ウェストミンスター大教理問答77      主の2016年3月30日

聖書箇所:出エジプト記第20章8-11節(旧約聖書P126)

問115 第四戒は何であるか。
答 第四戒は「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべ
てのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざもしてはな
らない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門の
うちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべ
てのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖と
された」である。
問116 第四戒では、何が求められているか。
答 第四戒はすべての人に、神がそのみ言葉の中で命じられた一定の時、すなわち明
らかに七日のうち丸一日を、神に対して聖別すること、またはきよく守ることを求め
ている。それは、世の初めからキリストの復活までは週の第七日であって、新約聖書
では「主の日」と呼ばれる。

 先週、ウ大教理問答の問115と答を少し学んだ」。今夜は、問116と答も一緒に学ぶ。
復習になるが、問115と答は第四戒とその本文である。出エジプト記第20章8-11節の御言葉である。「安息日」律法である。「安息日」は「休む(1日を休みにする)、中止する」という動詞に由来する。「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という主のご命令は、1週間のうちの1日を6日とは区別し、労働を休み、その日を特別に神のために取って置けということである。その日は第7日目である。キリスト教安息日はキリストの復活に基づき、第一日目の「日曜日」である。

 安息日は家族の者だけでなく、奴隷も、家畜も、在留の異邦人もすべて守るべき日である(出エジプト20:10)。

 出エジプト記20章11節で「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」と記している。安息日が設けられた理由である。「七日目は神が創造の業を休まれた日である」(創世記2:2)。それゆえに主なる神と契約の中にある神の民イスラエルは、七日目の安息日に仕事を休むのである。その日神の民イスラエルは、主なる神を礼拝し、賛美し、主との契約の中にあることを喜ぶのである。

 申命記第5章12-15節では神の民イスラエルが安息日を守る理由を、主なる神が神の民イスラエルをエジプトから救い出されたことを覚えるためであるとしている。創造主は救済者である。創造者なる主は、同時に神の民イスラエルの救い主である。そして、キリスト者はイエス・キリストの復活を覚えて、日曜日を主の日として、主イエス・キリストと彼の救いの御業を覚えて安息日を守り、主を礼拝・賛美するのである。

 ウ大教理は、問116と答で主なる神が神の民イスラエルに「安息日を覚えて、これを聖とせよ」と命じられたことを、「第四戒はすべての人に」神が命じられたと、理解、し、神が第四戒で命じられた「一定の時」、「七日のうちの丸一日を」、神に対して聖別することを要求している。この「一定の時」を「第七の日」(創世記2:2)と言わず、「七日のうちの丸一日」と言うのは、キリスト教安息日を想定しているのである。新約聖書は「週の初めの日」(Ⅰコリント16:2,使徒言行録20:7)を、キリスト教安息日としている。

 第四戒は、キリスト教安息日を、すべての人が「神に対して聖別すること、またきよく守ることを求めている」というのが、ウ大教理の理解である。第四戒の安息日律法は道徳律法である。だから安息日律法はすべての人に、神が命令されているのである。ウ大教理は、「安息日を丸一日規則正しく聖なる日として守ること」が要求されていると主張する。「神に対して聖別すること、きよく守ること」とは、神礼拝を中心とする丸一日である。その日丸一日を神にささげるのである。

 キリスト復活まで安息日は、第七日(土曜日)であったが、新約聖書はキリストが復活のした日曜日、週の初めの日を、主の日として、キリスト教安息日として守っている。第四戒は、「六日の間働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざもしてはならない」とある。この戒めは、六日間の勤勉な働きを命じているが、一週間何曜日から始めるべきであると命じてはいない。だから、この戒めは土曜日を安息日にしなければならないという命令ではない。月曜から土曜日まで働き、日曜日を安息日として丸一日聖別することは許されている。

 キリスト教安息日は、御国が到来し、永遠の安息日が実現するまで続くのである。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答78      主の2016年4月6日

聖書箇所:出エジプト記第20章8-11節(旧約聖書P126)

問117 安息日すなわち主の日は、どのように聖別されなければならないか。
答 安息日すなわち主の日は次のようにして聖別されなければならない。すなわち、
いつでも有罪であるようなわざからばかりでなく、他の日なら合法的であるような世
俗の職や娯楽からさえも、終日きよく休むことにより、また(止むをえないわざや慈善
のわざに用いられる時間を除いて)その全時間を公的・私的礼拝の実践に費やすこと
を、わたしたちの喜びとすることによってである。その目的のためには、わたしたち
は心の備えをし、また一層自由の身でその日の義務に当たれるよう、大いに見通しと
勤勉と節度とをもって世俗の仕事を処理し、適切に手早く片付けなければならない。
問118 なぜ、安息日を守る責任が、特に家族の主人や他の上の人に命じられてい
るのか。
答 安息日を守る責任が、特に家族の主人や他の人の上に命じられているのは、彼ら
が安息日を自ら守ることだけでなく、自分の監督下にあるすべての者によって守られ
るよう注意する義務があるから、またしばしば、自分自身の職によって彼らを妨げが
ちだからである。

 今夜は、ウ大教理問答の問117-118と答を学びましょう。「主の日」はキリスト教の「安息日」である。「聖別」とは、「神のために特別に分け離す」ことである。聖別されるのは、「安息日、すなわち主の日」の一日である。

  ウ大教理の問117と答は、「安息日すなわち主の日」を、神のために特別に分け離すこと、そのためにその日一日をどのように終日守るべきかを教えているのである。
 
  ウ大教理は、安息日の一日を、「終日きよく休む」ようにと教えている。「いつでも有罪であるようなわざ」とは、「どのような時でも罪であることを行わない」(宮崎訳)ということである。安息日に罪を犯さないことはもちろんであるが、「他の日なら合法的であるような世俗の職や娯楽」も、安息日には慎むべきである。「合法的」とは、神が命じられた労働であるから。神は、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と、人に文化命令を与えられた(創世記1:28)。労働、すなわち、世俗の職は神の召しであり、合法的である。しかし、安息日には、神のためにその日一日を終日休むのである。
 
  ただしウ大教理は、例外を認める。「止むをえないわざ」である。すなわち、礼拝活動、医療活動、治安、すなわち、警察や消防、防衛等である。さらに「慈善活動」である。安息日に神殿で礼拝がなされ、祭司・レビ人が働き、主イエスは病める者を癒されました。それを非難したファリサイ派の人々は、安息日に池に落ちた彼らの家畜を助けました。ウ大教理は安息日を、その日一日を終日休むことを聖書的原則としていますが、聖書は命に関わる働きを例外として、安息日に行うことを認めている。
 
  ウ大教理は、わたしたちに安息日をその日一日、終日休めるように、平日から心備えし、仕事の段取りをよく管理し、勤勉に仕事をし、土曜日には常に仕事を処理できるように奨めています。そして、安息日はもっぱら神のために一日を使えるようにすることを教えている。終日休むとは、その日一日を公的・私的礼拝に費やして、「わたしたちの喜び」とすることです。公的礼拝は教会の礼拝と活動であり、私的礼拝は家庭礼拝、個人のデェボーション等です。家族との団欒で、疲れを癒すことは許されるでしょう。
 
  ウ大教理は、問118と答で安息日を守る責任が、家族の家長と職場の上司に課せられていることを教えている。「家族の主人」は家長である。それから「他の上の人」は、部下を持つ上司のことである。家長と人の上に立つ者は自ら安息日を守るのみでなく、自分の監督下にある家族や部下たちが安息日を守れるように注意する義務がある。この「注意する義務」とは、見届ける義務のことである。
 
  ウ大教理が「自分本位の働かせ方によって彼らを妨げがちだから」(宮崎訳)と述べていることは、今日会社の問題である。ブラック企業が問題となっている。時間外労働を強い、休む間もなく労働を強いている。日曜日も平日もなく働かせている。しかし、ウ大教理は主が安息日を守る義務を、雇用する企業に求めておられると教える。キリスト者と非キリスト者に関わりなく、主は人を雇用する者に、彼らの雇用者たちが安息日を守ることができるようにすべきことを求めておられる。

 

 

ウェストミンスター大教理問答79      主の2016年4月13日

聖書箇所:出エジプト記第20章8-11節(旧約聖書P126)

問119 第四戒で禁じられている罪は、何であるか。
答 第四戒で禁じられている罪は、次の通りである。すなわち、求められている義務
のすべての不履行。すべての不注意・不行届き・無益にそれらを行い、飽きること。
怠慢により、またそれ自体で有罪なことを行うことにより、また世俗の職や娯楽に関
するすべての不必要なわざと言葉と思いによって、この日を汚すことすべてである。

 今夜は、第四戒、すなわち、安息日律法が禁じている罪について学びましょう。
 
  ウ大教理は、第四戒で禁じられている罪を次のように指摘する。第1は「求められ
ている義務のすべての不履行」である。宮崎訳は、「すべて求められている義務を果たさないこと」と訳している。預言者エゼキエルは、祭司がその義務を果たさないので、次のように主の言葉を語る。「祭司たちはわたしの律法を犯し、わたしの聖なるものを汚した。彼らは聖と俗とを区別せず、浄と汚れの区別を教えず、わたしの安息日に目を覆った。こうして、わたしは彼らの間で汚されている」(エゼキエル記22:26)。主は預言者エゼキエルを通して、安息日を無視することが罪であると非難されている。安息日を休み、残りの六日間を勤勉に働くことは、主が第四戒で命じられた義務である。だから、ウ大教理は、安息日を守らず、また六日間を怠惰に過ごすことを、「すべて求められている義務を果たさない」罪と教えている。

 第2は、「安息日の義務」を「すべて不注意・不行届き・無益にそれらを行うこと」である。安息日に神を礼拝することは義務である。使徒言行録は、礼拝中に居眠りをする不注意を指摘する(使徒言行録20:7-9)。預言者エゼキエルは、民が主の御言葉を聞いても服従しない不注意、口では好意を示しても心は自分の利益に向かう不行届き、そして楽器の伴奏に合わせて美しい声で、無益な歌を歌っていると指摘する。神は、礼拝で形ばかりの、口先の服従を要求されてはいない。安息日律法への心からの献身を願われている。だから、うわべだけの安息律法の遵守は偽善の罪である。

 第3は、安息日を「飽きる」ことである。預言者アモスが安息日を飽きた民の声を記している。「お前たちは言う。『新月祭はいつ終わるか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽したいものだ』」(アモス書8:5)。安息日を飽きる者の心は、利己的で、自己中心的である。神を礼拝する喜びがなく、安息日を一日神と共に過ごす満足もない。彼らの心は世俗の商売での利益のみである。

 宮崎訳は、「飽きること」を「これを煩わしがる」と訳している。「安息日を煩わしがる」ので、安息日を怠惰に過ごし、安息日を休まないで、主の御心に背く行いをし、心の中は神のことよりも、この世の仕事と娯楽にその思いが占められ、その思いが言葉となり、行いとなり、安息日を汚しているのである。

 預言者エレミヤは、民が安息日を飽き、これを煩わしがって、エルサレムの城門から荷を運び、明日の商売に備え、安息日を聖別しなかった様子を記しています(エレミヤ書17:24,27)。安息日に城門から荷物を都に運び入れるという不必要な行いをし、主が「安息日を聖とせよ」と命じられたことに従わず、汚していたのです。

 怠惰に(過ごし)安息日を汚すとは、神が人間を神の形に創造されたことと関係する。動物と植物は、その存在で神の栄光を現している。しかし、人間は、神に応答する存在である。神の御声を聴き、神に従い、神を崇めて賛美し、神の栄光を現す存在です。ですから、安息日を休み、神を礼拝しないことは、怠惰であり、神はそのために安息日を設けられ、他の日々から区別され、聖とされたので、その日を汚すことになるのです。

 「炎のランナー」という英国映画で、スコットランドの陸上選手が、日曜日に子供がサッカーボールを蹴っているのを注意する場面があります。その選手は、パリでのオリンピックで百メートル走にエントリーしていましたが、日曜日であるので、棄権しました。しかし、彼の足の速さを惜しんだ400メートル走の英国の選手が彼に400メートル走のエントリーを譲ってくれたので、彼は金メダルを取ることができました。映画では、彼が走ることと中国への宣教師になることで、神の栄光を現す姿を描いている。ウ大教がこの選手、宣教師を生み出したのである。

 

 

ウェストミンスター大教理問答80      主の2016年4月20日

聖書箇所:出エジプト記第20章8-11節(旧約聖書P126)

問120 第四戒を一層強く主張するために付加されている理由は、何であるか。
答 第四戒を一層強く主張するために付加されている理由は、次の事柄から取られて
いる。りである。すなわち、「六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをせよ」と
いう言葉において、神が七日のうちの六日をわたしたち自身の用のために許可し、ご
自身のためには一日しか取り分けなさらないこの戒めの公平さから、神がその日には
特別の所有権を主張されること、すなわち、「七日目はあなたの神、主の安息である」。
ことから、「六日のうち天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休ま
れた」神の模範から、また神がこの日を神礼拝用のきよい日として聖別されただけで
なく、わたしたちが聖別する時、これがわたしたちに対する祝福の手段となるよう定
め、「それで主は安息日を祝福して、聖とされた」ことによって、神がこの日の上置か
れたからである。

 今夜は、問120と答を学びましょう。長い問答ですが、第四戒を一層強く主張する
ためのいくつかの理由が示されている。

 問120の答が示す理由は次の4つである。第1は、「六日の間働いて何であれあなた
の仕事をし」(出エ20:9)であり、第2は、「七日目は、あなたの神、主の安息日である」
(同20:10)であり、第3は、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造
り、七日目に休まれたから」(同20:11)であり、第4は、「主は安息日を祝福して聖別さ
れたのである」(同20:11)である。

 ウ大教理は、第1と第2の理由で神は、安息日律法の公平さを示されている。すな
わち、神は1週間のうちの「六日間」をわたしたちのために用いることを許可され、
御自分のためには「第七日」の1日を取り分けられた。そのことで「この戒めの公平
さ」と教えられた。公平さとは、わたしたちが6日働き、1日休むというという事柄の
正当性を意味している。神は、人がこの世で6日働き、楽しむことを許され、後の1
日だけを特別に御自身のために聖別することを、安息日の戒めの公平さとして示され
たのである。だから、人は6日働き、1日休むのである。

 第2の理由で神は、人に「第七日」に対する御自身の特別な所有権を主張されてい
る。神にとって第七日の安息日は、御自分の特別な所有物であると主張されている。
神の所有物であるので、安息日を守らないことは、神の所有物に対する盗みの罪であ
る。

 第3の理由で、ウ大教理はわたしたちに人間が6日働き、1日休むという1週間の生
活のサイクルは、神が6日間で世界と人間を創造し、「第七日目に休まれた」ことを模
範としていることを教えている。神が6日間創造の御業をなさり、第七日目を休まれ
たのは、神がわたしたちに6日間働きし、1日休むという模範を示すためであある。

 第4の理由で、ウ大教理はわたしたちに神が安息日をわたしたちのために祝福して
くださったことを教えている。神は、安息日を、神を礼拝する日と定められただけで
はありません。安息日を人のために、わたしたちを祝福する日と定められました。

 だから、主イエスは言われたのである。「安息日は、人のために定められた。人が安
息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主である。」(マルコ2:27)。

 だから、主イエスは安息日に病める者を癒され、悪霊を追い出されました。パンの
奇跡をし、飢えた者を満たされました。人の命を救われました。

 主イエスは、安息律法を制定された父なる神の御心に従われ、安息日律法を正しく
理解し、人のために適用されました。安息日は、ただ休みの日でも、何もしない日で
もありません。神と隣人を愛するために、積極的に安息日を用いることを、ウ大教理
は、わたしたちに提言しているのです。

 

 

ウェストミンスター大教理問答81      主の2016427

 

 

 

聖書箇所:出エジプト記第20811(旧約聖書P126)

 

 

 

問121 なぜ、「覚えよ」という言葉が、第四戒の初めに置かれているのか。

 

答 「覚えよ」という言葉が、第四戒の初めに置かれているのは、次の理由による。

 

すなわち、一部には、それを覚えることの大きな利益のためであって、わたしたちは

 

そのおかげで、これを守る準備において助けられるし、またこれを守るに当たって、

 

残りの全部の戒めも一層良く守り、宗教の短い要約を含む創造とあがないという二大

 

利益についての感謝に満ちた記憶を継続させることを助けられる。また一部には、わ

 

たしたちがそれを忘れやすいからであって、それは、このための自然の光が比較的少

 

ないのに、他の時なら合法的な事柄におけるわたしたちの自然的な自由を抑圧するか

 

ら、またこれが七日に一度しか訪れず、多くの世俗の仕事が間にはいって、あまりに

 

しばしばわたしたちの心を奪い、準備のためであれ聖別のためであれ、これについて

 

考えることを妨げるから、またサタンがその手先を用いて、この日の栄光とその記憶

 

さえも拭い去り、無宗教と不敬けんにおとしいれようと、大いに苦労しているからで

 

ある。

 

 

 

 今夜は、問121と答を学びましょう。

 

 

 

 「覚えよ」は、口語訳聖書で、新共同訳聖書は「心に留め」です。フランシスコ会

 

訳聖書は、口語訳聖書と同じで「覚えて」です。

 

 

 

 ウ大教理は、第四戒の初めに「心に留めよ(覚えよ)」が置かれている理由を、「それ

 

を心に留める(覚える)ことに大きな益がある」からであると述べて、以下の二つの理由

 

を挙げている。すなわち、第1の理由は助けられるからであり。第2の理由はわたし

 

たちが忘れやすいからである。

 

 

 

 第1の理由の「助けられるから」では、ウ大教理は3つのことを挙げている。(1)

 

息日の準備の日。「安息日を心に留め(覚え)」で安息日をよく守るために、良き準備を

 

する助けとなる(エジプト16:23.ルカ23:5456)。神の民は、土曜日の安息日のため

 

に金曜日を準備の日とした。

 

 

 

 (2)安息日をよく守ることで、十戒の他の戒めも一層よく守る。

 

ウ大教理は、詩編92編の1節表題と14節と15節を比較して、詩人が安息日を忠実

 

に守ることで、生涯主に忠実に生きたことを証ししている。安息日を心に留めることは、生涯主に忠実に生きることであり、十戒にいきることである。

 

 

 

 (3)わたしたちの信仰の短い要約である創造と贖いの2大利益を記憶し続けることを

 

助ける。出エジプト記の十戒と申命記の十戒の安息日の戒めを心に留めることで、神

 

の創造と贖いという2大利益を感謝の内に記憶し続けることができる。

 

 

 

 第2の理由は、わたしたちが忘れやすいからである。「自然の光」とは、人間本性で

 

ある。神は、人間を創造された時に、その本性に安息日を啓示されていた。しかし、

 

モーセ以前に人間が安息日を守っていたという聖書の記述は少ない。しかも、安息日

 

は、その日以外であれば合法的な事柄、それをわたしたちが生まれながらの自由で行

 

うことを制限し、抑圧する。罪と堕落により人間本性が安息日を忘れている。

 

 

 

安息日は一週間の一日だけであり、わたしたちはほとんど世俗の仕事と娯楽に追われ

 

ている。だから、わたしたちの心は常にこの世の仕事に忙殺され、安息日を準備し、聖別することを忘れるのである。安息日を考えることすら忘れるのである。

 

 

 

サタンは、キリストの十字架に敗北し、永遠の滅びに定められたとはいえ、キリスト

 

の再臨と審判の日まで、この世で働きを続けている。サタンは、手先を使い、人々が安息日の栄光を忘れ、その日を思い出さず、無宗教と不敬虔に陥れようと、今も大いに労苦しているのである。

 

 

 

 ウ大教理にとってわたしたちが安息日を守ることは、信仰の戦いである。聖霊の守りを祈ることなしに、達成できない。罪と堕落とサタンの誘惑の中で、わたしたちの本性は常にこの世の仕事と娯楽に心を奪われ、安息日を考えることを忘れるからである。逆に考えると、毎週のキリスト教安息日を守れることは、主の恵みであり、聖霊の守りである。

 

 

ウェストミンスター大教理問答82      主の2016年5月11日

聖書箇所:マタイによる福音書第7章12節(新約聖書P11),同第22章39節(新約聖書P44)

問122 人間に対するわたしたちの義務を含む六つの戒めの要約は、何であるか。
答 人間に対するわたしたちの義務を含む六つの戒めの要約は、自分自身のようにわ
たしたちの隣り人を愛すること、また他人からしてほしいことを、彼らに行なうことである。

 今夜から十戒の後半(第五-十戒)を学びましょう。前半(第一-四戒)は、神に対する
わたしたちの義務を教えている。問102と答で、わたしたちは「神に対するわたし
たちの義務を含む四つの戒めの要約」について学んだ。今回は、第五-十戒の要約を
学ぶ。

  主なる神は、モーセを通して神の民イスラエルに十戒の要約を教えられた。申命記第5章4節と5節で「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これが十戒の前半の要約である。続いてレビ記19章18節で「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」と、主は言われた。十戒の後半の要約である。
 
  受肉の主イエス・キリストは、父なる神の真の啓示者である。マタイによる福音書5-7章に主イエスがモーセのように、神の民の仲保者として、神の御国を教えられた主イエスの山上の説教が記録されている。7章で主イエスは、隣人愛を教え、「人を裁くな」と弟子たちや民衆に命じられ、そして、彼らに「求めよ。そうすれば与えられる。」と教えられ、親が子を愛して、子に良いものを与えるように、天の父も求めるわたしたちにそうしてくださると約束されて、「だから、人にしてもらいたいと思うことはなんでも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」と言われた。
 
  「律法と預言者」とは、旧約聖書のことである。旧約聖書はモーセの律法書と預言書から成っている。だから、主イエスは、旧約聖書が教える隣人愛を要約して言われたのである。だから、マタイによる福音書の7章12節は、ルカによる福音書の6章31節と共に「黄金律」と呼ばれている。
 
  主イエスが受難のためにエルサレムに上られ、エルサレム神殿で民衆たちに教えられ、律法学者たちやサドカイ派の人々と論争された。一人の律法学者が主イエスを試み、マタイによる福音書の22章で「最も重要な掟」について質問した。
 
  主イエスは、律法学者に迷うことなく、旧約聖書の申命記5章5節の御言葉とレビ記19章18節の御言葉で、彼の質問に答えられた。そこでも、主イエスは、「律法の全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と言われた。旧約聖書は神を愛することと、隣人を愛することから成っている。
 
  ウ大教理は、わたしたちに聖書の教える十戒の鳥瞰図(俯瞰図)を描いて見せている。十戒には、十の戒めがただ並んでいるのではない。神を愛することと隣人を愛することが立体的に、遠近感をもって命じられているのである。ウ大教理は、わたしたちにキリスト者人生を生きる規範として十戒を、立体的に、遠近感をもって教えようとしている。ただ並べられた個々の戒めを教えているのではない。聖書の教えの根幹である「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を教えるために、わたしたちに常に十の戒めの要点を学ばせ、個々の戒めを教えているのである。
 
  「木を見て森を見ず」という諺がある。主イエスに質問した律法学者は、律法の細かい点に気を取られて、「律法と預言者」の全体を見ることができなかった。同じようにわたしたちも、十戒を学ぶとき、個々の戒めの細かい点に気を取られて、聖書全体を把握し損ねる危険がある。ウ大教理は、この問答で、わたしたちが陥る危険を避け、常に聖書の全体を把握するように導いてくれているのである。
 
  東日本大震災と熊本地震が、わたしたちに教会のディアコニアの重要性に目覚めさせてくれている。その活動の根本は、この六つの戒めの要約である。主イエスが教えられた「自分自身のようにわたしたちの隣人を愛すること」、「他人からしてほしいことを、彼らに行なうこと」である。この根本が揺るがない限り、「隣人となって仕えるディアコニア」は、教会とキリスト者の奉仕の継続となると思う。

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答84      主の2016525

 

 

 

聖書箇所:出エジプト記第2012(旧約P126),テサロニケの信徒への手紙278(新約P375),ペテロの手紙一217(新約P430431)

 

 

 

問125 なぜ、上の人が父や母と言われているのですか。

 

答 上の人が父や母と言われているのは、彼らが下の人に対するすべての義務において、本来の両親のように、彼らのいろいろな関係に応じて彼らに愛と優しさを示すことを教えるためであり、また下の人が上の人に対する義務を行なう場合に、彼らの両親のように、一層自発的に喜んでするよう下の人を促すためである。

 

問126 第五戒の一般的な適用範囲は、何であるか。

 

答 第五戒の一般的な適用範囲は、下の人・上の人・また対等の人として、いろいろな関係においてわたしたちが互いに負っている義務の履行である。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問125126と答を学びましょう。ウ大教理にとって第5戒は、家庭の親子関係の規範であるだけなく、社会の目上の人・目下の人、対等の人のいろんな関係の規範でもある。

 

 

 

 ウ大教理にとって神の国(キリストの王的支配)は、この世においては家庭・学校・教会・職場・国家という領域があり、キリストは各々の領域の主であり、それぞれの領域において権威を委託されている。

 

 

 

 家庭においては、主は父母(両親)に権威を委ね、子は父母に従うことで、主に従うように命じられている。そして、主は父母に、主が委ねた権威をもって父母が子を愛し、優しく子をしつけ、育てるように命じられている(エフェソ6:14)

 

 

 

 ウ大教理は、第5戒を、問126と答にも関係するが、家庭だけでなく、学校・教会・職場・国家に、主が委ねられた「父と母」の権威を、一般的適用するのである。

 

 

 

 ウ大教理は、わたしたちに問125と答において第5戒を家庭以外に一般的適用する理由を教えるために、「なぜ、上の人が父や母と言われているのか」と質問し、答えているのである。

 

 

 

 ウ大教理は、17世紀のイギリスで生まれた。当時イギリスは王制国家でした。当然目上の人の頂点は国王である。そして、市長や町長、村長、学校の校長や教師、職場の雇い主、教会の牧師・長老を、ウ大教理が「父や母」と言うのは、目上の人に聖書の権威、特に第5戒に従わせ、目下の人とのいろんな関係において隣人愛と優しさを示すことが彼らの義務であることを教えるためである。

 

 

 

 同時に平民が国王や首長に対して、生徒が校長や教師に対して、労働者が雇い主に対して、彼らが第5戒に従い、子供が父と母に喜んで従うように、彼らも一層自発的に目上の人に従うことを教えるためである。

 

 

 

 第5戒は、人間関係、社会を秩序正しく築き上げる規範である。聖書が教える愛と優しさを目上の人が目下の人に示し、目下の人が父母のように目上の人を慕い、喜んで従うことで、ウ大教理はこの世に生きるキリスト者も世の人も、この世に生きる喜びを得ることができると考えているのであろう。

 

 

 

 今日、日本の社会は、第5戒が不在である。日本の家庭・学校・職場・教会・国家で目上の人が「父と母」と言われることはない。戦前天皇と皇后は、日本人の父・母であり、教育勅語があり、目上の人に目下の人は絶対に服従することが強制された。戦後はその反動で、第5戒の一般適用が一番軽んじられた。

 

 

 

 悪いことに20世紀終わりのバブルとその崩壊で、日本の国の秩序は崩壊しようとしている。東京知事が公私混同し、私欲で公金を使い、他方生活保護を受ける権利があるものがホームレスをし、捨てられている。会社はリストラが日常になり、会社の人間関係は愛と優しさがなく、喜んで上司に従う部下もない。学校には、愛と優しさを示す校長も教師も少ない。いじめの温床となり、校長も教師たちは責任逃れし、生徒も教師に従わず学級崩壊が、学校の日常になっている。今の日本のすべての悪の根源は、第5戒違反にある。

 

 

 

 だから、主は教会に、この世の光、塩の働きを求められる。教会は福音宣教により、キリスト者の証しを通して第5戒の重要性を知らせるべきである。