ウェストミンスター信仰告白181 主の2021年4月28日
聖書箇所:使徒言行録第15章22節-第16章4節(新約聖書P242-245)
「第三一章 地方会議と総会議について」の三節
信仰についての論争と良心の問題を決定すること、公的神礼拝と神の教会の政治とをより良く秩序付けるための規則や指針を定めること、失政の場合に告訴を受けること、それを権威をもって裁決することは、代理的に地方会議また総会議に属する。その決定や制定は、神のみ言葉に一致しているならば、それが神のみ言葉に一致しているためだけでなく、それを下した権能のためにも、尊敬と従順をもって受け入れられなければならない。その権能はみ言葉において命じられた神の規定だからである。
前回は「第三一章 地方会議と総会議について」の二節を学んだ。誰が地方会議と総会議を招集するのか。ウ告白の時代は王国制であった。王が地方会議と総会議の招集者であった。王は、宗教問題について協議し、助言を得るために、牧師たちや長老たちを招集した。しかし合衆国は王制ではない。合衆国長老教会において、地方会議と総会議の招集者は各個教会の牧師と治会長老たちである。地方会議と総会議において議長に選出された者が会議を招集するのである。
今夜の「第三一章 地方会議と総会議について」の三節は、地方会議と総会議が何を扱い、議論し、決定するのかを述べている。そして地方会議と総会議で決定されたことは、各個教会において尊敬と従順をもって受け入れられ、実行されなければならないことを述べている。
他の翻訳を参照しよう。
① 村川満・袴田康裕訳
信仰上の論争や良心の問題を聖職者として決定すること、また公的神礼拝と神の教会の政治をよりよく整えるために規則と指針を定めること、また誤った教会統治に関して訴えがあった場合それを受理して権威をもって裁定することなどは、総議会(シノッド)や大会議(カウンシル)のなすべき事柄である。そしてその判決や決定は、神の言葉に一致している場合には、敬意と服従をもって受け入れられなければならない。しかもそれはそれらが御言葉に一致しているからというだけではなく、それらの決定を下した権威が、御言葉においてそうするように任命されている神の定めらからである。
② 松谷好明訳
信仰上の論争と良心の問題を牧会的に裁定すること、公的神礼拝と神の教会の政治をよりよく整えるために、規則と方針を定めること、また誤った教会運営の場合に訴えを受理して、それを権威をもって裁定することは、シノッドとカウンシルに属する。そうした決定と裁定は、神の言葉に一致しているならば、敬意と服従をもって受け入れられなければならないが、それは、それらが御言葉に一致しているという理由からだけでなく、それらがなされた権能-これは神の言葉においてそうするように定められた、神の規定である-のゆえである。
③ 鈴木英昭訳
地域会議と全国会議は、信仰の論争と良心の問題を牧会的に決議し、公的神礼拝と神の教会の政治のよりよい秩序のための規則と指針を定め、教会の失政の訴えを受理し、それを裁決する権威がある。
これらの教会会議の決定や裁定が神の言葉に一致しているなら、それが神の言葉に一致しているためだけでなく、決定された権能のためにも、尊敬と従順をもって受け入れられなければならない。その権能は神がその御言葉において定められた規定だからである。
最初の会議は、使徒言行録第15章のエルサレム使徒会議である。アンティオキア教会で異邦人に割礼を施すことが問題となり、紀元48年頃エルサレムで使徒と長老たちが集まり、その問題が扱われ、初代教会において信仰の一致が守られた。
各個教会の問題が上位のエルサレム会議で解決するという原則がキリスト教会において制度化した重要な会議である。この会議は、使徒と長老たち、すなわち、教会役員の会議であり、会議の決定は各個教会の教会員に告示された。
この会議で異邦人は割礼の必要がないと決議されただけではなく、各個教会の教会員に偶像に供えられた汚れた肉を食べること、不品行、絞め殺した動物の肉と血を食べること等を禁じる手紙を出すことを決議した(使徒言行録15:20)。
そのためにエルサレム使徒会議に集まった使徒と長老たちは、バルサバと呼ばれるユダとシラスを会議で選び、各個教会に派遣し、彼らに手紙を託した(同15:22-23a)。
こうしてエルサレム使徒会議が決議したことは、各個教会の教会員に知らされ、各個教会の教会員たちは、会議の励ましに満ちた決定を聞き、喜び、服従した(同15:31)。
このように各個教会の教会員は、直接会議に出席しないが、会議の決定に関心を持って聞き、同意し、賛同する権利があり、会議の決定に服従する義務がある。
会議はキリストが招集されたのであり、神の御意志である。だから、会議は公的礼拝と同様に礼拝で始められる。小会は賛美と聖書朗読と祈りで始められ、祈りで閉じられる。中会と大会は礼拝で始められ、閉会礼拝で閉じられる。
小会は天国の鍵の権能を行使する。求道者に信仰と生活について試問し、受け入れた者に洗礼を施し、教会員とする。また教会戒規を行使し、過ちを犯した教会員を訓戒し、一時的に陪餐停止し、さらに除名する。中会は、教職者を養成する。教師候補者を管理し、教師たちの御言葉の奉仕に益する共同の学び(教師会)を奨励する。また、各個教会の失政の訴えを審議する。神学校と教師試験は本来中会の管轄である。しかし、日本改革派教会は、大会が管轄している。大会は信条(信仰の宣言)の作成、教会規程(政治規準・訓練規定・礼拝指針)の作成、詩編歌の作成、他の改革・長老派教会との交渉等を審議する。
中会と大会には、委員会組織があり、伝道・教育・社会問題・執事活動等に取り組み、毎年中会と大会で活動報告がされ、会議で受け入れられている。
教会会議は、ウ告白が「その権能はみ言葉において命じられた神の規定だからである。」と述べているように、会議が聖書の御言葉に一致するだけではなく、聖書において神が命じられていることを、会議を通して教会は行使しているのである。
ウェストミンスター信仰告白182 主の2021年5月5日
聖書箇所:ヨハネによる福音書第18章28-38節(新約聖書P205-206)
「第三一章 地方会議と総会議について」の四-五節
使徒時代後のすべての地方会議または総会議は、世界的会議であっても地方会議であっても、誤りを犯しうるし、また多くの会議が誤りを犯した。それゆえ、会議は信仰と実践の規準とされてはならず、両者における助けとして用いられるべきである(四節)。
地方会議や総会議は、教会的な事柄以外の何事も取り扱ったり決定してはならない。また非常の場合における謙虚な請願として、あるいは国家的為政者から求められた場合には良心の満足のための助言として以外は、国家に関係している世俗的事件に干渉してはならない(五節)。
前回は「第三一章 地方会議と総会議について」の三節を学んだ。地方会議と総会議が何を扱い、議論し決定するのか、決定したことを各個教会は敬意を持ち、従い実行しなければならないことを学んだ。
今夜の「第三一章 地方会議と総会議について」の四‐五節は、四節では地方会議と総会議の決定が誤りを犯しうるし、聖書のように信仰と実践の規準とはならないこと、両者の助けとして用いられるべきものであることを学ぼう。
他の翻訳を参照しよう。
① 村川満・袴田康裕訳
使徒時代以来のすべての総会議(シノッド)あるいは大会議(カウンシル)は、全体的なものであれ、特定のものであれ、誤りを犯し得るし、じっさい多くの会議が誤りを犯してきた。それゆえそれらは信仰や実践の規範とされてはならない。むしろその両者における助けとして用いられるべきである(四節)。
総会議(シノッド)と大会議(カウンシル)は、教会に関わる事柄以外の何事も扱ったり決定したりすべきではない。そして国家に関わるこの世の問題に干渉すべきではない。もっとも、特別な場合に謙虚な請願という仕方でならば、あるいは為政者からそうするように要求された場合、良心を満足させるため、助言という仕方でならば、その限りではない(五節)。
② 松谷好明訳
使徒時代以後すべてのシノッドやカウンシルは、全体的なものであれ個別的なものであれ、誤りうるし、実際、多くのものが誤りを犯してきた。従って、シノッドやカウンシルは、信仰や実践の規範とされてはならず、むしろ、その両者[信仰と実践]における助けとして用いられるべきである(四節)。
シノッドとカウンシルは、教会的な事柄以外の何事も取り扱ったり、決議してはならず、また、特別な場合に謙虚な請願を行ったり、この世の為政者から求められて、良心を満足させるために助言する場合を除いて、国家にかかわるこの世の問題に干渉してはならない(五節)。
③ 鈴木英昭訳
すべての地域会議と全国会議は、使徒の時代以後、全体的な会議であれ、限定された会議であれ、誤りを犯すことがあり、事実、多くの会議が誤りを犯してきている。それゆえに、諸会議は信仰や実践の規準にされてはならず、信仰と実践にたいするひとつの助けとして用いられるべきである(四節)。
地域会議と全国会議は、教会的な事柄以外の何事も扱ったり、結論を出したりすることはできない。非常時の場合の謙虚な請願として、あるいは為政者から求められた場合には、良心の満足のため助言すること以外は、国家に関する世俗的な事柄に干渉すべきではない(五節)。
ウ告白は四節において教会会議は、聖書と同じように信仰と実践の規範とならないと述べている。その理由は、使徒会議以後のすべての会議が誤りを犯すことがあったし、事実キリスト教会の歴史において誤りを犯してきたからである。
だから、ウ告白は四節において次のように教会会議の在り方を述べている。第一に教会会議は聖書のように信仰と実践の規範とはならない。第二に信仰と実践のための一つの助けとして用いる。
ウ告白は4節の引用聖句としてエフェソの信徒への手紙2章20節、使徒言行録17章11節、コリントの信徒への手紙一2章5節、コリントの信徒への手紙二1章24節を挙げている。
教会会議は教会と同じく頭であるキリストの体である。教会の土台が預言者や使徒、すなわち聖書であるように教会会議の土台も聖書である(エフェソ2:20)。だから、教会会議は聖書を規範とする信仰と実践の場である。しかも、教会会議は人間の知恵による会議ではなく、霊的な会議である。ウ告白は、使徒言行録17章11節のベレア教会の信徒たちの信徒たちに会議の議員たちの模範的な姿勢を見出した。「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人たちよりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。」だから、教会会議は人間の知恵によってではなく、神の力によって信じるのである(Ⅰコリント2:5)。信仰にしっかり立って教会会議の議員たちは審議し、事柄を決議すべきである(Ⅱコリント1:24)。
教会会議は信仰と実践であるので、聖書という唯一の規範が必要であり、その聖書に従った信仰と実践であるので、信者にはルールブックとしての助けとなるだろう。教会の歴史において教会会議が誤りを犯し、今も犯し続けていても、ベレア教会の信者たちのように、神の御言葉である聖書を受け入れ、毎日聖書を調べ、教会会議の誤りを知り、悔い改めることで、教会は常に神の御心に一致して歩めるだろう。
ウ告白は五節において教会会義の限界について述べている。ウ告白の教会会議の模範は、聖書の記す使徒会議である。また教会の歴史における古来の教会会議である。ウ告白は、王制の中で生まれた信仰告白という限界がある。
使徒会議は教会の事柄だけを取り扱っている(使徒言行録15章)。異邦人の割礼の問題である。古来の教会会議も、ローマ皇帝が招集者であったが、教会の事柄だけを扱っている(ニケア、カルケドン会議等)。
例外は、誓願と為政者への助言である。ウ告白は国家と世俗の事柄への干渉を禁じている。
ウェストミンスター信仰告白183 主の2021年5月12日
聖書箇所:創世記第3章17-19節(旧約聖書P4-5)
「第三二章 人間の死後の状態について、また死人の復活について」の一節
人間のからだは、死後、ちりに帰り、朽ち果てる。しかし彼の霊魂は(死にもせず、眠りもせず)不死の本質をもっているので、直ちにそれを与えられた神に帰る。義人の霊魂は、その時に完全にきよくされ、最高の天に受け入れられ、そこで、彼らのからだの全きあがないを待ちながら、光と栄光のうちに神のみ顔を見る。また悪人の霊魂は、地獄に投げこまれ、大いなる日のさばきまで閉じ込められ、そこで苦悩と徹底的暗黒のうちにあり続ける。聖書は、からだを離れた霊魂に対して、これら二つの場所以外には何も認めていない(一節)。
いよいよウ告白も最後を迎える。「第三二章 人間の死後の状態について、また死人の復活について」と「第三三章 最後の審判について」を順次学ぼう。ウ告白の最後は終末論である。第三二章は個人の死後の状態と死人の復活について、第三三章は最後の審判について、ウ告白は述べている。
終末論は、「終わりの事柄に関する教理(教え)」と呼ばれている。個人的終末論と一般的(世界)終末論がある。前者は人間の死後の状態について述べている。すなわち、死後の霊魂の不死とからだとの分離、義人と悪人の霊は異なる場所に住むこと(中間状態)、死人の復活と最後の審判について教えている。一般的(世界)終末論はこの世の終わりについての事柄を教えている。世の終わりのしるし、キリストの再臨、死者の復活、最後の審判と新天新地、すなわち、神の国の完成について教えている。
他の翻訳を参照しよう。
① 村川満・袴田康裕訳
人間の体は、死後塵に帰り、朽ち果てる。しかし彼らの霊魂は、死にもせず、眠りもせず、不死の存在性を持っていて、それを与えられた神に直ちに帰る。義人たちの霊魂はその時完全に聖くされて、最高の天に受け入れられ、そこで光と栄光の内に神の御顔を仰ぎ見て、自らの体の完全な贖いを待つ。そして悪人たちの霊魂は地獄へ投げ込まれ、そこで苦しみと全くの暗黒の中にとどまり、大いなる日の審判を受けるために残しておかれる。聖書は、体から離れた霊魂に対して、この二つの場所以外に何も認めていない(一節)。
② 松谷好明訳
人間の体は、死後、塵に帰り、朽ち果てる。しかし、不死の実在を持つ彼らの魂(それは死ぬことも眠ることもない)は、それを与えられた神に直ちに帰る。義人の魂は、そのとき完全に清くされ、最高の天に受け入れられ、そこで彼らの体の完全な贖いを待ちながら、光と栄光の内に神の御顔を見る。また、悪人の魂は、地獄に投げ込まれ、そこで大いなる日の裁きを受ける身となって、苦しみと完全な暗黒の中にとどまる。聖書はこの二つの場所以外に、体からし引き離された魂に対して、いかなる場所も認めていない(一節)。
③ 鈴木英昭訳
人間の体は、死後ちりに帰り朽ちる。しかし、その魂は死ぬことも眠ることもなく、不死の存在性をもっていて、これを授けられた神に直ちに帰る。義人の魂は、その時、全く清くされ、最高の天に受け入れられ、そこでその体の全き贖いを待ち望みながら、光と栄光のなかで神の御顔を見る。悪人の魂は、地獄に投げ込まれ、大いなる日の裁きのためにとどめ置かれ、そこで苦悩と暗黒のなかにとどまる。
これら二つの場所以外に、肉体を離れた魂の場所を聖書はどこにも認めていない(一節)。
ウ告白は、聖書の御言葉に従って人間の終わりに関する事柄を述べている。創世記3章は人間の罪と堕落を物語る。神への背反によってアダム(人間)は死ぬべき悲惨な存在となった。人間は永遠に生きる者ではなく、「死後、ちりに帰り、朽ち果てる」。主なる神は、アダムに宣告された、「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3:19)。
創世記2章は、「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と述べている(創世記2:7)。ウ告白は、この「命の息」を「彼の霊魂」と呼び、「しかし彼の霊魂は(死にもせず、眠りもせず)不死の本質をもっているので、直ちにそれを与えられた神に帰る。」と述べている。
「息」は、全能者である神によって与えられた命であり、聖なる霊である。それゆえにウ告白は、人間の霊魂は不死の性質を持っていると述べている。人間が塵で造られたとは、空しいもの、微弱なもので造られたという意味である。その人間が神の息を吹き入れられて、生きた者となったのである。そして、死後、人間の体は塵に返り、神の息である彼の霊魂は神のもとに返るのである(コヘレト12:7)。
霊、霊魂は不死の性質を持ち、死にもせず、眠りもしない。
ウ告白は、義人の霊魂は「最高の天に受け入れられ」、悪人の霊魂は「地獄に投げ込まれる」と述べている。そして、ウ告白は、「聖書は、からだを離れた霊魂に対して、これら二つの場所以外には何も認めていない」と述べている。
「義人の霊魂」は、真の神の選民の霊魂である。人は信仰によって義とされ、最後まで信仰によって生きる。それが義人である。彼の霊魂は、死後完全に清められる。そして「最高の天」、すなわち、復活の主イエスが住まう「もろもろの天」に入れられる(エフェソ4:10)。そこで全き贖いを待ち望みつつ、光と栄光の内に義人の霊魂は神の御顔を仰ぎ見るのである。
他方、「悪人の霊魂」は、神に遺棄された者たちの霊魂である。悪人は不義な者である。不信仰な者である。彼らの霊魂は地獄に投げ込まれる。地獄は、終末における刑罰の象徴でもある。だから、ウ告白は、「悪人たちの霊魂は地獄へ投げ込まれ、そこで苦しみと全くの暗黒の中にとどまり、大いなる日の審判を受けるために残しておかれる」と述べている。そこは苦しみの場所である(ルカ16:24-25)。主イエスを裏切ったユダは自殺し、「自分の行くべき所に行くために離れてしまった」(使徒1:25)。使徒言行録は遠回しの表現でユダが地獄に行ったと述べている。
ウェストミンスター信仰告白184 主の2021年5月19日
聖書箇所:コリントの信徒への手紙一第15章42-49節(新約聖書P322)
「第三二章 人間の死後の状態について、また死人の復活について」の二-三節
人終わりの日に生存している者は死を味わわないで変えられる。死人はみな異なった性質ををもってではあるが別のものではない全く同じからだをもってよみがえらされ、彼らの霊魂に再び永久的に結合される(二節)。
正しくない者のからだは、キリストの力によって恥辱によみがえらされる。正しい者のかrsだは、キリストのみたまによって栄誉によみがえらされ、キリストご自身のからだに似るものとされる(三節)。
ウ告白の「第三二章 人間の死後の状態について、また死人の復活について」の二-三節を学ぼう。死人の復活についての教理である。
先週は、一節の「人間の死後の状態」について学んだ。人間は、死後からだと霊魂が分離する。からだは塵から造られ、塵に帰る。霊魂は神に帰る。死と復活の間を中間状態と呼び、死後の霊魂の不死であり、義人と悪人の霊は異なる場所に住む。そして、復活の時を待つのである。
他の翻訳を参照しよう。
① 村川満・袴田康裕訳
終わりの日に、生きている者たちは、死ぬことなく変えられるであろう。そして死者たちはすべて、質は異なっているが、以前と全く同じ、他ならない自分の体をもってよみがえらされ、その体は再び彼らの霊魂に永久に結び合わされるであろう(二節)。
正しくない者たちの体は、キリストの力によって、恥辱へとよみがえらされるであろう。正しい者たちの体は、キリストの霊によって、栄誉へとよみがえらされ、そしてキリスト御自身の栄光ある体と同じかたちにされるであろう(三節)。
② 松谷好明訳
終わりの日に、生きている者たちは、死なずに、変えられ、死者たちはみな、ほかならぬ、生前と全く同じ体―異なる性質を帯びてはいるがーをもってよみがえらされ、その体は再び彼らの魂に永久に結ばれる(二節)。
正しくない者たちの体は、キリストの力により、恥辱へとよみがえらされ、正しい者たちの体は、キリストの霊により、栄誉へとよみがえらされ、キリスト御自身の輝かしい体に似たものとされる(三節)。
③ 鈴木英昭訳
終わりの日には、生存している者は死ぬことなく変えられる。すべての死者は、(異なる性質をもちながら)別物ではない、生前と同一の肉体をもってよみがえらされ、その魂と永久に結合される(二節)。
正しくない者の体は、キリストの力によって、恥の状態によみがえらされる。義人の体はキリストの御霊によって、栄誉の状態によみがえらされ、キリスト御自身がもつ栄光の体に似たものとされる(三節)。
ウ告白が言う「終わりの日」は、キリストが再臨され、キリストが死んだキリスト者たちを甦らされ、生きているキリスト者をそのままでキリストの栄光の体に変えられる日である。使徒パウロは、終わりの日に「主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」(Ⅰテサロニケ4:16-17)と述べている。
「空中」は、第一の天と地上との間である。再臨のキリストは最初に死んだキリスト者を甦らせ、次に生きているキリスト者を御自身と会うために引き上げられる。終わりの日はキリスト者にとってキリストによって死人から復活させられ、また、生きたまま天に引き上げられ、いつまでもキリスト共に生きる真に慰めの日である。
また使徒パウロは、その日にキリスト者の体が復活によって変えられることを述べている。「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」(Ⅰコリント15:51-52)。
パウロによれば、この世と御国は断絶している。だから、今のわたしたちの体で御国に入ることはできないのである。今の状態とは異なる状態になる必要がある。それが終わりの日である。最後のラッパが鳴ると共に、わたしたちは一瞬の内に変えられる。本来の自分を失うことなく、新しい体に、朽ちない体に変えられるのである。
ウ告白は、復活が肉体だけではなく、きよめられた霊魂との永久に再結合されることであると告白する。ヨブ記19章25-27節で、ヨブがこう告白する。「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも この身をもって わたしは神を仰ぎ見るであろう。 このわたしが仰ぎ見る ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。」
「贖う方」は神である。ヨブが死んでも、彼の潔白を弁護する「贖う方」、神は生きておられると告白する。キリスト教はヨブの告白に復活を読み取った。霊魂と体とが結合した復活を。だから、ヨブは復活の体でもって、その肉眼で神を仰ぎ見ると告白していると解釈する。
ウ告白は、「正しい者」(キリスト者)と「正しくない者」(不信仰者)の復活を述べている。キリスト者は、パウロが述べているように、キリストの栄光の体に復活されられる。不信仰者は永遠に神に裁かれる恥辱の体に復活させられる。このように「終わりの日」復活においてキリスト者と不信仰者は永遠に区別されるのである。
復活は、単なる体の蘇生ではない。今日の臨死体験とも異なる。通常は死を経なければならないのである。死んで全く異なった体に甦らされるのである。そして、きよめられた霊魂がその体と再結合することで、わたしたちは生前のわたしたちと変わらないのである。
復活の体が今の体と異なるのは、朽ちない体である。罪と死が支配しない体である。復活のキリストの御体と同じである。約束の御国を相続できる体である(フィリピ3:20-21)。
ウェストミンスター信仰告白185 主の2021年5月26日
聖書箇所:使徒言行録第17章22-31節(新約聖書P248-249)
「第三三章 最後の審判について」の一節
神は、イエス・キリストにより、義をもってこの世界をさばく日を定められた。すべての権能とさばきとは、み父から彼に与えられている。その日には、背教したみ使いたちがさばかれるだけでなく、かつて地上に生きたことのあるすべての人も、彼らの思いと言葉と行いとのために申し開きをし、また善であれ悪であれ彼らがからだで行なったことに応じて報いを受けるために、キリストの法廷に立つ(一節)。
ウ告白の最終章「第三三章 最後の審判について」の一節を学ぼう。最後の審判についての教理である。
前章は、「人間の死後の状態について、また死人の復活について」を学んだ。人間は、死後からだと霊魂が分離し、霊魂は眠ることはありません。からだは塵から造られ、塵に帰り、霊魂は神に帰る。そして、義人と悪人の霊魂は異なる場所に住み、義人の霊魂は清められ、体は労苦から解放され、墓に休み、復活の時を待つのである。死人の復活は、死も汚れもない復活のキリストの体と同じ栄光の異なる体に変えられる。そしてきよめられた霊魂が合わされる。しかし、同じわたしの霊魂と体である。義人と悪人の復活は異なる。前者は恥辱に甦らされ、後者は栄光の体に甦らされる。
死人の復活は、最後の審判のためである。今夜は、神がその日を定められたこと、キリストに裁きの権能が与えられていること、死人の中から復活したすべての者がキリストの法廷に立たなければならないことを学ぼう。
他の翻訳を参照しよう。
① 村川満・袴田康裕訳
神はイエス・キリストにより、義をもって世界を裁く日を定められた。キリストには、すべての権能と裁きが御父から与えられている。その日には、背信の天使たちが裁かれるだけでなく、地上に生きていたすべての人が同じようにキリストの裁きの座の前に出て、それぞれの思いと言葉と行いについて弁明し、善であれ悪であれ、それぞれが自分の身でなしたことに応じて、然るべき報いを受けることになる(一節)。
② 松谷好明訳
神は、イエス・キリスト―この方にすべての権能と裁きが御父からゆだねられている―により、義をもって世界を裁く日を定めておられる。その日には、背反した天使たちが裁かれるだけでなく、同じように、地上に生きたことのあるすべての人が、彼らの思いとことばと行いについて申し述べ、善であれ悪であれ、彼らが体をもってなしたことに応じて報いを受けるために、キリストの法廷に立つことになる(一節)。
③ 鈴木英昭訳
神は、イエス・キリストにより義をもって世界を裁く日を定められた。すべての権能と裁きは父から彼に与えられている。
その日には、背教の御使いたちが裁かれるだけではない。地上に生存したすべての人間が、その思い、言葉、行いについて弁明するために、また、善であれ悪であれ、肉体をもって行ったことに基づいて、それぞれの報いを受けるために、キリストの裁きの座の前に立つ(一節)。
ウ告白は、三十二章と三十三章の終末論で閉じられている。それは聖書がヨハネの黙示録の終末論で閉じられているのと同じである。ウ告白は聖書に導かれ、聖書に従う信仰告白であり、教理である。
聖書は、神が正しい裁きを行うお方であることを教えている。神は、アダムと業の契約を結ばれた。その時、神は彼に宣告された。「善悪を知る木から決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:17)。アダムは神との契約を破り、神の刑罰である死がこの世界に入った。そして、神は、罪によって死の刑罰を受けた人間を、主イエス・キリストにあって救うために、アブラハムと恵みの契約を結ばれた。この契約によって主なる神はアブラハムと彼の子孫の神となり、アブラハムと彼の子孫は主なる神の民とされた。神は、アブラハムにこの契約を守るように信仰による服従を求められた(創世記17章)。
こうして旧約時代の神の民も、新約時代のキリスト教会も恵みの契約の中にあり、この契約を守るように信仰による服従を求められている。しかし、聖書は、神の民の不服従の歴史であり、キリスト教会の歴史も同じである。聖書の契約の神は正しい裁きをなさるお方である。神の民イスラエルの歴史の中だけではなく、全世界の歴史において主なる神は、正しい裁きを行うお方として、この世界を統治されてきた。だから、神の民イスラエルは、試練と受難の中で主なる神の正しい裁きを待望した。主なる神が遣わされた預言者たちは、神の民イスラエルの罪と世の罪を糾弾し、神の正しい裁きが来ることを告げた。それが「終わりの日」である。主なる神が「義もってこの世界を裁かれる日」である。
恵みの契約の主なる神は、御自身が神の民の神となり、神の民が御自身の民となるために、主イエス・キリストにあってすべての神の民の罪を裁かれた。それが主イエス・キリストの十字架の贖いである。十字架で死なれたキリストは、三日目に復活し、今やウ告白が述べる「すべての権能とさばきとは、み父から彼に与えられている」のである(マタイ28:18)。
使徒パウロはⅠコリント15章23節以下で復活の順序を述べ、最初にキリスト、そしてキリストがすべての者を支配し、背信したサタンたちを裁いて滅ぼされ、すべての敵を御自身の足下に置かれると述べている。
父なる神は御子主イエス・キリストにすべての権能と裁きを委ねられ、主イエス・キリストはこの世に来られた時から神の裁きを行われ、御自身を信じる者たちの罪を赦し、御自身を拒み、信じない者たちを裁かれている(ヨハネ3:16-18)。
だから、ウ告白が述べるように、キリストが再臨し、すべての者が甦らされ、父なる神が定められた最後の審判の日に「かつて地上に生きたことのあるすべての人も、彼らの思いと言葉と行いとのために申し開きをし、また善であれ悪であれ彼らがからだで行なったことに応じて報いを受ける」キリストの法廷に立たされるのである。
最後の審判の日は、神の正義が確実に勝利を得る日である。恵みの契約の神、三位一体の父、子、聖霊なる神が御計画し、実行され、保たれた御意志が完全に行われたことを意味するのである。最後の審判の日に神の正義が明らかにされ、神の民はキリストにあって罪を完全に赦されるのである。
ウェストミンスター信仰告白186 主の2021年6月2日
聖書箇所:マタイによる福音書第25章31-46節(新約聖書P50-51)
「第三三章 最後の審判について」の二節
神がこの日を定められた目的は、選民の永遠の救いにおいて神のあわれみの栄光が表わされ、邪悪で不従順な捨てられた者の永遠の刑罰において神の正義の栄光が表わされるためである。というのは、その時に、義人は永遠の命にはいり、主のみ前からくる満ち足りた喜びと慰めとを受けるが、神を知らずイエス・キリストの福音に服さない悪人は、永遠の苦悩に投げこまれ、主のみ前とみ力の栄光とからの永遠の破滅をもって罰せられるからである(二節)。
ウ告白の最終章「第三三章 最後の審判について」の二節を学ぼう。神が最後の審判の日を定められた目的を教えている。
先週は、「第三三章 最後の審判について」の一節を学んだ。最後の審判についての定義である。最後の審判は、父なる神が定められた日である(使徒言行録17:31)。最後の審判において裁かれるのは父なる神ではない。父なる神は再臨の主イエス・キリストに裁きを委ねられている(ヨハネ5:22)。父なる神は、キリストに裁きを行うすべての権能を与えられた(ヨハネ5:27)。最後の審判の日にキリストに裁かれるのは背反の天使たちだけではない(ユダ6節、Ⅱペテロ2:4)。地上に生きたすべての人類がキリストの裁きの座に就かせられる。すべての思いと言葉と行いについて善であれ悪であれ裁かれ、銘々がその報いを受けさせられる(Ⅱコリント5:10、コヘレト12:14)。キリストはわたしたちの隠れた事柄を裁かれる(ローマ2:16)。キリストの御前でわたしたちは自らを弁明しなければならない(ローマ14:12)。最後の審判の日は、父なる神がキリストに委ねられた裁きによって御自身の正義の勝利を得られる日である。そして最後の審判の日に神の御意志が完全に行われるのである(ヨハネ5:28-30)。
今夜は二節の最後の審判の目的について学ぼう。
他の翻訳を参照しよう。
① 村川満・袴田康裕訳
神がこの日を定められた目的は、選ばれた者たちの永遠の救いにおいて、御自身の憐れみの栄光を顕すこと、そして邪悪で不従順な捨てられた者たちの断罪において、御自身の正義の栄光を顕すことである。というのは、その時義人は永遠の命に入り、主の御前から来る満ち満ちた喜びと慰めを受ける。しかし神を知らず、イエス・キリストの福音に従わない邪悪な者たちは永遠の苦しみに投げ込まれ、主の御前から退けられ、御力の栄光から切り離されて、永遠の破滅をもって罰せられるからである(二節)。
② 松谷好明訳
神がこの日を定められた目的は、選びの民の永遠の救いによって、自らの憐れみの栄光を表し、また、邪悪で不従順な遺棄の民の裁きによって、自らの義の栄光を表すためである。なぜなら、そのとき義人は、永遠の命に入り、主の御前から来る満ちあふれる喜びと力づけを受けるが、悪人は、神を知らず、イエス・キリストの福音に従わないので、永遠の苦しみに投げ込まれ、主の御前と、主の力の栄光から永遠に絶たれることによって罰せられるからである(二節)。
③ 鈴木英昭訳
この日を定められた神の目的は、選ばれた者が永遠の救いにおいて受ける神の憐みの栄光を、また邪悪で不従順のために棄てられた者を断罪する神の正義の栄光を、あらわすことである。
その日には、義人は永遠の命に入り、主の臨在からくる満ちあふれる喜びと活力を受ける。しかし、神を知らず、またイエス・キリストの福音に従わない邪悪な者は、永遠の苦悩に投げ込まれ、主の臨在とその力を受けられない永遠の破滅の刑罰を受ける(二節)。
神の最後の審判の日の「日」は単数である。しかし、文字通りに一日を意味するのではない。主イエス・キリストの再臨、死人の復活、最後の審判、そして新天新地の完成と、父なる神が終わりの日に定められた終末的な出来事と相互に関係した「終わりの最後の裁き日」である。
父なる神が再臨のキリストにおいてこの世に直接に介入され、この世の終わりを告げられ、キリストによって人間の永遠の最終的状態を決定される行為を、ウ告白は「最後の審判」と言っているのである。
主イエスは12弟子たちに「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」と言われた(マルコ13:32)。最後の審判の日が何時であるか、父なる神以外だれも知らない。
しかし、最後の審判の日の目的は明確である。ウ告白は、次のように述べている。「神がこの日を定められた目的は、選民の永遠の救いにおいて神のあわれみの栄光が表わされ、邪悪で不従順な捨てられた者の永遠の刑罰において神の正義の栄光が表わされるためである。」
マタイによる福音書は、主イエスがたとえで最後の審判を話されたことを記録している(マタイ25:31-46)。主イエスは、栄光の座に就かれて、すべての諸国民を裁かれ、羊と山羊に分けられる(31-33節)。王である主イエスは、神を父と呼ばれ、羊(祝福された者)と山羊(呪われた者)に選別した人々に、その理由を述べて、後者には義人として永遠の命を与え、前者には呪われた者として永遠の刑罰を与えられている(34-46節)。
主イエスの裁きの基準はキリストの福音である。服従する義人はキリストの憐れみを隣人に、最も小さい者(キリスト者)に表わす。服従しない呪われた者は隣人と最も小さな者に対して無関心である。キリスト教会が宣教したキリストの福音に対してすべての諸国民はその姿勢を問われるのである。
ウ告白は、契約という観点から最後の審判の目的を、聖書から考察する。父なる神は、最後の審判においてキリストにあって選ばれた神の選民に神の憐みの栄光を表される。他方神が遺棄された者たちを永遠の刑罰によって御自身の正義の裁きの栄光を表される。
ウ告白の「義人」はアブラハムを代表とするキリストにおいて神の民に選ばれた者である。彼らは永遠の命に入る。地上の苦しみから解放され、永遠に神の祝福と慰めの中に置かれる。
他方、教会が宣教するキリストの福音を受け入れず、父なる神と子なる主イエス・キリストと聖霊の三位一体の神を崇めず、主イエスが命じる兄弟を愛さない者たちは永遠の苦悩の中に投げ込まれる。