2017年ペンテコステ礼拝説教 2017年6月4日
その後
わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し
老人は夢を見、若者は幻を見る。
その日、わたしは
奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
天と地に、しるしを示す。
それは、血と火と煙の柱である。
主の日、大いなる恐るべき日が来る前に
太陽は闇に、月は血に変わる。
しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。
主が言われたように
シオンの山、エルサレムには逃れ場があり
主が呼ばれる残りの者はそこにいる。
ヨエル書第3章1-5節
説教題「聖霊降臨」
ペンテコステ、おめでとうございます。
新約聖書の使徒言行録第2章に聖霊降臨の出来事が鮮やかに記されています。ペンテコステの祭の最中にエルサレムの都のある家で、120名の主イエスの弟子たちが集まり、熱心に祈っていました時、そこに聖霊が降臨されました。
使徒言行録は、その出来事を次のように表現しています。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」たと。「炎のような舌」とは聖霊のことです。聖霊が120名の主イエスの弟子たちひとりひとりの上にとどまられました(使徒言行録2:3)。すると、120名の主イエスの弟子たちは聖霊に満たされて、聖霊が導くままに他国の様々な言葉を口にして、預言しました。
使徒言行録は、更に次の出来事を付け加えて記しています。聖霊降臨の出来事は、家全体に響き渡るものであったと。その大きな音を聞いて、エルサレムの都でペンテコステの祭を祝っていた大勢の人々が集まりました。彼らはいろんな国々からエルサレムの都に巡礼で詣でていました。そして彼らは自分たちの国の言葉で120名の主イエスの弟子たちが「神の偉大な業を語る」のを聞いて驚きました。
これがわたしたちの教会の誕生物語です。
ペンテコステの出来事を通して、エルサレム教会が生まれ、エルサレム教会から全世界に向けてキリスト教の宣教が始まりました。
今朝は、旧約聖書のヨエル書からペンテコステの出来事の喜びを学びましょう。
ヨエル書は、旧約聖書の中の一つの書物です。小さな預言書です。旧約聖書の中には、小さな預言書が12あるので、「十二預言書」と呼ばれています。
普通預言書には、預言者が活躍した時代やその時の王の名が記されています。ところが、ヨエル書には、預言者の名と彼に主の言葉が臨んだことしか記されていません。
ですから、ヨエル書を読むだけでは、ヨエルがいつごろの預言者か、はっきりしません。ハガイ書、マラキ書等の、他の預言書を読むことで、次のように推測できるのです。彼は紀元前6世紀、バビロン捕囚後に活躍したと。
さて、ヨエル書は小さな書物で、全部で4章しかなく、その内容は第1部と第2部に分かれています。
第1部は1章から2章17節までです。「嘆きと悔い改めの訴え」です。嘆きとは、イナゴの大きな被害です。主なる神は、預言者ヨエルを通して、神の民に災いを告げられました。イナゴの大群が飛来し、農作物を食い荒らし、国の食糧がなくなると。それは、主の日が来るしるしでした。
主の日とは、主なる神が神の民と諸国民を裁かれる日です。
主なる神は預言者ヨエルを通して、神の民たちに彼らの罪を嘆き、悔い改めて、主なる神に立ち帰るように訴えられました。
第2部は2章18節から4章までです。神の民は主なる神の訴えに応えて、立ち帰りました。そして彼らは主なる神に祈りと嘆願をしました。それに対して主なる神が預言者ヨエルを通して答えられたのが、この第2部です。
主なる神は、預言者ヨエルを通してユダとエルサレムの解放を、すなわち「主の名を呼ぶ者」に対する新しい命と救いを約束されました。
今朝のヨエル書3章1-5節の御言葉は、主なる神が預言者ヨエルを通して、未来における神の御救いの出来事を明らかにされました。旧約聖書で「救い」とは、主なる神が神の民イスラエルと共にいてくださることです。預言者イザヤが一言で「インマヌエル」と預言しています、神の現臨です。
主なる神は預言者ヨエルを通して、この神の民の救いである「神の現臨」をどのように未来に実現するかを、幻、すなわち、黙示という方法で表されました。それが、今朝の御言葉のヨエル書3章1-5節の御言葉です。
1節の「その後」とは、主なる神が大きな転換をされた後という意味です。主なる神は、神の民にイナゴの大群の被害で、主の日を示されました。すなわち、主なる神は神の民と諸国民を裁くと告げられ、神の民に罪を悔い改め、主なる神に立ち帰るように訴えられました。
神の民は、主なる神の訴えを聞き入れ、主なる神に立ち帰りました。そこで主なる神は裁きから平和へと大きく転換されました。この場合の「平和」とは神が神の民を救われることです。主なる神が神の民と和解し、彼らと共にいてくださることで、神の民との平和を実現されました。
そこで主なる神は預言者ヨエルを通して、次のように言われています。1節で「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。」、2節で「その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」と。
主なる神は預言者ヨエルを通して、神の民に「霊を注ぐ」と語られることで、裁きから平和に大きく転換されました。
「すべての人にわが霊を注ぐ」「奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」ことによって、主なる神がバビロンで捕囚されている神の民たちの内にとどまられ、彼らと共にいてくださいます。
「わが霊」「霊」とは、聖霊なる神です。主なる神は神の民に約束してくださいました。聖霊を通して主なる神は神の民の内にいると、バビロンで捕囚され、奴隷とされた男女の神の民と共にいると。
そして主なる神が聖霊を通して彼らのうちに現臨されるしるしが、「あなたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」ということでした。
ここで主なる神が預言者ヨエルを通して語られている真実は、聖霊をいただく者の祝福です。人生経験のない息子であろうと娘であろうと、バビロンで男女の奴隷であろうと、老人であろうと若者であろうと、聖霊をいただく者は神の御言葉を語り、神の御救いの啓示を受け取り、人々に伝えることができるのです。
それは、まさしくペンテコステの日に聖霊が降られたエルサレム教会の預言ではないでしょうか。
やがて3-4節で記されています主の日がやって来るのです。主なる神が神の民とすべての諸国民を裁かれる終末が来ます。
「天と地に」とは、全宇宙でしょう。神が創造された「天と地に」、すなわち、この世界にこの世の終わりの予兆が示されます。
「血と火と煙の柱」とは戦争をイメージしています。
「太陽が闇に、月が血に変わる」とは、天体に起こる大異変をイメージしています。
主の日のイメージは、「大いなる恐るべき日」です。主なる神が神の民と諸国民を裁かれる恐ろしい日です。戦争と宇宙の大異変がその日を予兆しているのです。
しかし、主なる神は預言者ヨエルを通して、5節で「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。」と、主の御名を呼ぶ者たちの救いを約束されました。
「主の御名を呼ぶ者」とは、主なる神を礼拝する者のことです。創世記12章8節でアブラハムが「主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」と記しています。神を礼拝したのです。
新約聖書のローマの信徒への手紙10章13節で、使徒パウロが主イエスを心で信じて、口で告白する者は救われると述べて、この御言葉を引用しています。そして、使徒パウロは続けて、14節以下で次のように述べています。「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです。」
主なる神が聖霊を注がれ、息子、娘たちがエルサレムの神殿で説教をし、その礼拝に集まる者たちがそれを聞いて、主の御名を信じます。そして主の御名を信じて、主を礼拝する者たちを皆、主なる神は主の日に救ってくださいます。
預言者ヨエルの時代は、主なる神はエルサレムの都にあるエルサレム神殿に現臨されました。だから「シオンの山、エルサレムに神の救いがある」のです。
そして、主なる神の救いに、「残りの者」もあずかることができます。この「残りの者」とは主なる神が選ばれた者たちであり、神が世界の諸国民の中から選ばれたわたしたち異邦人キリスト者たちのことです。
預言者ヨエルの預言は、確かに使徒言行録の第2章のペンテコステの出来事で実現しました。主イエスは教会に、そしてすべてのキリスト者に聖霊をお遣わしになりました。そして、聖霊をいただく者は、すべて預言者、祭司です。預言者として人々に神の言葉を語り、祭司として人々をキリストに執り成すことができます。
とりわけ、今年は宗教改革500周年の年です。
宗教改革以後、聖書が万人に手渡され、すべてのキリスト者は聖霊をいただき、万人祭司とされたと確信し、この世の中でキリストの福音を伝え、神との和解の務めを、日々の生活の中でなしています。
わたしたちは、今から共に聖餐式にもあずかります。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一11章26節の聖餐式の式辞で、このように述べています。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」
罪と死からわたしたちを救うことの御力を持つ復活の主イエス・キリストが、この聖餐式の主人です。復活の主イエス・キリストは、わたしたちの目には見えません。しかし、聖霊と御言葉を通して、この場にいてくださいます。だから、説教と同じです。目に見えないキリストを信じる信仰が、必要でありますし、その信仰は聖霊をいただかなければ、わたしたちの賜物とはなり得ません。信仰によって、わたしたちは裂かれたパンを通して十字架の上でわたしたちの罪のために体を裂かれたキリストを、そして杯に注がれたぶどう酒を通して流されたキリストの血を思い起こします。そしてわたしたちは信じます。キリストの十字架の死がわたしたちの罪のためであることを、そして、キリストの復活がわたしの永遠の命の保証であると。
今朝のペンテコステの日に、わたしたちが信じなければならないことは、今ここに復活の主イエス・キリストが、わたしたちと共に、この教会にいてくださっているということです。聖霊を通して復活のキリストが今ここにいてくださるので、わたしたちは今日も十字架のキリストのゆえにキリスト者としての存在を許され、ペンテコステ礼拝で主を礼拝し、聖餐にあずかることを許されていると信じています。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、ペンテコステの日に主を礼拝し、御言葉と聖餐の恵みにあずかれる祝福を心より感謝します。
復活の主イエス・キリストは天に昇られ、地上の教会とわたしたちキリスト者に聖霊をお与えくださり、心より感謝します。
願わくは、預言者ヨエルが預言しました主の日はなお未来であります。キリストの再臨を待ち望みつつ、毎週の日曜日に主を礼拝し、御言葉を聞き続けさせてください。
わたしたちは、聖霊をいただいています。預言者ヨエルが預言した預言者であり祭司です。家族や地域の人々に、友人たちに預言をし、キリストの執り成すことを許されています。この世の終わりが来ないうちに、ひとりでも多くの方々にキリストの福音を伝えさせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
宗教改革記念礼拝説教(2017年) 10月29日
そこで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人はすべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、〝霊〟により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。あなたがたが決して考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするなら、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。あなたがたをかき乱す者たちは、いっそうのこと自ら去勢してしまえばよい。
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。
ガラテヤの信徒への手紙第5章2-15節
説教題:「キリスト者の自由」
今年の10月31日は、マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に95箇条の提題を貼り出し、宗教改革運動を始めて、500年目に当たります。
日本キリスト改革派教会は、宗教改革500年を記念して、10月の大会前に日本キリスト教会の教職者たちと宗教改革500年記念教職者会議を日本キリスト教会柏木教会で開催しました。画期的な試みであったと思います。日本キリスト改革派教会と日本キリスト教会の将来につながるものであったと思っています。
両教派の講演者の講演を通して、両教派の教職者たちが日本キリスト改革派教会の生い立ちと教会形成を理解し、宗教改革についての共通の理解を得ることができました。
さて、今朝の礼拝で、500年昔の宗教改革とは何であり、そこで何が問題にされ、現代のわたしたちの「キリスト者の自由」にどんな影響があるのかを、ガラテヤの信徒への手紙5章2-15節の御言葉に耳を傾けて、学びたいと思います。
宗教改革とは、何であったのか。
最近読み始めて、途中でありますが、ルテール学院大学、ルーテル神学校の名誉教授である徳善義和氏が、「マルチン・ルター 生涯と信仰」という本を教文館から出されています。
その本の中で徳善先生は、宗教改革を一言で、次のように記されています。「宗教改革は聖書をめぐる運動、聖書を読む運動であった」と。
徳善先生は、更に次のように記されています。キリスト教は、聖書が中心です。キリスト教のどの教派も聖書から出発し、帰って行くのは聖書だ。宗教改革は、この聖書を学ぶことを、専門家から民衆へと広げた運動だと。
まさにその通りでないでしょうか。
青年ルターは、アウグスチヌス会の修道院で聖書を読み、聖書と格闘し、聖書から福音を再発見しました。
彼は晩年に修道院の生活を回想して、次のように言っています。「もし人間の行いによって人が義とされる、神様との正しい関係に入るということが出来るとするならば、私もその一人だ」と。
しかし、ルターは、人間の行いの正しさの中に彼の満足と平安を見つけることが出来ませんでした。
なぜなら、彼にとって「神の義」は、彼を神が裁くことであったからです。彼の行いに、一つでも罪があれば、義なる神は彼を裁かれます。彼の良心は日々、日夜休まることはありませんでした。
しかし、ルターがヴィッテンベルク大学で学生たちに詩編を講義していました時、詩編31編2節に「恵みの御業によってわたしを助けてください」という御言葉に目が留まりました。フランシスコ会訳聖書は、「あなたの義によって、救い出してください」と訳しています。
ルターは、修道院で一生懸命神の御目に適う者になりたいと、修行に励んでいるわけです。「神の義」という基準は、彼の努力を無にするものだったのです。
ところが、詩編の詩人ダビデは、「あなたの義によって、救い出してください」と祈っているのです。神の義が裁きではなく、救いであるということが、ルターには意外なことでありました。
ルターは、神の義を彼の行動の基準にして、神の義に束縛され、そして、神の義に適わない自分の行いのゆえに、神の裁きを日々に恐れていたのです。
詩編のダビデは、反対で、「あなたの義によって、救い出してください」と言っているのです。ルターにとって神の義は、彼を束縛するものなのに、ダビデには解放するものでした。
そして、ルターは、ローマ書1章17節の御言葉に出会うのです。「福音には、神の義が啓示されています」。
福音とは「良い知らせ」です。パウロは、ルターを苦しめていた神の義をグッドニュースだと記しているのです。
ルターは、詩編とパウロのローマ書の「神の義」と格闘することになります。
ルターは、神の義を神の律法、人が守るべきものと理解していました。聖書は、神の義は福音であり、わたしたちの救いであり、わたしたちを自由に解放してくれるものであると伝えていたのです。
ルターは、学生たちに苦闘の中で詩編を講義し続けました。そして、詩編72編2節で再び「恵みの御業によって助け、お救いください」という御言葉を見出しました。 「あなたの義の救い故に助け、救い出してください」(フランシスコ会訳)。
ルターは気づかされました。「神の義」は基準ではないと。人間が守らなければならない基準ではない。むしろ、神がお持ちの義を、持っていない人間にお与えくださるプレゼントだと。だから、人にとって、神の義は福音であると。
この喜びを、人は信じるだけで救われるのです。(「正しい者は信仰によって生きるのである」(ローマ1:17))。
使徒パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに向かって「わたしパウロはあなたがたに断言します」(ガラテヤ5:2)と呼びかけて、非難しています。
神の義(神の救い)を、恵みと取るか、律法と取るか、今ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちは、割礼を行うか、否かによって、決断を迫られていたのです。
ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちは、パウロが語ります福音を聞きました。パウロは、この手紙の3章で述べていますように、彼らの目の前でキリストが十字架で死なれたように語りました。彼らは十字架のキリストの救いを信じました。そして、洗礼を受けて、キリスト者となり、聖霊と信仰の賜物をいただいたのです。
ところが、エルサレムからユダヤ人キリスト者たちがやって来ました。彼らはガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに異なる福音を語りました。彼らは言いました。「パウロから福音を聞いて、十字架のキリストを信仰するだけでは不十分である。ユダヤ人たちが守るモーセ律法を熱心に実行し、ユダヤ人たちの祭りや割礼の習慣を守り、神の御前に自分たちが義人であることを立証しない限り、本当のキリスト者ではない」と。
パウロから見れば、ユダヤ人キリスト者が教える異なる福音は、福音ではありません。むしろ呪いでありました。
第一に彼らは、キリストを役に立たない者にしました。割礼を受けて、神の律法を実行しようとする者は、キリストの十字架を無にすることになります。だから、パウロは彼らに割礼を受けて、律法を守り、自らの救いを得ようとする者は、キリストと無関係な者となると言いました。
割礼を受けることは、律法の全体を守らなければならないことになります。神の義を律法と考えたルターの苦しみを思い起こしてください。
割礼を受ける者は、律法に束縛され、再び神の裁きを恐れなければなりません。
神のプレゼントである神の義を、その恵みを失うことになります。
すなわち、父なる神はキリストを人としてこの世に遣わされ、罪人であるわたしたちが受けるべき刑罰を、十字架のキリストに負わせられ、キリストが父なる神に御前に従順に歩まれて得られた義を、わたしたち罪人にお与えくださいました。これを、ルターは神の義の喜ばしき交換と言いました。
まさに、聖書から、信仰義認という真理に達したのがパウロであり、それをもう一度再発見したのがルターでありました。
パウロが言う「義とされた者の希望が実現すること」とは、義の希望の実現ということです。キリスト者の救いの実現です。
それは、一瞬の出来事ではありません。地上から御国へと聖化の過程があります。礼拝から礼拝へという地上のキリスト者の歩みでもあります。
キリスト者の信仰生活と言ってよいでしょう。それを支えているのが、聖霊と信仰であります。だから、パウロはガラテヤ諸教会の異邦人キリスト者たちに「〝霊〟により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです」と言っているのです。
わたしたちは、主イエスを救い主と信じて、洗礼を受けて、聖霊をいただき、その聖霊に導かれてキリストの体なる教会に加えられ、信仰から信仰へと歩み続けるのです。
パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちがイエス・キリストと一体となっているならば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切であると言っています(6節)。
青年ルターは修道院でどんなに熱心に規律を守り、神の御前に自分の義を立証しようとしても不可能でした。ところが、父なる神は律法の呪いの下につながれていたルターを、キリストの十字架を通して罪人を義とする神の義を信じるルターに変えて下さり、彼を律法の呪いと死から解放してくださったのです。
キリストと一体とされた者は、キリストの命じられたように互いを愛し合う者として信仰生活をするのです。
7-12節は、パウロの警告であります。
パウロは、ガラテヤ諸教会のキリスト者たちを、「よく走っていた」と褒めています。パウロが開拓伝道し、ガラテヤ諸教会のキリスト者たちは、異教社会の中でよく伝道し、熱心に教会形成に励んでいたのでしょう。
ところが、道から逸れる者が出てきました。異なる福音を伝える者が現れ、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちをキリストから引き離そうと誘惑しました。
その原因になったユダヤ人キリスト者たちは、使徒パウロのように主が遣わされた者ではありません。それでも、イースト菌がパン粉を膨らませるように、一つの誤りが教会全体を汚すことがあると、パウロは警告しています(8-9節)。
パウロは、ガラテヤ諸教会を主に委ねていました。そして、必ずガラテヤ諸教会の異邦人キリスト者たちはパウロが伝えた福音に戻ってくれると確信していたでしょう(10節前半)。
パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに自らの苦難の伝道を提示して、十字架のキリストを伝えると述べているのです。どんなに人に受け入れられなくても、それが障害になっても、彼は十字架のキリストだけを告げ知らせるのです(11節)。
この十字架のキリストを通して示された神の義の福音以外に、人が救われる道はないからです。
そして、ルターもまた、この福音を聖書から再発見したのです。
そして、パウロは、13節以下で、キリスト者の自由について語るのです。
今わたしたちは、ヨハネによる福音書を学んでいます。
主イエスは言われます。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と(ヨハネ8:31)。
キリストと一つとなること、それがキリストの本当の弟子です。異教の社会の中で、親子関係、兄弟関係、親族関係を断ち、キリストと一つとなる。その時にキリストは真理を知るのです。わたしの父は天の父なる神であると。そして、この世のすべての律法の束縛から、罪から、死から、キリスト者は十字架のキリストを通しての神の義によって解放され、自由にされるのです。
宗教改革は、聖書から、信仰義認の真理を見出しただけではありません。そこからパウロが言うように主イエス・キリストがキリスト者に自由を得させるために召されていることを再発見したのです。
キリスト者は、万人祭司として、教会の束縛から、律法と罪から、死から解放され、隣人を愛して、自分たちの職業を主の召しと信じて、世俗社会の中でキリストに仕えて行くのです(13節)。
キリスト者の自由は、本当にすばらしい喜びです。
パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちにわたしたちが愛によって兄弟に仕え、隣人に仕えることで、(キリスト者の自由が)大いに発揮されると伝えており、ルターもその喜びを見出しましたので、彼は聖書の喜びを分かち合うことを始めました。
ルターは、信仰義認によって得た自由を、聖書の分かち合いという形で民衆に広めていきました。
ヘブライ語の旧約聖書とギリシア語の新約聖書を翻訳し、自らが聖書を読み、祈り、黙想したように、民衆に分かち合いました。字が読めない民衆が多くいましたので、彼はヴィッテンベルク城教会で民衆に聖書を読み、説教しました。
そこでローマカトリック教会の免罪符の問題を取り上げないわけにいかなくなりました。
今朝の宗教改革500周年記念礼拝で、わたしたちは、宗教改革から何を学ぶべきでしょうか。
聖書から、信仰義認の真理を見出したルターが、また、聖書に戻り、ドイツの民衆たちと共に聖書を読み、聖書を分かち合う運動をしたことを、すなわち、彼らは毎週の礼拝で聖書を語り、聞き、そして説教を語り、聞く運動を続けたのです。
その中から自分たちの生きている社会にある問題に、隣人を愛する問題に出会い、その解決を聖書に、聖書が証しするキリストに求めたのです。
宗教改革の運動から500年経ちましても、何も変わらないと思うのです。
確かに世界の変革はすごいと思います。科学技術、情報通信、交通の発展は目覚ましいです。
しかし、世界がどんなに変わり、古い時代は去り、新しい時代になっても、人は罪人であり、それゆえにこの世に悪がはびこり、罪と律法と死が支配するこの世界の中で、罪人を救えるのは十字架のキリストのみです。
そして、聖書から、信仰義認によって、救われた者こそこの世の罪と律法と死から解放され、自由にされ、その自由を隣人への愛のために生きているように召されているのです。
わたしの説教を聞かれ、自分には程遠いと思われた方もおありでしょう。
しかし、わたしたちがこの教会の礼拝にいることこそ、本当に奇跡です。まして、主の日の礼拝で、献金をし、身をささげるという行為を、自分が喜んでいるということは、キリスト者でなかったわたしには信じがたいことです。
自分が何かする、そうしないとこの世では価値がない。これが今のわたしたちの規準であり、だれもがそれに縛られています。
しかし、わたしたちは、そこからキリストによって自由にされました。なぜなら、わたしたちは、キリストと一つとされ、生きることも死ぬこともキリストです。自分が今ここにいるだけで、それだけで、キリストがわたしたちを御自身の御心に聖霊を通して導いてくださるのです。
だから、日々主に感謝し、主よ、わたしの小さな働きを通して、あなたの御心をなさせてくださいと祈ろうではありませんか。
ルターは、明日この世の終わりが来ても、わたしは今日りんごの木を植えると言ったと伝えられています。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、宗教改革500年記念礼拝を行うことが許されて感謝します。そして、今わたしたちはここに集い、御言葉の朗読と説教を聞き、そして、これから聖餐の恵みにあずかれることを感謝します。
生まれながらの罪人であるわたしたちが、あなたの御前に自分の義を立証することはできませんが、神の義の福音を通して、神に義とされ、罪を赦され、神の子としていただける恵みを感謝します。
今年は、宗教改革500年を迎え、ドイツの国を中心に世界中で宗教改革500周年のイベントが祝われます。どうか、聖書から、信仰義認の教理が正しく世界の人々に伝えられ、その神の義の福音を聞く世界中の人々が救いに至るようにしてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によってお聞きください。アーメン。