ウェストミンスター信仰告白116    主の2020115

 

聖書箇所:詩編第51121(旧約聖書P884885)

 

 

 

 「十七.聖徒の堅忍について」の三節

 

それにもかかわらず、彼らは、サタンとこの世の誘惑、自分のうちに残っている腐敗の優勢さ、また自分を保持する手段を怠ることによって、ひどい罪に陥り、しばらくの間そのうちにとどまることがある。このため彼らは、神の不興をひきおこし、神の聖霊を悲しませ、自分の受けている恵みや慰めをある程度奪われるようになり、心をかたくなにし、良心を傷つけ、他の人々をつまずかせ、また自分に一時的審判をもたらす。

 

 

 

今夜は、「十七.聖徒の堅忍について」の三節を学ぼう。

 

 

 

前回は、ウ告白十七章「聖徒の堅忍について」の二節を学んだ。ウ告白は聖徒の堅忍は、キリスト者の自由意志に基づかないと告白した。その理由は第一に父なる神の自由で不変の愛から出る選びによる聖定の不変性、第二キリストの功績と執り成しによる有効性、第三に聖霊の継続的内住と神の種が宿っておること、そして第4に恵みの契約の本質に基づいているからである。それらすべてから聖徒の堅忍の確実性と無謬性が生じると、ウ告白は述べている。

 

 

 

今夜は、わたしたちの聖徒の堅忍の負の面を学ぼう。キリスト者はしばしば罪を犯し、聖霊を悲しませる。ウ告白は、その罪に陥る原因と結果を、神がわたしたちキリスト者を保持してくださる面から述べている。

 

 

 

いつものように他の訳と比較しょう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 それにもかかわらず、彼らは、サタンとこの世とのさまざまの誘惑や、自らの内に残っている腐敗の優勢さ、また自らを保持する手段をおろそかにすることなどによって、ひどい罪に陥ることがある。それによって彼らは神の不興をこうむり、神の聖霊を悲しませ、自分の受けている恵みの賜物と慰めをある程度取り去られ、その心はかたくなにされ、良心は傷つけられる。また他の人々を害し傷つけ、自らに一時的な裁きをもたらす。

 

(2)松谷好明訳

 

 それにもかかわらず、聖徒たちは、サタンと世のさまざまな誘惑、彼らの内に残っている腐敗の勢い、彼らを保護してくれる手段を無視すること、によって、ひどい罪に陥り、しばらくの間その中に留まり続けることがある。それによって彼らは、神の不興を招き、神の聖霊を悲しませ、自分たちに与えられている恵みの賜物と慰めをある程度取り去られるに至り、その心はかたくなにされ、良心は傷つけられ、他の人々を損ない、つまずかせ、自分たちに一時的な裁きを招く。

 

(3)鈴木英昭訳

 

 それにもかかわらず、サタンとこの世の誘惑、自分のうちに残っている腐敗の力、そして自分を保持する手段を用いることの怠慢によって、彼らはひどい罪に陥り、しばらくの間そこにとどまることがある。その結果、彼らは、神の不興を引き起こし、神の聖霊を悲しませ、自分の恵みや慰めをある程度奪われ、心が硬化し、良心が傷つき、他の人々に害を与えつまずかせ、自分自身に一時的な裁きをもたらす。

 

 

 

 今夜は詩編51編を輪読した。サムエル記下11章でダビデ王がウリヤの妻バト・シバと姦淫の罪を犯したことが背景にある。

 

 

 

 ダビデ王は聖徒である。彼は、サタンとこの世の誘惑、そして彼の内にある咎(罪の腐敗)によって、また彼を守ってくれる神の律法(十戒)を無視して、彼の忠実な家来であるウリヤの妻バト・シバと姦淫の罪を犯した。それは、主なる神を悲しませ、怒らせた。主なる神は、預言者ナタンを通してダビデの罪を糾弾された。ダビデが主なる神に賜った恵みと慰めをある程度奪われた。彼の家族に次々と不幸が起こり、ダビデは息子アブサロムの反逆と親友のアヒトフェルの裏切りで王座を奪われ、心を傷つけられた。ダビデは、他の人々に害を与え、躓かせ、彼自身は王座を奪われ、エルサレムの都からユダの荒れ野に逃亡した。このように主なる神は、罪を犯したダビデを一時的に裁かれた。

 

 

 

 キリスト者(聖徒)はキリストの十字架によって罪赦されても、なお罪に腐敗した身である。サタンとこの世の誘惑に負ける。身を守る神の恩恵の手段を用いないで、礼拝を怠け、祈りを怠り、ダビデのように罪に陥り、その状態を続けることがある。その結果、主なる神の不興を招き、神の恵みと慰めをある程度奪われる。また自らは愚かとなり、隣人を害し、躓かせる。神は一時的に裁かれる。それでも神はダビデを保護されたように、わたしたちを保護してくださる。聖徒の堅忍は聖人の歩みではなく、罪人の神の恩寵による歩みである。

 

ウェストミンスター信仰告白117    主の2020122

 

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第5111(新約聖書P279280)

 

 

 

 「十八.恵みと救いの確信について」の一節

 

たとえ偽善者や他の再生しない人々が、神の愛顧と救いの状態にあるという偽りの希望や肉的うぬぼれをもって、自分をいたずらに欺くことがあても、彼らのこのような希望は消え去ってしまう。しかし主イエスを真実に信じ、誠実に愛し、全くよい良心をもってみ前に歩くように努める人々には、自分が恵みの状態にあることを、この世において確実に確信させられ、また神の栄光にあずかる希望をもって喜ぶことができる。この希望は決して彼らを失望に終わらせない。

 

 

 

今夜は、「十八.恵みと救いの確信について」の一節を学ぼう。

 

 

 

前回は、ウ告白十七章「聖徒の堅忍について」の三節を学んだ。ウ告白は、次のように述べる。キリスト者に罪の腐敗があり、この世の誘惑があり、また、キリスト者が神の恵みの手段を怠ることがあり、罪に陥ることがある。その結果、神の一時的な怒りを被り、頑なになり、聖霊を悲しませ、自分と隣人の心を傷つけ、神の一時的な裁きを、ダビデのように受けることになる。それでも神はキリスト者を御国に至るまで保持し守られる。

 

 

 

今夜から聖霊がわたしたちキリスト者に与えられる神の恵みと救いの確信について学ぼう。ウ告白10章から学んで来た聖霊論は、この章で終わる。聖霊は、キリスト者を有効に召され、義とし、子とし、聖とし、この世で信仰と悔い改めに導き、善き業を奨励し、御国に至るまで保持し、恵みと救いの確信を与えて、終末における希望へと導かれる。

 

 

 

いつものように他の訳と比較しょう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 偽善者たちと他の再生していない者たちが、自分は神の愛顧の内にあり、救いの状態にあるという偽りの希望と肉的な思い込みによって、自らを欺くことがあってもそれは無駄である。(彼らのその希望は必ず消え去る)。それにもかかわらず、主イエスを真実に信じ、心から愛して、ひたすら正しい良心をもって主の御前で歩もうと努めている者たちは、自分が恵みの状態にあることを、この世において、確かに確信でき、神の栄光にあずかる希望をもって喜ぶことができる。そしてその希望は、決して彼らを失望に終わらせることはない。

 

(2)松谷好明訳

 

 偽善者と他の再生していない人々が、自分たちは神の愛顧を得て救いの状態にある、という偽りの希望と肉的な思い込みで、愚かにも自らを欺くことがある—彼らのそのような希望は必ずついえ去るーが、しかし、主イエスを真実に信じ、心から彼を愛して、その御前に全き良心をもって歩もうと努めている者たちは、自分たちが恵みの状況にあることを、この世において、確かに確信することができ、神の栄光にあずかる希望をもって喜ぶことができる。-この希望は、決して彼らを失望させることはない。

 

(3)鈴木英昭訳

 

 偽善者や再生していない人々が、神の愛顧と救いの状態にあるという偽りの望みと人間的な自信をもって、自分を無益に欺いたとしても、彼らのこの望みは消え去る。しかし、全く善良な良心をもって主の前を歩もうと努め、主イエスを真実に信じ、誠実に愛する人々は、この世において、自分が恵みの状態にあることを、必ず確信させられ、神の栄光の望みを享受することができる。この望みは決して彼らを失望に終わらせない。

 

 

 

 ウ告白は、偽善者と再生していない人々の偽りによる信仰の確信と真のキリスト者の真実の信仰の確信とを比較している。そして、ウ告白は次のように述べている。前者は偽りの望みを持ち、この世において彼らは人間的な自信にあふれる。しかし、彼らの自信と望みは彼らの死と共に消え去る。しかし、後者は聖霊に寄り頼み礼拝人生を歩もうと努める。主イエスを真実に信じ、心から彼を愛し、彼に服従して生きる。彼らは聖霊によって常に自分たちが神の恵みの状態にあることを確信させられる。ゆえに我らの国籍は天にあり、終わりの日に神の栄光にあずかる希望を与えられている。そして、彼らの希望は、彼らが死んでも取り去られないのである。

 

 

 

 ウ告白の17章と18章はコインの裏表の関係である。神がキリスト者を保持し、守り、御国へと導かれる聖徒の堅忍が外枠をなし、キリスト者の神の恵みと救いの確信が内枠となり、キリスト者は決して失望することなく、終末の希望に生かされ、神の栄光の状態に入れる喜びに満たされる。キリスト者の神の恵みと救いの確信は、主イエスを真実に信じ、愛し、彼に服従する信仰によって得られる。

 

ウェストミンスター信仰告白118    主の2020129

 

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙第11114(新約聖書P352)

 

 

 

 「十八.恵みと救いの確信について」の二節

 

この確実性は、誤りをまぬがれない希望に基づいた、ただの推測的なもっともらしく見える信念にすぎないものではない。それは、救いの約束の神的真理、この約束がなされた恵みの内的証拠、わたしたちが神の子であることを、わたしたちの霊と共にあかしする子たる身分を与えるみたまの証明の上に打ち建てられた信仰の無謬の確信なのである。このみたまは、わたしたちの嗣業の保証であり、このみたまによってわたしたちはあがないの日のために証印されている。

 

 

 

今夜は、「十八.恵みと救いの確信について」の二節を学ぼう。

 

 

 

前回は、ウ告白十八章「恵みと救いの確信について」の一節を学んだ。前回は、ウ告白が非キリスト者とキリスト者の偽りの確信とまことの信仰の確信とを比較し、キリスト者は神の御言葉に基づいてキリストへの信仰があり、それゆえに自分が恵みの状態にあることを確信し、その希望の確信は決して失われないと告白していることを学んだ。

 

 

 

今夜は、「恵みと救いの確信について」の根拠を学ぼう。ウ告白は、神の御言葉に基づいてキリスト者の「恵みと救いの確信について」、その確実性を述べ、その根拠を聖霊の証印と教えている(エフェソ1:1314)

 

 

 

いつものように他の訳と比較しょう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 この確信は不確かな希望に基づく単なる推測的な、もっともらしい信念ではない。それは、救いの諸約束の神的真実性と、これらの約束に伴って与えられるさまざまの恵みの賜物が現に与えられているという内的証拠と、さらに、われわれが神の子であることをわれわれの霊とともに証しする、子とする霊の証しとに基礎を置く、誤ることのない信仰の確信である。この御霊はわれわれが相続財産を受け継ぐ保証であり、御霊によってわれわれは、贖いの日に対して保証されているのである。

 

(2)松谷好明訳

 

 この確かさは、はかない希望に基づく、単なる推測的で、もっともらしい信念ではなく、[第一に]救いの約束についての神的真理と、[第二に]これらの約束が与えるとしていた種々の恵みの賜物が現に与えられているという内的証拠、および、[第三に]わたしたちが神の子であることを、わたしたちの霊と共に証しする、子とする霊の証し、に基礎を置く、信仰による無謬の確信である。この御霊は、わたしたちが嗣業を受け継ぐ保証であり、御霊によってわたしたちは、贖いの日のために証印されている。

 

(3)鈴木英昭訳

 

 この確実性は、不確かな望みによる、推測的でもっともらしい単なる信念ではない。それは信仰からくる誤ることがない確信であって、救いのもろもろの約束に見られる神的真理、これらの約束が与えた恵み内的証拠、そして、わたしたちに神の子の身分を授ける御霊の証言、とに基づくものである。この御霊はわたしたちが御国を受け継ぐことの保証であり、かれによってわたしたちは、贖いの日のために証印を押されている。

 

 

 

 アブラハム・カイパーは、キリスト者の自己意識を「罪の意識」「信仰の確信」「聖霊の証言」のこの3つを挙げている。ウ告白は、「恵みと救いの確信について」の根拠を、「聖霊の証言」に置いていると、わたしは思う。

 

 

 

 「聖霊の証言」とは、わたしたちが聖書を読む時、説教を聴く時、聖書を神の御言葉と信じることである。神の御言葉(キリスト・聖書・説教)に基づいて、わたしたちは「神の恵みと救いについて」の確実性を確信する。だから、ウ告白は、キリスト者の信仰の確信がわたしたちの主観的、または推測的信念ではないと述べている。

 

 

 

 ウ告白は、キリスト者の信仰の確信の根拠を、聖霊がわたしたちの心に証印してくださった信仰から来る無謬の確信であると述べている。

 

 

 

 ウ告白は、「救いの約束の神的真理」、「この約束がなされた恵みの内的証拠」「わたしたちが神の子であることを、わたしたちの霊と共にあかしする子たる身分を与えるみたまの証明」によってわたしたちの信仰の確信が成り立っていることを述べている。聖霊は、聖書の救いの約束の神的真理を福音としてわたしたちに伝え、心にキリストを信じ、信頼する信仰(内的証拠)を起こさせ、わたしたちが神の子であることを証しし、御国に至るまで信仰の確信を持続させる。

 

ウェストミンスター信仰告白119    主の202025

 

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第515(新約聖書P279)

 

 

 

 「十八.恵みと救いの確信について」の三節

 

この無謬の確信は、信仰の本質には属していないので、真の信者がそれにあずかるものとなる前に、長く待ち、また多くの困難と戦うことがある。しかし彼は、神から自由に自分に与えられている事柄をみたまによって知ることができるようにされているので、特殊な啓示なしに、普通の手段を正しく使うことによって、これに到達することができる。それゆえ、自分の召命と選びを確かにするために全く勤勉に努めることは、すべての信者の義務である。これによって彼の心は、この確信の結ぶ正しい実である、聖霊による平和と喜び、神への愛と感謝、服従の義務を果たす力とよろこびにおいて、増大されるようになる。それは人々を放じゅうに傾かせることから程遠いものである。

 

 

 

今夜は、「十八.恵みと救いの確信について」の二節を学ぼう。

 

 

 

前回は、ウ告白十八章「恵みと救いの確信について」の二節を学んだ。「恵みと救いの確信」の確実性、すなわち、その根拠は、それは信仰から来る無謬の確信である。キリスト者は御霊の証印を受けて、聖霊によって、神の子の身分を与えられ、御国の相続を保証されている。

 

 

 

今夜は、「恵みと救いの確信」が信仰の本質ではないことを学ぼう。キリスト者すべてが信仰から来る無謬の確信を持っているのではない。だから、ウ告白は、キリスト者がそれを得るのは、長い時間と戦いと困難があり、祈りと御言葉を用いてその確信に達することができる。そのために勤勉に励むことはキリスト者の義務である。キリスト者のここにある「聖霊による平和と喜び」「神への愛と感謝」「キリスト者の義務を果たす力と喜び」は確信の結ぶ実である。

 

 

 

いつものように他の訳と比較しょう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 この誤ることのない確信は、真の信仰者なら必ずそれを持っているというようには信仰の本質に属するものではなく、信仰者もそれを持つようになるまで、長く待ち、多くの困難と闘うことがある。とはいえ、信仰者は神から自分に無償で与えられているさまざまなものを、御霊によって知ることができるようにされているので、特別な啓示がなくても、通常の手段を用いることによって、この確信に到達することができる。それゆえ自分が召されていることと選ばれていることを確かなものにするように懸命に努めることが、あらゆる信仰者の義務である。そうすることによって彼の心は、この確信の本来の果実である聖霊による平和と喜び、神への愛と感謝、服従の義務を果たす力と喜ばしさで、広くされるであろう。このような確信が人々を放縦に傾かせることは決してない。

 

(2)松谷好明訳

 

 この無謬の確信は、信仰の本質に属するほどのものではないから、真の信者も、その確信を持つ者になるまで長く待ち、多くの困難にぶつかることがある。しかしそういう人も、神から無償で自分に与えられているさまざまなものを、御霊によって知ることができるようにされるので、特別な啓示なしでも、通常の手段を正しく用いることにより、無謬の確信に到達することができる。従って、自分の召命と選びを確かにするために熱心に努めることは、すべての信者の義務である。そうすることによって彼の心は、この確信のふさわしい実りである、聖霊による平和と喜び・神への愛と感謝・従順の義務を果たす力と楽しさ、で満たされるであろう。—無謬の確信が、人々を放縦に誘うことなどありえない。

 

(3)鈴木英昭訳

 

 この誤ることがない確信は、信仰の本質に属していないので、まことの信者がそれをもつまでには長く待ち、多くの困難と戦うことがある。しかし、彼は、神から無償で与えられる事柄を御霊によって知ることができるようにされているので、特殊な啓示なしに、通常の手段を正しく用いることによって、この確信に到達することができる。

 

 したがって、自分の召しと選びとを確かにするために、努めて勤勉であることは、信者すべての義務である。その結果、信者の心は、聖霊による平和と喜び、神への愛と感謝、服従の義務への力と喜びでいっぱいになる。これらはこの確信がもたらすみであって、人々を放縦にさせるようなことはあり得ない。

 

 

 

 ウ告白が言う「信仰の本質」とは義認。聖化、永遠の命等である。信者であればだれもが持っているものである。無謬の確信は神の選民であっても持っていない者がいる。だから、ウ告白は無謬の確信を得るためにキリスト者は、聖霊に謙虚に信頼し、神が無償で与えられた様々な恵みを知らせていただき、礼拝、祈り、聖書という手段を用いてこの確信を得るように努力すべきである。

 

ウェストミンスター信仰告白120    主の2020212

 

聖書箇所:ミカ書第7710(旧約聖書P14571458)

 

 

 

 「十八.恵みと救いの確信について」の四節

 

まことの信者も、自分の救いの確信を維持することの怠慢、良心を傷つけ・みたまを悲しませるある特殊な罪に陥ること、ある突然の激しい誘惑、神がみ顔の光をかくされて神を恐れる者をさえもやみの中を歩き光を持たないままにしておかれることによるなど、種々の方法によって、それを動揺させ、減らし、中断させることがある。しかし彼らは決して、神の種と信仰の命、キリストと兄弟とへの愛、義務を行う心と良心の誠実さ、を全く欠いているのではない。これから、みたまの働きによって、適当な時にこの確信が回復され、またこれらによって、全くの絶望に陥らないように、その間を支えられる。

 

 

 

今夜は、「十八.恵みと救いの確信について」の四節を学ぼう。

 

 

 

前回は、ウ告白十八章「恵みと救いの確信について」の三節を学んだ。「恵みと救いの確信」は、信仰の本質ではないと述べて、ウ告白は次のように述べる。この信仰の確信を得るには、多くの時間と困難がある。聖霊が神の無償の数々の恵みを知ることができるようにしてくださる。聖霊は礼拝、御言葉と礼典と祈りの手段を用いて信者を無謬の確信に至らされる。だから、自分の召命と選びの確信のために努力することは信者の義務である。それによって信者は心に確信を得、その結果、聖霊の実である平和と喜び、神への愛と感謝、服従の義務を果たす力と楽しさを、信者は得ることができる。

 

 

 

今夜は、信者は絶望状況に置かれても、聖霊の働きによって必ず信仰の確信を回復されることを学ぼう。神は真の信者を絶望に陥らないように守られる。

 

 

 

いつものように他の訳と比較しょう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 真の信仰者たちも、自分の救いについての確信がさまざまの仕方で揺すぶられ、弱められ、中断されることがある。それは、たとえば確信を維持することを怠ったり、良心を傷つけ、御霊を悲しませるような何か特別な罪に陥ったり、また、何か突然の、あるいは激しい誘惑を受けたり、神が御顔の光を取り去られて、神を畏れるものたちさえも闇の中を歩いて、全く光がないような目にあわせられたりすることによってである。それにもかかわらず、彼らは神の種と信仰の命、キリストと兄弟たちへの愛、心の誠実さと義務感、を全くなくしてしまうことは決してなく、これらのものから、御霊の働きによって、この確信は、しかるべき時に、回復される。そしてそれまでの間も、これらのものによって、彼らは全くの絶望に陥らないように支えられるのである。

 

(2)松谷好明訳

 

 真の信者たちも、自分たちの救いについての確信をさまざまな仕方で揺すぶられ、弱められ、とぎれさせられることがある。それは、例えば、[第一に]確信の維持に努めようとしないことによって、[第二に]良心を傷つけ、御霊を悲しませる、何か特別な罪に陥ることによって、また、[第三に]何か突然の、あるいは、激しい誘惑によって、[第四に]神が御顔の光をおおってしまわれ、神を畏れる者たちさえも暗闇の中を歩ませ、光を持てないようにされることによって、である。しかし彼らは、神の種と信仰の命、キリストと兄弟たちへの愛、心の誠実さと義務感、を完全に欠いてしまうことは決してなく、かえって、これらのものが基となって、この救いの確信は、御霊の働きにより、しかるべき時に回復されることができ、また、これらのものによって彼らは、それまでの間、完全な絶望に陥らないよう守られる。

 

(2)鈴木英昭訳

 

 まことの信者も、自分たちの救いの確信をさまざまな仕方で動揺させられ、弱められ、一時的に中断させられることがあるかもしれない。それは、救いの確信を維持することを怠ったり、良心を傷つけ御霊を悲しませるある特別の罪に陥ったり、何らかの突然の激しい誘惑によったり、神が神を畏れる者たちにさえ御顔の光を隠されるため、神への恐怖から闇のなかを歩き、光をもたないようになったりするために起こる。

 

 しかし、彼らは決して、神の種、信仰による命、キリストと兄弟たちへの愛、心の誠実さ、義務への良心を全く欠いてしまうことはない。この確信は、これらのものにより、御霊の働きによって、時が来れば回復される。それまでの間も信者たちは全く絶望してしまわないように、これらによって支えられる。

 

 

 

 信仰は旅にたとえられる。その途上の信者は不信仰の時、怠惰な時、誘惑の時がある。それらによって自分の心を傷つけ、御霊を悲しませる大きな罪に陥る時がある。ヨブの苦難のように真の信者が苦難を味わう。ヨブのように神の御顔が隠され、信者は毎日暗闇の中にいると感じるだろう。出口が見えず、光が射さないし絶望の中に置かれていると。しかし、決して信者が絶望に終わることはない。聖霊が信者の信仰を守り、信仰の確信を回復してくださる。