ウェストミンスター信仰告白55 主の2018年10月24日
聖書箇所:詩編第113編1-9節(新約聖書P954)
「七.人間との神の契約について」の「一」
神と被造物とのへだたりはまことに大きいので、理性的被造物が創造主としての神に対して服従しなければならぬ義務があるとはいえ、彼らが自分の祝福や報いとして、神を喜ぶということは、神が契約という方法で表わすことをよしとされた神の側のある自発的なへりくだりによる以外には、決してできなかった。
前回は、告白第七章「人間との神の契約について」を学ぶために、必要な基礎知識を学んだ。
今夜は、「一」節である。矢内昭二牧師は、「ここはこの章全体の総論、あるいは基礎的なことをいっている」と指摘されている(『ウェストミンスター信仰告白講解』P87)。前回学んだ神と人との契約関係そのものの意味を論じているのである。
第7章一節を他の訳と比較しよう。
(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
神と被造物の間の隔たりは非常に大きいので、理性的被造物は、自らの創造者である神に服従すべき義務をじっさい負っているとは言え、自らの幸いまた報いとして神を喜ぶということは、神の側のある自発的なへりくだりによるのでなければ、決してあり得ないことであろう。そして、このへりくだりを神は契約という方法で表すことをよしとされたのである。
(2) 松谷好明訳(一麦出版社)
神と被造物との間の隔たりは非常に大きいので、理性ある被造物は、彼らの創造者としての神に当然従順であるべきではあるが、神の側での何らかの自発的なへりくだりによるのでなければ、自分たちの幸いと報いの源として神を喜びとすることは決してできない。このへりくだりを、神は、契約という形で表すことをよしとしてこられた。
鈴木英昭訳(つのぶえ社)
神と被造物とのへりくだりは極めて大きい。それゆえ、理性的被造物は、彼らの創造者としての神に服従する義務があるにもかかわらず、契約という方法であらわすことをよしとされた神の側のへりくだりがなかったなら、彼らは自己に与えられた祝福また報償として、神を喜ぶことは決してできなかった。
今夜は、聖書の「契約」は、神と人間との関係である。その関係の起源は神の創造である(創世記1章と2章)。聖書の神は創造者であり、人間とこの世界は被造物である。創造者なる神は永遠の存在で、被造物は物的・時間的存在である。だから、ウ告白は「神と被造物とのへだたりはまことに大きい」と告白するのである。
「理性的被造物」とは人間である。パスカルが有名な『パンセ』という書物の中で「人間は考える葦である」と書いている。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう』。・・・神は自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(創世記1:26-27)。神は人間を御自身との関係性において創造された。理性を与え、彼の心に律法を与え、「彼らの創造者としての神に服従する義務がある」ものとして創造された(ウ告白4:2)。
聖書の契約は、創造者と被造者という関係を土台としたものである。その限りでは、創造者と理性的被造物の対等の契約はあり得ない。絶対者と服従者との関係があるのみである。
だが、神は、アダムにエデンの園を与えられた。彼の心に律法を刻まれるだけでなく、特別な摂理として神はアダムに命じられた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16-17)。だから、ウ告白は、4章2節で「これを守っている間は、神との交わりにおいてしあわせであり、もろもろの被造物を支配していた」と告白し、今夜のところでは、「契約という方法であらわすことをよしとされた神の側のへりくだりがなかったなら、彼らは自己に与えられた祝福また報償として、神を喜ぶことは決してできなかった」(鈴木訳)と告白するのである。
キリスト者の信仰生活は、神の創造と契約の上に成り立っているのである。
ウェストミンスター信仰告白56 主の2018年10月31日
聖書箇所:創世記第2章15-17節(新約聖書P3)
「七.人間との神の契約について」の「二」
人間と結ばれた最初の契約はわざの契約であって、それによって、本人の完全な服従を条件として、アダムに、また彼においてその子孫たちに命が約束された。
前回は、ウ告白第七章「人間との神の契約について」の「一」を学んだ。この章全体の総論である。聖書の契約は創造者と被造者の関係を土台とし、神のへりくだりによってなされたものであることを学んだのである。
今夜は、「二」節である。ウ告白は、神と人との最初の契約は、「わざ(行い)の契約」であったと告白する。そして、アダムと彼の子孫の神への完全な服従を条件として、神は命(永遠の命)を約束されたと告白する。
第7章二節を他の訳と比較しよう。
(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
人間と結ばれた最初の契約は行いの契約であって、そこでは命がアダムに、そして彼にあって、その子孫に、やくそくされた。完全な、本人自身の服従を条件として。
(2) 松谷好明訳(一麦出版社)
人間と結ばれた最初の契約は、行いの契約で、その契約においては、命が、完全で個人的な従順を条件に、アダムと、アダムにあって彼の子孫とに、約束されていた。
鈴木英昭訳(つのぶえ社)
人間と結ばれた最初の契約は、業の契約である。それにおいて神は、完全で個人的な服従を条件として、アダムに、また彼においてその子孫に命が約束された。
ウ告白は、最初の契約、すなわち、業(行い)の契約について、すでに4章2節で次のように告白している。「理善悪を知る木から食べるな、という命令を受けたが、これを守っている間は、神との交わりにおいてしあわせであり、もろもろの被造物を支配していた」と。
ウ告白は、こう告白する。最初の契約、業の契約はアダムが神の命令を破れば、死を罰則としていた。それにも関わらず命の契約である。アダムが守っている間は神との交わりの中でしあわせであり、神に代わって神が創造された被造物を支配し、文化命令を果たしていた(創世記1章28節)と。
ウ大小教理は、この「わざ(行い)の契約」を「命の契約」と命名している(大20、小12)。ウ小教理は、この最初の契約を、神がアダムに「特別な摂理の行為」をされたと告白している。
矢内昭二先生は、「命の契約」という名称を「信仰告白は契約において人間が果たすべき条件の方からつけた呼び名」と説明し、次のように解説されている。「わざの契約において、神は人間に永遠の命を約束なさったのです(小教理12、大教理20)。神は人間の前に生命と死を置き、どちらか好きな方を選べとおしゃったのではありまっせん。人間に対する神のご意志は人間が完全な服従を神にささげ永遠の生命を得ることなのです」(『ウェストミンスター信仰告白講解』P88-89)。
「わざ(行い)の契約」という名称は、聖書(創世記2章)に出ていない。「三位一体」と同様の神学(教理)用語である。
「わざの契約」は、当事者(神とアダム(彼の子孫(全人類)も含む))、条件(アダム自身の完全な服従)、約束(命)、保証(命の木)、罰則(死)から成り立っている。保証についてはウ大教理問20と答にある。
わざの契約は特別な摂理であるが、人の心に刻まれた律法と無関係ではない。使徒パウロは、「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」(レビ記18:5、ローマ10:5)と言っている。神はアダムに契約を履行し、成就する能力を授けられていたのである。
わざの契約は贖いの契約の土台の上に成り立っている(ローマ5:11-20)。
ウェストミンスター信仰告白57 主の2018年10月31日
聖書箇所:創世記第2章15-17節(新約聖書P3)
「七.人間との神の契約について」の「二」
人間と結ばれた最初の契約はわざの契約であって、それによって、本人の完全な服従を条件として、アダムに、また彼においてその子孫たちに命が約束された。
前回は、ウ告白第七章「人間との神の契約について」の「一」を学んだ。この章全体の総論である。聖書の契約は創造者と被造者の関係を土台とし、神のへりくだりによってなされたものであることを学んだのである。
今夜は、「二」節である。ウ告白は、神と人との最初の契約は、「わざ(行い)の契約」であったと告白する。そして、アダムと彼の子孫の神への完全な服従を条件として、神は命(永遠の命)を約束されたと告白する。
第7章二節を他の訳と比較しよう。
(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
人間と結ばれた最初の契約は行いの契約であって、そこでは命がアダムに、そして彼にあって、その子孫に、やくそくされた。完全な、本人自身の服従を条件として。
(2) 松谷好明訳(一麦出版社)
人間と結ばれた最初の契約は、行いの契約で、その契約においては、命が、完全で個人的な従順を条件に、アダムと、アダムにあって彼の子孫とに、約束されていた。
鈴木英昭訳(つのぶえ社)
人間と結ばれた最初の契約は、業の契約である。それにおいて神は、完全で個人的な服従を条件として、アダムに、また彼においてその子孫に命が約束された。
ウ告白は、最初の契約、すなわち、業(行い)の契約について、すでに4章2節で次のように告白している。「理善悪を知る木から食べるな、という命令を受けたが、これを守っている間は、神との交わりにおいてしあわせであり、もろもろの被造物を支配していた」と。
ウ告白は、こう告白する。最初の契約、業の契約はアダムが神の命令を破れば、死を罰則としていた。それにも関わらず命の契約である。アダムが守っている間は神との交わりの中でしあわせであり、神に代わって神が創造された被造物を支配し、文化命令を果たしていた(創世記1章28節)と。
ウ大小教理は、この「わざ(行い)の契約」を「命の契約」と命名している(大20、小12)。ウ小教理は、この最初の契約を、神がアダムに「特別な摂理の行為」をされたと告白している。
矢内昭二先生は、「命の契約」という名称を「信仰告白は契約において人間が果たすべき条件の方からつけた呼び名」と説明し、次のように解説されている。「わざの契約において、神は人間に永遠の命を約束なさったのです(小教理12、大教理20)。神は人間の前に生命と死を置き、どちらか好きな方を選べとおしゃったのではありまっせん。人間に対する神のご意志は人間が完全な服従を神にささげ永遠の生命を得ることなのです」(『ウェストミンスター信仰告白講解』P88-89)。
「わざ(行い)の契約」という名称は、聖書(創世記2章)に出ていない。「三位一体」と同様の神学(教理)用語である。
「わざの契約」は、当事者(神とアダム(彼の子孫(全人類)も含む))、条件(アダム自身の完全な服従)、約束(命)、保証(命の木)、罰則(死)から成り立っている。保証についてはウ大教理問20と答にある。
わざの契約は特別な摂理であるが、人の心に刻まれた律法と無関係ではない。使徒パウロは、「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」(レビ記18:5、ローマ10:5)と言っている。神はアダムに契約を履行し、成就する能力を授けられていたのである。
わざの契約は贖いの契約の土台の上に成り立っている(ローマ5:11-20)。
ウェストミンスター信仰告白58 主の2018年11月7日
聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙第3章21-22節(新約聖書P346)
「七.人間との神の契約について」の「三」
人間は自分の堕落によって、自らを、この契約によっては命を得られないものにしてしまったので、 主は普通に恵みの契約と呼ばれる第二の契約を結ぶことを、をよしとされた。それによって、神は罪人に、命と救いを、イエス・キリストによって、価なしに提供し、彼らからは、救われるためにキリストへの信仰を要求し、そして命に定められたすべての人々が信じようとし、また信じることができるようにするために、聖霊を与えると約束された。
今夜は、ウ告白の第七章の「三」節を学ぼう。前回は、二節で神と人間との最初の契約、「わざの契約(行いの契約)」を学んだ。神はアダム(人間)の完全な服従を条件として、永遠の命を約束された。
しかし、アダムの原罪によって、全人類は堕落し、自らの行いの契約によって、命を得られなくなった。そこでウ告白は、三節で「主は普通に恵みの契約と呼ばれる第二の契約を結ぶことを、をよしとされた。」と告白し、恵みの契約について述べているのである。
第7章三節を他の訳と比較しよう。
(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
人間はその堕落によって、自らをこの契約によって命を得ることができないようにしてしまったので、主は、通常、恵みの契約と呼ばれている第二の契約を結ぶことをよしとされた。そこでは、主は罪人に、命と救いをイエス・キリストによって無償で提供しておられる。そして、彼らからは救われるためにイエス・キリストへの信仰を要求し、永遠の命に定められているすべての者たちには、進んで信じるように、また信じることができるようにするためにかれの聖霊を与えることを約束しておられる。
(2) 松谷好明訳(一麦出版社)
人間は、自らの堕落により、自分自身を、その契約によっては命を受けられなくしてしまったため、主は、一般に恵みの契約と呼ばれる、第二の契約を結ぶことをよしとされた。この契約において主は、罪人に、イエス・キリストによる命と救いを無償で提供し、彼らからは、救われるために、イエス・キリストに対する信仰をお求めになり、そして、永遠の命に定められている者たちすべてに、彼らが信じたいと願い、また信じることができるようにするため、彼の聖霊を与えることを約束しておられる。。
鈴木英昭訳(つのぶえ社)
人間は、自分の堕落によって、自らを、この業の契約によっては命を得ることができない者にしてしまったので、主は、通常、恵みの契約と呼ばれる第二の契約を結ぶことをよしとされた。そこでは、神は罪人に、命と救いを、イエス・キリストによって無償で提供し、彼らが救われるために彼らからキリストへの信仰を要求する。そして、永遠の命に定められたすべての人々が、キリストを信じようとするように、また信じることができるように、御自身の聖霊を与えることを約束された。
ウ告白は、主が罪人と結ばれた第二の契約を、「通常、恵みの契約と呼ばれる」と述べている。
恵みの契約と業の契約との違いは、以下の通りである。業の契約の当事者は、神とアダム(人間、全人類)である。神への服従という行いを条件として、命が約束され、命の木がその保証である。
「第二の契約」、恵みの契約の当事者は、神と「命に定められたすべての人々」、すなわち、「選民」(大教理問31の答)である。神は、選ばれた者たちに、主イエス・キリストへの信仰を条件として、命と救いを約束されている。そして、神は選民のキリストへの信仰を保証するために、彼らに御自身の聖霊を与えることを約束されている。
神は、恵みの契約において、永遠よりキリストにあって選ばれた民すべてに、無償で命と救いを提供された。神は、キリストを神と選民の仲保者として立て、彼が受肉し、歴史の中で十字架と復活の御業によって選民の罪を贖われ、彼らの義を得られた。そして、神は選民に求められるキリストへの信仰こそ選民が救いと命を得る条件である。神は選民にその条件を満たさせるために、聖霊を与えると約束されたのである。
ウェストミンスター信仰告白59 主の2018年11月14日
聖書箇所:ヘブライ人への手紙第9章15-22節(新約聖書P411)
「七.人間との神の契約について」の「四」
この恵みの契約は、聖書で、しばしば遺言という名で表わされている。それは遺言者イエス・キリストの死と、それによって譲渡される永遠の遺産とに、それに属するすべてのものも含めて関連している。
今夜は、ウ告白の第七章の「四」節を学ぼう。前回は、三節で第二の契約、恵みの契約について学んだ。神がアダム(人間)と完全な服従を条件として、永遠の命を約束された業(行い)の契約は、アダムの原罪と全人類の堕落によって、実行不可能となった。そこで神は、御自身が命に定められた者と恵みの契約を結ばれた。イエス・キリストへの信仰を条件として、神は価なしに罪人に命と救いを提供された。神は命を定められた選民に聖霊を約束し、彼らは聖霊によってキリストを信じ、信じることができるようにされている。
今夜は、恵みの契約が遺言という性格を持つことを学ぼう。
第7章四節を他の訳と比較しよう。
(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
この恵みの契約は、聖書でしばしば遺言という名称で示されているが、それは遺言者であるイエス・キリストの死と、それにおいて遺贈される永遠の遺産とそれに属するすべてのもの、との関連でそう言われているのである。
(2) 松谷好明訳(一麦出版社)
この恵みの契約は、遺言者であるイエス・キリストの死と、それによって遺贈される永遠の嗣業、および、それに付随するすべてのもの、との関連で、聖書ではしばしば遺言「契約」という名で述べられている。
鈴木英昭訳(つのぶえ社)
この恵みの契約は、聖書において、しばしば遺言という名で表されている。それは、遺言に属するすべての事柄を含めて、遺言者イエス・キリストの死と、その遺言によって譲渡される永遠の遺産に関係している。
ウ告白は、恵みの契約が聖書でしばしば遺言という名で表されていると指摘する。ヘブライ人への手紙9章15-17節でヘブライ人への手紙の記者は、「キリストは新しい契約の仲介者」と述べ、キリストが「最初の契約(業の契約)の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださった」と述べている。キリストの死の目的は、神が召された者たちがすでに約束されている永遠の命を受け継ぐためである。
そして、ヘブライ人への記者は、「遺言の場合には、遺言者が死んだという召命が必要です。遺言は人が死んで初めて有効となるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません」と述べている。
そして、ヘブライ人への手紙の記者は、「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」と述べている(22節)。
恵みの契約の仲介者はキリストである。仲介者キリストの死によって、恵みの契約は、神が「命に定められたすべての人々」に遺言という形で不変的に適用される。遺言は遺言者が死ねば、効力を発揮し、不変的に変えられない。
「遺言者イエス・キリストの死」とは、父なり神が御子キリストの死において提供された不変的な贖いである。贖いは贖いを必要とする者に対して、神が恵みによって対応されることである。それが恵みの契約である。選民はそれを、イエス・キリストへの信仰によって罪の赦しとして経験するのである。だからヘブライ人への手紙の記者は「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」と述べているのである。キリストの十字架の贖いが罪の赦しであるからである。
だから、キリストの贖いの死が、今罪人であるわたしたちの罪の赦しとなるだけでなく、将来の約束への確信を与える。「永遠なる相続財産の約束」の確信である。仲介者キリストは恵みの契約の遺言者であり、彼の死が選民に不変の贖いをもたらし、罪の赦しを与え、永遠の命を遺贈し、「それに属するすべてのものを含む」である。恵みの契約に関連してあらゆる神の祝福が付随する。
ウェストミンスター信仰告白60 主の2018年11月21日
聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙第3章7-14節(新約聖書P345-346)
「七.人間との神の契約について」の「五」
この契約は、律法の時代と福音の時代とで異なって執行された。律法のもとでは、それは約束、預言、犠牲、割礼、過越の小羊、その他ユダヤの国民に与えられた予型や規定によって執行され、それらはすべて来るべきキリストを予示していて、約束のメシヤへの信仰によって選民を育てるのに、その時代にとっては聖霊の働きによって十分有効であった。このメシヤによって、彼らは完全なゆるしと永遠の救いを得ていた。それは旧約と呼ばれる。
今夜は、ウ告白の第七章の「五」節を学ぼう。前回は、四節で恵みの契約が遺言という性格を持つことを学んだ。遺言は第一に遺言者が死なないと効力を発揮しない。第二に遺言の効力が発揮されると、永遠に遺言の内容は変更されない。同様にキリストの十字架の死によって恵みの契約は、選民に贖いと罪の赦しと永遠の命と、それに付随するすべての祝福をもたらしたことを学んだ。
今夜と次で、恵みの契約が神の救いの歴史であることを五節と次の六節で学ぼう。ウ告白は、恵みの契約が律法(旧約)と福音(新約)の時代では異なって執行されたと述べて、五節では恵みの契約が旧約の時代にどのように執行されたか、六節では新約の時代にどのように執行されたかを述べている。
第7章五節を他の訳と比較しよう。
(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
この契約は律法の時代と福音の時代では執行の仕方が異なっていた。律法の下では、それはユダヤの民に与えられた約束、預言、犠牲、割礼、過越の小羊、またその他の予型や規定によって執行され、これらはすべて来るべきキリストをあらかじめ示していた。そしてそれらは選ばれた者たちに、約束のメシアに対する信仰を教え、強化するのに聖霊の働きを通して、その時代にとっては十分有効であった。このメシアによって彼らは罪の完全な赦しと永遠の救いを得ていたのである。そしてこれは旧約と呼ばれている。
(2) 松谷好明訳(一麦出版社)
この契約は、律法の時代と福音の時代とでは、異なる仕方で執行された。すなわち、律法の下では、この契約は、約束・預言・いけにえ・割礼・過越の子羊・その他、ユダヤ人の民に与えられたさまざまな予型と規定、によって執行されたが、これらはすべて、来るべきキリストを予示していた。これらは、選びの民を、約束されたメシヤに対する信仰において教え、造り上げるのに、御霊の働きを通して、その時代にとっては十分かつ有効であり、従って彼らは、このメシヤにより、完全な罪の赦しと永遠の救いを得ていた.—これが、旧約と呼ばれる。
鈴木英昭訳(つのぶえ社)
この契約は、律法の時代と福音の時代とでは異なった方法で執行された。律法のもとでは、ユダヤの民に与えられた預言、約束、犠牲、割礼、過越の小羊、その他の予型や規定によって執行され、それらはすべてやがて来るキリストをあらかぞめ示していた。またそれらは、その時代に、聖霊の働きによって、選民を約束のメシヤへの信仰へと教え育てるのに、十分であり有効で会った。この約束のメシヤによって、彼らは完全な罪の赦しと永遠の救いを得ていたのである。この契約が旧約と呼ばれる。
どうか、他の訳と読み比べて、この五節の重要性に心を止めてほしい。聖書は、旧約と新約から成ると知るだけでは十分ではない。ウ告白は、次のことを教える。聖書は一つの恵みの契約を証しする。律法(旧約)の時代と福音(新約)の時代で恵みの契約が異なった仕方(方法)で執行されたが、契約の神、仲保者のキリスト、キリストの信仰と罪の赦し、永遠の命の約束は同じである。
この恵みの契約は律法の下(旧約の時代)では、「約束、預言、犠牲、割礼、過越の小羊、その他ユダヤの国民に与えられた予型や規定によって執行され」た。
これらは、選民イスラエルに約束のメシヤ(キリスト)への信仰を教え、育てる手立てであった。聖霊がそれらの手立てを用いて、彼らにキリストとその救いを予示され、彼らがキリストへの信仰によって罪を赦され、永遠の命が得られるようにされたのである。
ウ告白の恵みの契約を理解する者は旧約聖書の中に約束のキリスト、預言のキリスト、十字架のキリスト、礼拝に臨在されるキリストを見出すだろう。
ウェストミンスター信仰告白61 主の2018年11月28日
聖書箇所:マタイによる福音書第28章16-20節(新約聖書P60)
「七.人間との神の契約について」の「六」
本体であるキリストが現わされた時代である福音のもとでは、この契約が実施される規定は、み言葉の説教と、洗礼並びに主の晩餐の礼典の執行である。それらは数が少なくなり、より簡単に見栄え少なく執行されてはいるが、それでもなお、この契約はそれらの中に、ユダヤ人にも異邦人にもすべての国民に、一層十分に明確に、そして霊的効力をもって提示されている。これが新約と呼ばれる。だから、本質上異なった二つの恵みの契約があるのではなくて、違った時代のもとに、同一のものがあるのである。
今夜は、ウ告白の第七章の「六」節を学ぼう。前回は、五節で恵みの契約は律法の時代(旧約)と福音の時代(新約)で異なって実施されたが、同じ恵みの契約であることを学び、旧約の時代の恵みの契約がどのように執行されたかを学んだ。律法の時代では約束・預言・犠牲・割礼・過越の小羊・その他ユダヤの民に与えられた予型や規定によって実施されたことを学んだ。これらは、キリスト本体の影であった。
今夜は、本体であるキリストが現わされた時代である福音の下で、恵みの契約がどのように執行されたかを学ぼう。
第7章六節を他の訳と比較しよう。
(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
本体であるキリストが明示された福音の下では、この契約が施行される諸制度は、御言葉の説教と、洗礼ならびに主の晩餐の礼典の執行である。これらは、律法の時代より数が減り、執行の仕方もより簡素で、外面的な輝きも減少しているが、それにもかかわらず、それらにおいて、恵みの契約はより一層十分さと明確さと霊的有効さをもって、すべての国民に、ユダヤ人にも異邦人にも、提示されている。そしてこれは新約と呼ばれている。それゆえ、本質において異なった二つの恵みの契約があるのではなく、施行の仕方は異なっているが、同一の契約があるのである。
(2) 松谷好明訳(一麦出版社)
実体であるキリストが提供された、福音の下では、この契約が実施される規定は、御言葉の説教と、洗礼および主の晩餐の聖礼典の執行である。これらの規定は、以前より数が少なく、より簡素に、以前ほどの外面的栄光なしに執行されるが、しかし、それらの規定において、この契約は、ユダヤ人にも異邦人にもすべての国民に対し、一層の十全性と確証と霊的効果をもって提示されており、これが新約と呼ばれる。従って、それぞれの時代に、実体において異なる二つの恵みの契約があるのではなく、全く同じ一つの契約があるだけである。
鈴木英昭訳(つのぶえ社)
本体であるキリストが現れてくださった福音のもとでは、この福音が実施される規定は、御言葉の説教、洗礼および主の晩餐の執行である。それらは既定の数においては少なくなり、より簡潔に外面的には控え目に執行されているが、この恵みの契約はそれらにおいて、ユダヤ人も異邦人も含めて、すべての国民にいっそう十分に明らかに、霊的効力をもって提示されている。この契約が新約と呼ばれる。したがって、本質の異なった二つの恵みの契約があるのではなく、異なった時代のもとに同一の契約があるのである。
よく他の訳を読み、聖書に旧約と新約があるのはどういう意味かを考えてください。聖書は恵みの契約である。その恵みの契約が旧約と新約では実施されている規定が異なっている。
本体であるキリストが現れたので、旧約時代に恵みの契約が律法の下で執行した「約束、預言、犠牲、割礼、過越の小羊、その他ユダヤの国民に与えられた予型や規定」は廃された。使徒パウロが言うとおりである。「これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。」(コロサイ2:17)。
そして、福音の時代(新約)の下では、恵みの契約は御言葉の説教と洗礼および主の晩餐の礼典で執行されている。
恵みの契約が実施される規定数は減りました。しかし、その恵みにあずかる者は限りなく増えました。ユダヤ人も異邦人も含むすべての国民に。そして、福音時代の下で実施される御言葉の説教と洗礼および聖餐の礼典は、十分にキリストとその御救いを伝え、罪の赦しと永遠の命を保証するものです。
ウェストミンスター信仰告白62 主の2018年12月5日
聖書箇所:イザヤ書第42章1-4節(旧約聖書P1128)
「八.仲保者キリストについて」の「一」
神はその永遠のご計画で、ご自身のひとり子主イエスを、神と人との間の仲保者、預言者、祭司、王、神の教会のかしらまた救い主、万物の世嗣、世界の審判者に選びまた任ずることをよしとされた。彼に対して、神は永遠の昔から、ひとつの国民を彼のすえとして与えて、時至ってあがなわれ、召命され、義とされ、聖とされ、栄光化されるようにされた。
今夜は、ウ告白の第八章の「一」節を学ぼう。
前回は、第7章6節を学んだ。キリストが現れ、福音の時代では恵みの契約は、御言葉(説教)と礼典(洗礼と聖餐)によって実施されたことを学んだ。旧約の律法の時代に比べると、簡潔になり、実施される手段は減ったが、より一層恵みの契約が理解され、その霊的効力は深められていることを学んだ。恵みの契約は、旧約と新約では実施される手段が異なっても、本質において一つの契約であることを学んだのである。
今夜は、ウ告白第8章1節を学ぼう。「仲保者キリストについて」である。このキリストこそ恵みの契約の中心でした。なぜなら、父なる神はわたしたち罪人に、命と救いを、この主イエス・キリストによって無償で与えようとされたのが、恵みの契約だからである。だから、父なる神はわたしたち罪人にキリストを信じる信仰のみを要求されるのである。ウ告白は、神と人との恵みの契約の唯一の仲保者としてのキリストを教えようとしているのである。
第8章一節を他の訳と比較しよう。
(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
神はその永遠の御計画において、自らの独り子主イエスを、神と人の間の仲介者、預言者・祭司・王、自らの教会の頭にして救い主、万物の相続者また世界の審判者、として選び、任命することをよしとされた。そしてこのイエスに、神はじっさい全くの永遠から、一つの民を与えて、かれの子孫とならせ、時至って、かれによって贖われ、召され、義とされ、聖とされ、栄光化されるようになさったのである。
(2)松谷好明訳(一麦出版社)
神は、御自身の永遠の計画により、その独り子である主イエスを、神と人間の間の仲介者として選び、任ずることをよしとし、彼を預言者・祭司・王、自らの教会の頭また救い主、万物の相続者、世界の審判者、とされた。神は、その主イエスに対して、彼の子孫となり、時至って彼により贖われ、召命され、義とされ、聖とされ、栄光を与えられる一つの民を、まったく永遠からお与えになられた。
(3)鈴木英昭訳(つのぶえ社)
神は、その永遠の計画のなかで、御自身のひとり子である主イエスを、神と人との間の仲保者、預言者、祭司、王、神の教会の頭また救い主、万物の世嗣、そして世界の審判者として選び任命することをよしとされた。神は、永遠の昔から、彼に彼の子孫として民を与え、彼らが時至って彼によって贖われ、召され、義と認められ、聖化され、栄光を受けるようにされた。
ウ告白は、わたしたち読者に7章に続いて、8章で恵みの契約の唯一の仲保者(仲介者)主イエス・キリストを紹介し、主イエスと教会(神の民イスラエルと新約の教会)との関係を述べているのである。
すでにウ告白の3章5節で、ウ告白は次のように告白している。「人類の中で命に予定されている者たちは、神が、世の基の置かれる前から永遠不変の目的とみ胸のひそかな計画と満足に従って、キリストにおいて永遠の栄光に選ばれたのであって、それは自由な恵みと愛だけから、被造物の中にある信仰・よきわざ・そのどちらかの堅忍・またはその他の何事をでも、その条件やそれに促す原因として予見することなく、すべてその栄光ある恵みの讃美に至らしめるために、選ばれたのである。」
父なる神は、永遠の御計画の中で、父の独り子である主イエスを、恵みの契約の唯一の仲保者として選び、彼を預言者・祭司・王、教会の頭また救い主、万物の相続者、世界の審判者に任命されたのである。
そして、この世にあっては、神の御計画は恵みの契約の歴史として展開され、キリストは彼に与えられた民を、御自身へと一つに集められるのである。
ウェストミンスター信仰告白63 主の2018年12月11日
聖書箇所:ルカによる福音書第1章26-38節(新約聖書P100)
「八.仲保者キリストについて」の「一」
三位一体の第二人格である神のみ子は、まことの永遠の神でいまし、み父とひとつの本質でまた同等でありながら、時満ちて、自ら人間の性質を、それに属するすべての本質的固有性と共通的弱さもろとも取られ、しかも罪はなかった。彼は、聖霊の力により、処女マリヤの胎に彼女の本質を取って、みごもられた。そこで十全なそして異なった二つの性質、すなわち神たる性質と人たる性質が移質、合成、混合なしに、ひとつの人格の中に、分離できないように結合されている。この人格はまことの神またまことの人で、しかもなお、ひとりのキリスト、神と人の間の唯一の仲保者である。
今夜は、ウ告白の第八章の「二」節を学ぼう。
前回は、第8章1節を学んだ。父なる神が永遠の御計画の中で、御自身のひとり子である主イエスを、恵みの契約の唯一の仲保者として選ばれ、彼を預言者・祭司・王、教会の頭また救い主、万物の相続者、世界の審判者として任命され、彼に彼の子孫(選民)を与えて、時が満ちると、父は彼によって彼らを贖い、召され、義とし、聖とし、神の栄光にあずからせられたことを学んだのである。
今夜は、ウ告白第8章2節を学ぼう。今夜は、仲保者キリストの受肉と二性一人格について学ぶのである。
第8章二節を他の訳と比較しよう。
(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
三位一体の第二位格である神の御子は、まことの、永遠の神であり、御父と同一本質また同等であるが、じっさい、時が満ちるに及んで、人間の本性を、そのすべての本質的特性と共通の弱さとともに、しかし罪は別として、御自身に取られた。聖霊の力により、処女マリアの胎内に、彼女の本質を取って、みごもられたのである。そのようにして、欠けるところなく、完全で、全く異なった二つの本性、すなわち神性と人性が、変化も合成も混合もなく、一つの人格において分離しがたく結合された。この方こそまことの神であり、まことの人であって、しかもなお、ひとりのキリスト、神と人の間の唯一の仲介者である。
(2)松谷好明訳(一麦出版社)
三位一体の第二位格である神の御子は、御父と同一の実体で、同等の、永遠の神そのものでいますが、時満ちて、御自身に人間の本性を、そのすべての本質的特性、および、さまざまな共通の弱さと共に、しかし罪なくして、取られた。すなわち、御子は、聖霊の力により、おとめマリヤの胎に、彼女の実体を取って、宿された。かくして、神性と人性という、二つの完結した、完全で、別個の本性が、変化・合成・混合なしに、一人格において、分離しがたく結合され、この人格こそ、まことの神にして、まことの人であり、しかもなお、一人のキリスト、すなわち、神と人間の間の唯一の仲介者、である。
(3)鈴木英昭訳(つのぶえ社)
三位一体の第二位格である神の御子は、まことの永遠の神であり、御父と同質、同等でありながら、時満ちて、人間の性質を、またそれに属するすべての固有の性質や共通の弱さをとられた。しかし罪はなかった。彼は、聖霊の力により、処女マリヤの胎に彼女の本質をとって、身ごもられた。それで、二つの十分で、完全でしかも区別された性質、すなわち神性と人性とが、変換、合体、あるいは混合することなく、一つの人格の中に、分離できないように結合されている。この人格のお方はまことの神であり、まことのひとであり、しかも一人のキリスト、神と人との間の仲保者である。
「三位一体」とは、父子御霊なる神である。御子キリストは、その「第二位格」である。第一位格は父であり、第三位格は御霊である。御子キリストと父は永遠の神である。ヨハネによる福音書1章1節に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とあるように、言であるキリストは、父なる神と永遠から共にいる神であり、御父と同質で、同等である。
だが、時満ちて、すなわち、父なる神の永遠のご計画が実現した時に、「言は肉となって、私たちの間に宿った」(ヨハネ1:14)。キリストの受肉である。神の独り子が神性のまま、人間の性質を取られた。「それに属するすべての本質的固有性と共通的弱さもろとも取られ」とは、我々と同じ人間になられたということである。ただしキリストには罪はなかったのである。処女マリアより産まれ、彼女の本質を取られ、神のまま人となられたのである。
ウェストミンスター信仰告白64 主の2018年12月19日
聖書箇所:ルカによる福音書第1章26-38節(新約聖書P100)
「八.仲保者キリストについて」の「二」(続き)
三位一体の第二人格である神のみ子は、まことの永遠の神でいまし、み父とひとつの本質でまた同等でありながら、時満ちて、自ら人間の性質を、それに属するすべての本質的固有性と共通的弱さもろとも取られ、しかも罪はなかった。彼は、聖霊の力により、処女マリヤの胎に彼女の本質を取って、みごもられた。そこで十全なそして異なった二つの性質、すなわち神たる性質と人たる性質が移質、合成、混合なしに、ひとつの人格の中に、分離できないように結合されている。この人格はまことの神またまことの人で、しかもなお、ひとりのキリスト、神と人の間の唯一の仲保者である。
今夜は、ウ告白の第八章の「二」節の続きを学ぼう。
前回は、第8章2節の前半を学んだ。キリストの二性一人格と受肉について学んだのである。キリストが父なる神と一つの本質でまた同等であられること、永遠の神であるキリストが人間性を取られ(受肉)たこと、わたしたちと同じ人間となり、マリヤの胎から彼女の本質を取って生まれられたこと、そして彼には罪がなかったことを学んだのである。
今夜は、ウ告白が続けて「そこで十全なそして異なった二つの性質、すなわち神たる性質と人たる性質が移質、合成、混合なしに、ひとつの人格の中に、分離できないように結合されている。この人格はまことの神またまことの人で、しかもなお、ひとりのキリスト、神と人の間の唯一の仲保者である」と告白している後半の部分を学ぼう。
上記のウ告白の文章は古代信条の「カルケドン信条」に遡れる。
「われわれはみな、教父たちに従って、心を一つにして、次のように考え、宣言する。
われわれの主イエス・キリストは唯一・同一の子である。同じかたが神性において完全であり、この同じかたが人間性においても完全である。
同じかたが真の神であり、同時に理性的霊魂と肉体とからなる真の人間である。
同じかたが神性において父と同一本質のものであるとともに、人間性においてわれわれと同一本質のものである。「罪のほかはすべてにおいてわれわれと同じである」
神性においては、この世の前に父から生まれたが、この同じかたが、人間性においては終わりの時代に、われわれのため、われわれの救いのために、神の母、処女マリアから生まれた。
彼は、唯一・同一のキリスト、主、ひとり子として、二つの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されることなく知られるかたである。
子の結合によって二つの本性の差異が取り去られるのではなく、むしろ各々の本性の特質は保持され、唯一の位格、唯一の自立存在に共存している。
彼は二つの位格に分けられたり、分割されたりはせず、唯一・同一のひとり子、神、ことば、イエス・キリストである。」
(東京基督教研究所訳)
カルケドン信条(451年のカルケドン会議で採択)は、キリストの二性一人格の教理を確立した信条です。その頃キリスト単性論の異端が広がり、カルケドン会議でキリストの神人の両性を否定し、神性か人性かの一方のみを主張する異端に対して、キリストは完全に神であり人であると、両性を主張し、完全な神人キリストが二つに本性において「混合されず、変化することなく、分割されることなく、引き離されることもない」「ひとりのキリスト」と告白した。
矢内昭二牧師が「このキリストの二性一人格という問題はギリシア教会が果たした教会史的、教理史的貢献です」と指摘されているのは、この会議と信条のことである(『ウェストミンスター信仰告白講解』新教出版社 P96)。
ウ告白は、カルケドン信条に従ってキリストの二性一人格の教理と受肉の教理を適切に結び付けて、「三位一体の第二人格である神のみ子が、処女マリヤの本質から人間性を取られ、神にして人なるキリストとして生まれて来られた」(矢内 同P98)と告白している。
このお方だけが業の契約を破り、罪と永遠の滅びの中にある我々人間を、恵みの契約の唯一の仲保者として父なる神に執り成し、神と人との間に真の和解と平和を得させられるのである。