2025年3月30日
フィリピの信徒への手紙3:17-4:1
「天に市民権がある幸い」
山下正雄 牧師
序
世の中にはいろいろなランキングがあります。その中のひとつにパスポートランキングというのがあります。パスポートにもランキングがあるというのはちょっと不思議な感じがするかもしれません。どこの国の人でも自分の国のパスポートしか持つことはないでしょうから、ランキングといわれてもあまり実感がないかもしれません。
ところが、実際、パスポートにもランキングがあるようです。2025年1月現在のパスポートランキングの1位は、シンガポール。その次が日本です。いったい何が基準かというと、ビザなしで渡航できる国がいくつあるかの数でランキングを決めているそうです。シンガポールは195、日本は193の国々や地域にビザなしで行くことができます。ビザなしでいける国が多いということは、その国が国際的に信頼され、安定しているからです。ちなみにアメリカは10位で186ヶ国です。大国である反面、敵対国も多いということでしょうか。
今日取り上げる個所には、「本国」という言葉が出てきます。口語訳聖書では「国籍」と翻訳されていましたが、「国籍」という概念が生まれたのは近代国家が誕生するようになってからのことですから、パウロの時代には現代のような「国籍」という考えはなかったでしょう。そこで使われている「ポリテウマ」という言葉は、ローマ市民がもつ権利や義務、市民としての所属を意味する言葉でした。もし私たちがキリストにある者として「その所属を天に持つ者」だとすれば、その特権はどれほど大きなものかと思います。
1. フィリピの教会の生い立ちとこの手紙が書かれた時の状況
さて、本題に入る前に、今日取り上げるこの手紙の宛先であるフィリピの教会について少しだけお話しておきたいと思います。
フィリピは、古代マケドニア王国のピリッポス2世によって建設されたことからその名前がフィリピと呼ばれるようになりました。現在のギリシャ共和国北東部、東マケドニア地方に位置しています。このフィリピの信徒への手紙が書かれたローマ帝国時代には重要な植民都市として栄えました。使徒言行録16章12節には「マケドニア州第一区の都市」と紹介されています。
パウロがこの地を訪れたのは第2回の伝道旅行の時でした。この2度目の伝道旅行は、スタートの時点から波乱でした。最初の伝道旅行を共にしたバルナバとは喧嘩別れになって、パウロは別の道を進むことになります。ところが、予定していたアジア州では、み言葉を語ることが聖霊によって禁じられ、場所を移動してもなお、思うように伝道が進みませんでした(使徒16:6-7)。人間的な目から見れば、失敗続きの伝道旅行です。
しかし、その背後には、深淵な神の御計画がありました。小アジアを抜け出してヨーロッパへの伝道の道が備えられていたからです。パウロは自分を招くマケドニア人の幻を見て、ヨーロッパへと足を踏み入れます。最初に訪れたのがフィリピでした。川岸の祈り場で福音を語るパウロの話を聴いて、早速紫布を扱う女性リディアとその家族が洗礼を受けます。けれども、長くはこの町にとどまることはできませんでした。
パウロのせいで占いで金儲けができなくなったと憤る男の訴えによって、パウロは投獄されてしまいます。翌日には釈放されたものの、パウロたちはフィリピの町から追放されてしまいます。
フィリピの教会はこのような始まりでしたから、パウロから時間をかけて十分な教えを受ける機会もなかったことでしょう。しかし、この手紙には、フィリピの教会の人たちがパウロの働きのためにどれほど献身的に尽くしたかが記されています。
「マケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした」(フィリピ4:15)。
今、パウロはこの手紙を獄中から書いていますが、その獄中にいるパウロを物と人のやり取りで支えたのもフィリピの教会の人たちでした。
「喜びの手紙」と呼ばれるこの手紙ですが、今日取り上げる3章に限って言えば「喜び」の文字はほとんど出てきません。「あの犬どもに気をつけよ」と語気を荒げるパウロです。前後の文脈からは異質な印象さえ受ける3章です。それもそのはずです、パウロが宣べ伝える福音から外れた教えを吹き込む者たちが忍び寄って来ていたからです。たとえその教えがもっともらしく見えたとしても、それはパウロが伝える福音の本質をゆがめてしまうものでした。その問題を扱っているのが今日取り上げる個所の文脈です。
2. パウロに倣う者となるとは
パウロが戦っている敵対者が具体的にどんな主張を持っていたのかは、この短い手紙から明確に描き出すことはできません。しかし、この手紙の書き手であるパウロにも、受け取り手であるフィリピの教会の人たちにも敵対者の姿は明らかであったはずです。少なくとも、一方ではユダヤ教の影響から抜けきれない人々がおり、他方ではヘレニズム社会に蔓延していた放縦な生活に影響を受ける人たちがいたことは、この手紙に描かれている敵対者の姿から明らかです。
それに対して、パウロは一方ではキリストとの出会いを通して与えられた救いの確信が、どれほど素晴らしいものであるかを語っています。それはパウロ自身がユダヤ教の信徒として生きて来た時には味わうことのできなかったものでした。パウロがユダヤ教徒として持っていた過去の経歴は、自慢しようと思えば、他者にいくらでも自慢することができるものでした。しかし、キリストとの出会いに比べれば、それらはちり芥のように色あせてしまします(3:7-8)。
同時に他方では、パウロは自分自身を完成への途上にある者として描いています。ちょうどゴールを目指して走るマラソンランナーのように自分姿をイメージしています(3:14)。しかし、その完成へと向かう道は、パウロにとっては決して不確かな道ではありません。なぜなら、キリストが自分を捉えてくださっているからです(3:12)。
パウロはキリストにある救いの確信を語っていますが、完成のゴールに自分がすでに立っているとは考えていません。ただキリストにしっかりと掴んでいただきながら、完成へと向かうレースを走り続けているのです。
こうしたパウロの福音理解に対して、パウロに敵対する人々はゴールへの近道を考えていたのかもしれません。あるいはバイパスを通ってすでにゴールにたどり着いたと不遜にも唱えていたのかもしれません。
わたしが子供の頃、「即席」という言葉がありました。今はあまり使われなくなりましたが、その代表は「即席ラーメン」でした。「即席」に変わって、今では「インスタント」という言葉の方がよく使われるようになりました。日本語が英語になっただけで、本質は変わっていません。何でも簡単にすぐできるものがもてはやされる時代は、今も昔も同じです。忙しい時代になればなるほど、時間が節約できるものは重宝がられます。確かに、事と次第によっては、インスタントなものの方が優れていることは否定できません。
では、即席クリスチャンとかインスタント・クリスチャンなどがもてはやされるかと言えば、ちょっと考えただけでもぞっとしてしまいます。しかし、言葉にしてみるとおかしいとすぐ気がつくことでも、案外、インスタントな信仰の成長を求めてしまいがちなのがわたしたちの弱さです。
フィリピの信徒への手紙が問題にしている福音の敵対者たちは、ある意味で言えば、インスタントに手に入れた救いの完全さを主張する者たちだったのかもしれません。それは明らかに聖書が説く福音ではありません。
パウロは、パウロはフィリピの信徒たちに「私に倣う者になりなさい」と勧めています(3:17)。これは、パウロ自身の生き方を模範として示すものですが、肝心なことは、パウロのどういう点に倣うことをパウロはフィリピの人たちに期待しているかということです。
パウロは色々な機会に自分に倣うようにと教会員たちに勧めていますが、けっして完成された見本としてパウロを模範に歩むようにと言っているわけではありません。むしろ、この勧めの言葉は、直前のところでパウロがクリスチャンとしての自分の歩みについて触れていることと深く関係しています。
パウロは「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」クリスチャンでした(3:13-14)。既に完全な者となっているわけではなく、何とかして捕らえようと努めている、そういう姿のクリスチャンです。
パウロが「自分に倣いなさい」といっているのは、正にパウロのそういう姿のことです。敵対者たちとは違って、パウロは決して自分を完全なものだとは思っていません。むしろ、ゴールを得ようと懸命に走るマラソン選手のようです。
では、パウロが「あの犬ども」(3:2)と呼んで、警戒するようにと勧めた「福音の敵対者たち」はどうなのでしょうか。パウロによれば、彼らは「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」(3:18)と呼ばれます。彼らの主張は耳に心地よく、魅力的な教えだったのかもしれません。しかし、どんなに素晴らしく見えたとしても、それは結局のところ滅びに行きつく間違った教えなのです。その彼らの生き方に倣えば、自分もキリストの十字架に敵対して歩む者となってしまいます。せっかくキリストが十字架の上で貴い血潮を流され、贖って下さった罪の問題を、なかったことのようにしてしまうからです。
パウロは涙ながらに「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」と語っています。この間違った教えの影響をフィリピの教会員たちがどれほど受けてしまったのか、はっきりはわかりません。しかし、決して侮れないくらいの敵対者たちがフィリピの教会の回りを囲んでいることに気が付くことが大切です。
パウロは彼らの本質を、結局のところ「この世のことしか考えていない」…そういうこの世の者たちだと評します。「自分たちはすでに完全にされている」、「自分たちは天に属する者だ」…そう思い込んでいる彼らが、実は地上にしか思いのない人たちだと言うのです。彼らは壮大な天の救いの計画を少しも知ってはいないのです。
3. 自分が所属する天に心を向けて生きる
このような地上のことにしか思いがない敵対者と対比して、パウロは「わたしたちの本国は天にある」と宣言します(3:20)。この「本国(ポリテウマ)」という言葉は、単に「国籍」を指すものではありません。今日の初めにも述べた通り「市民権」の概念を含んでいます。フィリピの町はローマの植民都市でした。住民の多くはローマ市民権を持っていました。ローマ市民権は特権的な地位を意味し、法的な保護や社会的な利益をもたらしました。実際、パウロはフィリピの町で投獄されたときに、自分がローマの市民権を持つことをたてに、裁判にもかけずに投獄した不当性を主張しました。その事実を知った高官たちはパウロを尋ねて謝罪したほどでした(使徒16:37-39)。パウロは、この背景を踏まえて、私たちクリスチャンが天の市民であることをと語っているのです。
福音音の敵対者から見れば、パウロを初めとするクリスチャンこそまだこの地上のことから抜け出せない者たちなのかもしれません。しかし、クリスチャンはこの世でどんなに小さな者であったとしても、与えられた天の国籍によって身分が保証されています。
パウロが賞を目指して走っているそのレースは、実は挫折し、脱落するかもしれないレースなのではありません。天に所属する者が自分のふるさとに帰るレースであり、旅なのです。天に属する者にふさわしく、キリストの栄光の姿と同じ姿に変えられる保証と希望がクリスチャンには与えられています。
このレースの道のりは長く、また、辛く感じられるかもしれません。もっと手早い方法で栄冠を手に入れたいとそう思うかもしれません。しかし、救いの完成のための抜け道を探すよりも確実なのは、キリストを信じる者には既に天の市民権が与えられているという事実なのです。
国籍があるということは、ただの概念なのではありません。この身分にはあらゆる特権が付随しています。今は外国に寄留している状態なのかもしれません。しかし、やがては本国に戻ることができます。パスポートを例に挙げると、パスポートが役に立つのは海外にいるときだけではありません。帰国したときにこそ、自分の国の国籍を証明するパスポートは役に立ちます。国籍のある者が自分の国に入れるのは当然のことです。自分の国に戻るときには、長い入国審査の列に並ぶ必要はありません。しかし、国籍を持っていない人は、入国審査の時にいくら自分が完全なものであるかを言い立てたとしても、それは何の訳にも立ちません。
それと同じように、イエス・キリストの救いの御業を通して天に本国を持つ者にとって、この特権こそがゴールを保証しているのです。この希望をしっかりと持って生きること、そのことが地上に生きるクリスチャンには求められているのです。
これらのことを理解した上で、現代に生きる私たちの信仰生活にパウロの言葉はどのように適用できるでしょうか。
第1に地上のものに心を奪われない生き方です。現代社会では、富や地位における成功や刹那的な生き方を是とする価値観が強く求められます。しかし、私たちの本国は天にあり、私たちの価値基準はこの世のものとは異なります。パウロは別の手紙の中でこう語っています。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:2)
第2にキリストの再臨を待ち望む生活を送ることです。目に見える現実だけでなく、天の希望を見つめることで、どんな試練の中にあっても忍耐し、喜びを持つことができます。視野を天に広げることができるのはクリスチャンの特権です。この地上での暮らしは一時にすぎません。天での永遠に比べれば、瞬く間のことでしかありません。もちろん、地上で生かされる時間には意味がありますが、天に軸足を置くときに地上での生き方の意味が変わります。
第3に霊的な成長を求めるということです。パウロが「私に倣いなさい」と言ったように、私たちも信仰の先輩たちから学び、共に成長する歩みを重んじることが大切です。先を走るランナーから学ぶことは、自分の後を走るランナーにも受け継がれていきます。決して前人未到の道を孤独に走り続けているのではありません。何よりも走る私をキリストが捉えてくださり、同じようにキリストによって捉えられた信仰者たちとともに完成へと向かうレースなのです。
最後に、パウロは「こういうわけですから、私の愛する兄弟たち、しっかりと主にあって立ちなさい」(4:1)と勧めています。これは、私たちが信仰の確信を持ち、動じることなく歩むようにという励ましです。
私たちの本国は天にあります。この地上での歩みは旅路にすぎません。しかし、私たちは確かな希望を持っています。この希望を胸に、主にあって堅く立ち続けてまいりましょう。