2023年度教会聖句による説教01 主の2023年1月29日
だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。
ヘブライ人への手紙第11章35-36節
説教題:「今を忍耐し、祈り、学び、奉仕を継続する教会」
本日は、例年通り午後に会員総会が開かれます。小会は例年通り会員総会で今年度の聖句と教会目標を提案します。
今年の会員総会で、小会は今年の聖句として、新約聖書のヘブライ人への手紙第11章35-36節の御言葉を、教会目標に「祈り、学び、奉仕を継続する教会」を、提案します。
コロナウイルスの災禍も四年目に入りました。パンデミックという言葉が日常語になるほどコロナウイルスは今も世界的大流行しています。今日本では第八波の流行となっています。昨年も言いましたが、まるでわたしたちはコロナウイルスに捕囚されています。
こうした教会の危機の中でわたしたちは、今を忍耐し、「祈りと学びと奉仕を継続する教会」を教会目標にして歩みたいと思います。
昨年は、ヘブライ人への手紙第3章6節を聖句に選びました。今年は、同じくヘブライ人への手紙第10章35-36節の御言葉を選びました。
「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」
ヘブライ人への手紙が「自分の確信を捨ててはいけません。」と述べている「自分の確信」とは、本来自分があらゆることを自由に言えることです。そこから自分が話す時の大胆さと率直さを表わす言葉となりました。古代ギリシアの市民たちの言論の自由を表わすのが「自分の確信」という言葉です。
ヘブライ人への手紙は、第3章6節で「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば」と述べています。昨年聖句です。ヘブライ人への手紙は、希望の誇りと共に、わたしたちがキリストによって与えられた「信仰の確信」を教会の特徴として際立たせています。
ヘブライ人への手紙は3章1節で、そして3章14節でわたしたちが信仰告白する大祭司主イエス・キリスト、この最初の確信を固辞し続けることが大切であると述べています。
なぜなら、ヘブライ人への手紙は4章14-16節でこう述べています。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
ヘブライ人への手紙は、神の大祭司キリストによってわたしたちが自由に神に近づく大胆さ、確信が与えられていると述べています。
そして、ヘブライ人への手紙は、10章35-36節で大祭司、神の子キリストという信仰の確信と信仰の訓練とを互いに分かちがたく結びつけているのです。
ヘブライ人への手紙が「この確信には大きな報いがあります。」と述べていますのは、この確信、わたしたちが公に大胆に信仰告白しています「大祭司、神の子キリスト」という確信には、大きな救いをわたしたちにもたらす報いがありますと述べているのです。
大祭司、神の子キリストというわたしたちが公にしています信仰告白は、わたしたちを神の恵みの御座に大胆に近づけるのです。わたしたちを御国に至らせるという大きな益があるのです。
しかし、ヘブライ人への手紙によれば、この神の約束は実現してはいません。4章1節でヘブライ人への手紙が述べていますように、神の安息にあずかる約束は実現してはいません。だから、ヘブライ人への手紙は、わたしたちに神の御国に入り損ねないように注意しなさいと述べています。そして、ヘブライ人への手紙は、わたしたちにこう述べています。旧約時代の神の民たちが神の約束を信じて死んだのは、後のわたしたち新しい神の民のためであったと。アブラハム、イサク、ヤコブたち族長たちは、神の約束を受け取りましたが、その約束は実現しませんでした。それは、わたしたちキリスト者が神の御国を相続するためでした。
それゆえにヘブライ人への手紙は、10章36節で「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」と述べているのです。
「神の御心を行って」とは、「神の御心」は神の御意志です。神は御自身の御心をモーセの十戒を通してお示しになりました。主イエスは、その十戒を神への愛と隣人への愛に要約されました。そして、主イエスは、父なる神への服従によって神の御心を行われました。
主イエスは父なる神に祈り、父なる神を崇め、父なる神の御心を学ばれ、父なる神に仕えられました。
そして、御自身の元へと12弟子たち、すなわち、使徒たちを召され、多くの者たちを召され、彼らを弟子として訓練し、彼らに主の祈りを教えられました。12弟子たちは、主イエスから創造主なる神を父として崇め、仕えることを学びました。
主イエスは、わたしたちの罪のために十字架で死なれ、わたしたちの永遠の命の保証として復活され、へウライ人への手紙が述べていますように、もろもろの天を通られ、今御国でわたしたちの大祭司として、わたしたちを執り成してくださっているのです。
忍耐とは、聖徒の堅忍のことです。キリストがわたしたちを守り、保持して下さることです。キリストは、救われたわたしたちを見捨てられることはありません。御自身が頭である教会を通して、わたしたちを御国に至るまで守り、保持してくださいます。
だから、ヘブライ人への手紙が述べていますように、「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」
わたしたちがキリストへの信仰を固くし、祈り(礼拝)と学びと奉仕を継続する教会を形成することです。上諏訪湖畔教会は、主を礼拝し、聖書を学び、主に仕えて、今年で75年間継続してきたのです。
この75年はわたしたちの忍耐、すなわち、辛抱した年数ではありません。主がわたしたちの教会を保持してくださった年数です。復活の主イエスが常に75年間わたしたちに御心を留めて下さったのです。
だから、わたしたちは、主に守られて、今年一年間祈りと学びと奉仕を継続する教会を建て上げて行こうではありませんか。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、2023年となり、今年も一か月が過ぎようとしています。コロナウイルスの災禍も4年目を迎えました。
今教会は危機の中にありますが、主イエスよ、上諏訪湖畔教会を75年間お守りくださり、感謝します。
今年はヘブライ人への手紙の第11章35-36節の御言葉を、今年の聖句に選び、今年一年、「祈りと学びと奉仕を継続する教会」という教会目標を掲げました。
どうか、わたしたち憐れみ、今の困難さからお救いください。わたしたちと共に居てくださり、この一年間をわたしたちと共に主よ、歩んでください。
午後に開催される会員総会を祝福してください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
イースター礼拝説教(2023年) 2023年4月9日
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
マタイによる福音書第28章16-20節
説教題:「復活の主イエスと共に生きましょう」
イースター、おめでとうございます。
先週一週間、わたしたちはルカによる福音書によって、キリストの最後の一週間の御受難を瞑想し、過ごしました。
そして、わたしたちは、今朝この教会に共に集まり、「主イエスは甦られました。おめでとう」と挨拶をします。
今日は喜びの日です。ある牧師の説教を読んでいますと、その牧師が「復活節の高笑い」という言葉を教会員に語っていました。イースター礼拝の中で集まる者が一斉に大笑いするのです。
教会は真面目な所であると思われています。礼拝の中で笑うなど、不謹慎だと思われる方もいるでしょう。しかし、その牧師は教会員に語るのです。「教会は、笑うべき場所ではないということはないのです。むしろ心から笑えるところだと、昔から教会の人は信じている。特に復活の祝いの日の朝は、礼拝堂の中は、『わっはっは、わっはっは』という高く大きな笑い声に満ちたのです。もし、なお外にいる人がいれば、あそこの教会の人々は、なぜあんなに嬉しそうに笑っているのか、いぶかるほどであったのです。酔っぱらっているのではない。誰かが面白い話をしているのでもない。主イエス・キリストはお甦りになった。われわれにとって死は、何としても、揺るがない滅びの現実であると思っていたのに、実は、疑うべき事実になったのだということを知ったのです。そこで、緩められ、解き放たれた思いが爆笑になるのです。この笑いは自由解放の出来事が起こったしるしです。主イエス・キリストのいのちによって、生かされる教会は、そのように笑うことを知る集団であり、その笑いの中で、自由と平安に生きるのであります。」
少し長い引用になりましたが、牧師の説教を読んでいて、そのようなイースター礼拝を守れたら、どんなに楽しいことだろうと、わたしは少しうらやましくなりました。
マタイによる福音書も、わたしと同じような思いを持っています。今朝の御言葉、マタイによる福音書27章16-17節に、こう記しています。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」
11人の弟子たちは、主イエスを裏切りましたイスカリオテのユダを除く、主イエスの12弟子たちのことです。
彼らは、天使と復活の主イエスに出会った女性たちを通して、復活の主イエスが彼らより先にガリラヤで待っているとのお告げを受けました。それで11人の弟子たちはガリラヤに、そして主イエスがお示しになったある山に行きました。彼らは、約束通り、復活の主イエスと出会い、彼らは御前でひれ伏しました。彼らは、復活の主イエスを礼拝しました。
マタイによる福音書は、「しかし、疑う者もいた。」と記しています。これは、11弟子たちのことと言うより、マタイによる福音書の時代の初代教会のことではないかと、わたしは思うのです。
復活の主イエスの顕現で11弟子たちも他の弟子たちも、キリストの復活を疑う者はいませんでした。しかし、彼らの後の時代の教会は、復活の主イエス・キリストの顕現に出会うことはできません。だから、キリストの復活を疑う者もいるのです。イースター礼拝を共にしながら、ある者はキリストの復活を信じ、ある者は信じられないということが教会の礼拝において起こったのです。
マタイによる福音書は、この問題を解決するために、最後に今朝の御言葉を記したのです。キリストの復活、顕現を見ることのできない時代の者たちが復活の主イエスを見ることなく、言葉によってキリストの復活を信じる信仰を確立する道を模索しているのです。
キリストの復活が信じられない。その疑いを教会が克服する道は、マタイによる福音書にとって一つでした。18-20節のキリストがお与えくださった約束の御言葉とそれへの現在的服従です。
復活の主イエス・キリストは、11弟子たちに近づいて来て、次のように宣言されました。第一は、復活の主イエス・キリストは天と地の一切の権能を授かったということです。すなわち、主イエスは復活によって神の子キリストに即位し、神的支配権を授けられました。今の世界を復活の主イエスが支配されているのです。
第二は、復活の主イエスは、命令者であり、約束する者です。復活の主イエスは、11弟子たちに全世界の人々に福音宣教を命令されました。19-20節前半です。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」
ガリラヤに行った11弟子たちは、そこから全世界に遣わされ、すべての国民をキリストの弟子とするために、彼らに父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けて、主イエスの教えを守るように教えなければなりません。
要するに主イエスの十字架と復活の御業の完成として、11弟子たちは、そして教会は福音宣教を通して世界の諸民族から成るキリスト教会を建て上げなければなりません。そして、この教会の形成は、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けることによって、そして、主イエスの御言葉を守るように教えることによってなされるのです。
主イエスの教えと11弟子たちが宣教する神の御言葉と聖礼典は同じものです。11弟子たちは、主イエスに全権を委ねえられて、すべての人々に神の御言葉を語り、聖礼典を執行し、キリストの教会を建て上げたのです。
最後に復活の主イエスは、インマヌエルを約束してくださっています。マタイによる福音書は、わたしたちに次のように復活の主イエス・キリストの約束を記しています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
マタイによる福音書によれば、復活の主イエス・キリストは、昇天という形で地上の教会から、キリスト者たちの交わりから離れられることはありません。
目には見えませんが、教会の礼拝において神の御言葉が語られ、聴かれる所に復活の主イエスは臨在してくださいます。復活の主イエスは、この世が終わるまであなたがたの中に、すなわち、キリスト教会の教会員たちの交わりの中に共に居てくださいます。
マタイによる福音書にとって主イエスの救いは、神の御意志である主イエスの御言葉に生きることです。そしてわたしたちがキリストの福音を人々に伝える時に、復活の主イエスは御自身が完成された御救いを、人々に聖霊を通して適用してくださるのです。
教会が毎週日曜日の主の日に神の御言葉を語り、聴き、聖礼典を執行するとき、復活の主イエスは臨在し、わたしたちと共にいて下さいます。
だから、わたしたちは、常に復活の主イエスと共に生きているのです。そして、わたしたちと共に生きる復活の主イエスは、死に打ち勝たれたお方です。そのお方と共に生きているということは、わたしたちもまた死に勝利した者として生きるということです。
この世は死んだら終りではありません。復活の主イエスと共に生きる永遠の命を、わたしたちは復活の主イエスによって約束されています。
イースターの朝、死の陰は過ぎ去り、永遠の命の光がわたしたちの教会を通して、わたしたちの家庭に、わたしたちのこの町に、そして、世界へと射すのです。
お祈りします。
復活であり、命である主イエス・キリストの父なる神よ、イースターの朝、わたしたちは、この教会に集められ、マタイによる福音書28章16-20節の御言葉を学ぶことができて、心より感謝します。
今年もコロナウイルスの災禍が続き、皆が集まり礼拝できません。どうか、死に勝利された復活の主イエス・キリストの御力に寄り頼み、今の困難な教会の状況にわたしたちが立ち向かえるようにしてください。
どうか、主よ、憐れんでください。聖書が証しする復活の主イエス・キリストを信じさせてください。
どうか罪と死が支配するこの世から永遠の命へと、御国へと生きる希望をお与えください。
イースターのこの喜びを、わたしたちの家族、この町の人々に伝えることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ペンテコステ礼拝説教 2023年5月28日
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
ヨハネによる福音書第14章15-21節
説教題:「聖霊を与える約束」
ペンテコステ、おめでとうございます。
ペンテコステは、聖書の使徒言行録第2章に記されています聖霊降臨の出来事を記念し、祝うキリスト教会のお祭りです。
今朝は、ヨハネによる福音書の14章15-21節の御言葉を学びましょう。主イエスが12弟子たちに与えると約束された聖霊について学びましょう。
ヨハネによる福音書は、主イエスが最後の一週間、すなわち、受難週の五日目に、その日は木曜日で、主イエスは12弟子たちと過越祭の最後の食事をなさいました。その後に主イエスは弟子たちに長いお別れ説教と最後の祈りをされました(ヨハネ13:31-17:26)。
裏切り者のイスカリオテのユダは、最後の食事が終わりますと、出て行きました。主イエスは残った11弟子たちに御自身がこの世を去ることを予告されました。
主イエスは、ヨハネによる福音書の14章で、主イエスが11弟子たちに御自身がこの世を去ると予告されたことに動揺しないように勧告されています。なぜなら主イエスは、彼らのために天に彼らの住まいを用意し、再び彼らのところに戻ってきてくださるからです。
そして、今朝の御言葉が続いています。主イエスは御自身が去られたら、父なる神に彼らに別の弁護者、すなわち、真理の霊を遣わしてくださるように、お願いしようと約束されています。
そして、主イエスは、今朝のヨハネによる福音書で別の弁護者、真理の霊である聖霊をわたしたちに与えると約束してくださっています。
約束の聖霊は、弟子たちの心に住んでくださいます。そして、主イエスも同様に彼らの内に住んでくださいます。
どうして、主イエスは彼らに聖霊を与えると約束され、その聖霊と主イエスが弟子たちの内に住んでくださると言われたのでしょうか。
18節で主イエスは彼らに、こう言われています。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」
主イエスは、この世を去られます。もうしばらくしたら、この世も彼らも主イエスを見ることができなくなります。しかし、主イエスは、御自身がこの世を去られても、彼らをみなしごのように捨てはしないと約束されているのです。もう一度戻って来ると言われています。
この主イエスの約束の御言葉は、実現するのです。イスカリオテのユダの裏切りで、主イエスはユダヤの官憲に捕らえられます。そして、総督ポンティオ・ピラトの裁判で有罪宣告を受けられます。ゴルゴタの丘で十字架刑に処せられて、墓に葬られます。そして、三日目に主イエスは死人の中から復活されます。そして40日間11弟子たちと共に過ごされ、天にお帰りになります。こうして11弟子たちは二度と肉眼で主イエスを見ることはできません。
しかし、主イエスが復活されて五十日目、主イエスが天に帰られて十日目に父なる神は主イエスの願いをお聞きになり、聖霊を遣わされました。それが使徒言行録の第2章の聖霊降臨の出来事です。
主イエスがヨハネによる福音書の14章20節で言われています「かの日には」とは、使徒言行録第2章の聖霊降臨の出来事の日です。
使徒言行録は、聖霊降臨を「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と記しています(使徒言行録2:3)。すると、エルサレム教会の11人の使徒たちとその仲間たちは聖霊に満たされて、聖霊が語らせるままに、ペンテコステの祭に集まりました人々に、他の国々の言葉で神の偉大な働きについて証ししました。
主イエスは、ここでお約束くださったように、御自身の霊である聖霊と共に、ペンテコステの日に11人の弟子たちと彼らの仲間たちの所に戻ってきてくださったのです。
そして、聖霊降臨の日に下って来られた聖霊は、主イエスが11弟子たちに約束された通りに真理の霊としてキリスト者とその共同体の内にとどまってくださいました。
こうして主イエスが11弟子たちに共に臨在される仕方が変わったのです。肉体から霊に代えられました。
聖霊は、主イエスの霊です。そして、11弟子たちにとって、そしてその仲間である者にとって、すなわち、わたしたちにとっては弁護者です。わたしたちを助けてくださるお方です。
聖霊が真理の霊と呼ばれているのは、聖霊が11弟子たちとその仲間たちに主イエスが語られた御言葉と教えを、彼らに思い起こさせ、理解できるように助けてくださるからです。主イエスの十字架と復活の御救いを、常に11弟子たちとその仲間たちが思い起こし、理解し、この世の人々に福音として告げ知らせることができるように助けてくださいます。
この世は、目に見える世界であり、人々は目に見えるものしか信じません。だから、目に見ることのできない父なる神も主イエスも知りませんし、信じません。それどころか、無関心です。
父なる神と御子である主イエスがこの世に遣わされた聖霊は、教会を造られ、11弟子たちとその仲間を、神礼拝へと導かれます。その神礼拝で、御言葉が語られ、洗礼と聖餐が行われます。そこに主イエスは霊的に臨在されています。牧師の口を通して神の御言葉が語られ、洗礼と聖餐が執行されます。聖霊は彼らに信仰を通してそれを理解させてくださるのです。
次に主イエスは、11弟子たちに19節でこう約束して下さっています。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」
主イエスのお言葉は、聴いていまして謎です。世間の人が主イエスを見なくなれば、わたしたちも見られません。ところが、主イエスはわたしたちが主イエスを見て、主イエスが生きておられるように、永遠に生きることになると言われています。
主イエスは、肉眼で見ることは出来なくなります。信仰という目で見るようになります。そして、主イエスは復活し、生きておられます、永遠に。だから、わたしたち死ぬべき人間を、永遠の命に生かすことのできるお方だということです。
聖霊が与えられる喜びとは、主イエスを信じる者がこの世の死で終わるのではなく、死んで復活された主イエスと共に永遠の命に生かされているということを知ることです。
主イエスは、それを別の言葉に言い換えられています。21節です。「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
わたしたちは、父なる神と子なる主イエスに愛され、父なる神と子なる主イエスを愛して生きるのです。
父なる神と子なる主イエスは、この世においては隠れた神、隠された神です。しかし、父なる神と御子主イエスは御自身の愛を、わたしたちに現わしてくださいました。教会における礼拝とわたしたちの主にある交わりを通して、福音という形で御自身の愛をわたしたちに現されました。
わたしたちは、聖霊と御言葉を通して父なる神と主イエスに愛されているという形で、そしてわたしたちが愛するという形で、父なる神と御子である主イエスを知ることを許されているのです。
聖霊は、主イエスが23節で「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」と約束されたことを、わたしたちの礼拝と交わりを通して実現されています。
コロナウイルスの災禍が3年以上続きました。それでもわたしたちの教会は礼拝と交わりを休むことなく続けています。それだけではなく、高齢化やいろんな事情で礼拝に出席できない方がいます。主イエスはネットを通して、オンライン礼拝を可能としてくださったのです。
オンライン礼拝は、聖霊がわたしたちを助けてくださっているお働きです。聖霊は、オンライン礼拝を通してわたしたちが主イエスを信じ、互いに兄弟姉妹を愛することを、一緒に礼拝するという形で実現されているのです。
そして、その実現を通して、聖霊はわたしたちに父なる神と子なる主エスがわたしたちを愛されていることを体験させてくださっているのです。
今、わたしたちがすべきことは、この世に対して主イエス・キリストを伝えることです。家族や知人にキリストを伝えるのです。その時、必ず真理の霊である聖霊が助けてくださいます。
聖霊は、わたしたちの弁護者です。わたしたちの主イエスの霊です。いつもわたしたちの内に住まわれ、わたしたちと一緒にいてくださり、わたしたちを守り、助けてくださいます。
だから、聖霊に助けられて、主イエスに祈りましょう。わたしの家族を、この町のわたしの知人をお救いくださいと。
そして、更に祈りましょう。聖霊がわたしたちの心に主イエスの十字架の死と復活の御業を常に思い起こさせて、主イエスが生きておられるので、わたしたちも死んでも生きるのだという、永遠の命の喜びに生かしてくださるように。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、ペンテコステの朝、御言葉と聖餐の恵みにあずかり、心より感謝します。
聖霊がわたしたち一人一人に注がれ、わたしたちの教会をお助けくださり、わたしたちをお助けくださり、コロナウイルスの災禍の中でも休むことなく礼拝が続けられ、ネットでオンライン礼拝を配信できることを感謝します。
どうか、今朝の御言葉を通して、聖霊がわたしたちに主イエスが今も生きて、救いの御業を為されていることを、わたしたちに確信させてください。
わたしたちの家族を、この町の人々をお救いください。福音宣教を通して、人々にキリストを証しさせてください。
この祈りと願を、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
2023年クリスマス礼拝説教 主の2023年12月24日
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
ヨハネによる福音書第3章16節
説教題:「クリスマス―神の愛」
クリスマス、おめでとうございます。
さて、わたしは、この教会の牧師として最後のクリスマス礼拝を司式し、説教しようとしています。今日のクリスマス礼拝を、わたしは心に刻みたいと思います。
キリスト者は、聖書を読み、自分の好きな御言葉を持っています。わたしの好きな聖書の御言葉は、新約聖書のヨハネによる福音書第3章16節です。
この御言葉を愛唱聖句にしているのは、わたしだけではありません。世界中にいるキリスト者たちです。だから、「万人の聖句」と呼ばれています。
それだけではありません。この御言葉にはわたしたちキリスト者が聴くべきキリストの福音の本質があります。それは、わたしたちの喜びそのもののことです。それを、一言で言いますと、今日の説教題の「神の愛」です。
今朝は、ヨハネによる福音書の第3章16節の御言葉から「クリスマス―神の愛」について思い巡らせましょう。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
新約聖書はギリシャ語で書かれています。ヨハネによる福音書3章16節は、文字通りに日本語にすると、こうなります。「なぜなら、神はそれほどに世を愛されたので、その結果、独り子をお与えくださった。彼を信じる者がすべて滅びることなく、永遠の命を持つためである。」
わたしたちの聖書は、「それほどに」を独り子に結び付けて、「その独り子をお与えになったほどに」と訳しています。しかし、わたしは、前の節、15節の「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」という文章にかかると思うのです。
神は、このように「彼を、すなわち、御子を信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るために、そういう目的を果たそうとするほどに、世を愛された」のです。
神は、御子キリストを世にお与えくださったから、世を愛されたのではありません。御子を信じる者すべてを永遠の命を持たせるために、神は世を愛されたのです。そして、神は御自身の独り子である御子をお与えくださったのです。
神が世を愛するとは、驚きであります。なぜなら、世、すなわち、コスモスは、あの世に対するこの世ではありません。神は今の世を、現世を愛されたのではありません。神に敵対する世を愛されたのです。世は神の真理を認めない、ないしは知らない者たちの領域のすべてです。
神は、御自身に敵対する世を、神の真理を認めず、真の神について無知である者すべてを愛されて、御自身の独り子を世に遣わされました。そして、神は、彼を最後に十字架に渡されたのです。
当然、世が神の裁きを受けなければなりませんでした。神の真理を認めない者、真の神について無知な者、神に敵対する者がどうして永遠に滅びないことがあるでしょうか。
しかし、神は、御子を信じる者すべてが滅びることなく、永遠の命を持つために、世を愛されたのです。そして神に敵対する世に神の独り子である御子キリストを遣わされました。
ヨハネによる福音書がわたしたちに伝えたいことは、わたしたちが神に最初に救いを望んだのではありません。神が望まれたのです。
神が御自身に敵対している世を、御子キリストによって救おうとされたのです。神は世にキリストを通して御自身の愛をお示しになりました。
旧約聖書の創世記に族長アブラハムが神の命令により、一人息子イサクをモリヤの山に犠牲として捧げるという物語があります。
神は、アブラハムと恵みの契約を結ばれて、「わたしはあなたとあなたの子孫との神となり、あなたとあなたの子孫はわたしの民となる」と約束されました。
しかし、神はアブラハムに彼の一人息子イサクを犠牲にせよと命じられました。アブラハムは、神の命令に従いました。彼は息子イサクを神に献げようとしました。その時神は、アブラハムを止められ、イサクに代わる犠牲を備えてくださっていました。だから、「主の山に備えあり」という言葉が伝わっているのです。
この犠牲のイサクこそ来るべきキリストなのです。キリストは、神の独り子として世に来られました。神の真理を認めない者たち、真の神について無知な者たち、神に敵対する者たちの身代わりとなるために、世に来られたのです。
神の独り子が人となり、世に来られた。神の子が人の子として受肉し、世に来られた、これがクリスマスです。
神は独り子なるキリストを世に遣わし、世を愛されました。神は、神の真理を認めない者、真の神について無知な者、神に敵対する者に、当然の報いとして滅びを願われませんでした。むしろ、世に憎まれて、十字架刑で殺されるキリストを、わたしの主と信じる者が滅びることなく、永遠の命を持つことを願われたのです。
このように神の愛は、普遍であり、主権的です。神が世を愛されなければ、世は暗闇のままです。しかし、まず神が世を愛され、暗闇の世に光が射しました。それがクリスマスです。クリスマスは夜の暗闇に、神の光が与えられた出来事です。
そして、その神の光は、ゴルゴタの丘の上で輝きました。神の御子キリストは、沈黙し、十字架の道を歩まれました。生まれながら罪なき神の子です。だからこそキリストは、屠殺される犠牲の羊のように、ゴルゴタの丘の上にある処刑場へと連れて行かれました。
神は、暗闇の中で十字架の上で叫ばれるキリストに沈黙されました。アブラハムがイサクを犠牲として献げる時、神は御使いを遣わして止められ、代わりの犠牲を備えられました。
しかし、神は、御自身の独り子キリストがゴルゴタの丘で処刑されるのを許容されたのです。この十字架のキリストを信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を持つためにです。
キリストを世に遣わされた神は、神に背を向けている人間に無関心ではありません。どんな時にも、神は十字架のキリストを世に伝えることを、この教会に、わたしたちに促されています。
わたしたちは、自分の家族が神に無関心だから、素直に信じてくれないから、あるいは信仰よりこの世を愛しているからと、あきらめているかもしれません。
しかし、神は諦められません。教会の宣教を通して、わたしたちの世の人々との交流を通して、テレビやラジオ、インターネットを通して、神に背を向けた世に、「わたしはあなたを愛しています」と働きかけてくださっているのです。
クリスマスは、神が独り子を世にプレゼントして下さった出来事です。それによって神は、神の真理を認めようとしない世を愛されました。真の神について無知な者を愛されました。この世のこと、金のこと以外考えない者を愛されました。神に敵対し、キリスト者を迫害する者を愛されました。
神が愛された者は、使徒パウロのようになります。キリストに敵対し、キリスト者を迫害していても、彼はダマスコで復活の主に出会い、キリストを信じる者となりました。そして、彼はキリストの福音を、真の神を知らない異邦人たちに伝え、神の真理を認めない者たちにキリストが救い主であることを弁明したのです。
わたしも、神の真理を認めないで、真の神については無知の中にいました。神はわたしを愛してくださいました。だから、神はわたしを、ミッションスクールの大学に入学させ、キリストの福音を宝塚教会で聞かせて下さったのです。わたしは、十字架のキリストがわたしの罪のために死なれたと信じて、教会で洗礼を受け、キリスト者になりました。それから48年が経ちました。
今日、クリスマスに神が御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を持つために、世に神の独り子キリストを与えてくださったと伝えられることを、わたしは本当に嬉しく思うのです。
お祈りします。
神さま、今教会は世界中でクリスマスをお祝いしています。
クリスマスが、神さまの愛の出来事であり、その独り子キリストが人として、わたしたちのところに来てくださったことを感謝します。
何よりも神が愛するに値しないわたしたちを愛されたので、クリスマスの出来事があり、キリストの十字架の出来事があり、神のわたしたちに対する愛が成し遂げられたことを知り、感謝します。
神の愛に、わたしたちはどのように答えるべきでしょうか。どうかわたしたちをこの教会の礼拝から離れさせないでください。常にキリストの福音を聞き続けさせてください。神の愛でわたしたちの心を満たしてください。神に愛されたように、わたしたちも隣人を愛することができるようにしてください。
どうか主イエスよ、来てください。
わたしたちがクリスマスに御言葉と聖餐の恵みに与り、約束された御国を、永遠の命を持つ喜びを待ち望ませてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。