ウェストミンスター大教理問答71      主の2016年2月10日
聖書箇所:(旧約聖書P291)
問105 第一戒で禁じられている罪は、何であるか。
答 第一戒で禁じられている罪は、次の通りである。すなわち、神を否定したり、神
を持たない無神論。一つ以上の多くの神々を、またはまことの神と同時に、あるいは
その代わりに他の神を持ち、礼拝する偶像礼拝。神を神として、また自分の神として
持たず、証ししないこと。この戒めで求められている神に対する何らかの義務を省い
たり、無視すること。神についての無知、忘却、誤解、謬見、ふさわしくない悪い考
え。神の神秘に対する無謀で物好きなせんさく、すべての卑俗、神への憎しみ、自己
愛、自己追求、その他すべての無軌道不節制に知情意を外のものに向けて、全体的ま
たは部分的に神からそらすこと。むなしい軽率、不信仰、異端、誤信、不信頼、絶望、
審判に対し性こりせず、不感症であること、かたくなな心、高慢、自惚れ、肉的安心、
神を試みること。不正手段の利用、正当な手段そのものに信頼し切ること。肉の楽し
みと喜び、汚れた盲目な無分別な熱心。神のことについてのなまぬるさと冷淡。神か
らの離反と背教。聖人・天使・その他の被造物に祈ったり、宗教的礼拝をささげるこ
と。すべての悪魔と同盟したり、相談したり、その指図に耳をかすこと。人間たちを
自分の信仰や良心の主とすること。神とその戒めを軽蔑すること。神のみたまを拒み、
嘆かせること。神の配剤に不満を持ち、忍耐せず、神がわたしたちの上に下される災
いのゆえに愚かにも神を非難すること。わたしたちがそうであり、それを持っており、
それをすることができるどんな善いことの賞賛であれ、それを運命や偶像や自分自身
や、その他どんな被造物にでも帰することである。
問106 第一戒の「わたしの前に」という言葉で、わたしたちは特に何を教えられるか。
答 第一戒の「わたしの前に、または、わたしの顔の前に」という言葉は、わたした
ちに。次のことを教える。すなわち、すべてのことを見ておられる神は、他のどのよ
うな神をでも持つことの罪に特別に目を注ぎ、それをはなはだしく嫌っておられるこ
と、だからこれが、最も無礼に神のみ怒りを挑発するものとして、この罪を思いとど
まらせ、憎ませ、また、わたしたちが神への奉仕においてすることは何でも、神のみ
前であるかのようにするよう説得するための論証となることである。

 ウ大教理問答は、問105-106と答は、第一戒の禁じている罪と「わたしの前に、または、わたしの顔のまえに」という言葉が第1戒に付されている理由について解説している。

 第一戒の禁じている罪とは、(1)無神論、(2)偶像礼拝、(3)神を神として、自分の神として証し(告白)しないこと、(4)第一戒の要求する義務を省き無視すること、(5)神についての無知・忘却・誤解(間違った理解)・謬見(誤った見解)・ふさわしくない悪い考え、(6)神の神秘に対する無謀で物好きな詮索、すべての卑俗(冒涜)、神への憎しみ、自己愛、自己追求、その他、わたしたちの知性と意志と感情を勝手気ままに他のものに向けて、神からそらすこと。(7)あらゆる不信仰、すなわち、むなしい軽率(軽信)、不信仰、異端、誤信(誤った信仰)、不信頼、絶望、度重なる神の審判に不感症なこと、心の硬化、高慢、自惚れ、肉的安心、神を試みること、(8)神礼拝に不法な手段を用いること、あるいは、神ではなく、正当な手段(合法的な手段)そのものに信頼し切ること。(9)肉の快楽と汚れた、見境のない無分別な熱心。(10)神のことについての生ぬるさと冷淡。(11)神への離反と背教。(12)天使・聖人礼拝、遺物礼拝(ローマカトリック教会)、(13)悪魔礼拝、すなわち、悪魔と同盟し、相談し、耳を貸すこと。(14)人間を自分の信仰や良心の主とすること。(15)神とその戒めを軽視すること。(16)聖霊への罪、聖霊を悲しませること、神の配剤に不満を持ち、耐え切れず、神がわたしたちに下された災いのゆえに、愚かにも神を非難すること。(17)わたしたちの境遇・財産・能力に関して、そのどんな善いこと、賞賛に値することを、神に帰せず、運命や偶像や自分自身や他のどのような被造物に帰すること。

 無神論は神を否定する罪。偶像礼拝は像を手段に神と神々を礼拝する罪。神を証し(告白)しない罪とは神を礼拝しない罪。神についての無知は、神を正しく礼拝し、仕え、愛することができない罪。誤解や間違った見解の罪は、エバが蛇に誘惑された時に犯した罪。神の神秘に対する無謀で物好きな詮索とは理解が倒錯している罪。「すべての卑俗」とは神の名をいたずらに口にするという罪。神への冒涜・不敬の罪。「神からそらす」罪は世俗主義、神よりもこの世を愛する罪。不信仰の罪は、わたしたちの救いを不可能にする罪。誤信は宗教的な妄想、絶望は全面的不信頼、不信頼とは神の約束・愛・善を信じない罪。神の審判への不感症・心の硬化は、悔い改めという救いの好機を見失っている罪。出エジプト記のパロの例。肉的安心は愚かな金持ちの例(ルカ12章)。不正な手段の利用とは、「善を来たらせるために悪をする」という罪。「見境のない無分別な熱心さ」とは、熱狂という罪、マインドコントロールという罪。集会を強制する罪。「神のことについての生ぬるさと冷淡」とは、神への無関心という罪。

 問106と答の「神の御前で」とは、神が見ておられる所でという意味である。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答72      主の2016年2月17日
聖書箇所:出エジプト記第20章4-6節(旧約聖書P126)
問107 第二戒は何であるか。
答 第二戒は、「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にある
もの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるもの、どんな形をも造っては
ならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主
であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、
三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代
に至るであろう」である。
問108 第二戒で求められている義務は、何であるか。
答 第二戒で求められている義務は、次の通りである。すなわち、神がみ言葉のうち
に定められたすべての宗教的礼拝と規定を、純粋完全に受け入れ、守り、保つこと、
特にキリストのみ名による祈りと感謝。み言葉の朗読、説教、傾聴。礼典の執行と受
領。教会政治と戒規。教職とその維持。宗教的断食。神のみ名による誓約。神への誓
願。すべての偽りの礼拝を非難、憎悪、反対すること。各自の地位と職責に応じて、
偽りの礼拝とすべての偶像礼拝の記念物を除くことである。

 ウ大教理問答は、問107-110と答で、第二戒について解説している。ローマカトリック教会とルター派の教会は、第二戒を第一戒に含めている。そして、第十戒を、第九戒と第十戒に分けている。

  問107と答は、出エジプト記第20章4-6節、申命記第5章8-10節の御言葉である。第一戒は、主なる神が神の民イスラエルに民を奴隷の地エジプトから解放し、自由にしたご自分以外に、別の神々を持つようなことがあってはならないと命じられた。第二戒では、主なる神が神の民イスラエルに偶像を禁じておられる。神の民イスラエルが奴隷の地エジプトにいたとき、そこではファラオが神として君臨し、彼の偶像が多く作られ、ファラオは神として拝まれていた。またエジプトでは天と地と水の中の被造物が像として刻まれ、神々として拝まれていた。第二戒の御言葉は、神が造られたものを、神と同一視する偶像礼拝は許されないと禁じている。

 ウ大教理は、問108と答で、第二戒が神の民イスラエルとキリスト者たちに求める義務を教えている。それは、正しい神礼拝である。神を正しく礼拝することが神の民イスラエルとキリスト者の義務である。

 だから、神を正しく礼拝するために、ウ大教理は、「神が聖書のみ言葉で定められた(命じられた)宗教的礼拝と規定のすべてを受け入れ、守り、純粋かつ完全に保つこと」を、神はわたしたちに義務として求められていると教える。

 改革派教会は、礼拝においては聖書で神が命じられたことに従ってのみ行うべきであると教えている。ウ大教理もその原則に従う。すなわち、(1)「キリストのみ名による祈りと感謝」、(2)「み言葉の朗読、説教、傾聴」、(3)「礼典(洗礼と聖餐)の執行と受領」、(4)「教会政治と戒規」、(5)「牧師職とその維持」、(6)「宗教的断食」、(7)「神のみ名による誓願」と「神への請願」、(8)「偽りの礼拝」に反対し、偶像を排除すること。

 神は主権者である。礼拝はその神の意志に完全に従って行わるべきである。だから、神が命じられたとおりになされるべきである。神が命じられていないことは、なすべきではない。

 後に学ぶが、ウ大教理は聖霊がキリストの恵みをわたしたちに伝える外的手段として、祈りと御言葉と礼典の3つを挙げている。この3つの恵みの外的手段は、礼拝を通してなされる。これらは、通常主の日の礼拝を通してなされる。

 ウ大教理は、神礼拝の規定を二つに分類している。(1)通常の規定。すなわち、祈祷と宣教と礼典である。この通常の規定が執行されるために、牧師職が常に維持されなければならないのである。通常、主の日の礼拝では、牧師が司式・祈祷・説教・礼典の執行をする。(2)特殊な規定。宗教的断食、誓願、神への請願、これらは、通常の礼拝の中では行われない。

 ヨハネス・ヴォスは、神礼拝の規定がなされる4つの領域を挙げる。個人・家庭・教会・キリスト教国家である。ただし、この4つの礼拝は同等ではない。たとえば、礼典という礼拝の規定が執行されるのは教会だけである。家庭で、病院で洗礼・聖餐が執行されても、教会の小会が承認し、それに基づき牧師が執行する。

 礼拝が正しく行われるために、ウ大教理は牧師職の維持と教会政治と戒規を挙げている。正しい礼拝は正しい宣教によって成り立つ。戒規によって偽りの礼拝に反対し、偶像と異端を礼拝から排除することは、わたしたちキリスト者の義務である。

 

 ウェストミンスター大教理問答73      主の2016年2月24日
聖書箇所:出エジプト記第20章4-6節(旧約聖書P126)
問109 第二戒で禁じられている罪は、何であるか。
答 第二戒で禁じられている罪は、次の通りである。すなわち、神ご自身によって定
められたのではないどんな宗教的礼拝でも、すべて、案出したり、相談したり、命令
したり、使用したり、とにかく承認すること。偽りの宗教を大目に見ること。三位一
体の全部についても。どの人格についても、内面的に心の中でも、外面的にどんな被
造物のどんな種類の像や似姿ででも、神の描写をすること。すべてそれを礼拝したり、
それにおいて、あるいはそれによって神を礼拝すること。どんなものでも偽りの神を
表わすものを作り、すべてそれを礼拝したり、それに属する奉仕をすること。自分自
身で発明して採用したにしろ、他人からの伝承によって受け継いだにしろ、たとえ大
昔からのものだという名目、習慣、敬けん、善意、その他どんな口実によるにせよ、
神礼拝を腐敗させ、それに対して付加または削除する、すべての迷信的考案。僧職売
買、聖物俗用、すべて、神が定められた礼拝と規定への無視、軽蔑、妨害、反対であ
る。
問110 第二戒を一層強く主張するために付加されている理由は、何であるか。
答 第二戒を一層強く主張するために「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神で
あるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを
愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう」という言
葉に含まれて付加されている理由は、次の通りである。すなわち、わたしたちの上に
ある神の主権と、わたしたちのうちにある神の諸集権の外、ご自身への礼拝に対する
燃えるような熱心、すべての偽りの礼拝を霊的姦淫として執念深く憤られること、この戒めを破る者を神を憎む者と認めて、数代までも罰すると威嚇すること。この戒めに従う者を神を愛してその戒めを守る者として認めて、末長くあわれみを約束するということである。

 ウ大教理問答は、問107-110と答で、第二戒について解説している。ローマカトリック教会とルター派の教会は、第二戒を第一戒に含めている。そして、第十戒を、第九戒と第十戒に分けている。

  問109-110と答は、第二戒が禁じている罪と第二戒を一層強く主張するために付加されている理由を解説している。
 
  ウ大教理は、「第二戒が禁じている罪」を述べることで、神礼拝の方法に関する聖書の原則、神の主権性、原則の有効性、神を描写することの禁止、偶像礼拝の罪、教会的贈収賄行為と聖物俗用の禁止等を教えている。
 
  (1)ヨハネス・ヴォスは、「唯一正当で受け入れることのできる神礼拝の方法は、神がご自身で指定された方法であり、人間はそれを変えることができない」と述べる。
 
  (2)ヴォスは、その原則の根底にある神の主権性を指摘する。神の主権性放棄する時、神礼拝の方法は人の勝手な思いと考えでなされ、腐敗する。
 
  (3)聖書の原則を有効にするのは、聖書の権威と神の絶対的主権への確信である。その確信ゆえに、聖書で神が定められた神礼拝の方法でわたしたちは礼拝をし、勝手な思いと行為を排除する。
 
  (4)聖書の権威を無視し、神礼拝が腐敗する時、偽りの宗教が大目に見られ、三位一体の神の位格が被造物のように描かれ、神を偶像礼拝する。また、人の心は「偶像礼拝の工場」であり、人は偽りの神を作り、それを拝み、奉仕すらするのである。
 
  (5)自分の願いと好みで神を礼拝することは許されない。自分の発明の採用、他の人から古く伝承されたもの、すなわち、習慣、敬虔、善意等でも、神が定められていないものを礼拝に持ち込めば、神礼拝は腐敗するのである。例:十字架像、聖画、イコン、マリア像、天使像、遺物等。

 (6)一切の迷信的考案、聖職売買、聖物俗用の禁止。迷信的考案とは、占い、魔除け等である。聖物俗用とは、洗礼と聖餐で水とパンとぶどう酒以外の物を用い、洗礼と聖餐等、あるいは宗教儀式の真似事をすることである。

 第二戒が禁じている罪は、神が定めておられる礼拝と規定に対して従わず、妨害し、反対することである。

 問110と答は、第二戒を一層強く主張するために付け加えられた理由を説明する。
神は、主権者、わたしたちの所有者であり、御自身の礼拝に対する熱い熱心を持たれている。正しい礼拝者を愛し、偽りの礼拝と偶像礼拝をする者を憎み、呪われる。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答74      主の2016年3月1日

聖書箇所:出エジプト記第20章7節(旧約聖書P126)
問111 第三戒は何であるか。
答 第三戒は「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は
み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう」である。
問112 第三戒で、何が求められているか。
答 第三戒が求めていることは、次の通りである。すなわち、神のみ名・称号・属性・
規定・み言葉・礼典・祈り・宣誓・誓願・くじ・みわざ・その他、神がそれによって
ご自分を知らせようとされるどんなことがあるとしても、それらが思想とめい想と言
葉と文書において、きよい告白と責任のある行動とにより、神の栄光とわたしたち自
身や他の人々の福祉のために、きよく敬けんに用いられることである。

 ウ大教理問答は、問111-114と答で、第三戒について解説している。第三戒は、本来、「正しくない目的のために、神の名を使って祈願してはならない」ということを教えている。第三戒の「みだりに」は、「むなしい」という意味で、「欺くもの」、「たくらみ」という言葉と関連して使われる。ダビデは、詩篇24編で、聖所で神の御前に立てる者を、次のように述べる。「それは、潔白な手と清い心を持つ人。むなしいものに魂を奪われることなく 欺くものによって誓うことをしない人。」と。

 ウ大教理は、わたしたちに「第三戒で、何が求められているか」と問う。ウ大教理は、第一戒では礼拝の対象を、第二戒では礼拝の方法を、そして、第三戒では礼拝する者の態度を教えている。

 聖書の神は生ける神、すなわち、行為し、語り、計画し、実行する、神は御自身をみ名によって啓示する。だから、「み名」は神の啓示である。神は、御自身を「全能者」「恵みの契約の主」という称号で啓示する。ウ大教理は、神の属性を、問7と答で「神はどのような方であるか」を、次のように教える。要約すれば、神は霊で、無限・永遠・不変で、そのお方の中に知恵と力と聖と義と善と真と美という性質がある。

 だから、ウ大教理はわたしたちに神を礼拝する者は礼拝において神のみ名を聖とし(マタイ6:9)、神を畏れ敬う(申命記28:58、他)ことを教える。

  そして、神は御自身を、「くじ(摂理)」と「みわざ(創造と救済)」の御業をとおして啓示される。だから、ウ大教理は、わたしたちに神の御業を見て、「あなたも心して、神をほめたたえよ」(ヨブ36:24)と教える。
 
  「み言葉」・「礼典」・「祈り」は、「キリストが、その仲保の恵みを彼の教会に伝達される外的な普通の手段」(問154と答)と、ウ大教理は規定し、ここでわたしたちがそれを清く正しく用いて神を崇め、賛美し敬うことを、第三戒が求めていると教える。
 
  教会がキリストの恵みに奉仕する力は、この恵みの外的手段を執行することである。だから、それらは、「規定」、すなわち、教会の礼拝そのものを通してなされる。それゆえわたしたちがむなしく、欺きをもって礼拝することは許されない(マラキ1:14、コヘレト5:1)。

 ウ大教理は、わたしたちに「神が御自身を知らせるのに用いられるどのようなことであっても、思い・瞑想・語る言葉・書く言葉において」(宮崎訳)、「きよい告白」、すなわち、「心においてキリストを主と崇め」(Ⅰペトロ3:15)、「責任のある行動」、すなわち、「キリストの福音にふさわしい生活を送る」(フィリピ1:27)ことにより、神のみ名と恵みの外的手段等を、神の栄光並びにわたしたち自身と他の人々の益のためにきよく敬虔に用いなければならないと教えている。

 わたしたちは、ウ大教理が第三戒について解説していることから次のことを学ぶことができる。第1にわたしたちの神礼拝に対する態度である。主イエスは弟子たちに主の祈りを教え、言われた、「願わくは、み名を崇めさせ給え」と。わたしたちは、主御自身が自らを啓示された「主のみ名」に対してきよく敬虔な態度で崇め、賛美することをお求めであることを知らされている。

  第2に主の御業(創造と救済)を見て、わたしたちは心から主を崇め、偽りのない態度で接するべきである。第3に心から神を喜び賛美し、祝うことは、礼拝におけるきよく敬虔な態度である。

 第4にキリスト者はこの世の生活で、常にキリストを主と崇め、キリストの福音にふさわしく生活すること、すなわち、罪赦された者の喜びを隣人に証しすべきである。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答75      主の2016年3月9日

聖書箇所:出エジプト記第20章7節(旧約聖書P126)
問113 第三戒で禁じられている罪は、何であるか。
答 第三戒で禁じられている罪は、次の通りである。すなわち、求められているよう
に神のみ名を用いないこと、神の称号・属性・規定・みわざの無知な・空しい・不敬
けんな・汚らわしい・迷信的な・悪意ある言及、その他の用い方によってみ名を乱用
することであって、それは、冒とく、偽誓、すべての罪深いのろい・宣誓・誓願・く
じ、正しい場合の宣誓や誓願の破棄、不正な事柄についてのそれらの成就、神の聖定
と摂理へのつぶやきや抗弁・猟奇的なせんさく・誤った適用、み言葉またはその一部
でも卑しい冗談・猟奇的で無益な疑問・空しいおしゃべり・偽りの教理の支持のため
に誤り解釈し・誤り適用し・またはどのような方法ででも曲げること、み名と被造物
と神のみ名に含まれている何ものをでも、呪文・罪深い欲望と習慣のために誤用する
こと、神の真理・恵み・手段に対する悪意・あざけり・ののしり・またはどのような
方法ででも反対すること、偽善的に、あるいは悪い目的に宗教を告白すること、不快
で・愚かな・稔のない・つまずきとなる歩みなり、背教によって、み名を恥じたり、
はずかしめることによる。
問114 第三戒には、どんな理由が付加されているか。
答 「あなたの神、主」また「主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置
かないであろう」という言葉で、第三戒に付加されている理由は、彼が主、またわた
したちの神であり、従ってそのみ名が、わたしたちによって汚されたり、どのような
方法ででも誤用されてはならないということ、特に彼はこの戒めの違反者を放免した
り見逃すどころか、たとえ多くの違反者が人々の非難と刑罰を逃れようとも、彼の正
しいさばきを逃れることは許されないということである。


 ウ大教理問答は、問113-114と答で、第三戒の禁じている罪と第三戒に付加された理由について解説している。

 ウ大教理問答は、問113と答で第三戒が禁じている罪が何であるかについて問答する。第三戒は、何か悪いこと・間違ったことのために神のみ名を用いること・乱用することを、罪として禁じている。

 神が求められる仕方で神のみ名を用いようとしないことと神のみ名を濫用することは、第三戒が禁じている罪である。ウ大教理は、第1に礼拝者の態度において禁じられている罪を教える。すなわち、礼拝者が神の求められるように神のみ名を用いないこと、またはみ名を濫用することである。

 「神の称号・属性・規定・みわざ」とは、神のみ名と神の自己啓示である。礼拝者がそれらを無知で、空しい用い方をし、それらを不敬虔で、み名を汚すように用い、それらを迷信的に、悪意のある仕方で礼拝の中で用いることを禁じる。礼拝者が神に栄光を帰さないことは罪である(マラキ2:2,列王記下18:30,35等)。神は自己啓示し、礼拝者に御自身を知らせ、み名を崇めることを求められる。礼拝者が無知と偽りで、み名を汚す迷信的な礼拝をすることを嫌われる。主イエスは、言われた。「神は霊である。神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と(ヨハネ4:24)。

 ウ大教理は、第2に「その他の用い方によって」と、礼拝以外にもみ名を濫用することを、第三戒は罪であると禁じていると教える。冒涜は、神に対する悪口。偽誓は偽りの誓いで神を侮辱すること。罪深い呪いは、神が祝福する者を呪うこと(民数記22-24章)。罪深い宣誓・誓願は、エフタの誓願(士師11:30-31)、パウロの殺害を企てたユダヤ人の誓願(使徒23:12-14)である。罪深いくじとは、ハマンが神の民を迫害するために引いたくじ(エステル記)。正しくなされた宣誓と誓願を破棄することは、み名を汚す罪である。

 「不正な事柄についての成就」とは、「合法的でない事柄について宣誓や誓願を果たすこと」(宮崎訳)である。神のみ名を汚すことになり罪である。神の聖定・摂理に対するつぶやきと抗弁は、神の主権性に対する反逆である。「猟奇的せんさく」以下、「どんな方法ででも曲げること」までは、一言で神への畏敬が欠如していること。欠如ゆえに神の神秘を好奇心で覗き込み、間違った解釈、推論をし、神の御言葉を間違って適用し、愚かな議論を好み、異端の教理を支持し、神の真実を曲げている。

 第3にどのような仕方であれ、神の真理を曲げることを禁じている。被造物や神のみ名を呪文のために用いること。罪深い欲望とその実現のために用いること。愚かな金持ちは、自分の欲望とその実現を願い、満たされた夜に、神は彼の命は今夜までと言われた。偽りの信仰告白、偽りの信仰生活、神に栄光を帰さない生き方は罪である。キリストの福音を恥じ、背教することは、み名を辱める罪である。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答76      主の2016年3月16日

聖書箇所:出エジプト記第20章7節(旧約聖書P126)
問114 第三戒には、どんな理由が付加されているか。
答 「あなたの神、主」また「主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置
かないであろう」という言葉で、第三戒に付加されている理由は、彼が主、またわた
したちの神であり、従ってそのみ名が、わたしたちによって汚されたり、どのような
方法ででも誤用されてはならないということ、特に彼はこの戒めの違反者を放免した
り見逃すどころか、たとえ多くの違反者が人々の非難と刑罰を逃れようとも、彼の正
しいさばきを逃れることは許されないということである。
問115 第四戒は何であるか。
答 第四戒は「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべ
てのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざもしてはな
らない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門の
うちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべ
てのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖と
された」である。

 先週、ウ大教理問答の問114と答を学べませんでした。ウ大教理が第三戒に付加された理由について解説しているところです。今夜はそこから学びましょう。

 付加された理由は、「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」(出エジプト20:7)。ウ大教理は、第三戒に付加されている理由を、第1に主がわたしたちの神であり、その御名をわたしたちが汚し、誤用することがないように、第2に違反者が人の譴責を逃れても、神は違反者が御自身の正しい裁きを逃れることを許されないから。

 ウ大教理は、答で「あなたの神、主」と唱えているように、神は主権者であり、神は神であるゆえに、その御名を、畏れをもって扱うべきことを教える。付加された理由から神の主権、神の尊厳、神の絶対的正しさが主張されている。

 神は神の民イスラエルに命じられる。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(レビ19:2)。主権者である主なる神は、神の民イスラエルに彼らの王である神の聖さを、彼らが現すように命じておられる。神の御名を汚す、誤用することは、神の民(キリスト者)が律法違反によって悪い噂を広めること(例:大祭司エリの息子たち、サムエル記上2章12-25節)。エリは息子たちを譴責したが、裁けなかった。しかし、主は彼らを正しく裁かれた(サムエル記上4章)。

 教会の中で悪い噂が流れ、それを教会が正しく処理できなくても、神は決して正しい裁きをされないことはない。人の隠れた罪、弱さのゆえに教会が裁けなかった罪を、神は必ず正しく裁き、御自身が聖であることを明らかにされる。だからこそ教会は、自らのうちにある罪を、教会戒規を通して正しく裁き、聖であることを現すのである。教会はわたしたちの神、主の御名を畏れなければならない。

 問115と答は、第四戒とその本文である。出エジプト記第20章8-11節の御言葉である。「安息日」律法である。「安息日」は「休む(1日を休みにする)、中止する」から来ている。「安息日を心に留め、これを聖別せよ」は、1週間のうちの1日を区別し、労働を休み、その日を特別に神のために取って置けという命令である。その日とは第7日目である。キリスト教安息日はキリストの復活に基づき、「日曜日」である。

 安息日は家族の者だけでなく、奴隷も、家畜も、在留の異邦人もすべて守るべき日である(出エジプト20:10)。

 出エジプト記20章11節の「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」という御言葉が付加された理由である。「七日目は神が創造の業を休まれた日である」(創世記2:2)。それゆえに主なる神と契約の中にある神の民イスラエルは、七日目の安息日に仕事を休むのである。その日神の民イスラエルは、主なる神を礼拝し、賛美し、主との契約の中にあることを喜ぶのである。

 申命記第5章12-15節の安息日律法は、神の民イスラエルが安息日を守る理由を、主なる神が神の民イスラエルをエジプトから救い出されたことを覚えるためであるとしている。創造主は、救済者である。創造者なる主は、同時に神の民イスラエルの救い主である。そして、キリスト者はイエス・キリストの復活を覚えて、日曜日を主の日として、主イエス・キリストと彼の救いの御業を覚えて賛美するのである。