ウェストミンスター信仰告白50 主の2018年9月12日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第5章12-19節(新約聖書P280)
「六.人間の堕落と罪、およびその罰について」の「三」
彼らは全人類の根源であるので、彼らから普通の出生によって生まれるすべての子孫に、この罪のとがが転嫁され、また罪における同じ死と腐敗した性質とが伝えられた。
先週は、ウ告白第6章の「二」で、アダムの原罪によって全人類は全的に堕落し、腐敗したことを学んだ。使徒パウロが「罪の支払う報酬は死です」(ローマ6;23)と述べるように、アダムの原罪により全人類は皆、罪の中に霊的に死んだ者となり、「全的に腐敗・堕落した」者となりました。すなわち、全人類は対神と関係で、対人との関係で、対世界との関係で、神が人を創造された状態から全面的に堕落しました。創造時の神と人との原義と交わりは失われ、全人類は霊的に死んだ者となり、人は霊魂と肉体においてすべての機能と部分で全的に腐敗し、神が創造時に「良し」とされた被造世界全体が罪のよって汚されました。そして、虚無に服しています(ローマ8:20)。
ウ告白の第6章の「三」は、アダムの原罪とわたしたちの関係を教えている。
第6章三節を他の訳と比較しよう。
(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
彼らは全人類の根源であったから、彼らから通常の出生によって生まれてくるすべての子孫に、この罪の罪責が転嫁され、そして同一の、罪における死と腐敗した本性とが伝えられた。
(2) 松谷好明訳(一麦出版社)
彼らは全人類の始祖であったから、通常の出生によって彼らから生まれてくる全子孫に、この罪の罪責が転嫁され、同じ、罪の中での死と腐敗した本が、伝えられた。
(3) 鈴木英昭訳(つのぶえ社)
彼らは全人類の源であったため、この罪の責任がその子孫に転嫁された。すなわち、彼らから普通の出生によって生まれる子孫には、罪による同じ死と腐敗した性質とが伝達された。
ウ告白の「三」の教理的背景を、矢内昭二先生は「ここで罪の契約論的理解がはっきり出てきます」(『ウェストミンスター信仰告白講解』P82)と指摘している。
昔からキリスト教会はアダムの原罪とわたしたちの罪との関係を、遺伝説、転嫁説で説明してきたのである。
遺伝説とは、アダムが原罪によって全的に堕落し、腐敗したその性質が普通の出生で生まれてくる彼の全子孫に遺伝するという教えである。
だが、ウ告白は遺伝説を取らない。「転嫁された」と述べている。
ウ告白は、アダムを「全人類のルーツ(始祖)」と述べている。ウ大教理の問22と答で「全人類は、その最初の違反において堕落したか」という問いに、「公人としてのアダムと結ばれた契約は、彼自身だけでなく、彼の子孫のためにも結ばれていて、普通の出生によって彼から出る全人類は、その最初の違反において、彼にあって罪を犯し、彼と共に堕落した」と答えている。
神とアダムとが契約を結んだ「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16-17)という神の命令は、業の契約と呼ばれている。行いの契約であるから。そして、この業の契約は、神が全人類の始祖であり、公人であるアダムと結ばれたと、ウ告白は言っている。
だから、アダムの最初の原罪は、彼が個人としてなした罪ではなく、彼が公人として、アダムが後の彼の子孫たちの代表者として、罪を犯したのである。だから、彼だけでなく、彼の子孫も同時に同じ罪を犯し、普通の出生によって生まれるすべての人類に、彼の罪が転嫁され、腐敗が伝えられるのである。
ウェストミンスター信仰告白51 主の2018年9月19日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第7章18-21節(新約聖書P283)
「六.人間の堕落と罪、およびその罰について」の「四」
わたしたちをすべての善に全くやる気をなくさせ、不能にし、逆らわせ、またすべての悪に全く傾かせているところのこの根源的腐敗から、すべての現実の違反が生じる。
先週は、ウ告白第6章の「三」で、アダムの原罪とわたしたちの罪との関係を学んだ。ウ告白は、アダムが公人として、彼の子孫たちの代表として、罪を犯したゆえに、アダムの子孫である全人類は彼と同じ罪を犯し、普通の出生で生まれるすべての人にアダムの罪は転嫁され、腐敗は伝えられると教えている。
今回は、ウ告白第6章の「四」で、アダムの咎、すなわち、根源的腐敗からすべての人間の現実の違反が生じていることを教えている。
第6章四節を他の訳と比較しよう。
(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
この根源的腐敗によって、われわれはすべての善に全く気が向かず、それを行い得ず、それに逆らい、すべての悪に全面的に傾くものになっており、まさしくこの根源的腐敗から、すべての現実の違反が生じるのである。
(2) 松谷好明訳(一麦出版社)
この原腐敗―それによってわたしたちは、あらゆる善に対しては完全に無気力、無能となり、敵対的にされ、あらゆる悪に対しては、全面的に傾くようになっている―から、すべての現実の違反がでてくる。
(3) 鈴木英昭訳(つのぶえ社)
彼すべての善に対して、私たちを無気力にし、無能にし、逆らわせ、またすべての悪に全く傾かせるこの根源的な腐敗から、すべての現実の違反が生じる。
ウ告白の「四」で「根源的腐敗」とわたしたちの現実の罪との関係が明らかにされている。「根源的」は「オリジナル」で、松谷訳は「原」と訳されている。「原罪」と「原腐敗」である。聖書では腐敗を「咎」と表現している。
アダムの原罪により全人類は罪と共に腐敗した。それゆえ全人類は善を行うことができない。「一日一善」という言葉があるが、これは人の目で見る善である。聖書とウ告白が言う「善」は神の御心を行うことである。使徒パウロが言うように「善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」(ローマ7:18)。人間は罪によって心が腐敗し、神の御心を行うという霊的善に対して不能であり、むしろ、神の律法(御心)に違反しているのである。
パウロは、「わたしは自分の望む善は行わず。望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ7:19-20)と告白している。この罪こそ「根源的腐敗」である。だから、主イエスは「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである」(マタイ15:19)と言われている。「根源的腐敗」によってすべての人の心は生まれながらに腐敗しており、その心から現実の諸々の罪が生じるのである。
善に対して無気力、不能であるとは、救済的な観点から言われるのである。先ほどに「一日一善」という言葉を紹介したように、すべての人は相対的な善をなし得る。しかし、「霊的善」を為す能力はない。
人は皆、原義の喪失と原腐敗によって、霊的善に対して無気力、不能となってしまったのである。
ウ告白は9章3節で堕落した全人類は「救いに伴うどのような霊的善に対する意志の能力もみな全く失っている」と告白し、人は皆罪の内に死んでいるので、「自ら回心させるとか、回心の方に向かって備えることは、自力でできない」と告白する。
人間が神の御前でできることは、律法に違反し、神に反逆することである。
ウェストミンスター信仰告白52 主の2018年9月26日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第7章14-23節(新約聖書P283)
「六.人間の堕落と罪、およびその罰について」の「五」
この本性の腐敗は、この世にある間は、再生した者の中にも残存する。それは、キリストによってゆるされまた殺されはするものの、それ自体もそのすべての活動も共に、まことにまさしく罪なのである。
先週は、ウ告白第6章の「四」で、アダムの原罪の結果、全人類は根源的に腐敗し、そこからすべての人間の現実の罪が生じていることを学んだ。
今回は、ウ告白第6章の「五」で、この世の再生者には罪の残滓、咎(本性の腐敗)が残存することを教えている。キリストの十字架によって再生者(キリスト者)も罪を赦され、罪に死んだ。しかし、宗教改革者ルターが言うように「罪を赦された罪人」である。一生涯キリスト者には罪の残滓があり、弱さのゆえに罪を犯し、悔い改めを求められる。
第6章五節を他の訳と比較しよう。
(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
この本性の腐敗は、この世にある間は、じっさい、再生した人々の中にも残っている。そしてそれは、キリストによって、赦され、また無くされていくけれども、それにもかかわらず、それ自体も、それのすべての活動もともに、真にそしてまさしく罪である。
(2) 松谷好明訳(一麦出版社)
この本性の腐敗は、この世にある間は、再生した者たちの中に残っており、そしてそれは、キリストを通して赦され、力をそがれているが、しかしなお、それ自体も、そのすべての活動も、共に、まぎれもなく、まさしく罪である。
(3) 鈴木英昭訳(つのぶえ社)
この性質の腐敗は、この世に生きている間、再生した者たちの内に残存する。それはキリストによって赦され抑制されはするものの、この性質の腐敗自体、またそれが現すすべてのことも共に、まことにまさしく罪である。
「本性の腐敗」とは「咎」である。「再生した者」とは聖霊によって生まれ変わった者、わたしたちキリスト者である。ウ告白は、この世に生きるキリスト者には罪の残滓、本性の腐敗があると教える。原理的にはキリストの十字架によって罪は赦され、キリスト者はキリストの十字架と共に罪に死んだ者である。
再生した者は、義認によって罪を赦され、聖化の恵みよって罪の残滓の影響を抑制されている。しかし、キリスト者はこの世にいる間、完全聖化することはない。むしろ、罪を赦された罪人であり、なお本性が腐敗しているゆえに、罪を犯すのである。
使徒パウロは、次のように告白する。「もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ6:20)。
ダビデは、彼の家来、ウリヤの妻バト・シェバと姦通し、預言者ナタンを通して主にその罪を糾弾された。
彼は、主に罪を悔い改めました。そして主に祈ったのである。「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。」(詩編51:3-4)。
宗教改革者ルターは、『95か条の提題』の第1条で、キリスト者の生涯は悔い改めの生涯であると述べている。ダビデのように、わたしたちキリスト者の内にも罪の残滓があり、この世にいる間、常に「わたしの罪は常にわたしの前に置かれています」(詩編51:5)。
この世に生きるキリスト者に問題のないものはいないし、問題のない教会はない。そして、その問題はキリスト者と教会の罪であり、腐敗である。
ウェストミンスター信仰告白53 主の2018年10月3日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第6章15-23節(新約聖書P281-282)
「六.人間の堕落と罪、およびその罰について」の「六」
原罪も現実罪も、罪はことごとく、神の正しい律法への違反であり、それに反するものであるから、それ自身の性質上、罪人の上にとがをもたらし、罪人にそれによって神の怒りと律法ののろいのもとにおかれ、その結果、霊的、一時的、また永遠的なすべての悲惨を伴う死に服させられている。
先週は、ウ告白第6章の「五」で、再生者(キリスト者)に罪の残滓と咎(本性の腐敗)が残存し、この世にある限りは罪を犯し、生涯悔い改めを求められていることを学んだ。
今回は、ウ告白第6章の「六」で、原罪も現実罪も、すべて罪は神の律法に反し、罪は罪人に罪責を負わせ、それによって神の怒りが罪人に下り、罪人は律法の呪いのもとに置かれ、そして、神の刑罰により、霊的、現世的、そして永遠的なあらゆる悲惨が伴うばかりか、永遠の死にふくさせられることを教えている。
第6章六節を他の訳と比較しよう。
(1) 村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
あらゆる罪が、原罪も現実の罪もともに、神の正しい律法への違反であり、それに反するものであるから、じっさい、必然的に、罪人に罪責をもたらし、それによって罪人は神の怒りと律法の呪いとに縛られ、そのようにして、霊的、地上的、永遠的なあらゆる悲惨とともに、死に服せしめられるのである。
(2) 松谷好明訳(一麦出版社)
どの罪も、原罪も現実罪も共に、神の正しい律法への違反であり、それに反するものであるから、必然的に、罪人に罪責をもたらす。それによって罪人は神の怒りと律法の呪いを言い渡され、かくして、霊的、現世的、永遠的なあらゆる悲惨ばかりでなく、死に服させられる。
(3) 鈴木英昭訳(つのぶえ社)
罪は、原罪であれ現実の罪であれ、神に正しい律法への違反であり反抗であるから、その性質上、罪人に罪責を負わせる。その罪責のために罪人は神の怒りと律法の呪いを受ける者とされ、その結果、すべての悲惨を伴った、霊的、現世的、そして永遠的な死に服さなければならなくなっている。
六節は、罪(原罪と現実罪を含むすべて)に対する神の刑罰を教えている。
使徒パウロは、次のように告白する。「罪の支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)と。
ウ告白は、この「死」を、「霊的、一時的、また永遠的なすべての悲惨を伴う死」と定義している。肉体の死とそれに伴う悲惨さだけではなく、霊的な死と永遠の死と滅びとそれに伴う人生の悲惨さを含めて、罪人は罪責により、神の怒りと律法の呪いのもとに置かれ、死に服せられていると、ウ告白は述べているのである。
松谷訳は、神の判決を明確にしたものであり、神が神の律法に照らして、違反した罪人の罪責を裁かれ、死という刑罰を言い渡され、今すべての人間は罪人として、刑罰の死に服していることを明らかにしている。
神の正しい律法は十戒として、シナイ山で神の民に与えられた。それは要求の命令と禁止の命令から成り立っている。それに違反するとは、要求の命令を怠る罪であり、禁止の命令は犯す罪である。
六節は二節を補っている。すなわち、二節で人類はアダムの原罪によって原義と神との交わりを喪失し、堕落した。そして、罪に死んだ者となり、霊的に、肉体的に腐敗し、汚れた者となった。それだけでなく、原罪によって全人類は罪責を負い、神の怒りのもとで神の正しい律法によって有罪判決を受けて、呪われた者となり、その罪の刑罰として、永遠の死を宣告された。だから、全人類は罪の死刑囚である。死刑囚が死ぬまで牢獄につながれるように、全人類は罪と死につながれ、霊的な、現世的な、永遠的な悲惨がそれに伴う。
ウェストミンスター信仰告白54 主の2018年10月17日
聖書箇所:詩編第113編1-9節(新約聖書P954)
「七.人間との神の契約について」の「一」
神と被造物とのへだたりはまことに大きいので、理性的被造物が創造主としての神に対して服従しなければならぬ義務があるとはいえ、彼らが自分の祝福や報いとして、神を喜ぶということは、神が契約という方法で表わすことをよしとされた神の側のある自発的なへりくだりによる以外には、決してできなかった。
前回は、ウ告白第6章の「六」で、原罪と現実罪は共に「神の正しい律法」(十戒)への違反であり、その罪責によって罪人は神の怒りと呪いの下に裁かれ、霊的、地上的、永遠的悲惨が伴うことを学んだのである。
以上でウ告白第6章が終わり、今回からウ告白第七章「人間との神の契約について」学ぼう。今夜は、学ぶ前に必要な基礎知識を学ぼう。
この「契約」の教理は、16世紀の宗教改革の時代に始まる。スイスの宗教改革者ツヴィングリーとブリンガーがアナバブテストに対抗して最初にこの教理を強調したのである。その後カルヴァンがこの教理に言及し、17世紀に契約神学へと発展した。
特にピューリタンたちがこの契約神学を奉じており、ウ信条は彼らによって生み出された。その後ウ信条は世界の長老派、改革派教会において採用され、契約神学は改革派長老派教会とキリスト者の生活の支柱となっている。
さて、「契約」の語源は明らかでない。アッシリアーバビロニア語、およびヘブライ語の「縛る」「足枷をかける」という語に由来するらしい。契約の両当事者は誓いによって互いに結び合わされた。このように元来は契約を交わす二人の人に適用された。
ところが、旧約聖書はその「契約」を宗教的な意味で用いた。すなわち、神が選びの民を御自身との交わりに入れるという意味に、である。創世記で神とアブラハムとの契約(創世記12・15・17章)に代表されるように、契約は「神の恵みの授与」という意味に変わった。神がアブラハムの神となり、アブラハムが神の民となる。この契約によって、アブラハムは神の民として生きるべきであると、神に告げられ、信仰と服従を神より命じられた。こうして神は、アブラハムとその子孫に対して神の恵みを約束された。この神の約束が契約である。神の恵みの約束とは、神がアブラハムと彼の子孫の神、または父となり、それゆえアブラハムと彼の子孫は信仰と服従をもって、神の御前に生きるようにされるという約束である。
このように契約神学の中から生まれ、発展した「神の御前に生きる」ことこそ改革派神学と信仰の本質なのである。
それゆえウ告白は、他の重要な教理と共に、第七章「人間との神の契約について」を、6節を用いて丁寧に告白しているのである。
契約神学は救済史である。なぜなら、神は罪人の歴史において人間(罪人)とこの「契約」を通して関われるからである。既に学んだ神の聖定と人間に対する契約が結合し、贖いの契約が強調される。神とアブラハムとの契約の土台は、三位一体の父なる神と子なる神キリストとの永遠の契約である。それに基づき御父は御子を救い主としてこの世に遣わし、アブラハムとその子孫である神の民に与えられた。神の独り子である御子は肉体を取り、この世に来られ、父なる神に従順に従われて、御自身が義を満たし、そして罪人の罪に代わって刑罰を受け、人間(罪人)を、アブラハムの子孫である神の民を救われた。
契約神学の元祖ブリンガーは、神は人類とただ一つの契約を結んだと考えた。恵みの契約である。それは、キリストを中心とした。キリストが到来されるまで(旧約時代、洗礼者ヨハネまで)は待望するもの、到来以後(新約の時代)は想起するものである。そのために聖礼典を有した。旧約時代は割礼と感謝の食事が、新約時代には洗礼と聖餐が、である。契約に条件があった。信仰と服従である。ブリンガーは信仰と悔い改めであり、神の恵みによって、彼は可能と考えたのである(以上は、『リフォームド神学事典』(いのちのことば社)「契約」「契約神学」P130-137より引用、抜粋)。