健全な教理を語る義務があると教える。
「健全な教え」、「健全な教理」とは、聖書に啓示されている真理に一致する教えである。ヨハネス・ヴォスは、説教者が「健全な教理の説教」を語る重要さを次のように指摘する。「私たちがキリストに真に接触し、キリストを通して救いを経験することができるのは、聖書の啓示されている真理を知ることによってだけ可能であるからである」。
だから、ウ大教理は、説教者に次のようにして健全な教理の説教を語るように勧めている。「時が良くても悪くても、熱心(勤勉)に」神の御言葉が説教されねばならないと。人間の知恵と技巧的な言葉は必要ではない。むしろ、聖霊と神の御力の証明によって説教すべきである。説教は説教者の雄弁でなすものではない。聖霊が説教を祝福し、説教を聞く者の心に適用してくださることを信頼すべきである。説教者は人よりも神の御力を信頼して語るべきである。
説教は平明に、そして忠実に語られる。聖書の真理を明確にし、誰にでも理解でき、その真理を忠実に説教すべきである。聖書の真理は水増ししても、省略してもいけない。ありのままにみ旨をあますことなく語るべきである。
使徒パウロは、エフェソ教会の長老たちにお別れの説教をしました時に、「わたしは、神の計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからである」と語っている(使徒言行録20:27)。
ウ大教理は、説教に「賢明」さが必要であると説く。説教者が説教を聞く者の立場に立ち、何を必要としているのか、どれだけの理解力があるのか、よく弁えて説教すべきであると。
ウ大教理は、説教は愛の言葉だと説く。「神と神の民の魂への燃えるような愛をもって」(宮崎訳)と説教すべきであると。
最後にウ大教理は、説教することの目的を次のように説く。「誠実に、神の栄光と民の回心と建徳と救いを目ざして説教しなければならない」と。
「建徳」とは、育成である。説教は、聞く者に罪の悔改めを求め、キリストの救いにあずからせ、信仰の霊的成長に欠かせない糧である。
説教者は説教することで神の栄光を現すのである。