ウェストミンスター大教理問答48 主の2015年8月26日
聖書箇所:使徒言行録第28章23-31節(新約P271)
問68 選民のみが、有効に召命されるのか。
答 すべての選民のみが、有効に召命される。他の者でもみ言葉の奉仕によって外的に召命され、みたまのある程度の一般的働きをうけられるし、またしばしばうけられるけれども、彼らは提供された恵みを故意に無視し、軽蔑するために、彼らの不信仰の中に当然捨ておかれて、決して真実にイエス・キリストにくることをしないのである。
今夜は、ウ大教理の問68と答を学びましょう。問68と答は「有効召命」が選民に限定されていることを告白している。
ウ大教理は、「すべての選民、そして選民のみが、有効に召命される」は宣言している。使徒言行録13章48節にパウロたちが小アジアのピシディア州アンティオキアの町で福音宣教しましたとき、「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」と記している。
パウロは、次のように述べている。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。(中略)神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」(ローマ8:29-30)。神は選民だけを救われ、キリストの十字架は選民の救いのためであり、だから、聖霊が有効にお働きになり、救われるのは選民のみである。これがウ大教理の主張である。
選民以外の者でも、「外的召命」によって、すなわち、「み言葉の奉仕」による福音宣教を通して招かれるという機会は多くある。主日礼拝、伝道集会、ラジオ・テレビ・インターネット伝道等である。だから、主イエスも「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(マタイ22:14)と言われている。多くの者がいろんな形で福音宣教を通して召されるが、聖霊が「内的召命」のお働きを通して、救われる者は少ないのである。
ここでウ大教理が「みたまのある程度の一般的働きをうけられるし、またしばしばうけるけれども」と述べているのは何であるか。聖霊が選民の者たち以外に対してお働きになることである。聖霊はみ言葉と共に働かれるので、選民でない者たちも福音宣教を通して何らかの聖霊の一般的な働きに影響される。主イエスは次のような聖霊の一般的働きの影響を受けた人を挙げられる。「御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行なう」(マタイ7:22)、「御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れる」「艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人」(マタイ13:20-21)。ヘブライ人の手紙の記者も、次のような例を挙げている。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません」(ヘブライ6:4-6)。聖霊は、外的召命を通して招かれた者に、罪を感じさせ、生活を形ばかりはキリスト者にさせ、罪と悪を抑制し、この世で親切や愛の働きをさせる。しかし、聖霊は選ばれていない者を救うことはされない。
我々を救い、キリストと結びつけることは聖霊の特別な働きである。それ以外の聖霊の働きが一般的である。聖霊の一般的な働きは、選民でない者の心を再生しなくても、罪を感じさせ、御言葉を喜ばせ、形ばかりのキリスト者の生活と愛の働きをさせる。
だから、ウ大教理は、聖霊が救われない者たちは、最終的に「彼らは提供された恵みを故意に無視し、軽蔑するために、彼らの不信仰の中に当然捨て置かれて、イエス・キリストに来ることをしないのである」と述べている。
救いは、神の恵みの問題であり、神は自由にキリストにあって選民を選ばれ、福音宣教を通してキリストの御前に招き、聖霊の救いのお働きを通して選民の心を再生し、信仰と義と聖と子とすること、そしてこの世のおけるすべての恵みにあずからせられる。そして永遠の命の喜びへと導かれる。
ウェストミンスター大教理問答49 主の2015年9月2日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第8章28-30節(新約P285)
問69 見えない教会の会員がキリストともつ恵みの交わりとは、何であるか。
答 見えない教会の会員がキリストともつ恵みの交わりとは、彼らが義とされること・子とされること・聖とされること・またその他この世でキリストとの結合を示すすべてのものにおいて、キリストの仲保の力にあずかることである。
今夜は、ウ大教理の問69と答を学びましょう。問68の「見えない教会の会員」とは、有効召命にあずかった神の選民であります。使徒言行録13章48節の「永遠の命を得るように定められている人は皆」であります。彼らは、信仰に入り、洗礼を授かり、キリストと結び合わされ、「キリストともつ恵みの交わり」にあずかることができます。
宮崎訳と松谷訳は、「キリストと持つ、恵みにおける交わり」としています。ウ大教理は、この「恵みにおける交わり」を、「キリストの仲保の力にあずかることである」と定義しています。鈴木(英昭)訳は「キリストの仲保の徳にあずかることです」と訳しています。
「仲保」とは、罪により神と遠ざけられたわたしたちと神との間に和解をもたらすキリストのお働きです。「仲保の力」、または「仲保の徳」とは、仲保者キリストの和解させる「支配」であり、「統治」であります。それは、キリスト(神)の歴史における支配としてなされます。使徒パウロがローマの信徒への手紙8章28-30節で証言する通りです。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」
このようにパウロは、「キリストの仲保の力」を、キリストが神の選民を父なる神と和解させるという目的を持ち、それを完成する歴史的支配の働きであると証言しているのです。ですから、キリストが再臨し、この世が終わり、御国が完成するまで、キリストは聖霊を通して「仲保の力」を継続されます。そして、すべての選民がキリストの仲保の力で神と和解する(神に救われる)まで継続されます。
要するに「見えない教会の会員」とは、神の選民であり、キリストの仲保の力で、神と和解し、恵みのうちにキリストとの交わりに得ます。それが、「義とされること・子とされること・聖とされること・またその他この世でキリストとの結合を示すすべてのものにおいて」恵みのうちにキリストとの交わりに入れられることです。
パウロは、ローマの信徒への手紙8章30節で「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」と証言し、神の選民は義とされた経験によって、キリストの仲保の力にあずかり恵みのうちにキリストとの交わりを得ることを述べています。「子とされ、聖とされる」ことも経験です。
「義とされること」・「子とされること」・「聖とされること」は、神の選民がキリストの仲保の力にあずかり、福音宣教と聖霊を通して信仰体験したことです。この経験によって神の選民はキリストの歴史的支配(有効召命)にあずかり、恵みのうちにキリストとの交わり(永遠の命)を得るのです。
「この世においてキリストとの結合を示すすべてのもの」とは、問83と答に示されています。キリストに結びつけられた目に見えない教会の会員は、キリストのもつ栄光にあずかります。その保証が神の愛の自覚であり、良心の平和であり、聖霊による喜びであり、栄光のへの望みであります。
ウェストミンスター大教理問答50 主の2015年9月9日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第3章21-26節(新約P277)
問70 義とされることとは、何であるか。
答 義とされることとは、罪人に対して価なしに与えられる神の恵みの行為であって、神はそれによって彼らのすべての罪をゆるし、彼らの人格をみ前に義として受け、認められる。それは、彼らのうちに生じたり、彼らによってなされる何かのためではなく、ただ神によって彼らに転嫁され、またただ信仰によって受け入れられるキリストの完全な服従と十分な賠償のためである。
今夜は、ウ大教理の問70と答を学びましょう。問70-73と答は、信仰義認の教理です。神の選民は、永遠の聖定に基づき、キリストに贖われ、時至って働く聖霊によってキリストへの信仰に有効に召され、義とされ、子とされ、聖とされ、キリストとの結合を示すこの世のおけるすべての恵みにあずかり、聖霊の御力により信仰を通して永遠の命に至るまで保たれます。すなわち、ウ大教理は聖霊がどのように個々の罪人にキリストの贖いの恵みを適用されるかを教えている。
カルヴァンは、信仰義認の教理こそキリスト教を支える大黒柱であると、次のように述べている。「これこそキリスト教の主張すべき主たる要目であることを銘記すべきである。あなたが神に対してどういう立場にいるか、またあなたに対する神の裁きがいかなるものであるかを、何よりも先ず捉えていなければ、救いの基礎も神に対する敬虔の基礎も確立することができないからである」(『キリスト教綱要Ⅲ・11・1』)。
そこでカルヴァンは次のように述べている。「律法によって呪われた人間が救いを回復する唯一の道は信仰だけである。要約すれば、キリストは神の恵みによって与えられ、われわれは信仰によってキリストを受け取る。そこで二つの恵みにあずかる。第1の恵みは、キリストの和解によりわれわれは審判者なる神ではなく、憐れみの父を持つ。第2の恵みは聖霊により再生の道を歩むことである」。そこで第1位の地位を占めるのは信仰義認である。
ウ大教理は、「義とされることは、罪人に対して価なしに与えられる神の恵みの行為である」と教えている。使徒パウロがローマの信徒への手紙3章22-25節と4章5節で証言している。義とされることは罪人に対する神の恵みの行為である。
「義とされる」とは、「その人の状態が神の律法に適っていると法的に宣言される」ことである。「その人が罪責から自由になった、神に受け入れられる者だというその人についての神の宣告」の行為である。だから、「神はそれによって彼らの罪をゆるし、彼らの人格をみ前に義として受け、認められる」のである。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙3章22-28節、コリントの信徒への手紙一の5章19-21節で証言している。神は義とすることで、罪人のすべての罪を赦されるだけではない。その者を積極的に義人としてみ前に受け入れられる。
聖書の「義とされる」という用語は、現実にはわれわれは罪人であり、不義な人間であるのに、他人(キリスト)の義を法的にわれわれの義と認め、キリストの義がわれわれに転嫁され、われわれの罪がキリストに転嫁され、法的身分上義と宣告されることである。
だから、ウ大教理は、われわれに次のように教えている。「彼らのうちに生じたり、彼らによってなされる何かのためではなく、ただ神によって彼らに転嫁され、またただ信仰によって受け入れられるキリストの完全な服従と十分な賠償のためである。」と。
使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙1章7節とテトスへの手紙3章5節で義認が人の良き行いではなく、ただ神の恵みの行為であり、キリストの贖いに基づくことを証言している。そして、使徒言行録10章43節とガラテヤの信徒への手紙2章16節、フィリピの信徒への手紙3章9節で、この義認は信仰に基づいて神より与えられ、われわれはこの義を信仰によって受けることを証言している。
ローマの信徒への手紙4章6-8節と5章17-19節でパウロは、義と認められた人の幸いを語り、その幸いが転嫁によることを教える。すなわち、キリストの義がわれわれに転嫁され、われわれの罪がキリストに転嫁される。それゆえ神がわれわれを「義とする」と宣告される根拠は、われわれのうちに、また良き行いにあるのではない。ただキリストの義とキリストの完全な服従と十分な賠償(十字架のキリスト)にある。
われわれが神のみ前で罪赦され、受け入れられる唯一の根拠はキリストの義のみであり、実際に義とされることの手段はキリストを信じる信仰によるのである。
ウェストミンスター大教理問答51 主の2015年9月16日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第5章6-11節(新約P279-280)
問71 義とされることは、どのようにして、価なしに与えられる神の恵みの行為な
のか。
答 キリストは、義とされる者のために、その服従と死によって、神の義に対してふさわしく真実で十分な賠償をされたけれども、しかし、神は、彼らから要求したはずの賠償を保証人から受け、しかもこの保証人として神ご自身のひとり子を備えて、彼の義を彼らに転嫁し、彼らを義とするためには、それもまた神の賜物である信仰以外の何ものをも彼らからは要求なさらないのだから、彼らが義とされることは、彼らにとって、価なしに与えられる恵みによるのである。
今夜は、ウ大教理の問71と答を学びましょう。宮崎彌男訳は、問71を次のように訳しています。「問71義認は、どのような意味で、神の無償の恵みによる決定なのですか。」
聖書は、「義とされる」と「救われる」を同義に使っている。また聖書用語の「義とする」は、実際には不義な人間であるのに、他人の義を法的にそのものの義と認めて-これを「転嫁する」という-、法的身分上義と宣告することである。だから、宮崎訳は、「義とされること」を「義認」(松谷・鈴木訳)としている。そして、「どのようにして」(委員会・松谷・鈴木訳)を「どのような意味で」と意訳している。「神の恵みの行為」を「神の恵みの決定」(松谷・鈴木訳)と訳している。
ウ大教理の「価なしに与えられる神の恵みの行為」とは、義とする神の行為の行動因が神のキリストにある自由な恵みであり、ただただ神の好意であるということである。
すなわち、(1)罪人のためにキリストが従順と死によって神の義(神の律法の要求)を完全に満たしてくださいました。使徒パウロは、「わたしたちが罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった」(ローマ5:8)と証言し、「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2・7)と証言している。(2)神は、罪人に要求された賠償を、保証人として神御自身の独り子キリストを備え、保証人のキリストから受け取られた。神は神と人の間に唯一の仲保者キリストを立てられた(Ⅰテモテ2:5)、キリストは人の贖いとして御自身をささげられた(同2:6)。このキリストの犠牲により罪人は聖なる者とされた(ヘブライ10:10)。ウ大教理は、義認の場合、神は罪人の各々に要求されていた賠償を、保証人(仲保者)のキリストの手から受けられ、その保証人(仲保者)キリストは神が身代わりとして提供された神の独り子であると教えている。
ウ大教理は、「義認」(「義とされること」)は、キリストの義の転嫁であると教える。「彼の義を彼らに転嫁し」と。この転嫁も神の賜物であると教える。なぜなら、福音を通して示され、信仰を通して与えられるからである。使徒パウロが「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」(ローマ1:17)と証言するとおりである。神の義認の決定の外的手段は福音であり、わたしたちは信仰によってそれを受け取るのですが、信仰は聖霊の賜物である。だから、ウ大教理は、「神の賜物である信仰以外の何ものをも彼らからは要求されない」と教えている。信仰は、内的手段である。神は信仰を条件に、わたしたちが義認を受ける手とされる。
ウ大教理は、義認の条件であり、受ける手である信仰が聖霊(神)の賜物であるのだから、「義とされること」、すなわち、「義認」は「罪人に対して価なしに与えられる神の恵みの行為(決定)である」と規定する。
ウ大教理は、義認が神の恵みの決定、すなわち、永遠の聖定の中での、贖罪の契約においてある者を御子に賜ることと、キリストの義の転嫁によってそれを選民のものとするという、神の好意(「価なしに与えられる神の恵みの行為」)を教えている。
アブラハム・カイパーは、『聖霊の事業』という著書で「永遠義認論」を唱えた。義認の主権性を教え、彼は次のように述べている。「罪人の義認には神の側では、本人が回心するのを待つことも、自覚するのを待つことも、いや生まれるのを待つことさえ必要ではない。彼が何も行為せず、存在しないうちでも、神は彼を欲するままに義となしたもう。だから、聖書は義認を神の永遠の行為と認めている」。だから、宮崎・松谷・鈴木訳は、「義認は神の恵みの決定」と訳しているのである。
ウェストミンスター大教理問答52 主の2015年9月23日
聖書箇所:使徒言行録第2章36-42節(新約P216-217)
問72 義とする信仰とは、何であるか。
答 義とする信仰とは、神のみ霊とみ言葉とによって、罪人の心情に働く一つの救いの恵みである。それによって彼は、自分の罪と悲惨について、また失われた状態から回復する力が自らの中にも他のすべての被造物の中にもないことについて確信させられ、福音の約束の真理に同意するのみではなき、罪のゆるしのため、また救いのために神のみ前に自分の人格を義として受け認められるために、福音の中に提示されているキリストとその義を受け入れ、より頼むのである。
今夜は、ウ大教理の問72と答を学びましょう。「義とする信仰とは、何であるか」、すなわち、わたしたちが救われる信仰とは何であるかを学びましょう。
ウ大教理は、それを答で次のように定義する。「義とする信仰とは、神のみ霊とみ言葉とによって罪人の心情に働く一つの救いの恵みである。」
ウ大教理は、この信仰が福音宣教を通してわたしたちに与えられる救いの恵みであると教える。「福音宣教を通して」とは、「神のみ霊とみ言葉によって」ということ。使徒パウロは、コリント教会のキリスト者たちに「わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです」(Ⅱコリント4:13)と述べている。パウロが神の御言葉を語っても、その時に聖霊が聞く者の心を開いてくださらないと、聞く者に「義とする信仰」は生まれない。だから、使徒パウロは、次のように聖霊の助けを祈り求める。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。」
使徒言行録の16章で使徒パウロが初めてヨーロッパに渡り、マケドニアのフィリピの町で福音宣教した。彼の説教を聞いていたティアテラ市出身の紫布を商う人で、ユダヤ教に改宗していたルデアという婦人に「主が彼女の心を開かれたので」、彼女に主イエスを信じて義とする(救われる)信仰が与えられた。このように「義とする信仰」は、主(キリスト、そしてキリストの霊である聖霊)が罪人である彼女の心を開き与えられた神の恵みである。この信仰は、福音宣教、キリストの言葉を聞くことから生まれる(ローマ10:14、17)。
ウ大教理は、「義とする信仰」には確信と同意と信頼という要素のあることを教える。
第1に「確信」という要素である。「義とする信仰」は、それによってわたしたちに「自分の罪と悲惨について」、わたしたちが「失われた状態」にあることを知らせ、そこから回復する力がわたしたちの中に、この世界の他の被造物の中にもないことを確信させる。
「失われた状態」とは、アダムの原罪によりすべての人間が生まれながらに腐敗していること。「回復する力」とは、神の罪の赦しと和解のこと。
使徒ペトロとヨハネは、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちの救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」と言っている(使徒言行録4:12)。
次にこの信仰は、「福音の約束の真理に同意」する。使徒パウロは、それを次のように教えている。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」。福音の約束を真理であると、わたしたちが納得するのは聖霊のお働きであり、義とする信仰の一要素である。
しかし、義とする信仰で中心的なことは、「罪のゆるしのため、また救いのために神のみ前に自分の人格を義として受け認められるために」、すなわち、わたしたちが救われるためには、「福音の中に提示されているキリストとその義を受け入れ、より頼むのである」。説教で差し出されたキリストとその義を、聖霊によってわたしたちが受け入れ、そのキリストとキリストの義に信頼する。神であり人である神とわたしたちの仲保者であるキリストを信頼する。そのキリストが人としてその生涯を、十字架の死に至るまで従順に歩まれ、得られた義を、わたしたちに転嫁し、わたしたちの罪を御自分に転嫁し、わたしたちのために罪をとりなし、わたしたちに御自分の義をお与えくださり、わたしたちは父なる神の御前に義人とされたことを受け入れ、キリストに全面的に信頼することである。
ウェストミンスター大教理問答53 主の2015年9月30日
聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙第3章7-14節(新約P345-346)
問73 信仰は、どのようにして、罪人を神のみ前に義とするか。
答 信仰が罪人を神のみ前に義とするのは、信仰に常に伴う他の恵みのゆえにでもなく、信仰の実である善行のゆえにでもなく、また信仰の恵みとか信仰による何らかの行為とかが、彼を義とするために彼に転嫁されるというのでもなく、信仰は、罪人がキリストとその義とを受け適用される手段だからにすぎない。
今夜は、ウ大教理の問73と答を学びましょう。ウ大教理は、わたしたちに信仰はわたしたちの救いの根拠ではなく、「キリストとその義を受け適用される手段」であることを教えようとしている。
聖書は、わたしたちが救われるのは、「信仰によって」「信仰を通して」であって、「信仰のゆえ」ではないと教える。ウ大教理は、わたしたちにこの違いを理解するようにこの問いで配慮しているのである。
信仰が救いの根拠ではないことを教えるために、ウ大教理は、第1に「信仰に常に伴う他の恵みのゆえ」ではないと教えている。正確に訳すと「信仰に常に伴う他のさまざまな恵みの賜物のゆえでも」(宮崎訳)である。
ローマカトリック教会の信仰問答では、「信仰、希望、愛」を神の恵み、賜物であると教える。そして「恵みは救いに必要である。なぜなら恵みがなければ、わたしたちは天に功徳を積むために何事もすることができないからである」と教える。ウ大教理は、この教えに反対し、「信仰に伴うさまざまな恵みの賜物」がわたしたちの救いの根拠にならないし、それらによって罪人のわたしたちが神の御前に義人とされるのではないと教えている。
第2に「信仰の実である善行のゆえ」でもない。キリスト者の善き業とは信仰の実であるが、それが、わたしたちが神の御前に義人とされ、救われる根拠ではない。使徒パウロも次のように教える。「律法によってだれも神の御前に義とされない」(ガラテヤ3:11)、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく」(ローマ3:28)。ウ大教理は、ローマカトリックの「信仰は功績を含む恵み、すなわち、一種のよい行いである」という教えに反対している。
第3に「信仰の恵みとか信仰による何らかの行為とかが、彼を義とするために、彼に転嫁されるというのでも」ない。
ウ大教理は、ローマカトリックの聖人崇拝等を批判している。ローマカトリックは、教会が聖人の功徳を保管し、それをわたしたちに転嫁できると教える。ウ大教理は、その教えに反対している。
ウ大教理は、「信仰は、罪人がキリストとその義とを受け適用される手段だからにすぎない」と教える。わたしたち罪人が神の御前で義とされる根拠は、イエス・キリストと彼の救いの御業(十字架と復活)である。信仰は、わたしたちが神の恵みによりキリストと彼の救いを受け取る手段にすぎないのである。
使徒パウロは、次のように述べている。「実に、信仰によってあなた方が救われたのは、恵みによるのです。あなた方自身の力によるのではなく、それは神からの賜物です。あなた方の行いに基づくことではないのです。これは、誰も自分を誇ることがないためです。」(エフェソ2:8-9,フランシスコ会訳)。信仰は、乞食が施しを受ける手と同じである。
ウ大教理がここでわたしたちに理解してほしいと思っていることは、二つある。「このようにキリストとその義を受け、これにより頼む信仰が、義認の唯一の手段である」。「信仰が唯一の不可欠の条件である以上は、わたしたちは信仰が与えられるまでは全く義と認められた人間ではない。だから信じたその瞬間に、その時から義人と認められるのである」(岡田稔著作集2『教理学教本』P360)。
信仰は、救いの根拠(それはキリストとその義)ではないが、わたしたちが神の御前で義とされる唯一の不可欠の条件である。これを通してでなければ、わたしたちは恐れなく神の御前に立つことはできないのである。
ウェストミンスター大教理問答54 主の2015年10月7日
聖書箇所:ヘブライ人への手紙第12章7-12節(新約P417)
問74 子とすることとは、何であるか。
答 子とすることとは、神のひとり子イエス・キリストにおいて、またキリストのゆえに価なしに与えられる神の恵みの行為であって、それによって、義とされた者はみな、神の子の数に入れられ、み名を記され、神のみ子の霊を与えられ、父としての神の保護と配慮の下に置かれ、神の子の自由と特権をことごとく許され、すべての約束をつぐ者、また栄光の中にキリストと共同の相続人とされるのである。
今夜は、ウ大教理の問74と答を学びましょう。ウ大教理は、「義とされること」(問71と答)を「価なしに与えられる神の恵みの行為」と告白し、「子とすること」も「価なしに与えられる神の恵みの行為」と告白し、「聖とすること」(問74と答)を「神の恵みにみわざ」と告白している。「恩恵論を義認と聖化の二本立てで論じている教理学がたくさんある。しかしウェストミンスター信条は一貫して子にすることを加えた三本立てになっている」(岡田稔著作集2 『教理学教本』P380)。
岡田稔先生は、「義認論が国家観的であり、聖化論が教会観的、あるいは宗教観てきであるのに対して、子とすることは家庭論的な問題なのだから、養子縁組でよい」(同上P380)と述べておられる。「国家観的」とは義認が法廷用語であり、「教会観的、あるいは宗教観的」とは、聖化がキリスト者のこの地上における生活に関わるからである。「家庭論的」とは、子とすることはわたしたちがイエス・キリストを通して父なる神の家に養子縁組されることであるからである。すなわち、「神と信者の親子関係を現実の相でとらえた」(同上P382)ものである。岡田先生は、「ウェストミンスター信条が新約聖書のあちこちから寄せ集めた聖句だけを見ても、聖書には家庭論的な救拯論があることは否定できない」(同上P382)と述べている。
バーヴィンクは、「子とする恵みは主として環境の問題である」と考えている。義認は身分の問題であり、子とすることはその身分を得た者の待遇(環境)の問題である。
罪人は自力で自らの環境を変えることはできない。父なる神が「神のひとり子イエス・キリストにおいて、またキリストのゆえに」その環境を変えてくださった。神のひとり子キリストが罪人と同じ人間となり、積極的に父なる神に服従され、得られた義を罪人に転嫁し、罪人の罪を自らに転嫁し、罪の刑罰の死である十字架で死なれた。キリストのゆえに罪人は神の御前に義とされた。
罪人が義と認められる身分を得ることで、キリストのゆえに父なる神と和解し、養子縁組で「神の子の数に入れられ」た。罪ゆえに神の怒りと呪いの下に、悲惨な状態にいた罪人がキリストのゆえに神の子の数に入れられ、神を父とする神の家族に彼の「名が記され」て一員に加えられ、「神のみ子の霊」、すなわち、彼に聖霊が与えられ、彼は神を「アバ、父よ」と呼びかけることができる者に変えられたのである。
それによって義とされた罪人の待遇(環境)が変わった。神の怒りと呪いの下に置かれた者が、「父としての神の保護と配慮の下に置かれ」た。神の家族の一員に加えられ、「神の子の自由と特権をことごとく許され」、御国の相続者にされたのである。すなわち、「すべての約束をつぐ者、また栄光の中にキリストの共同の相続人とされるのである」。
要するに「子とされる」ことで、義とされた罪人は、キリストゆえに神が彼の父として霊的交わり、神の家族の一員として種々の恵みの賜物を与えられ、御国の相続者という特権を与えられているのである。
主イエスは、ルカ福音書の15章で放蕩息子のたとえを話されている。そのたとえ話のテーマは、神の愛である。子とすることの価なしの神の恵みの行為とは、親がわが子に注ぐ無償の愛情である。キリスト者も罪人であり、信仰に迷い、教会を離れることもあろう。しかし、キリストゆえに罪人をわが子とされた父なる神は、無条件で神の家に帰る(罪を悔い改めた)者を神の家に迎え入れてくださるのである。
この世におけるキリスト者の人生は信仰の戦いの人生である。そして信仰の戦いに弱さのゆえに負けることがある。しかし、キリストのゆえに価なしの恵みの行為によって、神はわれら罪を悔いる者を、父として、子ならぬ者を子として待遇する愛によって、永遠の御国に迎え入れ、キリストと共に御国の相続者にしてくださるのである。
神は、父として、子とされたわれらを訓練される。鞭と杖で懲らしめと導きをもって訓練される。ヘブライ人への手紙12章7-12節。
ウェストミンスター大教理問答55 主の2015年10月21日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第6章1-14節(新約P280-281)
問75 聖とすることとは、何であるか。
答 聖とすることとは、神の恵みのみわざであって、それによって、きよくなるようにと神が世の造られる前から選んでおられた者たちが、時至って、キリストの死と復活を彼らに適用するみたまの力強い働きにより、神の形に従い、全人を新たにされる。それは、命に至る悔改めの種と他のすべての救いの恵みを彼らの心に入れ、彼らがますます罪に死に新しい命に生きかえって行くように、これらの恵みをかき立て、増し加え、強めるのである。
今夜は、ウ大教理の問75と答を学びましょう。ウ大教理は、「義とされること」(問70と答)と「子とすること」(問74と答)は、「価なしに与えられる神の恵みの行為」と告白し、「聖とすること」(問74と答)は「神の恵みのみわざであって」と告白している。岡田稔先生は、「ウェストミンスター信条は、聖霊の適用する恩恵を三つの系列に整理している。義認と子とすることと聖化。」(岡田稔著作集2『教理学教本』P371)と述べている。
宮崎彌男先生は、「価なしに与えられる神の恵みの行為」を「神の無償による恵みの決定」と訳している。「義とすること」と「子とすること」は、ただ1度限りの神の恵みの決定である。「神の恵みのみわざ」とは継続する神の恵みの御業(お働き)である。
「聖とすること」を宮崎先生は「聖化」と神学用語を用いられている。「聖化とは、神の恵みの御業です」と。この「神」とは「聖霊」であり、「聖とすること(聖化)」は聖霊なる神の恵みの御業である。聖霊は、罪に死んでいたキリスト者がキリストと共に十字架に死に、キリストの復活と共に新しい人に生まれ、成長するようにする。
だから、ウ大教理は、「それによって(聖霊の恵みの御業によって)」「きよくなるようにと神が世の造られる前から選んでおられた者たちが、時至って、キリストの死と復活を彼らに適用するみたまの働きにより、神の形に従い、全人新たにされる」と告白している。聖霊の恵みの御業によって、キリスト者はきよくされる。そしてきよくされるから、キリスト者はキリストに従い、律法を守るのである。
「聖とすること(聖化)」は、聖霊が創造の前にキリストにあって神に選ばれた者たち(エフェソ1:4)を、時至ってキリストの十字架の死と復活の恵みを適用し、初めに創造された神の形を、すなわち、全人(「神にかたどって造られた新しい人」エフェソ4:24)を回復し、新たにすることである。
カルヴァンは、聖霊のお働きである「悔い改め(これは、聖化である)」を、「古い自己に死ぬ面と新しい自己に生きる面との両方から成り立っている」と説く(『キリスト教綱要』Ⅲ:3:3,8)。ウ大教理は、カルヴァンの「悔い改め(聖化)」の理解に従い、「それは、命に至る悔改めの種と他のすべての救いの恵みを彼らの心に入れ、彼らがますます罪に死に新しい命に生きかえって行くように、これらの恵みをかき立て、増し加え、強めるのである」と告白する。
宮崎先生は、次のように訳されている。「それは、彼らが、命に至る悔い改めと他のすべての救いの恵みとの種をその心の中に植え付けられ、さらに、それらの恵みがかき立てられ、増し加えられ、強められて、ますます罪に死に、新しい命に生きるようになるからです。」
「命の悔い改め」については次週(問76と答)に学ぶ。「種」は「命に至る悔い改め」ではなく、「他のすべての救いの恵み」も含む。カルヴァンは、神に創造されたすべての人間に「宗教の種」が宿ることを説いた。命に至る悔い改めと他のすべての救いの恵みとの「種」は、すべてのキリスト者の心に聖霊が植え付けられている。それゆえにルターが言うように「キリスト者の生涯は悔い改めの生涯」となり、聖霊は「義とすること」・「子とすること」の恵みの他に、愛が結ぶすべての実の恵みをキリスト者たちの心に入れられている。ウ大教理は、「神の恵み」が「義とすること」・「子とすること」・「聖とすること」の3つの面に渡る各種の恵みを一貫する統一内容であることを教える(岡田稔先生『教理学教本』P372)。
岡田稔先生は、聖化の恵みを次のように述べている。「『聖なる聖なる聖なるかな』と神を仰ぐ時、罪責は問題ではない。ただ腐敗性が問題なのである。罰でなく弱さが問題である。われわれの聖からぬことと腐敗が神の聖に対して明らかにせられる。義は神の主権性にかかわるが聖は神の存在そのものにかかわる。聖化は魂の聖さの問題であるから、人の中で対自になされる神(聖霊)の業である。」(同P376)。
ウェストミンスター大教理問答56 主の2015年10月28日
聖書箇所:使徒言行録第11章1-18節(新約P234-235)
問76 命に至る悔改めとは、何であるか。
答 命に至る悔改めとは、神のみたまとみ言葉によって罪人の心情に働く一つの救いの恵みである。それによって、彼は自分の罪について、その危険さばかりでなく、その汚らしさやいとわしさを知り自覚し、また後悔している者へのキリストにある神のあわれみを悟って、大いに罪を悲しみ憎むので、全くそれを捨てて神に帰り、新しい服従の道をいつも神と共に歩むように目差し努力するのである。
今夜は、ウ大教理の問76と答を学びましょう。ウ大教理は、命に至る悔い改めを次のように定義する。「命に至る悔い改めとは、神のみたまとみ言葉によって罪人の心情に働く一つの救いの恵みである」と。宮崎訳は、「神の御霊と御言葉によって罪人の心の中に引き起こされる救いの恵みです」としている。聖霊が福音宣教を通してわたしたち罪人の心の中に引き起こされる救いの恵みである。使徒言行録11章で使徒ペトロはエルサレム教会で福音宣教を通して異邦人たちが救われたことを報告した。キリストの霊である聖霊はペトロをカイザリアのローマの百人隊長コルネリウスの家に導き、御言葉を語らせた。そして聖霊はペトロの福音宣教を通して異邦人のコルネリウスと彼の家族と御言葉を聞いた者たちの上に降り、キリストを信じて、罪を悔い、洗礼へと導かれた。ペンテコステの日に聖霊が降り、エルサレム教会が生まれたのと同じ出来事が異邦人たちの間で起こった。ペトロの証言を聞いたエルサレム教会のキリスト者たちは、異邦人たちの救いを受け入れ、次のように主なる神を賛美した。「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」(使徒11:18)と。
命に至る悔改めは、聖霊と福音宣教を通して聞く者の心の中に引き起こされる神の救いの恵み、出来事である。福音が語られ、聞く者に聖霊が働かれるなら、どこでもこの神の救いの恵みは起こる(使徒言行録9章のエチオピアの宦官)であるが、使徒言行録では、命に至る悔改めという出来事は、聖霊と御言葉によって命に至る悔改めをした者が洗礼を授けられたという事実を証言している。
罪とは的外れ、神との命の関係を離れることである。命に至る悔改めとは、神との命の関係に戻ることである。神との関係を絶ち、永遠の滅びにある者を、聖霊が福音宣教を通してキリストを信じる信仰によって神と和解させ、神との命の交わりを回復させてくださる。
それによって命に至る悔改めをした者は、第1に自分の罪を自覚し、その「危険」、すなわち、罪によってわが身を神が罰して滅ぼすという危険を知る。さらに自分の咎を知る。咎とは罪に腐敗した自分の姿の汚らしさといとわしさである。聖なる神に近づくことができない自分の惨めさである。
第2に聖霊は御言葉によって罪を悔いる者に神のあわれみを示されます。十字架のキリストによる罪の赦しを理解させられます。十字架のキリストがわが罪のために死なれたことを知り、わたしたちキリスト者は神への感謝と共に、自分の罪を悲しみ、憎むのである。
第3に、その結果、命に至る悔改めをする者は、罪から離れ、神に立ち帰る。キリストを信じて、キリストへの新しい服従の道を歩む。ウ大教理は、「新しい服従の道をいつも神と共に歩むように目差し努力するのである」と告白する。宮崎訳は、「新しい服従のすべての道において、いつも神と共に歩もうと決意し、努力するようになるのです」となっている。聖霊が御言葉を通して命に至る悔改めをする者を、礼拝においても、この世におけるキリスト者の生活においてもすべて、その者の心を十字架のキリストを仰がしめ、どんな時にも神と共に生きることを決意させ、神と共に生きる努力をさせるのである。
聖霊は、わたしたちの弱い信仰のために、洗礼と聖餐を通して、御言葉によってわたしたちを励ましてくださる。聖霊は、洗礼を通して、「あなたがたはキリストと一つにされている」と告げ、聖餐を通してわたしたちに「キリストはわたしたちのために死に、復活し、そして再びわたしたちのところへ来て、わたしたちに御国を相続させる」と約束してくださる。
このように命に至る悔改めをする者を、聖霊は神と共に生きるように守り、御言葉を通して励まし、慰めてくださるのである。礼拝においてわたしたちは、信仰を告白し、洗礼と聖餐にあずかり、日々聖書の御言葉に親しみ、神と共に生きることで、聖霊はわたしたちがこの世で恥じ入ることがないように、常に自分の罪を悔い、憎み、悲しみ、神に立ち帰り、御国に希望を持ち、生きるようにしてくださるのである。
ウェストミンスター大教理問答57 主の2015年11月4日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第6章1-11節(新約P280-281)
問77 義とすることと聖とすることとは、どこが違っているか。
答 聖とすることは義とすることと、分かつことのできないように結合しているが、それでも次の点で違っている。義とすることにおいて、神はキリストの義を転嫁するのであるが、聖とすることにおいては、御霊が恵みを注いで、それを用いることができるようにする。前者では、罪がゆるされるのであるが、後者では、罪が征服される。一方は、すべての信者を神の報復的怒りから一様に解放するのであり、しかもこの世でそれを完全になし、決して彼らが罪に定められないようにする。ところが他方は、すべての人に同様にでなく、まただれの場合でも、この世では完成しないで、ただ完成へと成長するのである。
今夜は、ウ大教理の問77と答を学びましょう。ウ大教理は、義認と聖化の違いを教えている。カルヴァンは、義認(義とすること)と聖化(聖とすること)との関係で、「義とされた者で同時に聖化されない者は一人もいない」と述べた。ウ大教理も「聖とすることは義とすることと、分かつことのできないように結合している」と告白している。同時にウ大教理は、わたしたちに「義認と聖化は、どの点で異なっていますか。」(宮崎訳)と問い掛けるのである。
ルターをはじめルター派は、義認と聖化を区別しないで、義認一本で救いの恩恵を考えようとした。その結果、キリスト者の生活において実りのない単なる形式にすぎない信仰義認という考えに陥った。しかし、カルヴァンをはじめ改革派は義認と聖化を区別し、その考えを克服したのである。
救いの恵みは、義認のみではない。子とすることと聖とすること(聖化)も救いの恵みである。ウ大教理は、それを取り扱うことで、キリスト者の生活に、聖霊が豊かに恵みを注がれ、キリストの義をいただくキリスト者の信仰が終末に向けて完成され、成長する喜びを教えているのである。
確かにキリスト者の生活の源は、信仰義認である。キリストを信じる信仰によってキリストの義がわれわれに転嫁され、われわれが神の御前に義とされることである。
それは、ポンコツの車を新車と同じにしたようなものである。だけれども新車にしてもガソリンを入れないと車は走れない。同様にキリストの義を転嫁されたわれわれも、聖霊により恵みというガソリンを注がれ、内住する聖霊がキリストの義を転嫁されたわれわれを再生し、キリストの死と復活の御力によってわれわれを実質的に人格的に聖なる者(新しき人)とし、御国での完成を目指して、成長するように動かしてくださるのでなければ、キリスト者の生活は始まらないし、継続されないだろう。だから、ウ大教理は、義認と聖化の違いを教え、どのようにキリストの義を転嫁された者が、聖霊が恵みを注いで、その義を用い、キリスト者の生活を始め、継続するかを教える。
だから、義認において、われわれにキリストの義が転嫁され、われわれの罪はキリストが十字架で負われ、われわれの罪は赦される(ローマ3:24)。それによってわれわれは神の怒りから解放され、この世に於いて完全に罪から解き放たれ、2度と罪に定められることはないのである(ローマ8:32‐33)。
だが、キリスト者は、なお罪の世に罪を赦された罪人として生きるのである(ローマ7:25)。ルターは、95カ条の提題の第1条で「キリスト者の生涯は悔改めの生涯である」と述べている。キリスト者は、この世では完成しないのである。常に悔改めながら、信仰から信仰へと歩み、御国における完成へと成長するのである。
そこで慰められることは、次のことである。罪を悔い改める者に、罪が彼を支配することはない(Ⅰヨハネ1:9)。聖霊は、キリストの十字架と復活の御力で、われわれが罪を征服できるようにしてくださる。聖霊は、われわれに恵みを注ぎこみ、われわれが罪を悔改め、善き業に励み、信仰から信仰へと成長するようにしてくださるのである。聖化はこの世では完成しないが、ただ「完成へと成長する」のである(フィリピ3:12-14)。