ウェストミンスター信仰告白36    主の2018516

 

 

 

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第11110(新約聖書P289)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 三.神の永遠の聖定について」の「五」

 

 

 

 人類の中で命に予定されている者たちは、神が、世の基の置かれる前から永遠不変の目的とみ旨のひそかな計画と満足に従って、キリストにおいて永遠の栄光に選ばれたのであって、それは、自由な恵みと愛とだけから、被造物の中にある信仰・よきわざ・そのどちらかの堅忍・またはその他の何事をでも、その条件やそれに促す原因として予見することなく、すべてその栄光ある恵みの賛美に至らせるために、選ばれたのである。

 

 

 

前回は、ウ告白の「三」の四で、神の聖定に変更・変化のないことを学んだのである。神は永遠の聖定において選ばれた人間と天使たちを個別的に、不変的にその数を指定し、その数は確実に限定されており、途中で変更し、その数が増減することはないということを学んだのである。

 

 

 

今夜は、5節の「恩恵による選び」について学ぼう。ウ告白は、神が聖定において命に選ばれた者たちを「自由な恵みと愛とだけから」キリストにあって選ばれたと教えている。

 

 

 

 さて、第3章五節を他の訳と比較しよう。

 

(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

 人類の中で命に予定されている者たちを、神は世界の基が置かれる前に、その永遠不変の計画と、御意志の秘められた意向とよしとされるところに従い、キリストにおいて、永遠の栄光へと選ばれた。これは神の全くの無償の恵みと愛から出るものであって、信仰も、善い業も、そのいずれにおける堅忍も、また、被造物の内にあるその他のいかなるものも、それらを神が予見されたことが、選びへ神を動かす条件あるいは原因となったのでは決してない。そしてすべては神の栄光ある恵みが讃美されるためである。

 

 

 

(2) 松谷好明訳(一麦出版社)

 

人類の中の命に予定されている者たちを、神は、世界の基が置かれる以前から、彼の永遠不変の計画と、彼の御心の、隠れた計らいとよしとされるところに従い、永遠の栄光へと、キリストにあって選んでおられる。これは、神の全くの自由な恵みと愛とからであって、被造物の内に、信仰や善い行い、あるいはそのいずれかにおける堅忍、もしくは何かほかのものを、そうするように御自身を促す条件ないし原因として、予見したからではない。―すべては、神の輝かしい恵みが賛美されるためである。

 

 

 

(3) 鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

神は、世の基のおかれる前から、永遠で不変の目的と、よしとされる隠された意志の計画にしたがって、人類の中で命に予定されている者たちを、キリストにおいて永遠の栄光にお選びになった。それは、神の自由な恵みと愛だけにより、被造物の中にある信仰、善き業、そのいずれかの保持、またはその他の何事も、その選びの条件や神を促す原因として予見してはおられない。それは、すべて神の栄光ある恵みを賛美するようにならしめるためである。

 

 

 

 ウ告白が次のように聖書から証言するのを読み取れる。すなわち、前半では、神が命に選ばれた者たちの目的、神の隠された計画、そして、その経過のすべてについて、神の自由な選びによることを強調している。そして、後半では、その選びが選ばれた者の信仰・善き業に依存せず、彼らが神の条件を満たし、神に原因を促すことを、神が予見されたからでも決してないと証言し、すべては栄光ある賛美へと至らせるために、神は命あるものを選ばれたと証言している。

 

 

 

 ウ告白は、聖書から神の自由な恵みによる選びを強調し、人間の功績を一切排除し、救いの一切を神に帰し、神の栄光ある恵みを賛美している。

 

 

 

 ウ告白は「キリストにおいて永遠の栄光に選ばれたのであって」と証言し、エフェソの信徒への手紙14節と他を引用している。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

 

 

 

 キリストは「選びの鏡」(カルヴァン)である。主の日の礼拝でキリストに招かれ、臨在のキリストと共に御言葉と聖餐にあずかるとき、真実キリストの中にある者は、キリストにおける永遠の選びに基づいて、そこにいるのである

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白37    主の2018523

 

 

 

聖書箇所:ペトロの手紙一第119(新約聖書P428)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 三.神の永遠の聖定について」の「六」

 

 

 

 神は、選民を栄光へと定められたので、神は、み旨の永遠で最も自由な目的により、そこに至るためのすべての手段をも、あらかじめ定められた。だから、アダムにおいて堕落しながら選ばれている者たちは、キリストによってあがなわれ、時至って働くそのみたまによってキリストへの信仰に有効に召命され、義とされ、子とされ、聖とされ、み力により信仰を通して救いに至るまで保たれる。他のだれも、キリストによって贖われ、有効に召命され、義とされ、子とされ、聖とされ、救われることはなく、ただ選民だけである。

 

 

 

前回は、ウ告白の「三」の五で、神の恩恵による選びを学んだのである。ウ告白は、神が聖定において命に選ばれた者たちを「自由な恵みと愛とだけから」キリストにあって選ばれたと教えている。

 

 

 

 さて、第3章六節を他の訳と比較しよう。

 

(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

 神は、選ばれた者たちを栄光へと定められたように、自らの意志の永遠で最も自由な計画によって、それに至るすべての手段をもあらかじめ定められた。それゆえ、選ばれている者たちは、アダムにおいて堕落しているが、キリストによって贖われ、しかるべき時に働くその御霊によってキリストへの信仰に有効に召され、義とされ、子とされ、聖とされ、その御力により、信仰を通して、救いに至るまで守られる。それ以外の、つまり選ばれた者たち以外の何びともキリストによって贖われ、有効に召され、義とされ、子とされ、聖とされ、そして救われることは決してない。

 

 

 

(2) 松谷好明訳(一麦出版社)

 

神は、選びの民を栄光に定めておられるだけでなく、またそれに至るすべての手段も、彼の御心の永遠で最も自由な計画により、前もって定めれおられる。それゆえ、選ばれた者たちは、アダムにおいて堕落しているが、[第一に]キリストによって贖われ、[第二に]しかるべきときに働くキリストの霊により、キリストに対する信仰へと有効に召命され、[第三に]義とされ、子とされ、聖徒され、信仰を通してキリストの力により救いに至るまで守られる。他のいかなる者も、キリストによって贖われ、有効に召命され、義とされ、子とされ、聖とされ、救われることはなく、ただ選びの民だけである。

 

 

 

(3) 鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

神は、選民を栄光へと定められたように、その意志の永遠で最も自由な目的により、そこに至るためのすべての手段も、あらかじめ定められた。したがって、アダムにおいて堕落しながらも選ばれている者たちは、キリストによって贖われ、時至って働く聖霊によって、キリストへの信仰に有効に召され、義と認められ、養子とされ、聖化され、御力により信仰を通して救いに至るまで保たれる。それ以外の者はだれも、キリストによって贖われ、有効に召され、義と認められ、養子とされ、聖化され、救われることはない。ただ選民だけである。

 

 

 

 ウ告白は、次のことを明確にしている。神は予定の目的と手段、そして、選ばれた者たちの時至って救いに至る道筋をあらかじめ定められていると。

 

 

 

神は選民を栄光に定められた」。ゆえに神は、選ばれた者たちが罪人であっても、「キリストによって贖われ、時至って働く聖霊によって、キリストへの信仰に有効に召され、義と認められ、養子とされ、聖化され、御力により信仰を通して救いに至るまで保たれる」のである。神のあらかじめ定められた一定の経路を経て、選ばれた者たちの救いが完成される。

 

 

 

 神によって永遠の命に選ばれた者たちは、無秩序に救われるのではない。彼らは、確かにアダムにあって生まれながらに罪人である。その罪人である選ばれた者を、神は「キリストによってあがなわれ、時至って働くそのみたまによってキリストへの信仰に有効に召命され、義とされ、子とされ、聖とされ、み力により信仰を通して救いに至るまで保たれる」のである。神が定められた手段と経路を通して、選ばれた者たちは救いの完成へと信仰の道(聖化)を励むのである。

 

 

 

 『信徒の手引き』(日本キリスト改革派教会大会教育委員会編 一麦出版社)は、序論「神の民としての信徒の生活」の「2 神の計画のなかに生きる信徒」でこの教理に基づく信徒が具体的に提示されている(P1314)。 

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白38    主の2018530

 

 

 

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第91124(新約聖書P286287)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 三.神の永遠の聖定について」の「七」

 

 

 

 人類の残りの者は、神が、み心のままにあわれみを広げも控えもなさるご自身のみ旨のはかり知れない計画に従い、その被造物に対する主権的なみ力の栄光のために、見過ごし、神の栄光ある正義を賛美させるために、彼らを恥辱とその罪に対する怒りとに定めることをよしとされた。 

 

 

 

前回は、ウ告白の「三」の六で、神は聖定において予定の目的と手段、そして選民の時至って救いに至る道筋をあらかじめ定めておられることを学んだのである。選民は、神が定められた手段と経路を通して救いの完成へと聖化の道を励むのである。

 

 

 

 さて、第3章七節を他の訳と比較しよう。

 

(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

 人類のその他の者たちを、神は、よしとされるままに憐れみを施しまた控えもなさる、御自身の意志の計り知れない意向に従い、その被造物に対する自らの主権的力の栄光を現すために、見過ごすことをよしとされ、そして、自らの輝かしい正義が賛美されるように、彼らを自らの罪のゆえに、恥辱と怒りに定めることをよしとされた。

 

 

 

(2) 松谷好明訳(一麦出版社)

 

人類の残りの者を、神は、御旨のままに憐れみを示しも控えもなさる、御自身の御心の測り知れない計らいに従い、彼の被造物に対する自らの主権的な力の栄光を輝かせるために、見過ごすこと、また、御自身の輝かしい義が賛美されるように、彼らをその罪のゆえに、恥辱と怒りに定めること、をよしとされた。

 

 

 

(3) 鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

神は、御心のままに憐れみを広げも控えもなさる御自身の御旨のはかり知れない計画にしたがい、また、その被造物にたいする主権的な力がほめたたえられるために、人類の残りの者を、見過ごすことをよしとされた。また、御自身の栄光に満ちた正義を賛美させるために、彼らを恥と罪にたいする怒りに定めることをよしとされた。

 

 

 

 ウ告白は、聖書から遺棄(見捨てられた者)の教理を教えている。主イエスは言われる。父なる神の御心はこの世の知者には隠され、幼子のように主にすべてを委ねる者に明らかにされる主権的な行為である(マタイ11:2526)

 

 

 

 アダムの罪により全人類は生まれながらに咎があり、腐敗し、永遠に滅ぶべき者である。だが、神は主権的な判断により、全人類に対して「御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる(ローマ9:18)のである。

 

 

 

 だから、ウ告白が述べている。二つのことを。第一にどこまでも神の選びと遺棄は神の主権的判断から来る行為である。われわれ人間が「なぜだ」と抗議できるものではない。

 

 

 

第二に選ばれた者も遺棄された者も、神の器である。焼き物師は粘土から一つを貴いことに用いる器を作り、一つを貴くないことに用いる器を作る権限がある。神は焼き物師のように憐れみの器と怒りの器を作られた(ローマ9:1924)

 

 

 

使徒パウロは、怒りの器、すなわち、滅びに定められた者に対しては神は「寛大な心で耐え忍ばれ」、憐みの器、すなわち、選ばれた者には神は「御自分の豊かな栄光を示された」と述べている。

 

 

 

矢内昭二先生は、選びと遺棄を次のように分けられている。「この共通に堕落した全人類の中からある者を永遠の生命に選び、ある者を『見過ごし』、救いの恵みを与えることをとどめることをよしとされたのは、神の主権的な行為です。見捨てられたものが、その罪のゆえに当然受けなければならぬ恥辱と怒りに定められるのは神の審判行為です。」(『ウェストミンスター信仰告白講解』P59)

 

 

 

神の栄光と義が賛美されるために、この教理はあるのである。

 

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白39    主の201866

 

 

 

聖書箇所:使徒言行録第134449(新約聖書P240)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 三.神の永遠の聖定について」の「八」

 

 

 

 予定というこの高度に神秘的な教理は、み言葉に掲示された神のみ旨に注意して聞き、それに服従をささげる人々が、彼らの有効召命の確かさから自分の永遠の選びを確信するよう特別な配慮と注意をもって扱わなければならない。そうすればこの教理は、神への賛美と崇敬と称賛の、また謙そんと熱心と豊かな慰めの材料を、すべてまじめに福音に従う者たちに提供してくれるであろう。

 

 

 

前回は、ウ告白の「三」の七で、遺棄(見捨てられた者)の教理を学んだのである。ウ告白は、以下のことを教えている。この教理は(1)神の主権性に関わる。神は陶器師のように憐れみの器と怒りの器を作られた。(2)神の選びは神の主権的行為であり、遺棄は神の審判的行為である。(3)神は選ばれた者には御自身の豊かな栄光を啓示し、遺棄された者に対しては寛容な心で、審判の日まで耐え忍ばれる。

 

 

 

 さて、第3章八節を他の訳と比較しよう。

 

(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

 予定というこの高遠な神秘についての教理は、御言葉に啓示された神の意志に心を向けそれに服従をささげる人々が、自らの有効召命の確かさから、自らの永遠の選びを確信することができるように、特別な思慮と注意をもって扱われるべきである。そうするればこの教理は、心から福音に従うすべての者たちに、神への讃美と畏敬と讃嘆の根拠、また謙遜と熱心と豊かな慰めの根拠を与えることになるはずである。

 

 

 

(2) 松谷好明訳(一麦出版社)

 

予定というこの高度の神秘についての教理は、その御言葉の中に啓示された神の御心に注意深く聞き、それに従順に従う人々が、彼らの有効的召しの確かさから、自らの永遠の選びを確信できるように、特別な思慮と注意をもって取り扱われるべきである。そうすれば、この教理は、心からの福音に従うすべての人々に、神への賛美と畏敬と称賛の理由、および謙遜と熱心と豊かな慰めの理由を、提供するであろう。

 

 

 

(3) 鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

予定というこの高度に神秘的な教理は、御言葉に啓示された神の御旨を注意して聞き、それに服従をささげる人々が、彼らの有効召命の確かさから、自分の永遠の選びを確信するように、特別な配慮と注意をもって扱わなければならない。そうすればこの教理は、神への賛美と崇敬と賞賛の材料を、また謙遜と熱心と豊かな慰めの材料を、すべて誠実に福音に従う者たちに提供する。

 

 

 

 故矢内昭二先生は、『ウェストミンスター信仰告白講解』で次のことを記されている。「わたしは、この第三章を読む時にはいつも、最初に第ハ節を読むことにしています。そして、全体を読み終わってから、最後にもう一度第八節を読んで、自分の学び方を反省することにしています。予定論を取り扱う場合には、語る者も聞く者も、まず信仰の姿勢を正し、み言葉に密着して、順序を追って、注意深く聖書を読み、謙遜に神と神のみ言葉に服従しつつ、神ご自身に教えられることが必要です。」。

 

 

 

 そして、矢内先生は、わたしたち読者に次のように奨励されている。「『み言葉に啓示された神のみ旨に注意して聞き、それに服従をささげる人々が、彼らの有効召命の確かさから自分の永遠の選びを確信するように』と記されている注意をしっかり守りましょう。

 

  

 

 それによってウ告白が八節後半で「そうすればこの教理は、神への賛美と崇敬と称賛の、また謙そんと熱心と豊かな慰めの材料を、すべてまじめに福音に従う者たちに提供してくれるであろう。」と約束しているように、わたしたちは「この教理の重要さと有益さを必ず認識することができるでしょう」と、矢内先生は記されている。

 

 

 

 キリスト者は常に殉教を心すべきである。主イエスに服従し、御言葉に服従すれば、この世の迫害を避けられない。殉教しなくても、主に服し御言葉に服する者にこの世の苦難は免れ得ない。この世の苦難にあるキリスト者たちに心からの慰めを提供できるのは、予定論である。「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人々は皆、信仰に入った。」(使徒言行録13:38)。ハレルヤ。

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白39    主の2018620

 

 

 

聖書箇所:創世記第1131(旧約聖書P12)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 四.創造について」の「一」

 

 

 

 父・子・聖霊なる神は、ご自身の永遠のみ力、知恵、および善の栄光の現われるために、初めに、世界とその中にあるすべてのものを、見えるものであれ見えないものであれ、六日の間に、すべてはなはだ良く創造すること、すなわち無から作ることをよしとされた。

 

 

 

前回は、ウ告白の「三」の八で、聖定という教理を学ぶ心構えとこの教理が約束する祝福を学んだのである。だから、岡田稔先生は、「聖書に即してよく読み学べばかならず大きな益を受けると確信している」(『解説ウェストミンスター信仰告白』P25)と記されている。

 

 

 

さて、神の永遠の聖定は神の内なる御業であるが、創造と摂理は神の外なる御業である。神の永遠の聖定は、神の御旨であり、御計画である。神の創造と摂理の御業は、神が御自身の御旨と御計画を実行し、遂行されたのである。

 

 

 

 第4章一節を他の訳と比較しよう。

 

(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

 父・子・聖霊なる神は、その永遠の力と知恵と慈しみの栄光を現すために、初めに、見えるものであれ見えないものであれ、世界とその中にあるすべてのものを、六日の間に、創造すること、すなわち無から造ること、しかもそのすべてをはなはだ良いものに造ることをよしとされた。

 

 

 

(2) 松谷好明訳(一麦出版社)

 

父・子・聖霊なる神は、その永遠の力と知恵と慈しみの栄光を現すため、初めに、世界とその中の万物を、目に見えるものも見えないものも、六日間で、創造すること、すなわち、無から造ること、をよしとされた。―そして、すべては極めて良かった。

 

 

 

(3) 鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

父、子、そして聖霊なる神は、その永遠の力と知恵と善の栄光をあらわすために、まず最初に、見えるものであれ見えないものであれ、世界とその中にあるいっさいのものを、六つの日の間に無より創造されることをよしとされた。そして、それらはすべてはなはだよかった。

 

 

 

 ウ告白は、第一に聖書から父子聖霊の三位一体の神の創造を告白している。

 

 

 

 ウ告白は第二に神の創造の目的を「ご自身の永遠のみ力、知恵、および善の栄光の現われるために」と告白する。

 

 

 

 使徒パウロは神の創造によって神の永遠の力と神性が被造物を通して現わされたと述べ(ローマ1:20)、万物は御子によって、御子のために造られたと述べている(コロサイ1:16)。預言者エレミヤは、神が「御力」と「知恵」と「英知」をもって創造されたことを述べている(エレミヤ10:12)

 

  

 

 ウ告白は、第三に神は六日の間に万物を創造されたと告白する(創世記1章他)。今日、「六日間」を、現代の科学的な理解から文字通りに受け取ることを困難に思う者たちがいる。

 

 

 

 しかし、聖書の「一日」は、「夕べがあり、朝があった」という一日であり、24時間である。そして、神は「六日の間に」万物を造られたのである。神の十戒の第四戒に神の創造と人間の労働が並列に語られている。人が六日働いて一日休むのは、主なる神がこの世界を六日の間に創造され、第七日目に休まれたからである(出エジプト記20:11)

 

 

 

 ウ告白は第四に神の創造が無からの創造であり、完全であったことを告白する。「すべてはなはだ良く創造すること、すなわち無から作ることをよしとされた。

 

 

 

 「初めに」、神は無から万物を創造されたのである。神以外に永遠の存在者はいないし、創造者である神以外は、すなわちすべて万物は神に造られた被造物である。神は御言葉によって万物を六日の間に無から創造されたのである。

 

 

 神の創造は完全で、欠陥はなかった。だから、「すべては極めて良かった。

 

 

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白40    主の2018627

 

 

 

聖書箇所:創世記第12628節,2717(旧約聖書P23)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 四.創造について」の「二」

 

 

 

 神は、他のすべての被造物を作られたあとで、人間を男と女に、理性ある不死の霊魂をもち、ご自身のかたちに従って知識と義とまことのきよさを賦与され、心の中にしるされた神の律法とそれを成就する力をもち、しかも変化しうる自分自身の意志の自由に委ねられて、違反する可能性のある者として創造された。彼らは、心にしるされた子の律法のほかに、善悪を知る木から食べるな、という命令を受けたが、これを守っている間は、神との交わりにおいてしあわせであり、もろもろの被造物を支配していた。

 

 

 

前回は、ウ告白の「四」の一で、父・子・聖霊の三位一体の神の創造について学んだのである。神は御自身栄光のために、万物を創造された。六日間で、完全な世界を創造された。無から御言葉で創造することを良しとされた。

 

 

 

さて、今夜は人間の創造について学ぼう。父・子・聖霊の三位一体の神は「六日間」で万物を創造されたが、万物を創造された後で、六日目に人間を男と女に創造された(創世記1:2628)

 

 

 

 第4章二節を他の訳と比較しよう。

 

(1)  村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

 神は、他のすべての被造物を造られた後に、人間を、男性と女性に、そして理性的で不死の霊魂を持ち、知識と義と真の聖徒を賦与されたものとして、御自身のかたちに従って、創造された。彼らは神の律法をその心に記され、同時にそれを履行する力を持っていた。それにもかかわらず、変わりうる彼ら自身の意志の自由に任されていたので、違反する可能性があった。彼らはその心に記されたこの律法のほかに、善悪の知識の木から取って食べてはならないという命令を受けた。それを守っている間、彼らは神との交わりの中にあって幸福であり、被造物を支配していた。

 

 

 

(2)  松谷好明訳(一麦出版社)

 

神は、他のすべての被造物を造られたあと、人間を[第一に]男性と女性に、また、理性ある、不死の魂を持ち、御自身のかたちに従って、知識と義と真の聖を授けられ、[第二に]心の中に記された神の律法と、その律法を果たす力とを持ち、しかし、[第三に]変わることもある彼ら自身の意志の自由にゆだねられていたため、違反する可能性のある、そのような者として、創造された。彼らは、その心に記されたこの律法のほかに、善悪の知識の木からは食べてはならないという命令を受け、これを守っている間は、神との交わりの中にあって幸せであり、被造物を支配していた。

 

 

 

(3)  鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

神は、他のすべての被造物を造られた後で、理性と不死の魂をもった人間を、男と女とに造られ、御自身のかたちに似せて、知識と義とまことの清さとを賦与された。また、彼らの心に神の律法を記し、それを実行する力をもたせた。そして彼らを、彼ら自身の変わり得る意志の自由に委ねられ、違反する可能性のもとにも置かれた。

 

彼らは、心に記された律法のほかに、善悪を知る木から取って食べるなとの命令も受けた。彼らはこれを守っている間は、神との交わりの中にいて、幸福であり、被造物を支配した。

 

 

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白41    主の201874

 

 

 

聖書箇所:詩編第10459(旧約聖書P941)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 五.摂理について」の「一」

 

 

 

 万物の偉大な創造主である神は、すべての被造物、行為、また事物を、大小もらさず、最も賢い、きよい摂理によって、無謬の予知と、ご自身のみ旨の自由不変のご計画に従って、その知恵と力と義と善とあわれみのご栄光の賛美へと、保持し、指導し、処理し、統治される。

 

 

 

前回は、ウ告白の「四」の二で、神が人間を創造されたことを学んだのである。ウ告白は、人間は他の被造物の創造の後に、第一に「男と女」に創造されたと告白する。第二に神は人間に「理性と不死の霊魂」を与えられた。第三に人間は神の像に従って、「知識と義とまことの聖」を賦与された。第四に人間は心に神に律法を刻まれ、律法を行うことができる。第五に人間は自由意志を与えられた。これによって律法違反の可能性ある者となった。第六に神から人間は「善悪を知る木の実を食べるな」という命令を受けた。この命令に服している間は、人間は幸いで、神の創造された被造物を支配していた。

 

 

 

ウ告白の人間の創造の教理は、人間は神の被造物であり、神に依存する存在であることを教えている。人間は、理性と不死の霊魂を与えられ、神の像を持ち、神を知り、神と関係し、神の御前に生きる者として、自由意志を与えられた。そして、神が創造された他の被造物を神に代わりて支配するという召しと責任を与えられたのである。ただし自由意志は人間が律法違反の可能性ある存在とした。

 

 

 

さて、今夜から神の摂理について学ぼう。ウ告白は、「万物の偉大な創造主である神は、すべての被造物、行為、また事物を、<中略>保持し、指導し、処理し、統治される。」と告白している。神の摂理を、神が被造世界を「保持」すること、「指導し、処理し」とは神が被造世界の全存在と協力し、神は被造世界を「統治される」とは、被造世界を支配し、創造の完成へと導かれるのである。

 

 

 

 第4章二節を他の訳と比較しよう。

 

(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

 すべてのものの偉大な創造者である神は、じっさい、その最も賢く最も聖なる摂理によって、すべての被造物と行動と事物を、最大から最小に至るまで、その誤ることのない予知と、御自身の意志の自由で不変の意向とに従い、自らの知恵と力と義と慈しみと憐れみの栄光が讃美されるように、支え、導き、整え、統治される。

 

 

 

(2) 松谷好明訳(一麦出版社)

 

万物の偉大な創造者である神は、あらゆる被造物と行為と物事を、最大のものから最小のものまで、[第一に]彼の最も賢く清い摂理により、[第二に]その無謬の予知と、御自身の御心の自由で不変の計らいとに従い、[第三に]彼の知恵・力・義・慈しみ・憐れみ、の栄光が賛美されるように、支え、導き、整え、統治される。

 

 

 

(3) 鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

万物の偉大な創造者である神は、すべての被造物、その行為、そして出来事を、大小もらさず、完全に賢く清い摂理によって、誤ることのない予知と御自身の意志の自由で変わらない計画にしたがって、その知恵と力と義と善と憐れみの栄光をほめたたえさせるように、保ち、導き、調整し、そして統治される。

 

 

 

 三位一体の神が御自身の創造された被造世界を、保持(支え)し、導き、調整(整え)し、統治されることを、神の摂理と、ウ告白は定義する。

 

 

 

 三位一体の神は、その知恵・力・義・善・憐れみによって被造世界全体を支え、それらと協同し、整え、そして終末の完成に向けて支配されている。神の摂理は、宇宙全体から一羽の雀に至るまで配慮されている。

 

 

 

 三位一体の神は、誤ることのない予知と御自身の自由意志と不変の計画により、万物を保持され、万物をその活動へと動かされ、そして万物を創造の完成へと、その目的に向うように導かれているのである。

 

 

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白42    主の2018711

 

 

 

聖書箇所:詩編第10459(旧約聖書P941)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 五.摂理について」の「二」

 

 

 

 第一原因である神の予知と聖定との関連において、万物は不変的かつ無謬的に起こってくる。しかし同一の摂理によって、神はそれらが第二原因の性質に従い、あるいは必然的に、あるいは自由に、また偶然に起こってくるように定められた。

 

 

 

前回よりウ告白の「五」の「摂理について」を学び始めたのである。神の外なる業は、創造と摂理である。神は万物を創造し、保持される。神は人間を創造し、摂理によって守り、導かれる。前回は神の摂理の定義を学んだのである。神の摂理は、神が被造世界を「保持し、指導し、処理し、統治」することである。神は、無謬の予知と永遠の御計画に従って、神が創造された万物を摂理により支配し、創造の完成へと導かれるのである。

 

 

 

今夜は、ウ告白の「五」の「二」を学ぼう。ウ告白は「第一原因」と「第二原因」との関係を明らかにする。

 

 

 

異教世界・諸宗教は自然や歴史に運命・宿命しか見なかった。キリスト教は、神の創造と摂理を見た。創造主なる神が永遠の御計画に従い、万物を保持し統治する神の全能の知恵と慈愛を見た。

 

 

 

 第5章二節を他の訳と比較しよう。

 

(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

 第一原因である神の予知と聖定との関係では、すべてのことは普遍的に、また間違いなく起こってくるが、それにもかかわらず、その同じ摂理によって、神はすべてのことが第二原因の性質に従って、必然的に、あるいは自由に、あるいは偶然に起こってくるように定められている。

 

(2) 松谷好明訳(一麦出版社)

 

万物は、第一原因である神の、予知と聖定との関係では、不変的に、また無謬的に起こってくるが、しかし、同じ摂理によって神は、万物が、種々の第二原因の性質に従い、必然的に、あるいは自由に、もしくは偶然に、生起するように秩序づける。

 

 

 

(3) 鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

第一原因である神の予知と聖定に関しては、万事は変更することなく誤ることなく起こってくる。しかし、神は、同じ摂理によって、第二原因の性質にしたがい、それらが、必然的に、あるいは自由に、また偶発的に起こるように定められている。

 

 

 

 比較して明らかになるのは、神の摂理における第一原因と第二原因の関係である。ウ告白が「第一原因である神の予知と聖定」と述べるように、この世界のあらゆる現象と事象は創造主なる神の予知と聖定を第一原因として、生起するのである。

 

 

 

 この世界の諸現象・諸事象は第二原因である。それらは、人の目には「必然的」に、「自由に」、そしてまるで「偶然的」「偶発的」現象・出来事に見えるのである。

 

 

 

 神の摂理の前提は、神の主権性である。神が予知と聖定で定められたことは、間違いなくこの世界で起こるのである。使徒ペトロはペンテコステの日に次のように説教した。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」(使徒言行録2:23)

 

  

 

 神の主権性により、神が予知され、御計画されたことは、第一原因として、間違いなくこの世界の一切の現象・事象として、すなわち、第二原因として起こって来ます。

 

 

 

 そして、第二原因として、この世界で必然的に自然の法則に従って起こる現象も、人間の意志のように「自由」になされる行為も、天災・自然災害のように、偶然に、あるいはアクシデントの事故も、そのように神が定められたのである。四季(創世記8:22)、天体の運行(エレミヤ31:35)、アクシデントの事故(19:5)

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白43    主の2018718

 

 

 

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第41921(新約聖書P279)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 五.摂理について」の「三」

 

 

 

 神は、通常の摂理において、手段を用いられる。けれどもご自身がよしとされる場合には、手段を用いないで、それを越え、またそれに反して、自由に行動される。

 

 

 

前回は、ウ告白の「五」の「摂理について」の「二」を学んだのである。ウ告白は「第一原因」と「第二原因」との関係を明らかにする。神は、御自身の御心(第一原因)を、神の被造世界の諸現象・諸事象(第二原因)の性質に従い、必然的に、あるいは自由、また偶然に生起するように定められている。

 

 

 

今夜は、ウ告白が神の摂理において、神が通常は手段を用いられるが、御心ならば、手段を超越し、あるいは手段に反しても自由に行動されることを告白している。

 

 

 

 第5章三節を他の訳と比較しよう。

 

(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

 神は、その通常の摂理においては手段を用いられるが、それにもかかわらず、御心のよしとされるままに、手段を用いず、手段を超え、手段に反して、行動する自由をもっておられる。

 

 

 

(2) 松谷好明訳(一麦出版社)

 

神は、その通常の摂理においては、さまざまな手段をお用いになる。しかし、御自身がよしとされる場合には、手段なしで、手段を超えて、また手段に反して、自由に働かれる。

 

 

 

(3) 鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

神は、通常の摂理においては、手段を用いられる。しかし、御自身がよしとされるときには、手段を用いず、それを超え、またそれに反して、自由に行動される。

 

 

 

 ウ告白は、理神論者に対して次のように神は自由に行動されると告白している。なぜなら、神は常に超越者であり、主権者である。

 

 

 

理神論者は、神を時計職人にたとえる。時計職人が時計を作ると、時計は彼の手を離れて、運動法則に従って時を刻む。時計が故障すれば、時計職人が必要であるが、通常は彼がいなくても、運動法則に従って時計は動く。

 

 

 

同様に理神論者は、神が被造世界を創造され、世界は神なしで第二原因である被造世界の諸現象・諸事象、すなわち、自然法則・歴史の諸事象等に従って動くと主張する。彼らは、神の奇跡を信じない。

 

 

 

それにウ告白は反対である。それは、聖書が啓示する神ではない。聖書の神は、超越者である。

 

 

 

神は、通常は、摂理において船員たちを手段に用いられる。だから、パウロは、嵐の中で船員たちが逃げるのを、ローマの千人隊長に止めさせました(使徒言行録27:31)。また、神は天体の運行を手段として用いられ、太陽が東から昇り、西に沈むようにされている。また、神は悪人の上にも、善人の上にも太陽を照らし、雨を降らせられる(マタイ6:45)

 

 

 

しかし、神は、一切の法則や関係から自由であられ、自由に行動される。預言者ホセアは、次のように預言する。神は神の民ユダを憐れみ、人、戦車、武器を用いないで、直接に彼らを救うと。超越者である神は、手段を用いないで自由に行動される。

 

 

 

 詩編10729節に「主は嵐に働きかけて沈黙させられたので 波はおさまった。」とあり、主イエスはガリラヤ湖の嵐を静められる奇跡をされた(マタイ8:2327)。神は、自然の現象という手段に反して、直接自由に働かれ、嵐を静められた。

 

 

 

 神は、アブラハムが百歳で、サラが老いて子を産めない身体であるにも関わらず、二人に約束の子イザクを与えると約束された。そして二人がその神の約束を信じるように導かれ、実行されたのである(ローマ4:1921)

 

 

ウェストミンスター信仰告白44    主の2018725

 

 

 

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第112836(新約聖書P291)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 五.摂理について」の「四」

 

 

 

 神の全能の力、窮めがたい知恵、無限の善は、その摂理の中によく現われ、最初の堕落やその他すべてのみ使と人間たちの一切の罪にまでおよんでおり、しかも単なる許容によるものではなくて、多様な配剤において、神ご自身のきよい目的のための、最も賢い力ある制限や、その他の秩序づけと統治がそれに伴っているしかもなおその場合の罪性はただ被造物からだけ出て、神から出るのではない。最もきよく正しくいます神は、罪の作者でも是認者でもないし、またありえない。

 

 

 

前回は、ウ告白の「五」の「摂理について」の「三」を学んだのである。ウ告白は、神は御自身の摂理において、その手段を用いないで、あるいはその手段を超え、また、その手段に反して自由に行動されることを学んだのである。

 

 

 

今夜は、ウ告白が神の摂理と罪との関係を教えている。ウ告白は、神の摂理の中に「神の全能の力、窮めがたい知恵、無限の善」がよく現れていると告白している。ゆえに神の摂理は天使と人間の堕落まで及んでおり、しかも神は義なる方で、罪の作者でも是認者でも決してあり得ないと告白するのである。

 

 

 

 第5章四節を他の訳と比較しよう。

 

(1)  村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

 神の全能の力と、計り知れない知恵と、限りない慈しみは、その摂理において非常にはっきりと現れていて、その摂理は、天使と人間の、最初の堕落とその他のすべての罪にまで及んでいるほどである。しかもそれは単なる許容によるのではなく、それには御自身の聖なる目的のために、さまざまの仕方で、それらの罪を最も賢く強力に制限し、また別の仕方で秩序づけ、統治することが結びついている。とはいえ、これらの罪の罪性はただ被造物から出るのであって、神から出るのではない。神は最も聖であり、義であって、罪の創始者でも、是認者でもなく、また、そうではあり得ないのである。

 

 

 

(2)  松谷好明訳(一麦出版社)

 

神の全能の力と測り知れない知恵、限りない慈しみは、神の摂理の中に非常によく現れるので、神の摂理は、天使および人間の、最初の堕落と他のすべての罪にまで及んでいる。しかしそれは、単なる許容によるものではなく、許容すると同時に神が、罪を、御自身の清い目的に役立つように、種々の方法で、最も賢く、力強く制限し、さもなければ、秩序づけ、統治することによる。しかし、そうした場合の罪性は、ただ被造物から出るのであって、神から出るのではない。神は、最も清く、正しくいますので、罪の作者や支持者ではないし、また、そうではありえないからである。

 

 

 

(3)  鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

神の全能の力、窮めがたい知恵、無限の善は、これまで神の摂理においてよくあらわれていて、最初の堕落やその他の御使いと人間のいっさいの罪にまで及んでいる。しかもそれらの罪は、単なる許容によるのではなく、神御自身の清い目的のために、多様な配慮のなかで、彼らへの最も賢く力ある制限、さもなくば命令、さらには統治を伴っている許容による。しかし、そうであっても、罪性は被造物からのみ出るものであって、神から出るものではない。完全に清く正しい神は、罪の作者でも是認者でもないし、またあり得ない。

 

 

 

 ウ告白は、神の摂理において天使と人間の最初の堕落が起こり、歴史の中に罪が侵入し、人間は様々な罪を犯したと告白する。ウ告白は、それらは神が人間の罪を許容されたのではなく、神御自身の清い目的のために配慮され、最も賢く全能の御力で制限し、秩序づけ、統治する許容であると告白している。

 

 

 

 使徒パウロが告白するように、「すべての者が神から発し、神によって成り、神に至るのです。」(ローマ11:36、新改訳聖書2017)。ウ告白は罪だけは神の摂理の外にあると主張することに反対している。同時に神は完全に聖で、正しいお方であり、決して罪の作者でも支持者でもあり得ないと主張するのである。そしてウ告白は罪の責任は被造物にあると主張するのである。

 

 

 一見神学論争であるが、ウ告白はわたしたちを牧会し、慰める。特に「神の全能の力、窮めがたい知恵、無限の善は、その摂理の中によく現われ」という文章に、わたしは日常の信仰生活に深い慰めを得る。罪と弱さの日々に、神は摂理において全能の御力で、計り知れいない知恵で、無限の愛で支えて下さると。