ウェストミンスター信仰告白45 主の2018年8月1日
聖書箇所:コリントの信徒への手紙二第12章7-9節(新約聖書P3390)
「ウェストミンスター信仰告白 五.摂理について」の「五」
最も賢い正しい恵みある神は、しばしば、ご自身の子らをしばらくの間、いろいろな試みと自らの心の腐敗とに任せておかれる。それは、前に犯した罪に対して彼らを懲らしめるため、あるいは腐敗のかくれた力と心の不誠実さとを悟らせて、謙そんならしめるためであり、彼らの援助のために、より近く絶えず神に寄りすがるように導くため、また将来のあらゆる罪の機会に対して警戒させるため、その他いろいろな正しいきよい目的のためである。
前回は、ウ告白の「五」の「摂理について」の「四」を学んだのである。ウ告白は、4節で神の摂理と罪の問題を論じている。すなわち、ウ告白は、アダムの最初の堕落と天使や人の罪を、神の摂理の外に置かない。むしろ、ウ告白は、神が御自身の摂理においてアダムの最初の堕落、そして天使と人の罪のすべてを通して、神ご自身の聖なる目的を達成されると告白している。しかも、ウ告白は、神が義なるお方で、罪の作者でも支持者でもないと告白する。
今夜は、ウ告白が神の摂理とキリスト者の試練との関係を教えている。ウ告白は、摂理の神を、「最も賢い正しい恵みある神」と告白する。創世記の族長ヨセフ物語を読むと、摂理の神は、族長ヨセフに5節の告白通りのことをされている「最も賢い正しい恵みある神」であることが分かるだろう。
第5章五節を他の訳と比較しよう。
(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
最も賢く、正しく、恵み深い神は、じっさい、しばしば御自身の子らを、しばらくの間、さまざまの誘惑と彼ら自身の心の腐敗とに任せられるが、それは、彼らを以前の罪のゆえに懲らしめるため、あるいは、彼らの心の腐敗と欺瞞との隠れた力を彼らにあらわに示して、彼らを謙虚にするため、また、彼らが助けを求めて、御自身に一層親しく、そして不断に依り頼むように彼らを励まし、将来のあらゆる罪の機会に対してより一層警戒させるため、さらに、その他のさまざまの正しい聖なる目的のためである。
(2) 松谷好明訳(一麦出版社)
最も賢く、正しく、恵み深い神は、しばしば、御自身の子たちをしばらくの間、さまざまな誘惑と、彼ら自身の心の腐敗にまかせておられるが、それは、[第一に]彼らを以前の罪のゆえに懲らしめるため、あるいは、彼らが謙遜にさせられるように、彼らの心の腐敗と虚偽の隠れた強さを彼らに対して露わに示すためであり、また、[第二に]助けを求めて神御自身に、より一層、絶えず依り頼むように彼らを励ますためと、将来のあらゆる罪の機会に対して彼らを警戒させ、他の正しく清いさまざまな目的を目指させるためである。
(3) 鈴木英昭訳(つのぶえ社)
完全に賢く正しく恵み深い神は、御自身の子らを、しばしばある時期、多様な試みと彼ら自身の心の腐敗のなかに放置されることがある。それは、以前の罪に対して彼らを懲らしめるため、あるいは、彼らが謙遜になるよう、腐敗の隠れた力と彼らの心の不誠実さを悟らせるためである。さらにまた、御自身に助けを求めて、いっそう親密に絶えず信頼するようにさせるため、また、将来のあらゆる罪の機会に対していっそう警戒させるため、その他いろいろの正しく清い目的のためである。
摂理の神は、族長ヨセフに大きな試練を与えられた。彼は、父ヤコブに兄弟の誰よりも愛され、神に夢を解く才能を与えられていた。ある日彼は、両親や兄弟たちが彼に跪く夢を見、父ヤコブに語った。彼の兄たちは彼の夢を憎んだ。それゆえに、兄たちはエジプトに行く隊商にヨセフを売り飛ばした。
エジプトにヨセフは連れて行かれ、パロの家来の奴隷となった。主はヨセフのゆえにパウロの家来の家を祝福された。ところが、ヨセフの主人の妻がヨセフを誘惑した。彼はそれを拒み、その妻に恨みを買い、濡れ衣を着せられて、牢に入れられた。
そこにパウロの怒りを買った料理役と給仕役の役人が入れられた。ヨセフは二人が見た夢を解き明かした。エジプトの王パロが恐ろしい夢を見たとき、給仕役の役人は、ヨセフを思い起こした。ヨセフは、王の夢を解き明かし、国の宰相に抜擢され、7年間の大飢饉に備えた。神はこの飢饉からヤコブと彼の一族を救うために、ヨセフをエジプトへと先に導かれたのである。
ウェストミンスター信仰告白46 主の2018年8月8日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第1章24-32節(新約聖書P274)
「ウェストミンスター信仰告白 五.摂理について」の「六」
正しい審判者として神が、今日までの罪のゆえに盲目にし、かたくなにされたところの悪い不敬けんな人々について言えば、彼らの理解を明らかにし、彼らの心に働いていたはずの神の恵みを、彼らに賜わらぬばかりか、時には、すでに持っている賜物さえも取り上げ、彼らの腐敗によって罪の機会となるような対象に彼らをさらされる。その上、彼らを自分自身の肉の欲、世の誘惑、サタンの力のなすに任せれ、それによって、神が他の者らの心を和らげるために用いられる手段によってさえも、彼らは自らをかたくなにすることさえ起こってくる。
前回は、ウ告白の「五」の「摂理について」の「五」を学んだのである。族長ヨセフを例に、神の摂理とキリスト者の試練の関係を学んだ。
今夜は、ウ告白が神の摂理と不敬虔な者たちのかたくなさの関係を論じている。ウ告白は、前回、摂理の神を、キリスト者にとって「最も賢い正しい恵みある神」と告白した。今回は不敬虔な者にとって「正しい審判者として神」と告白している。神の摂理は、キリスト者には神の恵みの機会であり、不敬虔な者には、神の正しい審判の機会である。
第5章六節を他の訳と比較しよう。
(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
神が、正しい審判者として、以前の罪のために、目を見えなくし、かたくなにしておられる邪悪で不敬虔な者たちについて言えば、神は、彼らがそれによって知性を照らされ、心を動かされることがかのであった御恵みを彼らにお与えにならないばかりか、時には彼らが持っていた賜物を取り上げ、彼らの腐敗のために、罪の機会となるような事柄に彼らをさらし、その上、彼らを自分自身の欲望と世の誘惑とサタンの力に引き渡される。それによって、彼らは、神が他の者たちを柔らかにするために用いられる手段によってさえも、自らをかたくなにするということが起こるのである。
(2) 松谷好明訳(一麦出版社)
神が、正しい審判者として、以前の罪のゆえに目を見えなくし、かたくなにしてしまわれる、邪悪で不敬虔な者たちについては、神は、[第一に]それによって彼らが理解力を照らされ、心に働きかけられていたはずの、御自身の恵みを、彼らにお与えにならないだけでなく、[第二に]時にはまた、彼らが持っていた賜物までも取り上げ、彼らの腐敗のせいで罪の機会となってしまう事物に彼らをさらし、[第三に]その上彼らを、彼ら自身の欲望と世の誘惑とサタンの力に引き渡してしまわれる。その結果、神が他の人々をやわらかにするのにお用いになる手段の下においてさえ、彼らが自らをかたくなにしてしまう、ということが起こるのである。
(3) 鈴木英昭訳(つのぶえ社)
正しい審判者としての神は、過去の罪のゆえに盲目にされ、かたくなにされた邪悪で不敬虔な人々に関して、以前には彼らの理解に光を与え、彼らの心に働いていた神の恵みを、再び彼らに賜わらない。また時には、神は、彼がすでにもっている賜物さえも取り去り、彼らの腐敗が罪の機会となるようなことに彼らをさらすことをなさる。
その上、神は、彼らを自己の欲望、そしてサタンの力に引き渡される。そのため、神が他の者たちの心を和らげるのに用いる手段であっても、彼らはそれによって自らをかたくなにする。
ウ告白は、摂理の神が不敬虔な人々には、正しい審判者として臨まれると告白している。出エジプトのパロの例にあるように、神は正しい審判者として、彼の罪のゆえに目を見えなくされた。だから、十の災いを与えられても、主に心かたくなにし、神の一般恩恵である理性の光も良心の痛みも神から取り去られ、パロと家来は咎(「彼らの腐敗」)によって神に対して心を頑なにする機会を得て、紅海で滅びてしまったのである(出エジプト15章)。このように摂理の神は、「悪人」、すなわち、不敬虔な人々を御自身の摂理の御業を通して彼らの心を頑なにされるのである。
ウ告白は、神が「心をかたくなにする」ことを、「彼らを自分自身の肉の欲、世の誘惑、サタンの力のなすに任せれ」と告白している。摂理の神が不敬虔な人々をこの世の歴史の中で審判し、滅ぼされる過程である。創世記にエソウの例がある。彼は神よりこの世を愛し、長子の権も、祝福も失ったのである。
ウェストミンスター信仰告白47 主の2018年8月23日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第8章28-30節(新約聖書P285)
「ウェストミンスター信仰告白 五.摂理について」の「七」
神の摂理は、一般にすべての被造物におよぶと共に、最も特別な方法で、神の教会のために配慮し、万事をその益となるように処理する。
前回は、ウ告白の「五」の「摂理について」の「六」を学んだのである。ウ告白は、神の摂理と不敬虔な者の心のかたくなさの関係を論じた。神の摂理は、キリスト者には恵みの機会であるが、不敬虔な者には神の正しい審判の機会である。摂理の神は、不敬虔な者を御自身の摂理の御業を通して心をかたくなにし、歴史の中で彼らに正しい審判を下されるのである。
今夜は、ウ告白が神の摂理の「最も特別な方法で、教会のための配慮」について論じている。
第5章七節を他の訳と比較しよう。
(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
神の摂理は、じっさいに一般的には、すべての被造物に及んでいるが、同様に、全く特別な仕方で、神の教会のために配慮し、万事を教会の益となるように整える。
(2) 松谷好明訳(一麦出版社)
神の摂理は、一般的に、あらゆる被造物に及ぶが、それだけでなくまた、最も特別な仕方で、神の教会のために配慮し、万事をその益となるように整えられる。
(3) 鈴木英昭訳(つのぶえ社)
神の摂理は、一般的にはすべての被造物に及ぶ。しかし、最も特別な仕方で神の教会のことを配慮し、その益のために万事を処置する。
矢内昭二先生は、この七節の重要性を次のように述べられている。「わたしたちが神の摂理の中でどういう位置をしめているかということ、摂理信仰はどういう状況の中で、どういう信仰の姿勢で問われなければならないかをいつも注意することじゃないでしょうか。こういう意味で第七節の神の摂理の特別な意味の対象は、神の教会であり、神の民のために、最後的には万事がその益となるように配剤されているということは大切な真理です。この要点をはずしたら、一切の摂理についての議論はばらばらに分裂してしまいます。」(『ウェストミンスター信仰告白講解』P73)。
一般に神の摂理は、神が創造されたすべての被造物に及ぶのである。歴史を通して神は、御自身の摂理の御業を通してすべての被造物を配慮される。空の鳥、野の草も、自然の四季も、宇宙の法則も。
しかし、ウ告白は、聖書が神の摂理を啓示する最も重要なことは、神が「最も特別な仕方で神の教会のことを配慮し、その益のために万事を処置(整える)」していることである。
神が万物を御自身の摂理の御業で配慮されるのは、神が特別に神の教会、すなわち、旧約の神の民イスラエルと新約の神の教会を特別に配慮し、万事が益となるように整えるためであると、ウ告白は述べているのである。
神は、御自身の摂理の御業を通して、善人にも悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせられた。神は万物を配慮することで、旧約の神の民イスラエルを配慮し、その益となるように整えると共に、今新約の神の教会のために益となるように整えてくださっているのである。
わたしたちが神の摂理を信じるとは、次のパウロの言葉を心から確信することである。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された物たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)。
わたしたちの教会は今年10月に70周年を迎える。浮き沈みの激しい、今も将来を見通せない状況である。だが、ウ告白5の7の告白は、わたしたちに慰めと希望を与えてくれる。摂理の神がわたしたちの教会を万事を益と整えてくださると。アーメン。
ウェストミンスター信仰告白48 主の2018年8月29日
聖書箇所:創世記第3章1-19節(旧約聖書P3-5)
「六.人間の堕落と罪、およびその罰について」の「一」
わたしたちの始祖は、サタンの悪巧みと誘惑にそそのかされ、禁断の木の実を食べて罪を犯した。神は、彼らのこの罪を、ご自身の賢いきよい計画によって、ご自身の栄光に役立てる目的をもって、許容することをよしとされた。
ウ告白は第1章が聖書論、第2-5章が神論、そして第6章人間論(罪と刑罰)である。
すでに第4章の「創造について」の「二」で人間の創造が記され、この第6章の「人間の堕落と罪、およびその罰について」の記述の前提となっている。
ウ告白によれば、神は人間を男と女に、理性ある不死の霊魂を持つ、神の似姿に従い、知識と義と聖を付与し、人間の心に神の律法を刻まれ、それを実行する能力を備えられ、意思の自由を与えて、神の律法に違反する可能性ある者と、創造されたのである。そして、特別な摂理によって神は、人間に善悪を知る木の実を食べることを禁じられたのである。そして、神の戒めを破らない限り、神が設けられたエデンの園で彼らは神との交わりに生き、幸いで、神が創造された被造世界を神の代理者として支配できたのである。
矢内昭二先生は、ウ告白の6-8章をキリスト論に分類されている(『ウェストミンスター信仰告白講解』p77)。ウ告白は使徒信条を土台とする。使徒信条に従えば、父なる神に続いて神の御子キリストである。
また、聖書の構造は、創造―堕落―贖い―再創造(終末)である。
矢内先生は、創造と堕落の関係をよく考察することが大切であると記されている。ぜひ、第6章を学ぶ前に創世記の第2-3章を読み、ウ告白の第4章の「創造について」の「二」を読んでください。
第6章一節を他の訳と比較しよう。
(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
われわれの最初の先祖は、サタンの狡猾と誘惑にそそのかされて、禁じられた果実を食べることによって罪を犯した。この彼らの罪を、神は、その賢い聖なる意向に従って、ご自身の栄光に役立てようとして、許容することをよしとされた。
(2) 松谷好明訳(一麦出版社)
わたしたちの最初の先祖たちは、サタンのこうかつさと誘惑に惑わされ、禁じられていた木の実を食べて罪を犯した。この彼らの罪を、神は、ご自身の栄光に役立てることを計画して、その賢く清い計らいに従い、許容することをよしとされた。
(3) 鈴木英昭訳(つのぶえ社)
わたしたちの最初の先祖は、サタンの悪巧みと誘惑に負けて、禁断の果実を食べて罪を犯した。神は、その賢く清い計画にしたがって、御自身の栄光になるように、彼らの罪を許容することをよしとされた。
矢内昭二先生は、次のように述べられている。「罪を正しく把握し、罪の深い自覚がないと、キリストとその贖いのみわざ、その救いの恵みについて正しい信仰が確立しませんね。逆にまた、キリストにある救いの光に照らしてみて、罪の暗黒も初めてはっきり知られるわけです。キリストにある救いは罪からの救いです。今日の伝道の不振の一つの大きな理由は、罪を具体的に、はっきりと、鋭く説いていない、というところにあると思いますね。罪について語ることは愉快なことではありませんが、救いのために罪がはっきり語られ、示されなければなりませんね。」(『ウェストミンスター信仰告白講解』P78-79)。
創世記3章の堕落物語に罪の起源を記しているように、わたしたちの最初の先祖、アダムはサタンの悪巧みと誘惑に惑わされ、神が食べることを禁じられた善悪を知る木の実を取って食べ、神との契約を破って罪を犯したのである。
だが、ウ告白は神がご自身の栄光に役立てるために、賢く清い計画で人間の罪を許容してくださったと述べているのである。
ウェストミンスター信仰告白49 主の2018年9月5日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第3章9-20節(新約聖書P276-277)
「六.人間の堕落と罪、およびその罰について」の「二」
この罪によって、彼らは原義と神との交わりから堕落し、こうして罪の中に死んだ者となり、また霊魂と肉体のすべての機能と部分において全的に汚れたものとなった。
矢内昭二先生は、ウ告白の第6章から8章を「Ⅲキリスト」に分類されている(『ウェストミンスター信仰告白講解』)。だから、聖書論、紳論、キリスト論と続いている。
キリスト教の中心はキリスト論であり、そして、矢内先生は「罪を正しく把握し、罪の深い自覚がないと、キリストとその贖いのみわざ、その救いの恵みについて正しい信仰が確立されませんね」と述べられている(同書P78)。また、「キリストにある救いは罪からの救いです」と述べられ、罪論とキリスト論が不分離の関係であることを指摘されている。
ウ告白の第6章の「二」は、アダムの原罪によって全人類は原義と神との交わりを失い、霊的に死んだ者となり、霊魂と肉体のすべての機能と部分において全的に腐敗したことを述べている。
第6章二節を他の訳と比較しよう。
(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
この罪によって彼らは原初の正しさと、原初の神との交わりから堕落し、そのようにして罪のうちに死んだものとなり、霊魂と体のすべての部分と機能において、全面的に汚れたものとなった。
(2) 松谷好明訳(一麦出版社)
この罪によって彼らは、彼らの原義と、神との交わりから堕落し、かくして罪の内に死に、魂と肉体のすべての機能と部分が、全面的に汚れたものとなった。
(3) 鈴木英昭訳(つのぶえ社)
この罪によって、彼らは、最初の義と神との交わりから堕落し、それによって、罪のうちに死に、魂と肉体のすべての部分とそれらの機能のすべてを全く汚した。
全的堕落の教理である。全的堕落とは、人間の魂と体のすべての部分と機能において汚れている(腐敗している)という教えである。それは、堕落した人間の罪の広がりを示しているのである。
ウ告白の第4章2節と比較してください。神は御自身のかたちに従って、創造された人間に知識と義と真の聖を付与されたのである。これが「原義」である。そして、この創造者なる神との最初の交わりが人間にとって「一切の生命、義、祝福の源」(矢内先生)であった。
しかし、原罪によって、全人類は堕落し、神のかたち(原義)を失い、神との交わりから堕落した。そして、罪のうちに死んだのである。それは、罪が全人類のあらゆる部分と機能に広がっており、全人類は霊的死に、その結果肉体が死ぬだけでなく、永遠の死に至るのである。
だから、使徒パウロは「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ローマ3:23)と述べ、「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(エフェソ2:1)と述べている。
ウ告白が原罪が人間のすべての部分とすべての機能を汚したと、聖書の主張をそのまま述べているのは、ペラギウス主義とローマカトリック教会の半ペラギウス主義を否定するためである。
ペラギウスは、人間の自由意志を主張し、人間が生まれながらに腐敗していることと罪が人間の全人格に影響することを否定した。人間の罪の行為は他人を模倣することから生じると、彼は主張した。
カトリック教会は全的堕落の教理を否定した。なぜなら、原罪によって人間が失ったのは、原義という特別の賜物だけであったからである。人間の理性は機能し、それによって人間は自力で自らの救いをなせると考えたのである。