2014年教会聖句を覚えての説教         主の2014年7月6日

 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神はあなたがたに望んでおられることです。
                テサロニケの信徒への手紙一第5章16-18節

 説教題:「喜び・祈り・感謝」
 今朝は、今年、上半期を終え、下半期に入りましたので、2014年度の聖句を覚えて、御一緒に礼拝を守りましょう。

 テサロニケの信徒への手紙一は、使徒パウロが最初に書いた手紙です。

新約聖書の中に使徒パウロの手紙が13通ありますが、テサロニケの信徒への手紙は、紀元51年頃に書かれました。

使徒パウロは、使徒言行録の記録によりますと、3度の伝道旅行をしています。第2回目の伝道旅行しました時に、聖霊がパウロに夢を通してヨーロッパのマケドニア人たちの救いを求める幻をお見せになりました(使徒言行録16:6-10)。

使徒パウロは、復活の主イエス・キリストが自分をマケドニア人への福音宣教に召されていると確信し、ヨーロッパに渡りました。

使徒パウロは、フィリピで伝道し、次にローマ帝国の属州マケドニア州の首都であるテサロニケ市で伝道しました。

テサロニケ市は大都市であり、大きなユダヤ人地区があり、いろいろな宗教が雑居する国際都市でもありました。

パウロは、その地で伝道する時、最初にユダヤ人の会堂でユダヤ人たちにキリストの福音を伝えました。しかし、ユダヤ人たちはパウロの語る福音を聞く耳を持ちませんでした。

パウロの語るキリストの福音を信じたのは、異邦人たちでした。使徒言行録の記録によりますと、パウロは、テサロニケの町で「三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、『メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた』と、また、『このメシアはわたしたちが伝えているイエスである』と説明し、論証した」(使徒言行録17:2―3)のです。

使徒パウロがテサロニケ伝道で成果を上げていたのを見て、パウロの語る福音を拒みましたユダヤ人たちは、妬みました。そこで彼らは、町のならず者たちを利用してテサロニケの町に騒ぎを起こしました。そして、ユダヤ人たちは、使徒パウロたちがローマ皇帝の勅令に背いて、「イエスという別の王がいる」と言っていると、触れまわり、テサロニケ市の官憲に訴えました。

テサロニケ教会のキリスト者たちは、使徒パウロの身に危険を感じて、急ぎパウロとシラスをアテネの町へと逃しました。そして、パウロは、その後コリントの町まで伝道し、コリントの町に長く滞在しました。

使徒パウロは、その時にテサロニケ教会に宛てて、この手紙を書きました。

使徒パウロがこの手紙を書いた動機は、彼の弟子のテモテがテサロニケ教会の兄弟姉妹たちの様子を知らせたからです。

その知らせは、パウロを喜ばせるものでした。しかし、中にはパウロがテサロニケ教会に指示を与える必要がある事柄もありました。それは、キリストの再臨に関するものでした。

そこで使徒パウロは、テサロニケ教会のキリスト者たちにこの手紙で次のことを書いています。

第1に使徒パウロは、テサロニケ教会のキリスト者たちの信仰と忍耐に感謝しています。

第2に使徒パウロは、テサロニケ教会のキリスト者たちにパウロがテサロニケで開拓伝道したことの労苦と骨折りを語り、パウロは伝道者としての潔白さを証ししています。そして、テサロニケ教会のキリスト者たちがパウロの語る説教を、神の言葉として受け入れてくれたことに感謝しています。

第3にパウロは、テサロニケ教会のキリスト者たちを誘惑する者に警戒し、神にふさわしい者となるように勧め、彼らの兄弟愛を称賛しています。

第4にパウロは、テサロニケ教会のキリスト者たちに死者の復活について教えています。そして主イエスの再臨に備えるように勧めています。

そのパウロの勧めの中に今朝の御言葉があります。

次に使徒パウロは、テサロニケ教会のキリスト者たちに次のことをお願いしています。

第1に教会の指導者たちを重んじ、その指導に従って、教会の中で平和に過ごしてほしいとお願しています。

第2にキリストの再臨を口実にして怠けている者たち、すなわち、キリストの再臨に対して熱狂的になり、日々の務めをおろそかにする者たちを戒めるように命じる一方で、他方キリストの再臨が来れば、主に裁かれて自分は滅んでしまうと恐れている弱い兄弟姉妹を励ましてほしいとお願いしています。

そして第3にパウロは、迫害の中にあるテサロニケ教会のキリスト者たちに悪をもって悪に報いないで、どんな人にも、すべての人に善きことを行うように努めなさいとお願いしています。

それに続いて使徒パウロは、テサロニケ教会のキリスト者たちに、今朝の御言葉を勧めています。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

使徒パウロは、テサロニケ教会のキリスト者たちに「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望まれている生活」をしてほしいとお願いしているのです。

パウロは、命令調で述べています。それは、キリスト者に対する神の御心であるからです。

第1の「いつも喜んでいなさい。」

最も新しい日本語訳聖書は、「いつも喜びを忘れずにいなさい。」と訳しています。

わたしは、新しい訳に、目からうろこが落ちるという体験をしました。

以前のわたしは、パウロの御言葉を、自分の行いと理解していました。「キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望まれている」のは、わたしがキリスト者としていつも喜んでいることだと思っていました。すると、すぐに次のことが分かります。喜べない自分がいることです。日々の生活は、必ずしも常にキリスト者として喜ぶことのできるものではありません。ですから、正直にこのパウロの御言葉に後ろめたさを覚えました。

しかし、パウロは、わたしたちにキリスト者に「いつも喜びを忘れずにいなさい」と命じているのであれば、意味は変わります。パウロは、わたしたちに喜びの行為をもとめているのではなく、「キリスト・イエスにおいて神」がわたしに与えてくださった喜びを、わたしがいつも忘れないでいるように命じているのです。これであれば、わたしは、アーメンです。わたしは、喜怒哀楽を持った人間です。その度にわたしの心は揺れ動きます。だが、キリスト者はだれでも、キリストの十字架を、この喜びを忘れることはできないのではないでしょうか。

キリスト者の喜びは、聖霊の実の一つです(ローマ14:7)。キリスト者の喜びは、キリストの十字架の贖いから出てくるものであります。

毎週水曜日の礼拝で学んでいますハイデルベルク信仰問答の問1と答に次のような問答があります。

問1「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」
答「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守ってくださっています。実に万事がわたしの救いのために働くのです。そうしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜びまたそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。

使徒パウロがテサロニケ教会のキリスト者たちに「いつも喜んでいなさい」と命令していますのは、聖霊がわたしたちの心に証印してくださったキリストの十字架の贖いの喜びであります。

そして、その喜びは、聖霊が満ちた場である教会の礼拝にあります。キリスト者の喜びは、聖霊がお働きくださり、わたしたちに永遠の命を保証してくださっているしるしであります。主日礼拝ごとに聖霊は御言葉と礼典と祈りを通して、また、日々のキリスト者の個人礼拝や家庭礼拝ごとに御言葉と祈りを通して、わたしたちが常にキリストの十字架の喜びを忘れないで、その喜びの中に生きることができるようにお導きくださっています。

第2に「絶えず祈りなさい。」

キリスト者の生活に祈りは、不可欠であります。喜びと同様に祈りも、聖霊のお働きです。両親や親がキリスト者であれば、子は親の祈りと導きで、祈ることができます。だかが、両親が未信者であるわたしは、祈りに戸惑いました。何を祈ってよいのか分からなかったからです。キリスト者以前のわたしにとって祈りは、神様へのお願い事でありました。祈りは、単なる人の行為でありました。

キリスト教の祈りも、見た目は人の行為に見えます。違います。わたしたちの祈りは、聖霊のお働きです。神がイエス・キリストにおいてわたしたちに望まれることを、聖霊はわたしたちが実現しようと努めるように、祈りを通して導かれます。

その祈りを、主イエス・キリストから学びましょう。

主イエスは、十字架にかかる前の夜、ゲツセマネの園において血の汗を流して祈られました。そして、苦しみの中で主イエスは、「わたしの思いではなく、父の御心のままにしてください」とお祈りになりました。そして主イエスは、父なる神の御心を成し遂げて、ゴルゴタの十字架の上で死なれました。最後に主イエスは「すべては成就した」と口にされました。

主イエスは祈りを通して、十字架の死に至るまで父なる神に従順に歩まれました。主イエスの祈りは、言いかえれば、父なる神への従順でありました。

そこに目を向けると、わたしたちは、次のことを学ぶことができます。主イエスが父なる神への祈りを通して、父なる神を徹頭徹尾信頼し、父なる神の御心に従って歩まれたということです。

キリスト教の祈りは、わたしたちの願い事が中心ではありません。聖霊は、わたしたちに祈りを通して、わたしたちがキリストのように徹頭徹尾神を信頼し、主イエス・キリストの御心に従って歩めるようにお導きくださいます。ですから、わたしたちが絶えず祈ることなしに、「今から後このキリストのために生きることを心から喜ぶ」というわたしたちのキリスト者の生活は成り立たないのであります。

第3に「どんなことにも感謝しなさい。」

「いつも喜んでいなさい」というパウロの命令と、同様の戸惑いを覚えている方がいるでしょう。

パウロは、わたしたちにどんな不幸な時も悲しみの時も感謝せよと命じているのでしょうか。無理やり自分で、そういう気持ちになれと、パウロは命じてはいないと、わたしは思います。

実際にパウロの手紙を受け取りましたテサロニケ教会のキリスト者たちは、ユダヤ人たちから迫害を受けていたでしょう。ローマの官憲からも迫害を受けていたでしょう。町の人々からも受けていたでしょう。また、キリスト者であるゆえに家庭に、職場に悲しみがあり困難なことがあったでしょう。

パウロが命令しているのは、教会とキリスト者たちが「感謝する」ことを、人の徳として教えているからではありません。

感謝することは、聖霊のお働きであり、キリスト者の信仰告白であります。キリスト者たちにとって、すべてのことを神に感謝することは、神の主権性と神の摂理に対する信仰告白なのです。

主イエスは、12弟子たちに人ではなく、神を恐れよとお勧めになり、次のようにお話しになりました。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10:29-31)。

キリスト者は、常に神のお守りの中に生きているのです。そして、使徒パウロが述べているように、神はわたしたちの万事を益としてくださいます。

今朝の御言葉からわたしたちは、次のことを教えられます。わたしたちは、これからも共に礼拝し、神からいただいた喜びを忘れないで生きて生きましょう。日々祈りを通して神を信頼し、神の御心に従って歩みましょう。そして、神の主権性と神の摂理を信じて、すべてのことに感謝して歩みましょう。

これが、神がキリストの十字架の贖いを通してわたしたちを上諏訪湖畔教会に召してくださった意味であり、父なる神がわたしたちにお望みになっていることであります。

お祈りします。

イエス・キリストの父なる神よ、先月に上半期を終えて、今月より下半期に向かいます。今一度今年の聖句を心に留める機会をお与えくださり感謝します。どうかわたしたちが礼拝を通して、神からいただきましたキリストの十字架の贖いの喜びを忘れないで、絶えず祈りをもって神を信頼し、キリストの御心に心から従い、神の主権性と摂理を信じて、すべてのことに感謝して歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。

 

2014年クリスマス礼拝説教       主の2014年12月21日

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされた、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
                 ヨハネによる福音書第3章16-21節

 説教題:「この世を愛された神」
 クリスマス、おめでとうございます。

 さて、ヨハネによる福音書は、マタイによる福音書やルカによる福音書のようにクリスマスを、主イエス・キリストの誕生物語として記してはいません。もっと先、聖書の最初、旧約聖書の創世記第1章1節、そこに「初めに、神は天地を創造された」とあります。それよりもずっと先、時間が造られる前の永遠から記しています。
 
  この福音書の1章1節です。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。主イエス・キリストは、永遠において言として、父なる神と共に存在されています。そして、「初めに、神は天地を創造された」時、この福音書1章3節は、次のように言である主イエス・キリストを証言しています。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と。言である主イエス・キリストは、天地の創造者、そして万物の起源であります。
 
  さらにヨハネによる福音書は、1章14節で次のようにクリスマスの栄光をわたしたち読者に伝えています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」
 
  父なる神と共にいる永遠の言、天地を創造された言、そして神の独り子である言が、「肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
 
  これを、わたしたちは、受肉と言っているのです。万物に先立って父なる神と共にいた言、父なる神の独り子である言が人間となり、地上に現れたことによって、わたしたち人類の救いがこの世の出来事になったという、この考え方を、わたしたちは、受肉と言っています。
 
  永遠の言が「肉となってわたしたちの間に宿られた」と、受肉は神の独り子がまことにわたしたちと同じ人間となられたことに重きが置かれています。
 
  永遠の神、父なる神と共におられ、天地万物を、そしてわたしたち人間を創造されたお方が、まことの人間としてこの世に現れ、わたしたち人類をお救いくださった。まさにこれが、聖書がわたしたちに喜びとして伝えているクリスマスなのです。
 
  クリスマスにプレゼントはつきものですね。世界中の子供たちがイブの夜にサンタのプレゼントを楽しみにしています。
 
  決してわたしたちは、子どもたちのこの喜びを無視してはいけません。ヨハネは、この福音書の3章16節で次のように父なる神の愛とプレゼントを、わたしたち人類の救いとして述べているからです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。
 
  神が「この世を愛された」ので、永遠の言がまことの人間としてこの世に現れ、人類を救うという、クリスマスの出来事が起こりました。
 
  父なる神が愛されたこの世は、神に背を向け、敵対している世界であり、人類であります。
 
  大会の教育機関誌委員会が全国の信徒向けに出しています「リジョイス」の面表紙の裏に、毎月筆で聖書の御言葉記しています。今月はイザヤ書の9章1節です。「闇の中を歩む民は大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に光が輝いた」
 
  クリスマスの出来事が起こります750年昔に、預言者イザヤが見たクリスマスです。神の民イスラエルは、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂していました。そして、北イスラエル王国は、主なる神に背を向け、敵対しておりました。南ユダ王国にヒゼキヤ王が生まれる前で、父アハブ王も主なる神に背を向け、敵対していました。主なる神の御目にこの世の神の民は悪を行い、憎むべき者たちでありました。
 
  しかし、主なる神はこの世を愛されました。神に背を向け、敵対する民たちを愛されました。そのしるしとして、南ユダ王国のダビデ家にひとりの男の子を与えられました。
 
  イザヤ書9章5節です。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」
 
  主なる神はその子の誕生と成長を通して神の民に救いの手を伸ばすと約束されましたので、預言者イザヤは「暗闇に光を見、死の陰の地に住む者に光が輝いた」と、アッシリア帝国に捕虜となった神の民たちに主なる神の解放の喜びを知らせたのです。
 
  同じようにクリスマスの出来事を通して、わたしたち人類を救おうとされた父なる神は、神に背を向けて滅びるのが当然であるこの世を愛され、独り子である主イエス・キリストをこの世を救うためにプレゼントしてくださいました。
 
  ヨハネによる福音書が「お与えになったほどに」と記していますね。わたしたちは、この御言葉で、キリストの十字架を心に思い浮かべるべきです。キリストの十字架は、神がこの世をどれほど愛されたか、その神の愛の深さを示しています。
 
  ヨハネによる福音書は、3章15節で「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」と記しています。主なる神に背を向けた神の民イスラエルが、荒れ野で神の怒りを買いました。神は天から蛇を降らせられました。神の民たちは蛇にかまれて、多くの者たちが死にました。その時でも主なる神は御自身に背を向けた彼らを愛されました。そして、モーセが蛇の杖を手で掲げると、それを仰ぎ見た者たちを滅びから救われました。
 
  ヨハネによる福音書は、3章16節後半で、それと同じように父なる神は十字架に上げられた神の独り子、主イエス・キリストを信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得られるようにしてくださったと記しています。
 
  クリスマスは、暗闇に光を見、死の陰の地に住む者たちに光が輝く出来事であります。神の御目には、わたしたちとこの世界は神に背を向け、神に敵対しております。当然神は、わたしたちとこの世界を裁き、滅ぼされて当然であります。
 
  ところがクリスマスは、神の愛と救いの出来事であります。神の方が一方的にこの世を愛してくださり、御自身の独り子を人としてこの世に遣わし、神の御子キリストがわたしたちの罪に代わって、神の呪いの十字架を受けてくださったので、わたしたちは神の裁きを免れたのです。
 
  神の御子が受肉され、十字架によってわたしたちの救いを成し遂げてくださったからには、わたしたちには、これから先、キリストを信じて神と共に生きるか、それとも自分の罪を隠し、悪を隠して、キリストを信じないで、永遠に神と関係のない者、すなわち、滅びの道を歩むのか、神の御前で選択しなければなりません。
 
  難しい問題であります。自分で選択できるでしょうか。C・S・ルイスの研究者である柳生直行氏が、30年昔に新約聖書を翻訳されました。だれにも分かるように、そして美しい日本語で新約聖書が読めるようにされました。柳生氏はヨハネによる福音書3章16節を次のように訳されています。「神はこの世を愛するあまり、その独り子さえも贈って下さった。だから、御子を信ずる者は一人も滅びず、永遠の命をいただくことができるのであり、それが神の思し召しなのである。」
 
  わたしは柳生氏の訳を読み、次のことを理解しました。キリストの十字架の救いは、確かに神がわたしたち人間を愛された愛に基づくものです。しかし、わたしたちが十字架のキリストを信じて永遠の命を得ることは神の思し召しであり、信じないで、将来神に裁かれ滅びることは、わたしたち人間が今も神に背いて、敵対している当然の報いであるということです。
 
  先ほどわたしは、自分たちがキリストを信じて永遠の命を得るか、それとも信じないで、滅びの道を選ぶか、選択しなければならないと言いましたが、「神の思し召し」がなければ、この世、すなわち、わたしたち人間は常に神に背向いて生きており、神に敵対しているのですから、当然今滅びの道を歩んでいるのです。
 
  預言者イザヤが預言した光であるキリストが来られているのに、わたしたち人間は自分たちの行いの邪悪さのゆえに、光であるキリストよりも、罪の世を愛するのです。それを隠すために、キリストのところに来ようとはしないのです。キリストに近づく者は、「その行いが神に導かれてなされた」ということが明らかになると、ヨハネによる福音書は証ししています。わたしたちは、神に愛され、神の思し召しにより、十字架のキリストを信じて救われたのであります。
 
  お祈りします。
 
  御在天の父なる神よ、クリスマスを祝う朝に、主を礼拝し賛美し、御言葉と聖餐の恵みにあずかることが許されて感謝します。
 
  クリスマスが、父なる神の愛の出来事であり、その独り子キリストが受肉し、わたしたちの世に現れ、神に敵対し滅ぶべきわたしたちに代わり、神の呪いの十字架に死んでくださったことを感謝します。
 
  何よりもここに集まりますわたしたちは、父なる神に愛され、永遠の神の思し召しにより主イエスを信じて、永遠の命をいただいていることに感謝します。
 
  主イエスは、使徒を通して「あなたが信ずれば、あなたの家族も救われる」と約束してくださいました。どうかわたしたちの家族の救いを通して、あなたの思し召しを見せてくださいますようにお願いします。
 
  午後のクリスマス祝会とクリスマスの集いを祝福してください。心からクリスマスを祝わせてください。この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

クリスマスの集いメッセージ       主の2014年12月21日

 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることはない。」
               ルカによる福音書第1章28-33節

 クリスマスメッセージ:「主があなたと共におられる」
            上諏訪湖畔教会 牧師 足立 正範

 今夜は、クリスマスの集いに御出席してくださった方々と共に、クリスマスをお祝いしたいと思います。

 クリスマスは、救い主イエス・キリストがお生まれになったことをお祝いする日です。

 今から2000年も昔です。ユダヤの国、現在のイスラエルの国で神の御子である主イエス・キリストが処女マリアの胎に、聖霊によって宿られて、人の子としてお生まれになりました。

 先ほどお読みしました聖書の御言葉は、その一部分です。神の使いである天使ガブリエルが、マリアのところに訪れました。

  そして、天使はマリアにお祝いの挨拶を告げました。「おめでとう」は、「喜びなさい」です。天使ガブリエルの目には、マリアは、「恵まれた方」であります。神である主が、彼女をメシア(救い主)の母に選ばれたからです。
 
  天使は、マリアに喜びを知らせました。「主があなたと共におられる」と。彼女が神の御子キリストを受胎したと告げ知らせました。
 
  マリアは戸惑いました。そして、天使が彼女にした挨拶を、心の中で「どういうことだろう」と思い巡らせたのです。
 
  天使は、マリアに父なしで、彼女がメシアの母になると告げたのです。神の子キリストは、人間の父を経ないで、マリアの胎から生まれることになっていたのです。常識では考えられないことです。当然、マリアは恐れたでしょう。
 
  天使ガブリエルは、マリアに「恐れるな」と励ましました。そして、天使は、言いました。「あなたは神の恵みを受けている。あなたは身ごもって男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人間となり、神の御子と呼ばれ、神なる主は昔ダビデ王に約束されたメシアの王座を彼に与えられる。そしてその子は永遠にイスラエルを支配する」と。
 
  天使がマリアに告げた受胎告知は、神の恵みの出来事でした。神は世を愛され、神の御子をこの世に遣わし、わたしたち人類を救おうとされました。天使が告げたように、マリアから生まれた男の子は、「イエス」と名付けられ、大きくなりました。「偉大な人間」とは、罪のない人間です。罪がなかったので、主イエスは、すべての人の罪を背負って、神の呪いであるゴルゴタの丘の十字架刑で死なれたのです。そして、3日目に死者の中から復活されました。そして天の御国へと昇天されました。今キリストは、天使ガブリエルがマリアに告げたように、ヤコブの家を、すなわち、神の御国を永遠に支配されています。
 
  そして、地上の教会の宣教を通して、世界中から神の民を集められています。今夜紹介します三浦綾子さんもその一人です。彼女は人生の絶望のどん底で、主イエスに出会われたのです。天使がマリアに告げたように、彼女と共に神がいてくださり、彼女は絶望の果てでキリストに出会い、そのキリストの十字架の愛によって罪の赦しの喜びを見出されました。そして、彼女の人生が変えられ、彼女もまたマリアのように神に「恵まれた方」として世の人々にキリストを証しする者として用いられました。
 
  今から三浦綾子さんのDVDを鑑賞し、神がわたしたちと共にいます、クリスマスを心からお祝いいただければ、幸いであります。お祈りします。
 
  主イエス・キリストの父なる神よ、今夜のクリスマスの集いを感謝します。どうかクリスマスのメッセージと三浦綾子さんのDVDの鑑賞を通して、クリスマス、神がわたしたちと共にいてくださることの喜びを、心から賛美させてください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

   2015年度教会聖句による説教       主の2015年1月25日

 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
              ローマの信徒への手紙第15章5-6節

 説教題:「忍耐と慰めの源なる神」
 今朝お読みしましたローマの信徒への手紙第15章5-6節の御言葉は、使徒パウロの祈りであります。

 ローマ教会のキリスト者たちの中に強い者と弱い者がいました。パウロは、自分を含めた強い者たちに弱い者たちの弱さを担いなさいと勧告しました。

 強い者とは、有力なキリスト者のことです。聖霊から豊かな賜物を与えられ、教会の中で力ある者たちであります。パウロは、自分を含めた強い者たちがその力を弱い者たちのために用いる責任があると勧告しました。

 そこで、パウロは15章1節で次のように勧めています。「自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行なって隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」と。パウロは、自分を含めた強い者たちが自分のためではなく、徹底して他者のために生きることを求めました。

 その模範がわたしたちの主イエス・キリストです。キリストは、御自分の満足を求めないで、肉体を取り、この世に来られ、人間の弱さをまとい、罪人である人間の苦しみを担い、十字架の道を歩まれました。そのために罪なきお方が十字架の辱めを忍ばれたのです。

 パウロは、ここで旧約聖書の詩編69編10節で、詩人が「あなたを嘲る者の嘲りが わたしの上にふりかかっています。」と預言した御言葉を引用しています。詩人は神に対する誹謗の言葉が自分に向けられたと預言しました。パウロは、詩人の預言が受難のキリストによって実現したことを見たのです。

 ですから、パウロは、詩人の預言の言葉をそのままに十字架の道を歩まれたキリストに当てはめ、強い者たちに次のように勧めました。「わたしたちの罪を担い、十字架の辱めを忍ばれたキリストに倣って、強いあなたがたは弱い兄弟たちの弱さを負い、彼らが受ける屈辱を共に担いなさい。」と。

 そして使徒パウロは、ローマ教会のキリスト者たちに旧約聖書の全体について次のように教えました。「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです」と。すなわち、詩編69編10節はわたしたちに受難のキリストを指し示す御言葉でありますが、同時にキリスト者たちに対する権威ある神の命令でもあります。ですから、キリストが他者のために生きられたように、キリスト者も他者のために生きるべきであると、パウロは強い者たちに聖書を通して神の権威ある命令を勧めているのです。

 ここでわたしたちがパウロから学びますことは、第1に、キリスト者はキリストに倣って自分のためではなく、他者のために生きる義務があるということです。第2にそのことを、旧約聖書が神の権威ある命令としてキリスト者たちに教えているということです。

  さらに、パウロは、ローマ教会のキリスト者たちに次のように勧めることができました。「それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」と。
 
  パウロは、教会に、そしてわたしたちに聖書が与えられていることの意味を次のように教えています。わたしたちキリスト者は、常に聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるということです。
 
  その具体的な場所が、何よりも教会における礼拝であり、聖書の朗読と説教であります。さらに祈祷会における聖書研究や教理の学びであり、聖書を学ぶ集いでの旧約聖書の学びであり、さらに男子会や婦人会における聖書と信仰書の学びであります。また個人のデェボーションや家庭礼拝における聖書や信仰書の学びであります。そこでわたしたちは、神の忍耐と慰めを学び、終末における希望に生かされているのです。


  キリストの教会は、神の御国に向けて途上に生きる神の民であります。この世は、旧約聖書の出エジプトした神の民イスラエルが40年間歩みました荒れ野と同じであります。神の民イスラエルが頑なな民であり、数々の罪を犯しましたように、この世におけるキリスト教会は戦いの教会です。わたしたちキリスト者の日々の生活は、罪と死とあらゆる困難との戦いであります。
 
  主なる神は、荒れ野の40年間民との恵みの契約のゆえに、「わたしはお前たちの神となり、お前たちはわたしの民となる」という約束をお守りくださり、忍耐と慰めによって神の民イスラエルを、約束の地カナンまで導かれました。
 
  同様に主イエス・キリストは、異邦人であるわたしたちキリスト者たちを新しい神の民としてくださいました。そして、キリストは教会とキリスト者たちに約束してくだしました。「世の終わりまでわたしはあなたがたと共にいる」と(マタイ28:20)。キリストは、聖霊と御言葉と共に教会とわたしたちと共にいて、忍耐と聖書を通してわたしたちを慰め励まし、途上にある教会とわたしたちに御国への希望を与え続けてくださっています。
 
 その確かな証拠が主の日の礼拝であります。忍耐と慰めの源である神は、礼拝を通してわたしたちがキリストにおける信仰に一致し、この世におけるどんな困難な中でも受難のキリストように耐え忍び、同じ思いでキリストの後に従い、共に御国を目指して生きる希望を持ち続けさせてくださるのです。

 その希望は、わたしたちがキリストにあって共に心を合わせないと持続しません。

  わたしたちが主の日の礼拝に参加します時に、パウロは次のことを勧めています。共にキリストを仰ぎ、互いに同じことをキリストに従って思い、心を合わせ、声をそろえて、主を礼拝し、信仰告白し、賛美しようと。
 
  ローマ教会では迫害が始まっていたようです。背教者、すなわち、信仰を棄てた者が神を罵っておりました。詩編の詩人が預言したことが、受難のキリストで実現しただけではなく、ローマ教会のキリスト者たちがキリストをそしる者のそしりを自分たちが受けることで実現していました。
 
  ですからパウロは、ローマ教会の迫害という苦難の中で忍耐と慰めの源である神に祈るのです。どうか神をそしる者のそしりが自分たちに降りかかりましたが、忍耐と慰めの源である神がその災いをわたしたちがキリストと一致する恵みとして喜んで受け取ることができるようにしてくださいと。
 
  今のわたしたちには、目に見える迫害はありません。わたしたちは、キリストをそしる者のそしりがわたしたちに降りかかるという苦難の中におりません。
 
  それは、幸いなことです。むしろ、ここでパウロが祈っています神を礼拝し、賛美し、ほめたたえることが、教会とわたしたちキリスト者の人生の目的であるということ、このことについてわたしたちの教会は問題を抱えています。
 
  すなわち、わたしたちキリスト者の高齢化の問題であります。実際に昨年3名の方々を、高齢化に伴ういろいろなことで、礼拝出席が困難となり、現住陪餐会員から他住会員に異動しました。今後もわたしたちの教会にとって避けて通れないことです。
 
  長期礼拝欠席者への配慮も、大きな課題でありますが、わたしたちの手に届かないのが現実です。
 
  人の力に頼ることはできません。だからこそ、パウロのように「忍耐と慰めの源なる神」に祈るのです。キリストは、教会とわたしたちに「わたしはあなたがたと共にいる」と約束してくださいました(マタイ28:20)。
 
  キリストの遍在性を、わたしたちは聖書から信じています。キリストは、今この礼拝におられますが、同時に世界の教会の礼拝におられ、礼拝に来られない者たちと共にいてくださいます。キリストに委ねることも、教会の選択肢の一つではないでしょうか。
 
  パウロは、この祈りの最後にわたしたちが聖霊を通して主イエス・キリストの父なる神をわたしたちの父としてほめたたえる恵みの中にいると告白しています。
 
  わたしたちは、神の御子キリストの十字架によって罪の赦しを得ました。それだけではありません。わたしたちは、神の御子キリストを通して父なる神の子とされました。父が子を愛し、守り、育てるように、父なる神はわたしたちをわが子として愛し、守り、養い、御国を相続させてくださいます。
 
  ですから、今年一年、わたしたちはパウロと共に「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」と祈りつつ、教会生活をしようではありませんか。神は、キリストのゆえに子であるわたしたちを見捨てられず、必ず共に御国あずからせてくださるという希望を持ち、共に歩もうではありませんか。
 
  お祈りします

 イエス・キリストの父なる神よ、2015年の新しき年もはや1カ月過ぎようとしています。

 小さな群れでありますが、主イエス・キリストはわたしたちに「聖霊を与え、御国を与える」と約束してくださいました。

  どうか、聖霊を通してわたしたちが豊かに神の忍耐と慰めを学び、約束の御国への希望に生かしてください。

 わたしたちにとってこの世は、荒れ野であり、主の召しに仕える場でもあります。主よ、試練と誘惑からわたしたちを守り、わたしたがこの世に与えられた命が尽きるまで、わたしたちのなすべきことをなせるようにお導きください。

 この一年間共にキリストを仰ぎ、心を合わせ、声をそろえて、主を礼拝し、信仰を告白し、賛美させてください。

 聖霊を通して有効召命によってあなたの民をわたしたちの教会に、そしてこの地にある教会へとお集めください。

 聖書の約束通りに「あなたが信ずれば、あなたの家族が救われる」という恵みを、わたしたちの目に見せてください。

 小さな群れですが、主の御心であれば、わたしたちの教会が持続し、自立できるようにしてください。

 

 

 

イースター伝道集会説教(2015年)        2015年4月5日

 それから間もなく、イエスはナインという町にいかれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人々が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくてもよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止った。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。
                  ルカによる福音書第7章11-16節

 説教題:「もう泣かなくてもよい」
 「イースター」、おめでとうございます。

  「イースター」とは、何ですか。どうしておめでたいのでしょう。今日は、そのお話をしましよう。
 
  「イースター」とは「復活祭」です。受難と死を通して死人の中から復活された主イエス・キリストを記念する教会のお祭りです。

 聖書は、「イースター」をわたしたちが生きている世界で起こった出来事として記しています。

  ですから、ちゃんと暦に合わせて主イエス・キリストが死人の中から復活されたのは、週の初めの日、すなわち、一週間の最初の日の日曜日であったと記しています。
 
  当然、わたしたちの日常において起こった出来事ですから、目撃者がいます。主イエス・キリストが死んだことを目撃し、そして、主イエス・キリストが死人の中から復活し、自分たちの前に現れたことを目撃した人たちがいます。

  主イエス・キリストがローマ総督ポンティオ・ピラトの裁判で有罪宣告を受け、ゴルゴタの丘で十字架刑に処せられ、墓に葬られたことを、嘘であると言い張る人はいません。
 
  しかし、3日目に主イエス・キリストが死人の中から復活したということを、嘘であると言い張る人はいます。
 
  言い張る人たちは、主イエスの墓を訪れたマリアたちに復活のキリストが現れたことを嘘であると証明することはできません。
 
  むしろ使徒ペトロとヨハネは、墓を訪れた婦人たちが「キリストが復活し、彼女たちに現れた」と言うのを聞いて、主イエスの墓を訪れ、確かめました。二人が目撃したのは、キリストを葬った墓が空であり、主イエスの死体を覆っていた布が残されていたという事実でした。
 
  聖書の証言はそれで十分でした。なぜなら、復活の主イエス・キリストは、ペトロと他の10人の使徒たちに現れられたからです。
 
  主イエスが復活された日の夕方にエルサレムの都からエマオの村へと主イエスの弟子のクレオパともう一人の弟子が歩いていると、そこに復活の主イエスが旅人の姿で現れました。二人は、復活の主イエスに気づきません。主イエスは旅人の姿で、二人に旧約聖書から解き起こして、キリストが死人の中から復活することを明らかにしました。二人は旅人の話を聞きたくて、彼らの家に旅人を迎え入れました。そして一緒に食事をしました。その時です。主イエスが二人の前でパンを裂かれると、彼らの目は開かれて、主イエスの現れを捕らえました。すると、主イエスは消えてしまわれました。
 
  クレオパともう一人の弟子はエルサレムの都に戻りました。すると、ペトロたちが復活の主イエス・キリストの現れを話し合っていたのです。
 
  一人だけの証言では、信用できないかもしれません。だが、二人、三人、さらに多くの者たちが証言するのであれば、どうでしょうか。使徒パウロは、「五百人以上もの兄弟たちに同時に現れ」(1コリント15:6)と証言しています。それは信用してもよいのではありませんか。
 
  最初に墓を訪れた婦人たちが主イエスの復活と現れを証言しました。次にペトロと他の10人の使徒たちが証言しました。その中の一人の使徒トマスは、他の使徒たちが復活の主イエスに出会ったと証言しているのに、自分の目で主イエスの手の釘跡を見、主イエスのわき腹の槍跡を見るまでは主イエスの復活と現れを信じないと言い張りました。
 
  トマスの前に復活の主イエスは現れました。主イエスは手を差し出して十字架の釘跡をお示しになりました。さらにトマスにわき腹を見せて槍跡をお示しになりました。そして、主イエスはトマスに手の釘跡に、わき腹の槍跡に、トマスの指を入れるようにとお命じになりました。
 
  トマスは、どうしたでしょう。復活の主イエスに向かって、彼は「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白したのです。復活の主イエスが、確かにわたしたちが生きているこの世界で、今から2000年昔に死人の中から復活し、彼の弟子たちに現れたので、今ここにキリスト教会が存在しているのです。
 
  しかし、イースターがどうしておめでたいのか。主イエスがわたしたちの生きている世界で死人の中から復活し、彼の弟子たちに現れたと聞くだけでは、わたしたちの心にジンーときませんね。
 
  そこでひとつ、想像してみてください。あなたが一番悲しいと思うことを。あなたが涙を流すことは何ですか。
 
  わたしは、死です。どうしてわたしは死ぬんだろう。そして、死ぬことが心にジンーと来るほどに、どうして悲しくて怖いのだろう。
 
  家族の死、その出来事が起こると、だれもが涙を流します。わたしは、この世で一番悲しい出来事と思います。
 
  また自分は死ぬと、想像してみてください。どうしてわたしは、死ななければならないのだろう。心の中に疑問と怒りが起こります。次に死ななくて良ければと、思います。さらにだれもが死ぬのだから、自分の死も仕方がないとあきらめられるでしょうか。
 
  先ほど、ルカによる福音書をお読みしました。有名なお話です。ナインの町の母ひとり、息子ひとりの家族のお話です。その息子が亡くなりました。町の外にある墓に息子を葬るために、母親と町の大勢の人々が弔いをしました。
 
  そう言えば、最近葬列を見ることがありませんね。大勢の人々で弔うということが見られなくなりました。家族葬という、一見もっともらしい葬儀がなされていますが、わたしはそれでよいのだろうかと思います。わたしたちは、人間ひとりでこの世を生きているのではありません。多くの人々のお世話になり、育てられ、守られてきました。家族や地域の人々の絆、その交わりと助け合いの中でわたしたちはこの地域で生きてきました。
 
  だから、昔の人は感謝の心で、葬儀を、告別式と呼び、最後の社会的なお礼をしていたのだと思います。「皆さま、大変お世話になりました」と。
 
  死んだ者は、葬儀で無言のうちに挨拶し、どこに行くのだろう。幼いころからのわたしの疑問です。わたしは、小学生のころでした、親類のおばちゃんに、「人は死んだら、どこへ行くの」と尋ねました。おばちゃんは、「死んだ人は星になるのだよ」と教えてくれました。
 
  「ああ、あんな手も届かない冷たい星になるのだ」と、わたしは思いました。底知れない広大な宇宙の中で、ひとり、ポツンーと星になる。心が冷えるほど寂しくなりました。
 
  わたしは死を小さな頭で理解しました。ほんとうにひとりボッチになるんだと。
 
  さて、ナインの町の死んだ息子は、母親の手を離れ、死者の世界に旅立ちました。ここでは死が生きている母親をもほんとうにひとりボッチにしました。母親は生きていても、死人でありました。この世でほんとうにひとりボッチになったのですから。
 
  だから、主イエスは母親を見て、「憐れに思われ」ました。ひとりボッチの母親の姿。まるで死人に見える母親の姿に、主イエスの心がジンーと来ました。主イエスは、死が母親にした非情さに心を揺さぶられました。
 
  主イエスは、この母親の姿を通して、死がわたしたち人間にどれほど非情であるかを見られました。死が人をひとりボッチにする恐ろしさを見られました。
 
  聖書では死とは、神がわたしたち人間の罪を罰せられた、わたしたちの悲惨な現実であると教えています。ですから死は、わたしたちからこの世のすべての関係を奪うものです。死は、母親から愛する息子を奪いました。生きている者から、死は一瞬にして愛する者との絆を奪い、すべてのものを奪い、そしてわたしたちをほんとうにひとりボッチにします。この死ほど恐ろしいものはありません。
 
  わたしたちは、先週一週間、キリストの受難週を過ごしました。キリストの最後の7日間を、マルコによる福音書に従って思い巡らしました。クライマックスは、十字架の主イエスの苦しみです。ゴルゴタの丘の十字架の上で、主イエスは父なる神に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになられたのか」、そう叫ばれました。死が父なる神と御子キリストとの関係までも奪おうとしました。十字架上でキリストは、すべての人の罪を負われました。もし、十字架のキリストが死んで、墓に葬られたままであれば、ほんとうにすべての人は死によってひとりボッチになる運命でした。死がわたしたち人間からすべての絆とすべての関係、すべてのものを奪い取るのですから。
 
  しかし、3日目に主イエス・キリストは、その死に打ち勝ち、死人の中から復活されました。
 
  だから、主イエスが次のように言われるのは真実です。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネによる福音書第11章25-26節)。
 
  復活であり、命である主イエス・キリストによって、もう死は無力にされました。もうわたしたちは、死によって自分はひとりボッチであるという恐れにおびえることはありません。なぜなら、復活であり、命であるキリストが、どこでも、いつでも、また生きているときも死ぬときも、共にいると約束してくださったからです。
 
  わたしは、宝塚教会で大学生のころにトマスのように「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白し、洗礼を受けました。その時からキリストはわたしと一緒です。そして、死がわたしから家族の絆、この世におけるすべての関係を奪うでしょうが、死んでもわたしは復活であり、命である主イエス・キリストにつながれて、永遠に生きることが許されています。また、わたしの家族も、教会の兄弟姉妹たちも、そして今朝ここに集まられた方々も、キリストを通して永遠につながるという希望があります。
 
  その希望は失望に終わりません。なぜなら、復活であり、命である主イエスは、母親にお声をかけられました。「もう泣かなくてもよい」と。
 
  キリストに結びつく者は、「もう泣かなくてもよい」のです。死は、もう恐ろしくありません。主イエスは、母親にひとつのしるしをお示しになりました。主イエスが、死んだ息子を納めた棺に手を置かれると、棺を担いでいた人々は立ち止りました。その時、主イエスは死んだ息子に「若者よ、あなたに言う。起きなさい」とお命じになりました。すると、棺の中から死んだ息子は起き上がりました。そしてしゃべりました。息子は、ほんとうにひとりボッチではなくなりました。死によって奪われていた命と母との絆を取り戻し、以前の関係を回復することができました。
 
  キリストは、死人の中から復活されただけではありません。復活であり、命であるキリストは、わたしたちに命をお与えくださるお方であります。死の支配からわたしたちを解放してくださる救い主です。だから、教会はこの世の人々に復活であり、命であるキリストが死に勝利され、わたしたちに永遠の命を与えてくださったという福音、喜びの知らせを伝えているのです。
 
  主イエスは、母親に死んだ息子を生き返らせて、お返しになりました。息子もまた、主イエスによって命を得て、母親との関係をもう一度回復されました。
 
  その場に居合わせた大勢の群衆たちは、主イエスの奇跡を見て、恐れを覚えました。彼らは、主イエスを旧約時代の大預言者エリヤとエリシャの再来と見て、主イエスが死人を生き返らせたと騒ぎました。また、彼らは主なる神を賛美し、「神はその民を心にかけてくださった」と言いました。民衆は、主なる神が自分たちのところに訪れてくださったと賛美しました。
 
  そして、その場に居合わせた大勢の群衆たちの中に、今朝のわたしたちもおります。どうか、イースターの今朝、主イエス・キリストは、死人の中から復活されたという喜びのニュースを、あなたへのニュースとしてお聞きください。あなたも、大勢の群衆の一人として、群衆たちが主イエスを大いなる預言者と信仰告白し、神を賛美したように、イエス・キリストを心で「わたしの主、わたしの神」と受け入れてください。
 
  口で告白し、洗礼を受けてくださるのなら、ほんとうにうれしいです。復活であり、命であるキリストに永遠につながるのですから、もうあなたは、死を恐れることはありません。ひとりボッチになるという恐れの心から自由にされます。「もう泣かなくてもよい」のです。
 
  確かに愛する者の死に、わたしたちはこれからも涙するでしょう。しかし、聖書は次のようにわたしたちに約束しています。「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」(黙示録7:17)。
 
 
  お祈りします。
 
  復活であり、命である主イエス・キリストの父なる神よ、今朝のイースターの朝、わたしたちの教会は伝道礼拝をしました。復活の主イエス・キリストが死に勝利され、この主の御名を呼ぶわたしたちに永遠の命をお与えくださり、心より感謝します。
 
  毎日わたしたちの生きる世界に死のニュースは絶えることはありません。わたしたちも日々に親しい者の死に出会い、涙しています。そして、死がほんとうにわたしたちをひとりボッチにする恐ろしさに心震えます。
 
  しかし、キリストは、わたしたちの罪の身代わりに死なれるだけではなく、その死に打ち勝ち、死を無力にしてくださいました。
 
  キリストを「わが主、わが神」と信じ、洗礼を受ける者と主イエスは一つとなり、永遠の命をお与えくださいました。ですから、わたしたちは、今なお死の支配を免れませんが、主イエスが泣いていた母親の息子を死から生き返らされたように、主イエスがわたしたちにも呼びかけて死から命に移してくださることを信じます。
 
  ですから、わたしたちの教会は小さな群れであり、この世において何の力もありませんが、常に復活であり、命である主イエス・キリストの復活を、この世に証し続けることができるようにしてください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 2015年度教会聖句による説教02       主の2015年8月30日

 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
              ローマの信徒への手紙第15章5-6節

 説教題:「道半ば」
 既に今年の上半期は終わり、下半期に入っています。先週全員懇談会を開きました。「上半期を振り返って」というテーマでひとつ懇談の時を持ちました。そこで確認しましたことは、わたしたちの教会の将来が大変厳しい状況にあるにもかかわらず、その危機感を共有していると感じられないということでした。全員懇談会で確認したことは教会の命の問題であると思います。

  今年の教会聖句であるローマの信徒への手紙第15章5-6節の御言葉から、今のわたしたちに何が必要であるかを、使徒パウロの祈りを通して、主から教えられたいと思います。

 さて、先週の全員懇談会で出た発題は、決して珍しいものではありません。礼拝や諸集会への出席者の減少が教会の会計の状況を厳しくし、今年は前年の繰越で赤字にならなくても、来年は確実にマイナス会計になるというものです。わたしたちのような地方の小さな教会では避けられない問題です。
 
  実は、東部中会の首都圏にある教会も、礼拝と諸集会の出席者が減り、教会員が減少し、教会から伝道所に種別変更する教会が増えつつあります。
 
 昨年問安してくださった東部中会の伝道委員会が、わたしたちに経済的独立よりも教会の持続に力を入れてほしいと訴えられたのは、東部中会の将来に大きな不安があるからだと思います。

 この世における教会は、常に、どこでも問題があり、将来への不安があります。だから、パウロは、神にローマ教会を覚えて祈ります。「忍耐と慰めの源である神」に。

 このパウロの祈りは、わたしたちに神に与えられる忍耐を持って一致しようということです。

  パウロは、ローマ信徒への手紙15章4節で「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」と述べています。
 
  「かつて書かれた事柄」とは、旧約聖書です。パウロの時代は、新約聖書がなく、旧約聖書だけでした。旧約聖書は、イスラエルの歴史、詩編、預言書等から成り、神の民を教え導くものでした。
 
  旧約聖書には、神の民が困難な問題に直面し、将来に不安を覚えたとき、それが解決に至るためには、神からの多くの忍耐と慰めを与えられ、希望を持ち続ける必要があることを証言しています。
 
  たとえば、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフたち、族長たちの生涯です。神が忍耐と慰めをアブラハムたち、族長たちに与えて、彼らが主なる神にのみ希望を持ち続けたことを、旧約聖書は証ししています。
 
  主なる神は、アブラハムと契約を結ばれて、「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」と約束されました。そして主なる神は、アブラハムに「あなたとあなたの子孫を通して、諸国民を祝福する」と約束されました。忍耐と慰めの源である神は、この約束をアブラハムに与えられただけではありません。彼に神の約束を待ち望む忍耐と慰めを与えてくださいました。アブラハムは、神から与えられた忍耐と慰めで、25年間待ち続けて約束の子イサクを得ました。
 
  旧約聖書に書かれているすべての事柄は、忍耐と慰めの源である神が、アブラハムを始めとする神の民イスラエルに忍耐と慰めを与えて、常に彼らに希望を与え続けられたことを証ししています。

 パウロは、神の忍耐と慰めに注目しました。旧約聖書が教えるものが、「神から与えられる忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けること」でした。

 この「忍耐」とは、苦難に対して確固した変わらない心で耐えて行くことです。「慰め」とは、励ましと助けです。忍耐と慰めによって希望を持つことが、旧約聖書が教えていることです。

  ですから、パウロはローマ教会のキリスト者たちを覚えて祈りました。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」

 パウロの祈りは、神の民であるわたしたちに「忍耐と慰め」によって希望を持つことを教えてくれます。しかも、神は忍耐と慰めの源であられ、神の民の忍耐と慰めを神御自身が実現されます。

  一つの例を紹介します。創世記のアブラハム物語の中に、アブラハムと妻サラの間に子どもが生まれないという問題があります。妻サラが子どもを産めない女性でした。しかし、神が二人にイサクを与えると約束されました。そして神はアブラハムとサラに25年間その約束が実現するまで彼らに忍耐を与え、二人を慰めて、希望を与え続けられました。その間で二人は主の約束を待つことができなくて、アブラハムは妻サラの進言で召使のハガルを第2夫人にしました。ハガルが子を身ごもると、女主人のサラを蔑み、彼の家庭に争いが起こりました。それでも神は二人に忍耐を与え、アブラハムに契約を繰り返し、約束の子を与えると慰め、ついに90歳のサラが約束の子イサクを出産しました。

 アブラハムは、家庭の問題を、それは同時に神の共同体の問題でしたが、家長、あるいは夫としての務めを果たし、解決できませんでした。その時に神が解決してくださいました。神は、アブラハムにサラがハガルと彼女の子を追い出すのを許され、アブラハムの相続者はサラの約束の子イサクであると定められました。神は追い出されたハガルと息子イシュマエルも祝福し、彼らの子孫を繁栄させることをアブラハムに約束し、それを実行し、問題を解決してくださいました。

 このようにパウロの祈りは、わたしたちに教会の問題を、あるいは危機を、忍耐と慰めの源の神が解決してくださると教えています。
 
 教会の問題の解決は、わたしたちのうちにあるのではありません。聖書を読みますなら、そこにわたしたちは神の御手を見出します。キリストがわたしたちに聖霊と御言葉を通して忍耐を与え、わたしたちに御言葉の慰めで希望を与えてくださっています。神はわたしたちに忍耐を与え、今の教会の問題に、厳しい現実に忍耐させてくださり、「わたしはあなたたちと共にいる」(マタイ18:20、28:20)、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで御国をくださる」(ルカ12:32)と、キリストを通して約束してくださったことを、自ら実現し、わたしたちを慰め、希望を持たせてくださいます。

  だから、パウロはわたしたちにキリストに従って、わたしたちがキリストと同じ思いを抱くことができるように祈ります。

 パウロは、教会の問題と危機の中で神に忍耐を与えられ、聖霊と御言葉を通して神から慰めを得て、前に進むローマ教会のキリスト者たちに、神が同じ思いを与えて、ローマ教会の中に一致を生まれさせてくださるように祈ります。

  教会の一致、わたしたちの心の一致は、「キリストに倣って」生まれて来るものです。すなわち、「キリストはわたしの罪のために死なれたが、兄弟姉妹たちのためにも死んでくださった」ことを、わたしたちが心で受け入れるとき、そこに愛の交わりが生まれます。そしてキリストにある一致が強められます。

 そしてパウロは、わたしたちの一致の心から礼拝の喜びが生まれるようにと祈ります。「心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」。

  パウロが祈りによってローマ教会のキリスト者たちに、そしてわたしたちに伝えていることは、一致の心が教会の成長のカギであるということです。教会は、神の祝福にあずかり、成長します。忍耐と慰めの源である神は、ローマ挙会のキリスト者たちに、そして今のわたしたちにキリストにある一致を求めておられます。パウロは、使徒言行録のエルサレムの教会がペンテコステの日に生まれた時と同じ信仰の一致によってローマ教会が成長するようにと祈ります。
 
  わたしたちも聖書的教会の形成を目指しています。そこで確認して置くことは、創立20周年宣言の「教会の命は礼拝である」ということです。わたしたちが、信じ、信頼する主イエスより忍耐を与えられ、聖霊と御言葉を通して慰められ、常に希望を与えられて、キリストにあって一致し、日曜日の礼拝ごとにここに主に集められ、「心を合わせ声をそろえて主イエス・キリストの父なる神をほめたたえる」礼拝を続ける、これがここでパウロが祈り求めている教会のゴールであります。
 
  パウロの祈りから教えられることは、教会もわたしたちのキリスト者の生活も、忍耐と慰めの源である神の恵みがなければ、教会の目標も今年度の実施も実を結ばないということです。
 
  主イエスは、弟子たちに主の祈りを教えられた時に、最初に「御名をあがめさせたまえ」と祈るように教えられました。神がわたしたちの間で神となり、その御名が崇められますように、という祈りです。この祈りは、「あなたの御名が聖とされますように」という祈りです。
 
  教会は、教会の中にわたしたちがこの世のものを持ち込むので、問題が起こり、教会がいろんな面で危機となるのです。主イエスは、「霊とまことをもって神を礼拝する時が来る」と言われました。
 
  パウロは、わたしたちに主イエスが言われた礼拝を、「心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてください」と祈りました。
 
  神の喜ばれる礼拝は、神をほめたたえる礼拝です。神への敬意と賛美を表す礼拝です。礼拝は、天国の型であります。天上の教会を、わたしたちは礼拝を通して証ししています。パウロは、「我らの国籍は天にある」と言いました。だから、教会の礼拝はわたしたちキリスト者の故郷であります。父の家の教会に毎週招かれて、わたしたちは目には見えませんが、臨在のキリストのお会いし、心の内に喜びを覚えるのです。その喜びを、神はわたしたちの父として、喜んでくださり、祝福してわたしたちにすべての恵みをお与えくださるのです。そこにパウロは、教会の希望を見出したのだと思います。
 
  わたしたちの教会は、途上にある教会で、道半ばであります。神から多くの忍耐をいただき、慰めを与えられて、希望を持ち続け、主の日の礼拝がこれからの続くことを祈り求めて生きましょう。パウロの今朝の祈りが、わたしたちの教会において主が実現してくださるように祈ろうではありませんか。
 
  お祈りします

 イエス・キリストの父なる神よ、2015年も下半期に入りました。

 小さな群れのわたしたちの教会をお支えください。

  どうか、パウロの祈りを、わたしたちの教会に実らせてください。わたしたちは、今朝神の忍耐と慰めの源である神の忍耐と慰めと希望を学びました。主よ、どうかわたしたちの信仰生活に学んだことを実らせてください。

 全員懇談会の話し合いを感謝すると共に、神の恵みなしに教会の目標も、今年度の実施項目も達成できませんので、わたしたちがあなたの喜ばれる礼拝をし、あなたの祝福の中に生かしてください。

 今年の残り、心を合わせ、声をそろえて、主を礼拝し、賛美させてください。

 御名を崇めさせてください。

 主よ、わたしたちを祝福し、わたしたちの教会を持続させてくださり、御心であれば、経済的に独立できるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

宗教改革記念礼拝説教(2016)          2016年 1030

 

 

 

ああ、物わかりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに・・・。あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなた方が律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。

 

 だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。

 

                       ガラテヤの信徒への手紙第3章1-14

 

 

 

 説教題:「信仰か、律法か」

 

 毎年10月の終わりに、マルティン・ルターの宗教改革を覚えて礼拝を守ります。今年で宗教改革499年を迎えました。来年500年を迎えます。

 

 

 

 改革派教会は、宗教改革500年を記念して、来年の大会前に日本キリスト教会の教職者たちと記念講演会を柏木教会で行うことを計画しています。わたしは、その企画を楽しみにしています。

 

 

 

さて、今朝の礼拝で、500年昔の宗教改革とは何であり、そこで何が問題にされ、現代のわたしたちの教会生活にどんな影響があるのかを、今朝はガラテヤの信徒への手紙3114節の御言葉に耳を傾けて、学びたいと思います。

 

 

 

 説教題を、分かりやすく、「信仰か、律法か」という題にしました。

 

 

 

 宗教改革という歴史的事柄を、その精神に根差して考察し、一般の人々に宗教改革は一体何であったかを、明確に記した本があります。1977年に中公新書の一冊として出版された金子晴勇氏の『宗教改革の精神』です。

 

 

 

 およそ40年前に出された本です。本の主題は、宗教改革者ルターとキリスト教ヒューマニストエラスムスとの対立です。

 

 

 

 わたしがこの新書を読んで、優れていると思うのは、著者がその時代のエラスムスを代表とするルネッサンス・ヒューマニストたちのキリスト教宗教の本質を鋭く分析している点です。

 

 

 

 エラスムスはカトリック教会の信者です。彼は無神論者、異教徒ではありません。そして、今朝のガラテヤの信徒の手紙で、使徒パウロが批判したユダヤ人キリスト者と似ていると思います。

 

 

 

 すなわち、律法を実行し、自分が義人であることを神の御前に立証しようとすることです。

 

 

 

 使徒パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに向かって「ああ物わかりの悪いガラテヤの人たち」と呼びかけて、非難しました。彼らはパウロたちが語ります福音を聞きました。パウロたちは、彼らの目の前でキリストが十字架で死なれたように語りました。彼らは十字架のキリストの救いを信じました。そして、洗礼を受けて、キリスト者となり、聖霊と信仰の賜物をいただいたのです。

 

 

 

ところが、エルサレムからユダヤ人キリスト者たちがやって来ました。彼らはガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに異なる福音を語りました。彼らは言いました。「福音を聞いて、十字架のキリストを信仰するだけでは不十分である。ユダヤ人たちが守るモーセ律法を熱心に実行し、ユダヤ人たちの祭りや宗教的習慣を守り、神の御前に自分たちが義人であることを立証しない限り、本当のキリスト者ではない」と。

 

 

 

パウロから見れば、ユダヤ人キリスト者が教える異なる福音は、福音ではありません。律法を実行しようとする者は、律法の定める呪いの下に置かれるのです。キリストは、律法の定める呪いの下に置かれたわたしたちの身代わりに十字架に死んでくださって、律法とその呪いと死からわたしたちを解放してくださったのです。

 

 

 

ところが、ユダヤ人キリスト者たちは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに律法の実行を呼び掛けて、再び律法の呪いの下につなごうとしているのです。

 

 

 

ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちは、パウロが無分別だと非難しているように、パウロたちが語る福音とユダヤ人キリスト者たちが語る異なる福音とを分別できませんでした。

 

 

 

きっとユダヤ人キリスト者たちが十字架のキリストへの信仰を肯定していたからです。彼らにとって、信仰だけでは不十分でした。信仰に加えて、律法を実行し、ユダヤ人のように熱心に祭りや宗教的習慣を行わないと、神の御前にキリスト者としての義を立てることができないと教えていたのでしょう。

 

 

 

青年ルターが修道院で苦しんだのは、まさにこの異なる福音でした。キリスト者として神の御前に自分の義を立証しようとして、若きルターは苦しみました。なぜなら、彼は、熱心に修道院の規律を遵守し、神に自分の義を立証しようとすればするほど、彼にとって「神の義」は規律を守れないルターの罪を裁かれる神の義であったからです。

 

 

 

苦悩の中でルターは、パウロが語ります「神の義」、信じるすべての人の上に救いをもたらす神の力に、真の平安を見出したのです。

 

 

 

アブラハムの信仰です。パウロは彼の信仰を、異邦人キリスト者の模範としています。すなわち、アブラハムは妻サラと共に年老いた時に、主なる神が彼に妻との間に彼の息子を与えると約束されました。アブラハムは百歳近くになっていました。妻サラも90歳を越えていました。不可能ではありませんか。ところが、パウロは「アブラハムは神を信じた。それを彼の義と認められた」と、旧約聖書の御言葉を伝えています。

 

 

 

アブラハムは、人間の可能性が全く途絶えたところで、なおも神がアブラハムに約束された御言葉を信じたのです。

 

 

 

青年ルターも同じです。修道院でどんなに熱心に規律を守り、神の御前に自分の義を立証しようとしても不可能でした。ところが、父なる神は律法の呪いの下につながれていたルターを、キリストの十字架を通して罪人を義とする神の義を信じるルターに変えて下さり、彼を律法の呪いと死から解放してくださったのです。

 

 

 

「神の義」とは律法を守れない罪人を裁く神の義ではありません。キリストの十字架によって罪人を救う神の義であります。ルターはその神の義を信じる信仰によって、律法の呪いと神の刑罰としての永遠の死から解放されました。

 

 

 

だから、ルターは、使徒パウロ同様にエラスムスのキリスト教的ヒューマニズムを見過ごしにできませんでした。ヒューマニズムは、人間の尊厳に重きを置く思想です。たとえば、主体性です。人間の主体性の確立を目指します。その根底にあるのが人間の自由意志です。だから、エラスムスは、人間の自由意志を強調しました。彼は、人間の尊厳が人間の主体性にあり、人間は自由意志を持ち、自らの主体性的な行動で、神の御前に自分の義を立証できると考えたのです。

 

 

 

しかし、ルターはエラスムスの主張を、彼が修道院で苦悩した体験のゆえに認められませんでした。だから、彼は、エラスムスの『自由意志論』という書物に対抗して『奴隷的意志論』という書物を公にし、キリスト者は信仰に基づく主体性は必要であるが、人は生まれながらに罪人であり、日々罪を悔い改めて、新生しなければならないほど、罪の奴隷になっていると主張しました。それゆえ人が自由意志で律法を実行し、神の御前に自分の義を立てることは不可能であると主張しました。

 

 

 

二人の論争の背後に、西方教会の伝統があります。

 

 

 

パウロとユダヤ人キリスト者たちとの対立以来、西方教会では、アウグスティヌスとペラギウス、そしてルターとエラスムスと、常に人間の自由意志を巡って教会の中で論争が起こりました。

 

 

 

現代の教会の中でも、表立って論争はありませんが、人間の自由意志を巡り、人の主体性で神の御前に自分の義を立証しようとすることは、教会の中で解決を見ていないと思います。

 

 

 

今回、わたしは、聖書から初代教会、そして、その後の西方教会へと、歴史的につながる中で、パウロ、アウグスティヌス、ルターと、西方教会が「罪を犯す必然性からの解放」を、キリストの十字架の罪の赦しに見て来たことを学ぶことができました。

 

 

 

だから、パウロもアウグスティヌスもルターとカルヴァンたち宗教改革者も、人間の主体性や自由意志に信頼することができなかったことに、共感を覚えました。なぜなら、人は、アダムの原罪と堕落以来、生まれながらの人は必然的に罪を犯すし、十字架のキリストによる罪の赦し以外に、その罪からわたしたち人間を解放するものはありません。

 

 

 

だから、西方教会は十字架のキリストの罪の赦しを中心とする信仰義認の教理を、キリスト教の中心的教えとしているのです。

 

 

 

今朝の宗教改革記念礼拝で、わたしたちは、何を学び尊ぶべきでしょうか。それは西方教会の伝統に生きる教会として、わたしたちも「罪を犯す必然性から解放」を常にこの教会の礼拝で求めるということです。

 

 

 

すると、わたしたちの耳は必然的に、パウロの今朝の御言葉に至りつくのです。「ああ、物ガラテヤの分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架のつけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが、“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。」

 

 

 

わたしたちの教会は、創立20周年宣言で、次のように宣言しています。「わが教会の神中心的・礼拝的人生観は、主の日の礼拝の厳守において、最もあざやかに告白される。神は、礼拝における御言葉の朗読と説教およびそれへの聴従において、霊的にその民のうちに臨在したもう。」

 

 

 

生まれながらに罪人のわたしたちは、罪を犯すことが必然です。だからこそ「霊を受ける」、すなわち、キリストが聖霊を通して、ここに臨在してくださり、わたしたちの罪を赦してくださる必要があります。

 

 

 

その十字架のキリストの罪の赦しは、主に召されたわたしたちがこの教会の礼拝で共に御言葉の朗読と説教およびそれへの聴従において、すなわち、信仰義認による罪の赦しという神の恵みの出来事が起こっているのです。

 

 

 

キリストは、今ここで奇跡を行われる方として、臨在されています。わたしたちのここでの御言葉の朗読と説教およびそれへの聴従において、臨在されています。

 

 

 

パウロが5節で次のように言っています。「あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。」

 

 

 

ここでわたしたちが御言葉の朗読と説教およびそれへの聴従において、福音を聞いて信じたから、生まれながらの罪人、罪を犯すことが必然であるわたしたちが、キリストの十字架による罪の赦しという神の恵みの奇跡にあずかれたのです。

 

 

 

ここに臨在されるキリストが、聖霊と御言葉を通して、聖書の御言葉の朗読と説教を聞きますわたしたちに御自身の十字架をわたしたちの目の前に鮮やかに示され、この十字架がわたしたちの罪のためであることをわたしたちに説得してくださり、信じることができるようにしてくださったので、わたしたちは、ここで洗礼と聖餐という礼典の恵みにあずかることができるのです。

 

 

 

宗教改革を通して、わたしたちの教会の礼拝を見ます時、まさに主の日の礼拝は、わたしたちの間で奇跡を行われるお方が臨在され、その方の十字架の罪の赦しを、信じる信仰によって、わたしたちは主に義とされ、救われているのだという幸いを体験しているのです。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、宗教改革記念礼拝にわたしたちを集わせ、御言葉の朗読と説教を聞き従える恵みにあずかり、そして、聖餐の恵みにあずかれることを感謝します。

 

 

 

生まれながらの罪人であるわたしたちが、罪を犯すことは必然であり、そこからキリストの十字架の福音を聞くことで、解放していただけて感謝します。

 

 

 

あなたの御前に自分の義を立証することはできませんが、福音を通して、聞いて信じる者を義とされ、罪を赦し、神の子としていただける恵みを感謝します。

 

 

 

来年は、宗教改革500年を迎え、ドイツの国を中心に世界中で宗教改革500周年のイベントが祝われます。どうか、信仰義認の教理が正しく世界の人々に伝えられ、その福音を聞く世界中の人々をお救いください。

 

 

 

どうかルターのように、人々が神の御前における自分の罪を自覚し、苦しみ、罪に痛む心が信仰によって神に義とされ、救われる喜びに導いてください。この喜びのために、この世にプロテスタント教会があり、わたしたちの教会が諏訪にあることを、心から感謝させてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によってお聞きください。アーメン。