ペンテコステ礼拝説教       2020531

 

その後

 

わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。

 

あなたたちの息子や娘は預言し

 

老人は夢を見、若者は幻を見る。

 

その日、わたしは

 

奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。

 

天と地に、しるしを示す。

 

それは、血と火と煙の柱である。

 

主の日、大いなる恐るべき日が来る前に」

 

太陽は闇に、月は血に変わる。

 

しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。

 

主が言われたように

 

シオンの山、エルサレムには逃れ場があり

 

主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

 

             ヨエル書第3章1-5

 

 

 

 説教題:「聖霊降臨」

 

 今朝、わたしたちはコロナウイルスの災禍の中にあって、ペンテコステを祝うために、ここに集まりました。

 

 

 

 ペンテコステは、新約聖書の使徒言行録第2章に記録されています聖霊降臨の出来事を記念し、祝うキリスト教会のお祭りです。

 

 

 

 主イエス・キリストは、十字架で死なれて、三日目に復活されました。そして、四十日間にわたって主イエスは、弟子たちに現れ、彼らに神の国について話され、彼らに「聖霊による洗礼」を約束されました。そして、天にお帰りになられました(使徒言行録1:34)

 

 

 

その主イエスの約束は、十日後のペンテコステ(50をさす数詞)に実現しました。それが使徒言行録の第2章の聖霊降臨の出来事です。

 

 

 

大音響と突風のうちに約束された聖霊が舌のような形で集まっていた120名の者たち一同の上に降ると、聖霊の洗礼を浴びました主イエスの120名の弟子たちは、一斉にペンテコステの祭にエルサレムに巡礼していた諸外国の言葉で神の偉大な救いの働きを語り始めました(使徒言行録2:113)

 

 

 

聖霊が120名の者たちの上に注がれ、彼らはエルサレムに巡礼に来ていた人々の言葉で神の偉大な救いの働きを、すなわち、キリストの十字架と復活の福音を語り始めました。キリストの福音をエルサレムからこの世界の果てまで宣教するキリスト教会が誕生したのです。

 

 

 

 聖霊が下られ、生きて働かれると、この世の闇の世界に光であるキリストの教会が生まれ、120名の主イエスの弟子たちに聖霊が注がれますと、彼らはエルサレム、それからパレスチナ、小アジア、ヨーロッパへとキリストの福音を人々に伝え始めました。

 

 

 

 使徒ペトロは、ペンテコステの出来事に驚いていた大勢の人々に、「今預言者ヨエルの預言を通して言われていたことが成就した」と説教し、ヨエルの預言を引用して次のように語りました。

 

 

 

 「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。(使徒言行録2:1721)

 

 

 

 使徒ペトロは、説教し、ペンテコステの出来事を弁明しました。これは酒に酔ってなされた愚かな出来事ではないと。聴衆たちの中には、酒に酔っているのだと言う者たちがいたのです。

 

 

 

 使徒ペトロは、彼らに今朝の9時であると述べて、まだ食事の時ではなく、酒を飲み酔っぱらうときではないと弁明しているのです。

 

 

 

 そして使徒ペトロは、弁明するだけではありません。さらに彼はこう説教しているのです。この出来事は、主なる神が預言者ヨエルによって語られたとおりに聖霊が注がれた出来事なのだと。

 

 

 

 預言者ヨエルは、「ベトエルの子ヨエル(ヨエル書1:1)ということ以外何も分かりません。

 

 

 

 ヨエル書には、彼が預言者活動をしていた頃に、北イスラエル王国と南ユダ王国を統治していた王の名は記されていません。ヨエル書の背景には、シオン、エルサレムという地名がしばしば出てきます。

 

 

 

 民の指導者は、王ではなく、祭司と長老です。

 

 

 

ヨエル書は、紀元前4世紀のペルシャ帝国時代の末期に書かれたと推測されています。

 

 

 

ヨエル書は、ヘブライ語聖書では新共同訳聖書のように4章あります。新改訳聖書は3章です。22832節に今朝の御言葉があります。

 

 

 

ヨエル書のテーマは、神の審判の到来と神の民イスラエルに罪の悔い改めを勧告することです。預言者ヨエルの時代にいなごの襲来という自然災害があり、預言者ヨエルは、それを神の審判の到来の徴と見たのです。彼は、神の民に神の契約に違反した罪を認めて、神との契約に立ち帰るようにと、罪の悔い改めを迫りました。

 

 

 

そして、彼は、3章で神が終末論的な希望の預言を語られたのを、記しています。

 

 

 

2章で預言者ヨエルは、主なる神が神の民イスラエルが神に立ち帰り、再び神との契約関係に入るならば、この世での豊かな祝福に彼らが与ると語ります。

 

 

 

そして「その後」主なる神は、彼らすべてに聖霊を注ぎ、彼らの息子と娘は預言し、老人と若者は夢と幻を見ると告げられています。

 

 

 

4章で主の日、すなわち、神の審判の日に、諸国の民は主なる神に裁かれますが、主なる神はシオンの山に、すなわち、エルサレムに残りの者を残され、彼らすべてが主なる神の御名を呼び、主なる神を礼拝する者たちを終わりの日に救われると言われています。

 

 

 

旧約聖書を読みますと、聖霊が注がれるのは、特別な人だけです。油注がれたのは、預言者と王と祭司です。神の民イスラエルを指導した士師たちも聖霊を注がれました。

 

 

 

しかし、預言者ヨエルを通して主なる神は、「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ(3:1)と宣言されています。聖霊を注がれた者たちは、息子、娘は預言者たちのように神の言葉を語ることができます。老人や若者たちは夢と幻を見ることができます。

 

 

 

主なる神が彼らに聖霊を注がれた結果、彼らは皆、神の啓示を与えられ、神の御言葉を語る働きをするのです。

 

 

 

それから主なる神は、ヨエルを通して自然界に不思議な御業を表すと言われています(34)

 

 

 

主なる神は、奴隷の地エジプトから神の民イスラエルを救い出すために、十の自然災害をエジプトに下されました。同様に主の日に、主が来られて、諸国民を裁かれる前に、天と地に不思議な徴が現され、天体に何か異変が現されると言われています。

 

 

 

これは、キリストの再臨ときに起こるものと考えられています。キリストが再臨される時に、大地震、飢餓、戦争、そして天体が崩れるという、天と地に不思議な徴が現れるでしょう。

 

 

 

今朝、ペンテコステのこの礼拝で、わたしたちが心を留めたいのは、二つのことです。第一に聖霊が注がれる祝福です。第二に主の御名を呼ぶ者はすべて救われるという喜びです。

 

 

 

ペンテコステの聖霊降臨の出来事によって、キリスト教会とキリスト者たちは神の御言葉が語られ、聞かれることを通して、常に主イエス・キリストの臨在の中に置かれる恵みに与りました。

 

 

 

今朝のこの礼拝で神の御言葉が語られ、聞かれることを通して、今ここに主イエス・キリストはわたしたちと共に居てくださいます。

 

 

 

さらに教会は、聖霊に導かれて主イエス・キリストを礼拝し、その御名を常に呼び求めています。それは、主イエス・キリストがこの礼拝へとわたしたちを招かれるからです。

 

 

 

預言者ヨエルは、神の民イスラエルに主なる神との契約関係に戻るように呼びかけました。シオンの山、エルサレム神殿で神の民イスラエルと共にいます主なる神は、彼らを御自身の救いと祝福へと導き入れられ、御自身を礼拝する者たちを「主が呼ばれる残りの者」として、すなわち、神の選びの民として永遠に御自身のところに置かれるのです。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、ペンテコステの朝、御言葉と礼典の恵みにあずかり、心より感謝します。

 

 

 

 聖霊がわたしたち一人一人に注がれ、上諏訪湖畔教会がキリストの福音を宣教する教会として歩むことを確認することができて感謝します。

 

 

 

 ここに今もキリストが生きて、救いの御業をされていることを、わたしたちの家族に、この世に人々に証しさせてください。

 

 

 

 この祈りと願を、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

  2021年度教会聖句による説教01       主の2021131

主は、決して

   あなたをいつまでも捨て置かれはしない。

主の慈しみは深く

懲らしめても、また憐れんでくださる。

人の子らを苦しめ悩ますことがあっても

それが御心なのではない。

                  哀歌第33133

 

 説教題:「主の慈しみを信じ、希望をもって歩む」

 小会は、この後の会員総会で今年の聖句に、旧約聖書の哀歌第33133節の御言葉を、教会目標に「主の慈しみを信じ、希望を持って歩む教会」を、提案します。

 

 一昨年よりコロナウイルスの災禍が続いています。今年に入り、大都市圏だけではなく、地方においても感染が拡大し、まるでわたしたちはコロナウイルスの捕囚の中にあります。

 

 こうした教会の困難さの中で今年も主なる神の御心を求めて、主なる神の慈しみを信じて、希望をもって歩みたいと思います。

 

 今年の聖句と教会目標がわたしたち一人一人の教会生活の励みになることを願っています。

 

 初代教会が礼拝用の聖書に用いていましたギリシャ語の70人訳聖書の序文に、次のような哀歌についての説明文が付されていますので、哀歌は預言者エレミヤの作であると考えられてきました。

 

「イスラエルが捕囚となり、エルサレムが荒廃させられた後、エレミヤは座して泣き、エレミヤはエルサレムのために哀歌を作って言った」と。

 

だから、哀歌は「エレミヤの哀歌」とか、「預言者エレミヤの哀歌」と呼ばれてきました。

 

哀歌は全部で5章から成る小さな書物です。哀歌の作者は複数と考えられています。直接にその場で目撃した者と後に回想する者がいます。

 

2章の作者は、まさにエルサレムの都が包囲され、住民は飢えに苦しみ、母が我が子を食べるという悲惨な光景を目の前で見ているのです。そして、バビロニア帝国の軍隊がエルサレムの城壁を打ち破り、都に乱入し、虐殺と略奪を繰り返している姿を見ているのです。神殿と王宮、住民たちの家屋が炎上するのを見ているのです。エルサレムの都が完全に破壊されるのを見ているのです。

 

主なる神が御怒りによって、ネブカドネツアル王を用いて神の民の罪を裁かれたのです。彼らが偶像礼拝の罪によって、主なる神を捨て、エルサレムの都で流血の罪を犯したからです。

 

4章も第2章と同じように、直接の目撃者によってエルサレムの都の王、祭司、預言者、長老たち、ナジル人たちが主なる神に見捨てられた悲惨さを歌っています。ゼデキヤ王はエルサレムの都を出て、荒野に逃げますが、すぐにネブカドネツアル王の軍隊に追跡され、捕らわれてしまいます。

 

このように第2章と第4章は、エルサレムの都の滅亡の直後に歌われました。だから、エルサレムの都の滅亡と住民の悲惨さと苦痛が、目撃者の肉体的苦痛となっているのです。

 

1章と第5章は、作者が回想して歌っているのです。それほど時が経ているとは考えられませんが、第1章と第5章の作者は、彼の苦痛を内面的なものとして歌っています。

 

3章は、成立年代が分かりません。一番後に書かれました。そして、哀歌の中心に据えられました。だから、希望がテーマになっているのです。

 

哀歌は、一言で言えば、主なる神が御怒りによってエルサレムの都と神の民たちをお見捨てになり、彼らの罪を徹底的に裁かれたその悲惨さを、嘆き歌っているのです。

 

それは、ネブカドネツアル王が紀元前587年にエルサレムの都を包囲して始まりました。都の神の民に飢饉と病気が蔓延しました。彼らは、わが子を食べるという極度の悲惨さに陥りました。

 

更にネブカドネツアル王の軍隊がエルサレムの城壁を打ち破り、城内に乱入しました。彼らは神殿と王宮を破壊し、住民を虐殺し、略奪しました。王は捕らえられ、祭司も預言者も長老も殺されました。激しい主なる神の怒りによって神の民たちは身体的、精神的に苦痛と絶望に陥りました。

 

まさにこの神の民が受けた身体的、精神的苦痛と絶望こそ、哀歌の作者たちが共通に主なる神に問うテーマなのです。彼らは、エルサレムの都の滅亡、神殿の破壊、そして神の民たちの悲惨と苦痛を目撃したのです。彼らの心の奥で、これは何を意味するのですか、どうしてあなたの神の民をお見捨てになったのですかと、彼らは嘆きの問いを歌っているのです。

 

主なる神はモーセを通して神の民イスラエルと契約を結ばれました。主なる神は彼らの神、父となられました。彼らは神の民となりました。主なる神はモーセを通して彼らに十戒を授けられ、主なる神以外に神がいないことを示して、偶像礼拝を禁じられました。彼らが主なる神の命令を破るならば、主なる神は彼らを裁き、見捨てると宣言されました。

 

哀歌の作者たちは、主なる神の審判を受け入れ、エルサレムの都と南ユダ王国の滅亡を、主なる神の摂理として受け入れました。

 

その上で彼らは、主なる神の慈しみと憐れみを信じました。主なる神が残りの民をバビロニア帝国へと捕囚されたからです。

 

3章は、哀歌の中で希望をテーマとします。主なる神は確かにこの歴史においてネブカドネツアル王を用いてエルサレムの都と神の民たちに審判を、彼らの罪に対する怒りの刑罰を下されました。

 

それはまさに哀歌の作者たちにとって彼らの心の奥に、主なる神よ、これは何を意味するのですかと問いかけるものでした。だが、彼らは、その答えを得てはいませんし、主なる神が彼らに答えられないことを不満に思ってもいません。

 

むしろ、彼らは、主なる神の慈しみと憐れみに彼らの心を向けているのです。主なる神が神の民が滅ぼし尽くされず、残りの民を生かして、バビロニア帝国に捕囚の民として送られたからです。

 

22節で、哀歌は次のように主の慈しみと憐れみを賛美しています。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。」と。

 

新改訳聖書は、マソラ本文に従って「実に私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。」と翻訳しています。

 

わたしは、新改訳聖書2017の翻訳を採用して、哀歌の作者の気持ちを理解するのが良いと思います。

 

彼は、エルサレムの都が滅びたのに、神の民たちは滅ぼし尽くされなかったという現実を、神の恵み、憐れみと理解するのです。

 

だから、哀歌は、2324節で次のように希望を、主なる神を待ち望むと賛美しています。「それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い わたしは主を待ち望む。

 

主なる神は、捕囚の神の民たちと恵みの契約を新たに更新してくださるのです。神の民は恵みの契約を捨てて、偶像礼拝の罪を犯し、エルサレムの都の滅亡を招きました。

 

しかし、主なる神は恵みの契約をお守りになり、バビロニア帝国に捕囚される神の民をお見捨てになりません。

 

主なる神の真実、すなわち、主なる神が慈しみと憐れみの神であり、変わることなく神の民との恵みの契約を更新してくださる事と、「主こそわたしの受ける分」、すなわち、彼にとって主が彼の嗣業であること、この二つが、彼が主なる神に期待する根拠なのです。

 

この根拠に立ち、哀歌は、3133節で次のように主なる神を賛美しています。「主は、決して   あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く 懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても それが御心なのではない。」と。

 

わたしたちの聖書の神は、恵みの契約の神です。仲保者主イエス・キリストの十字架の贖いによってわたしたちも洗礼を通してこの恵みの契約に入れられているのです。

 

「主の慈しみ」を、イングリッシュバイブルは、「主の真の愛」と英訳しています。主なる神の変わらない愛です。人の愛は変わりますが、神の真の愛は変わりません。

 

だから、哀歌の作者たちは、エルサレムの都が神の御怒りによって滅ぼうとも、主なる神の慈しみと憐れみに信頼を寄せたのです。

 

主なる神は、神の民たちの神として、常に彼らと共に居てくださり、彼らの罪を裁かれても、彼らをお見捨てになりません。そして、神の民が試練の中で苦難に遭うことは神の御心ではありませんので、必ず主なる神は彼らに逃れの道を備えてくださるのです。

 

同様に主イエス・キリストも、変わることのない十字架の愛によって、常にわたしたちと共に居てくださいます。

 

今わたしたちはコロナウイルスの捕囚の中で厳しい状況に置かれています。しかし、上諏訪湖畔教会の70数年の歴史を振り返って見てください。この教会が、わたしたちの群れがこの地上から消し去られなかったのは、主イエスの慈しみと憐れみが尽きなかったからです。

 

主イエスは、わたしたちを見捨てられることはありません。主イエスは、わたしたちの罪のゆえにわたしたちの教会に、わたしたちに悲しみを与えられるかもしれません。

 

しかし、わたしたちの教会での伝道所設立式や教会設立式において、宣教教師と牧師、長老の就職式において、そして教会員の洗礼式と信仰告白式において、主がわたしたちに約束された恵みの契約をお忘れになることはありません。

 

むしろ、わたしたちが誓約を忘れても、主イエスは覚えていてくださいます。そして恵みの契約の祝福を、豊かにこの教会とわたしたちを恵んでくださいます。それが上諏訪湖畔教会の70数年の教会の歩みなのです。

 

主イエスが何の意味もなく、今わたしたちをコロナウイルスの災禍に置かれ、わたしたちを悩まされることはありません。その意味を今わたしたちが理解できなくても、この哀歌のように主イエスの慈しみと憐れみを信じて、主イエスに希望をもって共に信仰に歩もうではありませんか。

 

主イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わられることはないからです(ヘブライ13:8)

 

お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、2021年となり、一か月が過ぎました。新しい年もコロナウイルスの災禍は終息せず、むしろ、感染がわたしたちの地方にまで広がっています。

 

しかし、主イエスの恵みと憐れみによりわたしたちの教会は礼拝を守り、この後会員総会を開催できることを感謝します。

 

哀歌第33133節の御言葉を、今年の聖句に選び、今年一年を、「今の苦難の中で神の慈しみを信じ、希望を持って歩む教会」という教会目標の下に共に歩みたいと思います。

 

どうか、わたしたちの教会を憐れみ、わたしたちを神の恵みの契約の中に生かしてください。

 

主の恵みと憐れみによってわたしたちをお守りくださり、この教会の礼拝と福音宣教をお守りください。

 

この後開催される会員総会を祝福してください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

イースター礼拝説教(2021)        202144

 

 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

「死は勝利に飲み込まれた。

死よ、お前の勝利はどこにあるのか。

死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

        コリントの信徒への手紙一第155058

 

 説教題:「死に打ち勝つキリスト」

 イースター、おめでとうございます。

 

 先週一週間、わたしたちはマルコによる福音書によって、キリストの最後の一週間の御苦しみを瞑想し、過ごしました。

 

 そして、今朝わたしたちは、ここに共に集められ、「主イエスは甦られました。おめでとう」と挨拶をします。なぜなら、主イエス・キリストは、死者の初穂として復活されたからです。キリストが死者の中から復活されたように、わたしたちも死者の中から復活するのです。

 

 死に打ち勝たれたキリストは、将来わたしたちが死に対して勝利し、永遠の命に生きる保証であります。

 

 コリントの信徒への手紙一第155058節の御言葉は、復活によるキリストの死に対する勝利を高らかに歌っています。

 

 使徒パウロは、キリストが遣わされた使徒です。神の民ユダヤ人以外の異邦人たちにキリストの福音を伝えることが彼の使命です。

 

彼の若き日、彼はキリスト教徒を迫害する熱心なユダヤ教徒でした。しかし、彼は回心してキリスト教徒となりました。彼の人生が180度変わりましたのは、復活の主イエス・キリストに出会ったからです。

 

 コリントの信徒への手紙一は、使徒パウロが開拓伝道したコリント教会の信者たちに書き送った手紙です。

 

 彼は、生涯において三度の伝道旅行をしました。小アジア、ギリシアを旅し、異邦人たちにキリストの福音を宣べ伝え、教会を建て上げて行きました。

 

 その一つがコリント教会です。彼は二度目の伝道旅行でコリント市を訪れました。そして福音宣教しました。

 

コリント市は、交通の要所でした。商業の盛んな町でした。ローマ帝国にとって重要な植民都市でした。また大きな神殿があり、千人の神殿売春婦がおりました。不品行で、不道徳な町としても有名でした。

 

 それゆえにコリント教会は、いろんな問題を抱えていました。分派争い、近親相姦という不品行、信者の婦人は未信者の夫との生活に悩んでいたこと、神殿で捧げられた動物の肉が市場で売られ、信者たちはその肉を食べることができるか否かを、言い争っていました。

 

信者の日常の問題だけではありません。キリスト教の教えにとって、キリストの復活は大切な教えです。ところが、信者たちの中で、死人の復活を否定し、キリストの復活を否定する者たちがいました。

 

信じられませんね。キリストの復活を信じるから、わたしたちは死者の中からの復活を信じて、キリスト者になったのです。

 

ところがコリント教会のある信者たちは、死人の復活そのものを否定しました。それは、古代のギリシア人たちの人間観に影響されていたからです。

 

使徒パウロが「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした」(Ⅰコリント1:21)と、この手紙で述べています。

 

ギリシア人たちは、人間の肉体を魂の牢獄と考えていました。彼らにとっての救いは、魂が肉体という牢獄から解放されることでした。だから、彼らは、人間の死後の命を、魂が肉体の牢獄から解放され、不滅であると考えました。

 

それゆえ、復活によって再び肉体を得ることは、魂が再び肉体の牢獄につながれることです。彼らにとって復活はあり得ませんでした。

 

そこで使徒パウロは、この手紙の15章で復活について述べています。

 

彼は、コリント教会の信者たちを、「兄弟たち」「あなたがたは」と呼びかけて復活論議を始めています。そして、また「兄弟たち」「あなたがたは」と呼びかけて、それを閉じています。

 

「兄弟たち」「あなたがた」は、パウロが宣べ伝えたキリストの福音を受け入れ、信じたコリント教会の信者たちです。

 

彼がコリントで異邦人たちにキリストの福音を宣べ伝えましたとき、それを受け入れ、信じた者たちは比較的に貧しい階級に属する者たちでした。彼は彼らを「世の無学な者」「無力な者」「世の無に等しい者」「身分の低い者」「見下げられている者」(Ⅰコリント1:2728)たちと呼んでいます。

 

しかし、この手紙を書き送った現在のコリント教会には貧しい階層の者たちだけではなく、富める知識人たちも加わりました。そして彼らが教会の中で大きな影響力を与えていたでしょう。彼らは、世の知恵によって死人の復活を否定しました。

 

そこでパウロは、15章で復活を述べるにあたり、まず彼自身とコリント教会の兄弟たちが受け入れたキリストの福音としての復活の重要性について語りました。

 

キリスト教会の中ではキリストの復活は、十字架と共に重要な教えでありました。

 

次に彼は、死人の復活を否定すれば、キリストの復活を否定することになると述べています。

 

その結果、コリント教会の宣教は無駄となり、彼らの信仰はむなしくなり、すでに復活を信じて死んでいった信者たちは、罪の中で滅んだこの世で最も惨めな人間になると、彼は述べています。

 

パウロは、さらに彼らに復活の希望を述べました。なぜなら、実際にキリストは死者の中から復活され、死者の復活の初穂となられたからです。アダムの罪によってすべての人が死に、キリストの復活によって主イエスを信じるすべての者が生かされるのです。

 

復活には順序があります。最初にキリスト、そしてキリストの再臨のときに、リストに属する者たち、そして世の終わりにすべての者たちが復活します。

 

さらに、パウロは、死者はどんなふうに復活するのかと、復活の体について述べています。朽ちる体が朽ちない体に復活し、自然の体が霊の体に復活し、地に属する体が天に属する体に復活すると述べています。

 

このように使徒パウロは、当時の信仰告白を用いて、彼がキリストによって遣わされた者であることとキリストの福音の内容がキリストの十字架と復活であることを確認し、キリストの復活に保証された信仰者の体の復活とその将来における現実に焦点を当てて、復活を述べているのです。

 

そして、それによって最後に彼は「兄弟たち」と呼びかけて、キリストの復活による死に対する勝利を高らかに賛美しています。

 

それが今朝の御言葉です。

 

彼の、そして教会が宣べ伝えているキリストの福音を、彼の十字架と復活を受け入れた信者たちは、次のことをよく知るべきです。

 

兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。(50)

 

彼はコリント教会の兄弟たちに、重要なことを言いたいと述べています。それは、生まれながらの自然の体で、死んで朽ちてしまうこの体で、神の国には入れないということです。復活されたキリストの体でなければ、神の国に入ることはできません。復活の体は、わたしたちが神の国に入るために必要です。

 

さらに彼は、わたしたちの復活の体の奥義について、こう述べています。

 

わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります(5153)

 

パウロは、わたしたちの復活の体の奥義、神秘を語ります。すなわち、わたしたちは、必ず死者の中から神によって呼び出されるのです。その時にわたしたちは、死ぬべき体ではなく、永遠に朽ちない復活の体に変えられるのです。着物を着替えるように、変えられるのです。

 

彼は、彼が語る奥義の保証がどこにあるかを述べています。それは聖書に書いてある通りに実現すると。

 

この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

「死は勝利に飲み込まれた。

死よ、お前の勝利はどこにあるのか。

死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(5455)

 

 死ぬべきわたしたちが復活し、死ぬことのない体に変えられると、聖書はその実現を語っているのです。これが、信仰によってわたしたちが復活について理解すべき重要なことなのです。

 

 復活は、聖書しかわたしたちに教えることはできません。死ぬべき人間が、死から新しい命に復活する、それが実現すると保証してくれるのは、キリストの復活を証言する聖書の御言葉だけであります。

 

 パウロが言う復活の体の奥義は、「聖書に書いてある御言葉にある」のです。

 

 旧約聖書のイザヤ書258節とホセア書1314節にあります。それが「「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」」です。

 

 この預言者たちの聖書の御言葉は、キリストの十字架の死と復活によって実現したのです。

 

キリストが死んで三日目に復活された。聖書が語りますこの御言葉によって、キリストが死に打ち勝たれたゆえに、もう罪と死はわたしたちに対して力はありません。

 

 今、わたしたちは、死が絶対的力を持っていると思っています。だから、死ぬことは避けられないことです。

 

 ところが聖書は、キリストが復活によって死に勝利された。復活されたキリストの前に無力なものとなった。だから、死よ、お前は人を傷つける棘にもなれない。もうお前は無力なものであると賛美します。

 

パウロは、勝利者キリストによって死に対してわたしたちも勝利者になったことを、神に感謝しようと述べています。

 

 「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。(57)

 

 わたしたちが将来復活し、死に対して勝利できるのは、キリストの復活という出来事を通して神がわたしたちに死に対する勝利をお与えくださったからです。だから、パウロは、神に感謝しようと述べているのです。

 

 そしてこの神への感謝こそが、コリント教会の信者たちが復活信仰という不動の確信をもって、日々の主の御業、すなわち、キリスト者の生活に励める原動力であると述べています。

 

 キリストが復活されたように、死ぬべきわたしたちも、将来復活するのですから、この世における信仰者の苦労は無駄に終わらないのです。

 

 「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。(58)

 

 キリストの復活こそ、わたしたちの究極の救い、体の復活と御国における永遠の命の保証であり、この世の困難な中でもキリスト者として生きていく力なのです。

 

 どうかコロナウイルスの災禍の中で、復活のキリストが死に勝利されたゆえに、わたしたちも死を恐れることなく、将来のわたしたちの復活を信じて、歩もうではありませんか。

 

お祈りします。

 

「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。

 

復活であり、命である主イエス・キリストの父なる神よ、イースターの朝、わたしたちは、今朝この教会に集められ、コリントの信徒への手紙一155058節の御言葉を開くことが許され、心より感謝します。

 

今年もコロナウイルスの災禍が続き、礼拝できない教会もあるかもしれません。どうか、死に勝利された復活の主イエス・キリストの御力に寄り頼み、今の困難な状況にわたしたちが立ち向かえるようにしてください。

 

どうか、共にこの礼拝に集う者たちを、主よ、憐れんでください。世の知恵では復活は理解できません。どうか聖霊がわたしたちの心に働きかけてくださり、聖書が証しする主イエスの復活とわたしたちの復活を信じさせてください。

 

どうか罪と死が支配するこの世から永遠の命へと、御国へと希望に生きることができるように、わたしたちをお導きください。

 

どうかイースターの喜びを、わたしたちの家族、この町の人々に伝えることができるようにしてください。

 

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 ペンテコステ礼拝説教       2021523

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自身を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところに戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て、ここから出かけよう。」

          ヨハネによる福音書第141531

 

 説教題:「約束の聖霊を受ける喜び」

 今朝、わたしたちは昨年来より続くコロナウイルスの災禍の中で、ペンテコステを迎え、祝うために、ここに集められました。

 

 ペンテコステは、新約聖書の使徒言行録第2章に記録されています聖霊降臨の出来事を記念し、祝うキリスト教会のお祭りです。

 

今朝は、ヨハネによる福音書の141531節の御言葉から主イエスが12弟子たちに与えると約束された聖霊について学びましょう。

 

ヨハネによる福音書は、主イエスが受難週の五日目、木曜日に過越祭の最後の食事の後に長いお別れ説教と最後の祈りをなさったことを記しています(ヨハネ13:3117:26)

 

過越祭の最後の食事が終わりますと、裏切り者のイスカリオテのユダは出て行きました。主イエスは残った11弟子たちに御自身がこの世を去ることを予告され、彼らにお別れの説教をし、最後に長い祈りをされました。

 

ヨハネによる福音書の14章で、主イエスは11弟子たちに御自身がこの世を去ると予告されたことに動揺しないように勧告されています。なぜなら主イエスは、彼らのために天に彼らの住まいを用意し、再び彼らのところに戻ってきてくださるからです。

 

そして、今朝の御言葉が続いています。主イエスは御自身が去られたら、父なる神に彼らに別の弁護者、すなわち、真理の霊を遣わしてくださるように、お願いしようと約束されています。

 

そして、主イエスはこの別の弁護者、真理の霊である聖霊と共に、彼らのところに戻ってきてくださいます。

 

聖霊が彼らの心に住み、主イエスも彼らの内にいてくださいます。

 

だから、主イエスは彼らに御自身が去られても、彼らをみなしごのように捨てはしないと約束されています。

 

主イエスは、これからイスカリオテのユダの裏切りで、ユダヤの官憲に捕らえられます。総督ポンティオ・ピラトの裁判で有罪宣告を受けられます。ゴルゴタの丘で十字架刑に処せられて死なれます。そして、三日目に死人の中から復活されます。そして40日間11弟子たちと共に過ごされ、天にお帰りになります。11弟子たちは二度と肉眼で主イエスを見ることはできません。

 

しかし、主イエスが復活されて五十日目、主イエスが天に帰られて十日目に父なる神は主イエスの願いをお聞きになり、聖霊を遣わされました。それが使徒言行録の第2章聖霊降臨の出来事です。

 

ヨハネによる福音書の1420節で主イエスが言われています「かの日には」とは、使徒言行録第2章の聖霊降臨の出来事の日です。

 

使徒言行録は、聖霊降臨を「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と記しています(使徒言行録2:3)。すると、エルサレム教会の11人の使徒たちとその仲間たちは聖霊に満たされて、聖霊が語らせるままに、ペンテコステの祭に集まりました人々に、他の国々の言葉で神の偉大な働きについて証ししました。

 

主イエスは、御自身の霊である聖霊と共に、ペンテコステの日に11人の弟子たちと彼らの仲間たちの所に戻ってきてくださったのです。

 

そして、聖霊降臨の日に下って来られた聖霊は、主イエスが11弟子たちに約束された通りに真理の霊としてキリスト者とその共同体の内にとどまってくださいました。

 

こうして主イエスが11弟子たちに臨在される仕方は、肉体から霊に代えられました。

 

聖霊は、11弟子たちにとって、そしてその仲間である者にとって弁護者です。助けてくださるお方です。

 

聖霊は、真理の霊として11弟子たちとその仲間たちに主イエスが語られた御言葉と教えを思い起こさせ、理解できるように助けてくださいます。主イエスの福音を、十字架と復活の御救いを、常に11弟子たちとその仲間たちが思い起こし、理解し、この世の人々に告げ知らせるように助けてくださいます。

 

この世は主イエスも父なる神も知りません。むしろ、無関心です。

 

この世において、聖霊は教会を造られ、11弟子たちを神礼拝へと導かれます。その神礼拝で、御言葉が語られ、洗礼と聖餐が行われます。そこに主イエスは霊的に臨在され、牧師の口を通して御言葉を語られ、洗礼と聖餐を執行されます。彼らは信仰を通してそれを理解します。

 

真理の霊である聖霊は、諏訪大社のお膝元である諏訪市に上諏訪湖畔教会を建てられました。そして主イエスは偶像のように死んだ神ではなく、生きた神であることを、教会における神礼拝と福音宣教と兄弟姉妹の交わりを通して証しされてきました。それゆえにわたしたちは死んでも主イエスが父なる神と共に永遠に生き給うように生きることを確信させられるのです。

 

第一と第三の木曜日に聖書を学ぶ集いを開いています。そこで旧約聖書の預言書エゼキエル書を学んでいます。主なる神は預言者エゼキエルを通して神の民イスラエルに「わたしは生きている」としばしば宣言されています。

 

聖書の神は、生きておられる神です。天地万物を創造し、罪によって堕落し、永遠の滅びへと落ちて行った人間を、主イエス・キリストを通して救い、救った人間を永遠の御国へと導き守るお方です。

 

主なる神、主イエスは生きておられるので、わたしたち死ぬべき人間を、永遠の命に生かすことのできるお方です。

 

約束の聖霊を受ける喜びは、主イエスを信じる者がこの世の死で終わるのではなく、死んで復活された主イエスと共に永遠の命に生かされているということを知ることです。

 

 別の言葉に換えますと、父なる神と子なる主イエスに愛され、父なる神と子なる主イエスを愛して生きることです。

 

 父なる神と子なる主イエスは、この世に御自身の愛を現されません。教会における礼拝と交わりを通して、福音という形で御自身の愛をわたしたちに現されました。

 

 わたしたちは、聖霊と御言葉を通して父なる神と主イエスに愛されているという形で、そしてわたしたちが愛するという形で知ることを許されているのです。

 

 聖霊は、主イエスが「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」と約束されたことを、わたしたちの礼拝と交わりを通して実現されています。

 

コロナウイルスの災禍が続く中で上諏訪湖畔教会は礼拝と交わりを休むことなく続けています。また、それだけではなく、高齢化やいろんな事情で礼拝に出席できない方に、今ネットを通して礼拝を共にしていただいています。

 

これは、聖霊がわたしたちを助けてくださっているお働きです。聖霊は、わたしたちが主イエスを信じ、互いに兄弟姉妹を愛することを、一緒に礼拝するという形で実現されているのです。

 

そして、その実現を通して、聖霊はわたしたちに父なる神と子なる主エスがわたしたちを愛されていることを体験させてくださっているのです。

 

父なる神と子なる主イエスに愛されないこの世は、父なる神と子なる主イエスに無関心です。教会の礼拝に無関心で、主イエスを信じることにも、互いに愛し合う事にも無関心です。

 

だからこそ教会は常にこの世に対して福音宣教する必要があるのです。家族や知人にキリストを伝えるのです。しかし、この世の無関心という壁を破ることは大変です。それゆえに真理の霊である聖霊のお助けが必要です。

 

聖霊は、わたしたちの弁護者としてわたしたちを守り、助けてくださいます。そして聖霊は、この世が教会とキリスト者に対して敵対しても、彼らにキリストの十字架を語れるようにしてくださり、この世にない永遠の平和を与えてくださるのです。

 

主イエスがこの世の支配者を恐れなかったように、聖霊はわたしたちの心に主イエスの十字架の死と復活の御業を常に思い起こさせて、主イエスは生きておられるので、わたしたちも死んでも生きるのだという永遠の命の喜びに生かしてくださるのです。

 

 お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、ペンテコステの朝、御言葉と礼典の恵みにあずかり、心より感謝します。

 

 聖霊がわたしたち一人一人にも注がれ、上諏訪湖畔教会をお助けくださり、わたしたちをお助けくださり、コロナウイルスの災禍が続く中で礼拝が守られ、ネットで配信できることを感謝します。

 

 どうか、今朝の御言葉を通して、聖霊が今もキリストが生きて、救いの御業をされていることを、わたしたちだけでなく、わたしたちの家族に、この世に人々の救いにお働きくださっていることを、福音宣教を通して証しさせてください。

 

 

 

 この祈りと願を、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

イースター伝道集会説教(2022)        2022417

 

 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓に行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先に行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

          ルカによる福音書第241335

 

 説教題:「復活の主イエスと共に歩みましょう」

 

イースター、おめでとうございます。

 

 「イースター」は「復活祭」という意味です。日曜日の朝に、受難と死を通して復活した主イエス・キリストの過越を記念する日です。教会の暦においては、「復活の主日」と呼ばれています。復活祭は、キリスト者の過越祭であるので、お祭りと呼ばれています。

 

 旧約聖書の「過越祭」が主なる神が指導者モーセを通して、神の民を奴隷の地エジプトから救出したという歴史的出来事と結びついているように、教会の復活祭は、主イエスが・キリストが死者の中から復活したという歴史的出来事に結び付いているのです。

 

それゆえに、ルカによる福音書は、他の福音書と同様に、主イエス・キリストが死者の中から復活されたのは、「週の初めの日」、すなわち、一週間の最初の日の日曜日であったと記しています(ルカ24:1)

 

当然、主イエス・キリストの復活は歴史的出来事ですから、それを目撃した者たちがいます。

 

その目撃者とは、主イエスの弟子たちや婦人たちです。特に主イエスに従った婦人たちは、主イエスがゴルゴタの丘の上で十字架刑によって死んだことを目撃し、墓に葬られたことを目撃しました。

 

彼女たちは日曜日の朝早く主イエスが葬られた墓を訪れました。そして、その墓の入口の大きな石が取りのけられており、墓の中に二人の御使いがいて、彼女たちにキリストが甦られたことを伝えました。

 

ルカによる福音書は、24章で主イエス・キリストの復活を目撃した者たちの証言を記録したのです。

 

ルカによる福音書は、主イエスの墓を訪れた婦人たちに、二人の御使いが次のように伝えたことを記しています。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。(ルカ24:5-6)

 

主イエスの復活という出来事は、福音として語られました。「イエスは生きておられる」と伝えられました。

 

だから、主イエスが復活されたというメッセージは、主イエスは今生きておられる、という真実を伝えるものなのです。

 

この真実を受け入れる時、教会とキリスト者たちに大きな変化が生まれました。主イエスは復活し、今生きておられるのですから、主イエスを死者の中に、墓の中に捜さないということです。主イエスは、死者を葬る墓の中にはおられません。生きているわたしたちと共にいてくださるのです、

 

しかし、どのように復活の主イエスはわたしたちと共にいてくださるのでしょうか。

 

そこでルカによる福音書は、今朝の御言葉を記しました。同じ日曜日に起こった出来事を記しました。

 

同じ日曜日の夕方に、復活し、今生きている主イエスが彼の二人の弟子たちに現れてくださったことを記しました。

 

歴史的な出来事ですから、時間と場所を記しています。日曜日の夕方という時間とエルサレムの都から11キロ離れたエマオという村で復活の主イエスが現れるという出来事が起こりました。

 

この出来事を目撃したのは、主イエスの弟子であるクレオパともう一人の弟子です。

 

彼らは、エルサレムの都から11キロ離れたエマオの村へと歩いていました。彼らは、ここ数日間で起こったことを、歩きながら話し合っていました。特に彼らにとって、週の初めの日、今日の日曜日の出来事は衝撃的でした。朝早く婦人たちが主イエスの墓を訪れたそうだ。ところが墓の中に主イエスの遺体はなかったそうだ。墓の中に二人の御使いがいて、彼女たちに「主イエスは復活した」と告げたそうだ。そこで婦人たちはエルサレムの都に戻り、主イエスの弟子たちに伝えてくれたわけだが、ペトロが墓に行き、主イエスの遺体がなかったことを確かめている。一体、主イエスはどうなったのだ。何が何だか分からない。本当に驚かされる一日だなあ。

 

おそらくそのように会話しながら歩いている二人を、わたしたちは想像できるでしょう。

 

ルカによる福音書は、復活の主イエスが旅人の姿で現れ、二人に近づかれ、彼らと一緒に歩かれ、彼らと話されたことを記しています(15)

 

ルカによる福音書は、わたしたち読者に次のことを伝えています。どうして復活の主イエスが旅人の姿で二人の弟子たちに現れたかであります。

 

それは、復活の主イエスが信じない弟子たちを信じるように導くためです。不信仰のため、目が遮られて、今主イエスが生きて、彼らの御前におられるのに、復活の主イエスが見えていない彼らが復活の主イエスを見えるようになるためです。

 

そのために主イエスは、二つのことをなさいます。第1に主イエスは二人の弟子たちに旧約聖書を紐解いて、御自身の受難と死と復活を説明されました。第2に復活の主イエスは彼ら共に聖餐の食事をなさいました。

 

最初、二人の弟子は復活の主イエスに気づきませんでした。彼らの目に主イエスは旅人の姿に映りました。

 

旅人の主イエスが二人に近づいてくださいました。そして主イエスは二人の会話に関心を持ってくださいました。

 

復活の主イエスは、二人の弟子たちの不信仰と無知を嘆かれました(25)。そして、主は二人に旧約聖書から解き起こして、キリストが死者の中から復活することを明らかにされました(2627)

 

主イエスが彼らに旧約聖書を説き明かされると、それを聞いていた二人の心に聖霊がお働き下さりました。主イエスの御言葉の解き明かしを聞いていた二人の弟子の心が熱くなりました(32)

 

日は暮れ、エマオの村に着きました。旅人は更に先に歩もうとしました。二人は旅人の話を聞きたくて、彼らの家に旅人を迎え入れました(2829)

 

そして、一緒に食事をしました。その時です。主イエスが二人の前でパンを裂かれると、彼らの目は開かれました。彼らは聖霊によって、復活し、今生きておられる主イエスの現れを目で捕らえました。すると、主イエスは消えてしまわれました(3031)

 

クレオパともう一人の弟子はエルサレムの都に戻りました。すると、ペトロたちが復活し、今生きておられる主イエス・キリストの現れを話し合っていたのです。

 

ルカによる福音書は、教会における礼拝の説教を聴くことと聖餐の恵みにあずかるという恵みの出来事を背景にして、復活の主イエスが二人の弟子に現われた出来事を物語っているのです。

 

教会はこの世の人々に福音宣教によってキリストを伝えています。そのために教会は牧師を立てるのです。牧師は、今生きている主イエスを伝えるために、二つの務めをします。第一に、神の御言葉を語る務めです。聖書の御言葉の解き明かしである説教です。第二に礼典を執行します。洗礼と聖餐の礼典です。

 

ルカによる福音は24章の今朝の御言葉で、わたしたちが今復活の主イエスと出会うことのできる道筋を伝えようとしています。

 

この二人の弟子たちのように、わたしたちは目を遮られて、今も生きておられる復活の主イエスを見ることができません。

 

どうすれば今も生きておられる主イエスを、わたしたちは見ることが出来るのでしょうか。

 

二人の弟子たち同様に物を見るように復活の主イエスを見ることはできません。わたしたちの肉眼で復活の主イエスを捕えることはできません。

 

復活し、今も生きている主イエスを、わたしたちは毎週の日曜日の礼拝で聖書の御言葉の解き明かしを聞くことで、聖餐の恵みにあずかることで、信じているのです。

 

だから、ルカによる福音書は、わたしたち読者に主イエスが二人の弟子に現れたことを通して、その出会いに二人の弟子たちが気づくのが、主イエスが旧約聖書を通して彼らに御自身の受難と死と復活を説明され、聖餐の食事でパンを裂く時であったと証言しています。

 

このことを、今この礼拝で理解していただくことが、わたしたちが主イエスの現れに気づき、わたしたちも復活し、今も生きている主に出会う一番の近道です。

 

どうか、許す限り、これからもご一緒に礼拝を共にしていただき、共に説教を聞き、聖餐式に参加していただきたく、わたしはここでお勧めします。

 

わたしは大学の頃に教会の礼拝に導かれました。礼拝で説教を聴き、聖餐式にあずかりました。

 

わたしは悟ることに鈍い者でしたが、ルカによる福音書が今朝の御言葉で証ししますように、教会の礼拝を続けて出席しました。よく居眠りしていましたが説教を聞き続けました。そして聖餐式でパンとぶどう酒にあずかりました。わたしの目が復活の主イエスを見ることはありませんが、聖霊がわたしに「わたしの罪のために」という一言を、主イエスの十字架の死を、御苦しみを見るように促して下さったのです。そして、聖霊は、「わたしの永遠の命の保証として」という一言によって、キリストの復活を、わたしにお示しくださったのです。

 

教会の礼拝に、わたしがリアリティを感じるのは、教会の説教と聖餐式がわたしのためであると信じる信仰によってであることを、わたしは知りました。

 

その信仰の目によって、わたしは今ここに復活の主イエスがわたしと共におられ、共に御国へと歩んでくださることを信じているのです。

 

どうか、今朝のイースター礼拝を機会に、そして毎週の礼拝を通してここに復活の主イエスとの出会いがあることを証しし、復活の主イエスと共に歩んでいただきたいとお勧めします。

 

お祈りします。

 

復活の主イエス・キリストの父なる神よ、今朝のイースターの朝、わたしたちは、復活の主イエス・キリストが死に勝利され、わたしたちを永遠の命の喜びへとお招きくださいましたことを心より感謝します。

 

ルカによる福音書を通して復活の主イエスと共に歩める幸いを学びました。

 

復活の主イエスとの出会いは、信仰の出会いです。教会の礼拝における説教と聖餐を通しての出会いです。その時聖霊が「わたしの罪のために」と主イエスの十字架の死をお示しくださり、「わたしの永遠の命の保証として」と、主イエスの死人の中からの復活をお示しくださいます。

 

目で復活の主を見、理解することはできません。どうか、わたしたちの信仰によって復活し、今も生きる主イエスを見させてください。

 

イースターの喜びを、わたしたちの家族、この町の人々に、そして、日本中、世界中の人々に伝えさせてください。

 

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

ペンテコステ礼拝説教 ヨハネによる福音書第164節b―15         202265

 

「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。

しかし、実を言うと、わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。

言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」            

ヨハネによる福音書第164節b―15

 

 説教題:「聖霊の働き」

 本日の主日礼拝は、ペンテコステ礼拝です。

 

 ペンテコステは、新約聖書の使徒言行録第2142節に記された聖霊降臨の出来事です。使徒言行録によると、ゴルゴタの丘で十字架刑によって死なれた主イエスは、三日の後に復活されました。その後40日間にわたって11弟子たちに現われられました。そして、11弟子たちが見上げている中で、昇天されました。そして、10日の後に聖霊降臨の出来事が起こりました。

ペンテコステの日に120名の主イエスの弟子たちが一同に集まり、礼拝していました。突然に突風が吹き、大音響が起こりました。すると、主イエスが約束されていた聖霊が、炎のような舌の形で、分かれ分かれに現われ、集まっていた者たち一同の上にとどまりました。120名の者たちは聖霊に満たされました。そして、彼らは次々とオリエントや地中海の国々の言葉で神の偉大な働きについて語り出しました。これが最初のキリスト教会であるエルサレム教会の誕生です。

 

 今朝は、ヨハネによる福音書の164節bから15節の御言葉をお読みしました。

 

 主イエスは、12弟子たちと一緒に最後の晩餐をなさいました。途中で裏切り者のユダが出て行きました。主イエスは11弟子たちに第一と第二のお別れ説教(ヨハネによる福音書1331節-1431節,ヨハネによる福音書151節―1633)を語られました。

 

そして、どちらのお別れの説教でも主イエスは、11弟子たちに聖霊を与えることを約束されました。そして、主イエスは彼らに弁護者、真理の霊である聖霊の働き(1415節-26節,1526節-27節・164節b-15)について説明されました。

 

主イエスは、11弟子たちに第一と第二のお別れ説教をされ、二つの重要なことを語られました。主イエスが父なる神のみもとに去られること、主イエスが彼らのために弁護者、真理の霊である聖霊を送られることです。

 

164節後半で主イエスは、11弟子たちにこう言われています。「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。

 

主イエスが11弟子たちにこの二つの重要なことを話されなかったのは、いつも彼らと共におられたからです。

 

主イエスが父なる神のところに去られるのは、主イエスの昇天という出来事です。

 

そこで主イエスは、11弟子たちが主イエスを見なくなっても、彼らが御自分を信じるようにと、弁護者、真理の霊である聖霊を彼らに送られるのです。

 

5節の主イエスのお言葉は、現在形で語られています。今最後の晩餐の席で主イエスは、11弟子たちに次のように言われました。「今、わたしは、わたしを遣わされた方のところに行く。そして、あなたがたのだれも、わたしに『どこにあなたは行くのか』と質問しない。」

 

最後の晩餐の席で主イエスが11弟子たちに言われたことを、主イエスは11弟子たちが理解できないと言われています。

 

だから、6節で主イエスは11弟子たちに「むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。」と言われました。

 

 主イエスは、主の御言葉を理解できない11弟子たちの心情を察しておられます。

 

 だから、主イエスは、11弟子たちに7節で聖霊を送るという喜びを約束されています。

 

 今、主イエスは11弟子たちのもとを去られ、天に御帰りになっています。主イエスは11弟子たちに約束された弁護者、聖霊を送ってくださいました。それは、主イエスが言われたとおり、11弟子たちだけではなく、今のわたしたちにも益となっています。今わたしたちはこの教会の礼拝でこのようにヨハネによる福音書の説教を聴くことができるからです。

 

ペンテコステの出来事を通して約束の聖霊をいただいた初代教会とキリスト者たちは、11弟子たちたちが語ります説教を通して、キリストの十字架の出来事を思い起こすことが出来ました。そして、彼らは聖霊に助けられて、キリストの十字架が私たちの罪のためであることを理解することが出来ました。

 

ヨハネによる福音書は、主イエスが遣わされた聖霊に導かれて、11弟子たちが次のような益を受けると証言します。

 

811節です。「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。

 

 ヨハネによる福音書の理解によれば、聖霊のお働きとはこの地上における主イエスの救いの御業を継続させることです。だから、聖霊は11弟子たちに主イエスが語られたことを思い起こさせ、それを理解へと導くのです。

 

 聖霊の働きは、主イエスが生前語られた御言葉、なされた御業を、すなわち、主イエスを通しての神の御救いの御業を、現在化することです。

 

 現在化とは、今生きているわたしたちの教会とわたしたちキリスト者に適応することです。

 

 ヨハネによる福音書によれば、主イエスは十字架と復活で、救いの御業を完成され、父なる神のみもとに帰られます。しかし、11弟子たちはこの世に残され、この世で生き続けねばなりません。

 

 11弟子たちと同様に初代教会とキリスト者たちも、そして、今のわたしたちの教会とわたしたちもこの世で生き続けなければなりません。

 

 主イエスが11弟子たちに約束され、ペンテコステの日に降臨された聖霊は、主イエスの霊として、この世の教会とキリスト者たちと共にいて下さいます。

 

教会とキリスト者たちは何時の世も、困難の中にあるのです。しかし、聖霊は教会に宣教の御業を与えて下さいました。

 

主の日の礼拝ごとに教会はキリストを、キリストの御言葉を、十字架と復活の福音を語り続けるのです。そして教会の福音宣教を聞き続ける者たちは、聖霊の助けを借りて、キリストを、キリストの御言葉を、十字架と復活を思い起こさせられます。

 

だから、わたしたちは、毎週主の日に礼拝で、キリストの説教を聴くのです。その時聖霊は、わたしたちに十字架で死なれたキリストを思い出させてくれます。そして聖霊は、私たちの心にこう言われるのです。「キリストが十字架で死なれたのは私たちの罪のためであった」と。「キリストが死者の中から復活されたのは、わたしたちの永遠の命の保証のためだった」と。

 

それだけではありません。ヨハネによる福音書によると、聖霊は、主イエスと同じように真理の霊として、この世の誤りを糾弾されます。主イエスがユダヤ人たちの不信仰の罪を糾弾されたように、聖霊はこの世の不信仰の罪を糾弾されます。

 

主イエスが「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」と言われていますのは、一見意味不明の御言葉だと思います。

 

義は、律法との関係で使われています。ユダヤ人たちは神の律法を守り、神に義と認められようとしました。

 

主イエスは十字架の死に至るまで父なる神に従順でした。そして、主イエスは3日目に復活し、天に昇天することで、この世で見えなくなられました。つまり、主イエスは父なる神に義と認められたということです。だから、主イエスは御自身を十字架につけたこの世の誤りを、聖霊を通して糾弾されるのです。

 

ヨハネによる福音書の理解ですと、主イエスが遣わされる聖霊は、主イエスと同様にこの世の支配者を既に裁かれています。

 

ローマ総督ポンティオ・ピラト、ユダヤ人の支配者層は、主イエスを裁判にかけて、十字架刑に処しました。実は彼らのその行為そのものによって、彼らはすでに主イエスに裁かれているのだと、聖霊はこの誤りを糾弾されるのです。

 

聖霊は、教会が語りますキリストの十字架の福音によってこの世の誤りを、この世の支配者の誤りを糾弾されているのです。

 

今ウクライナの戦争が世界の関心の的になっています。戦争の当事者たちも関係する為政者たちも小さく弱く貧しい民たちの命が奪われていることを真剣に糾弾しようとはしません。しかし、主イエスは、遣わされた聖霊を通して、教会が宣教する十字架の福音を通して、この世の為政者たちの誤りを糾弾されるのです。

 

さて、12節で、主イエスは次のように言われます。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。

 

これは、主イエスが11弟子たちの無理解を責められているのではありません。むしろ、主イエスは11弟子たちがどんなに師の言葉といっても、担えない弱さがあることをご存じなのです。

 

この世に生きる教会とわたしたちは、この世で数々の艱難と迫害、そして試練に遭って主の御言葉を担えないという時があります。

 

聖書の掟を、神の命令をよく知っています。しかし、それを実行しようとしても、弱いわたしたちには担えないのです。

 

主イエスはわたしたちに「神を愛し、兄弟姉妹、隣人を愛せよ」と命令されます。しかし、わたしたちはその御言葉に耐えることができません。担えないのです。だから、わたしたちは毎週の礼拝で罪の告白をし、赦しの宣言をいただく必要があるのです。

 

ヨハネによる福音書の理解ですと、主イエスは、11弟子の弱さをご存じで、主の御言葉を担えない彼らのために真理の霊である聖霊を送ると約束してくださいました。

 

聖霊は、わたしたちが主イエスを礼拝するという行為を通して、ご自身が語られるのではなく、わたしたちに主イエスの御言葉を、主イエスの十字架と愛の行為を思い起こさせ、わたしたちが生きるこの世の誤りを糾弾し、主イエスに信従する道を歩ませてくださるのです。

 

それによって聖霊は主イエスに栄光を帰せられるのです。聖霊は、主イエスが与えるものを受けられ、それをわたしたちに伝えて、この世の誤りを糾弾し、わたしたちが主イエスと共に生きるようにと、導いてくださるのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今日わたしたちはペンテコステ、すなわち、聖霊降臨の出来事を祝うために、この教会に来ました。

 

今朝は最後の晩餐における主イエスの第二お別れ説教から聖霊の働きについて学ぶことができて感謝します。

 

主イエスがこの世を去られ、世に残された11弟子たちの益のために弁護者、真理の霊なる聖霊をお遣わしくださり、心より感謝します。

 

聖霊の働きで、今も主イエスの地上における救いの御業が継続され、わたしたちも11弟子たちと同じように、礼拝で主イエスの御言葉をお聞きし、主イエスが今わたしたちに語られていることを理解することができて、心より感謝します。

 

わたしたちは、肉の弱さのゆえに、時として主の御言葉を担うことができません。それゆえに主イエスはわたしたちの弱さを受け入れて、聖霊を通して主イエスを礼拝し、主イエスに信従できるようにしていただき、感謝します。

 

どうか、聖霊の導きに謙虚に信頼し、今朝の主イエスが語られた御言葉を励みとし、聖餐式の恵みに喜びをもって与らせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 

宗教改革記念礼拝説教(2022)         主の20221030

 

 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

                       ローマの信徒への手紙第1章1617

 

 説教題:「福音の再発見」

 本日は、宗教改革記念日(1031)を覚えて礼拝を守り、御言葉と聖餐の恵みにあずかりましょう。

 

今、お読みしました御言葉はローマの信徒への手紙第11617節です。

 

ローマの信徒への手紙は、使徒パウロの書簡の一つです。彼がローマ帝国の首都、ローマ市にいるキリスト者たちに宛て書いた手紙です。

 

使徒パウロは、ローマにいるキリスト者たちにこの手紙で挨拶を述べ、ローマを訪問したいとの願いを述べた後に、11617節でこの手紙の主題を要約して述べています。

 

16節でパウロは、「わたしは福音を恥としない。」と宣言します。その福音とは、キリストの十字架と復活、そして神の審判を告げるものです。

 

使徒パウロがキリストの福音を語りますと、それを聞きましたユダヤ人とギリシア人たちは十字架のキリストにつまずき、恥じました。そして、離れて行く者たちが多くいました。

 

そうした状況の中で、このパウロの宣言は、何を意図しているのでしょう。彼はこう宣言するのです。キリストの福音を告白し、宣べ伝えることは、神の御前でも、人の前でも、恥をかかず、それゆえにこの福音からいかなる躓きが生まれようとも、これを恥じることはないということです。

 

使徒パウロの熱い思いは、ローマのキリスト者たちによく伝わったと思います。彼らは、ローマにいる同胞に、ユダヤ人たちに主イエス・キリストの福音を信じて、伝えていたからです。

 

十字架のキリストは、死刑になったメシア、救い主です。ユダヤたちにはメシアが死刑になるとは信じがたいことでした。当時の死刑は罪人を木に掛けました。聖書には「木に掛けられた者は神に呪われた者だからである」(申命記21:23)とあります。だから、十字架の主イエスは、ユダヤ人にとってはメシアではなく、神に呪われた者でした。パウロの福音は、ユダヤ人たちには躓きでありました。

 

新約聖書の使徒言行録は、使徒パウロがギリシアのアテネ市でキリストの復活の福音をアテネの市民に伝えたことを記しています(18)。アテネの市民たちはパウロがキリストの復活を語るのを聞きますと、愚かな話だと思いました。死人の復活は、彼らには神話の世界にだけ存在することで、現実にはあり得ないことでした。

 

だから、彼らはパウロを詐欺師と思ったことでしょう。彼らのある者たちは彼を嘲笑いました。ある者たちは彼に言いました。「死んだ人間が復活するという珍しい話はいずれまた聞かせてもらおう」と。

 

このようにパウロは、アテネの市民たちに辱められましたが、彼は恥じることなく、キリストの福音を語り続けました。その結果、数人の者たちが信仰に入りました(18:34)

 

だから、彼は、この手紙でこう宣言するのです。「わたしは福音を恥としない。」と。

 

そして、続けて使徒パウロはそのように宣言できる理由を、こう言うのです。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。

 

パウロの言う「福音」は、キリスト教会の福音宣教のことです。それは喜びの知らせです。十字架のキリストがわたしたち罪人の救い主であり、この御方がわたしたちに永遠の命を与えるために死人の中から復活されたという。

 

そして、使徒パウロは、この福音を人々に伝えること自体が、実は父なる神と復活の主イエス・キリストが遣わされた聖霊なる神の御力による救いであると言うのです。

 

聖書を読みますと、ユダヤ人たちは主なる神が選ばれた神の民であり、ギリシア人たち、すなわち、ユダヤ人以外の異邦人たちは、ユダヤ人からすれば、神に見捨てられた民です。

 

しかし、パウロが語るキリストの福音は、この壁を取り払いました。それが、「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも」という表現です。世界のすべての人々を指しています。この世のすべての人々が、パウロが語るキリストの福音を聞く時に、聖霊なる神の御力によってキリストをわたしたちの救い主と信じて、救われたのです。

 

この「救いの力」とは、聖霊がわたしたちをこの世のおけるサタンの支配から解放されて、神の恵みの支配に移してくださることです。

 

だから、使徒パウロは、この世における教会の福音宣教を、聖霊なる神の救いの御業と宣言するのです。

 

わたしたちは教会の出来事を、すなわち、わたしたちがここで礼拝をし、説教を聴き、主イエスを救い主と信じて、洗礼と聖餐に与ることを、聖霊なる神の救いの御業と思っているでしょうか。

 

まさにこのわたしが教会の福音宣教を通して主イエスをわたしの救い主、わたしの神と信じていることが自分の力ではなく、聖霊なる神の救いの御力、神の奇跡の御業であるのです。

 

さらに使徒パウロは、続けてこう述べています。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。

 

わたしの好きな英語の聖書、「ニューイングリシュバイブル」は、こう英訳しています。「というのは、わたしは福音を恥じません。それは、信仰を持つ者すべてにとって、すなわち、ユダヤ人を初め、ギリシア人もまた、神の救いの力である。なぜなら、ここに不義を義とする神の道、すなわち、信仰からスタートし、信仰で終わる一つの道を啓示している。聖書が言うように、『彼は信仰を通して義とされた者の命を得るだろう。』」

 

ニューイングリシュバイブルは、「神の義」を、不義を義とする神の道と解釈しています。

 

福音が信じる者を救う神の御力であるのは、そこに「神の義」が啓示されているからであると、パウロは述べています。

 

この福音を、宗教改革者ルターが再発見したのです。

 

彼は、最初パウロの語る「神の義」を、人を裁く神の義であると理解しました。だから、彼は日々、神を恐れ、神に裁かれる自分を想像し、苦しみました。

 

しかし、ルターがヴィッテンベルク大学で学生たちに詩編を講義していました時、詩篇312節に「恵みの御業によってわたしを助けてください」という御言葉に、彼の目が止まりました。新改訳聖書2017は、「あなたの義によって、私を助け出してください」と訳しています。

 

彼は、修道院で一生懸命に神の御目に適う者になりたいと、修行に励みました。しかし、「神の義」という基準が彼の努力を無にしました。神の裁きの前に彼は無力でした。

 

詩編31編のダビデの祈りは、ルターには以外でありました。神の義が神の裁きではなく、救いであることが、です。

 

ルターは、神の義を彼の行動の規準と考えました。彼は、神の義に束縛されました。神の義に適わない自分の行ないのゆえに、神の裁きの日を恐れました。

 

ところが詩編31編のダビデの祈りは、彼の思いとは反対です。ダビデは、神の義によって救いを、解放を祈りました。

 

そして、ルターは、ローマの信徒への手紙の117節の御言葉に出会いました。ルターは、詩篇とローマの信徒への手紙の「神の義」と格闘しました。

 

ルターは、「神の義」を神の律法、人が守るべきものと理解していました。ところが、聖書は、神の義を福音として、わたしたちの救いであり、わたしたちを解放してくれるものと伝えていたのです。

 

ルターは、遂にパウロのように「神の義」を神の裁きではなく、神が持たれている義を、義を持たない人間にお与えくださるプレゼントであると気づきました。

 

 

パウロは旧約の預言者ハバククの「神に従う人は信仰によって生きる」(ハバクク書2:4)を引用して「「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」と述べています。

 

預言者ハバククは、バビロニア帝国のネブカドネツァルが紀元前605年に王に即位したころに、預言者活動を始めました。主なる神は彼を通してバビロニア帝国が南ユダ王国を滅ぼすことをお告げになりました。その時に主なる神は、ハバククを通して心を真っすぐに主に向けない者は滅ぼされ、主なる神に従う者は信仰によって生きると約束されました。

 

こうしてパウロは、神の義のプレゼントが福音において提供され、キリストを信じる信仰を通してすべての者を救う神の力となると力強く宣言しました。ルターは、使徒パウロが見出した信仰義認の教理を、再発見しました。

 

 わたしたちは、ルターが再発見した信仰義認の教理に今も生かされています。自分たちの行ないによって自らの救いをなすことは出来ません。

 

わたしたちにできることは一つです。日本キリスト改革派教会上諏訪湖畔教会の礼拝に集い、キリストの福音を聞くことです。

 

神が罪人のわたしたちに神の義をプレゼントしてくださいました。これがわたしたちの福音です。父なる神は、御子主イエスを、人としてこの世に遣わされ、わたしたちの罪の身代わりをされ、主イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神に従順に従われて、得られた神の義を、わたしたちにプレゼントしてくださったのです。

 

神の義をプレゼントされたわたしたちは、主イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神に従順に従われたように、私たちもキリストの十字架の故に罪を赦され、神の義をいただき、信仰から信仰へとキリスト者の生活を、御国に至る聖化の道を歩んでいくのです。

 

わたしたちは小さな群れでありますが、使徒パウロが発見し、宗教改革者ルターが再発見した福音を今もこの礼拝で聴ける喜びを、その福音によってわたしたちが神の義によって信仰から信仰に生かされる喜びを、共にしようではありませんか。

 

お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、宗教改革を覚えて記念礼拝を行い、御言葉と聖餐の恵みにあずかれることを感謝します。

 

どうか使徒パウロが発見し、宗教改革者ルターが再発見した信仰義認の教理に、わたしたちも共に与らせてください。

 

今朝は、御言葉と共に、聖餐にあずかります。教会の福音宣教によって聖霊がこの世において悪魔に支配された人々を、神の恵みの支配の下に、御国へと移す神の救いの御力をお示しください。

 

世界のプロテスタント教会が宗教改革を記念し、礼拝を守り、聖餐式をしています。どうか、界のプロテスタント教会を祝してください。

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によってお聞きください。アーメン。