ウェストミンスター信仰告白131    主の202055

 

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙第5215(新約聖書P349)

 

 「第二十章 キリスト者の自由および良心の自由について」の四節

 

神が制定された権力とキリストが買い取られた自由とは、破壊するためでなく、互いに他を保持し維持することが、神によって意図されているのであるから、キリスト者の自由を口実にして、国家的または教会的権能のいずれであれ、合法的な権能またはその合法的な行使に反対する者は、神の制定に反抗している。また自然の光や、信仰・礼拝・または行状に関するキリスト教の周知の原則や、あるいは敬けんな権能に反するような意見を公表し、あるいはそのような行為を支持すること、あるいはその性質上または公表や支持の方法上、キリストが教会の中に打ち建てられた外的平和と秩序にとって破壊的な誤った意見や実践をするならば、そのような者が教会の譴責と国家的為政者の権能とによって、責任を問われ告訴されるのは、合法的である。

 

〔一七八七年合衆国長老教会総会改訂「そのような者が教会によって譴責され、責任を問われ、告訴されるのは、合法暦である」日本基督改革派教会第四回大会採択〕

 

 

 

今夜は、「第二十章.キリスト者の自由および良心の自由について」の四節を学ぼう。

 

 

 

前回は、「第二十章 キリスト者の自由および良心の自由について」の三節を学び、キリスト者の自由の濫用についての戒めを学んだ。キリスト者は自由を与えられているので、何事も神の御言葉に反することに不服従を貫き、神が命じても、禁じてもいないことには、理性的判断によって正当に導き出されたことを行うことを学んだ。

 

 

 

今夜は、神が制定された国家権力(剣の権能)と教会の権能(天国の鍵の権能)とキリスト者の自由との関係を学ぼう。

 

 

 

いつものように他の訳を参照しよう。

 

   村川満・袴田康裕訳

 

 また、神がお定めになった権能と、キリストが獲得してくださった自由とは、互いに破壊し合うためではなく、互いに支え合い守り合うためにあるというのが神の御意図であるから、キリスト者の自由を口実として、国家的なものであれ、教会的なものであれ、どのような合法的権能、あるいはそれの合法的な行使にでも反対する者たちは、神の定めに反抗するものである。そして、彼らが、自然本性の光や、キリスト教の周知の原則(信仰、礼拝、行状のいずれに関するものであれ)や敬虔な信仰の力に反するような見解を公表したり、そのような行動を維持することに対して、あるいはまた、キリストが教会の中に確立された外的な平和と秩序を、本質的にであれ、その公表もしくは維持の仕方においてであれ、破壊するような、誤った見解を公表し、またそのような行動を維持することに対して、教会の譴責と国家的為政者の権能によって、責任を問われ、訴追されるのは合法的である。

 

 〔一七八八年合衆国長老教会総会改訂・日本キリスト改革派教会第四回大会採択〕 (文末)・・・またそのような行動を維持することに対して、教会の譴責によって、責任を問われ、訴追されるのは合法的である。

 

   松谷好明訳

 

 また、神がお定めになった権能と、キリストが買い取られた自由とは、互いを破壊するようにではなく、相互に支え、維持し合うように、神によって意図されている。従って、キリスト者の自由を口実にして、国家的なものであれ、教会的なものであれ、合法的な権能、あるいは、その合法的行使、に反対する者たちは、神の定めに反抗するのである。また、本性の光や、信仰・礼拝・あるいは行動に関するキリスト教の周知の原則、もしくは信心の力、に反する意見を公表したり、そのような行為を続けることに対して、また、キリストが社会の中に樹立された外的平和と秩序にとって、本質的に、もしくは、その公表や継続の仕方において、破壊的である、誤った意見や行為に対して、人々が、教会の譴責により、また、国家的為政者の権能によって、責任を問われ、訴追されるのは、合法的である。

 

   鈴木英昭訳

 

神が制定された権力と、キリストが買い取られた自由とは、互いに破壊し合うためではなく、互いに他を支え保つように神が意図されている。そのため、国家または教会のいずれもが、合法的権能とその合法的行使に対して、キリスト者の自由を口実にして反対することは、神の制定に反抗することになる。

 

また、自然の光、(信仰、礼拝、あるいは行状のいずれであれ)キリスト教の周知の原則、あるいは神を畏れる権能、に反する意見を公表したり、そのような行為を支持すること、あるいはそのようなことの性質の中で、またはそれらを公表したり支持したりする方法の点で、キリストが教会に樹立された外的平和と秩序にとって破壊的な意見をもったり、実践したりすれば、彼らは教会の譴責※によって、責任を問われ、告訴されるのは合法的である。(日本基督改革派教会第四回大会は、※に続く「と国家為政者の権能」を削除することを決議した。)

 

 

 

 国家(剣の権能)と教会(天国の鍵の権能)は、神が制定された秩序である。ウ告白は、神の目的に従って二つの権能が合法的に行使される時、キリスト者は神の僕であるから、自由を口実にして反対することは、神への反抗となると、教えている。

 

 

 

 ウ告白は、さらに具体的に次のように神への反抗を述べている。第一はキリスト者の信仰に関することである。自然の光(人間理性)、信仰・礼拝・行動に関するキリスト教の周知の原則、「敬けんな権能(村川・袴田訳「敬虔な信仰の力」松谷訳「信心の力」鈴木訳「神を畏れる権能)に対する反対意見を公表し、あるいはその実践を継続することである。

 

 

 

第二は教会と社会の平和と秩序を守ることに関することである。キリストが教会(松谷訳は「社会」)の中に樹立された外的平和と秩序にとって破壊的意見を公表し、実践し続けることである。

 

 

 

 キリスト者の自由は、キリストが争い破壊し合うために与えられた賜物ではない(マタイ12:25)。むしろ神の御意志に従い、支え合い、互いに維持し、守り合うために与えられた。

 

 

 

3節で学んだようにキリスト者の自由は、人間理性の判断によって正しく導かれたことを行うのである。だから、それに反対することは許されない。また、信仰・礼拝・行動に関するキリスト教の周知の原則はキリスト者の生活の根幹であり、反対することは許されない。神を畏れる信仰の力なくして、キリスト者は世の光、地の塩として、信仰に生きることはできない。

 

 

 

使徒ペトロは、「主のために、すべて人間が立てた制度に従いなさい」(Ⅰペトロ2:13)と命じている。外的平和と社会的秩序のために法があり、キリスト者は法を守らなければならない。 

 

ウェストミンスター信仰告白132    主の2020512

 

聖書箇所:申命記第41540(旧約聖書P286288)

 

 「第二十一章 宗教的礼拝および安息日について」の一節

 

万物に対して統治権と主権を持ち、善にして万物に善を行なわれる、それゆえに心をつくし思いをつくし力をつくして恐れ、愛し、ほめたたえ、呼ばわり、信頼し、仕えるのが当然である神が存在されることを、自然の光は示している。しかし、このまことの神を礼拝する正しい方法は、神ご自身によって制定され、またご自身が啓示したみ心によって制限されているので、人間の想像や工夫、またはサタンの示唆にしたがって、何か可視的な表現によって、または聖書に規定されていない何か他の方法で、神を礼拝すべきではない。

 

 

 

今夜は、「第二十一章.宗教的礼拝および安息日について」の一節を学ぼう。

 

 

 

前回は、「第二十章 キリスト者の自由および良心の自由について」の四節を学んだ。キリスト者の自由と主なる神が制定された教会と国家の権能は、共に対立し、互いを破壊し合うものではない。むしろ互いを保持し、支え合うものである。だから、キリスト者が自由のゆえに国家と教会の合法的権能に対して反対することは、神への不服従になる。また、キリストが国家と教会の中に打ち建てられた外的平和と秩序に対してキリスト者が破壊的な意見を述べたり、実践するならば、教会が彼を譴責し、告訴することは合法的であることを学んだ。

 

 

 

今夜から宗教的礼拝と祈祷と安息日について学ぼう。日本キリスト改革派教会は、創立二十周年記念宣言の礼拝の項で次のように宣言している。「教会の生命は、礼拝にある。キリストにおいて神ひとと共に住みたもう天国の型として存する教会は、主の日の礼拝において端的にその姿を現わす。わが教会の神中心的・礼拝的人生観は、主日礼拝の厳守において、最もあざやかに告白される。神は、礼拝におけるみ言葉の朗読と説教およびそれへの聴従において、霊的にその民のうちに臨在したもう。

 

 

 

神の臨在こそ教会の命である礼拝を、わたしたちが為すことの根源である。

 

 

 

いつものように他の訳を参照しよう。

 

   村川満・袴田康裕訳

 

 万物に対して主権と絶対的支配権を持ち、善なる方であって、万物に対して善を行われる神が存在しておられること、そしてそれゆえわれわれはこの神を、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、畏れ、愛し、讃美し、呼び求め、信頼し、これに仕えなければならないことは、自然本性の光が示すところである。しかしながら、この真の神を礼拝する、神が喜ばれる方法は、神御自身によって制定されており、神が人間のさまざまの想像や考案やサタンの示唆に従って、何らかの目に見える表現で、あるいは聖書に規定されていないその他のどのような方法ででも礼拝されることがないように、御自身の啓示された意志によって限定されているのである。

 

   松谷好明訳

 

 本性の光は、万物に対して支配権と主権を持ち、慈しみ深く、万物に対して善を行い、それゆえに、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、畏れられ・愛され・たたえられ・呼び求められ・信頼され・仕えられるべき、神が存在されることを示している。しかし、この真の神を礼拝する、唯一〔神に〕受け入れられる方法は、神御自身によって制定されており、従って神御自身の啓示された御心によって制限されているので、神は、人間のさまざまな想像や工夫、あるいはサタンの示唆に従って、何か目に見える画像や、聖書に規定されていない、他のいかなる方法でも、礼拝されてはならない。

 

   鈴木英昭訳

 

すべての人に対して統治権と主権とをもち、善であって、すべての人に善を行う神がおられること、その神は、人々が、心を尽くし魂を尽くし力を尽くして、畏れ、愛し、賛美し、呼ばわり、信頼し、仕えられるべきお方であることを、自然の光は示している。

 

しかし、このまことの神を礼拝するのにふさわしい方法は、神御自身によって制定され、御自身の啓示された意思によって制限されている。それは、人間の想像や考案、またはサタンの示唆、あるいは何らかの可視的な表現をもとに、聖書に規定されていない他の方法で、神が礼拝されることがないためである。

 

 

 

 神礼拝よりも神の存在が先行する。神の民の指導者モーセは、シナイ山で主なる神に出会った。神は、モーセに「モーセよ、モーセよ」と呼びかけられた。そして「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と御自身を知らせられた。そして、モーセがエジプトの彼の同胞たちに、彼を遣わされた神の御名を聞かれた時に、何と答えるかと尋ねると、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と、主なる神は答えられた(出エジプト記3)

 

 

 

 天地万物を創造し、神の民イスラエルをエジプトの奴隷の地から贖われた「善にして万物に善を行なわれる」神が存在されている。それゆえに人間理性は、すべての人間に対して、「心をつくし思いをつくし力をつくして恐れ、愛し、ほめたたえ、呼ばわり、信頼し、仕えるのが当然である神が存在されることを」示していると、ウ告白は述べている。

 

 

 

 何よりも復活されたキリストは、天と地の一切の権能をもち、天にいます。そのお方に、わたしたちキリスト者が「心をつくし思いをつくし力をつくして恐れ、愛し、ほめたたえ、呼ばわり、信頼し、仕えるのが当然である」。

 

 

 

 万物とすべての人間に対して命の源である神が存在し、契約の民イスラエルを贖われ、キリスト者を罪と死から贖われた主なる神がおられる。その善にして善を行われる神が存在することを、自然理性と再生理性は、明らかにわたしたちに示している。

 

 

 

 それゆえにウ告白は、わたしたちに次のように神を正しく礼拝する方法を教えるのである。「このまことの神を礼拝する正しい方法は、神ご自身によって制定され、またご自身が啓示したみ心によって制限されているので、人間の想像や工夫、またはサタンの示唆にしたがって、何か可視的な表現によって、または聖書に規定されていない何か他の方法で、神を礼拝すべきではない」。

 

 

 

 神の民イスラエルは、約束の地カナンに入る前に、モーセを通して正しく主なる神を礼拝する方法を教えられた。第一に真の神である主のみ礼拝すること(出エジプト記20:3)。第二に真の神は霊である。見える偶像礼拝を禁じられた(出エジプト記20:45)。ゆえにウ告白は次のように教える。「人間の想像や工夫、またはサタンの示唆にしたがって、何か可視的な表現によって、または聖書に規定されていない何か他の方法で、神を礼拝すべきではない。

 

ウェストミンスター信仰告白133    主の2020519

 

聖書箇所:マタイによる福音書第4111(新約聖書P45)

 

 「第二十一章 宗教的礼拝および安息日について」の二節

 

宗教的礼拝は、父・子・聖霊なる神に、そしてこの神のみに、なすべきである。み使・聖徒・または何か他の被造物に対してなすべきでない。また堕落以来、仲保者なしに、あるいはキリスト以外のどのような者の仲保によっても礼拝すべきでない。

 

 

 

今夜は、「第二十一章.宗教的礼拝および安息日について」の二節を学ぼう。

 

 

 

前回は、「第二十一章 宗教的礼拝および安息日について」の一節を学んだ。一節では、神の臨在こそ教会の命である礼拝を、わたしたちが為すことの根源であることを学んだ。真の神を、霊である神を、人間の考えや工夫、またはサタンの示唆に従い何か可視的に、あるいは聖書に規定されてない方法で礼拝すべきでないことを学んだ。

 

 

 

今夜は、礼拝すべき神は「父・子・聖霊なる神」のみであり、「キリスト以外のどのような者の仲保によっても礼拝すべきでない」ということを学ぼう。

 

 

 

いつものように他の訳を参照しよう。

 

   村川満・袴田康裕訳

 

 宗教的礼拝は父・子・聖霊なる神にささげられるべきである。そしてただこの方にのみささげられるべきである。天使や聖人、その他どのような被造物にもささげられてはならない。また堕落以後は仲介者なしにささげられてはならないし、また、ひとりキリスト以外のどのような者の仲介によってもささげられてはならない。

 

   松谷好明訳

 

 宗教的礼拝は、父・子・聖霊なる神に、そして彼にのみ、ささげられるべきものであり、天使や聖人、その他いかなる被造物にもささげられてはならない。また、堕落以後は、仲介者なしで、あるいは、キリストおひとり以外の、他のいかなる者中会によっても、ささげられてはならない。

 

   鈴木英昭訳

 

宗教的礼拝は、父・子・聖霊なる神に、そしてこの神のみにささげられるべきである。天使、聖徒、または他のいかなる被造物に対してもなされるべきではない。また堕落以後、礼拝は仲保者をとおさずになされることはできないし、キリスト以外のどのような仲保者によってもなされるべきではない。

 

 

 

 申命記第645節で主なる神は神の民イスラエルにモーセを通してこう言われた。「聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

 

 

 

主なる神は、モーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われた(出エジプト記3:14)。そして主なる神は、神の民イスラエルに「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主(3:16)として、すなわち、契約の神として現れ、彼らを奴隷の地エジプトから贖い出された。そして主なる神は、シナイ山で彼らに十戒を授けて、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」と命じられた(申命記5:67)

 

 

 

 そして、主イエス・キリストが約束のメシアとしてこの世に現れた。彼は、救い主としてわたしたちを十字架の死の贖いによって罪と死の奴隷状態から救い出された。彼は、父なる神の御心に従順に従われた。そして「父は子を愛して、御自分のなされることをすべて子に示され」た(ヨハネ4:1920)。旧約聖書で御自身を主なる神として顕された神は、イエス・キリストを通して「父・子・聖霊なる神」として新約の教会に顕された(マタイ28:19)

 

 

 

 それゆえ新約の教会、新しいイスラエルは、ウ告白が述べているように「宗教的礼拝は、父・子・聖霊なる神に、そしてこの神のみに、なすべきである」。この神は、旧約の神の民イスラエルが礼拝した唯一の神であり、契約の神、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」である。

 

 

 

 だから、新約の神の民も旧約の神の民イスラエルと同様に、罪と死の奴隷状態から導き出された父・子・聖霊なる神のみを真の神とし、他に礼拝すべき神はない。

 

 

 

 ウ告白はわたしたちに「み使・聖徒・または何か他の被造物に対して」礼拝すべきではないと命じる。これはカトリック教会の天使、聖人、マリア崇拝への批判である。

 

 

 

 「み使」とは天使で、ヘブライ語で「マラーク」と言い、「神の影の部分」という意味で、ギリシャ語では「アンゲロス」である。聖書では「神の人」「天の使い」として神の御告げの役割を演じている。中世カトリック教会は天使を守護天使として信じ、礼拝するようになった。また「聖徒」は「聖人」のことである。中世カトリック教会は異教の神々を聖人として取り込み、またあるキリスト者を聖人として崇め、その功徳に与ろうとした。

 

 

 

 アダムとエバの罪によって人類が堕落して以後、主なる神と人が直接に交わることは出来なくなった。神と人との関係が断絶したからである。そこで神の民イスラエルの神礼拝は、モーセを通して、あるいはアロンのような祭司を介してなされた。

 

 

 

 モーセは主なる神と神の民イスラエルの仲介者として、主なる神の御言葉を神の民イスラエルに告げた。彼は、主なる神の後姿を見ることが許され、彼の顔が栄光に輝いた(出エジプト記34:29)

 

 

 

 主なる神は、祭司だけでなく、モーセのような預言者を神の民イスラエルに遣わされて、彼らが主なる神の御言葉を彼らに告げた。

 

 

 

 しかし、使徒パウロが言うように「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただひとりなのです。(Ⅰテモテ2:5)。カトリック教会はマリア崇拝をし、キリストへの執り成しを求めるが、ウ告白はそれを否定するのである。

 

ウェストミンスター信仰告白134    主の2020527

 

聖書箇所:創世記第181633(旧約聖書P2425)

 

 「第二十一章 宗教的礼拝および安息日について」の三-四節

 

祈りは、感謝をも含めて、宗教的礼拝の特別なひとつの部分であるので、すべての人々に神から要求されている。そして祈りが受け入れられるためには、み子の名において、みたまの助けにより、み旨に従って、理解・尊厳・謙そん・熱心・信仰・愛・忍耐をもってなすべきである。また声を出して祈る時は、よく知られた言葉でなすべきである(三節)

 

 

 

祈りは、合法的な事柄のため、またすべての種類の現在生きている人々やこれから生まれてくる人々のために、すべきである。しかし、死人や、死に至る罪を犯したことが知られている人々のためには、すべきではない(四節)

 

 

 

今夜は、「第二十一章.宗教的礼拝および安息日について」の三―四節を学ぼう。

 

 

 

前回は、「第二十一章 宗教的礼拝および安息日について」の二節を学んだ。礼拝の対象が誰かを学んだ。礼拝すべき神は、「父・子・聖霊なる神」のみであり、礼拝は「キリスト以外のどのような者の仲保によっても礼拝すべきでない」ということを学んだのである。キリスト教の礼拝の対象は、三位一体の神のみであり、仲保者主イエス・キリストを通してのみ正しい礼拝をなさせることを学んだのである。

 

 

 

今夜は、祈りについて学ぼう。ウ告白は3節で、祈りが宗教的礼拝の特別な一部分であり、それを受け入れるために5つの条件を挙げている。第一に仲保者主イエス・キリストの御名、第二に聖霊の導き、そして第三に神のみ旨に適うこと、第四に「理解・尊厳・謙そん・熱心・信仰・愛・忍耐をもって」なすこと、第五に公同礼拝での祈りは、その国の言葉を用いることである。さらにウ告白は、四節で祈る内容、と祈るべきことと祈るべきでないことを教えている。

 

 

 

いつものように他の訳を参照しよう。

 

   村川満・袴田康裕訳

 

 感謝を込めた祈りは、宗教的礼拝の一つの特別な部分であって、すべての人々に神から要求されている。そしてそれが受け入れられるためには、御子の名において、かれの霊の助けにより、かれの御意志に従い、理解と畏敬と謙遜と熱意と信仰と愛と忍耐をもってなされるべきである。そして声を出して祈る場合には、知られている言語でなされるべきである(三節)

 

 

 

 祈りは合法的な事柄のためになされるべきである。そして、現在生きている人々やこれから生まれてくるあらゆる種類の人々のためになされるべきである。しかし死者のために、死に至る罪を犯したことが知られうるような人々のためになされるべきではない(四節)

 

   松谷好明訳

 

 感謝をもってなされる祈りは、宗教的礼拝の特別な要素であって、神により、すべての人に求められている。そして、受け入れられるためには、祈りは、〔第一に〕御子の名によって、〔第二に〕彼の霊の助けにより、〔第三に〕彼の御心に従い、〔第四に〕理解・畏敬の念・謙遜・熱意・信仰・愛・忍耐をもって、また、〔第五に〕声を出して祈る場合には他の人に分かる言葉で、なされるべきである(三節)

 

 

 

 祈りは、合法的な事柄のため、また、今生きているか、あるいは、これから生まれてくる、あらゆるたぐいの人々のため、になされるべきである。しかし、死者のためや、死に至る罪を犯したことが知られている人々のためには、なされてはならない(四節)

 

   鈴木英昭訳

 

祈りは、感謝と共に、宗教的礼拝の特別な一部であり、神はすべての人々にそれを求められる。祈りが受け入れられるためには、御子の名により、御霊の助けにより、神の御心にしたがって、理解、敬虔、謙遜、熱心、信仰、愛、忍耐をもってなされるべきである。声を出して祈るときは、よく知られた言葉でなさるべきである(三節)

 

 

 

祈りは、合法的な事柄のためや、また現在生きているあらゆる種類の人々や、これから生まれてくる人々のためになされるべきである。しかし、死人や死に至る罪を犯したことが知られている人々のためには、なされるべきではない(四節)

 

 

 

 使徒パウロは、次のように祈りを述べている。「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい(フィリピ4:6)。ウ告白は、この感謝と共になされる祈りが宗教的礼拝の特別な一部分であると教えている。矢内昭二先生は、このことについて次のように述べておられる。「ある意味で礼拝は、始めから終わりまで、祈りでなければなりませんし、正しい祈りなしには、み言葉も礼典もわたしたちの霊的な益となるように用いることはできません。そういう意味では、祈祷は、礼拝の特別なひとつの部分です。」(『ウェストミンスター信仰告白講解』P215216)

 

 

 

 ウ告白は、それを受け入れるために、祈りが成り立つ5つの条件を述べている。第一に「み子の名において」祈ることである。祈りは、仲保者主イエス・キリストの執り成しなしが必要である。第二に「みたまの助けにより」、聖霊の助けと執り成しで祈ることができる。使徒パウロは、「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです(ローマ8:26)と述べている。第三に「み旨に従って」、すなわち、神の御意志に従って祈ることである。使徒ヨハネは、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。」と述べている。第四の「理解・尊厳・謙そん・熱心・信仰・愛・忍耐をもって」、聖書の御言葉を一つ一つ挙げることは出来ないが、アブラハムの祈りの祈りを見れば、このすべてのことが含まれている(創世記1225)。アブラハムは、全能の神が彼の契約の神であることを知り、神をわたしの神として服従し、自らを塵芥とヘリ下り、熱心に、そして神を信頼し、愛して、神との約束を忍耐して祈り待ち望んだ。第五は、宗教改革以後礼拝と祈りは自国語でなされるようになった。

 

 

 

 ウ告白は、4節で祈る内容を「合法的な事柄のため」と述べている。これは、神の御心に適う祈りのことである(Ⅰヨハネ5:14)。ウ告白は、祈るべきことと祈るべきないことを述べている。ウ告白はカトリック教会の死者への祈りを念頭に置き、祈るべき人々を、現在生きている人々、これから生まれてくる人々に限定する。死に至る罪を犯している者に対する祈りを禁じている。 

 

ウェストミンスター信仰告白135    主の202063

 

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第10521(新約聖書P288289)

 

 「第二十一章 宗教的礼拝および安息日について」の五節

 

敬けんな恐れをもって聖書を読むこと、健全な説教、神に服従して理解・信仰・尊敬をもってみ言葉を良心的に聞くこと、感謝して心から詩を歌うこと、またキリストが制定された礼典を正しく執行し、・ふさわしく受けることは、すべて普通の宗教的礼拝の要素である。このほか宗教的宣誓や誓願、神聖な断食、また特別な場合の感謝の祈りも、それぞれの時また時期に、きよい宗教的な態度で用いるべきである。

 

 

 

今夜は、「第二十一章.宗教的礼拝および安息日について」の五節を学ぼう。

 

 

 

前回は、「第二十一章 宗教的礼拝および安息日について」の三―四節を学んだ。祈りについて以下のことを学んだ。感謝を伴う祈りは、宗教的礼拝の一部であり、神はすべての人に祈りを求められていること、そして祈りが受け入れられるためには、次の5つの条件が必要である。(1)御子イエス・キリストの御名による、(2)聖霊の助けによる、(3)神の御心に適うこと、(4)理解・敬虔・謙遜・熱心・信仰・愛・忍耐をもって祈ること、(5)母国語で祈ること。

 

 

 

今夜は、礼拝の要素について学ぼう。ウ告白は通常の礼拝と特別な礼拝の要素を述べている。

 

 

 

いつものように他の訳を参照しよう。

 

   村川満・袴田康裕訳

 

 敬虔な畏れをもってなされる聖書の朗読、また、神に服従しつつ理解と信仰と畏敬をもってなされる、御言葉の健全な説教と御言葉の傾聴、また、心から感謝して詩編を歌うこと、さらにまた、キリストが制定された礼典の正しい執行とふさわしい受領などは、すべての通常の宗教的神礼拝の部分である。このほかに宗教的宣誓、誓願、厳粛な断食、また特別な場合に行われる感謝行事など、それらも、それぞれのさまざまな時と時期に、聖い、宗教的な態度で用いられるべきである。

 

   松谷好明訳

 

 敬虔な畏れをもって聖書を朗読すること、神に従順に従って、理解・信仰・畏敬の念をもってなされる、御言葉の健全な説教と御言葉への傾聴、心から感謝しつつ詩編を歌うこと、更にまた、キリストによって制定された聖礼典の正しい執行とふさわしい受領などはすべて、通常の宗教的神礼拝の要素である。これら以外に、宗教的宣誓・誓願・厳粛な断食・感謝礼拝などが、特別な機会に行われるが、これらは、それぞれの時と場合に、清く、敬虔な仕方で用いられるべきである。

 

   鈴木英昭訳

 

普通の宗教的神礼拝の要素は、敬虔な畏れをもって聖書を読むこと、健全な説教を行うこと、神への従順から、理解と信仰と畏れをもって神の言葉を良心的に聞くこと、心から感謝して詩編を歌うこと、そしてキリストが定められた礼典を適切に執行し、それをふさわしく受けることである。

 

 

 

このほかに、特別な場合の宗教的宣誓や誓願、神聖な断食、そして感謝がなされる時がある。これらは清い熱心な態度でなされるべきである。

 

 

 

 鈴木訳が一読して、ウ告白の主旨を理解できる。要するにウ告白によれば、宗教的神礼拝(公的礼拝)は、通常の宗教的神礼拝と特別な宗教的神礼拝がある。

 

 

 

 ルカによる福音書によれば、主イエスは安息日にナザレの会堂に入られ、聖書を朗読しようとして立ち上がられ、イザヤ書の巻物が渡されたので、お開きになり、イザヤ書6112節をお読みになり、読み終わるとイザヤ書の巻物を係の者に返して、主イエスに目を注ぐ会衆に次のように話し始められた。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。(ルカ4:1621)

 

 

 

 残念ながら、ウ告白が述べるようにナザレの会衆は、主イエスの説教を「神に服従して理解・信仰・尊敬をもってみ言葉を良心的に聞くこと」ができなかった。

 

 

 

 使徒ペトロは、ペンテコステの日に聖霊降臨の出来事を目撃した者たちに次のように旧約の預言者ヨエルのヨエル書の3章を朗読し、聖霊に満たされていろんな外国語で神の偉大な御業を語っている者たちは酒に酔っているのではなく、ヨエル書の3章の御言葉が実現したのだと説教した。そして彼は、キリストの十字架と復活の福音を語った。そしてペトロは聞いている会衆たちに罪の悔い改めと主イエスを信じて洗礼を受けるように勧めた。これがウ告白の言う健全な説教である。説教を聞いた会衆たちは、ペトロの勧めに従って十字架の主イエスをメシアと信じて洗礼を受け、彼らは「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。(使徒言行録2)

 

 

 

 使徒パウロは、エフェソの教会の信徒たちに「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」と勧めている(エフェソ5:1820)

 

 

 

 通常の宗教的神礼拝の要素は、聖書朗読、説教、祈り、聖礼典(洗礼と聖餐)、神賛美(詩編歌、賛美歌)、献金である。献金については、ウ告白は述べていない。神礼拝は神への献身であり、献金はその証しである。

 

 

 

 特別な宗教的神礼拝を、ウ告白は「宗教的宣誓や誓願、神聖な断食、また特別な場合の感謝の祈り」と述べている。教会(伝道所)設立式、牧師(宣教教師)就職式等で、宗教的宣誓等がなされる。時と時期は不規則である。ただし、神学校の入学式、卒業式は特別な宗教的神礼拝として定期に行われている。「神聖な断食(厳粛な断食)」とはどういうものか、分からない。

 

 

 

矢内昭二先生は、「わたしも、敬けんな恐れをもって聖書を朗読し、健全な説教、礼典の正しい執行をすることができるように、み霊の助けを祈らなければならないと思いますね。」言われている(『ウェストミンスター信仰告白講解』P216)。宗教的神礼拝の要素を知るだけでなく、それを敬虔な神を畏れる念をもって用い、神礼拝を為すためには、聖霊の助けが必要である。

 

 

 

聖霊は、罪と汚れに満ちたわたしたちを、キリストの執り成しによって父なる神に近づけるように導いてくださる。それが祈りと神礼拝である。聖霊は、「弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」のである(ローマ8:26)。 

 

ウェストミンスター信仰告白136        主の2020610

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書第41626(新約聖書P169170)

 

 「第二十一章 宗教的礼拝および安息日について」の六節

 

祈りも、宗教的礼拝の他のどの要素も、今や福音のもとにおいては、それがなされ、または向けられるどのような場所とも結合されず、またはそれによって一層よしとされることもない。かえって、すべての所で霊とまことをもって、神を礼拝すべきである。すなわち個々の家庭で日ごとに、隠れた所で各人が自分で、そのようにし、公同集会では一層厳粛になされるべきである。神がみ言葉または摂理によってそこに招かれる時に、不注意からまたは故意に、公同集会を軽視したりしてはならない。

 

 

 

今夜は、「第二十一章.宗教的礼拝および安息日について」の六節を学ぼう。

 

 

 

前回は、「第二十一章 宗教的礼拝および安息日について」の五節を学んだ。宗教的礼拝の要素について学んだ。ウ告白は、わたしたちに宗教的礼拝について、通常の公的礼拝と特別の礼拝があることを述べ、公的礼拝とその要素を取り上げて、更に特別の礼拝も宗教的礼拝として敬虔に行われるように勧めている。

 

 

 

今夜は、礼拝の場所について学ぼう。ウ告白は、祈りも他の宗教的要素も、特定の場所に限定されないと述べている。宗教的礼拝は公的礼拝だけではない。家庭礼拝、個人礼拝も宗教的礼拝である。ウ告白は、公的礼拝は主の招きであるから一層厳粛になされるべきであると勧告している。

 

 

 

いつものように他の訳を参照しよう。

 

   村川満・袴田康裕訳

 

 祈りも、宗教的礼拝の他のどの部分も、今や福音の下では、それがなされる、あるいはそれが向けられる、どのような場所とも結びつくことはなく、またその場所によって一層よしとされることもない。神はどこででも、霊と真理をもって、礼拝されるべきである。すなわち、個々の家庭で日ごとに、そして、人目につかないところで、それぞれがひとりでなすべきである。同様に、公的集会ではより一層厳粛になされるべきであって、神が御言葉によってか、摂理によってそこに招かれる時には、不注意からにせよ、故意にせよ、それをおろそかにしたり、無視したりしてはならない。

 

   松谷好明訳

 

 祈りも宗教的礼拝の他のどの要素も、今や福音の下では、それが行なわれ、あるいは、向けられる、どこかの場所に結びつけられたり、その場所のゆえに一層受け入れられる、といったことはない。かえって、神は至るところで、霊と真理をもって、礼拝されるべきである。従って、日ごとにそれぞれの家庭で、また、各自一人で密かに、また、それだけでなく、公的な集会では、一層厳粛に、なされるべきである。公的な集会は、神が彼の言葉あるいは摂理によってそこにお招きになるとき、不注意から、あるいは故意に、出席を怠ったり、途中で帰ってはならない。

 

   鈴木英昭訳

 

福音の時代になってからは、祈りもその他の宗教的礼拝のどの要素も、それがなされる場所や、それが向けられる場所が限定されることはなく、またそうした場所のゆえに、よりいっそう受けいれられることもない。むしろ、神は霊と真理とをもって、どのような場所においても、礼拝されるべきである。家庭において毎日、個人的に隠れた所で、さらに公同礼拝ではいっそう厳粛に、礼拝されるべきである。

 

公同礼拝への出席は、神がその御言葉によりあるいは摂理によって招いておられるので、不注意や故意に、怠ったり、止めたりしてはならない。

 

 

 

 それぞれの翻訳を比較して読むと、前回述べたようにウ告白の主旨を理解できる。ウ告白は、第一に旧約時代の礼拝と福音(新約)時代の礼拝の違いを述べている。旧約の時代には礼拝の場所はエルサレムの神殿に定められていた。離散のユダヤ人たちは、異教の地でエルサレムに向けて祈り、礼拝していた。

 

 

 

しかし、主イエスは、サマリアの女性が神を礼拝する場所はサマリアか、エルサレムかと質問した時、主イエスは彼女に今や礼拝の場所が問題なのではなく、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父なる神を礼拝する時が来る。今がその時である。(ヨハネ4:23)、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。(ヨハネ4:24)と答えられた。

 

 

 

礼拝の場所は、今や限定されていない。だから、ウ告白は「かえって、すべての所で霊とまことをもって、神を礼拝すべきである。」と命じている。

 

 

 

 第二にウ告白は、わたしたちに宗教的礼拝は、毎日なされるべきであると勧めている。すなわち、家庭礼拝と個人礼拝である。「すなわち個々の家庭で日ごとに、隠れた所で各人が自分で」。

 

 

 

 日本キリスト改革派教会は、教育機関誌「リジョイス」を毎月発行している。聖書日課を用いれば家庭礼拝に、個人礼拝に役立つだろう。

 

 

 

 今わたしたちはコロナウイルスの災禍の中にある。今多くの教会で集まって礼拝をすることができない。家庭で礼拝する。個人で礼拝する者が多くいる。「災いを転じて福となす」という諺がある。家庭礼拝、個人礼拝の用い方を、考慮すべきだろう。

 

 

 

第三にウ告白は、公同集会(公的礼拝)を次のように強調する。「公同集会では一層厳粛になされるべきである。神がみ言葉または摂理によってそこに招かれる時に、不注意からまたは故意に、公同集会を軽視したりしてはならない。」「公同集会」は日曜日の公的礼拝(主日礼拝)である。

 

 

 

主日礼拝は、奏楽で始まり、神の招きの言葉でわたしたちは神への礼拝と招かれる。また、神の摂理によって家族・友人・知人を通して、神礼拝へと招かれる。

 

 

 

キリスト者にとって公同集会への出席は義務である。なぜなら、キリストの十字架によって罪と死の状態から贖い出され、キリストに結ばれ、神の子とされ、キリストの僕とされたのだから。神が御言葉と摂理によって招かれる神礼拝への出席は義務である。どうしても礼拝に出席できない時は欠席連絡を届け出て、また礼拝中に退室をすることがないように注意すべきである。

 

 

 

キリスト者の敬虔は、常に神の御前に生きることである。礼拝人生である。

 

ウェストミンスター信仰告白137        主の2020617日

 

聖書箇所:マタイによる福音書第28110(新約聖書P5960)

 

 「第二十一章 宗教的礼拝および安息日について」の七節

 

一般的に、正当な割合の時間を神礼拝のために聖別するということが自然の法則であるように、神は、み言葉において、すべての時代の人に義務を負わせる成文的・道徳的・永久的な命令によって、安息日のために七日のうち一日を特に定めて、神に対しきよく守るようにされた。それは世の初めからキリストの復活までは週の終りの日であったが、キリストの復活以後は週の初めの日に変わった。これは、聖書で主の日と呼ばれ、キリスト教安息日として世の終りまで継続されねばならない。

 

 

 

今夜は、「第二十一章.宗教的礼拝および安息日について」の七節を学ぼう。

 

 

 

前回は、「第二十一章 宗教的礼拝および安息日について」の六節を学んだ。宗教的礼拝の場所、種類、主の日の礼拝は主の招きであるので、一層厳粛に守るべきことを学んだ。

 

 

 

今夜は、キリスト教安息日について学ぼう。ウ告白は、安息日を定義し、ユダヤ教の安息日に対してキリスト教安息日について教えている。

 

 

 

いつものように他の訳を参照しよう。

 

   村川満・袴田康裕訳

 

 一般に、しかるべき割合の時間を神礼拝のために取り分けておくことは自然の法則であるが、神はその御言葉において、あらゆる時代のあらゆる人々を拘束する実定的、道徳的、永久的な戒めによって、七日の内一日を、特に安息日として定めて、神に対して聖く守るようにされた。それは世の初めからキリストの復活までは週の最後の日であった。そしてキリストの復活からは週の最初の日に変えられて、それは聖書では、主の日と呼ばれており、キリスト教安息日として、世の終わりまで継続されるべきである。

 

   松谷好明訳

 

 一般に、しかるべき割合の時間が神礼拝のために割かれるべきである、というのが自然の法則であるが、神は、それだけでなく特別に、その御言葉において、あらゆる時代にあらゆる人々を拘束する、一つの実定的・道徳的・恒久的な戒めにより、七日のうち一日を、御自身に対して清く守られるべき安息日として、定めておられる。それは、世の初めからキリストの復活までは週の最後の日であったが、キリストの復活から週の最初の日に変えられた。この日は、聖書では主の日と呼ばれており、キリスト教安息日として、世の終わりまで継続されるべきである。

 

 

 

   鈴木英昭訳

 

通常、正当な割合の時間を神礼拝のために聖別することが、自然の法則であるように、神は、そのようにその御言葉のなかで、すべての時代のすべての人々に対して、決定的、道徳的、永続的な命令によって、安息日のために七日のうちの一日を特に定め、御自分に対して清く保つようにされた。

 

それは、世の初めからキリストの復活までは、週の最後の日であったが、キリストの復活以後は、週の初めの日に変わった。この日は聖書で主の日と呼ばれ、キリスト教安息日として世の終わりまで継続されるべきである。

 

今夜は安息日について学ぼう。創世記223節で「第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」とある。安息日の起源である。神の創造の御業は六日間で完成されたのである。七日目はその確認である。「安息なさった」は、新しい創造の御業を止められたのである。その結果神は休息し、憩われたのである。神の休息は、人間のように疲れを癒すことではない。神の御手による創造の御業が完成し、創造されたすべてのものが神の完全な恩恵の下に置かれたのである。だから、神は、「第七の日を神は祝福し、聖別された」のである。神の目的のために第七の日を分離されたのである。

 

 

 

以上の安息日の起源を考察する時、ウ告白が「一般的に、正当な割合の時間を神礼拝のために聖別するということが自然の法則である」と述べているのは、安息日についてであると分かるのである。

 

 

 

続いてウ告白が「神は、み言葉において、すべての時代の人に義務を負わせる成文的・道徳的・永久的な命令によって、安息日のために七日のうち一日を特に定めて、神に対しきよく守るようにされた。」と述べているのは、十戒の第四の戒めである安息日律法に言及しているのである。

 

 

 

安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。(出エジプト記20:811)

 

 

 

安息日というヘブライ語は、「休む」「一日を休む」「中止する」という動詞から来ている。だから、主が「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と命じられているのは、一週間の内の一日を区別して労働を中止し、その日を特別に主なる神のために取っておくようにという命令である。主なる神は、十戒という「成文的・道徳的・永久的な命令」によって、奴隷の地エジプトから贖い出された神の民たちに安息日を守るように定められたのである。創造主であり、贖い主である主なる神を崇め、賛美し、礼拝する日として守るように定められたのである。

 

 

 

更にウ告白は、キリスト教安息日について次のように述べている。「それは世の初めからキリストの復活までは週の終りの日であったが、キリストの復活以後は週の初めの日に変わった。これは、聖書で主の日と呼ばれ、キリスト教安息日として世の終りまで継続されねばならない。

 

 

 

聖書では安息日は、「主の日」と呼ばれている。この日は、神の裁きが行なわれる日であった。世の終わりの日、キリストの来臨の日、主イエスが復活した日、すなわち日曜日である。

 

 

 

初代教会は、「週の最初の日」、日曜日を、「主の日」と呼び、特別な礼拝をするようになった。日曜日に主イエスが死者の中から復活したからである。これがキリスト教安息日である。

 

 

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白138        主の2020624

 

聖書箇所:マタイによる福音書第12113(新約聖書P21)

 

 「第二十一章 宗教的礼拝および安息日について」の八節

 

それで、この安息日は、人々が自分の心を正当に準備し、その日常の用務をあらかじめ整理したのち、この世の職業や娯楽についての自分の働き・言葉・思いから離れて、まる一日きよい休息を守るのみでなく、神礼拝の公的私的営みと、やむをえない義務と慈善の義務とに、全時間従事するときに、主に対してきよく守られる。

 

 

 

今夜は、「第二十一章.宗教的礼拝および安息日について」の八節を学ぼう。

 

 

 

前回は、「第二十一章 宗教的礼拝および安息日について」の七節を学んだ。安息日が、すなわち神礼拝のために一定の時間を聖別することは自然の法則であり、主なる神は十戒の第四戒において第七日目を安息日と定められ、きよく守るようにされた。そしてキリスト復活後は第一日目をキリスト教安息日、主の日としてこの世の終わるまで守るようにされたことを学んだ。

 

 

 

今夜は、キリスト教安息日についての正しい守り方を学ぼう。ウ告白は、キリスト教安息日を神の御心に適うように守ることを教えている。

 

 

 

いつものように他の訳を参照しよう。

 

   村川満・袴田康裕訳

 

 この安息日が主に対して聖く守られるのは、人々が、しかるべき心の備えをし、日常の仕事を前もって整えた後に、この世の業務や娯楽についての自らの働きや言葉や思いから離れて、丸一日聖なる安息を守るだけでなく、公的または私的な礼拝の営みと、避けられない慈善の義務とに全時間をついやす場合である。

 

 

 

   松谷好明訳

 

 この安息日は、人々が、しかるべき心の備えをし、日常の用事をあらかじめ整えたあと、この世の仕事や娯楽についての自分たち自身の業・ことば・思いから丸一日清い休息を取るだけでなく、全時間、公的・私的な神礼拝の営みと、必要な義務および憐れみの義務とに当たるとき、主に対して清く守られる。

 

 

 

   鈴木英昭訳

 

そのため、この安息日は次のようなとき、清く保たれる。すなわち、人々がその心をふさわしく備え、日常の仕事を前もって整理し、この世の職業と娯楽に関する自分の業・言葉および思いから、終日、清く休むだけでなく、すべての時間を公的または私的神礼拝と、また必要な義務と、慈善の務めに用いることによってである。

 

 

 

今夜は、ウ告白が主なる神に対して安息日を清く保つ方法について教えていることを学ぼう。ネヘミヤ記810節でネヘミヤは神の民にこう述べている。「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と。旧約聖書のレビ記に安息日律法についての定めがある。しかし、ネヘミヤが命じている「聖なる日に悲しんではならない」という主の命令はない。これは、ネヘミヤの、あるいは律法を朗読し、神の民に説明したレビ人の解釈である。そしてネヘミヤの言葉を聞いた神の民たちは、ネヘミヤに従い、悲しむことをしないで、神殿の神礼拝から家に帰ると、皆で喜び食事をし、食事の用意のない者たちに分け与えて、互いに安息日を喜び祝っている(ネヘミヤ記8:1012)

 

 

 

ネヘミヤの時代、バビロン捕囚から解放された神の民たちが故国に、エルサレムの都に帰還し、神殿を再建し、エルサレムの城壁を修復し、信仰共同体を回復しようとしていた。そのために神の民の純潔を守り、安息日律法を厳しく守るように神の民に命じただろう。

 

 

 

しかし、帰還のユダヤ人たちが何の障害もなく、安息日を守り、神礼拝をしていたのではない。帰還したユダヤ人たちは生活の困窮の中にいた。土地を奪われていたからである。あるいは、捕囚前に売った土地を買い戻せずにいたであろう。貧しさの中で感謝の食事を用意できない者たちがいた。ネヘミヤもレビ人たちも、悲しみの心で神礼拝に来た神の民たちを配慮した。そして、彼らは、貧しい神の民たちに「今日は聖なる日であるから悲しむな」と命じ、豊かな神の民たちには「あなたがたは今日、感謝の食事を用意しているので、それを貧しい者たちに分け与えなさい。皆で食事をし、神を喜びなさい」と勧めた。

 

 

 

ウ告白には、ネヘミヤの安息日を清く保つという思いがある。安息日は、自分のためにだけあるのではない。主はわたし一人を招かれるのではない。大勢の神の民たちを、主の日に招かれる。豊かな者も貧しい者も招かれる。喜び神に感謝する者も主の御前に悲しむ者も招かれる。共に招かれる神の民たちが、主の御前で共に食事をし、共に喜び合うことが主に対して安息日を清く守ることである。

 

 

 

だから、ウ告白は、神の民一人ひとりが主の日にこの世の仕事や娯楽の業・言葉・思いから離れて、主を礼拝し、奉仕し、主を思い、丸一日を休息することは、主が安息日律法で定められた大切なことであると考えている。

 

 

 

安息日は、神礼拝、個人の礼拝だけではなく、神の民は「やむをえない義務と慈善の義務」を安息日に果たさなければならないと、ウ告白は述べている。

 

 

 

主イエスは、安息日に会堂で神礼拝をされるだけではなく、悪霊につかれた者から悪霊を追い出し、病人たちを癒された。キリスト教安息日は、キリストの復活を大いに喜ぶ日でもある。病人、高齢者、貧しい者は神の御前に来ることも喜ぶこともできないだろう。

 

 

 

また、医師、警察官、消防士、自衛隊員、動物園等の飼育員は、国や公共を、人々の命を守るために日曜日に出勤しなければならないだろう。

 

 

 

以上のような状況にある兄弟姉妹たちに、一緒に主を喜び祝うことをどうすればできるのか、考えて行くように、ウ告白はわたしたちに問いかけているのではないだろうか。

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白139        主の2020年7月1日

 

聖書箇所:歴代誌下第61823(旧約聖書P677)

 

 「第二十二章 合法的宣誓と誓願について」の一節

 

合法的宣誓は、宗教的礼拝のひとつの部分であって、宣誓においては、正当な場合に、宣誓者はおごそかに誓って、自分の断言または約束の証人となり、その誓いの真偽に従って自分のさばき主となりたもうよう、神を、呼び求めるのである。

 

 

 

今夜から、「第二十二章.合法的宣誓と誓願について」を学ぼう。今夜はその一節である。

 

 

 

「第二十一章 宗教的礼拝および安息日について」を、学んで来た。矢内昭二先生の『ウェストミンシター信仰告白講解』の目次を見ると、第1924章は「倫理」の項目である。すなわち、19章の神の律法、20章のキリスト者の自由と良心、21章の宗教的礼拝と安息日、22章の宣誓と誓願、23章の国家の為政者、24章の結婚と離婚である。

 

 

 

今夜は、1節の合法的宣誓の定義について学ぼう。宣誓と誓願の根拠となる御言葉は、申命記613節、1020節である。主なる神はモーセを通して神の民に「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」と命じている。これは、モーセの十戒の第一の戒めと第三の戒めを合わせて、言い換えているのである。第一の戒めは神の民をエジプトから解放した主なる神以外の神があってはならない、主なる神のみを礼拝せよという命令である。第二の戒めは正しくない目的のために主の御名を用いて祈願することを禁じている。この祈願は宣誓と誓願も含んでいる。

 

 

 

ウ告白が言う「合法的」は神の御心に適うことである。それは、聖書の御言葉から導き出される聖書的な宣誓である。「主なる神の御名による誓いである」。

 

 

 

いつものように他の訳を参照しよう。

 

   村川満・袴田康裕訳

 

 合法的な宣誓は宗教的礼拝の一部分であり、そこでは、正当な場合、誓いをする人は、厳粛に神を読んで、自分の主張をすること、あるいは約束することの証人となってくださるように、そして、自分が誓うことの真偽に従って、自分を裁いてくださるように、求めるのである。

 

 

 

   松谷好明訳

 

 宣誓は、宗教的礼拝の一要素であり、これによって、正当な場合、誓いをする人は、自分が主張し、あるいは約束することの証人となってくださるように、また、自分が誓うことの真偽に応じて自分を裁いてくださるように、厳粛に神を呼び求めるのである。

 

 

 

   鈴木英昭訳

 

合法的宣誓は、宗教的礼拝の一部である。正当な場合にそれがなされるとき、宣誓者は神に、自分が断言すること、あるいは約束することの証人となってくださるよう、また自分が宣誓することの真偽にしたがって栽いてくださるよう厳粛に求めるべきである。

 

ウ告白は、第一に宣誓が宗教的礼拝の一要素であると述べる。申命記26章は神の民イスラエルの信仰告白である。主なる神と神の民は、モーセを仲介者として契約を結んだ。そして主なる神に、神の民は、主なる神を礼拝する中で次のように誓約した。「今日、あなたは誓約した。『主を自分の神とし、その道に従って歩み、掟と戒めと法を守り、御声に聞き従います』と。(申命記26:17)

 

 

 

次にウ告白は、「宣誓においては、正当な場合に、宣誓者はおごそかに誓って、自分の断言または約束の証人となり」と述べている。聖書的で正当な場合の宣誓は、証人が必要である。宣誓者の宣誓を保証してくれる者が必要である。使徒パウロは、コリント教会の信徒たちに命かけて宣誓をした。「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです(Ⅱコリント1:23)。パウロはコリント訪問を変更した理由を、コリント教会の信徒たちへの思いやりと情けからであると、神を証人に立てて厳粛に誓ったのである。

 

 

 

ウ告白は、宣誓の保証人に神を立てるのは、「その誓いの真偽に従って自分のさばき主となりたもうよう、神を、呼び求めるのである」と述べている。

 

 

 

主なる神は、十戒の第三戒において「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」と、主の御名によって宣誓した者がその誓いを破れば、罰すると宣言されている(申命記5:11)

 

 

 

主なる神は、レビ記1912節で「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の御名を汚してはならない」と命じられている。偽りの誓いのために神の御名を利用することは、人間が自由に神を操ろうとすることであり、それは偶像礼拝に等しく、神を汚すことになるのである。

 

 

 

ソロモン王は、エルサレム神殿が完成した時に、彼は主なる神に祈り、神殿の目的を祈った。神殿は神が住まわれる場所ではなく、主なる神の御名を置かれる場所であり、神は天から神の民イスラエルが神殿で呪いの誓いをする時に、それを聞き、彼らを裁かれると。彼らを裁かれ、悪人と善人をそれぞれの行いによって報いたれると(歴代誌下6:1823)

 

 

 

このように宣誓は礼拝の一要素であり、日曜日の主の日の公的礼拝の中で、牧師(宣教教師)就職式において、長老・執事の任職・就職式において、洗礼式と信仰告白式において、転入式、加入式においてなされている。

 

 

 

問題であるのは、この国の国会において、裁判所において宣誓が軽んじられている事である。日本の国では偽りの宣誓がしばしばなされる。高校生の時にロッキード事件が起こり、国会で田中角栄首相がロッキード社からの賄賂を追及された。田中首相は「存じません」と述べて、真実を隠し、首相の言葉が大流行になった。

 

 

 

社会が病む時、教会も病む。教会においても宣誓や誓約は軽んじられている。洗礼式、信仰告白式、牧師(宣教教師)就職式、長老・執事の任職・就職式、転入式、加入式で誓約したことを、どれだけの教会員が覚えて誠実に果たしているだろうか。果たしている教会は祝福されている。

 

ウェストミンスター信仰告白140        主の2020年7月6

聖書箇所:マタイによる福音書第53337(新約聖書P8)

 「第二十二章 合法的宣誓と誓願について」の二節

神のみ名だけが、それによって人が誓うべきものであり、宣誓において神のみ名は、全くきよい恐れと尊敬をもって用いられるべきである。それゆえ、あの栄光ある恐るべきみ名によって、みだりにまたは無分別に誓うこと、あるいは少しでも何か他のものによって誓うことは、罪深く憎悪すべきことである。とはいえ、重要な事柄においては、宣誓は旧約におけると同様に新約においても、神のみ言葉によって保証されているので、合法的宣誓が合法的権威によって課せられるならば、そのような事柄においては行なわれるべきである。

 

今夜から、「第二十二章.合法的宣誓と誓願について」の二節を学ぼう。先週は1節の合法的宣誓の定義について学んだ。宣誓は神礼拝の一部分である。それは宣誓が保証人として神を呼び求めるからである。

 

今夜は、合法的宣誓はどのように行うべきかという方法について学ぼう。合法的宣誓が正しく行われ、その宣誓が成立するのは、人が神の御名によって宣誓する時だけであり、その方法のみが旧約と新約において神の御言葉の権威により、それを保証するのである。

 

いつものように他の訳を参照しよう。

  村川満・袴田康裕訳

 神の御名のみが、それによって人が誓うべきものであり、そこでは、御名は聖なる畏れと尊敬の念に満たされて用いられるべきである。それゆえ、その栄光ある恐るべき御名によって、みだりに、また無分別に誓うこと、あるいはおよそ何であれ他のものによって誓うことは、罪深いことであり、憎悪されるべきことである。それにもかかわらず、重大な事柄の場合には、宣誓は、旧約の下においてだけでなく、新約の下でも、神の御言葉によって是認されている。同様に、そのような事柄の場合には、合法的な宣誓は合法的な権威によって課せられるならば、行うべきである。

 

  松谷好明訳

 神の御名のみが、それによって人々が誓うべき名であり、誓いにおいて神の御名は、全く清い畏れと畏敬の念をもって用いられるべきである。従って、その輝かしく、恐るべき御名によって、みだりに、あるいは軽率に誓うことや、ともかく何か他のものによって誓うことは、罪深いことで、憎悪されるべきである。しかしながら、非常に重要な事柄の場合に、宣誓は、旧約の下ばかりでなく新約の下においても、神の言葉によって是認されている。従って、そのような事柄の場合、合法的宣誓が合法的権威によって課せられたならば、それはなされるべきである。

 

  鈴木英昭訳

人が誓いのために用いるべき名は、神の御名だけであり、その場合、神の御名は全く清い恐れと畏敬の念をもって用いられるべきである。したがって、その栄光ある畏るべき御名によって、見せかけに軽率に誓ったり、他のものによって誓うなら、それは罪であり憎むべきことである。

しかし、旧約と共に新約においても、宣誓は神の御言葉によって認められているので、非常に重要なことを宣誓する場合、合法的権威によって課せられる事柄について、合法的宣誓はなされるべきである。

 

主イエスは、マタイによる福音書第53337節で、ファリサイ派の人々の誓いを批判して、徹底して誓うなと命じられている。これが、アナバプティスト(再洗礼派)の人々が宣誓を拒否した根拠である。しかしウ告白は、彼らの主張に「否」と答える。なぜなら、主イエスも聖書も誓いを禁じるのでなく、偽りの誓い、みだりに、無分別に誓うことを禁じているからである。

 

出エジプト記207節で神は、こう命じられている。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」これを根拠にして神は、レビ記192節でこう命じられている。「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたは神の名を汚してはならない。わたしは主である。」神は、偽りの誓いを禁じられているのであって、人が神と人に対して誓うことを禁じられているのではない。それ以上に神は、神と人の前での誓う者の誠実さを求められているのである。だから、主イエスが「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。(マタイ5:37)と言われたのは、誓約を禁じられたのではなく、誓う者の誠実さを求められたのである。

 

人は、誓うとき、誠実さをもって、神の御名によって宣誓しなければならないのである。だから、ウ告白は、「神のみ名だけが、それによって人が誓うべきものであり、宣誓において神のみ名は、全くきよい恐れと尊敬をもって用いられるべきである。それゆえ、あの栄光ある恐るべきみ名によって、みだりにまたは無分別に誓うこと、あるいは少しでも何か他のものによって誓うことは、罪深く憎悪すべきことである。」と告白するのである。

 

誓いは神の保証がなければ成り立たない。そして誓いを保証する神は主なる神のみであり、他に神はないのである(出エジプト記20:3)。主イエスは、神の御名以外に、一切誓ってはならないと命じられたのである。さらに主イエスは、神の御名によって誓っても、その人が誓いを誠実に果たすという思いのないことを知っておられたのである。だから、主イエスは、人々が誠実に十戒の第三戒を守るように、誠実に、真心を持って誓いを果たすように命じられているのである。

 

ウ告白は、誓いの方法を教えている。しかし、旧新約聖書を読むならば、人が誓いを必要とするとき、そこで人は真実の言葉を語ってはいないという可能性があることを見いだすだろう。主イエスは、ファリサイ派の人々がなす誓いの中にそれを見いだされたから、一切誓うなと禁じられたのである。神の御名によって誓うことは、この世界のすべては神の御支配の中にあることを認めることである。みだりに、偽って誓う者、神の御名以外のものの名で誓う者は、神が支配される領域を犯す者である。だから、ウ告白は「罪深く憎悪すべきことである」と告白している。

 

宣誓と誓願は聖書で神が認められている(出エジプト20:7、レビ19:12)。使徒パウロもコリント教会の信徒たちに神を証人に立てて命をかけて誓っている(Ⅱコリント2:23)

 

 

ウ告白の言う「合法的権威」、聖書、教会、国家、学校、会社、結婚等である。そこでは宣誓が合法的に課せられる。だから、家庭も学校も社会も会社も国家も誓いなしに成り立たないのである。