ウェストミンスター信仰告白11    主の20171115

 

 

 

聖書箇所:テモテへの手紙二第31417(新約聖書P394)

 

 

 

 「日本キリスト改革派教会信仰の宣言 一.聖書について」の「四」

 

 

 

 旧新約聖書全体は霊感による神の作品であるから、その神的権威と全き信頼性とは、聖書全体に及んでいる。

 

また、この聖書は、堕落した罪人に、救い主イエス・キリストに対する信仰によって救いに至る知恵を与えることを目的とし、イエス・キリストにおける神の歴史的贖罪事業に関する啓示を内容としている。従って、全聖書の内容である贖罪的救拯的使信の全体が神的充全的権威と信頼性とを帯びているのである。

 

また、贖い主イエス・キリストは、今日、御自身のみ言葉である聖書において、また聖書を通してのみ、御自身の教会に語られる。真の教会は、みずからの花婿であり牧者であるキリストの権威あるみ声にのみ、常に全き信頼をもって聞き従い、それに対してみずから主となることをせず、またほかの人々の声に耳を貸すことをしない。

 

 

 

 前回は、「ウェストミンスター信仰告白 一.聖書について」の「四」、「聖書権威の源泉」、すなわち、聖書権威とその起源について学んだのである。

 

 

 

具体的に述べると、「聖書の権威が究極的には何に基づくのか、どのような性質の権威かを」、ウ告白は明瞭に語り、「聖書の権威は、人間の経験や教会会議の決定に依存しているのではなく、聖書の著者である神の権威のゆえに、服従されなければならないこと」を、ウ告白から学んだのである(矢内昭二著『ウェストミンスター信仰告白講解』新教新書 P33参照)

 

 

 

ウ告白は、「一.聖書について」の4節と5節で、「共に聖書の権威について教えています」と、矢内昭二先生は解説している(同上)

 

 

 

ウ告白は、4節で「聖書の権威」を客観的に述べ、5節で主観的に述べている。すなわち、4節の「聖書の権威」は聖書そのものが持っている神的権威のことであり、5節は、聖霊の内的証言でもって、わたしたちが心で確信する主観的な聖書的権威のことである。

 

信仰の宣言は、「旧新約聖書全体は霊感による神の作品であるから、その神的権威と全き信頼性とは、聖書全体に及んでいる。」と述べて、客観的に聖書全体が霊感された神の作品だから、聖書的権威の範囲は旧新約聖書全体であり、旧新約聖書全体が全き信頼に値すると宣言するのである。

 

 

 

続いて、信仰の宣言は旧新約聖書全体の内容について述べている。「この聖書は、堕落した罪人に、救い主イエス・キリストに対する信仰によって救いに至る知恵を与えることを目的とし、イエス・キリストにおける神の歴史的贖罪事業に関する啓示を内容としている」。

 

 

 

信仰の宣言は、ウ告白が「聖書は、神のみ言葉であるという理由から、受け入れられなければならない」と告白したことを受けて、その聖書の内容を明確に提示し、内容そのものに客観的に神的充全的権威と信頼性があると宣言する。

 

 

 

聖書の目的は、堕落した人間に救い主イエス・キリストに対する信仰によって救いに至る知恵を与えることである(Ⅱテモテ3:15)

 

 

 

旧新約聖書の中心は神の救済史である。「イエス・キリストにおける神の歴史的贖罪事業に関する啓示を内容としている。」すなわち、聖書全体を通して、神がわれわれに語られる御言葉は、「堕落した罪人に、救い主イエス・キリストに対する信仰によって救いに至る知恵」である。

 

 

 

 だから、信仰の宣言は、「全聖書の内容である贖罪的救拯的使信の全体が神的充全的権威と信頼性とを帯びているのである。」と宣言する。聖書全体に神的権威と信頼性が及ぶだけでなく、その内容も神的充全的権威と信頼性を帯びていると宣言する。

 

 

 

信仰の宣言は、「キリストの権威へのコミットメント」という見出しを付けて、「また、贖い主イエス・キリストは、今日、御自身のみ言葉である聖書において、また聖書を通してのみ、御自身の教会に語られる。真の教会は、みずからの花婿であり牧者であるキリストの権威あるみ声にのみ、常に全き信頼をもって聞き従い、それに対してみずから主となることをせず、またほかの人々の声に耳を貸すことをしない。」と宣言する。聖書が証しするキリストの権威のみに服従すべきである

 

ウェストミンスター信仰告白12    主の20171122

 

 

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書第161215(新約聖書P200)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 一.聖書について」の「五」

 

 

 

 わたしたちは教会の証言によって、聖書の対する高く敬けんな評価へ動かされ、導かれることもあろう。また内容の天的性質、教理の有効性、文体の尊厳、あらゆる部分の一致、(神にすべての栄光を帰そうとする)全体の目的、人間の救いの唯一の方法について行なっている十分な発表、その他多くのたぐいない優秀性や、その全体の完全さも、聖書自身がそれによって神のみ言葉であることをおびただしく立証する論証ではある。しかしそれにもかかわらず、聖書の無謬の真理と神的権威に関するわたしたちの完全な納得と確信は、み言葉により、またみ言葉と共に、わたしたちの心の中で証言して下さる聖霊の内的なみわざからでるものである。

 

 

 

 前回は、「日本キリスト改革派教会信仰の宣言 一.聖書について」の「四」、「聖書権威の源泉」について学んだのである。

 

 

 

ウ告白の「一.聖書について」の4節と5節は、共に聖書の権威について教えている。4節は「聖書の権威」を客観的に述べ、5節は主観的に述べていることを、前回学んだのである。4節と5節はコインの表裏の関係で、切り離せば「聖書の権威」ついての価値を損なうことになる。

 

 

 

4節は、聖書が神の霊感の書物(神の作品)で、その書物そのものが持っている神的権威であり、5節は、聖霊の内的証言でもって、わたしたちが心で確信する主観的な聖書的権威のことである。

 

 

 

ウ告白は、「わたしたちは教会の証言によって、聖書の対する高く敬けんな評価へ動かされ、導かれることもあろう。」と述べている。

 

 

 

ウ告白は、わたしたちに聖書がどうして神的権威があると確信できるかを、述べようとしている。第1は、教会の証言である。岡田稔先生は、それを「外的証明」と述べられている。聖書の神的権威が「人間の経験や教会会議の決定に依存しているのではなく、聖書の著者である神の権威のゆえに、服従されなければならないのである」(矢内『ウェストミンスター信仰告白講解』P33)。だから、聖書に対してわたしたちは高く敬虔な思いを持ち、そのように導かれるのである。実際に使徒パウロは、弟子のテモテに聖書について次のように証言している。「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたがたに与えることができます」(Ⅱテモテ3:15)

 

 

 

続いて、ウ告白は、次のように第2に聖書自身の証拠を述べている。「また内容の天的性質、教理の有効性、文体の尊厳、あらゆる部分の一致、(神にすべての栄光を帰そうとする)全体の目的、人間の救いの唯一の方法について行なっている十分な発表、その他多くのたぐいない優秀性や、その全体の完全さも、聖書自身がそれによって神のみ言葉であることをおびただしく立証する論証ではある」。

 

 

 

村川・袴田訳は、次のように記している。「さらに、その内容の天来の性質、教理の有効さ、文体の威厳、すべての部分の一致、全体の目指す目標(それはすべての栄光を神に帰することである)、人間の救いの唯一の道の十分な明示、その他多くの比類のない優秀さ、そしてその全くの完全さ、聖書が自らを神の御言葉であるとじっさいに十二分に立証する証拠である。」

 

 

 

聖書自身が神の御言葉であることを立証する論証となっている。しかし、わたしたち人間の側に、罪という欠陥があるので、第1の教会の証言も、第2の聖書自身の証言も、わたしたちは認めることができないのである。

 

 

 

だから、ウ告白が次に述べるように第3の聖霊の内的な照明が必要なのである。「しかしそれにもかかわらず、聖書の無謬の真理と神的権威に関するわたしたちの完全な納得と確信は、み言葉により、またみ言葉と共に、わたしたちの心の中で証言して下さる聖霊の内的なみわざからでるものである。

 

 

 

「聖書が神の言葉であって、人間の言葉ではないという証拠は、歴史からも聖書自身からもいい逃れないほどに十分に存在するがわたしたちの罪に汚れた知性や心情には、この二重の証拠も十分有効ではない。」(岡田稔)

 

 

 

聖霊だけが御言葉を通してわたしたちの心に、聖書が無謬であるゆえに、神的権威があると、確信させ、納得させてくださるのである。

 

 

ウェストミンスター信仰告白13    主の20171129

 

 

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書第161215(新約聖書P200)

 

 

 

 「日本キリスト改革派教会信仰の宣言 一.聖書について」の「五」

 

 

 

 聖書の無謬の真理と神的権威に関する聖霊の内的証言は、信じる者の心のうちに働くキリストのみたまのみわざ全体から孤立してなされるものではない。

 

 また、救拯的信仰においては、聖書への信頼はキリスト信仰と結びついて、切り離すことができない。すなわち、この信仰によってキリスト者は、み言葉において語られる神御自身の権威のゆえに、そこに啓示されている事をすべて真実であると信じ、それぞれ個々の章句が含んでいる事柄に応じて、異なって応答する。すなわち、命令には従い、威嚇にはおののき、今と後の命についての約束はこれを信じる。しかし、救拯的信仰のおもな行為は、義認と聖化と永遠の命のために、恵みの契約に基づいて、ただキリストのみを認め、受け入れ、寄り頼むことである。

 

 

 

 前回は、「ウェストミンスター信仰告白 一.聖書について」の「五」、「聖書の内的証言」について学んだのである。

 

 

 

ウ告白は、「聖書が神の御言葉であって、人間の言葉でないこと」を、次の3つの方法でなされたことを述べている。(1)歴史的証拠(人間と教会会議の証言)(2)聖書の自己証言、(3)聖霊の内的証言である。

 

 

 

(1)(2)は十分に言い逃れのできないほどに聖書に神的権威がある証拠を承認し、証言しているが、それだけではわたしたち罪人が受け入れないので、聖霊が罪に汚れたわたしたちの心を清め、聖書が無謬であるゆえに、神的権威があることを確信させ、納得させてくださるのである。

 

 

 

ウ告白が「しかしそれにもかかわらず、聖書の無謬の真理と神的権威に関するわたしたちの完全な納得と確信は、み言葉により、またみ言葉と共に、わたしたちの心の中で証言して下さる聖霊の内的なみわざからでるものである。」と述べていることは、わたしたちにとって重要である。わたしたちが聖霊のお働きを信じて、聖霊に祈り求め、同時に聖書を日々親しく読む、そこでわたしたちは聖書が無謬の神の御言葉であり、神的権威があることを、聖霊によって納得させられ、確信を与えられるのである。

 

 

 

信仰の宣言は、「聖書の無謬の真理と神的権威に関するわたしたちの完全な納得と確信は」と、ウ告白の文章をそのまま用いて、「信じる者の心のうちに働くキリストのみたまのみわざ全体から孤立してなされるものではない。」と宣言する。

 

 

 

 「信じる者の心のうちに働くキリストのみたまのみわざ全体」とは、キリスト信者の内に働く聖霊の救いの御業のことです。聖霊は、多様な救いの働きをされ、聖書の内的照明はその一つである。そして聖霊の有効召命、義認、聖化、子とすること、聖徒の堅忍等の救拯的働きと関係しているのである。

 

 

 

 だから、信仰の宣言は、「また、救拯的信仰においては、聖書への信頼はキリスト信仰と結びついて、切り離すことができない。」とはっきりと宣言するのである。

 

 

 

聖書の真理を確信し、聖書の神的権威をわたしたちの心の中に聖霊によって確立していただくために、わたしたちが熱心に聖霊に祈り求め、聖書を読むのは、キリストを信じ、キリストの救いにあずかるためである。聖書と聖書が証しするキリストは、わたしたちの信仰において切り離せないのである。

 

 

 

だから、信仰の宣言は、「すなわち、この信仰によってキリスト者は、み言葉において語られる神御自身の権威のゆえに、そこに啓示されている事をすべて真実であると信じ、それぞれ個々の章句が含んでいる事柄に応じて、異なって応答する。すなわち、命令には従い、威嚇にはおののき、今と後の命についての約束はこれを信じる。」と宣言するのである。

 

 

 

聖書の神的権威を確信するから、わたしたちは、聖書において神が啓示し、キリストが啓示されたことは何事も真実であると確信し、神とキリストが命じられることには従い、威嚇されることは恐れ、約束されることは希望を持ち待ち望むのである(ウ告白14章参照)

 

 

 

信仰の宣言は、聖書の神的権威を確信する方法を実践的に教えるのである。

 

 

ウェストミンスター信仰告白14    主の2017126

 

 

 

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙第1610(新約聖書P342)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 一.聖書について」の「六」

 

 

 

 神ご自身の栄光、人間の救いと信仰と生活のために必要なすべての事柄に関する神のご計画全体は、聖書の中に明白に示されているか、正当で必然的な結論として聖書から引き出される。その上には、みたまの新しい啓示によっても、人間の伝承によっても、どのような時にも何ひとつ付加されてはならない。それにもかかわらず、わたしたちは、み言葉の中に啓示されているような事柄の救拯的理解のためには、神のみたまの内的照明が必要であること、また神礼拝と教会統治に関しては、常に守らなければならないみ言葉の通則に従い、自然の光とキリスト教的分別とによって規制されなければならない、人間行動と社会に共通のいくつかの事情があること、を認める。

 

 

 

 

 

 前回は、「日本キリスト改革派教会信仰の宣言 一.聖書について」の「五」を学んだのである。

 

 

 

信仰の宣言は、聖霊のお働きを聖書的証言に限らないで、聖霊のお働きの救拯論的広がりから理解することを述べている。

 

 

 

すなわち、救拯的信仰においては聖書への信頼とキリストへの信仰は、コインの裏表の関係である。聖霊の内的照明で聖書の無謬の真理と神的権威を、わたしたちは心で確信できるので、聖書の内容(神的啓示)であるキリストの証言を信じ、その命令に従い、威嚇を恐れるのである。

 

 

 

信仰告白の6節で、「聖書における啓示の客観的な完結性が告白されており、聖霊による新啓示(神秘主義)と人の伝説(ローマ・カトリック教会)による追加や補足のありないことが主張されている」(岡田稔『解説ウェストミンスター信仰告白』P8)

 

 

 

6節は、「聖書の十分性の教理」である(矢内昭二『ウェストミンスター信仰告白講解』P33)。「聖書は啓示の最終形態で」「聖書の出現は、啓示方法に終止符を打った」(同P34)

 

 

 

「聖書の十分性」は、ウ告白が「神ご自身の栄光、人間の救いと信仰と生活のために必要なすべての事柄に関する神のご計画全体は、聖書の中に明白に示されている」と告白している。聖書が目的としていることは完全に聖書の中に余すところなく記されている。すなわち、「救いに必要な神とそのみ旨についての知識」(1)が聖書に直接明白に記されているし、聖書から「正当で必然的な結論として引き出される」と記している。

 

 

 

だから、次の二つは間違いである。(1)聖霊による新啓示によって(神秘主義)(2)人間の伝承(ローマカトリック教会)。「神の霊感によって完全な聖書が与えられている」から、聖書以外に新しい啓示は必要ないというのが、(1)の立場に対するウ告白の主張である。(2)は、ローマカトリック教会が啓示の源泉を聖書と教会の伝承に求めていることに対してウ告白が聖書以外のものを何一つ付け加えてはならないと主張しているのである。

 

 

 

ウ告白は、さらに聖書の十分性(聖書の目的の完結性)について、次の二つの但し書きをしている。

 

 

 

(1)わたしたちは、み言葉の中に啓示されているような事柄の救拯的理解のためには、神のみたまの内的照明が必要である」。聖霊の内的照明なしに、人間の自然の光(自然的理性)で、聖書の啓示の有効な理解はできない。

 

 

 

(2)また神礼拝と教会統治に関しては、常に守らなければならないみ言葉の通則に従い、自然の光とキリスト教的分別とによって規制されなければならない、人間行動と社会に共通のいくつかの事情があること、を認める。

 

 神礼拝や教会の政治については、人間理性と信仰者の常識から判断すべき教会のいくつかの事情がある。矢内先生は、この点を次のように指摘する。「この点についての聖書の啓示が不十分なわけではなく、問題は礼拝や教会政治の聖書的原理を日本の改革派的教会の具体的な状況の中にどれだけ適切に具体化するかという実際問題にあるからです。」(同P3637)。教団、日基、改革派、長老派の実際問題。

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白15    主の20171213

 

 

 

聖書箇所:ヨハネの黙示録第221620(新約聖書P480)

 

 

 

 「日本キリスト改革派教会信仰の宣言 一.聖書について」の「六」

 

 

 

 聖書は聖霊の学校であって、そこには、神御自身の栄光、人間の救いと信仰と生活のために知らねばならず、また知って益あることは何一つ省略されていない。そこで、この聖書に追加したり除いたり変更したりすることは、人にもみ使にも許されない。

 

しかし、この聖書の充分性の教理は、聖書が与えられた目的との関係で教えられているのであるから、み言葉を学ぶに際しては、聖書記者たちが証言しているのはどういう意図によるものかを常に考慮することが、特に重要である。

 

従って、あらゆる種類の勝手気儘な事項についてせんさくしたり、聖書がいかなる事柄についても充分な情報を提供するかのように期待したりしてはならない。

 

私たちは、み言葉において常に先立たれる神に従い行くと共に、主がその聖なるみ口を閉ざされる時には直ちに、私たちも問い尋ねることをやめなければならない。

 

 

 

 前回は、「ウェストミンスター信仰告白 一.聖書について」の「六」を学んだのである。

 

 

 

信仰告白の6節は「聖書の充分性の教理」である。ウ告白は「神ご自身の栄光、人間の救いと信仰と生活のために必要なすべての事柄に関する神のご計画全体は、聖書の中に明白に示されている」と告白し、聖書の目的の完結性を告白している。従って(1)聖書以外の新啓示(神秘主義)(2)人間の伝承(ローマカトリック教会)とに反対する。

 

 

 

しかし、ウ告白は、次の二つの但し書きをしている。(1)聖書の啓示の有効な理解のために聖霊の内的照明が必要である。(2)神礼拝や教会の政治については、人間理性と信仰者の常識から判断すべき教会のいくつかの事情がある。

 

 

 

信仰の宣言の「聖書は聖霊の学校であって・・・何一つ省略されていない」という文章は、カルヴァンの『キリスト教綱要』の第3編第213節の「聖書は聖霊の学校であって、そこでは、知らねばならぬことや知って益あることは何一つ省略されず、またそれらを知るように導くこと以外は教えていない」という文章からの引用である。

 

 

 

カルヴァンにとって聖霊は聖書を通して人を教育する。だから、聖書は「聖霊の学校」なのである。聖書は人が知るべきこと、益あることは何一つ省略してないし、聖霊はそれらを知るように導くこと以外教えていないのである。

 

 

 

だから、「神御自身の栄光、人間の救いと信仰と生活」のために知らねばならないことは、すべて聖書に十分明白に記されている。

 

 

 

信仰の宣言は、従って「この聖書に追加したり除いたり変更したりすることは、人にもみ使にも許されない。」と宣言する。聖書は啓示の最終形態である(矢内)

 

 

 

また信仰の宣言は、聖書の充分性の教理と聖書が与えられた目的との関係を指摘し、「み言葉を学ぶに際しては、聖書記者たちが証言しているのはどういう意図によるものかを常に考慮することが、特に重要である。」と宣言する。

 

 

 

聖書66巻、それぞれ聖書記者が証言した意図と目的があり、それを考慮し、聖書を理解することが重要である。従って、矢内昭二先生は、「聖書の中に、聖書が本来目的としていないことを探し出そうとしても駄目です」と記されている(『ウェストミンスター信仰告白講解』P36)

 

 

 

従って信仰の宣言もまた、「あらゆる種類の勝手気儘な事項についてせんさくしたり、聖書がいかなる事柄についても充分な情報を提供するかのように期待したりしてはならない。」と、聖書を解釈する時の注意を与えているのである。

 

 

 

アウグスティヌスは、『告白』という書物の中で天地創造の前に神は何をなさっていたのかと詮索する者たちに、神は彼らのために地獄を用意されたと述べている。

 

 

 

聖書を学ぶ者は、主の御心に従い、主が聖書で知らせられていることに満足し、聖書から自分のあらゆる関心事を知ろうとしてはならないのである。