2020年クリスマス礼拝説教       主の20201220

 

 「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

                 ヨハネによる福音書第145

 

 説教題:「暗闇に輝く光」

 クリスマス、おめでとうございます。

 

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 

このヨハネによる福音書の書き出しは、とても有名です。一度この文章をお読みになったお方は、きっと忘れることができないでしょう。

 

まず、この文章を読む時のリズム感の心地よさです。原文のギリシャ語で読めば、更に心地よいリズム感です。

 

ヨハネによる福音書の第1118節は、この福音書の序文であり、何よりも美しいキリスト賛歌です。

 

ヨハネによる福音書は、わたしたちをキリスト賛歌によって「」である主イエス・キリストへと招いているのです。

 

今日は、教会のクリスマスです。コロナウイルスの災禍の中で世界中の教会がクリスマスを祝っています。今日、日曜日に礼拝を通して、高らかにクリスマス讃美歌を歌っています。父なる神と共におられた言である主イエス・キリストが受肉し、この世に来られたクリスマスを祝っているのです。

 

わたしたちも今この礼拝を通して、今朝のヨハネによる福音書の御言葉を通してその喜びに招かれているのです。

 

言葉を読むリズムの心地よさに、クリスマスに招かれている喜びが、わたしたちを主イエス・キリストとは誰であるのかと、関心を呼び起こしてくれます。

 

本当にヨハネによる福音書は不思議な書物です。きっと一度読み始めると、終わりまで一気に読んでしまいたいと思われるでしょう。わたしは、ぜひそうしていただきたいと思います。

 

もう一つ、このヨハネによる福音書を読んでいて、わたしは面白い体験をしたのです。それを伝える言葉は、思考の飛躍です。

 

普通クリスマスと聞けば、主イエス・キリストの誕生を思い起こします。毎年教会で子供たちがクリスマスに主イエス・キリストの誕生劇をします。2000年昔のユダヤの国のベツレヘムの馬小屋が舞台です。そこで母マリアから幼子主イエスが生まれられます。そして天使がこの幼子がメシアであると告げるのです。美しい夜に馬小屋の中で、幼子主イエスは生まれられます。

 

ところが、ヨハネによる福音書のクリスマスメッセージは、わたしたちの思いを信じられない高みに運ぶのです。神と共におられる言に。「言は神であった」という高みに。万物の創造者である言に。すべてのものの命の源であり光である言に。

 

わたしは、宇宙飛行の体験はありません。当然のことです。しかし、昔立花隆というジャナ―リストが宇宙飛行士にインタヴューをし、『宇宙からの帰還』という書物を出しました。その本の中で宇宙に出た宇宙飛行士が地球を見た体験と、ヨハネによる福音書が「光は暗闇の中に輝いている」と記している言葉が一致しているのです。

 

信じられないことですが、ヨハネによる福音書は、まるで宇宙から地球を見たように、クリスマスの出来事を見ているのです。

 

わたしは、このヨハネによる福音書のキリスト賛歌をお読みになった方は大小の違いがあっても似た体験をされていると思うのです。

 

今朝は、わたしの体験談をお話しすることが目的ではありません。これは、今朝の御言葉に関心を持ってほしいからお話ししました。

 

関心は、この福音書が伝える「」「」「」である主イエス・キリストです。そして「暗闇」であるこの世界、わたしたち人間です。

 

ヨハネによる福音書にとってクリスマスは次のような出来事でした。114節を見てください。「言は肉体となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 

」は、永遠に父なる神と共に存在されていた主イエス・キリストです。言葉は父なる神の独り子として永遠において父なる神と人格的な交わりがありました。天地万物は、言である主イエス・キリストが創造されたのです。

 

しかし、ヨハネによる福音書は述べてはいませんが、万物は、最初の人間、そして人類の代表者であるアダムの罪によって堕落し、「暗闇」の世界になったのです。

 

そこで「」は、暗闇からわたしたちを救われるために、「命」」として救いの働きをなさるために、「言は肉体となって、わたしたちの間に宿られた」のです。

 

これが今朝世界中の教会がクリスマスを祝う意味です。

 

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(4)は、救済者である「」の使命が言われています。言葉である主イエス・キリストは、暗闇の中で滅び行くわたしたちを救い、永遠の命を与えてくださるのです。だから、命であり、光なのです。

 

そして、今朝学びます「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(5)。この御言葉は、とても心に留まる御言葉です。

 

 「」が受肉し、この世の歴史に到来され、命として、暗闇の世界を照らす光として歩まれ始めたのに、暗闇の世界に住む人々は主イエス・キリストの存在と働きを理解しませんでした。

 

 こんな表現はどうかと思いますが、暗闇の宇宙に包まれるように、地球は青く輝いています。最初の宇宙飛行士のロシア人のガーガリンの伝記を読んだことがあります。彼が「地球は青かった」と言った言葉は有名です。しかし、暗闇の宇宙はどうして地球は青く輝くのか理解しないでしょう。

 

 同じように世界中で祝われる祭の中で、クリスマスに勝るものはありません。しかし、クリスマスがわたしにとってどんなに重要な出来事であるのかを理解する人は多くありません。

 

 それは、ヨハネによる福音書が語ります「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」という信仰体験をしてはいないからです。

 

 「わたしたちはその栄光を見た」は、教会の礼拝における体験です。毎週の礼拝で体験できることです。キリストの十字架という出来事を見聞きすることです。

 

それによって「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである(ヨハネ20:31)と、ヨハネによる福音はこの福音書を書いた目的を述べています。

 

 この後聖餐式を行います。信者しかあずかれないキリストの食事です。それによって「わたしたち」キリスト信者は、十字架のキリストの栄光を見るのです。見るだけではなく、聞き、手で触れ、口で味わうのです。

 

 信者でなくても、一緒に参加されることで、御自身と主イエス・キリストの関係を考えていただける機会となると、わたしは思っています。

 

 だから、小会で今年のクリスマス礼拝は聖餐式をすることを決議したのです。

 

 クリスマスを、ただ伝道の機会とするだけでは十分ではありません。わたしたちと共にクリスマス礼拝に参加された方々に、言であり、命であり、光である主イエス・キリストの救いにあずかっていただけることが、わたしの願っていることなのです。

 

なぜなら、御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得ることこそが父なる神の愛だからです(ヨハネ3:16)。それゆえに、主イエス・キリストはこの暗闇の世界に受肉し来られました。主イエス・キリストはすべての人々の罪を負い、十字架で死なれ、三日目に死人の中から父なる神によって復活させられました。そして得られた永遠の命を、信じるわたしたちに与えることで、この暗闇の世界の中に生きる者たちを祝福されたのです。

 

だから、今も暗闇の世界でクリスマスは喜びの出来事として世界中で祝われているのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、コロナウイルスの災禍の中にある世界において今でクリスマスが祝われていることを感謝します。

 

今も暗闇の世界はクリスマスを祝っていますが、その意味を理解してはいません。わたしたちも暗闇の世界に生きる一人として、クリスマスの意味を理解していませんでした。

 

しかし、神は憐れみによって、この教会の礼拝へとお導きくださり、言である主イエス・キリストの受肉と命と光としての救いのお働きを教えてくださり、感謝します。父なる神の愛の出来事として、その独り子主イエス・キリストが人として、わたしたちのところに来てくださり、わたしたちの罪の身代わりに死なれ、復活によって得られた永遠の命を、信じるわたしたちにお与えくださり感謝します。

 

今から聖餐式にあずかります。わたしたちに神の栄光を見させてください。御言葉によって聞かせてください。パンに触れ、ぶどう酒をいただき、手で触れ、口で味わわせてください。

 

25日のクリスマスで今年のアドベントも終わります。どうかわたしたちにキリストの再臨と御国の実現を待ち望ませてください。

 

主イエスよ、再びわたしたちのところに来てください。

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。